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[紹介] 松井茂記著『日本国憲法』

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[紹介] 松井茂記著『日本国憲法』

その他のタイトル [Book Review] SHIGENORI MATSUI, JAPANESE CONSTITUTIONAL LAW : Who needs the text ?

著者 君塚 正臣

雑誌名 關西大學法學論集

50

1

ページ 214‑259

発行年 2000‑04‑15

URL http://hdl.handle.net/10112/00023617

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︹ 紹

0

一本書の基本的立場

三その他の点について

おわりにー﹁結びに代えて﹂に代えて 松井茂記著 介 ︺

A五判横書き六ニ︱頁︑四二

0 0

円 ︶

本書は︑著者︵松井茂記︶の四四回目の誕生日を刊行日とする︑いわゆる﹁憲法学界の五五年世代﹂最初の︑本格的に自説を展 開するスタイルの教科書である︒各学説﹁は対話的合理性に支えられて﹂いなければならないだろうが︑﹁同時に︑さらなる批判 にも開かれていなければならない﹂︵三頁︶と思われるので︑今回︑評者︵君塚正臣︶が書評を執筆することにした︒この世代に

よるものとしてはこれまでも棟居快行﹁憲法講義案

I. II

﹄︵信山社︶や内野正幸﹃憲法解釈の論点﹄︵日本評論社︶︑市川正人

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﹃ケースメソッド憲法﹄︵日本評論社︶などが刊行されていたが︑これらは概説書ではない︒また教科書として先行している︑長 谷部恭男﹃憲法﹄︵新世社︶があまり独自の説を前面に押し出していないのとも異なって見える︒まさに本書は︑﹁日本国憲法を見 直し︑過去の憲法学と異なる憲法学を打ち出すことができた﹂︵まえがき五頁︶という宣言を体現したものと思われる︒

この教科書を特徴づけているのは︑何よりもプロセス法学によって日本国憲法解釈の相当部分を説明しようとしていることであ る︒憲法の教科書執筆者が案外悩むことの一っに執筆項目の順番というものがあり︑その最たるものは統治機構と基本的人権の順

序であろう︒しかし﹁憲法は政府のプロセスを樹立し︑規律したものであって︑実現されるぺき価値を宣言したものではない﹂

︵まえがき四頁︶とする本書にとって︑その解答は殆ど明らかである︒それどころか︑平和主義に関する記述が﹁国会と立法権﹂

という章の︱つの節に過ぎないものになっているほどその姿勢は徹底的である︒このような外観上の特質は本書の立場をよく表し ているように思われる︒そこで︑本書の批評をするに当たっては︑評者が誰であろうとこの点に言及しないものは殆ど無価値なも

のとなろう︒本書評もこの点を巡る部分にまずは相当の紙幅を割くことになろう︒

執筆項目の順序と言えば︑著者がその立場を﹁憲法を学ぶ﹂という表題の第一部で明らかにしたあと︑第二部にくるのが﹁司法 審査及び憲法訴訟﹂であることは︑本書が一般市民ではなく︑憲法研究者や法曹関係者などの法律家︑或いはそれを目指している 法学部の︵決して全部ではない︶学生を対象としていることも明らかである︒判例の紹介も一味違う︒日本国憲法の擁護者として 漠然と市井の市民からなる民衆を考え︑彼らの一種の護身術としての憲法論を暗黙のうちに模索してきたと思われる︑多くの教科 書とも一線を画していると言ってよいであろう︒この試みの成否についても評者は考えなくてはならないのかも知れない︒そして︑

末尾の︹別表︺にまとめたように︑本書には少数説が他に類を見ないほど多く見られる︒それは︑通説のパラダイムの転換を迫る 著書としては当然のことと言わねばならないであろう︒これまで少数説が多いことで比較的有名だったと思われる︑阪本昌成﹃憲

法理論

I . 1 1 . I l l

﹄︵成文堂︶や浦部法穂﹃憲法学教室ー・

1 1 ﹄︵日本評論社︶などよりも明らかに多く︑特にほぼ単独説が目立っ

て多いのである︒著者の意図を想像するに︑そのこと自体には寧ろ価値を認めるべきであろうが︑その際の説明が説得的なものか

松井茂記著﹃日本国憲法﹄

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には特に注目できよう︒本書評の分析は︑本書を誰が︑何のために︑どのように扱うぺきかの指針でありたいと思う︒

本書の基本的立場

まずは著者自身の言葉に従い︑本書の基本的な立場を明らかにしてみよう︒

本書は︑﹁憲法を﹃人間の尊厳﹄を最高価値とする実体的価値序列﹂とし︑﹁統治機構はその手段にすぎないとみる実体的憲法

観﹂︵まえがき三頁︶を伴う﹁支配的パラダイムの限界を指摘し︑それとは異なるパラダイムの可能性を示す﹂ことを意図する︒

﹁憲法は政府のプロセスを樹立し︑規律したものであって︑実現されるぺき価値を宣言したものではないというプロセス的憲法観︑

基本的人権は国民の政治参加のプロセスに不可欠な諸権利を保障しようとしたもので統治機構の部分と同じプロセスの保障として

の性格をもっているとするプロセス的基本的人権観︑そして憲法の立脚する民主主義原理の下ではこの政治参加のプロセスの保障

こそが裁判所にふさわしい役割であるとするプロセス的司法審査理論を提示する﹂︵まえがき四頁︶ことを目的としている︒

そして著者の批判は︑わが国の通説的見解のかなり根幹部分に向けられていると言ってよい︒﹁自然権の確保を政府の目的と捉

える﹂﹁支配的な﹂﹁立場では︑自由の確保︑つまり人権の保障は︑実は社会契約でも︑政治共同体が憲法制定によって下した判断

でもない︒人権は︑憲法に先立って尊重されなければならない権利だと考えられている﹂︵三五ー三六頁︶が︑米独立戦争当時に

共和主義の強い影響があったことを指摘しながら︑このようなリベラリズムは﹁﹃自然法﹄を認めるに等しい﹂︵三六頁︶と批判す

る︒﹁日本国憲法も︑自由を確保することだけを目的に制定されているわけではない﹂にも拘わらず︑この立場では﹁国民の政治

参加の意義はなくなってしまう﹂︵三七頁︶と批判する︒本書は通説の立場を﹁特殊日本的福祉国家型リベラリズム﹂だとすら評

している︵四一頁︶︒﹁﹃人間の尊厳﹄を﹃実定法化された超実定法﹄と捉える支配的な学説の理解は︑とうてい支持しがたい﹂︵四

七頁︶し︑﹁憲法を統治権限の及びえない私的領域としての権利の保障と統治機構に分割し︑後者を前者の手段にすぎないとみる

見方は︑むしろ近代憲法の発達に即していない﹂︵四六頁︶として否定するのである︒

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そして︑これに代わるパラダイムとしてプリュラリズムの憲法観を提示する︒ルソーの﹃社会契約論﹄や米独立革命時の﹃ザ・

