そなえの技法、「そなえ」というキーワードが打ち 出された背景から
山口, 隼人
九州大学院
https://doi.org/10.15017/2340983
出版情報:九州人類学会報. 33, pp.1-5, 2006-07-15. 九州人類学研究会 バージョン:
権利関係:
そなえの技法、「そなえ」というキーワードが打ち出された背景から
山口 隼人(九州大学院)
目次
I ブルデューのハビトゥスの定義
1 1
研究者と事例との関係について今回のセッションは、生老病死の場面をフィ ールドとする研究者たちによって立ち上げら れました。具体的には、出産・老い・病気冶し をテーマとする院生・研究者・実践者たちです。
セッション発表では、生老病死の各事例におけ るインフォーマントの態度・行動・志向に「そ なえ」という語彙を与え、発表者各自の「そな え」の定義を示しました。また同時に、助産婦 の堀さんの発表では、現代の出産をめぐる身体 のありかたが、非常に明晰な自己言及のことば によって語られました。堀さんの語りの力強さ が、参加した研究者たちに大きな刺激となった
ことを、指摘しておきたいと思います。
この論集は、セッション後に行なわれた「そ なえ」概念の検討を経て、研究者各自の態度・
行動・志向にまで拡大して「そなえ」を論じた ものです。今回のセミナーでは、ピエール・ブ ルデューのハビトゥスという概念が強力な説 明のキーワードとして控えていました。
ハビトゥス。日本語に訳されたこの語彙は便 利すぎて、事例から聴きとっていく研究者の 個々のプロセスを、あらかじめひとまとめに回 収してしまう力をもってせまってきます。「ブ ルデューによれば」という言い回しが、たんな るハビトゥス概念の提示ではすまなくなり、事 例の考察から研究者の志向までを包摂する拠 り所になってしまう、そんな力です。論集を始 めるにあたり、以下ではハビトゥスに替えて
「そなえ」というキーワードが打ち出された背 景について述べておきましょう。「そなえ」の 内実は、各自の論文で示されて行きます。まず は (1)ブルデューのハビトゥスの定義、 (2) 今回のセミナーで問われた研究者と事例との 関係について、論者たちの基本的な理解を示し ておきます。
I
ブルデューのハビトゥスの定義辞書的な定義として、ブルデューは以下のよ うにハビトゥスをまとめています。
ハビトゥスとは、…心的諸傾向のシステム であり、構造化する構造(structures structurantes)として、つまり実践と表象の 産出・組織の原理として機能する素性をもっ た、構造化された構造(structurantes structurees)である。[ブルデュー 1988:83] この定義だけからでは構造化や構造の意味が わからないでしょう。ブルデュー自身が晩年に 語ったハビトゥスの定義は、以下のようでした。
ハビトゥスというのは、われわれの内にあ る、言説・行動の生成原理です。われわれは 社会的学習によって持続的・恒常的・体系的 な諸性向を獲得します。…われわれは直感的 に、人はひとつのまとまり、統一性を持って いると考えます。…ハビトゥスはこれを社会 的に獲得されたものとする概念です。人を理
解するとは、この生成原理—彼が即興する、
つまり言ったりしたりすることを選択する 原基であるマトリックスーを把握すること です。国]藤2002:22]
ここで言うところの「マトリックス」こそが、
先の定義の「構造化する構造」であり、同時に
「恒常的な諸性向」の原基としての「構造化さ れた構造」に他なりません。後者の「構造化さ れた構造」がマトリックスの拘束する面、歴史、
慣習、恒久化を示すとすれば、前者の「構造化 する」はマトリックスの拘束ゆえに可能になる、
新たな産出、即興、選択を示すものです。
しばしば誤解されることですが、ハビトゥス の「構造化された構造」の面、すなわち拘束・
歴史・慣習•恒久化の面は、決定論的に個人や 集団を制約するものではありません。たしかに チェスのルールのように閉じたゲームの中で 行なわれる産出・即興・選択の場合、コマの操 作の可能性は有限です。また、社会調査の結果、
出自や階級や地域や言語によって、性向がほぼ 限定的に決まることが判明するのも事実です。
ハビトゥスの拘束面だけを強調すれば、たしか にブルデューの調査報告や定義はかなり決定 論的な響きを持ってせまってきます。しかしチ
ェスのルールのような閉じた体系や公理を社 会調査に持ち込む視線こそ、ブルデューが悪し き客観主義として幸財幼に攻撃してきたもので す。「構造化された構造」とは、日々常に更新
される構造であって、決して形而上的に閉じた ルールではありません。問題の所在は、ハビト ゥス概念が決定論的かどうかというところで はなく、ハビトゥス批判の文脈に「閉じた体系」
を持ち込む批判者の視線にあります。
ハビトゥスという概念の出自は、決定論者た ちが前提する、出口があらかじめ決められてい る状態とは反対のところにあります。結論から 言えば、固定化された構造という感覚はブルデ ューには無く、常に更新されるマトリックスと
