利害関心についての打算を越える」ということとしての「道徳的洞察」を はたらかせる必要がある。そして「或る原則が道徳的に正当であると信じ ることは,それがすべての人にとって当然に同意できることである,とい うことを信じることである。」そして,それは,「契約主義」に基づきつつ も「自分の立場を他人の立場に置き換えて考える」ということを行なうこ とによって「すべての人にとって当然に同意できるものであるということ」 の視点をはたらかせるということである。 しかし,こうした立場が,あくまでも「契約主義」に基づいた‘付け加 え’の立場に過ぎないということの問題が問われる。 (3)「理想的役割取得」の立場 G・H・ミード5は,次のことを述べる(ED58f.)。 「相互行為」の参加者がそれぞれに,「他者」の「パースペクティヴ」を 踏まえ,そしてあるべき「役割」を「認知」し自覚することに基づくこと を前提として,あるべき「相互行為」をはたらかせるということとしての 「理想的役割取得」の立場を互いにはたらかせることが求められる。 この立場は,明らかに「契約主義」をのり越える。ミードの基本的な主 張を,以下のように述べることができる。 「個人」は,次のような在り方を持つ。「出生」して以降の経過において, 方向づけられない「欲求群」においての「私」を背景とする「主我(I)」 がはたらくようになるが,やがて「他者」との「コミュケーション」を通 して「共同体」における「態度・役割・期待」の内在化としての「社会化」 が起き,自ら自身についての絶えざる「対象化」をはたらかせる「客我
(me)」がはたらくようになる。そして,「主我(I)」と「客我(me)」の 「内的会話」を伴なう次のようなことに基づく「発達」が起きる。(1)「身
ることをもたらした。 ハーバーマスは,さらに,「新アリストテレス主義」に焦点を当てる。 そして,自らが立脚する「コミュニケーション行為」論に基づくことを前 提として,あらためてカントの立場に立ち返る。そして,コールバーグの 立場を「コミュニケーション行為」論に基づき展開させるという在り方で, 後期フッサールが前提としていた「コミュニケーション行為」論を潜在さ せた「生活世界」の立場を展開させることに向けての支柱を明らかにした。 こうしたことにおいて,「生活世界」の立場の展開についての問いが,ハ ーバーマスにはたらく〈「新アリストテレス主義」に対しての,明確に批 判しつつも接点を見出す立場〉において問われる。 註 註1 後期フッサールの「相互主観性(間主観性)」論,さらに言えば「相互主体性(間 主体性)」論について,「言語」の立場が隠れており,さらには「コミュニケーション 行為」論としての在り方をも潜在させていると言える。拙著『現象学の展開』(世界 書院,2015年)第!部第五篇『フッサールにおける「言語行為」論―「意味」論の可 能性と「生活世界」―』,p.207∼247,を参照して頂ければ幸いである。 註2 シェーラー(Max Scheler,1874∼1928)を「反カント主義」の人物として,ハ ーバーマスは取り上げている。シェーラーは「カントの形式主義を克服する」と主張 したが,その立場は,次のようであった。「感情」・「情動」には「理念的対象」への 「志向性」がはたらく一面があるとし,そのことは,あるべき「価値」(「実質的価値」) を「理念的対象」として「客観性」においてとらえるとして「実質的価値倫理学」を 主張する。 註3 Lawrence Kohlberg.1927∼1987.1959∼1967年,エール大学准教授・教授,1968 ∼1987年,ハーバード大学教授。
註4 Thomas Michael Scanlon.1940∼.ハーバード大学教授。「普遍主義」に基づく 「道徳」の立場を主張したが,あくまでも「契約主義」を前提として主張した。 註5 George Herbert Mead.1863∼1931.1894∼1931年,シカゴ大学教授。その立場
は,「社会行動主義(Social behaviorism)」と言われる。基本的主張を本論において 述べた。
