〈研究ノート〉ニックリッシュの『経済の管理』についての一考察
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(2) 第60巻 第2・3号. は じ め に. 本稿で検討する,ニックリッシュの小冊子『経済の管理』 (Nicklisch, H.: Die Lenkung der Wirtschaft, Stuttgart 1 935.)では,序文により,解説(Ausfhrung)がビジネス マン( Kaufleute )に対して呈示されたことは明らかである。この解説はザーレ湖畔のハ レ市(Halle a.d.S.)で行われた。講演は,この町の商業会議所(Kaufmnnischer Verein) で開催されたが,手元の形式での公開のために,若干の補足が行われている。解説は,経 済の管理( Wirtschaftslenkung )の基本問題を明らかにするのに役立つが,刊行された 著作『新しいドイツの経済指導』(Neue deutsche Wirtschaftsfhrung.1 933.)と『奮起 しろ。国民,経済,教育』(Aufwrts ! Volk, Wirtschaft, Erziehung. 1934.)に記載 された,考えを継承している。 われわれは2つの理由からこの小冊子を注目している。1つは,1933年1月にナチスが 政権を採った後に公表された, 著述で, 分業型の経済の管理についてどのような考えを ニックリッシュが有していたのかについて検討するためには,最良の資料とみなしうるこ とである。他は, この少冊子が,「組織」というタイトルの叢書シリーズの1つとして, 公開されたことである。われわれは,彼の著『組織論』により,物質・人間と組織の法則 についてのニックリッシュの考えは一応理解できた。しかし,これらは組織の内部につい ての検討である。経済・社会環境を中心にした,組織の外部環境についても検討すること が重要である。 この領域についてのニックリッシュの主張は, 大著『経営経済』 ( Die Betriebswirtschaft. 1 9291932.)の出版後,つまり,経済恐慌期に行われた。 なお,本稿では,参考資料などを注記しながら,ほぼ全訳の形で紹介する。. Vgl.Nicklisch H.(1 935): Die Lenkung der Wirtschaft, Stuttgart 1935. Vorwort. この点,ナチスの経済体制では,経営は,国民共同体,国家レベルから与えられた,共同目標 を自らの最高目標として,この共同目標を分担するものとして課せられた職分を全体の組織目標 とする。このため,わが国では,「経営組織論においては,一般に,経営の最高決定を意味する, Fhrung という言葉が使用されていないことに注目したい。 とにかく, ナチス経済体制下にお ける管理の組織論的研究では,なんといっても,Verwaltung という管理概念が中心をなしてい たことだけは確かである」(吉田和夫著『ドイツ経営経済学』森山書店 1982年82頁; 参照。古林 喜楽著『経営労務論』古林喜楽著作集 第2巻 千倉書房 1979年. 126頁)という通説があるが, ニックリッシュは, 『経済の管理』 (Die Lenkung der Wirtschaft, Stuttgart1935.)では,Verwaltung という言葉をほとんど用いておらない。. 132( ) 338 ─ ─ .
(3) ニックリッシュの『経済の管理』についての一考察(牧浦). 1 自動制御でなくて,管理. 初めにあらゆる誤解を排除するために,まず正確に,ここで, 「管理(Lenkung)」とし て理解すべきものが定義されるべきである。直ぐに最初の考察が,ここで説明される概念 に関連し,比較されるべき,他の概念をもたらす。すなわち,これら概念は, 管理(Lenkung) , 自動制御(Automatismus), 介入(Eingriff)による経済の状況(Verhltnis)の変更 である。 自動制御は,また,価格機構(Preismechanismus)とも呼ばれる。これは,想定され るように,経済が,価格という手段により,商品需要(Nachfrage)と商品供給(Angebot) を自然に(selbst)規制する(regeln)ことを意味する。その際,正に,自動制御という 言葉が用いられるために,管理,しかも,自動制御的な管理が問題になることが容易に洞 察されうる( einsehen ) 。これによれば,自動制御と,ここで考えられている,管理の意 味の間では,これらが少なくとも部分的には重なっているため,はっきりとした概念上で の分離(Scheidung)は存在しない。しかし,正確な区分(Trennung)は簡単に引き出 れうる。管理では,人間が管理を意識的に実施することのみが追加されるべきである。し かし,以下では,この正確ではあるが,幾分回りくどい定式化( Formulierung )は,ほ とんど用いられない。むしろ,ただ管理といわれる。しかし,これにより,総ての場合で, 明確に自動制御とははっきりと対照をなす,意識的な操作(bewuste Steuerung)が考え られている。 また,干渉制御(Interventionismus)と呼ばれるが,介入による経済状況の変更では, 通常の方法(Weg)では調整できない,経済の異常な状態(Lage)が存在することが前提 にされるべきである。介入がそもそも意義を有するべき時には,少なくとも,幾つかの根 拠がある無秩序(Unordnung)が想定できたに違いない。そこには,全体(Ganze),国 家(Staat)から見れば,事情(Ding)が存在する。つまり,国家が干渉者(Eingreifende). Vgl.Hicklisch, H. 1935. S.1. ニックリッシュは,市場価格により商品需要(Nachfrage)と商品供給(Angebot)が自然に 調整されることを前提にした,「自動制御」に委ねる自由主義経済体制に対する限界, 否,1929 年10月24日の世界恐慌を経験したため,不信感を持ち始めていた。. 339 ─ 133( ) ─ .
