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「君が代」斉唱の強制と思想・良心の自由

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﹁君が代﹂斉唱の強制と思想・良心の自由

西原 博史

一 はじめに

 公立学校において児童・生徒に﹁君が代﹂を歌わせることは︑憲法上許されるのか︒本稿は︑複雑多岐な法的論

点を含むこの問題を︑特に児童・生徒および親の思想・良心の自由という観点から考察する︒もとより基本的人権

に関連する要素だけに着目するとしても︑﹁君が代﹂斉唱の強制は︑信教の自由や表現の自由など︑様々な基本的人

権と緊張関係に立つ︒ただここでは︑この問題が憲法一九条に最も本質的な形で関わるという立場から︑論点を限

定して検討を進める︒

 ﹁君が代﹂の強制が思想・良心の自由を侵害するのではないかという指摘は︑すでに一九五〇年代から繰り返さ  ︵1︶れている︒しかし︑現在の憲法学の理論水準では︑﹁君が代﹂斉唱の指導が︑思想・良心の自由をなぜ︑どのように

侵害するかに関する明確な理解が形成されているとは言い難い︒そこで本稿は︑この論点に関する議論の明確化を

早稲田社会科学研究 第51号  95(H.7).1G

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図ってみたい︒

 この問題を憲法一九条という観点から考える際にも︑二つの次元を区別する必要がある︒一つは︑﹁君が代﹂の斉

唱が︑反対する児童・生徒にまで強制された場合に︑児童・生徒の思想・良心の自由が侵害されるかという︑主観

的権利レヴェルの問題である︒仮にこれが肯定される場合にも︑反対する児童・生徒に対して退席を認めるなど︑

参加が強制されないような制度的仕組みを用意すれば︑﹁君が代﹂斉唱の指導自体はこの次元では憲法上問題ないこ

とになる︒それに対してもう一つの次元は︑反対する児童・生徒がいるにもかかわらず﹁君が代﹂斉唱の指導を行

うことが︑強制の要素を伴わなくても︑それ自体として憲法違反になるのかどうかという︑客観法レヴェルにある︒

国民の問で意見が分かれている信条的問題に関して国家が中立性を義務づけられていると考えた場合︑特定内容の

意識を子どもに積極的に植え付ける目的で展開されているように見える﹁君が代﹂の斉唱指導が︑この国家の中立

性を逸脱しているのではないかという疑念が生じ得る︒宗教の問題をアナロジーで用いれば︑強制の要素を伴う信

教の自由の侵害という問題が前者の主観的権利レヴェルの次元に置かれるのに対し︑政教分離は後者の客観法レヴ

ェルに位置つく︒

 そして︑主観的権利レヴェルにおける侵害の認定に関しても︑状況の構造的要素を考慮に取り込む必要が出てく

るために︑話は単純ではない︒学校において児童・生徒に﹁君が代﹂斉唱が強制される場合︑その直接の責任は︑

校長に属することになろう︒ただ︑そこにおける校長の直接的強制が︑文部省・教育委員会の指導に基づいたもの

であることは︑常々︑指摘されている︒仮に﹁君が代﹂指導が客観法レヴェルで問題ないとしても︑教育委員会の

指導が︑個別の事例において﹁君が代﹂の斉唱に反対する児童・生徒に対する参加強制からの解放︵退席可能性の

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保障︶を排除する意図で行われている場合︑この教育委員会の指導自体が︑﹁君が代﹂斉唱に反対する者の主観的権

利レヴェルにおける思想・良心の自由を侵害することになる︒現実の学校実務で参加強制が貫徹していることを知

りながら︑思想・良心の自由に鑑みた救済措置の必要性を指摘することなく︑ただ﹁君が代﹂を斉唱すべきことの

みを校長に対して指導する場合にも︑同様に主観的権利レヴェルにおける人権侵害を認めざるを得ない︒

本稿では︑このような観点から︑公立学校における﹁君が代﹂斉唱指導が︑憲法一九条に保障された思想・良心

の自由を侵害しないかどうかを︑主観的権利レヴェルと客観法レヴェルという二つの次元で︑検証していく︒

二 主観的権利の侵害

「君が代」斉唱の強制と思想・良心の自由

 1 沈黙の自由

 憲法一九条に保障された思想・良心の自由に関しては︑憲法学においても理論的解明がさほど進んでいない︒﹁君

が代﹂斉唱指導の許容性に関する疑念が主張されていながら︑必ずしも理論的解決を見ていない理由の一端も︑こ

れまでの一九条解釈において︑思想・良心の自由の内容が十分目明確化されてこなかったことに求められる︒

 この﹁君が代﹂斉唱との関係でまず問題とされるのが︑沈黙の自由である︒この沈黙の自由が︑思想・良心の自

由の一内容として憲法一九条によって保障されるという理解は︑一般的に採用されている︒ただ仔細に検討してみ

ると︑そこでいう沈黙の自由の内容と範囲に関して︑必ずしも↓致があるとはいい難い︒

 a 消極的表現の自由  沈黙の自由を最も広く取る理解は︑言いたくないことを言わない権利をすべて沈黙の

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自由に含ぬ罷︒この理解に従えば︑歌いたくない歌を歌わない権利も︑沈黙の自由の一環として憲法一九条によっ

て保障されることになる︒

 ただ︑この消極的表現の自由すべてを憲法一九条の保護対象とする考え方に関しては︑なぜこの消極的表現の自

由が︑憲法二一条で保障される積極的表現の自由から区別されるのかという問いが投げかけられる︒この見解は︑

一九条で保障される自由の絶対性を消極的表現にも当てはめようとする点に実益を求めるが︑むしろ論理構造とし

ては︑特定の表現をしないことも一つの表現でしかない︒歌いたくない歌を歌わない自由はもちろん憲法上保障さ

れるが︑それが単に気分として歌いたくないという理由に留まる場合にまで絶対的保障を及ぼそうとすれば無理が

生じる︒そのため︑言いたくないことを言わない自由︑歌いたくない歌を歌わない自由の憲法上の根拠は︑一般的

には憲法三条に求め潅・制約の許容性に関しては厳格な判断が必要であるものの︑制約可能性を一般的に否定

することはできないと考えるべきであろう︒消極的表現の自由全般までをも取り込もうとすることは︑沈黙の自由

の意義を希薄化することにつながる︒

 b.一内心の状態を推知されない権利  沈黙の自由を説明する際︑踏み絵の例などを意識しながら︑内心の状態       ︵4︶あるいは内心で抱いている思想・良心の内容を推知されない権利として構成していく見解が広く採用されている︒