フエデラリスト﹄を引きながら︑著者は︑憲法を﹁集団を形成して政治に参加する個人︑つまり﹃市民﹄﹂が﹁利害関係の異なる 集団との提携﹂を繰り返しつつ﹁政治参加することのできるプロセスを保障したものと理解する﹂方が︑﹁もともと憲法というプ ラクティスをもたらした考え方であり︑日本国憲法もこのような考え方を示す規定と構造をもっている﹂︵三八頁︶とする︒本書 の予告段階の広告では﹁統治の構造﹂の中に︑通常の教科書が﹁基本的人権﹂として扱う部分が丸ごと含まれていたほどである︒

しかも﹁もう一度共和主義を見直すこともできる﹂︵四四頁︶などとして︑そこに何故か相当の共感を抱いているのである︒この ことは︑﹁公益の実現と選挙民の意思とのバランス﹂(‑五七頁︶という表現にも垣間見られている︒

そうなると本書で最も大事なのは︑日本国憲法がいかなる政治プロセスを想定しているかであろう︒主権原理については︑﹁憲 法改正権は︑制度化された憲法制定権と捉え︑そこに権力的な契機を認めるぺきである﹂(‑三八頁︶とするものの︑主権を正当 性の源泉であるとして︑権力性の契機ととる立場には基本的に立っていない︒代表が命令委任であるという立場も否定している︒

そればかりか︑﹁フランス第三共和制の下で認められるようになった半代表という考え方﹂についても︑﹁たとえ代表者が選挙民の 意思を反映すべきだといっても︑このことは政治的な意味においてとどまる﹂(‑五六頁︶とし︑﹁憲法に基づく統治の正当性の源 泉が︑国民︑つまり被治者の同意に基づくことを示す原理と解される以上︑国民主権原理から代表者が選挙民の意思を反映すべき だとの結論は導かれない﹂(‑五七頁︶とするのである︒故に︑﹁公約違反を裁判で争うことは認められ﹂ない︵四

0

﹁国会議員が全国民の代表とされている以上︑政党を離党したり政党から除名されたりしても︑国会議員としての地位に影響を与 えない﹂(‑四七頁︶し︑﹁選挙区ごとのリコールを認めることは妥当ではない﹂とする(‑五七頁︶︒その一方︑﹁代表者の意思が 選挙民の意思と決定的に離れてしまわないように︑国民に政治参加の諸権利を保障して︑国民に次の選挙で気にいらない候補者を 落選させる権利を保障している﹂(‑五七頁︶と述べ︑小選挙区制こそが憲法の予定する選挙制度であるとする︒

このようなパラダイムの中で︑非民主的機関である裁判所の役割は問題となる︒裁判所の終局的違憲判断により︑﹁その限りで

松井茂記著﹃日本国憲法﹄

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国民はその代表者を通して国政を決定することを否定されることになる﹂からである︒そこで﹁司法審査の民主主義的正当性の観

点からの限界がある﹂︵九0頁︶とする︒しかも︑﹁憲法解釈の場合︑裁判所の憲法解釈を変更するためには︑憲法改正か︑せいぜ

い国民審査によって最高裁判所裁判官の多数の構成を変更させるしかない﹂ので︑裁判官は法律解釈のときのように︑﹁創造的な

役割を果たして﹂はならず︵九

0

九一頁︶︑民主主義的﹁プロセスに組織的な機能障害が発生しないように確保﹂︵九六頁︶する

ための限定的な役割こそが﹁裁判所にふさわしく︑裁判所がそのような役割を果たすことは民主主義に矛盾しない﹂︵九七頁︶と

主張する︒﹁多数者が選挙権や表現の自由などの国民の政治参加のプロセスに不可欠な権利を制約している場合︑あるいは一定の

少数者の利益を代表することなく差別しているような場合には︑政治のメカニズムは組織的な機能障害が生じる恐れがあ﹂り︑

﹁このような機能障害を除去し︑国民が本来のプリュラリズム的に理解された政治のメカニズムを通して政治を変革することを可

能にすることこそが︑民主主義に立脚する日本国憲法が最高裁判所に求めていることである﹂︵九八頁︶とするのである︒

審査基準についても︑﹁通説的な二重の基準論のように﹃精神的自由﹄と﹃経済的自由﹄を対比すべき根拠はな﹂<︵︱‑四ー

︱︱五頁︶︑﹁手厚く保護されるぺきは政治参加のプロセスに不可欠な諸権利などの﹃プロセス的権利﹄であり︑それ以外の﹃非プ

ロセス的権利﹄については裁判所が立法府の判断に口出しする根拠はないと考え﹂︵︱‑五頁︶ている︒前者には違憲性の推定が

及び﹁やむにやまれない政府利益の基準・厳格審査﹂が妥当し︑後者には合憲性の推定が及ぼされ﹁合理的根拠テスト・緩やかな

審査﹂が妥当することになり︑合憲性の立証責任も異なってくる︵︱‑六ー︱︱八頁︶︒前者の典型的記述としては︑地方参政権

における﹁三カ月の継続居住要件など︑はたしてやむにやまれない政府利益を達成するための必要不可欠な手段といえるかどうか

疑問﹂︵二八八頁︶としたことなどが挙げられ︑後者の典型的記述としては︑﹁政治参加のプロセスに不可欠な権利の制約ではない

以上︑基本的には生存権の問題は政治プロセスで決着を図るべきであり︑裁判所は国会の判断を尊重し緩やかな審査をすべき﹂

︵五六一頁︶としたことなどが挙げられるように思われる︒

憲法解釈観も通説的見解と異なっているようである︒本書は一般的に解釈を問題にするのではなく︑その力点は明らかに裁判所

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での解釈に置かれている︒﹁裁判所による法の解釈は立法府による立法とは異なり︑裁判独自の制約に服している﹂との立場に好

