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平和的生存権の価値と構造 : 権利ニヒリズムを超 えて

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(1)

平和的生存権の価値と構造 : 権利ニヒリズムを超 えて

その他のタイトル Valeur et structure du droit de vivre en paix : au dela d'un traitement nihiliste du droit

著者 村田 尚紀

雑誌名 關西大學法學論集

巻 59

号 3‑4

ページ 371‑390

発行年 2009‑12‑18

URL http://hdl.handle.net/10112/1530

(2)

平和的生存権の価値と構造

権利ニヒリズムを超えて !

(3)

平和的生存権の価値と規範性 平和的生存権の主体

和的生存権の内容と法的性格

(4)

﹁風雨強かるべし

﹂といわざるをえないであろう︒

るものではないが︑

0

0

年は

アポロ︱一号の月面着陸から四

0

年目の年にあたる︒

福を受ける︒このときニクソンは︑

はグアム島で行ったオフレコ会見のなかで︑

になるアメリカの新しい軍事戦略を披露する︒このニクソン

1 1

ドクトリン以来︑

の日米共同声明によって︑日米間において具体化されることになる

五九

船コロンビアは︑空母ホーネットに回収され︑三人の宇宙飛行士は︑個人的にそこを訪れたニクソン大統領からの祝

アジアを訪問する途中であった︒華々しい自己演出の翌日七月

二五 日 ︑

のちにニクソン

1 1

ドクトリンまたはグアム

1 1

ドクトリンと呼ばれること

アメリカは︑西側諸国にさまざまな

形と程度においてバードン

1 1

シェアリングを求めるようになる︒ニクソン

1 1

ドクトリンは︑

ニク

ソン

1 1

ドクトリン発表に少し先んじる七月上旬︑長沼ナイキ基地訴訟が提起された

幌地裁判決は︑周知のように︑自衛隊違憲の判断を下した︒

︵ 三

七一︶

ニク

ソン

その後の戦争と平和の歴史の弁証法は︑数々の重要な局面を経て今日に到っており︑ここでそれを容易に要約でき

一口にいえば︑平和的生存権は絶えず強い逆風に直面してきた

︒今日︑議論の焦点は︑自衛隊の

存在の違憲性そのものではなく︑自衛隊の海外派遣の是非に合わせられがちである︒平和的生存権にとって︑なお しかし︑同時に︑現在の局面は︑自衛隊海外派遣推進勢力にとっても順風満帆というわけではない

︒国際的にみれ

ば︑イラク派兵に関して︑当のアメリカ政府をはじめそれに協力した各国の首脳が︑何らかの形で誤りを認めている

平和的生存権の価値と構造

は じ め

一九七三年九月七日の札 一九六九年︱一月

ニ ー

日 一九六九年七月二四日太平洋に着水した司令

(5)

( 1 )  

第五九巻三•四号

にもかかわらず︑日本政府に反省の姿勢がなかったのは異様ともいえる

︵ 三 七︱‑︶

︵ 二 0

0 九年︱一月四日︑衆議院予算委員会

において︑鳩山由紀夫首相は︑﹁イラクに対する戦争は間違っていた﹂との認識を示した︶︒国内に目を転じれば︑湾

岸戦争以降それに向けての動きが強まり︑実現されるに到った自衛隊の海外派遣は︑専守防衛を前提として自衛隊の

存在を支持する人々にとっても逆風となり︑そのような人々が憲法九条・﹁平和のうちに生存する権利﹂︵以下︑平和

的生存権︶護持の共同戦線に加わりつつある

( 2 )  

二 0

八年四月一七日名古屋高裁判決︵以下︑名古屋高裁判決︶︑二 0

0

0 九年二月二四日岡山地裁判決︵以下︑岡

山地裁判決︶は︑そのような共同戦線がもたらした注目すべき判決である

本稿は︑これらの判決がとくに平和的生

( 3 )  

存権にとってもつ意味と意義を︑従来の学説・判決に照らしつつ検討する︒

平和的生存権の価値

日本国憲法前文に明示される平和的生存権は︑周知のように︑その内容をめぐって見解が多岐に分かれる︒ここで

( 4 )  は︑ひとまず﹁人権の条件としての平和を享受する権利﹂としておく︒この平和的生存権が﹁戦争こそ人の生命・自

由に対する最大の脅威であり︑平和なきところに人権はなく︑平和こそ人権が維持されるための条件であるという基

( 5 )  

本的立場﹂に基づくことは︑この権利をめぐるさまざまな鋭い対立を超えて肯定されるところであろう︒たとえば︑

( 6 )  

百里基地訴訟控訴審判決も次のように述ぺている︒﹁憲法は︑その前文の第一段において︑日本国民は︑﹃われらとわ

れらの子孫のために︑諸国民との協和による成果と︑わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し︑政府の行

関法

平和的生存権の価値と規範性

六〇

(6)

②平和の﹁抽象性﹂と平和的生存権の規範性 為によって再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し︑ここに主権が国民に存することを宣言し︑こ の憲法を確定する

︒ ﹄

と規定して︑平和主義の確立が憲法制定の重大な眼目であり︑また︑そこに国民主権主義を採 用した所以の存する旨を表明し︑その第二段において︑﹃日本国民は︑恒久の平和を念願し︑人間相互の関係を支配 する崇高な理想を深く自覚するのであつて︑平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して︑われらの安全と生存を確 保しようと決意し⁝⁝全世界の国民が︑ひとしく恐怖と欠乏から免かれ︑平和のうちに生存する権利を有することを

