管理論としての経営経済学を巡る方法論争
著者 渡辺 敏雄
雑誌名 商学論究
巻 69
号 1
ページ 1‑69
発行年 2021‑07‑10
URL http://hdl.handle.net/10236/00029775
渡 辺 敏 雄
要 旨
ウェルナー・キルシュが経営経済学を管理論として規定し、その方法論 的立場を表明したことに対して、数多くの論評が公刊された。それらの多 くは伝統的経営経済学の立場から表明された方法論的論評であった。これ らに対して、キルシュは、反論の論評を公刊し、方法論争が生成した。こ の論争の内容の明確化は、管理論の基本的理解に欠かせないものであるだ けではなく、現代の経営経済学の状況の理解に必須である。
キーワード:管理論(Management Theory)、 方法論争(Methodological Debate)、ウェルナー・キルシュ(Werner Kirsch)、応用科 学(Applied Science)、認識論(Epistemology)
!
序キルシュの管理論としての経営経済学を巡っては、ドイツの経営経済学界 において波紋が広がった。
それは、キルシュが独特の方法論に基づいた構想を持っていたからである と考えられる1)。かれの『管理論としての経営経済学』が出版されるやそれ
1) われわれが、本稿において引用するキルシュの書物は、以下のものである。その書物 の引用時にわれわれが使用する略称を、末尾の括弧内に示しておく。
W. Kirsch, Organisatorische Führungssysteme-Bausteine zu einem verhaltenswissen- schaftlichen Bezugsrahmen-, München1976(OF).
Derselbe,Die Betriebswirtschaftslehre als Führungslehre-Erkenntnisperspektiven, Aus- sagensysteme, wissenschaftlicher Standort-, München1977(BF).
Derselbe,Wissenschaftliche Unternehmungsführung oder Freiheit vor der Wissenschaft?
- 1 -
に対する関心と反応は大きく2)、一冊の書物をキルシュの構想の検討に向け たものを含めいくつもの批判的位置づけが公刊された。
それらの批判的位置づけに対しては、キルシュは、批判に対する論評を含 む書物を公刊した3)。位置づけとそれらに対するキルシュの反論とは、 1 回 限りではあったが、それをわれわれは論争と見なす。
われわれは、本章では、キルシュの管理論としての経営経済学を巡る論争 を取り上げ検討することによって、特にかれの管理論の方法論的側面につい て一層の明確化を試みたい。
"
エルシェンによる位置づけ1.エルシェンの見解
(1) 管理論としての経営経済学の対象
エルシェン(R. Elschen)は、キルシュの管理論としての経営経済学に関 して、特にその基本的構成ならびに応用科学としての特質との関連での方法 論的側面に関して論評を行なう4)。その際、かれが念頭に置くのは、キルシュ の管理論における隣接学問との関連である。
経営経済学の経験対象は、「人が経営経済の管理を「改良」しようとすれ ばそこに知識が存在するべき全てのもの(alles, worüber Wissen vorhanden
sein sollte, wenn man die Führung von Betriebswirtschaften “ verbessern ”
möchte)
」(BF,S.
29)である、とキルシュが言ったことに関連させて、エル-Studien zu den Grundlagen der Führungslehre-,1. Halbband, München1984(WUFW 1. Halbbd.).
Derselbe,Wissenschaftliche Unternehmungsführung oder Freiheit vor der Wissenschaft?
-Studien zu den Grundlagen der Führungslehre-,2. Halbband, München1984(WUFW 2. Halbbd.).
また、本稿における経営経済学関連の雑誌の略号は、次の通りとする。
ZfB.=Zeitschrift für Betriebswirtschaft 2)W. Kirsch,BF.
3)W. Kirsch,WUFW,1. Halbbd. und2. Halbbd.
4)R. Elschen, Führungslehre als betriebswirtschaftliche Führungskonzeption ?, in : W. F.
Fischer-Winkelmann(Hrsg.),Paradigmawechsel in der Betriebswirtschaftslehre?,Spar- dorf1983, SS.238!262.
シェンは議論を説き起こす5)。
エルシェンは、さらに次の引用をする6)。
「しかし先入見なく分析されるべき経験対象「管理」は、他のどの経験領 域が重要な関連を持つのかに関する示唆を与える。」(BF.,31.)
ここから、経験対象が研究対象の予見性(Voreingenommenheit)を与える ような印象を受けるが、かれによれば、キルシュは、「管理」という言葉に よって、経験対象の特定の部分に焦点を当てようとはしていない。
なぜなら、キルシュの管理論に関する先の論述は、「……人が経験対象
「管理」に関する全てのものを研究しようとメタ理論的事前決定(metatheo-
retische Vorentscheidung)をしたことを意味する」
7)と見られるからである。さらにこの事態によって、キルシュの構想する経営経済学が、管理のため の「ひとつの」学問(eine Lehre)ではなく、「管理」の際に生じる全ての問 題を処理する管理のための「これこその包括的な」学問(die Lehre)である ことを意味する8)。
エルシェンによれば、キルシュの管理論は、画定基準の欠如した管理論で あり、かれの管理論は、扱う問題の範囲を不明確なままにすることによって、
管理の際に生じる全ての問題を扱える如く喧伝的に「これこその包括的な」
学問であると言うのは、広告虚偽(Etikettenschwindel)である9)。
かれは、学問は、全ての問題を扱えることはない、と考え、経験対象と認 識対象に関するキルシュの見解について、結論的に次のように言う。
「問題志向的」と言いながら全ての問題を扱えるような広範な「理論を当 てにするやり方」を取ることを宣言しつつも、それを履行していない故に、
いくら厳しく響こうとも、広告虚偽の非難は不当ではない、と10)。
5)R. Elschen,a. a. O.,SS.245!249.
6)R. Elschen,a. a. O.,S.245.
7)R. Elschen,a. a. O.,S.245.
8)R. Elschen,a. a. O.,S.246.
9)R. Elschen,a. a. O.,S.246.
10)R. Elschen,a. a. O.,S.248.