(4) 第60巻 第2・3号. である時に,このような事情が存在する。私的部門(Private)は,直ぐに(ohne weiteres) , 初めから(von vornherein) ,干渉できない。このためには,私的部門は充分な意義のあ る立場(Stellung)を必要とする。しかし,多様な国家の全体経済(Gesamtwirtschaft) では,全体経済での個々の私的部門が干渉してきた場合がかなり(genug)存在する。通 常では,このような干渉は非常に長期的であった。干渉は常にマスクをかぶって現われる。 繰り返されたが,私的な独占の形態はマスクであり,その背後にはこのような過程が〈【筆 者補足】本音を隠して〉起こってきた。常に,このような場合には,慣行(bung)の目 的は,経済により流される,貨幣価値をできる限り多く自らに獲得し,このようにして, 国民の総ての諸力を服従させる,権力,従って,政治的な権力を獲得することであった。 国家には,その本質によれば,事情を正常な経緯(Ablauf)に再び導き,保証する,秩序 に経済状況を戻す以外には,目的は存在しえない。自動制御が存在することをわれわれが 想定できる時にも,国家が干渉を繰り返して行う,このような自動制御はありうるのか。 しかし,このような機構(Mechanismus)が存在しなければ,干渉制御(Interventionismus) を,管理(Lenkung),つまり,意図的な操作(bewute Steuerung)に移行することの みが残されている。 関連のこのような状態では,われわれのテーマにとって,自動制御ができるのか否かと いう問いが,決定的に重要になる。この問いに対する答えは,われわれの経済のような, 分業型の全体経済(arbeitsteilige Gesamtwirtschaft)が,そもそも,意図的に管理され た全体経済とは異なるのかについて,明らかにするに違いない。この方向での研究は絶対 に必要である。 自由主義的な経済理論家は,任意に増加できる財の分野(Bereich)が問題になる限り, このような自動制御を主張してきた。また,展開の更なる経過では,このような制限なし に,経済の自動制御的な規制( Regelung )について語られる。また,経済のこのような 自動制御的な規制は信じられている。このため,今日,このような理論を支持する,経済. Vgl.Hicklisch, H. 1935. S.12. ニックリッシュは,「世界恐慌」による経済・社会状況の混乱, つまり,1933年のワイマール 共和国の崩壊を背景に躍進した,新しい政治グループと,それを支える独占資本の行動を,選択 の余地のないものとみなしている。しかし,当時,活躍したフェーグラー( Vgler, A. 1877 1945)ほど露骨ではないが,1923年のインフレーション後の「相対的安定期」でも引き継がれて きた,ラーテナウ(Rathenau, W. 1 8671922)による「計画経済」(Planwirtschaft)やシュ ティンネス(Stinness, H.18701924)による「利益経済」(Profitwirtschaft)には,独占資本 の復活の意図が隠されていることを見抜いていた(参照。吉田和夫著『ドイツ合理化運動論』ミ ネルヴァ書房 1976年 60頁 71頁)。 Vgl.Hicklisch, H. 1935. S.2.. 340 ─ 134( ) ─ .
