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英艦フェートン号(東北大学図書館所蔵)

民地地主の猛反対を排して奴隷制度廃止へと進み,実情 に合わなくなってイギリス航海条例は1849年に廃止,

1854年に全廃となって自由貿易主義の時代に入る。この        ユらの 間,1838年に英インド海軍が全艦汽走化を決定し,1837 年設立のロンドン〜イベリア半島(ジブラルタル)間の 郵便汽船会社ペニンシュラ会社は,アヘン戦争の1840年 にはイギリス最大の海運会社となってアレクサンドリア からスエズ地峡・紅海を経てボンベイ・カルカッタに至 る航路の経営に乗出してペニソシュラ・アンド・オリエ ンタル汽船会社(略してP&0汽船会社)と改め,ボン ベイ・カルカッタには1842年に到達した。そしてセイロ ン〜ペナン(マレー半島中部西岸)〜シンガポールを経

て香港には,香港割譲3年後の1845年に到達。香港から上海航路を開くのは1850年であり,

ペリー来航1853年春嘉永6)には3,438トン・2,050馬力の旅客船をイギリス本国とアレキサ       らのンドリアの間に就航させている。

 斯う世界の海運情勢を見てくれば,1808年(文化5)のフェートソ号事件は,明らかな領 海侵犯・不法入国であると共に,日本が正確にはアメリカ合衆国の実体を知らぬ間に,その 海運大国はオランダの傭船として既に日本に入っていたのである。情報不足のこわさ,激動 する世界情勢を不法入港を以て知らしめたという面に於て,ペリーの黒船到来の予告・先触 れ・否,フェートソ号こそが日本にとって,軍艦4隻を以てするペリー以前の黒船そのもの であった,というべきであろう。

 文化5年は戊辰の年であった。その次の(60年後の)戊辰こそが戊辰戦争の慶応4年(9 月8日から明治と改元)である。筆者はその次の戊辰(1928年・昭和3年)の生れであって 既にその次の戊辰(1988年・昭和63年)をも閲した。古い時代の60年は如何にも長い期間の

ようではあっても,自ら経験した60年は実にあっという間の短期間である。

 文化5年から第1次アヘン戦争まで32年,ペリーの黒船まで45年の期間でしかない。

 フェートソ号長崎出帆の1808年10月6日,「今夕,水門の内側に据えられていた2門の小

 カノ ン

型加農砲が取り去られ,そして町年寄高島四郎兵衛様も自分の側近く従えていた武装した下        

検使たちと共に出島から退出した」とドゥフの秘密日記に見える。高島四郎兵衛とは,天保 2年(1831)にオランダにモルテール(砲門)を発注し,天保12年(1841)幕命によって出 府して江戸近郊の徳丸ヶ原で砲術演練を行なった高島秋帆の父である。そして文化元年

(1804)にはロシア艦にてレザノブが漂流民を送ってきて通商を求め,文化3年(1806)の 和蘭風説書にも,「ロシア船1艘広東表へ渡来仕り由,……去々年ご当地へ乗り渡り候船に

   ロ 

ござ候」とある。また,幕府は文化3年正月に「異国船処分法」を出して諸大名に異国船難 波漂流し食糧欠乏の場合,これを与えて出帆させる等を令したばかりであった。そしてフェー

トン号事件の翌文化6年(1809)に「蘭通詞6人を撰み,露・十両国語を学ばしむ。のち数

    ユ 

人を加う」とあって,49年後の安政5年(1858)になると立山奉行所近くに英語伝習所とな って発展して行く。

 太平の眼りをさまさせたのは,嘉永6年(1853)のペリー黒船ではなくて,実は文化5年

(1808)のフェートン号であったのを徳川幕府も,日本国民も,未だ正しくは認識していな かったのであった。      (1992.9.15)

1)『長崎名勝図絵』長崎文献社,1974年,335頁。

2)永積昭rオランダ東インド会社』近藤出版社,1981年冬,26〜27頁。

3)大塚久雄『大塚久雄著作集第1巻』岩波書店,1974年版,334〜341頁。

4)『新長崎年表(上)』長崎献社,1974年,204,247,256,264,458頁。

5)八百啓介「出島商館来航オランダ船について」洋学史研究会,『洋学史研究』,第7号,39〜51頁。

  (例)出島オランダ商館来航オランダ船

船    名 トソ数 出航地・寄港地 寄港地・渡航地

寛永 18 Roek

f

200 タイオワソ タイオワソ

(1641) Oranjeboom

f

200

Coninginne S バタビア→シャム

Gulden Buis

f

タイオワソ

Meerman

f

200 トソキソ

Rijp

f

200 タイオワソ

Graft

f

200

Enge1

f

360

トソキソ.

Castricum

f

200 カンボジア

Oostkapelle

f

200 タ,イオワソ

Zaaier

f

400 タイオワン

寛永 19 Nassau S 550 バタビア.→シャム

(1642) Pauw

f

200 タイオワソ

Meerman

f

200 トソキソ タイオワソ→トソキソ

Zaaier

f

400 タイオワソ タイオワソ

Brak 9

Lillo j 240

寛永20 Zwaan f バタビア→シャム タイオワソ

(1643) Lillo 240 バタビア→トソキソ

Oranjeboom f 200 タイオワソ

Capene

f

200 バタビア

Meerman

f

200 トンキン タイオワン→トンキン Waterhond j タイオワソ タイオワソ Salamander S 1000 バタビア→タイ牙ワン

Vligend Hart f バタビア

fはフライト船,jはやハト船, sはスヒップ船,9はガリヨット船。

       やりだし6)スヒップSchipとは英語ではShipで一般的な意味では「船」だが,船型からいえば,船首に遣出   を有し,三本の帆柱を持つ船。一r長崎オランダ商館日記e』日記学会編,雄松堂出版,1989   年,402頁。

7)八百啓介,前掲論文,52頁。

8)rバタビア城日誌上巻』日蘭交通史料研究会,村上直次郎訳,1937年,28頁ρ 9)科野孝蔵『オランダ東インド会社の歴史』同文館出版,1988年,61頁。

10)松竹秀雄『海の長崎学』くさの書店,1990年,192〜194頁。

11)科野孝蔵,前掲書,135頁。

12)  〃 , 〃 ,140〜141頁。

ドキュメント内 フェートン号事件と19世紀初頭の海運情勢 (ページ 45-48)

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