エルシェンは、さらに、キルシュの管理論に関連して、①隣接学問の認識 取り上げ(Erkenntnisübernahme)の基準、②問題志向性(Problemrelevanz)、
③経営経済学の研究目標(Forschungsziel)と教育目標(Ausbildungsziel)の 問題を取り上げる。
このうち、われわれは、①隣接学問の認識取り上げの基準と③経営経済学 の研究目標と教育目標に関するエルシェンの論評を見よう11)。
(2) 認識取り上げの基準
キルシュによる隣接学問の行動科学的研究成果の取り上げ12)を問題にする エルシェンは、直接に実践の問題を克服しようとするキルシュの努力は、社 会学的認識、社会心理学的認識、心理学的認識の取り上げを必要とすること を確認する13)。
キルシュの管理論は、経済科学(Wirtschaftswissenschaft)と、組織の現 象を巡る行動科学的研究努力の全体である組織科学(Organisationswissen-
schaft)
以外の科学をも包含した学問である14)。かれは、かれの管理論に重要11)エルシェンは、ここで挙げた 3 つの問題のうち、②問題志向性の名の下に、仮説を実 践の問題の解決に利用する際の問題を一般論的に取り上げる。つまり、この問題は、
キルシュの見解に存在すると言うより、実践の問題の解決に対する行動仮説の適用能 力(Verwendungsfähigkeit)に関する評価を巡る問題である(A. a. O.,SS.253!255)。
それに関連するエルシェンの議論は、仮説を実践における問題の解決のための基礎と する際の一般的注意事項を書いたものだけに、キルシュとしても、それには反論する 可能性も必要性もなく、かれは、エルシェンの見解に関する論評ではそれに対しては 何ら触れてもいない。このことに関しては、本稿注27)に挙げたキルシュの論評を参 照のこと。
それ故、われわれは、問題志向性に関するエルシェンの見解の紹介を割愛する。
また、ここで言う問題志向性は、本文以下に出てくる問題関連性とは、原語は似るが、
異なる概念である。
12)キルシュによる隣接学問の認識取り上げの基準についてのエルシェンの見解に関して は、次を参照のこと。
R. Elschen,a. a. O.,SS.249!253.
13)R. Elschen,a. a. O.,S.250.
14)R. Elschen,a. a. O.,S.246.
経営の管理においては、物理学的問題(Problem physikalischer Art)、化学的問題
(Problem chemischer Art)、生物学的問題(Problem biologischer Art)、薬学的問題
(Problem pharmazeutischer Art)が発生することを前提とすると、キルシュの管理論
な関連を持つ 隣 接 学 問(Nachbardisziplin)の 無 数 の 数 え 上 げ(zahlreiche
Aufzählung)をなす
15)。エルシェンは、キルシュのこうした態度においては、認識の取り上げのた めの基準が欠如していると指摘する。
こうした解釈に立つエルシェンは、キルシュが一般的選抜基準あるいは一 般的取り上げ基準(allgemeines Auswahl- oder Übernahmekriterium)を提示 するのを躊躇しているとして、その躊躇は、次の解釈を可能にすると言う16)。
第 1 に、キルシュの管理論は、その根底にある行動科学的研究成果の取り 上げの際に、一般的指針なしに、個別事例類推的(kasuistisch)に、すなわ ち認識の問題関連性を個別事例毎に類推に基づいて判断して前進する。この 解釈が妥当であるならば、かれの管理論は、類推という非科学的な基準に よって認識を選択していることになり、殆ど研究上の構想とは言えない。
第 2 に、キルシュの管理論は、個別事例類推的なものではなくて、「問題 関連的認識」(“problemrelevante Erkenntnis”)を取り上げようとしていると 解される。そうであるのならば、そのことは、問題関連的(problemrelevant)
と問題非関連的(nicht-problemrelevant)、ならびに認識(Erkenntnis)と非 認識(Nicht-Erkenntnis)の二対の概念の区別を要求する故に、そのための 一般的選抜基準が要求されざるを得ない。しかし、かれは、一般的選抜基準 を明確化していない。「……(問題関連性と認識の-渡辺)両方の概念に関す る論述から行動科学的研究成果の取り上げのための何らの構想も、何らの基 準も導き出されていない、と仮定しなければならない。」17)
ここでエルシェンが指摘する問題関連性と認識の特質についての位置づけ には、技術者科学的管理論あるいは法科学的管理論(ingenieur- oder rechtswissen- schaftliche Fürungslehre)に対する区別基準が存在しない。
15)エルシェンは、キルシュが取り入れる隣接学問の範囲が画定されていないことを指適 して、次のように言う。
取り上げられるべき隣接学問が、その名称の前に、「例えば(z. B.)」と付けるか、あ るいは後に「等(usw.)」と付けるかによって境界画定に関する批判からの免疫化が なされている(A. a. O.,SS.248!249.)。
16)R. Elschen,a. a. O.,SS.250!251.
17)R. Elschen,a. a. O.,S.251.
は、キルシュの管理論にとって本質的である。
まず、問題関連性との関連では、キルシュが、アクションリサーチの前提 として持っている認識の選抜基準が問題とされている。キルシュは、アク ションリサーチの中で把握される実践の問題を、認識の評価基準としている。
かれは、実践に、かれ 1 人ないしかれの率いる 1 つの講座の集団で入って いって、実践における問題を把握し、その解決のための助言をしようとする。
その際、かれとかれの講座が持つ理論の選抜に関しては、境界を定めること ができないと解される。なぜなら、問題が明確化される前に、理論を準備す る必要があるという認識の問題関連性の事前不確定性が存在するからである。
その結果、かれがアクションリサーチを営む際に所有する認識は、問題関 連性の下に取り纏められている訳ではないのである。
次に、認識の特質との関連では、キルシュが、実践に入っていってアク ションリサーチをして展開する言明の特質が問題とされていると解される。
アクションリサーチにおいては、実践が経過している途中における助言の即 座の適用が求められ、その限りで、助言ないし修正された助言が効果を実現 すればそれで行為は完結し、助言が効果を生み出した理由ないし効果を生み 出さなかった理由についての究明が行なわれる可能性はないと見られた。そ れ故、キルシュは、基準を持ち出して、実践の場面で展開され適用された言 明の特質を吟味し、例えば、それが、かなり確固とした理論から導出された 仮説に相当するか、あるいはどの理論からの導出の関係にもない場当たり的 な仮説であるか、について判断を試みる訳では決してない。
こうした事情から、かれがアクションリサーチにおいて展開する認識は、
品質の保証を欠くのである。
かれは、キルシュが、アクションリサーチを営む際に所有する認識と、そ こにおいて展開する認識の両方に関して、それらを貫く選択基準がないこと を指して次のように言う。
「……キルシュは、そうした(基準の-渡辺)体系を展開してもいないし、
そうした体系を広範な行動理論あるいは経験的行動研究の個別成果に適用し
てもいない。」18)
結局、エルシェンは、キルシュの管理論は、アクションリサーチにおける 試論的な域を出ていない隣接学問の成果の低品質品の投げ売り商売(ram-
schnahe Vermarktung)としての経営経済学であるとする
19)。低品質品の投げ売り商売としての管理論という論評は、直接には、キル シュがアクションリサーチにおいて展開する認識に向けられている。しかし、
エルシェンは、キルシュがアクションリサーチを営む際に所有する認識にも、
品質の低い学問と言う言葉を投げ掛ける。そうした批判は、研究目標と教育 目標に関するキルシュの理解に関して主として行なわれる。それ故、われわ れは、それについては、節を変えて見ることとする。
(3) 研究目標と教育目標の異同
エルシェンによれば、管理論のひとつの重要な関心事は、経営経済学の研 究目標と経営経済において働く人々(Betriebswirt)のための教育目標の連 結である20)。
キルシュは、経営経済学的研究においてのみならず、経営経済において働 く人々のための教育においても行動科学的認識を取り上げることを要求する。
こうした要求は、経営経済学が従来から国民経済学との強い結びつきの中 で研究してきた桎梏から解放されなければならないというかれの考えから出 た要求である。
こうした要求には、経営経済学の研究とならんで教育も実践に役立つとい う目標に向かってなされるべきことが表れている。
その際、エルシェンによれば、キルシュは、社会学者(Soziologe)あるい は心理学者(Psychologe)ではなくて、まさしく経営経済学者(betriebswirt-
18)R. Elschen,a. a. O.,S.251.