意的であり︵六六頁︶︑これに対して﹁実体的価値の司法審査理論は︑裁判官が実現すべき価値序列があると主張するが︑その価

値序列は憲法の条文からも憲法制定者の意思からも明らかにならない︒また︑それ以外にも何らかの客観的な基準は見当たらな

い﹂と批判される︒裁判所の解釈では︑﹁結論を憲法テキストから一義的に導かれたものとして正当化しなければならない﹂︵九六

頁︶とし︑﹁あくまでも憲法の条文︑歴史︑構造に目を向けるべきであり︑それを超えた実体的価値の実現を求めるべきではない﹂

︵七一頁︶とする︒なお別の記述からすれば︑﹁歴史﹂は﹁憲法制定者の意思﹂と読み替えてもよさそうである︵九四頁︶︒

人権についての考え方も支配的な見解と異なる︒﹁支配的な学説は︑フランス人権宣言の権利観こそが近代憲法の本来の姿だと

理解し︑基本的人権を﹃人間の権利﹄︑即ち人がただ人であるということにより有する権利﹂などとしてきたが︑他方で後国家的

権利とされる﹁社会権も﹃二0世紀的自然権﹄と呼ぶこともできる﹂などとした︵三0

的人権を道徳的権利として捉え﹂︑﹁人の人格的自律の存在性に関わるものと解﹂して︑﹁自由権のみならず︑選挙権も社会権も︑

人権として把握されなければならない﹂︵三

0

五 ー︱ ︱

1 0

六頁︶とした︒何れにせよ︑これらの学説は﹁基本的人権を憲法に先立っ

て存在する自然権と捉えている点では異ならない﹂︵三

0

八頁︶し︑憲法上の人権は﹁私法上の権利などとは性質を異にすると想

定してきた﹂︵三二八頁︶と著者は捉えている︒対して本書は︑それらは﹁近代立憲主義の共通の人権の観念だとは思われ﹂ず

︵ 三 0八頁︶︑﹁特殊ドイツ的﹂だと批判する︒更に﹁基本的人権を実定法的権利としてよりは道徳的権利としてしま﹂うことや︑

﹁﹃自由﹄が侵害されたときに裁判所に救済を求める権利は出てこない﹂︵三0九頁︶こと︑そして何よりも﹁政治参加・参政権が

適切に位置づけられない﹂ことにより︑﹁人類の長い発展の歴史の中で︑人々があれほどまで参政権拡大と民主主義の強化を求め

てきたことの意義を説明﹂しにくくした︵三一

0

頁︶ことなどを批判するのである︒そして︑﹁その結果︑基本的人権の根拠は︑

結局憲法以前に存在し︑憲法に上位する自然法に求めざるをえなくなっている﹂︵=ニ︱頁︶とも断じるのである︒

これに対し本書は︑﹁憲法で保障されている権利を見ると︑そこにはアメリカ合衆国憲法の権利章典の強い影響が見られ﹂︑﹁基

松井茂記著﹃日本国憲法﹄

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本的人権を裁判所によって執行されうる実定的権利として保障している﹂ことなど﹁からみると︑日本国憲法の基本的人権はアメ

リカの市民的権利・市民的自由にむしろ近いと考えることも可能﹂︵三

0

九頁︶だと言う︒そして︑憲法は︑﹁政治共同体の構成員

である個人が︑政治に参加するプロセスの保障を目的としたもの﹂︵三︱二頁︶と考える︒﹁プロセス﹂は︑﹁代表者を通じて国政 を決定するという﹃政治参加のプロセス﹄に関わる﹃大文字のプロセス﹄と︑その国政の決定が執行される﹃小文字のプロセス﹄

からなる﹂︵四七頁︶︒そこでは究極的には﹁統治機構こそが︑何よりの権利章典なのである﹂︵三︱二頁︶︒そのように考えれば︑

﹁自由権の保障の中に︑裁判所による保護を組み込むことが可能に﹂なり︵三一三頁︶︑﹁権利はすべて請求権﹂︵三二九頁︶とな る︒二ニ条の﹁個人の尊重﹂でさえも︑﹁すべて国民が﹃一人の市民﹄として︑つまりかけがえのない政治共同体の不可欠な構成 員として尊重されるという意味に理解されるべき﹂︵三一四頁︶だとするのである︒結果︑基本的人権の体系も独特なものとなる︒

憲法は﹁一定の﹃切り離され孤立した少数者﹄の代表を拒否することがないよう平等権を保障している﹂︵三一七頁︶とした上で︑

それ以外は︑﹁政治参加のプロセスに関わる諸権利︵大文字のプロセス的権利︶と政府のプロセスに関わる諸権利︵小文字のプロ セス的権利︶﹂︑﹁本来憲法が保護すべきで必要のない非プロセス的権利﹂に分類される︵三一八頁︶のである︒本書は非プロセス

的権利として︑財産権と社会権諸規定︵本書はこのような総括の仕方を拒む︒五五七頁︶を挙げている︒

背景的には︑通説が憲法を時間と場所を超越して存在するものとしてきた点を批判し︑著者が﹁憲法は﹃近代﹄という時代に登

‑ I 二四頁︶としていることにも注意が必要だろう︒そのような意味での近代が現在も続

いていることが︑本書の様々な主張の前提であろう︒﹁憲法はあくまでも統治のプロセスを定めているのであって︑﹂政府の役割が 増大した﹁現代でもそこに本質的な違いはない﹂︵二六頁︶のであるし︑﹁個人はさまざまなネットワークの結び目としてのみ存在 し︑近代的なアトム的な個人は存在しない﹂とするポスト・モダンの憲法学が﹁個々の具体的事例での小さな正義を求め﹂︵四三 頁︶ていることにも反論を加えている︒そしてそこにある近代的個人主義の姿は︑﹁封建的な中間団体を解体し︑個人と権力を直 接対峙させ﹂るというフランス流のものではなく︑結社に肯定的なトクヴィル・アメリカ型個人主義なのである︵四二頁︶︒本書

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は個人を弱いものと見てしまう立場に賛同しない︒リベラリズム批判を再度繰り広げた上で︑﹁基本的には政府の助けがなくても 生きていける合理的人間﹂︵四三頁︶という人間像を日本国憲法は描いている︑と述べているのである︒

以上の立場に立つが故に論点において説が定まっていると思われる場面も多く︑この立場自体の是非が本書の評価のかなりを決

めることになろう︒その帰結を少々確認し︑比較的内在的な論評も併せてしていきたいと思う︒

本書は︑憲法を﹁政府のプロセスの基本法﹂とすることから︑﹁政府の行為とはいえないものについては︑日本国憲法は及ばな い﹂︵五六頁︶とする︒通説的見解が﹁私人間適用論﹂として扱ってきた問題は﹁ドイツの実証主義の強い影響﹂を受けたもので あり︵三三五頁︶︑それに代わって﹁参考になるのが︑アメリカのステイト・アクション論である﹂︵三三七頁︶だという︒しかし これが自明の解答かは疑問も残ろうか︒﹁国会は﹂法律により私人間の﹁差別を禁止すべきである﹂︵三三八頁︶との記述に規範的 要素も見える︒逆に︑政府の私法上の行為は当然︑﹁憲法に直接拘束される﹂︵五七頁︶とされる︒