この理解に従えば︑﹁君が代﹂斉唱が憲法上許されないのは︑﹁君が代﹂斉唱が挙行されることにより︑この歌を歌

うことに対して思想的に反対する人間が不起立︑不斉唱という特別な行為を採らざるを得なくなり︑そのことによ

って特定の思想の持ち主であることの表明を強いられることになるからだという説明になる︒そこでは︑歌うか歌

わないかの選択を強いられる点に︑すでに法的な意味での強制が認定されていく︒

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「君が代」斉唱の強制と思想・良心の自由

 確かに沈黙の自由という観念の出発点は︑国家の手によって思想・良心の内容を表明させられることに対抗する

ところにある︒特定の思想に対する法的な差別がある状態の中で︑その思想の持ち主を選別するために国民に義務

を課していくことは︑そのような思想を理由とする不利益付与それ自体とともに︑まさに憲法一九条が禁じている

ことの中核的な領域に属する︒

 ただ︑法秩序に基づく一般的義務が付量的に特定の思想との関係で受け容れられないものとなり︑それを拒否す

ることによって自らの思想を明らかにせざるを得ないような状態に追い込まれる場合に︑沈黙の自由との関係でど

う評価するのかという点に関して︑問題は単純ではない︒従来の日本の解釈論は︑思想・良心に反する行為を強制

されない権利を憲法一九条の下では否定してきたために︑この問題に直面することを回避できてきた︒しかし後述

するように︑特定行為の強制による思想・良心の侵害に対抗するためには︑ある程度は外部的行為の領域まで思想・

良心の自由の保障対象に含めていく必要がある︒そして︑ひとたび思想・良心を理由として特定の法義務を拒否す

る可能性を認めるならば︑この拒否権の発動はすべて︑思想・良心を外部に表明することを意味することになる︒

 この点に関し︑良心の自由の下で良心を侵害する法的義務からの解放可能性を認めるドイツなどの判例・学説は︑

この権利を行使することによって良心内容が明らかになることには問題がないとしている︒兵役に反対する者が良

心的兵役拒否権を行使することによって︑戦争における人殺しを非とする良心内容を表明せざるを得ないからとい

って︑兵役制度全体が沈黙の自由に反して憲法違反とされるわけではない︒兵役を拒否する権利を認めることで︑

良心の自由との関係では十分とされている︒解放可能性で足り︑信条を表明せざるを得ないことによる制度の非許

容性という結論は採られていない︒

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 そもそも︑何らかの思想的・良心的な立場から特定状況で受け容れられないものと感じられる可能性がある法規

範ということでは︑国民個人を名宛人とするすべての法律がそれに該当する︒このように考えれば︑自分が抱いて

いる思想・良心の内容が明らかになるような場に立たされない権利として沈黙の自由を構成することには︑現実上︑

困難が多いと考えざるを得ない︒

 c 特定思想の表明を強制されない権利  沈黙の自由という概念の用い方としてもう一つ︑自分が抱いている

のと異なる思想・良心を表明させられることに対抗する権利としてこの自由を理解することを通じて︑自らの思想.      ︵5V良心から受け容れられない表明を強制されない権利という意義を認める可能性がある︒こう考えるなら︑﹁君が代﹂

斉唱指導は︑天皇の支配する時代が永続することを願う意思の表明を迫る点において︑そのような思想を持たない

児童・生徒の思想・良心の自由を侵害することになる︒

 沈黙の自由のこうした理解は︑判例の上ではすでに確立している︒自分の本心に反して陳謝︑謝罪といった言葉

を用いることによって良心が侵害されるとの主張をめぐる謝罪広告事件最高裁判決︵最大判一九五六年七月四日民集

一〇巻七号七八五頁︶においては︑謝罪広告の強制が許されないとした藤田︑垂水両裁判官の反対意見はもとより︑

謝罪広告の掲載強制は良心の自由を侵害しないとした法廷意見も︑こうした意味における沈黙の自由の成立可能性

を前提に置いている︒

 ただ︑この見解で問題にすべきは︑なぜ表現という行為に限って︑自らの思想・良心に反する場合に憲法一九条

による保障の対象になるかという点である︒むしろ体系的には︑この意味の自由は︑思想.良心を理由とする不利

益付与を背景にしながら内心の状態を推知しようとすることを国家に禁じる沈黙の自由という枠組で扱うよりも︑

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内心における思想・良心を侵害する行為を強制されない権利が憲法↓九条に含まれるとする立場を採りながら︑そ

うした思想的・良心的行為の自由の一環として位置づけていった方が整合性が取りやすいものと思われる︒新聞記

者の取材源についての証言拒否に関わる︑いわゆる石井記者事件︵最大判一九五二年八月六日刑集六巻八号九七四頁︶      ︵6︶が︑沈黙の自由に関する事例でもあったと捉える立場に関しても︑このことは妥当する︒

「君が代」斉唱の強制と思想・良心の自由

 2 思想・良心的行為の自由

 a 思想・良心の存在態様  ここで︑思想・良心の自由という基本的人権が︑日本国憲法の人権体系の上でど

のような位置にあり︑どのような機能と任務を負っているのかを考えてみたい︒

 この自由権を保障する憲法一九条が︑精神的自由権の総則的規定としての役割を果たしていることは︑広く認め   ︵7︶られている︒思想・良心の自由は︑まさに人間の精神活動の中核に関わり︑入間が個人として自律した生活を送る

ための基礎を確保する意義を有する︒そこからも明らかなとおり︑思想・良心は︑自律の基礎として自らの行為を

統制し︑また思想的基盤として自分の知的活動を統合するなど︑外部的行為と密接な関連を持つ︒

 この憲法一九条でいう﹁思想・良心﹂の意義については︑従来︑内心説と信条説の対立という図式で整理されて

きた︒ただ︑いずれの見解も︑憲法一九条の保護対象を心の内部の静態的な実体と捉え︑外部的行為との関連を遮      ︵8︶断している所に問題を孕んでいる︒﹁思想・良心﹂を︑信仰に準ずべき世界観・人生観等の信条に限定する信条説の

場合︑倫理的判断等を﹁思想・良心﹂から排除する点に独自性を有するが︑﹁是非弁別の判断﹂を通じて外部的行為

の領域に影響を持つことによって思想・良心が活動することに憲法上の保障を及ぼせない解釈では︑思想・良心の

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自由を保障しようとする憲法の意図は実現できない︒他方︑内心の精神活動すべてを﹁思想・良心﹂に包括する内

甑謝を採る場合︑特定の外部的行為だけに思想・良心との関連を認めることは背理となり︑憲法一九条を心の内面

だけに関わる人権保障と捉えざるを得なくなる︒いずれの場合も︑﹁思想・良心﹂とされるものは︑外部的行為との

関連を切断され︑内心領域に閉じ込められる︒

 しかし︑外部的行為の規制は︑内心における思想・良心に影響を及ぼす可能性があり︑憲法一九条の解釈も︑そ      ︵10︶のことを前提としなければならない︒ここでは︑憲法一九条が心の内面における思想・良心を法的に不可侵として

いるとの出発点から︑その思想や良心を︑それぞれ知的・論理的側面と︑倫理的側面において︑アイデンティティ

ーの方向性を規定する形で個人の自律の基礎となるような精神作用と捉え︑この思想・良心が外部的行為と分かち       ︵11︶難く結びついていることを前提とする︒

 b 思想・良心の自由を保障することの意義  このように考えれば︑日本国憲法が思想・良心の自由を保障す

るこどの意義が明らかになる︒この意義は︑明治憲法下で治安維持法等を通じて内心における思想そのものに対し      ︵12︶てまで法的規制が及んでいたことに対する反省という定式で説明し尽くせるものではない︒

 むしろ︑思想・良心の自由の意義は︑個人の自律可能性の保障という︑基本的人権の根本原理に遡る︒一三条で

個人の尊重を出発点とする日本国憲法の人権体系は︑個人の自律可能性を法的に保障するという統一的な目的に資

する制度と理解できる︒そのような理解を基礎に置けば︑精神的自由権は︑個人が一人ひとり自分らしい生き方を

追求する場合に不可欠な精神活動を支えるものとなるし︑その総則的規定として憲法一九条で保障された思想.良

心の自由は︑精神活動が一貫的な形で展開するための基盤を確保し︑個人の自律の条件を保障する意義をもつ︒一

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「君が代」斉唱の強制と思想・良心の自由

人ひとりの個人が︑自分らしいの生き方を模索する上で︑自分なりの知的体系と自分なりの倫理的規準を形成し︑

内面化していくが︑思想・良心の自由は︑こうした精神作用そのものの不可侵性を確保することを目的とする︒

 c 思想・良心に基づく行為の自由  このような人格の核心領域としての精神活動に対する自由の保障という

構図は︑良心の自由との関係では︑ドイツの憲法学において理論化が進んでいる︒そこでは︑基本法四条三項で保

障された良心的兵役拒否権に関し︑﹁良心的﹂なものの定義が問題になった連邦行政裁判所の先例以来︑良心の決定      ︵13︶に反して行動させられた場合には︑倫理的人格が破壊され得ることが出発点となっている︒この認識を踏まえるな

