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「現象学」から出発して,ハーバーマス をどのようにとらえるか? その5

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「現象学」から出発して,ハーバーマス をどのようにとらえるか? その5

金 子 淳 人

序 アーレントとハーバーマス,そして「認知主義」

「道徳的事実」を「認知」する,ということによって,「道徳的判断」が 行なわれる。

ハーバーマスは,この主張,すなわち「認知主義」に立脚している。

そして,「道徳」が,単に「感情」などの「表出」であるとする「表出主 義」などの,「非認知主義」,そして,それに連なる立場を批判する。

そして,次のことを述べている。

「道徳的事実」を「認知」することは,「討議」によって行なわれる。

「討議」は,「方法」(=「手続き」)として,「討議倫理(討議理論)」に 基づく。

「道徳的事実」についての「認知」において,「道徳規範」が,「根拠づ け」に基づいて,はたらく。そして,その「適用」が,そのことをめぐる

「根拠づけ」に基づいて,行なわれる。そうしたことにおいて,「道徳」が 成立する。

ハーバーマスが述べる,こうしたことは,どのようなことなのか?

そして,あらかじめ,次のことも述べておきたい。

*専修大学文学部兼任講師

(2021)135-176

(2)

ハーバーマスは,「討議」の場としての「生活世界」においての「公共 圏」のはたらき方を問う。

かつて,ハンナ・アーレントは,1951年の著作『全体主義の起源』にお いて「全体主義」という現代史における教訓を主題化していたが,彼女に は,「全体主義」を防止すること,そして,そのために,「公共圏」につい て明らかにすることが,課題として,はたらき続けた。彼女は,そのこと に向けて,1963年の著作『革命について』において,「フランス革命」を 負の教材 とし,「アメリカ建国」を 正の教材 としている。アーレン トは,その提言を,既に1950年代に行なっていた。そうした中で,ハーバ ーマスは,1962年に『公共圏の構造転換』において,次のことについて 提起した。

1700年紀(18世紀)後半を中心としたドイツなどにおける「文芸的公共 圏」に 起源 を持つ「公共圏」の 展開 をどのようにとらえるか?

ドイツ「近代」は,ハーバーマスにとって,もともと,そうしたことに おいて 決定的な テーマであった。

そして,ハーバーマスは,やがて,後期フッサールが主題化した「生活 世界」についての議論を,応用的に展開させた。

そして,ハーバーマスにとって,「公共圏」,そのことにかかわる「道徳」,

「倫理」,さらには「法」は,課題であり続ける。

ハーバーマスは,前述の1962年の『公共圏の構造転換』において既に,

「道徳的判断」を主題化している。そのことをめぐる立場は,1961年の「ア イヒマン裁判」傍聴後,1963年に『イェルサレムのアイヒマン』を出版 したアーレントにはたらく立場と,一定の在り方で,共通点を見出せる。

一定の「事実」は,「道徳的事実」としての在り方を持ち,「道徳的判断」

が行なわれる。

そして,ハーバーマスにとって,「道徳的判断」は,「認知主義」に基づ き,次のこととは,基本的に,相容れない。

(3)

(1)「功利主義」

(2)「徳倫理学」(一定の「生き方」の「習慣」が,「人柄」としての「徳」

をつくり出し,そのことに,「実存」としての「善き生」がとりわけ基づ く,とする立場)

本稿は,とりわけ,次のことを検討する。

ハーバーマスにとって,「認知主義」とは,どういうことであり,その ことを前提として,彼にとって,「生活世界」論に基づく「公共圏」論に 向けて,「討議倫理(討議理論)」に基づく「討議」の主題化の立場は,ど のように展開するのか?

第1章 「認知主義」をめぐって

第1節 「道徳的事実」の立場,としての「認知主義」

ハーバーマスは,「認知主義」に基づく。「認知主義」とは,既述の通り,

次の立場である。

「道徳的事実」を「認知」する,ということによって,「道徳的判断」が 行なわれる。

たとえば,或る人(=A)からの,別の或る人(=B)への,「ハラス メント」と思える「事実」に遭遇した場合,次のようなことが,行なわれ る。

(1)「ハラスメント」(「人格」の「尊厳」への「侵害」)の「事実」につ いての,「認知」を行なう。

(2)「ハラスメント」が行なわれた,ということの「信念」を持つ。

(3)その「信念」をもとに,「ハラスメント」が行なわれたことについて の,「確認」を行ない,「判断」を行なう。

「メタ倫理学」は,「認知主義」はこのように成り立つと述べる。

(4)

そして,ハーバーマスの場合は,このことに,さらに,次のことを述べ る。

「人格」の「尊厳」ということを「根拠づけ」とする「道徳規範」がは たらく。

随所において,「討議」が行なわれる。

そして,ハーバーマスには,前述の通り,とりわけ,次の二つの立場に 対して,基本的に, 対決する 在り方がはたらく

(1)「快」(としての「幸福」)ばかりでとらえる立場=「功利主義」。

(2)「個」としての具体的「実現」についてばかりでとらえる立場=「徳 倫理学」。

そして,ハーバーマスは,これらの立場が,「人格」ということ,さら に言えば,「人格」としての「個人」の在り方という「根拠づけ」,そして,

そのことに基づく「道徳規範」,そして,その「適用」,ということを見失っ て来た,と述べる。

こうして,ハーバーマスは,自らが述べる「認知主義」が,「道徳規範」

がはたらく,ということを「内在」させた在り方を持つ「内在主義」であ る,と主張する。

そして,ハーバーマスは,このような在り方で,以下のことを述べる。

一方で,カントの「認知主義」を踏まえながら,その一方で,カントが 述べるような,次のような立場には,立たない。

「道徳規範」は,「叡知界」を背景とするという在り方で,「根拠づけ」を それ自体として伴なっている

そして,カントの,そうした主張に代えて,「道徳規範」は,次のこと によって,「根拠づけ」を持つ,という立場に立つ。

「われわれ」における,「コミュニケーション行為」。そのことに基づき,

さらに「討議倫理(討議理論)」に基づく「討議」。さらに,そのことに基

(5)