確認する

︒ ﹄

と述ぺ︑さらに︑その第

段において︑﹃いずれの国家も︑自国のことのみに専念して他国を無視しては

な ら

な い

のであつて︑この普遍的な政治道徳の

法則に従ふことは︑自国の主権を維持し︑他国と対等関係に

うとする各国の責務であると信ずる

﹄ と

言して︑平和主義の理念が憲法の基本原則であることを繰り返し強調し ている

そして︑そこで確認された﹃平和的生存権﹄も︑戦争と戦争の脅威が存する限り︑人間の自由はあり得ない ということに思いを致せば︑それを独立の権利と呼ぶかどうかは別としても︑あらゆる基本的人権の根底に存在する 最も基礎的な条件であつて︑憲法の基本原理である基本的人権尊重主義の徹底化を期するためには︑﹃平和的生存権﹄

が現実の社会生活のうえに実現されなければならないことは明らかであろう﹂

問題は︑平和的

存権の以上のような価値の認否ではなくて︑この﹁権利﹂の権利性ないし規範性の認否にある

もっともこの点についても︑全面的な否定説は存在しないように思われる

周知のように︑日本国憲法前文第

項第

段は︑大西洋憲章第六項﹁すぺての国のすべての人類が恐怖及び欠乏から解放されて︑その生命を全うすることを

平和的生存権の価値と構造︵三七三︶

(7)

第五九巻―

―•四号

( 7 )  保証するような平和が確立されることを希望する﹂に由来するといわれるが︑後者には人権としての平和を示唆する

( 8

)  

文言はない︒日本国憲法前文は︑それと違って︑文言上﹁平和の問題を人権の問題として捉えている﹂以上︑その権

利性ないし規範性をいっさい否定することはできないであろう︒そこで問われるのは︑どのような権利性ないし規範

かつては︑この問題を憲法前文の規範性の問題としてとらえる見解が存在した︒しかし︑現在では︑その変更が改

正手続を必要とするという意味での憲法規範性を前文が有することは一般的に肯定されており︑それ以上の法規範性

については︑前文を

括して論じるのではなく︑個別の規定ごとにその有無を考えるべきことが一般的に肯定されて

長沼事件控訴審判決も︑この点について︑﹁憲法前文は︑その形式上憲法典の一部であつて︑その内容は主権の所

在︑政体の形態並びに国政の運用に関する平和主義︑自由主義︑人権尊重主義等を定めているのであるから︑法的性

質を有するものといわなければならない﹂としたうえ︑個々の規定については︑﹁国政の基本原理である民主主義か

ら基礎づけられた統治組織に関する型態としての代表民主制度については同項 H

則 文

]

︵ 三 七 四

でこれに反する

切 の

憲法︑法令及ぴ詔勅を排除する旨規定しているところから︑右はいずれも

定の制度として確定され︑その法的拘束

力は絶対的なものであるといわなければならないものであるが︑国政の運用に関する主義原則は︑規定の内容たる事

項の性質として︑また規定の形式の相違において︑その法的性質には右と異なるものがあるといわなければならな

い﹂としている

︒そ

こで︑問題は︑平和的生存権が︑﹁規定の内容たる事項の性質として︑また規定の形式の相違に

おいて﹂﹁絶対的な

﹁法的拘束力﹂をもつものといいうるかである︒この点に関して︑同控訴審判決は︑次のように

い る

性が認められるのかということである︒

関法六

(8)

が 指

摘 で

き る

のである︒同様の見解は︑学説にも少なくない︒

述べている︒﹁憲法は︑自由︑基本的人権尊重︑国際協調を含む平和をわが国の政治における指導理念とし︑国政の

方針としているものということができる︒したがつて︑右 B

則文]第

︑第

項の規定は︑これら政治方針がわが国

の政治の運営を目的的に規制するという意味では法的効力を有するといい得るにしても︑国民主権代表制民主制と異 なり︑理念としての平和の内容については︑これを具体的かつ特定的に規定しているわけではなく︑前記第

︑第三 項を受けるとみられる第四項の規定に照しても︑右平和は崇高な理念ないし目的としての概念にとどまるものである ことが明らかであつて︑前文中に定める﹃平和のうちに生存する権利﹄も裁判規範として︑なんら現実的︑個別的内

容をもつものとして具体化されているものではないというほかない

要するに︑平和が抽象的な理念にとどまり︑それゆえ平和的生存権からも具体的な裁判規範が導き出せないという しかし︑憲法の明文上﹁権利﹂とされている平和的生存権が裁判規範性を否定されることには︑次のような問題点

に ︑ いわゆる新しい人権について︑概念の未成熟性や新しさを理由に権利性ないし裁判規範性を慎重に解すべ きことには︑正当な理由が認められることもないわけではないであろう︒しかし︑平和的生存権は自由権や社会権に

( 1 0

比べて新しいとはいっても︑憲法上明文がある︒これを憲法上明文がない新しい人権と同列に扱うことが妥当なので

あろうか

この点に関連して︑岡山地裁判決が﹁平和的生存権が﹃権利﹄であることが明

されていることからすれ

ば︑その文言どおりに平和的生存権は憲法上の﹃権利﹄

和主義に徹し基本的人権の保障と擁護を旨とする憲法に即し︑憲法に忠実な解釈である﹂と述ぺている点が︑注目さ

平和的生存権の価値と構造

であると解するのが法解釈上の常道であり︑また︑それが平

︵ 三 七 五

(9)