(5) ニックリッシュの『経済の管理』についての一考察(牧浦). 科学者と実務家が存在する。これには全く仰天させられる。科学では,かつて,機構がど こかで実施されてきたことを納得できる証拠をごく僅かにしかもたらされないため,この ような妄想の経済では,事実の展開は,非常に激しく,持続して(nachhaltig)破壊され てきた。そして,これが公然と行われた。目撃した総ての人は,価格変動による商品供給 と商品需要の自由な活動の余地(Spiel)は,個々と全体で正当なことが行われ,偽りを断 念させ,その結果,経済が,総ての者の需要の充足( Bedarfsdeckung )という目標を常 に理解するように, 経済活動者( Wirtschaftende )に影響力を及ぼすには充分ではない (ausreichen)ことを理解した。とにかく,これを知らせてきた,2つの証拠(Zeuge)が ある。すなわち,自由主義の時代から引き継がれたにちがいない,過剰生産能力(berkapazitt)と失業(Arbeitslosigkeit)である。これらは,経済活動者の競争(Wettbewerb) での大きな熱意(Eifer)にも係わらず,競争が総ての者に対する個々人の争い(Kampf) であるため,正に,競争により生ずる。総ての者は,自らの生産能力の拡大により,他の 人の売上げと利益を自らのものにすることを期待する。 そこで, 経済には同様の〈 【筆者 補足】過剰な〉生産能力がしばしば現われた。この生産能力は,主に,可能な販売をはる かに上回る,超過(bersteigerung)を発生させる。そこから,混乱(Strung)が展開 されるが,この混乱では他の〈 【筆者補足】正常な〉場所に復帰すべきである。また,こ のような状況の展開から,失業は生ずる。このような誤った状況(Miverhltnis)は, 変革( Umbruch )より以前の時代には,常に,嫌でも認められ,抑制しようと努力され た。 カルテルの形成がこの努力を証明している。とにかく,経営での過剰生産の結果 (Folge)を自ら防止するために,このようなカルテルと他の企業の集中(Vereinigung) が生じた。しかし,これは成功しなかった。防止のための連合(Zusammenschlu)自体 が,既に,実際には,価格機構による,自由経済が現実にはないことの証拠であった。 自動制御的な規制(automatische Regelung)という観念(Vorstellung)の擁護者は,. Vgl.Hicklisch, H. 1935. S.23. この点, シュマーレンバッハも,1920年代〈【筆者補足】「相対的安定期」〉を, 固定費の増大 による「経営規模の不断の拡大」と(Vgl.Schmalenbach, E.(1928):Die Betriebswirtschaftslehre an der Schwelle der neuen Wirtschaftsverfassung, in.ZfhF, 22.Jg., 1928. S.2 41.; 参照。齋 藤隆夫訳「新経済組織の関門における経営経済学」土岐政蔵訳『回想の自由経済』森山書店, 1960年13 9頁; 吉田和夫1976.150頁152頁),経営プロセスでの「強制性」と「資本集約度の上昇」 を背景にした(Vgl.Schmalenbach, E. 1928. S.243244.; 参照。齋藤隆夫訳1 960. 1 43144頁; 吉 田和夫1976.150頁152頁),自由主義経済から,独占と統制による「拘束経済」への移行期とみな した(Vgl.Schmalenbach, E. 1928. S.241 u. S.245.; 参照。齋藤隆夫訳1960. 139頁 145頁; 吉田 和夫1976.150頁152頁)。そして,価格が生産費を下回っても,機械の自動化により「固定費の増 大」(自動的な生産と消費の調和の喪失,つまり,過剰生産)と「労務費の削減」(失業)をもた らしていると考えた(Vgl.Schmalenbach, E. 1 928. S.243246.; 参照。齋藤隆夫訳1960. 143147 頁; 吉田和夫1 976. 151154頁)。. 135( ) 341 ─ ─ .