19)R. Elschen,a. a. O.,S.251.
20)管理論における研究目標と教育目標との関連についてのエルシェンの見解に関しては、
次を参照のこと。
R. Elschen,a. a. O.,S.255!257.
schaftlicher Forscher)のみが「将来の管理者のための」科学的に基礎づけ
ら れ た「教 育」(wissenschaftlich fundierte “Ausbildung zur künftigen Füh-rungskraft”)を行なえると考えている
21)。エルシェンの紹介に表れたキルシュの意図は、社会学者ならびに心理学者 が経営に関する現象を研究し教育する経営社会学者(Betriebssoziologe)な いし経営心理学者(Betriebspsychologe)になるのではなく22)、まさに経営経 済学者が、経営経済の行動に関する社会学ならびに心理学の成果を携えて経 営経済学の教育を行なうべきである、ということである23)。
キルシュのそうした態度に関連して、エルシェンによると、経営経済学の 中の科目においては、専門的知識に基づく方法論的批判抜きで社会学ならび に心理学を含む行動科学的研究の成果が伝達されてしまい、学生が自らそれ らの言明内容を判断し得ない事態が広がる24)。
このことによって、経営経済学は、社会学、心理学等の中の商人にとって 関心のある部分領域の受け入れによって、強制的にそれらの学問の認識の伝 達をなす「知らせ」(“Kunde”)の学問の特質を持つようになるというシェー ファー(E. Schäfer)の警告が想起される。そうした事態によって、経営経 済学の学問的研究としての自己分解(Selbstliquidation)が差し迫る25)。
エルシェンによれば、キルシュの構想する経営経済学に関しては、まず、
経営経済学者は企業の実践の問題の解決に貢献すること、次に、実践の問題 の解決提案を提示するに当たって、ひとりの経営経済学者が諸知識を持ち合 わせる必要があるという前提に立っている26)。
21)R. Elschen,a. a. O.,S.256.
22)R. Elschen,a. a. O., S.256.
23)この背景には、実践においてアクションリサーチによって必要な助言を提供していく というキルシュの目的と、アクションリサーチのためには、経営経済学者は必要な理 論的認識を持っていなければならないという事態があると解される。
24)R. Elschen,a. a. O.,SS.256!257.
25)R. Elschen,a. a. O.,S.257.
26)たとえキルシュの経営経済学におけるアクションリサーチの構想を承認し、経営経済 学者が企業の実践の問題の解決に貢献することを認めるにしても、実践の問題の解決 提案がひとりの経営経済学者が持ち合わせる諸知識によってなされるという前提に関
そのことによって、経営経済学は、他の学問の認識の寄せ集めとその伝達 としての教育を行なう品質の低い学問となり、自己分解の危機に瀕するとエ ルシェンは批判的に指摘したのである。
2.キルシュによる反論
キルシュは、エルシェンの位置づけに対して、次のように論評する27)。
(1) 管理論としての経営経済学の対象を巡る問題
キルシュは、エルシェンの見解には、投光器の機能に関する無理解があり、
自身の見解には、管理の予見性なき分析を語ったという誤りがある、と指摘 する28)。
キルシュによれば、認識観点が、管理の学問に相当して、それが投光器と なって、管理を巡って生じる問題の予めの理解(Vorverständnis)が生まれ るのである29)。
投光器としての認識観点の位置には、キルシュの管理論の当初の構想の時 期においては、進歩能力のある組織が入り、促進と対応がその内容をなす。
促進と対応を内容に持つ投光器によって、それに関連を持つ学問が照らし 出される。そうした 2 つの内容を含む進歩能力のある組織は、理想的な組織 体質であると解された。
その後、キルシュは、アクションリサーチを強調することと平行して、理
して懐疑的な研究者に、ツィークラー(L. J. Ziegler)がいる。
かれは、このことに関して、応用科学としての経営経済学者は、それぞれ 1 つの基礎 科学に基づいて研究活動を営むべきであるという分業原理が妥当すると考えている。
かれの言う応用科学の分業原理に関しては、次を参照のこと。
本稿「Ⅲ ツィークラーによる位置づけ」。
27)エルシェンの見解に対するキルシュの論評に関しては、次を参照のこと。
W. Kirsch, Kritik und Replik : Die Betriebswirtschaftslehre als Lehre für die Führung auf der Grundlage einer Lehre von der Führung, in : W. Kirsch,WUFW,1. Halbbd., SS.
406!428.
28)W. Kirsch,a. a. O.,S.415.
29)W. Kirsch,a. a. O.,S.416.
想的な組織体質のみではなく、対応を実現する政策論としての経営組織論な らびに経営戦略論の認識を取り入れた。アクションリサーチにおいては、研 究者は、理論的認識をもって実践に入っていって、実践の個別問題を把握し て、解決の助言をなす。その際、実践の個別問題が、それを解決するための 理論的認識を照らし出すと解された。この段階の管理の学問は、理想的な組 織体質と解された進歩能力のある組織ではなく、実践の個別問題を内容とす ることとなった。
以上を纏めると、キルシュの管理論においては、実践の個別問題が、管理 の学問である投光器として、それを解決するための理論的認識を選択する、
と考えられている。
それ故、この事態を前提とすると、エルシェンが、キルシュの構想する経 営経済学は、取り上げるべき他の諸々の隣接学問に対する画定基準の欠如し た管理論であり、扱う問題の範囲を不明確なままにすることによって、かれ の管理論が、管理に関する「これこその包括的な」学問(die Lehre)である かの如く主張するのは広告虚偽である、という論難は、妥当している。
なぜなら、次のような事情が考えられたからである。キルシュは、実践に、
かれ 1 人ないしかれの率いる 1 つの講座の集団で入っていって、アクション リサーチをなす。その際、かれとかれの講座が持つ理論の選抜に関しては、
境界を定めることができないと解された。問題が明確化される前に、理論を 準備する必要があるからである。換言すれば、実践の問題は、その都度異な り、それによって照らし出される認識も異なるので、かれの管理論は、どの 企業の管理の際にも共通に生じる全ての問題を扱える理論的認識を準備する ことはできないのである。
したがって、一方では、かれの管理論は、取り上げるべき他の諸々の隣接 学問に対する画定基準の欠如した管理論であり、他方では、キルシュによる 選抜を経た理論的認識を基礎に置くので、管理の際に生じる全ての問題を扱 える「これこその包括的な」学問の構造を決して持っていない。
(2) 認識取り上げの基準を巡る問題
関連する行動科学的研究からの認識取り上げの一般的基準が欠如するとい うエルシェンの批判に接して、キルシュは、そうした要求が何故正当化され るのかが理解できないとする30)。
キルシュは、この点について、エルシェンの批判的議論は、既に他の研究 伝統において良く完成された認識を取り上げる際の観点のみを念頭に置いて いる、とする31)。
この言葉によって、キルシュは、エルシェンの論評に関して、アクション リサーチを営む際に所有する認識については、基準の欠如を承認せざるを得 ないと考えていると見られ、アクションリサーチにおいて展開する認識につ いては、エルシェンの論評に反論を試みたと見られる。
これに関連して、以下、われわれは、①において、前者に関して、②にお いて、後者に関して、キルシュの見解を取り上げる。
① 問題関連性と認識取り上げの基準
キルシュが構想する管理論の研究者は、ある基準から、完成された認識を 選択して管理論を構成するのではなく、アクションリサーチにおいて、実践 の問題を解決するために、実践の場面において、技術論的言明を形作り、助 言を行なう。その際、実践の問題の解決可能性が、理論的認識を評価する基 準である。
キルシュとかれの講座がアクションリサーチを営む際に所有する認識の選 抜に関しては、境界を予め一般的に定めることができない。なぜなら、実践 の問題が明確化されて初めて、それが理論の選抜の基準として機能するから である。この限りで、アクションリサーチを営む際に所有する認識について は、認識取り上げの一般的基準の欠如を指摘するエルシェンの批判は妥当し ている。
30)W. Kirsch,a. a. O.,S.420.