第五九巻三•四号

一義性に径庭はないと

一義性に欠けるものであり︑

れ る

論者によっては︑これを素朴な

j u r i d i s m

e と評するかもしれない︒しかし︑法の解釈は︑本来いわは国民に開

かれ︑国民を説得しうるものでなければならないはずであろう

岡山地裁判決の解釈姿勢は︑政府解釈によって有職

故実と化した平和関連条項の解釈を︑国民目線からリセ

トするインパクトをもつものといえよう ︒

第二に︑憲法上の概念の多くは︑抽象的なものが多い ︒

﹁ 平

﹂ の抽象性を指摘するのであれば︑長沼事件控訴審

判決が具体的であると考えている﹁国民 ﹂ や﹁主権 ﹂ ︑代表民主制の抽象性ないし多義性も指摘しなければならない

であろう

﹁自由﹂や﹁平等﹂の抽象性も指摘しなければならないであろう︒名古屋高裁判決も︑この点を次のよう

に述ぺる

﹁ ﹃

平 和

が抽象的概念であることや︑

和の到達点及び達成する手段・方法も多岐多様であること等を根

拠に︑平和的生存権の権利性や︑具体的権利性の可能性を否定する見解があるが︑憲法上の概念はおよそ抽象的なも

のであって︑解釈によってそれが充填されていくものであること︑例えば

自由

﹄ ですら︑その

や方法は多岐多様というべきであることからすれば︑ひとり平和的生存権のみ︑平和概念の抽象性等のためにその法 的権利性や具体的権利性の可能性が否定されなければならない理由はないというぺきである

﹂ ︒

同様に︑岡山地裁判

決も次のように述ぺる

﹁憲法上の基本的人権規定は概ね抽象的かつ不明瞭であって︑

例えば︑平和的

存権にいう﹃恐怖と欠乏を免れ︑平和のうちに

存する権利

と 憲

法 一

項 の

福追求権にい

う﹃

命︑身体及び幸福追求に対する国民の権利

とを対照しても︑その抽象性︑不明瞭性︑

いうべきであるし︑そもそも基本的人権とは︑歴史的に

成し︑発展するものであり︑その生成︑承認の当初に

権利内容や法律効果等がすみずみまで明晰かつ判明であることを期待することができないことを考慮すれば︑被 告の上記主張[﹃

和的

存権はヽその概念そのものが抽象的かつ不明瞭であるとか

ヽ具

体的な権利内容

のどの点

関法六四

︵ 三

七六 ︶

(10)

平和的生存権の価値と構造

範︶たるものが存在する をとってみても︑

一義性に欠けるなどとして︑その具体的権利性を否定する旨﹄

六五

の主張]をもって平和的生存権否定

の正当な論拠とすることはできない

︒そうすると︑問題は︑﹁平和

ないし平和的生存権が合理的な解釈によってそ の意味を﹁充埴﹂ないし明確にすることが不可能なまでに抽象的なのかということである

そこで︑第三に︑憲法上の﹁平和

概念の抽象性を補うぺき実定法規範がないことを指摘する議論の検討が必要に なる︒佐藤功は︑次のように述べる︒﹁﹃権利

とは実定法規範によって個人に一定の個別的・具体的な内容の利益が 認められ︑それによって個人が相手方︵その利益の実現の義務を負う者︶にその実現を要求する力を与えられたとき に成立する︒そしてその実現が妨げられた場合には裁判によりその実現が保障される

そこに︑その実定法規範が裁

判規範として裁判所を拘束することとなる︒憲法の条項のなかには基本的人権についての右の実定法規範︵裁判規

︵特に自由権規定︶が︑さらにそれを具体化する実定法は法律であり︑したがって︑法律に

( 1 2

よって右の権利が十分に保障されることとなる﹂︒佐藤によれば︑このような伝統的な法理論に立脚すると︑﹁平和的

( 1 3

生存権はいまだ実定法規範によって認められている権利であるとはいいえない﹂という︒佐藤の議論は︑平和的生存 権の主体や内容︑法的性格も問題にしているが︑行論の都合上︑それらの点については後述することとし︑ここでは

平和の意味に限って考えておく

たとえば︑判例・多数説は︑憲法第

五条第一項にいう﹁健康で文化的な最低限度

( 1 4

の生活

が抽象的で︑法律による具体化を待っぺき概念であると考えるが︑﹁平和のうちに生存する﹂ことの意味は︑

すでに憲法第九条によって一定程度具体化されていると解しうる︒このように︑憲法の文

の意味をそれと関連する

( 1 5

憲法規定をふまえて解釈するのは︑常識的な解釈方法である︒平和的生存権は︑﹁九条のもとで生存する権利﹂とい う意味を少なくとも有する︒九条の解釈論上の問題にここでは深入りしないが︑同条が制限規範であることは否定で

︵ 三 七 七

(11)