表現の自由は当然極めて重要視される︒国民は憲法ニ︱条に基づいて﹁国会の会議を傍聴し︑会議録を閲覧・複写する憲法上の 権利を有している﹂︵一六九頁︶し︑同条は﹁取材の自由を保障しており︑その一環として法廷で取材することも憲法上尊重され るぺきである﹂︵二四二頁︶とされる︒対行政権では︑政府情報開示請求権に言及する︵四七二頁︶が︑ストレートに閣議等の傍 聴の自由までは認めておらず︑やはり行政権はプロセスではなく結論が大事だと考えたのか不明だが︑そこまでの説明はない︒

著者は︑明文の規定がない被選挙権についても︑﹁一五条は︑そのような立候補の権利をも保障していると考えるべき﹂だとし︑

﹁やむにやまれぬ政府利益を達成するために必要不可欠なものでない限り︑制限は許されないと考えるべきである﹂とする︵四一 二貝︶︒根拠条文を一三条としなかったことは納得できるが︑このことは一︱︱一条の守備範囲の点で問題を引き起こそう︒また︑選

挙に関して公務性を否定している︵四0六頁︶︒現在二元説の多くも公務の性格から制限を加えることには慎重になりつつあり︑

その制約には厳格審査を適用するのが普通であろうから︑この方向性に強く反対する学説は少ないであろう︒寧ろ多数説の不徹底 が指摘されるべきかも知れない︒しかし著者が︑﹁共和主義の立場であれば︑国民には政治参加の政治的義務があるといえるかも

松井茂記著﹃日本国憲法﹄

~

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0七頁︶と述べているのは︑論理の逆転か若干の矛盾を感じないではない︒

とは理解できるが︑審査基準が異なる理由が本書の立場にあるのだろうか︒疑問が残る︒

基本的人権の制約に関する議論については︑﹁最近の学説が︑公共の福祉を人権相互の調整原理として理解しつつ︑﹂﹁具体的な

基本的人権の制約が憲法上許されるかどうかは︑個別具体的に検討しなければならないという方向を示している点は︑基本的に妥

当だ﹂とする︵三五六頁︶︒この問題を基本的に軽く通過していることは︑本書の立場からすれば当然であろう︒本書が大事なの

は審査基準の筈である︒﹁プロセス﹂か否かを分水嶺とする本書が︑審査基準として基本的に厳格審査と緩やかな合理性の基準し

か認めない二分法に至ることは自然である︒後者はときには全くの無審査でもないようでもあり︑どの程度の基準をいかに合理化

するかはなお問われよう︒しかし︑﹁表現内容中立的な規制のような場合には﹂﹁重要な政府利益を達成するための必要最小限度の

手段であるとの中間的基準をクリアしていれば合憲と認めてもよかろう﹂︵︱‑五頁︶として︑﹁重要な政府利益の基準・厳格審

査﹂︵︱‑八頁︶の存在を認めている︒その理由について︑﹁表現内容に基づく制約の方が表現内容中立的制約に比べて危険性は明

らかに高いし︑表現内容に基づく制約の場合は結果だけではなく表現内容を定義的に確定した基準の方が望ましいが︑表現内容中

立的制約の場合には結果で判断するほかない﹂︵四五0頁︶と述べている︒このような根拠から合憲性判断基準が異なってくるこ

また平等権に関して著者は︑﹁一四条列挙の事由は疑わしい区分であって︑それらに基づく差別は厳格な審査に服するというこ

とになろう﹂とし︑その一部にいわゆる厳格な合理性の基準を適用することは﹁根拠がない﹂︵三七九頁︶としながら︑﹁優遇措置

にもせめて中間的基準の下で︑それに実質的な正当化根拠があるかどうか慎重な審査を行うべき﹂︵三九九頁︶としていることは︑

よくわからない︒少なくともこれが︑表現内容中立的な規制に際して用いようとしている基準と同じなのか異なるのか︑基本的に

厳格審査なのか緩やかな審査なのか︑不明である︒もし別途中間審査をここに認めるなら︑結局平等権は﹁プロセス﹂と無関係

だったことになりかねず︑全体構成に傷が付く危険性も否定できまい︒そうでなくとも厳格審査と緩やかな審査基準の各々が二つ

に分かれる可能性を示唆しているようである︒だが︑そのような根拠がプロセス法学に内在的にあり得るのか︑不明である︒

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ところで︑本書がなぜ司法審査から始まっているのか︑なぜ選挙等ではないのかについても疑問がなくはない︒本書が法律家と