してハビトゥスが定義される、ということです。
ブルデュー自身が語ったハビトゥス概念の出 自について引用しておきましょう。
ハビトゥスの概念ですが、これはいわば 不可避的に生まれました。というのも、消 費や出生率、労働、労働との関係などに関 するアルジェリア人の行動についての統 計的研究の過程で、アルジェリアの人々は、
社会の機能を制する論理がまだ完全に貨 幣によって支配されていない前資本主義 社会の中で育ち、教育されたため、資本主 義世界に適応するのに必要なハビトゥス
を持っていないことを発見したからです。
彼らの行動は不適応でした。…こんなわけ で、ハビトゥスという概念をはじめから使 わざるをえなかったというのが実情です。
団0藤 2002:32]
ここでブルデューは決定論や悪しき客観主 義的な視線を持ち込まないよう注意しつつ、ア ルジェリアの事例に前資本主義を発見したこ
とを述べています。その資本主義との差異から、
ハビトゥスという概念が不可避的に生まれた のです。上記の引用文において、彼は自己と対 象との関係を物語りました。つまり彼はアルジ ェリアにおける近代化と貨幣の流通といった 事態を見つめ、そこから当該社会や個人に、後 に「構造化する構造と定義づけられる心的諸 傾向のシステムを見い出し、ハビトゥスという 語彙に到ったという語りです。
II 研究者と事例との関係について
文化人類学には、それなりの説得的な説明体 系や、説明の作法や、学間的な蓄積があります。
文化人類学の学会に属する研究者が、これらを 踏襲しつつ更新することは、ひとつの決まりご とです。ただ同時に、非常に説得的な説明体系 と、その語彙の流通は、安易なジャーゴンヘの 寄りかかりを招くことがあります。私たちは研
究者として、自分たちの態度にも自覚的でなけ ればいけないでしょう。
生老病死の事例について言えば、ジャーゴン に安易に寄りかからない自覚が前面に出て来 ます。インフォーマントに聴き、それを言語化 するプロセスにおいては、どうしてもインフォ ーマントの生き方にいかほどかコミットし、さ らに観察者としての自己への言及が避けられ ません。またそれらの作業の背後に通奏してい る近代・現代の再帰性1)への自覚は強く、私た ちの語彙の選択には常に強力なしばりがつき まといます。すなわち文化人類学を実践するに あたり、自覚的・戦略的にディタッチメントの 語彙を選択するしばりです。このディタッチメ
ントを前提とする作業そのものには何ら間題 はありません。しかし同時に、生老病死の事例 から聴く作業には何かこのしばりからズレる 身体の声と接する機会があるようです。
例えば重い病気と確定診断された人が、病院 では対症療法を受け入れ、医師たちの近代医学 の語彙で自分の状態を説明する。と同時に民間 療法を渡り歩いたり、自然冶癒といった語彙を 用いて、対症療法から区別された療法を意識的 に併用する。また同時に「こうなったのは仕方 ないことだ」というあきらめのような語りをす る。ひとつの身体をめぐってこれら3つの規範 が交互に現れる様子は、一見すると出所の違う 生命観・世界観のごった煮のようです。とくに
3つ目の「こうなったのは仕方ないことだ」と いう発話は、前2者の医療化と脱医療化といっ た対立項におさまりきれない部分をもって現 れています。
研究者の問題が、ここで出て来ます。せっか くインフォーマントに聴き、質的叫こ語りを考 察する手がかりを得たのに、いつのまにか「病 院化3)の地平・意識的な脱病院化・それら2つ と無関係」というふうに仕分けするようでは、
インフォーマントに「聴いた」ことにはなりま せん。安易なジャーゴンとしての「病院化」へ 寄りかかってしまうと、「イリイチの『病院化』
をここでも発見した」といった類いの浅薄な議 論に陥り、実のところ病者の聞き取り調査すら できていなかった、と言うおそまつな研究にな
るでしょう。
明らかにされるべきは、このようなジャーゴ ンヘの寄りかかりを招く態度、すなわち上記の 病者の生命観•世界観を「ごった煮」と呼んで、
あらかじめ別々に体系づけている態度です。こ れこそが、ブルデューの糾弾する客観主義者の ハビトゥスそのものなのかもしれません。つま り「病院化・脱病院化・それらと無関係」とい うふうに仕分けする研究者のハビトゥスです。
さきほど、生老病死の事例から聴く作業には、
しばりからズレる身体の声があるようだ、と言 いました。つまり研究者の仕分けをあらかじめ 方向づける力とは異なる位相の、身体の在り方 です。ここで急ぎ注意しておきたいのは、秋の セミナーは脱ハビトゥスとか、脱ブルデューと か、「身術惑覚の諸学説などを論じる場では なかったということです。つまり輸入概念とし てのハビトゥスのしばりがあるとか、それに対 抗する日本語の身体があるとかいった、浅薄な 議論とは相容れないことを目指しています。む しろ注視したいのは、この「しばりからズレる 身体の声」を意識的に聴かない緩慢な態度です。
つまり私たち日本語世界に生きる研究者の側 の、研究という行為への自覚の貧困さ•もしく は観察者としての自己を創っていくプロセス の甘さ•もしくは日本語で文化人類学をするこ とへの無自覚さの危険です。