(1

学説上の議論の意味

これまた周知のように︑平和的生存権の主体をめぐっては︑学説上︑①個人と解する説︑②全体としての国民と

平和的生存権の主体

は な

以下︑その点について検討する

きるわけではないであろう︒

第五九巻―――•四号

︵ 三 七八

きない︒そうすると︑﹁九条のもとでの生存

は︑歴史的に相対的な﹁健康で文化的な最低限度の生活﹂以上に︑そ

れ自体具体的な意味をもっているといいうる。この点について、名古屋高裁判決•岡山地裁判決ともに、前文と本文

との有機的・総合的な解釈により平和的生存権が憲法上具体的な権利であることを肯定している︒すなわち︑前者は︑

﹁憲法九条が国の行為の側から客観的制度として戦争放棄や戦力不保持を規定し︑さらに︑人格権を規定する憲法

条をはじめ︑憲法第

章が個別的な基本的人権を規定していることからすれば︑平和的生存権は︑憲法上の法的な

権利として認められるべきである

と述べている︒また︑後者も同様に︑次のように述べているのである

﹁ 憲

法 九

( 1 6

条はその制度規定︑憲法第三章の各条項はその個別人権規定とみることができ︵る︶﹂︒﹁

︱世紀的人権﹂ともいわれ

る平和的生存権を前記のような伝統的な法理論の枠組みで処理することは︑新しい酒を古い革袋に入れる過ちを犯す 危険をはらむ︒したがって︑伝統的な法理論は︑それ自体検討を要するはずであるが︑仮にそれに立脚するにしても︑

以上の検討から明らかなように︑平和の﹁抽象性

をもって平和的生存権の裁判規範性をただちに否定することがで

ただし︑以上の問題は︑すでに明らかなように︑平和的生存権の構造︵主体︑内容︑法的性格︶

関法

六六

の問題と無関係で

(12)

平和的生存権の価値と構造

②平和的生存権の個人的権利性 い

か と

思 わ

る れ

六七

( 1 7

解する説︑③両者と解する説があるが︑これらの学説が相互に相容れない主張をしているわけではない

し た

が っ

て︑学説の対立にはそれほど重大な意味はないとみることができる

少なくとも︑この外見上の対立を理由に平和的

生存権の意味が曖昧であるとするのは︑対立の過大評価に基くものであり︑失当といえる︒

そのうえで︑若干の検討を加えておく︒まず︑全体としての国民の平和的生存権なるものは︑対内的には問題にな

( 1 8

)  

らない

︒平

和的生存権に限ったことではないが︑この権利は政治規範と裁判規範という

つの側面をもつ

︒全

体とし

ての国民が後者の意味の平和的生存権の主体になるということは観念しがたい

前者については︑主体を論じる意味

が悪いようにも思われるが︑﹁個人として尊重される

国民の権利について﹁立法その他の国政の上で︑最大の尊重 を必要とする﹂とする個人主義を掲げる憲法第

一 三

条のもとで︑前者の主体を全体としての国民とする必然性はない

であろう

他方︑対外的な関係においては︑全体としての国民の平和的生存権が問題になりうるようにも思われるが︑

そこにおいて全体としての国民は国家に代表される︒しかし︑国家は人権の主体とはなりえない︒民族を平和的生存

( 1 9

権の主体と解する説についても︑民族・民族自決権・民族的基本権などの再検討が避けられないことが指摘されよう︒

以上のように考えられることからすると︑対外的関係においても﹁具体的・実在的な国民個々人あるいはその具体

( 2 0 )  

的・実在的な集合体としての国民全体が平和的生存権の主体である

と解すべきであり︑またそれで足りるのではな 平和的生存権の主体をめぐる議論の真の争点は︑その個人的権利性を肯定するか否かという点にある︒要するに︑

︵ 三 七 九

(13)

この点に関連して︑長沼事件控訴審判決は︑平和的生存権が憲法九条に具体化されているという被控訴人の主張を

批判して︑次のように述ぺる

﹁憲法第九条は︑前文における平和原則に比し平和達成のためより具体的に禁止

を列挙してはいるが︑なお︑国家機関に対する行為の

般禁止命令であり︑その保護法益は

般国民に対する公益と

いうほかなく︑同条規により特定の国民の特定利益保護が具体的に配慮されているものとは解し難いところである

憲法九条の保護法益は公益であり︑九条のもとでの生存も主観的利益ではありえないというわけである

これに対して︑名古屋高裁判決と岡山地裁判決は︑すでにみたように︑平和的生存権の具体的権利性を認めており︑

個人的権利性をことさら問題にしていない︒具体的権利であるということは︑当然個人がその主体となることを意味

何らかの利益が権利として保障されるということは︑それが客観的な制度の反射的利益ではないこと︑またそれが

いっさい公権力の裁量に委ねられるようなことは許されないことを意味するはずである

たしかに憲法九条それ自体

は︑国家に対する禁則を定めるものである

同条を権利規定そのものであるとみることには︑文言上の困難が伴う

しかし︑これを前文第

項第

段と切り離してもっぱら客観的な原則規定にとどまるとする解釈は恣意的との誹りを

免れないのではないか

長沼事件控訴審判決は︑前文で明文上﹁権利﹂とされている法益を客観的な原則の単なる反

射的利益としてしまう点に問題を残す。それに対して、名古屋高裁判決•岡山地裁判決には、そのような問題がない

次のような別の困難な問題があるようにもみえる

平和が純粋に主観的な利益とは違うことはいうまでもない

そのため平和的生存権には︑﹁従来の主観的法

主観 するからであろう

これも

体的権利性の有無の問題である

関法第五九巻―

―•四

六八

︵ 三

0

)

(14)

m 平和的生存権の包括的内容と複合的権利性

四平和的生存権の内容と法的性格

1 1

個人に妥当する法としての権利︶

六九

( 2 1

)  の分解の契機がふくまれている

とみられる

客観的な公益が個人的な権利の客

体でもあるということを法理論的にどのように説明するかという問題は︑回避できないようにみえるのである︒

しかしながら︑このような問題設定にまった<問題がないとはいえないように思われる

たとえば︑自衛隊の存在

が平和を危険な状態に陥れておりそれが平和という公益の侵害︵政治規範としての平和的生存権侵害︶に当たるとし ても︑それをしてただちに裁判規範としての平和的生存権の侵害と法律構成することにはたしかに困難が伴うであろ