31)W. Kirsch,a. a. O.,S.420.
② 認識の特質
キルシュの管理論の営為が、アアクションリサーチにおける試論的な域を 出ていない隣接学問の成果の低品質品の投げ売り商売であるとしてエルシェ ンが批判することに対して、キルシュは、このことが妥当していないと反論 する32)。
かれは、アクションリサーチを営むに当たっては、実践において、実践の 問題の解決のための理論的認識に基づいてリアルタイム研究を行なうが、そ れは、クーンの意味での通常研究(normale Forschung)であるとして、そ こで生み出された言明の品質を保証しようと試みる33)。
ところが、われわれの見解によれば、アクションリサーチにおいて行なわ れるリアルタイム研究は、専ら技術論的なそれであった。しかも、それは決 して果たされないと解された。それ故、キルシュが理論的研究の範型として の通常研究を持ち出して認識の品質の保証をしようとした反論はそもそも妥 当しない。
また、キルシュ 1 人ないしかれの率いる 1 つの講座の集団が、アクション リサーチにおける助言面で、目的達成度が高く、効率の面で質の高い助言を 展開することは必ずしも期待できなかった。なぜなら、 1 人の研究者ないし 1 つの講座の集団が複数領域の理論的認識を携えて実践に入ることが前提と される場合、それぞれの領域の理論的認識の在庫を知り尽くすことは困難を 極め、そうした状況の下では、目的達成度、効率ともに高水準の手段を助言 できる技術論的言明の元となる理論的言明を探し当てることは困難であると 判断されるからである。
それ故、低品質品の投げ売りという批判が、キルシュの管理論の中心的領 域としてのアクションリサーチにおいて展開される認識に向けられている場 合、それは妥当していると判断され、かれはその批判を受け入れざるを得な いとわれわれは考える。
32)W. Kirsch,a. a. O.,S.422.
33)W. Kirsch,a. a. O.,S.420.
(3) 研究目標と教育目標の異同を巡る問題
エルシェンは、経営社会学者ならびに経営心理学者が経営経済の教育を担 当するのではなく、経営経済学者が、行動科学の成果を携えて教育をなすべ きである、とキルシュが考えたことについて、キルシュの考える経営経済学 は、それらの学問における認識の伝達としての知らせをなす学問に成り下が り、経営経済学は、自己分解の危機に瀕する、と指摘した。
これに対して、キルシュは、自身が意図するアクションリサーチの研究を 持ち出し議論する34)。
その際、われわれは、かれの次の言葉に注目するべきである。
個々の研究者が有能な参加者になるためには、常に全く少数の研究伝統に 集中し得るし、当然そうしなければならない35)。この「少数」という言葉に 込めたキルシュの意図は、ひとつを理想とすると解され得る。
そのことによって、経営経済学者が少数の隣接学問の専門性を有しながら アクションリサーチを行ない、またそこで獲得した隣接学問の認識に基づい て教育をなすべきである。それ故、参加した学問領域の少数性は、専門性を 保持する条件と解される。
研究者は、少数の学問領域に参加してこそ、その領域での専門家と見なさ れる。例えば、経営経済学者が社会学に通暁したり、経営経済学者が心理学 に通暁するという 1 つの領域への参加が、専門家になることの典型例である と見なされるのである。
ところが、少数の隣接学問との関連の主張とは裏腹に、キルシュのアク ションリサーチの営為に関しては、多数と解釈できる複数の隣接学問との関 連が想定されていた。
つまり、キルシュ 1 人ないしかれの率いる 1 つの講座の集団が、複数領域 の広く浅い理論的知識を持っていて、実践の場面で実践の目的の達成に役立 つと考えられる理論的知識から助言を行なうものと見なされた。
34)W. Kirsch,a. a. O.,SS.424!425.
35)W. Kirsch,a. a. O.,S.425.
このことと、キルシュが、経営経済学のみが経営経済学的教育を担当する べきであり、その際、経営経済学者が携えた複数領域の学問認識から将来の 管理者のために必要となる知識のうちできるだけ多くの内容を伝達せざるを 得ないと考えるに至ったことは一貫している。
キルシュは、エルシェンの批判の矛先をかわそうとして、自身が考える研 究の実態とは裏腹の像に基づき、経営経済学者が取り入れる学問領域の少数 性を主張した訳である。
われわれの見解によれば、経営経済学者は、研究上、 1 つの基礎学問に集 中するべきである。
そうした集中は、教育面に関しても、経営経済学者が、各学問領域の専門 性を獲得できずに浅薄な知識を受け売りしてしまうことを回避できる。
エルシェンの批判に戻れば、キルシュのアクションリサーチとそれに関連 させた経営経済学教育論に関して言えば、キルシュの考える経営経済学は、
社会学ならびに心理学の中の商人にとって関心のある知識を取り上げ、それ らの認識の伝達としての知らせの学問に成り、経営経済学の自己分解の危機 に瀕する、というエルシェンの言葉は妥当している。
最後に、われわれの考える経営経済学教育論を論じるならば、経営経済学 が社会学や心理学の成果を携えて教育を行なうのではなく、経営社会学者な らびに経営心理学者が経営経済の教育を担当すべきである、と考える。なぜ なら、こうしてこそ初めて、その学問の専門的知識の内容と位置づけを知り 尽くした研究者が教育を行えるからである。エルシェンも正にそのように考 えていると見られる。
!