づく「合意」。

そして,ハーバーマスは,「道徳的事実」をめぐっての「判断」,として の「道徳的判断」へと至る経過のすべてを,「道徳的経験」と呼ぶ。そ して,以下のことを,述べている。

「道徳的経験」と言うべきことについて,かつてカントは,次のことを 述べていた。

とりわけ,「道徳規範」,「自由意志」,「義務」といったことをめぐる「事 実」について「認知」する

こうしたカントの主張を踏まえて,ハーバーマスは,次のように述べる。

「道徳的経験は,非道徳的行為によって,人格に加えられた傷のまわり に結晶化し,つくり出された,という在り方を持つ経験である。」

「道徳的経験」には,「道徳的」であることの「根拠づけ」として,「人 格」の「尊厳」を踏まえることがはたらく。そして,「道徳的経験」とし て,「道徳的事実」についての「認知」,として「道徳的判断」が行なわれ る。

そして,「道徳的経験」においては,「道徳的命令」としての「規範命題」

が,「規範命題」としての「妥当性」,すなわち,「当為妥当性」が成立し ている,という在り方で,つくり出されている。

「規範命題」の「当為妥当性」は,「断言命題」の「真理妥当性」という ことからの,一定の「類推」によって,とらえることができる。そのよう にして,「規範命題」は,「断言命題」からの「類推」によってとらえるこ とができる。そのようにして,「道徳的判断」は,「事実的判断」からの,

一定の「類推」によって,とらえられる。

こうしたことにおいて,「道徳的判断」は,「何らかの感情や態度」を「表 出」する,ということではない。あくまでも,「道徳的事実」の「認知」が はたらく。そして,はたらくことは,あくまでも「認知主義」であって,

(6)

「表出主義」などの「非認知主義」ではない。

第2節 「非認知主義」への批判

ハーバーマスは,「非認知主義」の例を,具体的に挙げて,批判を行な う。そのことによって,「認知主義」を,さらに明らかにする。ハーバー マスは,とりわけ,次のような例を挙げて,批判する。

〔1〕内的「制裁(サンクション)」論

「道徳的判断」は,内的「制裁(サンクション)」の「感情」が「義務」

をはたらかせる,ということに基づいている。

〔2〕「自尊心」論

「道徳的判断」は,「自尊心」をはたらかせ合う,ということに基づい ている。

これらは,「表出主義」としての在り方を持った「非認知主義」に分類 される。ハーバーマスは,どのように批判したのか,検討することにした い。

第3節 内的「制裁(サンクション)」についての主張への問い

〔1〕内的「制裁(サンクション)」論への批判

ハーバーマスは,以下のようなことをめぐっての議論を行なっている。

(1)

「私」は,一定の「行為」を行なったことによって,「恥」,あるいは

「罪責感(罪意識)」を感じた。「私」は,そうした「感情」を踏まえて,

「行為」の在り方を「改める」ことの「道徳的判断」を行なった。

(2)

或る「他者」に,「私」が,一定の「行為」を行なったことによって,

その「他者」は,「無礼」,あるいは「侮辱」を感じた。「私」は,そう した「感情」を踏まえて,謝罪し,以後,「原因」となるような「行為」を

(7)

行なわない,ということの「道徳的判断」を行なった。

(3)

或る「他者」(=A)が,別の「他者」(=B)に,「無 礼」,「侮 辱」を 感じさせる「行為」を行なった場面に居合わせた「第三者」としての「私」

は,そのことに対して,「憤慨」,あるいは「軽蔑」を感じた。「私」は,

そうした「感情」を踏まえて,Bに対して「無礼」,「侮辱」を感じさせる

「行為」を行なったAに,Bに対して謝罪し,その上で,以後,そうした 行為」を行なわないようにすることを求める,ということの「道徳的判断」

を行なった。

内的「制裁(サンクション)」の「感情」の「表出」によって,「道徳的 判断」が行なわれる,とする,こうした主張に対して,ハーバーマスは,

以下のことを述べる。

内的「制裁(サンクション)」の「感情」の「表出」は,「道徳的判断」

が行なわれる事例における,一定の部分である。しかし,それ以上では ない。「道徳的判断」を,「感情」の「表出」へと「還元」することはでき ない。

内的「制裁(サンクション)」の「感情」がはたらく,ということは,「道 徳規範」を背景としている。むしろ,問われることは,「道徳規範」が,

その「根拠づけ」に,どのように基づくのか,を含めて,どのようには たらくのか,である。

そして,ハーバーマスは,「義務」について,以下のように述べている

「義務は,それがはたらく者の意志を拘束するが,その意志を屈服させ るのではない。義務は,あくまでも,意志に方向性を示し,意志を導くが,

しかし,衝動が起き,意志を駆り立てる,というようなことではない。義 務は,根拠づけに基づいた動機づけに基づく,ということであり,義務は,

単に,一定の経験に対しての感情を推進力とする,というようなことでは

(8)

ない。」

「義務」がはたらく,ということについて,内的「制裁(サンクション)」 の「感情」がはたらくからである,という言い方がされることに対しては,

次のように,述べる必要がある。

「内的制裁(サンクション)が踏まえられる,あるいは,想定されると いう在り方で,義務がはたらく,ということだけを述べる,ひたすらの経 験的な理解は,そうしたことなしに,当為妥当性が成立することによって,

道徳規範が成立し,義務がはたらく,という根本的なことについて,と らえそこなっている。」

「恥」,「罪責感(罪意識)」,そして「無礼」,「侮辱」,さらには「憤慨」,

「軽蔑」といった,内的「制裁(サンクション)」としての「感情」の,ど の「感情」も,「道徳規範」がはたらく,ということを「前提」としてい

そして,「道徳規範が基づく当為妥当性にとって,内的制裁(サンクショ ン)の感情は,本質的なことではない。」そして,「道徳規範」をめぐって 述べるべきことは,内的「制裁(サンクション)」としての「感情」では なく,「意志」が,「自由意志」,すなわち「選択意志」としてはたらく,

ということを伴なって,「実践理性」が,「義務」に従う,という在り方で はたらく,ということである。「義務が,(一定の感情とともに)あらか じめ,はたらく,というような言い方はできない。」