等な契約当事者が社会制度の基本的ルールを承認し合うこと」として提唱し,1971年 『正義論』を出版した。ただし,1980年代以降,当初の「普遍主義」を修正した立場 を主張し,その立場をまとめ,1993年に『政治的リベラリズム』として出版した。 註7 Carol Gilligan.1937∼.ニューヨーク大学教授。基本的主張については,本論 において述べた。 註8 Nel Noddings.1929∼.スタンフォード大学教授。基本的主張については,本 論において述べた。 註9 Joan Tront.1952∼.ミネソタ大学教授。基本的主張については,本論において 述べた。 註10 benevolence. 註11 ただし,ハーバーマスは,以下のようなことも述べている(ED74f.)ことを問題提 起としておきたい。「他者への配慮」,そして,それが「連帯」へと向かうということ が「限界」を持つことを,むしろ「討議」こそが明らかにしてしまうことがある。そ れは,たとえば「功利主義」者がしばしば取り上げる「ディレンマ」としての「救命 ボートのディレンマ」(三人の遭難者のうち二人しか救命チャンスがないというディ レンマ)をめぐって起きる。そのことにおいては,「根拠づけ」の「手続き」,そして 「適用」の「手続き」をはたらかせ切ることはできず「普遍化」をはたらかせ切るこ とはできない。さらに言えば,この場合,「規範」の「根拠づけ」の観点という言わ ば「立法者」の観点と「規範」の「適用」の観点という言わば「裁判官」の観点のい ずれも(そうした二つの観点をはたかせながら「連帯」をはたらかせたいとは言え), はたらかせ切ることはできない。そして‘具体策’がないまま‘原則論’として,次 のことを述べ‘現場への丸投げ’が起きる。「功利主義による解決は道徳的に許され ない」。そして,「規範」の「根拠づけ」と「規範」の「適用」は,変わらず問われ続 けるままである。すなわち,次の二つの「役割」が問われ続けるままである。(1)「規 範を普遍性を踏まえた合意という根拠づけに基づいて成立させる立法者的役割」,(2) 「普遍性を踏まえた規範を具体的な事例に適用する裁判官的役割」。とは言え,やはり 「道徳」において「根拠づけ」は「適用」に優先されるということを述べる必要があ る。しかしその主張の「限界」が,このようにして「討議」の中で,むしろ明らかに なると述べざるを得ない。そして‘結局は’やはり「討議」において,とりわけ次の ことが問われるということであらざるを得ない。「普遍性を踏まえた規範を具体的な 事例に適用する裁判官的役割」がどのようにはたらくのか? 註12 「認識論」,「倫理学」(「道徳哲学」),「美学」という三つである。 註13 Alasdair MacIntyre.1929∼.ノートルダム大学(インディアナ州サウスベンド) 教授として教える。「目的論」なしで「規範」だけを追求しても「道徳的生活」にそ れ自体としての「統一性」をはたらかせられないとして,アリストテレス的「目的論」 を踏まえることを主張した。
大学教授,1988年,アメリカに渡り,カルフォルニア大学バークレー校教授として教
えた。「カント倫理学」も「功利主義」も「道徳的な決定」について非個人的な要素
を強調しているとして批判し,実践的な「道徳的生活」は「個人的な計画」に基づく と主張した。
註15 Richard McKay Rorty.1931∼2007.スタンフォード大学教授として教えた。「西 洋」における「知」に対して「認識論的」枠組みが「基礎づけ」を行なっているとす る「基礎づけ主義」を「行為」の‘本質論’としての「プラグマティズム」の立場か ら批判し,さらに「多元主義」をはたらかせることによって「ネオ・プラグマティズ ム」を主張した。 註16 Charles Taylor.1931∼.1972∼1998年,マギル大学教授,2002∼2007年,ノー スウエスタン大学教授として教える。「個人」の「権利」と同時に具体的な「社会的 共同体」の絆やそのことにおいての「個人」の「責任」を強調するという在り方での 「共同体主義」の政治理論・社会理論を主張した。また,「多文化」の具体的な在り方 での「相互承認」の立場として,「多文化主義」を主張した。 註17 rigorism.「道徳規範」についての‘教条主義的な厳格主義’。
註18 Charles Sanders Peirce.1839∼1914.反デカルト主義的な「認識論」として, 人間の「認識活動」の「記号過程」としての「分析」を主張した。 註19 Josiah Royce.1855∼1916.ハーバード大学で教える。カルフォルニア出身であ るがドイツに留学しヘーゲル主義を学んだ。しかし,ヘーゲルが言う「絶対精神」を, 「個人」が「共同体」を担うということとしてとらえ,さらに,アメリカ社会を具体 的に踏まえた在り方でアメリカ思想的にとらえ直した。そして,デカルト的「基礎づ け主義」を批判し,「真理」は,「真理」の「探究」の「共同体」においての「究極的 合意」に基づくと主張した。 註20 Jean Piaget.1896∼1980.「推理テスト」の「標準化」に携わる中で,子供がお かす間違いに注目し子供の「思考,論理,世界観,道徳観」について研究した。幼児 の「自己中心性」が「脱中心化」へと向かうことが「発達」の中心であるとした。ま ず「言葉」をめぐって,4,5歳以降の子供について扱ったが,さらに,それ以前に おいての,「感覚運動的知能」の「発生」について詳細に明らかにした〔『子供におけ る知能の誕生』(1936)〕。そのようにして「認知機能」を主題化したが,「対人機能」 の主題化に欠けることが批判された。 参考文献(掲載は第一次文献に絞った。引用に際しては,略号の後に引用ページを記した。)