その予備軍を対象にしていることがより色濃く出たためであろうとは思われるが︑本書の立場では司法的救済は二次的なものの筈

ではなかったか︒総論的記述の後は統治機構と人権の説明を平行して進め︑﹁国民と政治参加権﹂などを経て︑﹁司法権と裁判に関

わるプロセス的権利﹂︑﹁非プロセス的権利﹂︑﹁天皇﹂のように終わる方法が︑著者の体系には忠実だったのかも知れない︒

しかし果たしてこのプロセス法学的な立場は︑日本国憲法の解釈論としてそもそも維持できるのだろうか︒

本書は︑﹁憲法は︑政府を樹立し︑立法権︵変化のルール︶を授権し︑司法権︵裁決のルール︶を授権している﹂︵四五頁︶と述

べている︒﹁憲法に先立って存在する国家の概念を想定することは︑憲法に定められていない政府の権限認めることにもなり︑危

険でさえある﹂︵五六頁︶とする︒例えば︑いわゆる国家緊急権を﹁国家の固有の権限として認められるという見解は支持し難い﹂

︵七八頁︶とする︒これは初めに国家ありきという憲法・国家観を否定するもので︑あくまでも日本国憲法制定という社会契約締

結により日本国という組織を樹立したのだ︑憲法が政府を作るのであって︑憲法が国家の後にやってくるのではない︑という考え

の表れである︒憲法の中身こそが法的な意味での国の筈である︒そうだとすれば︑日本国憲法が何を言っているかが決定的であっ

て︑立憲主義憲法一般がどうであるか︑諸外国の憲法がどうかなどは︑少なくとも第一義的な問題ではなくなろう︒歴史的考察や

比較憲法的手法が否定されるわけではないが︑憲法はア・プリオリに当然にプロセス的文書であるわけではない筈である︒だとす

れば︑果たして日本国憲法という文書が何を意図しているのかから問われねばなるまい︒本書はどちらかと言えば︑日本国憲法の

条文や構造などの細かい解釈から論を進める思考ではなく︑グランド・セオリー志向である︒そのことから︑日本国﹁憲法の条文︑

歴史︑構造﹂をどこまで踏まえているかを問われ︑延いては基本的な考えへの批判がなされる余地があろう︒

著者は通説の﹁実体的価値﹂重視の憲法観を批判し︑政治過程における手続重視の憲法観への転換を迫っている︒確かに通説的

松井茂記著﹃日本国憲法j

日本国憲法はプロセス的文書か

~

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立場では個々の人権は分断され︑救済と結びつかず︑統治機構は単なる手段となり︑自然法まで引き合いに出さなければ正当化で きないとする著者の批判はあながち間違いではないだろう︒人権条項の章の表題が﹁国民の権利及び義務﹂であることや︑その冒 頭が﹁国民たる要件﹂条項であることは︑社会契約の素朴な理解と相まって︑その保障を満額受けられる者が憲法制定権力である ところの国民のみであることを思わせる︒また︑立憲主義憲法が皇帝や国王から統治権限を奪ったり極最小限に抑えたりしながら︑

それを国民のものとし︑その一方で国民代表が新たな専制君主にならないよう政府の権力を均衡と抑制の仕組みの中に閉じ込める ことに苦心してきたことは明らかである︒憲法が何よりも国家権力のコントロールに関心を持つ文書であることは︑多分に一般化 できよう︒通説的理解では人権を撓護するような裁判所が重要であり︑国家や政府は小さい方が︑或いはない方が望ましく︑少な くとも国民の総意よりも何より︑人権を錦の御旗とする裁判所の意向に従わなければないようになりかねないのである︒

しかし︑日本国憲法の人権規定をここまでプロセス的に読めるかどうかはまた別である︒憲法制定の混乱期に実体的価値を規定

﹁司法審査の民王主義的正当性と﹃憲法﹄の概念﹂佐藤幸治還暦﹃現代立憲主義と司法権﹄

~

一三六頁参照︶︒もし著者の理解に従うならば︑日本国憲法は統治と人権が一体となった条文構成だった筈ではなかろうか︒

確かに︑裁判の公開や国会議員の選挙での差別禁止など︑統治機構部分にも人権条項と捉え得る内容はあるが︑それらは例外であ る︒また︑仮に伝統的な二分法に負けて両者が別建てで書かれたとしても︑人権条項の構成は﹁大文字のプロセス的権利﹂と著者 が述べるものを中軸に据えている筈である︒ところが︑日本国憲法の人権条項は︑多くの学説が包括的基本権と考える一三条で

﹁個人として尊重﹂﹁幸福追求﹂を掲げている︒人権の中核を政治的参加権とするものとしては︑この条文を読めないように思わ れる︵土井前掲論文一四一頁参照︶︒次の平等権条項を読んでも︑差別は﹁政治的︑経済的又は社会的関係において﹂許されない とされており︑必ずしも対象を政治過程等に限定していない︒その次に参政権︑請願権︑国家賠償請求権規定がやってくるが︑憲 法は直ちに広汎な自由権規定に進んでいく︒その中には政治プロセスとは直接関係ないと思われる︑家族生活に関する二四条など

もある︒そしていわゆる社会権規定︑現代国家ではその制約を広く認められなくてはならなくなった財産権が組み合わされるよう 頁 ︑ することはあり得る︵土井真

0

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に記述される︒最後に数の上からは最大勢力を誇る刑事手続上の人権︵或いは身体の自由︶が並び︑人権条項は終わるのである︒

手続か実体かと言えば︑どう見ても実体重視の条文構成に読めないだろうか︵土井前掲論文一三七頁参照︶︒また︑人権条項の前

に﹁戦争の放棄﹂の章がきていることも︑本書の基本的な考えを危うくする状況証拠にはなろう︒

しかし本書はこのような疑問を避けるかのように︑かなり多くの条項をプロセスに関わるものとして読み込んでいる︒例えば著 者は︑﹁居住・移転の自由︑職業選択の自由︑外国移住の自由︑国籍離脱の自由﹂を﹁政治参加のプロセスに不可欠な諸権利﹂に 含めている︒多くの教科書で︑これらの諸権利が精神的自由の側面も有するとしながら︑経済的自由に組み込むのとは異なる対応 である︒この趣旨について︑﹁みずから選択する地域共同体に帰属する︵居住する︶ということは︑政治参加の基本的な権利であ る︒そして︑その地域共同体の政治に参加し︑もしその結果その地域共同体に満足できなくなった場合に︑その地域共同体を捨て て︑多の地域共同体に生活を見いだす︵住居を移転する︶ことも︑同様である︒しかも︑日本という政治共同体を捨てて別の政治 共同体に移住する︵外国に移住する︶ことも︑そして最終的には日本という政治共同体の構成員としての地位を放棄する︵国籍を

離脱する︶ことも︑すべて政治参加権保障の帰結である﹂︵四八

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ー四八一頁︶と述べている︒この結果︑これらの権利は厳格審

査の対象となる筈である︒しかし︑職業選択の自由について︑﹁本条の本来の趣旨は︑政治参加のために一定の職業に就くことを 制約することを禁止する点にある︒例えば︑弁護士︑新聞記者︑ロビイストなどは︑そうした職業の典型例である﹂ので︑そう いった﹁政治参加に関わる職業に関しては﹂﹁その制約は厳格な合憲性判断基準と厳格な審査を満たすことが要求されるべきであ

る﹂︵四八ニー四八三頁︶とするように︑限定的で歯切れが悪いのである︒

しかしそもそも︑著者が中核とするような職業遂行の自由は︑表現の自由などとして多くが保障されていると言うぺきなのでは ないだろうか︒日本国憲法が二二条で保障しようとしたものは︑特に限定が見えない以上︑自由な経済活動であり︑それが居住・

移転の自由と同一条項で保障されているのは︑それを阻害して経済活動を阻害していた封建社会の否定がここに含まれているから と考えるのが素直であろう︒仮に︑条文上の位置から︑二九条の財産権規定と併せて﹁経済的自由﹂と考えることを躊躇したとし

松井茂記著﹃日本国憲法﹄

(14)