そして,次のようなことも,述べる必要がある

内的「制裁(サンクション)」論は,「道徳的判断」が,内的「制裁(サ ンクション)」としての「感情」の「表出」に基づくと述べ,さらには,

そのような「感情」がはたらくことは,「根拠づけ」が必要ない,という 在り方で,人々に 定着 していて,「慣習」となっている,とまで述べ るが,そのように述べる場合,「判断」ではなく,「慣習」が そうさせる ということの主張にさえなってしまっている。

(9)

しかし,「道徳規範」には,「われわれ」が「根拠づけ」を行なっている,

という在り方で,「根拠づけ」がはたらく。そうしたことにおいて,「根拠 づけ」に,「慣習」,さらには「伝統」を背景とした 惰性 のようなこと が持ち込まれることは,あってはならない。「根拠づけ」は,「われわれ」

における「討議」に基づく「合意」によって行なわれる。

そして,ハーバーマスは,「道徳規範」が,次のことに基づく,という ことを述べる。

(1)「自由意志」が,「自律をはたらかせる意志(自律的意志)」として,

はたらく。そして,そのことを伴なって,「実践理性」が,「理論理性」と

「類推」される在り方で,はたらく。

(2)「討議」を行なう「理性」としての「コミュニケーション的理性」が はたらく。「われわれ」において「討議」が「合意」をつくり出す。

こうした(1),(2)のことは,次のことを明らかにしている。

「道徳的判断」にとって,内的「制裁(サンクション)」の「感情」の「表 出」に基づく,ということは,一面のことでしかあり得ない。

「表出主義」,そうしたこととしての「非認知主義」では済まない。「認 知主義」がはたらく。

第4節 「自尊心」論への批判 その1

ハーバーマスは,ここで述べた〔1〕の内的「制裁(サンクション)」 論もかかわることとして,〔2〕の「自尊心」論,すなわち,「道徳的判断」

は,「自尊心」をはたらかせ合う,ということに基づいている,という主 張について述べ,その上で,その主張を批判する。

とりわけ,トゥーゲントハットの主張を取り上げている。下記におい て,検討することにしたい。

トゥーゲントハットは,次のように述べる。

「個人」は,「自尊心」の「表出」によって「道徳的判断」を行なう。

(10)

トゥーゲントハットは,「個人」について,次のようにとらえる。

(1)

「個人」は,「自然」としての在り方で 自己目的性 において,互いに 調整し合いながら,自己の「利益」へと向かう。

(2)

「個人」は,そうしたことを前提とした上で,互いに「尊重」し合う(さ らに言えば,「尊敬」し合う)。

そして,トゥーゲントハットは,以下のように述べている。

それぞれの「私」には,内的「制裁(サンクション)」の「感情」とし ての,「恥」,「罪責感(罪意識)」の「感情」などが,はたらいた場合,そ のことを克服しようとする,という在り方で,「自尊心」がはたらく。 そして,そうした「自尊心」を背景に,「恥」,「罪責感(罪意識)」の「感 情」などを克服しようとし,克服することができている場合,自らを,自 らにとって「尊敬」に値すると評価する。そして,さらには,そうした,

自らの在り方に,「私」は,「他者」から「尊敬」に値すると評価される,

という思いを持つ。そして,こうしたこととしての「自尊心」を持つ。そ して,さらに,「私」は,「他者」が,そうした在り方を,共通に持つとと らえ,「他者」を「尊敬」に値すると評価する。そのようにして,そうし た在り方を,互いに持つことを,分かり合う,ということの思いを持つ。

そして,「相互の尊敬」をはたらかせ合う,という思いを持つ。そして,

「相互の尊敬が,道徳としてはたらく」という思いを持つ。そうしたこと の中で,「私」は,あらためて,自らを,自らにとって「尊敬」に値する と評価する。そして,そのようにして,あらためて,「自尊心」をはたら かせる。

ハーバーマスは,以下のように,述べている。

(11)

こうした主張においては,実は,「自尊心」が, 自己中心性 を前提と している,という在り方で,「私」の「自尊心」に,「他者による私への尊 敬」を,「奉仕させる」,という 枠組み がはたらいている。そして,そ のことをはたらかせ合う,ということにおいて,「他者」の「道具化」が はたらいている。

そして,「自尊心」が, 自己中心性 を前提としている,という在り方 で,実は,「恥」,「罪責感(罪意識)」の「感情」などがはたらくことの起 点となっている

そして,そのようにして,「自尊心」が, 自己中心性 をはたらかせな がら,起点となる,という在り方で,「権利」がとらえられ,そして,さ らには,そうしたことに基づく,という在り方で「義務」がとらえられる。

次のようなことも起きる。

「私」における「自尊心」への「欲求」に基づく,という在り方で,「他 者への私の尊敬」がはたらく,という思いがはたらく。そして,「私」が,

自分に,「自尊心」をはたらかせておけば,結局は,「他者への私の尊敬」

がはたらく,というように,「私」と「他者」との「関係」をとらえる立 場が,はたらく。

次のことを,指摘する必要がある。

「私」と「他者」との「関係」には,「手続き」が求められることに,気 づいていない。そうであるが故に,そのことに欠けている。

自己中心性 を 単純に 前提としていることによって,「私」と「他 者」との「関係」に求められる「承認」の関係が, 表層的に しかはた らかない

ハーバーマスは,以下のように述べる。

トゥーゲントハットの,「自尊心」をめぐる主張には,「自尊心」が, 自 己中心性 を前提としている,という在り方で,次のようなことがはたら

(12)

く。或る「他者」を「友人」として「評価」する,ということは,「私」に 対して何か「犠牲」を払ってくれている,ということに基づく。そのよう にして,「私」に何かを行なってくれた,という,言わば「業績」の「評 価」に基づく「格付け」がはたらく。

しかし,そうしたことにとどまることはできない。その「他者」を「人 格そのものとして尊敬する」ということがはたらく必要がある。「人格」で あることは,「自律という在り方で,規範に従い,行為できる」というこ とである。そのことは,「人格一般を特徴づけている」。