ツィークラーによる位置づけ1.ツィークラーの見解
キルシュの管理論としての経営経済学の構想を取り上げ、批判的に検討し ている研究者のひとりに、ツィークラー(L. J. Ziegler)がいる。
われわれは、以下において、ツィークラーの論評を見よう。
(1) 経済学を基礎にした応用科学としての経営経済学
ツィークラーは、かれの研究課題を限定して、経営経済学的研究の目標設 定の非独断的画定(undogmatische Festlegung der Zielsetzung der betriebs-
wirtschaftlicher Forschung)の問題と、目標設定と結びついた適切な方法と
研究路線の選択(Wahl geeigneter Methoden und Forschungslinien)の問題 を挙げる36)。また、かれは、こうした研究課題との関係で取り上げるべき問題として、
経営経済学的研究の合理的再構成の問題(Problem des rationalen Umbaus
der betriebswirtschaftlicher Forschung)と、これと結びついた従来の伝統と
隣接学問なかでも理論的経済学(theoretische Ökonomie)と最近では行動科 学(Verhaltenswissenschaft)に対する最も実り多い関係の問題を挙げる37)。ここからわれわれが知り得るのは、かれが、経営経済学の歴史ないし伝統 の解釈をもってかれの説を根拠づける態度であり、さらに、かれが、経営経 済学の目標を非独断的に画定し、その目標の実現に適合する方法と研究路線 を選択することを目指していることである。その際、方法と研究路線におい てかれが問題にするのが、理論的経済学と行動科学に対する経営経済学の関 係である。
かれは、経営経済学的研究の目標設定の非独断的画定と称するものの、結 局は、次のように言う。
現代の経営経済学は、グーテンベルク(E. Gutenberg)の経営経済学を継 承してはならず、シュマーレンバッハ(E. Schmalenbach)の経営経済学の 伝統において研究し、所与の数学的理論と 経 済 理 論(mathematische und
36)L. J. Ziegler,Betriebswirtschaftslehre und wissenschaftliche Revolution-Eugen Schmalen- bachs Betriebswirtschaftslehre zum Gedächtnis-, Stuttgart1980.
ツィークラーの見解についてのわれわれの位置づけに関しては、次を参照のこと。
渡辺敏雄(稿)「応用経済科学としての経営経済学の成立根拠-L. J.ツィークラーの 見解を中心に-」『香川大学経済学部研究年報 25』(1986年 3 月)。
37)L. J. Ziegler,a. a. O.,S. V.
ツィークラーの研究課題については、さらに次の箇所に同様の記述がある。
L. J. Ziegler,a. a. O.,S.3. u. SS.7!8.
ökonomische Theorie)に基づいて手続規則(Verfahrensregel)を獲得努力し
ようとする経営経済学を継承しなければならない、と38)。ここからわれわれが知り得るのは、かれが、シュマーレンバッハの経営経 済学を受け継ぎながら、経営経済学の任務を考えることであり、なかでも応 用科学(angewandte Wissenschaft)としての経営経済学の規定を受け継ぐこ とである39)。
われわれは、ツィークラーのこうした見解においては、歴史上の特定の学 説の受け入れと、それに基づく経営経済学の目標の画定がなされていると言 わざるを得ない。
それ故、われわれは、かれが宣言していた「経営経済学的研究の目標設定 の非独断的画定」ならびに「経営経済学的研究の合理的再構成」が達成され ているとは言い難い。
さて、かれの見解においては、所与の数学的理論と経済理論に基づく手続 規則を獲得努力する、という応用科学の内容的側面に触れられていた。
このうち特に、経済学(Ökonomie)に関して、かれは、特に経験的テス
38)L. J. Ziegler,a. a. O.,S.67.
かれの書物の副題にも見られるように、ツィークラーが、シュマーレンバッハの経営 経済学の伝統を受け継ごうとしていることは、次の文章にも表れる。
「現代の経営経済学は、19世紀末から20世紀初頭に至る時期におけるその生成期のよ うに、応用科学あるいは実践志向的科学として理解される。その際、シュマーレン バッハの経営経済学の任務を回顧することは、現代的な経営経済学の本質的な特徴と なる(A. a. O.,S.3)。」
39)研究に纏わる価値(Wert)の 3 分類に関連づければ、ここでの事態は、次のようにな る。第 1 に、対象領域における価値(Wert im Objektbereich)があり、第 2 に、研究 者が行なう規範的な判断があり、それらとは区別される、第 3 の、研究者が避けて通 ることのできない基礎価値判断(Basiswerturteil)があり、ここで意味されているの はそれである。つまり、ツィークラーが、経営経済学の目的として、応用科学を選択 することは、研究者の基礎価値判断に属すると解される。したがって、それは、そも そも、根拠づけを超越したものであり、かれが言うようには、非独断的画定ができる ものではないと解される。
なお、こうした価値の 3 分類に関しては、次を参照のこと。
A. Kieser und H. Kubicek, Organisationstheorien I-Wissenschaftstheoretische Anfor- derungen und kritische Analyse klassischer Ansätze-, Stuttgart1978, S.66. (田 島 壯 幸
(監訳)『組織理論の諸潮流Ⅰ-科学理論的必要条件と古典的諸研究方向の批判的分析
-』(千倉書房、1981年)、67!68頁。)
トの問題を取り上げながら、その理論の構造に触れる。かれは、経済学にお いては、理論内における前提として考えられる確固たる中核(harter Kern)
が存在して、その部分は、観察可能な現象との突き合わせによって容易に打 ち倒されてしまうとは考えられていないという事態を指摘する40)。
こうした構造を持つ経済学に対するかれの態度と比較して、行動科学的に 志向した経営経済学の理論に対するかれの態度はどのようなものか。かれは、
それを巡っては詳細には明らかにしていない。われわれがかれの見解から察 するところによれば、かれは、行動科学的に志向した経営経済学は、変転し て止まない流動的な認識しか持たないと見ていると解される。
ツィークラーの以上の見解を要約するに、かれの言う理論とは、確固たる 中核を中心とした堅固な体系であり、まさに経済学はそのような意味での理 論を持ち、応用科学は、およそ科学である限り、堅固な体系としての理論に 基づく必要がある、という主旨となる。
これが、かれが経済学を応用科学の根底に据える根拠である。かれは、経 済学のうちでも特に微視経済学(Mikro-Ökonomie)の理論を応用科学の根 底に据える41)。
かれは、応用科学が基づく科学を基礎科学(Primärwissenschaft)と称す るので、われわれがかれの提唱する経営経済学を簡潔に表現すれば、「微視 経済学を基礎科学とする応用科学としての経営経済学」となる42)。
40)L. J. Ziegler,a. a. O.,S.101Fußnote.
ここでの理論の構成についてのツィークラーの理解は、次の事態である。理論の中心 には、確固たる中核の部分があり、その周りにはいくつかの公理が存在する。さらに そこから定理を経由して導出された具体的仮説が最も現実に近い言明である。理論の 経験的テストは、通常、具体的仮説と、現実ならびに観察に関する記述を行なった観 察言明ないし基礎言明(Basissatz)との突き合わせによってなされる。
以上の理論の構成ならびに経験的テストに関するより詳しい論述については、次を参 照のこと。
A. Kieser und H. Kubicek,a. a. O.,SS.13ff.(邦訳、 4 頁以降。)
41)ツィークラーの考える応用科学の基礎科学が経済学のうちでも微視経済学であること に関して、次を参照のこと。
L. J. Ziegler,a. a. O.,S.31.
42)L. J. Ziegler,a. a. O.,S.104Fußnote.