( 2 2 )  

う︒まさに客観的な公益侵害が問われるその種の問題は︑客観訴訟の整備を侯つほかないであろう

しかし︑だから

といって︑およそ平和的生存権が個人的な権利ではないということはできない

平和的生存権の問題がすべて右の例

のような形態で現れるわけではない

平和は

種の公益であるから︑その侵害がただちに司法的救済になじむ具体的

な王観的法益侵

にあたるとはかぎらないにしても︑侵害の形態と程度によってはそれに該ることがあると考えられ

名古屋高裁判決が次のように述べているのは︑その意味で注目される

﹁平和的生存権は︑局面に応じて自由権

的︑社会権的又は参政権的な態様をもって表れる複合的な権利ということができ︑裁判所に対してその保護・救済を 求め法的強制措置の発動を請求し得るという意味における具体的権利性が肯定される場合があるということができ

( 2 3 )  

る ﹂

少なくとも行政処分を争う場合には︑直接ないし間接に個人の平和的生存権が問題になる場合が想定できよう

裁判規範としての平和的生存権はどのような内容と法的性格をもつ権利なのか︒この権利に某づいて裁判上どのよ

和的

生存権の価値と構造

︵ 三

一 ︶

(15)

第五九巻•四号

︵ 三

二 ︶

うな請求ができるのか︒ここまで検討してきた平和的生存権の規範性・主体の問題は︑すでに明らかなように︑この

( 2 4

)  問題と関連する

したがって︑これは︑﹁平和的生存権をめぐる議論の核心的なポイント

をなしているといえる

平和的生存権の具体的権利性ないし裁判規範性を肯定する説は︑その権利内容が包括的で権利の性格も複合的であ

ると考える

たしかに︑名古屋高裁判決がいうように︑平和的生存権が﹁現代において

法の保障する基本的人権が

平和の基盤なしには存立し得ないことからして︑全ての基本的人権の基礎にあってその享有を可能ならしめる基底的 権利﹂であるとすれば︑当然︑その内容は包括的であり︑﹁局面に応じて自由権的︑社会権的又は参政権的な態様を しかしながら︑実は︑以上のかぎりでは︑平和的生存権の裁判規範性を肯定する説と否定する説との違いは︑さほ

ど大きくないと思われる

具体的な

案においては︑どちらの説に立脚しても︑同一の結論に到達することが少なく

ないであろう

後者の説は︑憲法第九条や第

章の個別の規定に基づいて︑前者の説と同様の結論に到ることが多い

であろう

たとえば徴兵制に関して︑前者は平和的生存権を侵害すると解するのに対して︑後者は︑憲法九条または

八条に違反すると解することが考えられる

徴用や徴発に関しても︑同断であろう

こうしてみると︑学説の対立

は︑実質的な判断根拠ではなく︑形式的な判断根拠の違いによるものにすぎないようにも思われる

そこで、平和的生存権の固有の内容如何が問題となる。この「在来的人権ーー'自由権的基本権•生存権的基本権

ではカバーされなくて︑特殊的に

平和的生存権﹄を持ちださないと保障されない国民の基本的利益というもの

( 2 5 )  

を︑厳密に析出する﹂という課題は︑つとに提起され種々の議論を経ているが︑なお検討の余地が残されているとい

えるであろう

て表れる複合的な権利

であることになる

︒ 関法七〇

(16)

平和的生存権の価値と構造

平和的生存権固有の内容

憲法上の権利の保護領域は︑必ずしも排他的なものではなく︑またそのようなものでなければならないわけでもな い︒したがって︑平和的生存権の保護領域が﹁在来的人権﹂のそれと重複する点があるとしても︑そのこと自体をと くに問題にする理由はない︒しかしながら︑もしも平和的生存権に固有の保護領域がないとすれば︑これを別して権 おそらく︑平和的生存権の固有の内容に該るのは︑すでにみたような﹁九条のもとで生存する権利﹂というミニマ

ムの意味であろう︒それでは︑この意味での平和的生存権がどのような請求を可能にするのか︑どのような法的性格 まず︑ここでは裁判規範としての平和的生存権の右のミニマムの意味が問題であるから︑国家の積極的作為を請求

( 2 6

)  することはできない︑というよりも︑そのような請求が想定できないように思われる ︒ この点に関連して︑砂川事件

上告審判決は︑平和的生存権を根拠にして﹁わが国が︑自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な 自衛のための措置をとりうることは︑国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない﹂としている

しかし︑﹁九条のもとで生存する権利﹂は︑九条が制限規範である以上︑憲法二五条の生存権とは異なり︑国家に作

為義務の履行を請求する権利ではないはずである ︒ ましてや︑軍事力の行使を本質的内容とする自衛権の行使が平和

的生存権によって正当化できるはずがない︒なお︑砂川事件上告審判決とはまったく異なる内容であることはいうま でもない名古屋高裁判決と岡山地裁判決においても︑平和的生存権が社会権的性格を有する旨が述ぺられている

︒ そ

の意味は詳論されていないが︑少なくともここでいうミニマムの意味の平和的生存権にそのような法的性格があると を有するのか ︒ 利とみる必然性は薄くなるであろう ︒

( 2 )  

︵ 三 八 ︱

︱ ‑ ︶

(17)