「人格として尊敬する」ということは,「私に対して犠牲を払ってくれて,

驚嘆した」などといったことによって「尊敬」するといったこと,そして,

そうした脈絡において「自尊心」がはたらく,といったこととは別次元の ことである。

第5節 「自尊心」論への批判 その2

ハーバーマスは,「自尊心」についての,自らのとらえ方を,以下のよ うに述べている。

「自尊心」として求められるのは,次のような「自尊心」である。

「人(人間)としての尊厳を失わない」ということとして,「自尊心」が はたらく。

一定の「現実」に直面して,一定の「行為」を「人(人間)として行なっ てはならない」という思いがはたらくことがある。そうしたことにおいて は,「人(人間)としての尊厳」についての思いがはたらく。そのことは,

場合によっては,逆に,そのために「自らの生命を危険にさらす」ことさ えあるほどである。そして,そうした「人(人間)としての尊厳」につ いての思いに 重なる という在り方で,「自尊心」がはたらく。

そして,ハーバーマスは,以下のことを述べる。

この場合の「人(人間)として」ということにおける「人(人間)」と

(13)

いうことは,次のようなことを伴なっている。

「人格が,状態として,傷つきやすい在り方を持つ,ということ」,さ らに言えば,「人格」が内的「核心」において「傷つきやすさ」を持つ,

ということ。

そして,こうしたことを踏まえる,という在り方で,「私」と「他者」は,

それぞれに「相互に責任を持って行為する人格」である,という在り方で,

出会っている。そうしたことにおいて,「他者」が,「責任を持って行為す る人格」であるということにおいて,「他者」への「尊敬」がはたらく。

そして,こうしたことに基づいて,「私」には,「私」は「人(人間)とし ての尊厳を失わない」という思いがはたらき,「私」においての「私」自 身への「自尊心」がはたらく。そして,こうしたことが「他者」にも起き ていることによって,こうしたことを,「承認」し合う,ということが起 きる。そして,そうしたことについての思いが,「私」に,「自尊心」を,

さらにはたらかせる。

ハーバーマスは,こうした主張に基づき,さらに,以下の〔1〕,〔2〕,

〔3〕のように,トゥーゲントハットを批判している。

〔1〕 単純な 自己中心性 の問題

トゥーゲントハットが述べた「自尊心」は,結局は,「私」の 自己中 心性 を, 単純に 前提とした「自愛」である。そして,そのことが 複 数 ではたらくことによって,「自然的に」,「他者」への「尊敬」がはた らき,そうしたことにおいて,あらためて「自愛」がはたらく,というこ とを述べるにとどまっている

〔2〕 単純な 「共同体主義」の問題

トゥーゲントハットをめぐっては,彼が,さらに述べる,以下のような

(14)

主張について,さらに,問う必要がある。

「他者を,尊敬する,ということには,自分たちが属している共同体の 一員だからである,ということもはたらく。」このことについて,次のよ うに述べることができる。

「私」は,自らを,自らが属する「共同体」の「一員」である,という ことによって「尊敬」する。そして,「他者」を,やはり,自らが属する

「共同体」の「一員」である,ということによって「尊敬」する。そして,

そうしたことを「他者」(「他者」たち)との「相互性(共同性)」におい て,はたらかせ合うことの中で,あらためて「私」は,自らを「尊敬」す る。そのようにして,「私」は,「自尊心」をはたらかせ,さらに,「他者」

(「他者」たち)と,互いに「自尊心」をはたらかせ合う。

そして,他の「共同体」に属する「他者」については,自分に,自分が 一定の「共同体」に属することによってはたらいたことの「類推」をはた らかせる。そして,そうした在り方で,やはり,「私」は,「自尊心」をは たらかせ,そして,「他者」と,互いに「自尊心」をはたらかせ合う。

こうして,トゥーゲントハットは,「私」の 自己中心性 を,やはり,

そのままにして, 単純な 「共同体主義」を主張することによって,「相 互性(共同性)」に基づく在り方で「自尊心」がはたらく,ということを 主張する。

そして,トゥーゲントハットは,実は,「前近代」における「共同体」に ついての 憧憬 をも述べ,そのことを, 脈絡を跳ばして 「近代社会」

にあてはめることを求めさえもする

ハーバーマスは,こうしたことについて,以下のように批判する。

トゥーゲントハットは,それぞれの「個人」には,とにかく「事実」と して,「相互性(共同性)」,言い換えるならば「社会性」が,はたらくが 故に,「自尊心」がはたらき合う,と述べるが,次のことを,述べる必要

(15)

がある。

そうした「社会性」が,まさに「事実」として,どのような「手続き」

に基づいてはたらくのか,が問われる。

「社会性」をつくり出す「手続き」を踏まえるならば,そのことは,そ れぞれの「個人」における 自己中心性 を 越えて はたらき,次のこ とに気づかせる。

それぞれの「個人」において,「人格」は,内的「核心」において「傷 つきやすさ」を持つ。そして,そうであることによって,むしろ,確固と した在り方で,自らをつくり出し,はたらく。

そして,互いに「人格」であることについて,「尊敬」し合う,という こととして,「自尊心」がはたらき合う。

ただし,トゥーゲントハットにも,一定の「手続き」論がない訳ではな い。しかし,「手続き」論は,「手続き」として「討議」を踏まえる必要が ある。

トゥーゲントハットは, 単純な 「共同体主義」を主張することで,「共 同体」の背景には,「恥」,「罪責感(罪意識)」の「感情」などの内的「制 裁(サンクション)」の「感情」がはたらく,ということを述べている。

そうしたことにおいても,トゥーゲントハットには,内的「制裁(サン クション)」の「感情」の「表出」において「道徳的当為」がはたらく,

と主張する「表出主義」としての「非認知主義」がはたらく。

〔3〕「契約主義」の問題

トゥーゲントハットは,さらに,次のようにして,「契約主義」をも主 張する。

様々に立ち現れる「倫理的生」( 実存的生 )の具体的内容において,「自 然的に」「利益」追求がはたらく中で,そうしたことの「調整」に向けて,

(16)

「倫理的生」( 実存的生 )の具体的内容から 方法論的に 離れ,あくま でも,そうした在り方で「契約」として「道徳規範」を結び,「道徳」を はたらかせる。

トゥーゲントハットは,あくまでも,このように「契約主義」に基づく,

という在り方で,「主体」たちの「相互承認(共同承認)」に基づく,とす る「共同体」を展望する

しかし,結局,内的「制裁(サンクション)」となる「感情」を背景と した「自尊心」が伴なう 自己中心性 を前提として, 自己中心性 の ままでの「調整」に基づいて「契約」し合うことが, 一つの社会 とい う「理念」をはたらかせる,として,「契約主義」を主張している。そ して,あくまでも,「表出主義」としての「非認知主義」に基づいている。

ハーバーマスは,以下のように述べる。

「道徳規範」が,それぞれの「個人」において,それぞれの 自己中心 とは別に,はたらく,ということに基づく,「普遍主義」をはたらか せる必要がある。そして,そのためには,次のことが求められる。

「道徳規範」を「コミュニケーション行為」に基づく「手続き」がつく り出す,ということにおいて,とらえる。

第2章 ハーバーマスの「認知主義」

第1節 「道徳」の立場とは,どういうことか?