(6) 第60巻 第2・3号. 自動制御的な規制が任意に製造可能な価値の分野( Bereich )でのみ成立しうるという, 自由主義の理論自体に認められる,保留条件(Vorbehalt)をまず見逃している。その際, 非常に重要な価値は任意には増加したり,減少できないことに注目すべきである。しかも, 経済のこのような部分(Teil)は,個々で,統一体(Einheit)を形成する。更に,通常で は,理論上では任意に増加や減少する価値の創造(Erzeugung)自体が,創造にとり決定 的な時点で与えられる情勢(Umstand)の下では,機構が前提にするようには,価格変動 に適合できないことに注目されない。とりわけ,これは,その設備が簡単に縮小させられ ないし,また,拡張がある種の困難を克服してのみ可能になる,工業と運輸の部門に妥当 する。結局,常に繰り返して,自由主義者が経済の考察から人間を除外してきたという, 彼らの誤りは見逃されている。もちろん,彼らは,人間ではなくて,むしろある種の他の 本質(Wesen)が経済していると仮定する程,愚かにはなれない。従って,むしろ,彼ら は,人間が,経済の真ん中にいるものであるということから始める。しかし,彼らは,総 ての人間が,同一の経済の状態(Lage)では,同様に行動すると仮定する。これにより, 彼らは,実際にそうであるように,人間を除外する。そこでは,また,しばしば,その完 全な一面性が他の人間の経済と全体経済を妨害する,行動を採る,完全な利己主義者(Nuregoist)も除外されている。このようにして,商品供給と商品需要の間での活動の余地(Spiel) と,経済でのその結果(Wirkung)は,数字の領域に閉じ込められる。結局,観察者の目 は数学上での関数のみを見る。更に,これは,近頃,ベルリンの放送時間で見付けられた, 例と完全に良く似た結果を伴って行われる。例は簡単である。このため,私は,この例を ここで良く分かるように(zur Veranschaulichung)設定させてもらう。すなわち, 「1人が,1件の家を建てるために,120日掛る時,12人はこれを10日で完成すべきか, 否か。」もちろん, ―1日では120人― 〈【筆者補足】1日8時間労働では〉1時間で は,960人―1分では57,600人で,1秒では3,456,000人―数字によれば,そもそも2.3個 の石を積み上げる前に,家は完成する。 これにも係わらず,価格による商品需要と商品供給の活動の余地を無意識に調整する能 力が経済にはあるとは語れない。分業型の全体経済にとっては,秩序付け,漸進するため の可能性,つまり,経済活動者による意図的な操作(bewute Steuerung)のみが存在す る。 結局,このような管理が,総ての個別経済が相互に操作されることを考えられないこと Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.34. Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.45.. 342 ─ 136( ) ─ .
(7) ニックリッシュの『経済の管理』についての一考察(牧浦). は,簡単に洞察されうる。むしろ,総ての個別経済にとっては,全体の範囲で,方針が維 持され,結果として,統一体(Einheit)が保証されることが必要である。. 2 このような管理はどのような状態か. 意図的な管理が,全体経済とその肢体を促進するための,唯一の可能性である時には, これらについて完全な明確さを獲得することが最も(uerst )重要である。共通した熟 慮(berlegung )は,解明されるべき,一連の個別問題をもたらす。以下では,これら 個別問題が正に(gleich)体系的な順序で与えられる。 1.何が操作(Steuerung)の目標であるべきか。第一位に,経営の収益性か,あらゆ る経営〈【筆者補足】企業と家計〉の当然の需要(berechtigter Bedarf)の充足か。 2.操作がどのような効果を有するのかについて,どこで最終的には明らかになるのか。 生産者か,消費者としての人間においてか。 3.どのような前提が,経済がそもそも管理可能ならば(lenkbar),経済において充た されるべきか。 人的な側面では, 物質的な側面では, 経済の秩序の側面では。 4.目標を達成できる,方法(Weg)の特徴はどのようなものか。 総ての者は,活動できる,価値の範囲(Wertraum)を獲得すべきであり,操作は,常 に,彼が価値の範囲を実際に有するのかを問うべきである。その際,資本の形成の問題が 重要な役割を果たす。 総ての個々の経済活動者(Wirtschaftende)の協働(Mitwirkung)が確保されるべき である。管理者(Lenkende)は,常に,総ての者が協働するのかを問うべきである。 全体の繁栄は常に保証されるべきである。管理者は,常に,繁栄が保証されるのかを問 うべきである。 5.操作装置(Steuerungsapparat)は一体化されており,管理者は,精神上で,完全 に一体化された管理の効果( Lenkwirkung )が確保されるように,同様に調節される (einstellen)べきである。 Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.5. Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.6.. 343 ─ 137( ) ─ .