第五九巻三・四号

︵ 三 八四

一種の自由権であるといえよう︒すなわち︑憲法九条に違反する

国家作用は︑この権利を侵害するものとして︑その排除や差し止め︑損害賠償が請求できるのである︒この場合の権

利侵害には︑九条違反の国家作用によって国民が戦争被害を被る場合が考えられる︒また︑九条違反の国家作用に

よって︑国民が戦争加害者になる場合も平和的生存権侵害になると考えられる︒平和的生存権は﹁全世界の国民

権利であるから︑他国民の平和的生存権を侵害することなく九条のもとに生存することが︑日本国民の﹁九条のもと

( 2 8 )  

で生存する権利﹂の内容であると解されるからである

以上について︑裁判例でみてみる︒

( 2 9 )  

長沼事件一審判決は︑ナイキ J 発射基地やレーダー基地が﹁一朝有事の際にはまず相手国の攻撃の第

目標にな

る﹂ことから︑原告の平和的生存権が侵害される危険の存在を認定した︒同判決は︑いわば戦争に巻き込まれて被害

を被らない権利という意味での平和的生存権

1 1 ﹁九条のもとで生存する権利﹂が侵害されるおそれを認定し︑保安林

これに対して︑イラク派兵訴訟で問題となったのは︑国民が戦争加害者になることであった︒これは︑長沼事件の

頃には問題にならなかったことである︒この新しい論点に関連して︑名古屋高裁判決は︑次のように述べている︒

﹁例えば︑憲法九条に違反する国の行為︑すなわち戦争の遂行︑武力の行使等や︑戦争の準備行為等によって︑個人

の生命︑自由が侵害され又は侵害の危機にさらされ︑あるいは︑現実的な戦争等による被害や恐怖にさらされるよう

な場合︑また︑憲法九条に違反する戦争の遂行等への加担・協力を強制されるような場合には︑平和的生存権の主と

して自由権的な態様の表れとして︑裁判所に対し当該違憲行為の差止請求や損害賠償請求等の方法により救済を求め 指定解除処分の取消請求を認容した︒ したがって︑﹁九条のもとで生存する権利﹂は︑ は

い 難

︒ 関法

(18)

平和的生存権の価値と構造

も過言ではないであろう︒ ることができる場合があると解することができ︑その限りでは平和的生存権に具体的権利性がある﹂︒戦争加害者に ならないことが平和的生存権の保護領域に含まれるとする点で︑これがきわめて注目すぺき説示であることは間違い ない︒ただ︑ここでは︑﹁憲法九条に違反する戦争の遂行等への加担・協力を強制されるような場合 ﹂ が平和的生存

権の侵害に当たるとされている︒これは︑徴兵や徴用・徴発を意味するように思われる ︒ これらが立法化され︑それ

に基づいて処分が行われれば︑加害者にならない権利としての平和的生存権の侵害が争えるであろう ︒ しかし︑これ

らの場合は︑在来的人権によってカバーされるはずである ︒

九条のもとで戦争加害者にならないということは︑軍備を保有せず行使しないことによって他国民の平和的生存権

を侵害することのない国家のもとに生存することである ︒ そうすると︑政府が自衛隊を海外に派遣し︑何らかの形で

軍事活動にかかわることは︑たとえ強制的な国民動員がなくても︑それじたい平和的生存権の侵害に該るといえる︒

その場合︑主権者としては︑自らが選挙した国会の多数派を象る政府の決定とそれに対する国会の承認によって自衛 隊派遣が行われたという意味で︑間接的にせよ加害行為に加担したということになる︒加害者にならない権利に固有

の意味があるとすれば︑それは以上のような内容であろう ︒ 長沼事件と違って︑個人にかかわりのある具体的処分が

あるとはいいにくいイラク派兵のようなケースでは︑まさに右のような意味での平和的生存権侵害が争われるべきな のであろう︒しかし︑伝統的な法理論と主観訴訟の枠組みの中では︑そのような権利を認めること自体が困難とされ︑

それゆえそのような権利の侵害が認定されたり︑まして差止請求や損害賠償請求が認容される可能性はないといって したがって︑名占屋高裁判決が︑先のように国民に対する強制の有無にポイントを置いて︑自衛隊派遣が控訴人に

︵ 三 八五

(19)