らば︑良心の自由の主要な意義は︑法律によって課された義務を果たすことが良心の命令を踏みにじるような法と

良心の衝突状況において︑個人に対する法的義務の強制を回避することを通じて︑国家権力の侵害によって個人の      ︵14︶内心における良心が崩壊することを防ぐ点にある︒

 日本の一九条解釈論でも︑外部的行為の領域に思想・良心の自由の保障を及ぼす必要性は︑すでに指摘されてい

る︒内心における思想・良心を侵害するような外部的行為の規制が許されないとする見解は︑すでにかなりの広が     ︵15∀りを見せている︒また︑それを越えて︑欧米における良心的兵役拒否権の保障などを念頭に置きながら︑良心に反

する義務を課されない権利という形における良心的行為の自由を憲法一九条の保障対象に取り込む見解も唱えられ

  ︵16︶

ている︒

 前述のように︑沈黙の自由という論点の下で思想・良心に反する表現行為を強制されない権利を構成する立場が

それなりに受け容れられている︒そうした構図で主張されていた問題意識の中にも︑実はこの思想的・良心的行為

の自由という枠組で整理した方が整合的なものが含まれる︒それを考えれば︑思想・良心に基づく行為の自由とい

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う考え方は︑実はこれまでの日本の憲法学でも異質なものではない︒もとより︑思想・良心に従ってさえいれば何

をしてもいいという形でこの思想・良心に基づく行為の自由を理解することは不可能であろう︒ただ︑思想・良心

を侵害する法的義務を強制された場合に︑自らの一貫的人格が国家の手によって破壊されることになるような事例

で︑そうした法的義務を拒否する権利があると考えなければ︑個人の自律の基礎となる精神活動の保障としての思       ︵17︶想・良心の自由は︑本来の役割を果たし得ない︒

 d 思想的・良心的行為の自由と﹁君が代﹂  特定の行為を義務づける公権力作用が︑個人の思想・良心を破

壊するような侵害的効果を持つかどうかは︑当事者となる個人の思想・良心の内容によって決まってくる︒通常は

義務の衝突を引き起こすことのないような法律の規定でも︑特定の状況で個人に思想・良心に反する義務を課すこ

とになる可能性は排除できない︒通常は良心的葛藤を引き起こさないであろう格闘技の履修を︑宗教的な良心に反

することを理由として拒否した事例において︑大阪高裁は︑憲法二〇条の信教の自由に基づきながら︑そうした良

心的葛藤を回避するための代替措置を講じる義務が学校にあったと判断した︵大阪宿借一九九四年一二月二二日着陣

八七三号六八頁︶︒

 ﹁君が代﹂斉唱の指導が︑思想・良心の自由との関係でどのような意味を持つかという問題も︑問題を主観的権

利レヴェルの思想的・良心的行為の自由という枠組の下に置く限り︑この指導を受ける﹁人ひとりの子どもがどの

ような思想.良心を持っているかにかかっている︒そのため︑一般論として﹁君が代﹂斉唱指導が思想的・良心的

行為の自由を侵害するか否かという問題設定は︑それ自体として不可能ということになる︒ただ︑可能性の問題と

して︑﹁君が代﹂斉唱の強制は特定の国家像︑特定の形をもった﹁愛国心﹂の表明を強いるものであり︑それと異な

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る信条をもつ者に対して︑内心の思想・良心を侵害する働きを果たし得ることは否定できないであろう︒そのため︑

﹁君が代﹂斉唱が自らの思想・良心を侵害するとの立場を採り︑その蓋然性を申告する者に対しては︑﹁君が代﹂斉

唱が強制されてはならない︒儀式や授業への不参加可能性が保障される必要がある︒

 もちろん︑この思想的・良心的行為の自由といえども︑絶対的な保障を要求できるわけではない︒どうしても公

権力が実現しなければならない目的を果たす唯一の手段として︑この思想的・良心的行為の自由に対する規制が正

当化される場合はあり得る︒しかし︑そうした正当化理由がない場合︑思想・良心に反するために﹁君が代﹂斉唱

を義務づける学校の措置には従えないとする児童・生徒に対しては︑そうした指導が貫徹されることがあってはな

らない︒

「君が代」斉唱の強制と思想・良心の自由

 3 思想・良心形成の自由

 a 教育的措置としての﹁君が代﹂指導  学校における﹁君が代﹂斉唱の指導は︑そうした指導を指導してい

る文部省の論理では︑教育上の効果を狙いとする︒このような教育上の目的は︑思想・良心に反する儀式への参加

強制を正当化するのであろうか︒

 確かに︑児童・生徒と学校の関係は︑伝統的な構図で整理した場合︑法律に基づく侵害行政の領域にあるわけで

はなく︑憲法二六条に規定された教育を受ける権利を実現するために︑公権力が給付を行うものと位置づけられる︒

しかし︑だからといって教育を受ける権利への配慮は︑在学関係の内部において思想・良心の自由に対する侵害を

全面的に正当化し︑児童・生徒の人権の主張を排除するものではあり得ない︒この点に関連して最高裁は︑﹁個人の

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基本的自由を認め︑その人格の独立を国政上尊重すべきものとしている憲法の下においては︑子どもが自由かつ独

立の人格として成長することを妨げるような国家的介入︑例えば︑誤った知識や一方的な観念を子どもに植えつけ

るような内容の教育を施すことを強制するようなことは︑憲法二六条︑一三条の規定からも許されない﹂としてい

る︵最大判一九七六年五月二一日刑集三〇巻五号六一五頁﹇旭川学テ事件﹈︶︒この法理は憲法一九条との関係においても

当然成り立ち︑子どもの信条を破壊したり︑あるいは偏った信条を一方的に植え付けるような作用は︑たとえ教育

を受ける権利に配慮する中においてであっても︑国家に禁じられている︒

 他方︑教育は受け手の思想・良心に必然的に影響を及ぼす︒従って︑国家が国民の思想・良心に何らの影響力も

行使してはならないと考えるならば︑公教育自体が成り立たないことになろう︒そのため問題は︑教育的措置とし

て展開される学校の行為が︑教育の受け手である児童・生徒の思想・良心の自由との関係で︑どの範囲まで及び得

るかという点にある︒

 b 教育的措置と思想・良心形成の自由  この問題に答える際の出発点は︑憲法一九条が思想・良心形成の自

由をどこまで保障しているのかという問いにある︒この点︑思想・良心の自由が思想・良心形成の自由を含むこと

については︑学説上一般に承認されている︒これに基づき︑﹁政府が一定の思想又は世界観を勧奨若しくは誹誘・抑       ︵18︶圧することは慎重でなければならない﹂ことが帰結され︑また︑﹁国家権力が特定の思想や価値観ないし事物の是非・