(8) 第60巻 第2・3号. 総ての個々のこのような問題,あるいは,主張の対象を詳細に観察することが今や必要 である。しかし,徹底した研究報告(Abhandlung)は,ここからは,目下の所,現われ ていない。. 3 第1問 いずれが目標か. この問いの答えは簡単である。経済は分業型であり,その目標は,総ての者が,一緒に 必要とする価値を,使用するために,働くことにより,達成される。関連がこのように生 ずる( verlaufen )ため,経営の収益性は第一位に置かれないで,むしろ,目標は総ての 国民の当然の需要( berechtigter Bedarf )の充足であるべきである。経営の収益性はそ こへ向かう途中で生ずる。その際,選択過程が展開される。今まで儲からなかった経営は 改善できる。また,他の経営は儲からないようになりうる。収益性で成長する,新しい経 営が創設され,他の経営は消滅する。このようにして,収益性は,平均すれば,常に確保 される。経済が総ての国民の当然の需要の充足を実現するにつれて,このような確保(Gesicherheit)の程度は,平均すれば,より高まる。ここでは,経済活動者の個人にあるリスクと, 偶然と,より大きな権力に含まれる,リスクは無視される。 また,多くの経営が,この関連(Zusammenhang)の外,あるいは,誤用(Mibrauch) の下でも,儲かることは起こりうる。経済での停滞が,通常,これら経営から生ずるため, 非常に厳密な観察の下で,多くの経営は維持されるべきである。このような可能性が,収 益性の当然性(Berechtigung)という概念の定式化(Formuleirung)には必要である。 国民の当然の需要の充足の関連の外,あるいは,誤用の下で,儲ける経営では,この収益 性の当然性は常に疑わしい。コントロール(Kontrolle)が経営を抑圧する時,コントロー ルする者と彼の委託者,つまり,全体に対して,最善のものとして経営が用いる武器は, たいてい,経営が多数の人間に安定した労働を保証するという,示唆(Hinweis)である。 しかし,このような申告( Angabe )の評価に係わってきた,総ての者は,通常,このよ うな申告が無力であることを認識すべきである。というのは,通常,このような経営から. Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.67. Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.7. ここでは,ニックリッシュは,分業型の経済体制に帰属する,複数の企業が,存在に必要な収 益性の確保のため,特定の国民の需要の充足を巡って競争するため,敗者の消滅はあるが,当然 の需要(berechtigter Bedarf)の確保(Gesicherheit)の程度は,平均すれば,より高まると みなしている。しかし,買い手の当然の需要の水準も高まることを無視できるのか,われわれは 疑問に思う。. 138( ) 344 ─ ─ .
(9) ニックリッシュの『経済の管理』についての一考察(牧浦). 生ずる,停滞は,そこで就業してきた者よりも,より多くの人間が,そこで就業すること を阻止するからである。変更( Umstellung )では,当座は,もちろん困難が生ずる。し かし,困難は,コントロールする機関や,コントロールの結果( Folge )として生ずるの ではなくて,むしろ,公益(Gemeinnutz)に反して自らの優位(Vorteil)を追求する, 経済活動者の無責任な優先( Vorgehen )に基づく。発生する被害には,回復するのに, 時間が掛かる。しかし,これは,犯罪人( Ubeltter )の期待に反するが,間違った展開 の成り行きにまかせるという根拠にはならない。 反面,品行方正なビジネスマンの綿密な配慮により指導される(leiten),経営は,当然 の需要の充足の関連の真ん中に位置しており,たとえ,その給付が使用されるとしても, 儲からないことが,ありうる。このような場合には,助成金が根拠になりうる。その際, 給付に対する対価は,個々の使用者により支払われる部分と,だれが支援の担い手である のかにより,国民共同体( Volksgemeinschaft ),あるいは,この法人の部門に追加され る,他の部分に分割して現れることが,正に,問題になる。総てのこのような場合におい て,個々の買い手(Abnehmer)への給付の提供が,全体では,程度において役立ち(dienlich) , 追加払いする(zuzahlen) 〈【筆者補足】つまり,助成金がない時〉よりも,より大きな価 値があることは,自明である。このような給付に対する対価に関連した全体の分け前には, また再び,買い手が公的機関に支払う,租税と課徴金(Steuer und Abgabe)の部分が潜 んでいることは,簡単に理解できる。このような経営では,たとえ,それ自体が儲からな くても,収益性の正当性は存在する。 上記の解説の様々な箇所で,当然の欲求(berechtigtes Bedrfnis)の概念が用いられ た。私は,これを他の私の論文(Schrift)で,既に,非常に正確に示した。しかし,こ こで追求する関連に対して有する大きな意義のため,若干の文章で,これについて更に扱. Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.78. たとえば,生産の自動化で,必要な就業時間を節約できるならば,離職者が発生する。しかし, 就業者数,つまり,安定した労働を保証するために,時短をすれば,賃金は削減され,結果とし て,所得の減少のため,消費は低下し,買い控えのため,販売量が減少する。このような時,一 部の経済活動者が,投下資本の回収の促進のため,無責任に生産量を増加すれば,過剰生産の弊 害は増大することになる。 Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.8. この点,買い手(Abnehmer)である,個人の需要は多様であるため,個人に助成金を給付し て,利用する企業や機関を選択してもらう方が,提供者である,企業や機関に助成金を給付する よりも,効率が良いというニックリッシュの考えは正しい。しかし,実際には,助成金は企業や 機関に直接的に給付されることが多いため,需要のないモノを提供する企業や機関が延命され, 過剰生産を増幅したり,財政収支の悪化をもたらしている可能性が高い。 Vgl.Nicklisch H.(1 934): Aufwrt ! Volk, Wirtschaft, Erziehung, Stuttgart1934. S.12.; 参照。神園厳訳「ニックリッシュ『国民・経済・教育』経営経済 第5巻第1号 1936年 76頁. 139( ) 345 ─ ─ .