五 む す び

目すべき点であろう

︒ 第五九巻―

―•四号

﹁直接向けられたものではなく﹂︑また自衛隊派遣によって控訴人の﹁生命︑自由が侵害され又は侵害の危機にさら

され︑あるいは︑現実的な戦争等による被害や恐怖にさらされ﹂たとはいえず︑さらに﹁憲法九条に違反する戦争の

遂行等への加担・協力を強制されるまでの事態が生じているとはいえない

とし︑平和的生存権の侵害を認定しな

たのは︑不思議ではない

むしろ︑注目されるのは︑それにもかかわらず︑控訴人の平和的生存権侵害などを理

由とする慰謝料請求に関して︑次のように述ぺている点である

﹁関係各証拠及び弁論の全趣旨によれば︑控訴人ら

は︑それぞれの重い人生や経験等に裏打ちされた強い平和への信念や信条を有しているものであり︑憲法九条違反を

含む本件派遣によ

て強い精神的苦痛を被ったとして︑本件損害賠償請求を提起しているものと認められ︑そこに込

められた切実な思いには︑平和憲法下の日本国民として共感すべき部分が多く含まれているということができ︑決し

て︑間接民主制下における政治的敗者の個人的な憤慨︑不快感又は挫折感等にすぎないなどと評価されるべきもので

は な

い ﹂

ここで︑名古屋高裁判決は︑強制的な動

がないにもかかわらず︑加担させられたとする控訴人の精神的

苦痛の救済の必要性を暗に一定程度認めているようにもみえ︑政治部門の政治的責任を示唆しているようにみえるの

である

こ れ

は ︑

﹁ 結

のところ︑本件派遣によって︑自

の憲法上の見解ないし平和的

存権に基づく平和︑非戦

の心情や感情を害されたとして︑慰謝料請求を求めるにすぎない

とするにとどまる岡山地裁判決にもみられない注

本稿は、平和的生存権をめぐる議論における名古屋高裁判決•岡山地裁判決の位置ないし意義を確認するささやか 関法

七四

︵ 三 八六

(20)

平和的

生存権の価値と構造

両判決は︑加害者にならない権利としての平和的生存権の救済方法として︑その自由権的性格をふまえて︑違憲行

為の差止や損害賠償があることを認めた︒これもまた新たな注目されるべき点である

しかしながら︑名古屋高裁判決は︑イラクにおける空自の活動が違憲であることまで認定しながら︑具体的な権利

侵害がないことを理由に︑控訴人の請求を認容しなかった

岡山地裁判決は︑具体的な権利侵害の主張が原告からな

されていないとして︑イラクにおける空自の活動の違憲性について判断することなく︑請求を棄却した

このように両判決が原告あるいは控訴人の請求を認容しなかったのは︑﹁戦争に加担しない権利

の意味を﹁戦争

しかし︑そのような強制からの自由という意味での平和的生存権は︑内容的に在来的人権と重複する

ということ

は︑すなわち︑両判決は︑平和的生存権の固有の意味を明らかにしたわけではないことになる︒本稿では︑﹁戦争に 加担しない権利﹂としての平和的生存権の固有の意味を﹁軍備を保有せず行使しないことによって他国民の平和的生

存権を侵害することのない国家のもとに生存する自由﹂と捉えた

このように解すると︑政府が自衛隊を海外に派遣

し︑何らかの形で軍事活動にかかわることは︑たとえ強制的な国民動員がなくても︑九条のもとでの平和的生存を奪 への加担を強制されない権利﹂と捉えたからである︒ で

あ る

な試みであった

七五

両判決は︑長沼事件一審判決同様︑平和的生存権の裁判規範性を肯定した

長沼事件一審判決は国民が戦争被害者

にならない権利としての平和的生存権の裁判規範性を肯定したのに対して、名古屋高裁判決•岡山地裁判決は、国民

が戦争の遂行等に加担させられない権利としての平和的生存権の裁判規範性を肯定した

この点が両判決の新しい点

︵三

八 七

(21)

であり︑注目に値するであろう︒ 判所に期待するのは無理であろう︒

第五九巻―――•四号

︵三

八八

うことになるであろう。名古屋高裁•岡山地裁の両判決は、しかし、そのような平和的生存権を具体的権利として認

もっとも︑伝統的な法理論と主観訴訟の枠組が大前提にあるかぎり︑右のような意味での平和的生存権の承認を裁

したがって︑平和的生存権の固有の意味を認めなかったことをもって︑両判決の足りない点とするのは︑安易な無

い物ねだりというべきであろう︒戦争加害者にならない権利という意味での今日的な平和的生存権を裁判規範として

認めたことは︑国家による強制を問題にすることによってそれを認める意味が薄められたとはいえ︑両判決が右にい

う大前提のもとでこの

︱世紀的人権に対する二 0 世紀的なニヒリズムと決別する姿勢を示したことを意味するもの

(l

)

名古屋高裁二

0 0

八︵平二

0 )

年四月一七日判決︵二

0

0

七︵平一

J L )

年︵ ネ︶ 第五 八号

︑二

0

0

六︵平一

八︶

年︵

ネ︶

0

六五号︑二

0

0

六︵平一八︶年︵ネ︶第四九九号︶︒三件の判決はいずれも同旨ゆえ︑便宜上︑参照・引用は︑二

0

0

︵ 平

一九︶年︵ネ︶第五八号事件判決のみによる︒評釈は︑永山茂樹・法セミ六四八号︱一六頁︑小林武・国際人権一九号一

六八頁︑中島徹・判例セレクト別冊三四二号︱

二頁 など

( 2

)

岡山地裁二

0

0

九︵平ニ︱)年二月二四日判決︵二

0 0

五︵平一

七︶

年︵

ワ︶

0

五七 号︒

( 3

)

それらの包括的な検討は︑深瀕忠一

﹃戦 争放 棄と 平和 的生 存権

﹄︵ 岩波 書店

一九八七年︶ニニ五頁以下や山内敏弘﹃平

和憲法の理論﹄

︵日 本評 論社

一九九二年︶二四五頁以下︑浦田一郎﹃現代の平和主義と立憲主義﹄︵日本評論社︑︱九九五

年 ︶

一〇七頁以下︑芦部信喜監修﹃注釈憲法

m

︵有 斐閣

︑二

0 0 0

年 ︶

一〇一頁以下︵矢口俊昭執筆︶︑小林武﹃平和的生

存権の弁証﹄︵日本評論社︑二

0

0

年︶

︑浦 田

一郎﹁平和的生存権﹂杉原泰雄編﹃新版体系憲法事典﹄︵青林書院︑二

0

0

八年︶三五八頁以下に譲る︒

めたわけではなかった︒

関法

七六

(22)

平和的生存権の価値と構造 憲法︵上

︶︹

新版

︺﹄

︵有

斐閣

(4)佐藤功﹃ポケット注釈全書

(5)同前二五

頁 ︒

(

6

)東京高判一

九八

︵昭五六︶・七・七訟月二七巻

一0号 .