ハーバーマスは,「認知主義」に基づいて,どのような主張を行なって いるのか?

ハーバーマスは,自らの主張が「認知主義」であることによって,「道 徳的判断」が,どのように「真理の認知」なのか,をめぐって,以下のよ うに述べている。

「日常性」の「世界」,すなわち「生活世界」は,「コミュニケーション

(17)

行為」を基盤とすることに基づいている。そして,「生活世界」におい て「道徳的に課題となっている」「事実」に対して,「道徳的判断」が行な われる。そうしたことにおいて,「道徳」の立場がはたらく。

「道徳」の立場は,「討議」という「手続き」に基づいて,「生活世界」の 中から「根拠」に基づいて 立ち上がる という在り方を持つ。そして,

「超越論的に」一方的なのではない,という在り方において,「公正」で あることを,はたらかせる。

「討議」においては,単に「快」としての「幸福」の立場がはたらく,

ということは,あり得ない。そして,「討議」は,次のことに基づく。

「討議」の「参加者」が,互いを「踏まえる」。そして,「参加者」は,

さらに,「参加者」以外の,すべての人についても「可能的な参加者」と して,想像して「踏まえる」。そして,そうしたことにおいて,「他者」に,

自らを当てはめる,ということを 必ず 行なう

さらに,次のように述べることができる。

「われわれ」という「複数の第一人称」ということがはたらき,「理想 的役割取得」(さらに言えば,「理念的役割取得」)を行ない合い,担い合 うことが行なわれ,「われわれ」においての「相互承認(共同承認)」が積 み上げられる。そうした在り方において,結局は,すべての人における「コ ミュニケーション行為」の「ネットワーク」がはたらく。

そして,「コミュニケーション行為」が 本質論 において,どういう ことかが,問われる。

「コミュニケーション行為」は,「人々」における,原理的な「自由」, そして,人々の「平等」を前提とし,そのことによって,絶えず「根拠」 を明確にする,という在り方で,「真理の認知」を行なう。

そして,既に述べたように,次のことは,はたらかない。

「快」(=「幸福」)ばかりでとらえる立場

(18)

このことをめぐっては,かつてムーアが「自然主義的誤謬」という言い 方で 釘を刺した ことに陥らない,ということが,はたらく。

このようにして,ハーバーマスは,「道徳」の立場を,「討議」について,

主張する。下記において,さらに検討することにしたい。

第2節 「討議倫理(討議理論)」への問い その1:「正義」,そして「連帯」

「討議倫理(討議理論)」について,ハーバーマスは,以下のことを述べ ている。

「討議」は,「言語」を前提とした明確な「形式」に基づいて,「参加者」, そして「可能的な参加者」においての「相互承認(共同承認)」をつくり 出す。

そして,「討議」は,次の二つのことの「周りに,あらゆる道徳が展開 する」という在り方で行なわれる

(1)「個人を例外なく尊厳においてとらえること(個人について平等に 扱うこと)」

(2)「福祉において結び付き合っていること(福祉を一般化させ合うこ と)」

そして,この二つのことは,「正義」,そして「連帯」,という「理念」に おいてはたらく。

そして,ハーバーマスは,「発達心理学」 思想化 した在り方で求 められることとして,「討議倫理(討議理論)」をめぐって,以下のことを 述べている。

「子供」たちは,「発達」において,「規範的義務」を「身につけていく」。 それは,「コミュケーション行為」を,「討議」としての在り方で担う,何 度もの機会において,ここで述べた(1),(2)のこととしての「理想的 なもの」(さらに言えば,「理念的なもの」)を,自分たちにおいて「普遍

(19)

化」する,ということである

そして,こうしたことは,人々において,次のことがはたらくことの背 景となる。

「慣習」の中に 溶け込んで いきそうになることを 越える 在り方 で,「個々の人格の形成過程」がはたらく。そして,「単に私に関連づけら れた,という在り方での普遍化がはたらくこととは異なる在り方で」,「コ ミュケーション行為」に基づく「普遍的意志の形成としての普遍主義的普 遍化がはたらくようになる」。すなわち,そのようにして「相互的に(共 同的に)承認された普遍的意志がはたらく」ようになる。

「討議倫理(討議理論)」は,「人々」において,こうしたことがはたら くことに基づく。

第3節 「討議倫理(討議理論)」への問い その2:「合意」

「討議倫理(討議理論)」が基づく「形式」とは,どのようなことか?

まず,ハーバーマスは,「討議倫理(討議理論)」が明らかにすることは,

「同意」ではなく,「合意」である,ということを,次のように述べている。

「追求されるべき意見の一致」としては,一方において,「価値志向」を

「条件」として,「承認」に基づいて「合意」がめざされる。もう一方にお いて,「利害調整」を「条件」として,「交渉」に基づいて,「同意」がめ ざされる。「同意」が,「一階」におけることであるとするならば,「二 階」において,絶えず「合意」が求められる。

ハーバーマスは,「討議倫理(討議理論)」を,はたらかせることが,ど のようなことか,ということをめぐって,下記のことを述べている

「自分が欲しないことを,人に行なってはならない。」という「道徳規 範」とされて来たことについて,どのようにとらえるか?