善悪の判断を正統的なものとし︑国民に対してそれに従うべきことを強制することは︑本条によって当然に禁止さ

︵19︶れる﹂ことになる︒

 その際︑学校教育の枠組の中で︑どのような場合に思想・良心形成の自由を侵害する強制が生じることになるの

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「君が代」斉唱の強制と思想・良心の自由

であろうか︒教育の受け手の良心の自由との関連で︑学校に許される教育的働きかけと︑憲法上禁じられた侵害と

の境界線に関する理論化を進展させているドイツ憲法学の成果によれば︑↓面的なイデオロギー的教化が行われ︑

国家が要求する信条以外を排除する構造が支配する場合に︑個人の良心形成はもはや自由とは言えないと評価さ

︵20︶れる︒生徒の良心の自由に配慮するならば︑公立学校で伝達される価値観は︑絶対的なものとして選択の余地なく

生徒に強制されてはならず︑生徒が自ら選択をなすための素材を提供する意義を持ち得るに過ぎない︒生徒の良心

形成の自由は︑教育の偏向を排除し︑教育内容の中立性を要求する︒このイデオロギー的教化の禁止という意味で

思想・良心形成の自由が持つ一般的な意義は後述する客観法レヴェルに位置つくが︑ここでは主観的権利レヴェル

の問題に答えるための前提として︑教育を受ける権利を実現するための公教育の中でも︑特定の信条を強制するこ

とそれ自体を目的とする公権力の働きかけは︑憲法上正当化されないことを確認しておきたい︒

 c 子どもの思想・良心の自由と親の思想・良心の自由  思想・良心形成の自由という構図を前提に︑子ども

の思想・良心の形成にあたって国家が特定の信条を植え付けることを狙いとする介入を行えないとした場A口︑そう

した側面における子どもの教育に対しては︑誰が責任を負うことになるのであろうか︒人間個人における思想・良

心の形成は︑自然発生的な過程ではない︒道徳や信条の領域でも自らの特性にあった学習機会の保障を求めること

は︑子どもの当然の権利といえる︒しかし︑国民の思想・良心の自由を保障するという決断を下した国家は︑この

責任を自ら引き受ける能力を有していない︒思想・良心という精神活動の基盤の形成は︑非国家的領域に委ねられ

る︒ こうした領域において︑子どもに学習機会を保障する責任は︑第一次的には親に委ねられていると考えられる︒

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ドイツでは︑基本法六条二項が明文で親の教育権を基本権として定めているため︑このような理論構成は自然に出

てくるが︑日本国憲法の下でも︑書かれざる基本的人権としての親の教育権を理論的に措定することは可能であろ

う︒最高裁も︑﹁親は︑子どもに対する自然的関係により︑子どもの将来に対して最も深い関心をもち︑かつ︑配慮

をなすべき立場にある者として︑子どもの教育に対する=疋の支配権︑すなわち子女の教育の自由を有する﹂︵前掲

旭川学テ事件判決︶ことを確認する︒特に思想・良心に関係する領域では︑この親の教育権は︑自らの思想・良心を

子どもに伝達する権利として︑憲法一九条によって直接に保障されていると考えることもできるであろう︒個人の

思想・良心の自由を選んだ日本国憲法の決断は︑その領域における国家の原理的無能力を選び取っており︑同時に︑

親を中心とした︑国家的領域とは区別された市民社会内部において子どもの信条が形成される状態を保障すること

を国家に義務づけている︒

 このような親の思想・良心の自由を背景にした子どもの信条に対する働きかけは︑子どもが独自の思想・良心を

獲得七︑自ら選んだ方向に思想・良心を発展させていこうとする段階で︑子ども自身の思想・良心の自由と対立す

る︒そのため︑子どもが成熟性を獲得するに従って︑親の思想・良心伝達の自由は子どもの思想・良心の自由によ

って制約され︑最終的には子の成年をもって法的には終了することになろう︒ただ︑親子間の内部的関係における

そうした問題とは別に︑対国家の関係においては︑親と子の思想・良心の自由の原則的一致を想定することができ

る︒国家が子どもの思想・良心の自由に対して干渉する場合︑子どもが独自の思想・良心を形成していく程度に従

って︑初期には親が子の思想・良心の発達に礎石を置く権利に基づき︑そして次第に同じ方向の思想・良心を形成

することに対する親と子の重層的な権利に基づき︑そして最終的にはすでに独自の方向に歩み始めた子どもの思

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「君が代」斉唱の強制と思想・良心の自由

       ︵21V想・良心の自由に基づき︑妨害排除を要求することができる︒

 d ﹁君が代﹂斉唱指導と思想・良心形成の自由  このような親と子どもの思想・良心形成の自由を考えた場

合︑学校は︑﹁君が代﹂の指導が教育的措置であることを指摘することによって︑反対している親・子どもを含んだ

児童・生徒全員に対する斉唱の強制も憲法一九条には反しないと主張することはできない︒子どもが人格形成途上

であり︑すでにある程度形成された思想・良心を持っていないとしても︑学校の措置を親と子どもが思想・良心の

自由に訴えて拒否することに問題はない︒

 このように考えれば︑﹁君が代﹂斉唱を強制されることが自らの思想・良心を破壊し︑あるいは自由な思想・良心

の形成を妨げると感じる児童・生徒やその親がいた場合︑そうした者に対して強制を貫徹することが憲法一九条に

反することが明らかになる︒少なくとも︑事前の申し出によって思想・良心への侵害状況が想定できる児童・生徒

に対しては︑不参加の可能性が制度的に保障されなければならない︒

 4 不参加可能性の保障

 a 参加拒否権  主観的権利レヴェルの問題に限定するならば︑﹁君が代﹂斉唱が思想・良心に反すると申し出

る児童・生徒に対して不参加の可能性が保障されることが︑そうした授業や儀式を学校で行うことの前提となる︒

どのような場合にも︑反対する児童・生徒に対して斉唱が強制されることは許されず︑歌わなかったことによる処

罰や不利益付与は憲法上禁じられる︒ただ︑﹁君が代﹂の拒否によって法的な不利益がないことが保障されただけ

で︑不参加の可能性があるのだから﹁君が代﹂斉唱指導は全体として思想・良心の自由を侵害しないと評価できる

91

(16)

のであろうか︒この点に関しては︑学校において親と子どもの良心の自由を保障する上で様々な具体的状況を扱っ

てきているドイツの学説・判例の中から︑不参加権が保障されたと言えるための基準として︑二つの条件を析出す

ることができる︒

 b 不参加選択の期待可能性  不参加の可能性を法的に保障したと言えるためには︑子どもがその選択肢を利

用することに関する実質的な障害があってはならない︒﹁君が代﹂斉唱に参加しないということは︑全員が起立して

斉唱する中で︑退席するか︑あるいは不参加の意思を表示しながら座ったままでいるという特別の行動を採ること

を意味するが︑そのような形で﹁目立つ﹂ことによって事実上の不利益が予測される場合には︑不参加の可能性が

保障されているとは評価できない︒

 もとより︑基本的人権の保障は︑基本的人権を行使する市民的勇気からの自由を意味せず︑思想・良心に基づく

行為の自由を行使することによって生じる多少の精神的負担は︑この自由を行使する側で負うべきものとなる︒し

かし︑︑学校における権力主体としての教師による事実上の制裁︵いわゆる嫌がらせ︶が予測されるような場合には︑

児童・生徒が自発的意思に基づいて不参加を選択することは著しく困難になる︒また︑﹁君が代﹂拒否によって周囲

の児童・生徒から排除されるなど︑いじめの対象になる可能性が想定できる場合にも︑不参加の選択には過度の負

担が伴うことになる︒      ︵22V ドイツの公立学校における授業外の祈禧に関する連邦憲法裁判所の一九七九年一〇月一六日判決でも︑この点が

問題になった︒結論的には︑考えの異なる者に対する寛容が教育目標として学校に浸透しており︑祈禧を拒否する

生徒がいる場合にも︑多数者と異なる信条に対する尊重に向けた教師の働きかけが期待できるドイツの状況を指摘

92

(17)