さて、ツィークラーは、キルシュによる管理論の構想に関して、次のよう に考える。
キルシュの管理論の基礎としての理論的枠組に認識を提供する主たる学問 は、経済学ではなくて、行動科学的組織理論(verhaltenswissenschaftliche
Organisationstheorie)である。
このことに関連して、キルシュが、応用科学の基礎科学として、行動科学 的組織理論による微視経済学の取り替えの要求をなしたことに対して、
ツィークラーは反論をなす。
キルシュは、行動科学的組織理論が微視経済学を全面的に代替してしまえ るならば、それは、管理論の立場から見て理想的(ideal)であると見なす43)。 その理由は、微視経済学が給付能力(Leistungsfähigkeit)をこれ以上発揮し ようのない地点にまで来ている事態であり、かれがそこでの給付能力におい て考えているのは、理論の説明力(Erklärungskraft)44)ないし真理近接性
(Wahrheitsnähe)45)を確保する能力である。つまり、行動科学的組織理論が、
微視経済学よりも高い説明力を持ち、より高い真理近接性を確保する能力を 持つからこそ、かれは、行動科学的組織理論によって微視経済学の取り替え を図った。
ツィークラーによれば、キルシュは、こうした方法によって、応用科学の 中へ、説明力ないし真理近接性の判断基準を持ち込んだ。
ツィークラーは、キルシュのこうした態度に反論し、真理近接性は、純粋 科学の評価基準であり、これとは対照的に、応用科学の評価基準は、効率
(Effizienz)の確保であると説く46)。
この区別に基づき、かれは、より高い真理近接性の確保が必ずしもより高 い効率の技術論的規則(technologische Regel)の獲得に結びつく訳ではない
43)L. J. Ziegler,a. a. O.,S.109.
44)それに関しては、次を参照のこと。
L. J. Ziegler,a. a. O.,S.105u. S.106.
45)L. J. Ziegler,a. a. O.,S.111.
46)L. J. Ziegler,a. a. O.,SS.13!14.
とする。こうした考えに基づくかれは、行動科学的組織理論による微視経済 学の取り替えに反発する。
ここでわれわれが注意するべきことは、以上の議論のひとつの前提が、基 礎科学としての微視経済学と行動科学的組織理論の両者から導かれた技術論 的規則の効率を相互に比較することが可能であるということである。
こうした意味での比較可能性の存在を前提として初めて、行動科学的組織 理論から導かれた技術論的規則は、微視経済学から導かれた技術論的規則よ りもより高い効率を必ずしも確保しないだけに、行動科学的組織理論による 微視経済学の取り替えの要求は正当性を持たないと判断され得る。
ツィークラーの議論も、こうした前提に立って判断していると解される。
しかし、われわれの見解によれば、こうした意味での比較可能性は存在し ない。それ故、応用科学の基礎科学としての経済学と行動科学的組織理論の 比較優位性に関しては、議論不可能であると考えられる。
ここで、こうした意味での比較可能性の欠如は、ツィークラーによっても 確認されている。
なぜなら、かれによれば、経済学と行動科学的組織理論には、それぞれ固 有の問題領域(Problemgebiet)があり、経済学の問題領域と組織理論の問 題領域は大きく異なり、経済学の中心問題へ行動科学的組織理論が割り込む ということはない。すなわち、経済学には、固有の市場現象(Marktgesche-
hen)の説明という問題領域があり、こうした問題領域には行動科学的組織
理論は足を踏み入れない47)。双方の基礎科学が同一の説明問題を巡って競合してはいないことは、それ らの基礎科学が同一の実践的問題を巡って競合していないことに繋がる。こ こに双方の基礎科学から導かれた技術論的規則の効率が比較不可能である根 拠がある。
47)L. J. Ziegler,a. a. O., S.112.
ツィークラーは、さらに次のように言う。経済学は、市場における企業の経済的行動 と計画経済的行動の規則の獲得の分野では排他的地位を確立している、と(A. a. O., SS.117!118)。
かれは、以上のように議論し、微視経済学は、その問題領域では容易に応 用科学としての経営経済学の基礎科学の地位を行動科学的組織理論には渡さ ないと考える。
当初、ツィークラーは、微視経済学と行動科学的組織理論の両者から導か れた技術論的規則の効率の比較可能性を前提としていたが、議論の途上で、
そうした比較可能性の否定に転じた。
これにより、われわれは、双方の基礎科学から導き出された技術論的規則 の効率が比較不可能であるという論理について、ツィークラーがしているよ うに、それを行動科学的組織理論による微視経済学の取り替えの要求に対す る反論に用いる訳にはいかない、と考える。なぜなら、そうした比較不可能 性の論理をもって、応用科学としての経営経済学の基礎科学として、経済学 ではなく行動科学的組織理論を選択することも正当化され得るからである。
われわれは、ある学問と他の学問から導き出された技術論的規則の効率の 比較不可能性がある故に、ある特定の学問だけを応用科学の基礎科学として 承認することはできないことを確認した訳である。
われわれは、次に、応用科学の分業的研究方法に関して、ツィークラーの 見解を見たい。
(2) 応用科学の基盤としての基礎科学の唯一性
ツィークラーは、応用科学が分業(Arbeitsteilung)ないし特化(Speziali-
sierung)に沿って行なわれるべきであると考える
48)。この要請は、ひとつの応用科学はひとつの基礎科学を利用するべきである ことを意味する。かれはこの要求を、「……特殊目的のためにまさに唯一の 純粋科学の産物(理論や議論)の利用以外の何ものにも携わらないこと
……」49)と表現する。
48)応用科学が分業的に営まれるべきであるというツィークラーの見解は、次の箇所に見 られる。
L. J. Ziegler,a. a. O.,S.68, S.129, S.131u. S.132.
49)L. J. Ziegler,a. a. O.,S.132.
この要請の理由は、応用科学は、基礎科学の理論が、どのような目的の達 成に対してどれ程の貢献をなすか、に関して、理論から導出され得る全ての 言明に渡って見極めるよう試みるべきであって、複数の基礎科学の理論を利 用することは、こうした見極めを難しくすることに求められる。
かれの見解においては、基礎科学の理論がどのような目的の達成に対して どれ程の貢献をなすか、に関する見極めを難しくすることは、個々の基礎科 学の基礎知識の効果的な利用(effektive Verwendung des Grundlagenwissens
einzelner Grundlagenwissenschaften)を確保しない
50)。かれは、自身の提唱する応用科学としての経営経済学が微視経済学という 唯一の基礎科学に基づくことと対比して、キルシュによる行動科学的に志向 した経営経済学は、唯一の基礎科学ではなく、複数の基礎科学の理論を利用 しようと企画する、と説く。ツィークラーは、行動科学的に志向した経営経 済学におけるこうした事態を、並列研究51)(Auch-Forschung)とも表現する。
その際、かれの議論の骨子は、応用科学は唯一の基礎科学に基づく場合にの み、基礎科学の理論の利用方法を見極めることができる故に、応用科学の方 法として並列研究より優位に立つというものである。
われわれは、ツィークラーの言う応用科学の分業的原理は理にかなったも のとして承認し得る52)。
50)L. J. Ziegler,a. a. O.,S.132.