この「規範」は,次のような在り方を持っている。

(20)

「私」が「欲する」ことが「私」に「快」をもたらす,ということを起 点として,「私」が「欲しない」ことが「私」に「苦」をもたらす,とい うことを踏まえ,「他者」について想像し,「他者」も同様な在り方を持つ ととらえ,そのことを踏まえ,「欲しない」ことが「苦」をもたらす,と いうことが,「他者」に,起きないようにすること,とりわけ,「私」を起 点として「他者」に起きる,といったことがないようにする,ということ を求める。

この「規範」は,このようにして,「私」は,自らの「快」を求め,自 らの「苦」を避ける,という 自己中心性 を,誰しも持つ,ということ を,それ自体として,前提としている。

このことについては,次のように述べる必要がある。

そうしたことにおいて,「私」が,単に「私的に」「快」を「欲する」, という在り方を「一般化」してとらえることによって,「私」が持つ一面 について踏まえるだけで,「道徳規範」を述べることができるかのように とらえる,という誤りに陥っている。

「私」の,別の一面として,以下のことを述べる必要がある。

すべての「私」が,「公正」に「扱われる」ということを「望む」。 そして,「私」は,次のことを求める。

「討議」に「参加」し,「討議」へのすべての「参加者」における,すべ ての「可能的な参加者」をも踏まえた在り方での,「合意」を担う。そし て,「道徳規範」を,そうした「合意」に基づく,という在り方で,とも に「承認」し合い,ともに基づき合う。

そして,このようにして,明らかになる「私」の,一面としての〈「討 議」を担う,ということ〉をめぐって,次のことを述べることができる。

それぞれの「私」が基づく必要がある「道徳」は,その中の一定の一部 の内容として,「討議をめぐる在り方」ということの内容を持つ。

そして,次のように述べることができる。

(21)

「討議をめぐる在り方」の,「理念化」としての,その「普遍化」によっ て,求められる一定の一部の「道徳」が成立する。この「道徳」が,「討 議倫理(討議理論)」である。

そして,ハーバーマスは,「討議倫理(討議理論)」にはたらくこととし て,次のことを述べている

「私」の「パースペクティブ」について,「他者」の「パースペクティブ」

を踏まえることによって,その「特権化」が否定される。そして,それぞ れの「私」の「パースペクティブ」について,「可能な限りの」,「多元主 義」においての「協同」を想定する。

第4節 「討議倫理(討議理論)」への問い その3:「真理の認知」

既に,次のことを述べた。

「討議をめぐる在り方」の,「理念化」としての,その「普遍化」によっ て,求められる「道徳」の中の一定の一部が成立する。この「道徳」を,

「討議倫理(討議理論)」と呼ぶことができる。

ハーバーマスは,次のように述べている。

「規範」が「妥当性」要求の充足に基づいて成立する,ということは言 うまでもないが,「道徳規範」には, 明確な 在り方で「普遍化」が成立 することを求める「普遍化原則」がはたらく

それは,一定の「言明」が,次のことによって,「妥当性」を充足させ ることを求める,ということである。

「それぞれの人が,時,場所を問わず納得し得る根拠を持つ。」 このことは,パースが述べた,次のことに重なる

「真理」概念,すなわち「認知」された「真理」は,「時代,社会につい て境界を越える,ということとして,理念的,という在り方においてとら える,という在り方を持った,理解のはたらき」に基づくこと,として説 明できる。

(22)

すなわち,「解釈者が,歴史的時間,社会的空間の中で,理念的な在り 方で,解釈の共同性(共同体)を構成し,その中でのコミュニケーション において,批判可能性がはたらき続けながら,妥当性要求の充足が行なわ れたもの」が,「真理」である。

こうしたことにおいて,次のことを述べることができる。

「真理」は,「無制約なコミュニケーション共同体」において成立する。

このことについて,さらに,以下のことを述べることができる。

「道徳的な課題」は,それ自体としては,「時間的・空間的に,局所的で ある」が,それに対応して行なわれる「討議」において,「討議」への,「参 加者」,さらには「可能的な参加者」としての,すべての「人々」,という

「境界のない解釈の共同性」がはたらき,そうしたこととして「普遍性」が はたらく,ということに基づいて,「道徳的事実」としての在り方を持 つ。そして,こうしたこととしての「道徳的事実」について,「道徳的判 断」が問われる

そして,「道徳的判断」は,「間人格的関係への言明」としての「当為命 題」である「道徳規範」に基づいて,「道徳的事実」に対することとして,

行なわれる。

「道徳的判断」は,「客観的世界における事態,についての真理,として の言明」という在り方を持つ

さらに,「道徳的判断」として,「道徳規範」の「適用」について,その 在り方が,「討議」において,問われ,決められ,そして,行なわれる。

こうして,「道徳的判断」は,「道徳規範」に基づく「認知」,さらに言 えば,「道徳規範」の「適用」,としての在り方で,「討議」によって「真 理」が明らかにされることとしての,「認知」という在り方を持つ。

こうしたことにおいては,「手続き」として, 原理的に 「無制約なコ ミュニケーション共同体」において,「理想的発話状況」(さら言えば,「理

(23)

念的発話状況」)を担い合う,ということが,はたらく。そうした中で,

「討議」を行なう,ということにおいては,「他者」に,「論拠」によって こそ「納得してもらう」ということにおいて,「発話」,すなわち「コミュ ケーション行為」,の「前提」,そして「条件」として,以下のことが求め られる。

「前提」として,「強いられることがなく」「言明」がそれ自体として,「言 語表現」としての在り方で,成り立つ。

そのことに基づき,「条件」として,次のことが,はたらく。

(1)(「真理性」が確認できる)「公開性」。

(2)「コンテクスト」が,全体として(すなわち,諸「コンテクスト」

の全体性において)成り立つ,という「整合性」。

(3)(「一貫性」が成り立つ)「誠実性」。

そして,「討議倫理(討議理論)」に基づく「討議」に基づき,「道徳的 判断」が行なわれる。そうしたことにおいて,「討議」は,「道徳」にとっ て不可欠な基盤として,不可欠な「手続き」,としての在り方を持つ。

第5節 「手続き」としての「討議」 その2

ハーバーマスは,前期のロールズを引き合いに出すことを一定の「方法 論」として,「討議」が「手続き」として,どれほど求められることなの か,について,下記のような議論を行なっている。このことは,ハーバ ーマスの主張として,「認知主義」にとって,「討議」が,どれほど求めら れることなのか,について述べる,という在り方を持つ。