(10) 第60巻 第2・3号. うべきである。「当然の欲求」という名称は,発生しうる総ての欲求では,充足すること (Befriedigung)に価値があるのではないことを示す。総ての欲求が充足されるべき当然 性に相応しいのではない。いずれが当然なものとしてあげられるべきかは,さまさまな国 民において,異なる。これは,個々の人間が,国民全体の内での地位と,仕事と,これら 仕事での地位により,〈【筆者補足】異なる〉という基礎に従う。当然の欲求から当然の需 要( berechtigter Bedarf )は生ずる。当然の需要が意味する,財の数量は,ここで,需 要の充足と需要充足経済(Bedarfsdeckungswirtschaft) 〈【筆者補足】つまり,家計〉に ついて語られる時に,考えられる,数量である。. 経済での管理の目標は,更に,今,初めて関連して説明されうる,非常に重要な側面を 有する。また,このためには,他の私の論文での解説を私は示唆できる。総ての国民の 当然の需要の充足は,彼らの完全な就業( Beschftigung )のための可能性という本質 (Inbegriff)を意味することが問題になる。このような関連は,総ての個人が人間として の存在により,需要と就業を生まれつき有することを根拠にしている。これは総ての国民 に妥当するため,また,国民でも,個人と共同での,国民の肢体の需要は,就業である。 総ての国民でもそうである。国民の間での価値の交換はこの原則(Grandstzliche)を変 化させない。国民はこの原則をただ追認する。 今や,経済とその操作の目標は,初めで可能であったよりも,更に明らかにはっきりし ている。今や,総ての国民の完全な就業により,当然の需要が充足されるように,操作す ることが問題であることが示される。. 4 第2問 管理がどのような効果を有するのかについて, どこで最終的には明らかになるのか このような問いは,管理が有効であるのか否か,効果(Wirkung)が合目的か,その程 度は充分であるのかを認識できる,経済での機関( Stelle )が調査する。明らかに,操作 の指導(Fhrung der Steuerung)のためのこのような機関は極めて非常に重要である。. Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.89. Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.89.; 参照。神園厳訳1 936. 7 475頁 Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.9. Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.9. この点,生産手段の私的所有と自由な競争を認めた上で,実際に,生産の自動化が推進され, 極端な企業集中が行われた状況の下で,助成金のみで,総ての国民に完全な就業により,当然の 需要を充足させることは困難であるとわれわれはみなす。. 140( ) 346 ─ ─ .
(11) ニックリッシュの『経済の管理』についての一考察(牧浦). この機関の考察によってのみ,自らをコントロールする(kontrollen)こと,また,自ら の活動を修正することが機関には可能になり,その結果,目標の方針がより正確に立てら れ,このような目標自体がより確実に達成されるため,効果はより良くなる。全く,この ような機関に,梶を取る指導者(Steuermann)の目が届き,継続してコントロールの下 に維持されうることが重要である。また,反映(Spiegelung) ,あるいは,ある種の他の 使用可能な様式で,舵を取る指導者が自らの操作の効果の像(Bild)を間接的にのみ獲得 できる時には,この像はこのような機関の像であるべきである。自らに関する操作の反作 用を示すことを推察させる,第三の場所は充分ではない。そもそも,管理の効果に関連し た,事情(Ding)が実際に問題にされ,どの程度で問題になり,どのように彼らが管理を 行ってきた(hervorgehen)のかを,だれが適時に決められるのか(ausmachen) 。舵を 取る指導者が,中断せずに,自らの活動の効果を表す,機関の像(Bild)を使用すること を,極めて些細なもの( das geringste ) 〈【筆者補足】権力のない者〉は継続しては逆ら えない(fortstreiten) 。そして,目標は彼の意識では常に明らかであるに違いない。機関 は,途中の総ての機関が従う(unterordnen)べきである,操作の主要な効果と全体の効 果の機関として,存在すべきである。目標と異なる機関での,梶を採る指導者は,彼が目 標を達成したことを確定できるのか。 今や,いずれが,経済において,操作の成功か失敗かを示す,決定する場所(entscheidender Ort )であるのか。どこに決定する場所が見付けられるのかに対して,2つの可能性のみ が存在する。 それは, 生産の部門か, 消費の部門かにある。その際,前者〈【筆者補足】 生産の部門〉は広く把握される。これは,工業だけではなくて,むしろ,同様に,商業, 運輸,銀行,保険,手工業,総ての種類の職務(Dienst)が考えられる。消費では,買い 手(Abnehmer)を配慮し,誘導する,さまざまな事業部門の会社(Firm)のような,他 の個別経済ではなくて, 需要が本来あらわれる,個別経済〈【筆者補足】つまり,家計〉 のみが問題になる。そこでは,最終の買い手の経済活動者のみが問題になりうる。これは, 翌日と将来の労働日のための諸力を再び回復する( herstellen ) , 経済活動者の家計であ る。 Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.10. この点, ニックリッシュは,国家が干渉しなければ, 国民の当然の欲求( berechtigtes Bedrfnis)の充足と就業は達成できないという思いがある。しかし,経済活動,つまり,生産プロ セスには,必要な作業時間,作業能力,作業環境などの格差があるため,獲得される成果と投入 される犠牲の間で評価の相違がある限り,正確に,当然の欲求について事前に把握できても,職 業の選択の自由を認める限り,当然の欲求の充足と,完全,つまり,公平な職務の配分により, 国民を就業させることは困難であるとわれわれは考える。 Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.1011.. 141( ) 347 ─ ─ .