「君が代」斉唱の強制と思想・良心の自由

して︑連邦憲法裁判所は︑型置を拒否する生徒がクラスから排除される危険は通常は恐るに足りないと認定し︑そ

うした危険があるために祈禧の実施そのものが学校においては禁じられるべきであるとする訴願人の主張を退けた︒

その際︑ここで問題となったのが︑正規の授業活動の外における︑完全な自発性を基礎とする生徒と教師の宗教活

動を学校が許可することが憲法違反になるかどうかという点であり︑学校が権力的に個人の信条に関わる特定の行

為を命令する﹁君が代﹂斉唱の問題とは異なる次元に位置つくものである点には注意を要するであろう︒

 有力な学説は︑こうした判例に批判的な立場を採る︒ポートレッヒは︑生徒が仲間はずれの役割に追いやられて

損害を被るかなりの蓋然性がある場合︑学校祈疇は許されないとした︒逆に言うと︑﹁学校祈禧が許されるのは︑参

加.不参加から生徒に精神的その他の不利益が生じないことが十分確実な場合のみである﹂とされる︒後に連邦憲

法裁判所の判事に就任するベケンフェルデもこの基準を採用し︑祈禧を拒否しても不利益が生じないことの挙証責        ︵23︶任を国家の側に求める︒

 特に﹁君が代﹂斉唱のように︑学校がその責任において︑国民の間で信条の問題として意見が分かれていること

の明らかな︑世界観的含意を有する儀式を挙行する場合︑不参加による不利益がないことが十分に確保されていな

ければならない︒この点は︑単に教師と生徒がそれぞれ一個人として関わる学校祈禧の場合よりも︑国家の側に大

きな責任が課せられると考えるべきであろう︒少なくとも﹁君が代﹂斉唱が学校で許されるためには︑ドイツの判

例で当然の前提条件となっていたように︑教師が﹁君が代﹂に関して意見の対立があり︑信条の問題として歌わな

い人達の考え方にもきちんとした根拠があることを紹介し︑児童・生徒の中にその問題に関する意見の対立があっ       93たとしても相互に尊重しなければならない旨働きかけることが必要となる︒

(18)

 c 事前の通知と不参加権の告知  ドイツの学校祈疇に関する判例は︑実施の条件となる自発性の確保に関し       ︵24︶て︑もう一つの基準を設定した︒連邦憲法裁判所判決に先立つ連邦行政裁判所の一九七三年=月三〇日判決では︑

祈禧が行われるという事実と︑その祈禧に対して基本権の問題として参加しない可能性があるという点が︑宗教的

成熟性を有しない子どもの場合には教育権者に︑通知されなければならないとした︒この基準は︑前述の連邦憲法      ︵25︶裁判所判決に︑学校祈濤が憲法上許容され得る条件として︑そのまま採用される︒

 親が知らないままに子の思想・良心形成に対する働きかけがなされることは︑親の権利に対する重大な侵害状況

となり得る︒また子どもも︑不参加の憲法上の可能性を通知されなければ︑仮に抵抗感を持ったとしても︑多くの

場合には教師の権威にそのまま従うことになるであろう︒教師の権威を背景に通常の教育活動が展開する場という

学校の特殊性のため︑﹁君が代﹂斉唱に対する不参加の可能性が法的に保障されていると言い得るためには︑親など

と相談しながら自由な環境の中で意思決定できるだけの時間的余裕をもって︑児童・生徒が不参加権を有すること

が伝達される必要がある︒

 主観的権利レヴェルでは︑﹁君が代﹂斉唱が︑思想・良心の問題として拒否する児童・生徒に強制された場合に

は︑直ちに憲法違反という結果を生む︒ここで検討した︑不参加選択の期待可能性と︑不参加可能性の通知という

二つの基準は︑﹁君が代﹂斉唱への参加が本人の自発的意思に基づくものであることを確保する条件となる︒従っ

て︑これらの条件が十分に満たされていない所では︑違法な強制状態が発生することになる︒児童・生徒が不参加

を選ぶ可能性を十分に整った形で制度的に構築することなく﹁君が代﹂斉唱が行われれば︑そうした儀式の挙行自

体が︑思想・良心の自由を侵害する違法な強制を含むものとして︑憲法違反となる︒

94

(19)

三 客観法的な違法性

「君が代」斉唱の強制と思想・良心の自由

 1 国家の信条的中立性

 a 客観法レヴェルの問題  国民個人の思想・良心の自由を保障する国家は︑特定の思想︑道徳︑世界観を︑

それ自体として﹁正しい﹂ものであると信奉する資格をもたない︒これは︑信教の自由を保障する国家が︑この自

由を完全に保障しようと思った場合に︑唯一﹁正しい﹂宗教とそうでない宗教の区別をする資格がないのと同様で

ある︒その意味で国家は︑信条的中立性の義務を課されている︒

 この客観法レヴェルにおける問題は︑学校における﹁君が代﹂斉唱の指導が︑この国家の信条的中立性との関係

でどのように評価されるかに関わる︒﹁君が代﹂の斉唱を指導すること自体が︑特定の国家像を子どもに受け容れさ

せ︑その特殊な﹁国家﹂に忠誠心を持たせようとする働きかけとしての意義をもつ︒ただ︑個入が自らの属する国

家に対してどのような関係を形成するかは︑個人一人ひとりの問題であり︑実際にも個人ごとに異なる形で立場決

定がなされている︒そのような中で︑﹁君が代﹂の斉唱指導が︑有無をいわせずに特定の国家観を児童・生徒に植え

付けることを狙って学校で行われるのであれば︑そのような公権力の働きかけが︑信条的中立性を義務づけられた

国家に許された範囲を越えているのではないかという疑念が成り立ち得る︒

 主観的権利レヴェルにおいては︑﹁君が代﹂斉唱指導が思想・良心の自由を侵害するか否かの問題は︑その指導を

受ける具体的な児童・生徒およびその親の立場に依存する︒そこでは︑個人が思想・良心の自由な形成に対する妨

95

(20)

害や︑思想・良心を侵害するような行為義務を感じ取るかどうかが問題になり︑﹁君が代﹂を歌うことに特に問題を

感じない児童・生徒との関係では︑憲法上の問題は生じない︒それに対して︑この客観法レヴェルにおいては︑指

導を受ける具体的な児童・生徒の意図とは無関係に︑そして実際に強制が行われるか否かとは独立して︑公権力に

課された憲法上の義務に学校が反していないかどうかが問題になる︒

 b 思想・良心形成の自由と国家の信条的中立性  前述のように国民の思想・良心形成の自由を保障する中で︑

国家は︑国民の間で様々な見解が成立してくるような思想・良心の対象となる問題に関して︑中立性を義務づけら

れる︒国家の側から一定の立場を﹁正しい﹂ものとして提示する判断権は︑思想・良心の自由を保障するために中

立を義務づけられている国家にはないはずのものである︒そのため︑個人の信条に関わるようなテーマに関しては︑

原則として親を中心とした市民社会の側が国家・学校に優先して子どもに対する教育権を有する︒学校にできるこ

とは︑子どもが自律的に判断を行うために選択対象となり得るような素材の提供だけであって︑様々な考え方のう

ちでゼれが正しいかを決めるのは︑児童・生徒自身︑あるいは親の任務となる︒

 このような考え方に基づいてドイツでも︑学校の倫理的・世界観的中立性が語られる︒シュタインは︑﹁生徒に︑

最も重要な思想的潮流のバランスの取れた横断面を提供する﹂学校の義務を語り︑様々な立場の並列的な紹介に教

        ︵26︶

師の任務を限定する︒こうした考え方は︑﹈方で後述するようにイデオロギー的教化を学校に禁じ︑寛容な授業を

求める方向で理論化される︒同時にもう一方で︑学校が特定の立場を採った場合でも強制を許さない寛容の原理の

問題とは別に︑そもそも学校が特定の立場を採ること自体が許されるのかどうかという︑厳密な意味での国家の中

立性が妥当する範囲が問題となる︒

96

(21)