ても︑各自の好む場所で各自の好む職業に就き︑その幸福追求を満たしていくための権利であるとして﹁精神的自由﹂によりシフ

トした解釈は可能である︒この点︑本書は﹁ただ憲法は︑このような限定が困難であることから︑予防的措置としてすべての職業

選択の自由を保障し︑その代わりにこれらが公共の福祉による制約に服することを明記したものと考えられる﹂︵五四二頁︶とし

ているが︑何れにせよ限定のない条文を︑特定の職業の自由の保障を狙ったものだと読むことには無理がある︒もしそう読むなら

ば︑政治的プロセスに関わる権利の行使を憲法が特に危険視し︑特別に﹁公共の福祉﹂による制約を許したことになり︑疑問を感

じる︒この一節は︑職業が巨大な組織の下でときとして国民の自由を奪う形で遂行されることが現実化したのを踏まえて︑より多

くの注意を立法者等に喚起したものとして考えるべきではないだろうか︒また細かいことであるが︑著者は国籍が﹁政治共同体の

構成員﹂とイコールでもないと考えているようであり︑国籍離脱の権利をこう考えてよいかにもやや疑問もある︒

ところで︑本書は職業について︑﹁政治参加のプロセス﹂に関わるか否かで分類できるという考えを持っていると思われる︒し

かし︑精神的自由の条項の解説の中では必ずしもそうではないようである︒例えば︑憲法一九条の﹁思想・良心の自由は広く理解

しておくことが妥当﹂︵四二六頁︶としている︒また︑二0条の信教の自由も︑﹁その人がそれを宗教だと理解していれば︑それは

宗教だ﹂︵四三四頁︶との広い理解をしつつ︑﹁政治参加のプロセスに不可欠な諸権利﹂としている︒この点については多くの疑問

が寄せられるであろう︵土井前掲論文ニニ八頁参照︶︒著者は先回って︑﹁憲法は︑信教の自由を保障し︑同じ宗教を信じる人が宗

教的結社を形成し︑宗教を広げ宗教の求める社会の実現を図るよう働きかけることを保護している︒宗教的信念から政治に参加す

ることは︑決して憲法に反しない﹂︵四一二三頁︶と述べている︒政教分離を掲げる日本国憲法の下でここまで推奨できるかは疑問

だが︑仮にそれを受け入れても︑宗教の多くは世俗の政治権力の奪取よりも魂の救済を目的としており︑そのような自由を﹁政治

参加のプロセスに不可欠﹂と表現できるかとの批判は寄せられよう︒学問に関しても︑その﹁自由は︑政治による知識の支配を否

定し︑国民が自由に知識を取得し︑政治に参加できるよう保障したもので︑﹂﹁政治参加のプロセスに不可欠な権利としての性格を

もつもの﹂︵四八五頁︶としている︒﹁教育﹂も﹁民主主義社会の要﹂であって︑﹁政治参加のプロセスにとって不可欠な事柄﹂で

0

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あるので︑二三条の保護は及ぶとする︵四八八頁︶︒しかし今度は社会科学的な学問や知識・教養が︑憲法の想定している典型学

問であるということになりはしないだろうか︒本書には原爆に関する例が出てくるが︑国際政治学者が日本の核武装を主張するこ

とは学問で︑純粋に科学的に原子物理学を研究することはあまり学問的ではないか︒だが︑より注意深く読むと︑﹁学問の自由は︑

政治による知識の支配を否定し︑国民が自由に知識を取得し︑政治に参加できるよう保障したもの﹂︵四八五頁︶とあるなど︑あ

らゆる学問は本条の保護範囲と解しているように読める︒しかし︑なお︑最終的に政治参加を視野に入れていない︑面白いからす

るタイプの学問は憲法上保障されていないか価値が低いか想定されていないのではないか︑との疑問も拭えない︒

また表現の自由についても︑﹁プロセス的憲法観及びプロセス的司法審査理論からは︑表現の自由は︑政治参加のプロセスに不

可欠であるがゆえに︑裁判所に手厚く保護されるべきである︒しかも︑手厚く保護されるぺきはすぺての表現の自由であり︑それ

ゆえ︑それぞれの表現が異なる表現の価値を有しているとか︑表現の自由の価値に高低ないし序列があるとか考えるのは妥当では

ない﹂︵四四七頁︶と述べている︒確かに猥褻的表現でも営利的表現でも︑その規制に対しては厳格審査を求めている︵四六

0

四六一頁︶︒即ち︑精神活動は︑本人の意図がどうであっても﹁政治参加のプロセスに不可欠﹂なものであり︑その制約は厳格審

査の対象と考えているようである︒確かに﹁一切の表現﹂を保障した日本国憲法が︑その間に価値の差を設けていると考えるのは︑

条文適合的ではない︒また︑様々な表現形態を考え尽くせば︑その途上で表現類型を綺麗に分類できないことに気づくであろう︒

そこで︑精神活動に細かな分類を施し︑その一部を保障したり保障しなかったり︑或いは審査基準を違えることは疑問がある︒そ

の結論には評者も同意するが︑果たして﹁政治参加のプロセスに不可欠﹂という点から説明することが成功するかは︑ここでも疑

問がある︒﹁﹃通信﹄は私的な性格をも﹂つ︵五0一頁︶のであれば︑本書は厳格審査の対象外にするのだろうか︒

ところで著者は︑ニ一条の保障する﹁結社﹂の範囲としては︑それを﹁表現の自由の枠組みの中で考察する方が妥当である﹂と

して︑﹁営利的な会社を設立し営業することなどは︑ニー条の結社の自由の問題ではなく︑せいぜい二二条一項の職業選択の自由

の問題と考えるべき﹂︵四七六頁︶だとするし︑﹁親密な交わりの権利﹂については︑﹁家族に関するものは二四条によって保護さ

松井茂記著﹃日本国憲法﹄

(16)