ロールズは,その前期において,「公正」として,「正義」が,「原理」と してはたらくことを求め, 人々 に,そうした「原理」の 担い手 で あることを求める,ということにおいて,次のことを求めた。

シミュレーションとして,自らの「境遇」のすべてを忘れたという在り

(24)

方で 抽象化 された状態での自分自身を想像し,あらゆる「他者」の「境 遇」を,自らのこととしてとらえる,ということに基づいて,「正義」の

「原理」に 目覚める 。

この主張は,「形式」においては,それぞれの「個人」を「意識」にお いて「叡知的存在者」へと 高める という在り方で,基づくべき「原理」

を「理念化」する,ということとしての,「理念化」を求めている。

こうした主張に対して,次のことを述べる必要がある。

「個人」の具体的な在り方を 抽象化 することによって,「現実」から 離れるのではなく,「現実」の具体的「個人」から出発する必要がある。

シミュレーションによって,「個人」ごとに「意識」の次元において 目 覚める ということではなく,「現実」の中で,それぞれに異なる具体的

「個人」が,「討議」を行なう中で,互いを「具体的に」分かり,踏まえる,

という在り方で,互いに「合意」し合える,ということに基づく「規範」

として,「原理」を明らかにする,ということが求められる。

「理念化」は,こうしたことの前提となる「手続き」としての「討議」の,

その在り方について,求められる。すなわち,「討議の在り方」について,

「理念化」,そうしたこととしての,そのことの「普遍化」が求められる。

そして,「理念化」としての「普遍化」は,絶えず,その「在り方の検証 の過程」を伴なう。そうしたこととしての「討議倫理(討議理論)」が 求められる

そして,次のように,述べることができる。

まず,「規範」が,「根拠づけ」を伴なった在り方で,つくり出される(明 らかになる)ことのために,不可避・不可欠な「手続き」として,「討議」

が求められる。

そして,そうした「規範」が,あるべき在り方で,当該の「状況」に対 して「適用」されることのために,不可避・不可欠な「手続き」として,

「討議」が求められる。

(25)

第6節 「手続き」として「討議」 その2

ハーバーマスは,「討議の在り方」についての「理念化」としての「討 議倫理(討議道徳)」に基づき,「道徳的な課題」に対応する,ということ を述べる。

しかし,ハーバーマスは,下記のように,具体的な例に基づいて,この ことについて,限界に直面する場合について,述べている。そして,むし ろ,実は,そうしたことからも,「道徳」は,「認知主義」としての在り方 を持つ,ということを述べる必要があると言わんとする。

「討議」が,確定させた解答を出せない場合がある。

たとえば,「道徳的な課題」として,「妊娠中絶」に,どのように対応す るのか? 賛成・反対が,それぞれの「論拠」に基づいて出される。こ の場合,求められることは, 行なえる限りでの 「討議」である。そうし た在り方での,「道徳的事実」についての「認知」,そして「記述」である。

そして,この場合,「道徳の立場だけによっては,解決されようがない」。 そして,「共同生活」において「一様な在り方で,良い」とされること をめぐる議論が求められる。そして,この場合,「道徳の立場とは別に,

倫理の立場からの,一定の定式化がされることが求められる。」そして,

その上で,「規制」をめぐっての議論が求められる。

そして,「討議」は,次のような在り方を持つ。

「生活世界」におけることとして,社会的文脈も問われる中で,そのこ とと結び付きながら,私的文脈が問われ,「倫理」の立場が問われ,その 一方で,「共存し合い,そして,互いに生きる,という在り方において,

正当性を持った秩序を,どのようにつくり出すか」という問いが,「普遍 性」において問われ,「道徳」の立場が問われる。そして,ともすると

「係争」をも伴なう中で,やはり,どのようにせよ「公正」であるという 言い方がされる在り方での「帰結」として,一定の「判断」が行なわれ る。

(26)

この場合,このようにして,決して「非認知主義」ではあり得ない在り 方での,「道徳的事実」の「認知」が行なわれる。

第3章 「討議倫理(討議理論)」を,どのように展開させる のか?

第1節 「討議倫理(討議理論)」とは,どういうことか? その1

ハーバーマスは,次のように述べる

従来の「道徳」は,「個人」を「独話」を行なうという在り方で前提と することによって,そうした「個人」に,「否定命題」としての「道徳規 範」によって「否定的義務」を求める,という在り方を持った。たとえば,

次の通りである。

「あなたは,人を殺してはならない。」

「あなたは,嘘をついてはならない。」

こうした「道徳規範」は,次のことを求める,という在り方を持つ。

「人を傷つける」ことを欲しない。「嘘をつく」ことを欲しない。

そうしたことを,「私」においての「義務」とするようにせよ。

そのようにして,「道徳規範」が,「私」に 直接的に はたらき,際立っ た在り方で「否定命題」としての「意味」を持ってはたらく。

しかし,ハーバーマスは,カントの主張を踏まえて,まず,次のように 述べる。

「あなたは,人を殺してはならない。」,「あなたは,嘘をついてはならな い。」といった「命題」を,自らの「格率」としていて,その上で,それ らを,「普遍性」を持つ「道徳規範」としてとらえ直し,それらに従う。

そうしたことにおいて,一定の「命題」を「道徳規範」である,とみなす ことに「合意」する,ということがはたらく。その上で,そうした「道徳 規範」への「義務」がはたらく,という言い方ができる。その場合,「道 徳規範」は,まず, すべての人へと向けられたもの としての在り方を

(27)

持ち,そして,「私」への「義務」をはたらかせる。

こうしたことにおいては,単に「否定命題」としての「意味」がはたら くのではなく,「公共的に責任を負う」という「意味」がはたらく。「否 定命題」としての「意味」が,「私」に 直接的に はたらく,という訳 ではない。