「君が代」斉唱の強制と思想・良心の自由

 c 中立性の例外としての憲法核心  学校における教育作業に︑およそあらゆる価値観が入り込んではならな

いとする議論は︑現実的ではない︒教育というものは︑知識伝達を中心に理解するとしても︑一定の教育目標に向

かって子どもを導く作業としての側面を持つ︒自律的な判断能力を有する成熟した市民という︑公教育の一般的理

念にしても︑特定の価値観を体現したものでしかあり得ない︒

 そのような中で︑国家機関が同↓化できる価値である憲法上の価値決定が︑学校の中でも重要性を持つ︒前述し

た信条の相互的尊重にしても︑あるいは集団生活を営む上での互いの自由・平等といった基本的人権の尊重にして

も︑憲法の承認する価値観に直接根差している限りにおいて︑中立性の例外として学校・教師が児童・生徒に対す      ︵27︶る働きかけをしていく上で手がかりとし得るとされる︒授業の領域でも︑民主主義の担い手としての市民の育成と

いう学校教育の方向性は︑この中立性の縛りを越えて︑価値としての憲法核心を子どもに伝達していくことを通じ

て追求される︒

 ただ︑この憲法上の価値決定からどの範囲で学校が依拠できる価値観が引き出せるかに関して︑話は単純ではな

いことがドイツの議論でも確認できる︒憲法上の価値を手がかりに入学的教育の要素をもつ領域に学校が踏み込む       ︵28︶必要性を一旦認めるならば︑憲法が前提としている価値に関する一定のコンセンサスを同時に取り込まざるを得な

いが︑学校がコンセンサスとして国民の間で共有されている立場を↓方的に認定し︑それを子どもに伝達すること

が正当化されれば︑信条に関する国家の中立性を語る意味が根底から覆されるからである︒それを避けようと︑狭      ︹29︶い範囲の憲法核心の伝達を離れた領域で︑学校の任務を厳密に知識伝達に限定しようとしても︑伝達すべき知識の

選択自体が特定の価値を反映するため︑中立性が貫徹できなくなる︒いずれにしても︑憲法上の価値の伝達や知識

97

(22)

伝達のための素材選択の中で︑憲法かち引き出せない価値観の伝達が付随的に発生することを避けられないことま

で考慮に入れれば︑国家の中立性は学校において厳密には実現できないことを承認せざるを得ない︒

 d 国家の道徳的権限の否定としての中立性  そもそも国家の様々な政策運営は︑イデオロギー性を離れた何

らかの目標を追求していても︑結果として特定の価値の実現に向けて国家が活動していることを意味する︒そのよ

うな意味で︑国家が特定の価値と同一化する効果を持つことを排除するという意味で捉えるならば︑国家の価値観

的中立性は︑実現困難な原理となる︒

 むしろ国家の中立性が本来の意味を展開するのは︑付随的に特定価値を体現してしまうような領域ではなく︑国

家の目標選択に関わる場面であろう︒国民の生命を守るために殺人を犯罪化し︑その限りで﹁人を殺すことは悪い

ことである﹂という道徳的命題にコミットするのは︑国家としては当然果たすべき任務であるが︑道徳的命題を実

現することそれ自体を目的とした活動を行うことは︑国家の中立性に抵触することになる︒典型的には︑いわゆる

被害者なき犯罪の処罰は︑それが特定価値観を実現することだけを理由とするならば︑国家の信条的中立性に反す

ることになろう︒

 このように︑特定内容の道徳やイデオロギーを実現することに向けた目標設定を国家に禁じる原理的な規範とし

ての国家の信条的中立性は︑学校の領域においてもやはり重要な意義を展開する︒思想・良心の問題として様々な

考え方がすでに存在する中で︑社会の道徳的な同質性を形成することは︑学校の任務ではない︒子どもが判断能力

を有する自律的な人格へと成長することを援助するのではなく︑子どもの思想内容・良心内容に直接働きかけて︑

特定内容の道徳やイデオロギーを教え込むことそれ自体に向けた教育が行われるならば︑それは客観法的な憲法規

98

(23)

      ︵30︶範としての国家の中立性に反し︑憲法上許されないことになる︒﹁君が代﹂の指導が︑国民に特定内容の愛国心を持

たせることを目的に行われるなら︑﹁正しい﹂愛国心の内容を決定できない国家としては︑越権行為となる︒

「君が代」斉唱の強制と思想・良心の自由

 2 寛容の原理とイデオロギー的教化の禁止

 a 寛容な学校を求める基本権  中立性の原理を学校の中で厳密に貫徹することには限界があるとしても︑こ

の中立性に関する問題意識は︑国家の目標設定を限定する原理的規範としての意義と並び︑寛容を要求してイデオ

ロギー的教化を排斥する方向で︑ドイツの議論の中でも具体的な成果につながっている︒これを典型的な形で定式

化したのが︑オッパーマンの提唱した﹁イデオロギー的に寛容な学校を求める親と子どもの基本権﹂で五罷︒こう

した考え方は︑一九七七年一二月二一日の性教育に関する判決で連邦憲法裁判所によっても採用され︑﹁学校は︑特

定の性的行動を擁護したり否定したりする目的で生徒のイデオロギー的教化を行ってはならない﹂という原則が打

ち立て紀罷・もちろん・の原理は・性教育を離れ・特定の行動を唱道すること一般に対して向けら鶴罷・オッ

パーマンはこの﹁イデオロギー的に寛容な学校を求める基本権﹂を︑良心の自由や親の教育権をはじめとする様々

な基本権を一緒に見ることのうちに位置づけたが︑日本の条文構造を踏まえた場合︑この権利は思想・良心形成の

自由との関係で︑憲法一九条から直接引き出すこともできる︒

 こうした考え方に基づき︑国家・学校は︑特定の立場を受け容れさせるために︑選択の余地なく一面的に一つの

立場だけを提示することを憲法上禁じられている︒国民の間で見解の対立がある場A口には︑選択肢を選択肢として

提示し︑最終的な判断を子どもの側に委ねることが必要となる︒こうした寛容の原理は︑まさに中立性の原理が一

99

(24)