では具体的に、「こうなったのは仕方ないこ とだ」というあきらめのような語りは、現在の 事態を納得するための自己言及として扱われ
るべきでしょうか。それとも何ものをも志向し ていない一種の置きみやげのような発話でし ょうか。また、「仕方ないことだ」という物言 いは、後述のハビトゥスの定義に関連づけて、
「社会的に学習された性向に基づいてなされ た発話」だと還元してもいいでしょうか。もち ろん個々の語りには文脈があるので、ここでど
うなのかは決められません。ただ、研究者がこ のように日本語の語りの在り方に接近して、日 本語で事例に参与することに自覚的であれば、
「病院化・脱病院化・それらと無関係」という ジャーゴンヘの安易なよりかかりとは別の地 平に、「仕方ないことだ」という物言いの現れ る可能性が開かれてくるでしょう。この点の具 体例は、各論を参考にしてください。
この冒頭では、ブルデューのハビトゥスの定 義と「そなえ」を提示する背景について説明し ました。この後は、ハビトゥスに寄りかかるで もなく、また対抗するでもなく、「自分はどう 目の前の事例から聴いたのか」を個々の論文で 自覚的に言葉にしていきます。この過程で、は じめて各論者の「そなえ」が提出されます。そ の後の往還を通して、ハビトゥスを通過した後 の、「そなえ」のキーワード化が開始されるで しょう。ハビトゥスという語彙をものにすると は、いったいどういうことなのか。それを単に 和語で言い換えるのではなく、自己の生きる世 界の語彙としてあえて「そなえ」を提出すると は、どういう事態なのか。これらの自問自答を 通過した後で、生老病死の事例から何を自分は 聴いたのか(あるいは言語化の作業のどこに自 分はいるのか)というプロセスを示すのが、こ の論集の大きな目当てなのです。
参照文献 加藤晴久(編)
2002 『ピエール・ブルデュー 1930‑2002』、 藤原書店。
ギデンズ、アンソニー
1993 『近代とはいかなる時代か? モダニ ティの帰結』、松尾精文・小幡正敏訳、
而立書房。 (GIDDENS, ANTHONY 1990 The Consequences of Modernity, Polity Press.)
ブルデュー、ピエール
1988 『実践感覚』、今村仁司・港道隆訳、
みすず書房 (BOURDIEU, PIERRE
1980 Le Sens Pratique, Les Editions de Minui te.) 森 山 工
2003 「ブルデューと人類学」 『文化の 権力—反射するブルデュー』、宮島喬・
石井洋二郎(編)、藤原書店。
注)
1)再帰性の定義は、論者各自でかなり異なるところ があります。以下のギデンズの近代・伝統・再帰 性の関係は、高い共通理解を得られるものなので、
ここに挙げておきます。
近代という時代の到来とともに、再帰性は異 なる特質を呈するようになる。…思考と行為と はつねに互いに反照し合うようになる。…伝統 の果たすオ先割は、概して大きくはない。なぜな ら、正統と認められている伝統は、見せかけの 衣をまとった伝統であって、その存在証明を近 代の有する再帰性からのみ得ているからである。
…モダニティに特徴的なのは、再帰性が一 もちろん、省察それ自体にたいする省察も含め 一見境もなく働くことである。[ギデンズ
1993:54‑56]
この説明は、近代の有する再帰性によって伝統観念 が成立していることを明言し、現代人が置かれてい る状況と再帰性の定義を説得的に示していると言 えます。
2) 質的研究の定義については、文化人類学の研究 姐去を解説した近年の書籍においてさえ、誤解と 呼ぶべきものが見られます。もともと「量的・統 計的」という語彙との違いを明確にするために「質 的」という語が用いられたのが誤解の原因です。
多くの「量的・統計的」手法が測定枠組みへの素 朴な信頼を前提とし、素朴な客観主義とでも呼ぶ べき体系化へと陥っていたのに対し、質的研究は、
考察対象と考察者との関係、測定対象と測定者と の関係に常に自覚的で、測定枠組みを常に検証し つつ、より高い共通理解に到る研究方法です。し たがって、質的研究は「量的・統計的」の概念と 対抗するものではなく、むしろ量的・統計的調査 の信頼性を成り立たせる操作であって、「客観的」
という概念を包摂した共通理解の基層を志向して います。量的な処理を行わない記述的なものが多 いですが、だからといって研究結果の普遍妥当性
が検証されにくいわけではなく、むしろより信頼 性の高い(共通理解の得られる)測定枠組みが構 成・共有される方法と言えます。語りや行動の参 与観察を、この意味で「正しく」極めようという 運動は、日本では雑誌「質的心理学研究」が先導
しています。質的研究の解説書としては、ウヴェ・
フリックの著書が和訳されているので参照して下 さい。フリック 2002『質的研究入門』春秋社。
3)病院化の定義については、ここで詳細を論じませ んが、病院化/脱病院化の概念についてはイヴァ ン・イリイチ 1979『脱病膨ヒ社会 医療の限界』
をその出所としています。