れている︒それを超える部分については︑そのような権利を認めることは困難﹂︵四七七頁︶だとする︒さて︑精神的自由の一翼

を担う﹁結社﹂が︑﹁政治参加のプロセスに不可欠﹂なものとして保障されていることは当然として︑ここで表現の自由の延長上

にある結社とそうでない結社に分離できるという考えが表せることには注意が必要である︒もし表現についてその類型を分離でき

ないのだとしたら︑どうして結社についてその類型を分離できるのか︒説明が足りないように思われる︒この問題は︑振り返って

職業に関する分類ばかりが何故可能だったのかにも関わっている︒基本的には結社結成者の意図と外部的な表示により保障条文を

考えればよいが︑例えば意見広告を理由に営利企業に解散を命じることはニ一条に違反していると考えるなど︑規制の在り方によ

り考え直すなどの工夫はあり得るようにも思われる︒

さて本書では︑﹁生命権︑身体の自由︑名誉権︑プライヴァシーの権利﹂が︑明文の根拠を欠くが﹁政治参加のプロセスに不可

欠な権利﹂として挙げられ︑﹁その制約に厳格審査を適用すべき﹂︵三四六頁︶としている︒明文根拠を欠く人権が︑より具体的な

人権条項の拡張解釈というルートを経ることもなく︑明文根拠を有する一部の人権より厳格度の高い審査基準の対象になることに

なろう︒例えば自殺について著者は︑﹁政治共同体の一員としての存在を死という形で放棄することも︑最終的な市民の権利と考

えるぺき﹂︵四九三頁︶だとする︒果たして﹁殺してもらう権利までは含まれない﹂としつつ︑実際上行われ得る安楽死や尊厳死

とどう線引きするかという問題もさることながら︑生命に関する権利まで﹁政治参加のプロセスに不可欠な権利﹂と考えてよいか

には疑問が残ろう︒少なくとも死ぬ権利の保障が﹁政治参加のプロセスに不可欠﹂とは言えない筈なので︑理由づけが十分ではな

いとの印象がある︒結局ここでは政治参加の前提となる諸権利を保障したのだと考えられるが︑では実際に生きていくための経済

活動を行う自由はそうではないのだろうか︒もし政治プロセスに関わる権利だけが憲法から創造できるなら︑その根拠条文は寧ろ

個別条項ではないのか︑そしてその結果︑一三条は空虚にならないか︑などの疑問により多くの説明を希望したい︒

本書は︑﹁明文根拠を欠く基本的人権が存在する可能性は認めるぺき﹂︵三四一頁︶だとしながら︑一三条を広大かつ壮大に解釈

することはしない︒﹁二ニ条はもともと封建制の否定という趣旨で設けられた規定﹂︵=二四頁︶に過ぎないとし︑﹁直ちに一切の

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(17)

行為が自由権であるという﹂一般的自由権の立場をまず否定している︵三四三頁︶︒また︑人格的自律権説も批判され︑﹁政治参而叩

のプロセスに不可欠な権利でない限りは︑一三条から明文根拠を欠く基本的人権を創出することは許されない﹂︵三四五頁︶とす

る︒結果︑﹁裁判所が保護するに値するのは︑生命︑身体の自由︑手続的デュー・プロセスの権利︑名誉権︑プライヴァシーの権

利であ﹂って︑﹁環境権︑平和的生存権︑自己決定権などは︑そもそも憲法上の基本的人権とはいえない﹂︵三四六頁︶とする︒因

(

1 0

頁︶ことからも︑平和的生存権の権利性は否定されている(‑九三頁︶︒自己決定権につい

ては︑﹁さまざまな自由を﹃自己決定権﹄という︱つの基本的人権と捉えることそれ自体が困難である﹂し︑仮に﹁そのような権

利が認められたとしても︑それに合憲性の推定を伴った緩やかな審査以上の厳格な審査を正当化する根拠はなさそう﹂︵五七七頁︶

だとする︒ここは︑異論があれば憲法上保障される人権の中身は総入れ換えになる︑学説の重要部分である︒確かに具体的な人権

条項を単なる例示列挙に転落させかねない全くの一般的自由権説には疑問があるが︑評者は﹁政治﹂やあるべき﹁人格﹂とも異な

る幸福追求の可能性はなお残しておきたいように思う︒一三条を本書のように読めるかはやはり疑問である︒

ついでながら著者は︑﹁家族の形成・維持に関わる自己決定権やリプロダクションに関わる自己決定権は︑むしろ二四条の問題

として扱った方が適切である﹂︵五七七頁︶とも述べている︒そして︑これらは﹁政治参加のプロセスに不可欠な権利とはいえな

いので﹂﹁平等保護の観点から︑性差別については︑厳格な審査が妥当する﹂のを除き︑﹁裁判所としてはその制約を緩やかに審査

すべきである﹂︵五八0頁︶とする︒しかし著者の立場からすれば︑一三条以外の場面でも︑非プロセス的権利をにわかに拡張的

解釈によって生み出すことは︑その権利が厳格審査の対象ではないと言う前に︑忌避されるべき筈である︒このような最も﹁政治

参加のプロセスに不可欠﹂ではない場面で拡張解釈がなされることは︑本書の基本的な立場を掘り崩さないだろうか︒

加えて︑﹁生存権を保障したことを画期的なことだと﹂する殆どの学説とは異なり︑本書は︑これらの規定は﹁裁判所によって

執行されるぺき憲法の中に︑その規範性を弱体化させる危険性を組み込んだ﹂︵五五七頁︶ものだとして︑財産権などと共に否定

的に捉えている︒だが少数の貧困者に社会保障を与えることは政治プロセスに任せれば安心できるだろうか︵市川正人﹁最近の

松井茂記著﹃日本国憲法﹄

(18)

0)

﹃二重の基準論﹄をめぐって﹂立命大政策科学三巻三号三頁︑九頁参照︶︒財の配分の決定と精神的自由制約の性質の違いを考え れば︑価値相対主義と多元社会を前提にして︑超プロセス的思考を経由しないでもなお二重の基準論は正当化できなくもない︒そ の際︑緩やかな審査は決して無審査ではない︒しかも︑﹁本来福祉国家への途は憲法の中に定めるにはふさわしくなかった事項で あるし︑ましてや福祉国家の実現を裁判所によって執行されるべき国民の権利として保障したことは不幸な選択であったと考えざ

るをえない﹂︵四一頁︶︑﹁非プロセス的事項は︑本来憲法で定める必要のないもの﹂︵四七頁︶︑﹁本来政治参加のプロセスに不可欠

な諸権利だけを裁判所によって執行されるぺき権利として保障する憲法の中に︑それとなじまないような権利が挿入されたことは︑

ある意味で不幸なことであった﹂︵三三一頁︶などの表現は︑既に憲法解釈が憲法条文を超越しており︑哲学者でもカサノヴァで もない筈の解釈者の理想が優越するかのような印象を与えている︒生存権等は日本国憲法が保障すべきだから保障したのであって︑

そこが出発点でなければなるまい︵市川正人﹁違憲審査制と民主制﹂佐藤幸治ほか編﹃憲法五十年の展望

1 1 ﹄二八一頁︑三

0

一 頁

阪口正二郎﹁立憲主義と民主主義

( 1 0 )

﹂法律時報七

0

巻︱一号五八頁︑六

0

頁も参照︶︒また︑この主張の延長上では︑憲法典

には統治機構に関する条文さえあればよいか︑極端な話︑それが通常の法律で定められながらよく守られている姿を理想とするこ とになりはしないだろうか︒自然権や不文憲法の存在を否定し︑﹁憲法の条文︑歴史︑構造﹂を重視すべきだと主張してきた著者