定の限界を持たざるを得ず︑その限りで学校の中にも価値観を伴う要素が入り込んでくるため︑そうした価値観が

子どもに対して一面的に強制されないことを保障するために︑重要な意義を担うことになる︒中立性の原理が国家

の働きかけの目的を統制するのに対して︑寛容の原理は︑付随的に価値観を含み込んだ素材にまで対象を拡大しな

がら︑国家の働きかけのあり方を問題にする︒

 特に﹁君が代﹂斉唱の指導のように︑信条告白を反復させることを通じて無意識下で特定の信条的立場を強制す

る可能性のあるものについては︑イデオロギー的教化の疑念が強い︒自分が所属する国家との関係についても︑何

らかの形において学校で扱うならば︑どのような立場を形成することにどのような意味があるのかを常に意識し︑

様々な選択肢を踏まえる必要がある︒現実に国の愛し方がいろいろある中で︑﹁君が代﹂斉唱の指導が児童・生徒に

反省の余地を与えずに特定内容の﹁愛国心﹂を押しつける意味を持つならば︑イデオロギー的教化と評価せざるを

得ないことになる︒その場合には︑具体的に﹁君が代﹂斉唱に反対を唱える児童・生徒や親がいなくとも︑客観法

レヴェルにおける国家の義務違反として︑直ちに違憲という結果が生じる︒何らかの形でその違憲な活動に巻き込

まれて権利侵害を受けた当事者がいれば︑この客観法的な違憲性は︑裁判の上でも確認できる︒

 b ﹁君が代﹂斉唱指導とイデオロギー中立的目的  最後に問われるべきは︑果たして﹁君が代﹂斉唱の指導

が︑国家の中立性によって禁じられるイデオロギー実現それ自体︑児童・生徒に特定の信条を植え付けることそれ

自体に向けた方向性以外の︑合理的に説明できる目的を持っているのかどうかという点である︒反対する児童・生

徒がいても闇雲に﹁君が代﹂斉唱を実現しようとしている現在の状況から見れば︑目的において特定内容の国家観

を受け容れさせるというイデオロギー的な目的のために︑反論を封じ込めながら無批判に歌わせるというイデオロ

100

(25)

ギー的教化としての色彩が強い手段を用いている構図が浮かび上がってくる︒そうした認識から引き出される︑憲

法一九条に照らした客観法的な違憲性という結論を否定するだけの︑合理的な目的のための適切な教育方法として

の意義が︑﹁君が代﹂斉唱指導の中にあるのであろうか︒本稿はこの点の結論を保留したため︑まず主観的権利レヴ

ェルの問題を扱う必要があった︒ただ︑個人の自主的な判断能力を養うという教育の本質に背を向けながら︑思想・

良心の問題として同調できないと主張する児童・生徒の反対を押し切ってまで実現するだけの合理的理由が︑﹁君が

代﹂斉唱指導の中に果たしてあり得るのかには︑強い疑問を持つ︒

四 むすび

「君が代」斉唱の強制と思想・良心の自由

       ︵34︶ 不参加の制度的枠組を保障しようとした校長が処分されるような状況の中︑現在の﹁君が代﹂に関する学校実務

は︑主観的権利の侵害を放置しているという評価を受けざるを得ないであろう︒すでに繰り返し述べてきたように︑

﹁君が代﹂の斉唱を強制されることにより︑自分の思想・良心が侵害されたり︑自由な思想・良心の形成が妨害さ

れると訴える者に対しては︑歌うことの強制は憲法上許されない︒ただ現実には︑児童・生徒の憲法一九条の権利

に対する配慮を欠いたまま︑反対する者の抵抗を踏みつぶしてでも実現すべきものとして文部省や教育委員会が指

導していることを受け︑学校で実際に﹁君が代﹂斉唱指導が展開している︒このような状態の中では︑強制のない

自発的参加による行事であるという論理で︑思想・良心の自由に対する侵害状況を否定することは不可能であろう︒

すでに主観的権利のレヴェルにおいても︑個別的解放によって救済が可能な段階を過ぎ︑斉唱指導の制度化それ自

101

(26)

体が憲法に反し︑許されない状況にある可能性が強い︒

 また︑客観法レヴェルにおいても︑現在の﹁君が代﹂斉唱指導を支えているのは︑国民個人の愛国心に直接介入

し︑これを操作しようとする行政の意思ではないかという疑念が払拭できない︒特定内容の道徳的・イデオロギー

的な立場を受け容れさせることそれ自体を目的とした働きかけは︑国家の信条的中立性という原理の下︑国家や学

校に対して憲法上禁じられる︒また︑何らかの価値観を含んだ教育内容を︑他の選択肢を排除しながら一面的に提

示して︑特定の態度を生じさせようとするイデオロギー的教化は︑寛容の原理の下︑憲法一九条の客観法的意義に

反する︒こうした思想・良心の自由の客観法的意義を考えた場合︑現在のような枠組で展開される﹁君が代﹂斉唱

指導が憲法違反である疑いは︑極めて強いと言わざるを得ないであろう︒

 ここで確認されたような︑思想・良心の自由に関わる憲法上の帰結は︑﹁君が代﹂を支える論理にかかわらず妥当

する︒その意味で︑国歌としての法的効力があるかないかという議論は︑﹁君が代﹂斉唱の強制が許されるか否かと

いう論点には︑何の影響も及ぼさない︒憲法改正を通じて﹁君が代﹂に憲法上の国歌としての地位を付与したとし

ても︑.すべての出発点としての個人の尊重という近代以降の立憲主義の核心的原理からすれば︑単なる人為的な制

度としての国家を象徴する歌の前に根源的な基本的人権の侵害が正当化されることはあり得ないと考︑えるべきであ

ろう︒

102

︵1︶ 宗像誠也﹁教育行政権と国民の価値観﹂世界一九五九年一一月号二七三頁から︑兼子仁

 教育法学会年報二一号︵一九九二年︶三三頁以下まで︑広く見られる指摘ではある︒

︵2︶ 清水睦﹁沈黙の自由﹂法セミ増刊﹃思想・信仰と現代﹄︵一九七七年︶二二二頁︒

﹁君が代︑学校教育︑情報入権﹂日本

(27)