Jürgen Habermas: Erläuterungen zur Diskursethik, Suhrkamp, Frankfurt a.M., 1991. 略 号を DE とした。邦訳『討議倫理』,清水多吉・朝倉輝一訳,法政大学出版局,2005 年。なお,原題は『討議倫理の解明』であるが,市販されている邦訳の題名を使用し 『討議倫理』とした。
Frank-furt a.M., 1983. 邦訳『道徳意識とコミュケーション行為』,三島憲一・中野敏男・木 前利秋訳,岩波書店,2000年。
Immanuel Kant: Kritik der praktischen Vernunft, PhB38, 1788. 邦訳『実践理性批判』(『カ ント全集』第7巻所収),坂部恵・伊古田理訳,岩波書店,2000年。
Lawrence Kohlberg: Essays on moral development, Volume I: The philosophy of moral development, Harper & Row, New York, 1981.
Lawrence Kohlberg: Essays on moral development, Volume II: The psychology of moral development, Harper & Row, New York, 1984.
Carol Gilligan: In different voice: Psychological theory and Women’s development, Har-vard University Press, Cambridge, Mass., 1982. 邦訳『もうひとつの声:男女の道徳 観のちがいと女性のアイデンティティ』,生田久美子・並木美智子訳,川島書店,1986 年。
Alasdair MacIntyre: After Virtue; A Study in Moral Theory, University of Notre Dame, Press, Notre Dame, Indiana, 1981. 邦訳『美徳なき時代』,篠崎榮訳,みすず書房,1993 年。
George Herbert Mead: Mind, Self, and Society, from the standpoint of a social behavior-ist, The University of Chicago Press, Chicgo, 1934. 邦訳『精神・自我・社会』(『デュ ーイ・ミード著作集』第6巻所収),河村望訳,人間の科学社,1995年。
John Rawls: A Theory of Justice, Harvard University Press, Cambridge, Mass., 1982. 邦 訳『正義論』,川本隆史・福間聡・神島裕子訳,紀伊國屋書店,2010年。
Richard Rorty: Philosophy and the Mirror of Nature, Princeton University Press, New Jersey, 1979. 邦訳『哲学と自然の鏡』,野家啓一監訳・伊藤春樹・須藤訓任・野家伸 也・柴田正良訳,産業図書,1993年。
Thomas, Michael Scalon: Contractualism and utilitarianism, in: Utilitarianism and beyond, Cambridge, Mass., 1982.
Charles Taylor: Sources of the Self: The Making of the Modern Identity, Harvard Uni-versity Press, Cambridge, Mass., 1989. 邦訳『自我の源泉 近代的アイデンティティ の形成』,下村潔・桜井徹・田中智彦訳,名古屋大学出版会,2010年。