(12) 第60巻 第2・3号. 経済の操作の目標,つまり,総ての国民の当然の需要(berechtiger Bedarft)の充足, 同時に彼らの完全な就業は,家計でのみ,見付けられる。家計で,総ての経済活動者は, 彼が必要とするものを充足する。これに反して,価値の創造(Werterzeugung)は労働の 場所( Arbeitstatt )の全体を包括する。 そこでは, 経済の最終の買い手の当然の欲求の 充足については直接的には全く語られない。作業場(Werkplatz)で労働者の食事が採ら れる時でさえ,これは,労働の機関(Arbeitstelle)にまで伸びた,家計である。そして, 社内食堂で食べられる時も,これは異ならない。このような場合には,また,食堂により 代わられ,費やされるもの(was es kostet)を負担するのは,家計である。家計は,自ら の帰属者の給付と引き替えに,原価(Kosten)の代わりに,そこで少し獲得したもので支 払う。生産の場所(Produktionsstatt)での給食では優遇が保証される時でも,これら優 遇は,賃金の追加として機能し,このため,再び,家計の問題( Haushaltssache )とな る。 国民の家計で,彼らの需要が現われ,その充足が行われるべきであることは確かである。 そこでは,また,分業型の経済では,総ての国民による,総ての国民の需要の充足により, 孤立した経済活動者にとり自明であったもの,すなわち,総ての国民の完全な就業が達成 されるのか,あるいは,労働のない所属者が残されているのかが示される。そこは,経済 の舵を取る指導者が自らの活動の業績( Ergebnis )を確定できる, 場所( Stelle )であ る。 事態(Lage)のこのような状況では,管理する者の目に明らかになるように,家計の生 活の状況の像を,必要な程度で,速やかに,常に繰り返して,生じさせるために,あらゆ ることが行われるのかが直ちに問題となる。任命された役所,特に,統計を採る役所,統 計国立局(Statistische Reichsamt),景気調査のための機関は,このような像(Bild) が生ずることに配慮しているのか。かつて,国民の当然の需要の総ざらえ( inventaur ) の調査が,家計での結晶(Kristallisation) 〈【筆者補足】つまり,必需品〉と,その縮少 や拡張の可能性がこのような関連で考慮されるように,行われたのか。かつて,そもそも, 当然の需要についての洞察を得るための,試みが行われたのか。かつて,ごく僅かな試み, つまり,個々の品性方正なビジネスマンが自らの会社の活動の開始に設定し,事業期間か ら事業期間で繰り返したものについて,行われたのか。すなわち,国民のための需要の創 造に対する全体経済の責任の程度について,そもそも,かつて,洞察力のある確認,正に, Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.11. Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.11.. 348 ─ 142( ) ─ .