「君が代」斉唱の強制と思想・良心の自由

︵3︶ 佐藤幸治﹃憲法︹第三版︺﹄︵青林書院・︼九九五年目四八七頁︑樋口・佐藤・中村・浦部﹃注釈日本国憲法上巻﹄︵青林書院・

  ﹁九八四年︶三九二頁﹇浦部打出﹈︑浦部法門﹃憲法学教室1﹄︵日本評論社・一九八八年︶五八頁︒

︵4︶ 通説︒法学協会﹃註解日本国憲法﹄︵有斐閣・一九五三年目四〇〇頁︑宮沢俊義﹃憲法H︹新版ご︵有斐閣・一九七四年目三三

  九頁︑佐藤功﹁判例に現われた﹃思想及び良心の自由﹄﹂同﹃憲法解釈の諸問題第二巻﹄︵有斐閣・一九六二年︶一七一頁︑小林

  直樹﹃︹新版︺憲法講義上﹄︵東大出版会・一九八○年︶三六一頁︑伊藤正己﹃憲法︹新版︺﹄︵弘文堂・一九九〇年︶二五九頁︑野

  中・中村・高橋・高見﹃憲法1﹄︵有斐閣・一九九二年︶二八六頁﹇中村睦男﹈︑佐藤幸治・前掲書四八六頁︑樋口他・前掲書三九

  二頁︑浦部・前掲書一五八頁︒

︵5︶ 宮沢・前掲書三四〇頁︒

︵6︶ 浦部・前掲書一六〇頁︑樋口他・前掲書三九三頁︒

︵7︶ 法学協会・前掲書三九七頁︑種谷春洋﹁思想・良心の自由﹂芦部編﹃憲法H人権︵1︶﹄︵有斐閣・一九七八年︶二五九頁︑笹川

  紀勝﹁精神的自由﹂大須賀他﹃憲法講義2基本的人権﹄︵有斐閣・一九七九年︶七六頁︒

︵8︶ 典型として︑勤評長野方式事件長野地裁判決︼九六四年六月二日行脚一五巻六号=二三頁︒その他︑種谷・前掲二六九頁︑

  佐藤幸治・前掲書四八五頁︑伊藤・前掲書二五四頁︒

︵9︶ 法学協会・前掲書三九九頁︑宮沢・前掲書三三九頁︑小林直樹・前掲書三五五頁︑樋口他・前掲書三八四頁︑浦部・前掲小一

  五二頁︑笹川・前掲七七頁以下︑阪本昌成﹃憲法理論11﹄︵成文堂・一九九三年︶三〇一頁︒

︵10︶ 早い時期におけるこの指摘に︑佐藤功・前掲一七二頁︑久保田きぬ子﹁思想・良心・学問の自由﹂清宮・佐藤編﹃憲法講座2﹄

  ︵有斐閣・ 一九⊥ハ一二年︶︼ 一〇百ハ︒

︵11︶ この点につき︑拙著﹃良心の自由﹄︵成文堂・一九九五年︶一八頁以下参照︒

︵12︶ 長谷川正安﹃思想の自由﹄︵岩波書店・一九七六年︶一五四頁︒

︵13︶ しσ<臼≦O国メト︒島冨心①︷﹈.詳しくは︑前掲拙著四九頁以下︒

︵14︶ ドイツ憲法学の通説︒典型として︑国﹁コ馨−≦o罵σq鋤ロゆqじ口αo﹃Φ昌hαaρU器O﹁二昌酔Φo巨α曾○Φ乱ωωΦ霧噛﹁①聾①貫<<UQoけ勾いN︒︒

  ︵一㊤刈Oとψωω一閃︒ヨ帥昌=①﹁N︒σq望①﹁﹁︒ぎΦ評α①ωOΦ≦一ωωΦ昌ω¢昌山匹①﹁OΦ三ωωΦコω<①﹁≦凶﹁画一∩げロ昌堕∪<bd一﹂㊤①Pψ謡鉾前掲拙著六 〇3  九頁以下参照︒      1

(28)

︵15︶ 佐藤功・前掲一七二頁︑久保田・前掲一一〇頁︑佐藤幸治・前掲書四八八頁︑種谷・前掲二八八頁︑笹川・前掲八○頁︒

︵16︶ 笹川・前掲八一頁︑阿部照哉﹁良心の自由と反戦平和運動﹂同﹃基本的人権の法理﹄︵有斐閣・一九七六年︶=二〇頁︑伊藤・ ⁝⁝

  前掲書二五九頁︑樋口他・前掲書三八九頁︑浦部・前掲書一五六頁︒

︵17︶ 前掲拙著一〇五頁以下参照︒

︵18︶ 法学協会・前掲書四〇〇頁︒同旨︑伊藤正己・前掲書二五七頁︒

︵19︶ 樋口他・前掲書三八八頁︒

︵20︶ 代表的な判例として︑じd<Φ風O国心メま冒Σ じd<Φ﹁≦○国謬b¢︒︒﹇し︒O昌.ドイツの学説の検討を含め︑詳しくは︑前掲拙著二三

  八頁以下参照︒

︵21︶ 良心形成と親の教育権の問題に関し︑前掲拙著 四三頁以下参照︒

︵22︶ bづ<①蹴O国認b卜︒ω.

︵23︶ ﹀匹巴σΦ諄℃o臼8貫∪器O﹁琶酔8鐸α①﹁OΦ三ωω魯ω時︒ぎΦ津¢巳9①び①︒︒oコα①﹁曾OΦ≦自︒斥くΦ島開け三︒ウ︒ウρじσΦ﹁一十一㊤①Pω﹂O㊤h. 

  じuαo冨巳α乙ρ<〇二雪識σq①bd=きN一類ω耳Φ一け⊆二審ωQり6巨薦①げΦ戸OO︿一目♪Qり幽b︒零 αΦ﹁ω←N=上国巳①α①ωQり9巳ぴqΦげΦ梓ωω胃①房.

  ∪αくら︒︒ρQD︒ωb︒①■前掲拙著二三三頁参照︒

︵24︶ bd︿①﹁≦O国念レ㊤①.

︵25︶ 前掲拙著二二四頁参照︒

 ロ︵26︶ 国評評9蝉#Gっ冨ヨ噂∪器肉Φo巨匹Φω区冒匹Φω四象Qり①ぎω8づ焦目εコαqヨα臼Qり∩﹃巳ρZ①ロ≦δ匹一〇①8ψ①①召9ω二言ユ冨コω筈9︒二蛋昌⑰q=昌ユ

  勾①=αqδP一日Q∩∩7巳二§OヨO﹃戸幻α﹄じd一㊤①メω.ωO.前掲拙著=二四頁︒

︵27︶ 前掲拙著=二五頁参照︒

︵28>葺きω−⊆腎ゴ国く臼︒・導望①bdΦ2ひQ三ωα①ω○︒8讐︒︒︒N霞﹁Φ巴Φひq琶ぴq<8国邑9§ひqωN芭Φ三コ伍90喰頃=ω器920①ω巴ω∩冨︷ρ

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︵30︶ 前掲拙著二八七頁参照︒

︵31︶ ↓8ヨ9︒ω○薯①﹁ヨきPZ餌臼≦巴9窪話∩7二凶990暮雪ω馨N9匹コ自留︒︒α諏9島︒冨ω9巳≦Φω魯巨α臼①ω辞巴琶αq牙﹁きヨヨ

(29)

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︵32Vbロ<Φ瓜O野面&﹇謡﹈詳しくは︑拙稿﹁学校における性教育の許容性と親・子どもの基本権﹂

  ツの憲法判例﹄︵信山社・印刷中︶参照︒

︵33︶ そのような一般化可能性を承認した連邦行政裁判所の判決に︑じσ︿飛≦○国刈P・︒り︒︒﹇ω8﹈.

︵34> 滋賀県立大津高校の事例︒朝日新聞一九九五年三月二五日︒

ドイツ憲法判例研究会編﹃ドイ

︹付記︺ 本稿は︑京都﹁君が代﹂訴訟に関して一九九五年五月二六日に大阪高等裁判所に提出した鑑定意見書を基に︑事件固有の記

  述を削除し︑加筆訂正を施したものである︒この問題について考察を深めるきっかけを提供していただいた︑國弘正樹︑中島光

  孝両弁護士をはじめとする控訴人側弁護団︑および︑﹁君が代﹂訴訟をすすめる会事務局の北上田毅氏に感謝したい︒

「君が代」斉唱の強制と思想・良心の自由

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参照

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︵逸信︶ 第十七巻  第十一號  三五九 第八十二號 ︐二七.. へ通 信︶ 第︸十・七巻  第㎝十一號   一二山ハ○

記)辻朗「不貞慰謝料請求事件をめぐる裁判例の軌跡」判夕一○四一号二九頁(二○○○年)において、この判決の評価として、「いまだ破棄差

   3  撤回制限説への転換   ㈢  氏の商号としての使用に関する合意の撤回可能性    1  破毀院商事部一九八五年三月一二日判決以前の状況

 一六 三四〇 一九三 七五一九八一六九 六三

七圭四㍗四四七・犬 八・三 ︒        O        O        O 八〇七〇凸八四 九六︒︒﹇二六〇〇δ80叫〇六〇〇

一一 Z吾 垂五 七七〇 舞〇 七七〇 八OO 六八O 八六血

〔追記〕  校正の段階で、山﨑俊恵「刑事訴訟法判例研究」

層の積年の思いがここに表出しているようにも思われる︒日本の東アジア大国コンサート構想は︑