Grundlagenwissenschaftは、Primärwissenschaftと同義であることが明白なので、わ れわれは、それを基礎科学と訳した。
基礎科学の基礎知識の効果的な利用に関して、かれは、ひとつの応用科学が複数の基 礎科学を利用することを多妻制(Polygamie)にたとえて、次のように言う。
応用的研究の方法(Methode der angewandten Forschung)としての多妻制は、ひと つの基礎科学の理論在庫(Theoriebestand)に関する必要なほぼ全体に渡る点検(not- wendiges nahezu totales Überblicken)を妨げてしまい、科学的法則的認識の広範な 徹底的利用(breite Ausschlachtung)の機会をも妨げる(A. a. O.,S.132)。
51)並列研究という言葉は、次の箇所に見られる。
L. J. Ziegler,a. a. O.,S.123ff.
52)ツィークラーは、応用科学としての経営経済学の営み方としての分業的原理のことを、
応用科学の規律と指導原理(Gebot und Leitidee der angewandten Wissenschaft)とい う模範的基準を表す言葉で呼び、キルシュ的な応用科学の新志向は、応用科学の規律 と指導原理を顧みなくても良いことにはならないとする(A. a. O.,S.129)。
ここまでは、ツィークラーは、応用科学の基盤として唯一の基礎科学を選 択することの優位性を説いていた。かれの場合、そうした唯一の科学とは、
経済学のうち特に微視経済学であった。また、唯一の基礎科学として経済学 が選択される根拠に関しては、それが、変転して止まない流動的な認識では なく、確固たる中核を中心とした堅固な体系としての理論であり、応用科学 は、およそ科学である限り、堅固な体系としての理論に基づく必要があると いうことであった。
しかし、この根拠は、経済学が応用科学の唯一の基礎科学になる排他的な 根拠になるとは解され得ない。なぜなら、それは、必ずしも経済学ほど確固 たる中核の部分は持たない組織理論、社会心理学等であっても、それらのう ちのひとつを応用科学の基礎科学にすることを積極的に禁じる理由とは考え られないからである。
このことを前提とすると、かれが経済学を応用科学の唯一の基礎科学とす るには、それとは別の理由があるとわれわれは考えざるを得ない。
その理由とは、かれが経営経済学を応用科学として捉えた根拠と同じく、
かれによる経営経済学の歴史解釈の方法である。
「基本的に経済学志向の経営経済学(primär ökonomie-orientierte Betriebs-
wirtschaftslehre)
」53)、「経 済 科 学 の 統 一 理 念(Einheitsidee der Wirtschafts-wissenschaft)
の否定的評価ならびに現代経営経済学におけるいわゆる国民経済学に対する経営経済学の関係(Verhältnis der Betriebswirtschaftslehre zur
sog. Nationalökonomie)の否定的評価は、批判されなければならない」
54)、「経済科学としてのみ理解される経営経済学」55)、「それ(成立期当時の経営 経済学的研究-渡辺)は、特殊経済技術的意味における企業管理(Unter-
nehmungsführung in einem spezifisch wirtschaftstechnologischen Sinne)と
関連していたのであり……」56)、といったかれの言葉には、明らかに、歴史53)L. J. Ziegler,a. a. O.,S.124.
54)L. J. Ziegler,a. a. O.,S.121.
55)L. J. Ziegler,a. a. O.,S.129.
56)L. J. Ziegler,a. a. O.,S.130.
的に、そもそも経営経済学は経済学のみを志向していた、という理解があり、
かれは、この歴史的理解を是認し、それに基づく態度を取る。
この点について、われわれは、歴史的に成立した傾向によって、経済学を 唯一の基礎科学とする応用科学としての経営経済学の構想を打ち立てるとい う立場を首肯する訳にはいかない。なぜなら、この立場は、歴史に表れた事 象の肯定に基づき、それを外挿し現代に当てはめる立場であり、われわれは、
こうした歴史主義的な立場を容易には認めることはできないからである。
歴史主義的な立場を取るツィークラーは、キルシュが経営経済学を管理論 として規定するに際して、次のように論評する。
キルシュは、「今や経営経済学が、管理論への方向に向かっているので、
……経済理論は、経営経済学にとってより基本的でなくなっている」57)と言 う。だが、「管!理!という認識観点(ErkenntnisperspektiveFührung)が、経営 経済学の新しい観点として、歴史主義的に根拠づけられる(historizistisch be-
gründet)ということは、受容されない。
」58)管理という新しい認識観点は、自然の産物(Naturprodukt)あるいは歴史 の産物(Produkt der Geschichte)ではないとして、ツィークラーは、次の ように言う。「いわゆる管理という認識観点は、歴史の行程(Gang)でも経 営経済学的研究の行程でもない。人々は、それに反対することができる。
人々は、経営経済学者としてそれに反対しなければならない。」59)
結局、ツィークラーは、一方で、学説の歴史によって自説を根拠づけてい るのに、他方で、キルシュが学説の歴史を持ち出すと、歴史主義的な根拠づ けを否定する、という、自己否定的な論理を用いる。
総じて、ここで問題となっているのは、経営経済学をどのような学として
57)L. J. Ziegler,a. a. O.,S.113.
58)L. J. Ziegler,a. a. O.,S.114.
59)L. J. Ziegler,a. a. O.,S.114.
ツィークラーは、キルシュが、経営経済学が管理論に向かう「兆候」(»Anzeichen«)
と「傾向」(»Tendenz«)を語ることにも、それが歴史主義的であるという理由に基づ いて、批判的である(A. a. O.,SS.114!115)。
規定するかであり、それは、研究者が避けて通ることのできない基礎価値判 断であり、そのことについては、合理的根拠は提出し難い60)。従って、ツィー クラーとキルシュが、それぞれに学説史の中の特定の一派を持ち出して自身 の規定を根拠づける試みをしても、それは合理的根拠にはなり得ない。かれ らが、学説史の中の特定の一派を持ち出すことについては、高々、それは、
経営経済学の規定をする契機に過ぎないと見るべきであろう。
以上の議論から、われわれは、ツィークラーによる経営経済学の規定が唯 一的に根拠づけられて、それ故、キルシュによる管理論としての経営経済学 の規定が否定されたとは言い難い。
(3) アクションリサーチの位置づけ
ツィークラーによれば、キルシュは、管理論が、実践の扶助施策(Vor-
sorgemaßnahme)ならびに扶助研究(Vorsorgeuntersuchung)の展開に向か
うことの不可避を指摘している61)。この言葉は、もちろんキルシュのアクションリサーチを示している。
ツィークラーは、アクションリサーチに関して、次のように言う。
「科学の 尺 度 は、営 利 性 で は な い。」(Der Maßstab der Wissenschaft ist
nicht die Rentabilität.)