このことについては,このように「普遍化」が,はたらく,という言い 方ができる。

すなわち,単に「私」に対する,という在り方で,「目的志向的に」「規 範」がはたらくということではなく,「(普遍的に)人にとって,いかなる 行為が,正しいのか,を指示する」ということがはたらき,そうしたこと として,「道徳規範」が「正当性」において,はたらくかどうか,という 問いがはたらく。そして,「道徳的に行為する者は,自分が正しいと見な す規範に照らされるというようにして,行為を選択する。」

こうしたことにおいて,「道徳規範」が,「否定命題」かどうかは,問題 ではない。

「道徳規範」が,「肯定命題」であることは,まったくあり得る。

そして,とりわけ,「道徳規範」が「肯定命題」である,という場合に ついて,次のことを述べることができる。

「道徳規範」は,あるべき在り方で,「コミュニケーション行為」,さら には,「討議」を行なうことを求める,ということの内容を持つことによっ て,むしろ,「肯定命題」の在り方をこそ持つ。

そして,「道徳規範」は,次のような在り方を持つ。

「われわれ」において「合意」され「普遍化」された「命題」であるこ とによって「道徳規範」としての在り方を持つ「命題」が,あらためて「合 意」され,すなわち「承認」され,そして,「われわれ」が従う,という こと。

そして,ハーバーマスは,次のことを述べる

(28)

「道徳規範」の,こうした在り方は,そもそも,すべての「道徳規範」が,

「われわれ」において「合意」すること,そして,そのことを行なう「コ ミュニケーション行為」を基盤としている,ということに,基づいている。

そして,「道徳」の立場は,このことに基づいている。

この場合の,「われわれ」において「合意」すること,そして,そのこ とを行なう「コミュニケーション行為」,についての「理論」として,「道 徳」の「成立」についての「道徳」が,「討議倫理(討議理論)」である。

すなわち,端的に,「コミュニケーション行為」の「あるべき」在り方 についての「理論」として,「道徳」の「成立」についての「道徳」が,「討 議倫理(討議理論)」である。

第2節 「討議倫理(討議理論)」とは,どういうことか? その2

ハーバーマスは,さらに,下記のような議論を行なっている。 或る人の命を救うために,嘘を言わざるを得ない状況に直面し,嘘を言 い,その人の命を救った場合について,どのようにとらえるか?

その場合,「あなたは,人を殺してはならない。」という「命題」が,「あ なたは,嘘をついてはならない。」という「命題」に優先されている。言 い換えるならば,「人の命は,救われなければならない。」という「命題」

が優先されている。

こうした場合には,以下のことがはたらく。

「人の命を救う」ということが,優先されるが故に,嘘を言うことは許 される,ということが,「道徳規範」の「適用」についての「討議」にお いて,当該の「状況」において,より「妥当性」を持った「道徳的判断」

として行なわれた。

複数の「規範」が 衝突 している場合,当該の「状況」が持つ「特徴」

を可能な限り多く取り出す,ということ,すなわち,そうしたこととして の「認知」,そして,その「記述」が, 衝突 している「規範」のうちの,

(29)

どれがふさわしいかを明らかにする。

そして,次のことを述べる必要がある。

(1)

最終的に決定された「道徳的判断」の背後に一定の「道徳規範」が隠れ てしまうが,そうした「道徳規範」は,それ自体としては「妥当性」を失 いはしない。隠れた在り方で,はたらき続ける。そして,どのように,隠 れた在り方ではたらくのか,問われる。

「道徳規範」については,絶えず,どのように「普遍化」が可能なのか,

が問われる。すなわち,絶えず,「討議」に基づく「公共的な普遍化テス ト」とも言うべきことがはたらく,という言い方ができる。そして,そ うしたこととしての, まったくの 「間主体性」の,その在り方が問わ れる。

(2)

「討議」に基づく,ということは,必ず「結果」が問われる,というこ とであり,基本的に「責任倫理」ばかりがはたらき,「心情倫理」ははた らかない

第3節 「討議倫理(討議理論)」とは,どういうことか? その3

ハーバーマスは,既に述べたように,「道徳規範」は,「否定命題」とし ての在り方ではなく,むしろ「肯定命題」としての在り方を持つ,と述べ,

そして,そのことを,「道徳」が「討議倫理(討議理論)」に基づき「討議」

を基盤とする,ということが,明らかにしている,と主張する。

ハーバーマスは,下記のような議論を行なっている

「あなたは,人を殺してはならない。」という「命題」について,次のよ うなことが,言われる。

「人格」の「尊厳」の維持を求めることを,内容としている。そして,

そのことは,もともとは,次のことであった。

(30)

「自由」を「平等」に,万人にとっての「普遍的な」「否定的義務」,す なわち, 侵害してはならない ということによって「保護」する

このことは,述べるべきことの一部を言い得ている。しかし,このこと だけでは,「人格」を 単なる 「個人主義」に基づいてとらえる,という ことがはたらいてしまう。そのことだけでは,この場合,「自律」は, 自 己中心的 在り方でばかりはたらき,「目的合理性」だけがはたらき, 単 純な 在り方での「結果」志向がはたらく。

以下のように,述べる必要がある。

「われわれは,二人称の人に対して,その人格に,行為遂行的に,道徳 的に尊敬が求められている(内的)核心において,出会う。」そうした ことにおいて,「二人称の人」は,単に「二人称の人」ではない。「課題と なっていることについて,お互いに承認し合うために,コミュケーション 行為を行ない合う,ということにおいて,間主体的に共有している世界,

すなわち,生活世界において,二人以上の人格がはたらく中で,それぞれ に,行為者としての在り方で,責任を果たす能力を持つ,という人格とし て,互いを承認し合う。」

そうした在り方で「責任」を持った在り方で,「妥当性要求を出し,そ れを充足させる能力」を持つ,という「人格」として,互いを承認し合う

こうしたことからは,次のことを述べることができる。

「あなたは,嘘をついてはならない。」という「否定命題」は,次のよう な「肯定命題」として,とらえる必要がある。

「二人以上の人格において,それぞれに,行為者としての在り方で,責 任を果たす能力を持つ人格として」,「承認をめざし合うようにせよ。互い に妥当性要求を求め合うようにせよ。そのようにして,コミュニケーショ ン行為を完全なり方で行なえる,ということとしての自由を,互いに保障 し合うようにせよ。」

そして,「義務」ということを述べる場合には,次のように述べる必要

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