八六

二頁︒

(7

)

参照︑高柳賢三ほか﹃日本国憲法制定の過程

I I

有斐

閣︑

一九七二年︶

(

8

)

佐藤功•前掲書二五頁。

(

9

)札幌高判一九七六︵

昭五

一︶

・八・五行集

︱一

七巻

号一

.七

頁︑判時八ニ一号ニ︱

頁 ︒

(1 0

)そもそも平和的生存権の新しさを強調することも問題である︒

戦前からの日本法の歴史のなかでみるならば︑

自由権も社

会権も新しいことに変わりがなく︑これらと平和的

生存権は︑日本国憲法制定によって同時に日本社会にもたらされたもの

である

(1 1

)

それらの概念をめぐる解釈論上の争いについては周知のところであり︑ここではい

っさい触れない︒

(1 2

)佐藤・前掲

書二 八頁

(1 3

)同前︒

(1 4

)

これに対して︑今日︑生存権の﹁ことばどおりの

意味﹂における具体的権利性や自由権的効果を主張する有力な見解︵棟居快行﹁生存権の具体的権利性﹂同﹃憲法学再論﹄

︵ 信

社山

二0

0

一年

︶三

四八頁以下 ︑長谷部恭男﹃憲

法︹ 第四 版︺

﹄︵新世社︑二

0

0八

年︶

二八0頁︑二八四頁︶があることは︑平和的生存権のミニマムの意味を解明するにあたっても留意されるべきであろう︒

(1 5

)杉原泰雄﹃憲法

I I

有斐閣︑.九八九年︶一

四五 頁 ︒

(

1 6

)樋口陽一﹃憲

法︹ 改訂 版︺

﹄ ︵

創文社︑二

0 0

一年︶一

四 一

二頁︒

(17)参照︑山内・前掲書二八四頁

(1 8

)浦田一郎の表現を借りると︑政治規範としての平和的生存権は憲法上の権利︑裁判規範としての平和的生存権は裁判上の権利となるが︵参照︑浦田﹃現代の平和主義と立憲主義﹄一〇八頁以下︶︑憲法上の権利という概念は︑自然権としての人

権に対置して用いられることもあるので︑誤解を避けるため︑本稿では︑政治規範︑裁判規範という表現を使用する

(

1 9

)参照︑浦田﹃現代の平和主義と立

憲主

義﹄

︱一九

頁 ︒

︱一四

頁 ︒

一九八三年︶二六頁︒

七七

︵ 三 八九

(23)

関法第五九巻三•四号

︵ 二 0

0九年九月七日脱稿︶

( 2 0 )

山内・前掲書二八六頁︒

( 2 1 )

奥平康弘﹃憲法

r n

︵有 斐閣

一九九三年︶四三二頁︒

( 2 2 )

そのかぎりで︑平和的生存権が︑客観訴訟を例外視する伝統的な法理論の克服を必要としていることは否定できないであ

ろう

︒なお︑平和の管理が国家の独占物ではなく国民の権利であることが人権としての平和の意味であるとすれば︑国家の

安全保障政策に対して︑その違憲の確認を求めるなど国民が司法的手続を通じて関わる方途が閉ざされている現状は︑平和

的生存権を﹁訴訟法の留保﹂︵その意味について︑参照︑棟居快行﹃人権論の新構成﹄︵信山社︑二

0

0

八年︶二八八頁以

下︶に服せしめていることを意味し︑憲法上許されないというべきことになろう︒

( 2 3 )

長沼事件当時の判例は︑抗告訴訟の原告適格をきわめて厳格に解していたが︑その後判例の動向には重要な変化がみられ

る︒また︑行政事件訴訟法九条二項が二

0

四年改正で追加されたことも往年との違いである︒今日︑長沼事件が起きてい

0

たら︑代替施設設置により訴えの利益が消滅したとみることは容易ではないのではないか︒原告適格に関する最高裁の判断

の変化について︑参照︑芝池義

一﹃

行政救済法講義︹第三

版︺

﹄︵

有斐

閣︑

0

また︑近年の動向を最

0

六年︶四四頁以下︒

高裁の内と外から観察するものとして︑参照︑滝井繁男﹃最高裁判所は変わったか﹄︵岩波書店︑二

0

0

九年︶八三頁以下︒

( 2 4 )

山内・前掲書二八七頁︒

( 2 5 )

﹁シンポジウム長沼判決の憲法学的検討﹂法セミニ︱八号四五頁︵高柳信一

発言

︶︒

( 2 6 )

念のためにいえば︑九条のもとで生存するための条件整備を積極的に行うことが︑政治規範としての平和的生存権によっ

て要請ないし許容されるかということが問題になるが︑それはここでの問題ではない︒

( 2 7 )

最大判一九五九︵昭三

四 ︶

︱ニ・一六刑集一三巻

一 三

号三ニニ五頁︒

( 2 8 )

参照︑浦田﹃現代の平和主義と立憲主義﹄

ニ ニ 頁 ︒

( 2 9 )

札幌地判一

九 七

︱ ‑ ︵

昭四八︶・九・七訟月一九巻九号一

頁 ︒

七八

︵ 三

0 )

(24)

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