の主張には矛盾があるという批判も受けることになろう︒仮にそれを回避しても︑

そう読み込んだにも拘わらず︑そうは読みきれない条文が多数生じることを本書が吐露したことにもなろう︒社会権規定の存在を

偏重する解釈が妥当とも思えないが︑逆に本書のような姿勢は解釈手法としても論議を呼ぼう︒

さて︑本書の中で多くの憲法学者を驚かせたであろう記述は︑選挙制度に関する部分であると想像するに難くない︒著者のこの 主張がプロセス法学の産物なのか否かについては微妙だが︑本書の全体構造に関わるので︑ここで検討することにしてみたい︒

著者は︑衆議院の選挙制度に関して︑大選挙区制︵いわゆる中選挙区制も含む︶を﹁候補者を落選させる権利はないなどの問題 があった﹂(‑四三頁︶と批判する︒それは単に立法政策上望ましくないばかりでなく︑﹁個々の候補者について再選拒否ができな

0

一見プロセスではないとさえ見える権利を相当

(19)

一五条が当然選挙権を保障して

一五条一項の趣旨に沿わない﹂(‑四四頁︶と断じて︑多くの学説がときとして小選挙区制 こそ違憲の疑いがあるとしたのと鋭く対立する︒﹁二大政党制が確立しているイギリス﹂のように︑﹁議員選挙が同時に国民による 首相の選択を意味する﹂ことを理想としているようであり︑﹁首相公選制を実現するには憲法改正が必要であるが︑各政党が選挙 に先立ち︑綱領と共に首相候補を明示して選挙にのぞむなどの慣行が確立することが求められ﹂︵ニニ七頁︶るとも述べ︑著者の 議会制民主主義モデルは明快である︒そして衆議院での議院定数不均衡問題に関しては︑原則は一対一であるとしながら︑﹁一対 ニを超えるような不均衡は︑実質的に一人に二票与えることになる以上︑いかなる理由であっても許されないものというべきであ ろう﹂(‑四四頁︶とする︒その際︑﹁伝統的な共同体の行政区画の考慮などが可能な正当化理由であろう﹂が︑﹁それを超えて︑

過疎地に過大な代表を与えること自体を正当化根拠とみることは疑問であろう﹂︵四一七頁︶と考えているのである︒

しかし︑参議院については考えがかなり異なるようである︒﹁参議院については︑衆議院とは異なる独自の存在意義を国会みず からが決定すべき﹂︵四一七頁︶であり︑そ﹁の独自性として残された可能性とすれば︑地方の代表︵例えば都道府県の代表︶と する﹂(‑六五頁︶ことだとしている︒このことと地方自治に関する記述は連動する︒連邦制度に近い認識を示し︵二八一頁︶︑憲 法﹁九二条については︑むしろ都道府県制度を前提として︑その自治権を保障したものと解した方が︑憲法のとる連邦制により近 い地方の政治制度の理念に適合的﹂︵二八四頁︶だとするのである︒しかも︑﹁現在国会の中に地方の政治制度の利益を代弁する機 能が欠けているので︑国会が地方の政治制度の権限を侵害しないよう裁判所が確保する役割は一定程度認められてもよいと考えら れる︵ただし︑もし参議院が地方の代表になった場合には︑裁判所の役割はもっと限定されてもよいであろう︶﹂︵二九

0

頁︶とも

述べ︑参議院を連邦制の上院に模す傾向は濃厚である︒議員定数に関して︑参議院については﹁憲法上その独自の存在意義が明確 にされておらず︑従って国会の裁量で独自の代表のあり方を決定することも許されるべき﹂であるから︑それを﹁都道府県代表と した場合には︑その結果生じる著しい不均衡でも憲法上は許容されているものというべきであろう﹂(‑四四頁︶と述べる点にそ れはよく現われている︒但し︑﹁国会議員などの政治権力の担い手については﹃公務員﹄として︑

松井茂記著﹃日本国憲法﹄ いような比例代表制や大選挙区制は

§ 

(20)

つを三年毎に選ぶようなスタイルが想定されているのではないかと考えられる︒

~

いるものと考えるべきであろう﹂︵四

0

七頁︶としており︑参議院の独自性を︑地方議会から選ばれた代表で構成することで達成

することは念頭にないようである︒そして︑特に限定を付すことなく︑﹁選挙民には︑国会議員を落選させる権利が保障されるべ

き﹂であり︑﹁そのような権利を否定する大選挙区制や比例代表制は憲法に反するものと考えるべきである﹂︵四一三頁︶とするの

であるから︑その趣旨は参議院議員の選挙でも貫徹すべきと考えているように思われる︒もしそうだとすると︑各都道府県一名ず

本書が日本の国会や地方制度について︑アメリカの連邦議会や連邦制をモデルにしていることは隠しきれまい︒しかし︑問題な

のは日本国憲法がこのような選挙の在り方︑国会の構成︑統治スタイルを予定しているのかである︒勿論︑この問題で議会制の母

国であるイギリスや︑日本国憲法がモデルにしたと思われるアメリカを参考にすることは否定されるぺきではない︒だが︑日本国

憲法にはそれらの国々とは異なる前提や想定︑何よりも条文上の違いがあるのではないだろうか︒﹁すべて公務員は︑全体の奉仕

者であって︑一部の奉仕者ではない﹂とする一五条二項︑﹁両議院は︑全国民を代表する選挙された議員でこれを組織する﹂とす

る四三条一項などの条項は︑全国区制か比例代表制を想起させるほどである︵市川前掲論文三

0

﹁選挙区︑投票の方法その他両議院の議員の選挙に関する事項は︑法律でこれを定める﹂とし︑四三条も定数を法律に委ねている

ことなどからすれば︑結局選挙制度については立法政策に委ねられているというのが穏当なところではないだろうか︒立憲当時︑

衆議院についていわゆる中選挙区制を禁じるべしとの議論はなかったであろうし︑そう言うべき状況もなかったと思えるし︑また

憲法制定議会は都道府県を一区とする大選挙区制で代議士が選ばれていたのである︒もし︑小選挙区制をそれでもなお憲法が規定

一五条一項の公務員罷免権を活かす途があろう︒しかし著者はリコールには否定的である︒次の選挙で落

選させる権利を保障すぺきだとしても︑その制度が小選挙区制である必要はない︒拘束名簿式の比例代表制等は許されないと言え

ば十分である︒また︑小選挙区制ではいわゆる激戦区が限定され︑候補者が党内寡頭支配で決められ︑実際上罷免権を行使できる

有権者が限られるであろう弊害もあり︑多元社会の中で二者択一を迫る選挙制度が日本国憲法に適合的だとまで言いきれまい︒

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