62)かれは、アクションリサーチを、次のように、批判的に位置づける。
キルシュが取っている実践への問題志向性(Problemorientiertheit)によっ てもたらされるものは、知らせ(Kunde)である。その際、ツィークラーは、
知らせという言葉に否定的な意味を込めている。
「知らせは、その限りで、それが単に科学のみを含む訳ではない故に、ま た、それが本質的に科学以外の非科学的なもの(Unwissenschaftliches)を含 んでいる故に、科学でも科学的技術論でもない。」63)かれが言う知らせは、科
60)基礎価値判断に関しては、本稿注39)を参照のこと。
61)L. J. Ziegler,a. a. O.,S.134.
62)L. J. Ziegler,a. a. O.,S.136.
63)L. J. Ziegler,a. a. O.,S.101.
学性が保証されていない言明のことを指し示すことは明らかである64)。 アクションリサーチが目指すのは、営利性の確保であり、アクションリ サーチによって得られる認識は、非科学的である、というのが、ツィーク ラーによる評価である。
かれは、アクションリサーチの営利性と非科学性に、次のような意味を込 めている。
「キルシュの意味におけるアクションリサーチの場合には、人々が科学そ れ自体に期待するべきようなやり方で基本的には認識過程に参加する訳では なく、実践の行為に参加する。」65)
キルシュの考えるアクションリサーチを営む研究者は、実践の問題の解決 に対して、理論(Theorie)も技術(Technologie)も持ち込まない66)。
「キルシュによれば、現代の研究者の問題は、具体的な意思決定過程の経 過の前に、すなわち決議の前に、適時的に、欠落した意思決定主導的知識
(fehlendes entscheidungssteuerundes Wissen)を発生させ、それができたな らば、成功裡に、それを解決として貫徹できるかどうかということに掛かっ ている。」67)
この言葉の前半部分に、アクションリサーチの非科学性が表れ、後半部分 にその営利性が表れていると解される。
まず、ツィークラーは、非科学性に関して補足し、アクションリサーチを 営む者は、理論が普遍的になればなる程、その発見力(heuristische Kraft)
は衰えるので、準理論(Quasi-Theorie)以上には関心を持たない、と言う68)。 アクションリサーチを営む研究者は、発見力はあるが適用範囲の局限された
64)エルシェンは、経営経済学の教育目標との関連で、社会学と心理学等の商人にとって 関心のある部分領域の認識の伝達として知らせという言葉を使っていた。つまり、知 らせは、ツィークラーの見解とエルシェンの見解においては、意味を異にする。知ら せには、少なくとも 2 種類があることが理解された訳である。
65)L. J. Ziegler,a. a. O.,S.40.
66)L. J. Ziegler,a. a. O.,S.40.
67)L. J. Ziegler,a. a. O.,S.40.
68)準理論とは、普遍的な言明を含む理論とは区別され、中心となる言明の普遍性に制約 がある言明の集まりである。
理論(Theorie geringer Reichweite)に関心を持ち、そうした理論をもって 満足する69)。
このことから、われわれは、かれが使う非科学性とは、堅固な理論の言明 とは異なり、実践の場面でしか通用しない適用範囲が局限された言明にしか 関心が及ばなくなる事態を意味していることを理解できる。
次に、ツィークラーは、営利性に関して補足し、アクションリサーチが注 目しているのは、研究のリアルタイム性(Echtzeitigkeit)と、獲得された認 識の貫徹可能性(Durchsetzbarkeit)である、と言う70)。
このことから、われわれは、かれが使う営利性とは、実践に介入しながら 実践の目的を達成していく事態であることを理解できる。
アクションリサーチを営む研究者は、ツィークラーによる位置づけに従う と、実践において理論とは無関係に適時的に現場で仮説を発生させ、その仮 説の内容に従って、実践の行為を成功に導く方法を人々に貫徹し、その限り で意思決定過程に影響を与えようとする、という像が浮かび上がる。
以上を要するに、ツィークラーによれば、アクションリサーチは、営利性 と非科学性によって特徴づけられ、その特質をもって、アクションリサーチ は、かれが考える経済学を基礎科学とする応用科学としての経営経済学とは、
相容れないこととなる。
2.キルシュによる反論
キルシュは、ツィークラーの位置づけに対して、次のように論評する71)。
69)L. J. Ziegler,a. a. O.,S.41.
70)L. J. Ziegler,a. a. O.,S.40.
71)管理論の基本的構造についてのツィークラーの批判に対するキルシュの論評に関して は、次を参照のこと。
W. Kirsch, Kritik und Replik : Die Betriebswirtschaftslehre als Lehre für die Führung auf der Grundlage einer Lehre von der Führung, in : W. Kirsch,WUFW.,1. Halbbd., SS.
364!374.
(1) 管理論の基本的構造を巡る問題
キルシュは、技術論的研究に関しては、 事実上の研究活動(tatsächliche
Forschungsaktivität)あるいは事実上の研究現象(tatsächliches Forschungs-
geschehen)の実勢の力を借りる形によって、議論をする
72)。この点に関して、かれは、現代の応用科学的研究者の研究形態の実勢が、
技術論的研究の方向であり、しかもそれは、理論的言明から技術論的言明を 導出する所で終了する活動ではなく、企業の実践において技術論的言明の効 果をテストし、参加的に助言する活動としてのアクションリサーチになって いると把握している。
これが、キルシュの見た技術論的研究の実勢である。かれによれば、
ツィークラーは、事実上の研究現象の再構成(Rekonstruktion)を問題にな らない(kein Argument)としている73)。技術論的研究の実勢を見ようとしな い研究者には、科学理論をポパー(K. R. Popper)の『研究の論理』(“Logik
der Forschung”)の再構成として営もうとする科学理論家の、多くの活動的
な研究者にとっては耐え難い「教義的な傲慢」(unerträgliche “dogmatischeArroganz”)が見られる
74)。キルシュにとっては、ツィークラーの考えは、技術論的研究の課題は、理 論的言明から技術論的言明を導出する所で留めるべきであり、技術論的言明 を企業の実践へ持ち込んで、その効果をテストしながら、それを実践に適用 することは課題に含まれない、というものであり、そうした見解は、技術論 的研究の実勢に目を閉ざすものである。
しかし、われわれの見解によれば、研究活動の実勢が研究者によって異 なって見えることを、キルシュは認識していない。それ故、われわれは、実 勢による根拠づけに基づき、ツィークラーの見解に対する優位を説くキル シュの議論の正否を判断し得ない。
72)W. Kirsch,a. a. O.,S.370.
73)W. Kirsch,a. a. O.,S.370.
74)W. Kirsch,a. a. O.,S.370.