(13) ニックリッシュの『経済の管理』についての一考察(牧浦). 総ざらえ(Inventar)が試みられたのか。今まで,この総ざらえは行われておらない。私 は,既に,他の場所で,このような大胆な企てに対抗している,障害がどれ程大きいかを 充分に理解したことを,報告した。しかし,われわれは,家計の像を用いるが,単なる 概略の,総て役立たないように一般化した像ではなくて,むしろ詳細に構成され,イキイ キとした活動を反映した像を用い,全体の経済での操作の指導のために,一度のみではな くて,むしろ常に繰り返して用いる。関連は,厳密な程,適切になる(geschaffen)に違 いない。しかし,必要な事情として,われわれの時代では,克服できない困難は全く存在 しない。国家社会主義の運動は,既に完全な一連の例,その下で,また,ここで示した課 題にとり刺激的に(anfeuernd)作用しうる,非常に大きな影響範囲(Tragweite)を示 した。 そこでは,新しい国が引き受けるべき,状況のように,舵を取る指導者が認識すべき, 機関により,彼に正確に充分に,確実に充分に,そして正しい時に,彼がどのように行動 すべきかを認識させ,これにより,経済が総ての国民の当然の需要の充足とその完全な就 業を充たす,像(Bild)はまだ構成されていない。 自由主義の時代のこのような厄介事が,この時期に経済を二重に構成する試みを行うこ とをもたらしたが,この試みは,たとえ,変革( Umbruch )がその目標から非常に遠く 離れているとしても,国家社会主義の変革までに,また完全に上手く予め試みられるであ ろう。このような事情(Ding)の展開が以下では注意深く行われる。家計は,変革以前に は,経済の製造部門の思考では,全く大きな役割をしなかった。このような製造部門は, 需要の充足ではなくて,利益を考えた。多数の家計での効果が決定的であった。〈【筆者補 足】この需要の充足に対する〉無視は自己支援(Selbsthilfe)にとりかかった。そこでは 消費者組合運動(Konsumvereinsbewegung)が生じた。ここではこの事情の本来の関連 のみが問題であるため,どの程度この状況から階級闘争の代表者( Vertreter )が効用を 引き出そうとしたかの研究は,この場では,無視する。消費者組合の数は増加した。この 消費者組合は,とりあえずは,これらが就業するのは,商業のみであった。しかし,商業 から開始して,消費者組合は,逓増的に,工業に不当に干渉し(bergreifen),工業が販 売しようとするものを自ら生産した。全体は,経済を消費からもう一度創造し,これを生 産により構築された第二のものと対比する,試み(Ansatz)とみなされた。事情のこのよ Vgl.Nicklisch H.(1 929/1932): Die Betriebswirtschaft, 7.Aufl., Stuttgart 1929/1932. S.65 66. Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.1112. Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.12.. 143( ) 349 ─ ─ .
(14) 第60巻 第2・3号. うな経過では,非常にすぐに摩擦と混乱(Strung)が形成されることは明らかである。 自由主義的な経済が管理されないか(lenken),あるいは,操作の試みが行われる限り, 会社(Firm)の利益を国民の需要の充足より優先させることから,既に述べた,展開が生 ずる。全体経済が正しく操作される時,家計の活動での状況がいずれにせよ完全に考慮さ れるため,消費者組合運動は,足下の基盤を消滅させる。もちろん,その場合,経済では, 利益追求が需要充足経済〈【筆者補足】つまり,家計〉の意義(Sinn)と関連(Zusammenhang) に徹底して順応することが,現実的(wirklich)であるに違いない。. 5 第3問 経済が管理可能(lenkbar)である時, 充たされるべき,前提 この問題に対する答えは,初めに,人的な側面から調べられるべきである。何が起こる べきか,これにより,経済の操作(Steuerung)が人的な側面に関して設定する,必要条 件を充たせるのかである。管理され( lenken ) ,管理する能力が人間にある,そうあるべ き理想(So-und-so-sein-Sollen)のみが示されるならば,答えは簡単に与えられるであろ う。私の論文では,この関係が多数の箇所で既に詳細に取りあげられ(blolegen),調べ られたことが分かる。ここでは,そこで獲得された結果(Ergebnis)のみを指摘する必要 がある。しかしながら,人間を,ありのままに,目で捉え,経済の操作の必要性の認識 についての精神上の立場に,より鮮明に,あるいは,より近づくように,確認すべきであ る。 経 済 す る 人間 は, た と え, 全 体 の 利 害 の領域にあっても,自らの利害を査察する (nachgehen)。その中では,人間は簡単に偏る。すなわち,自らの利害は強調して現れる。 そして, 共通の利害は彼には見劣りする。 また,共通の利害は簡単に完全に背後で消滅 する。常に, 他の国民が利己的な利害政策のありふれた効果を自らに対する思いやり (gutmtig)として受け取る限り,人間は簡単に共通の繁栄を長く承諾すべきものとして 受け取れる。〈【筆者補足】たとえば,綿花を輸入し,綿布を輸出する国が自国の繁栄のた めにする貿易協定を,綿花を輸出し,綿布を輸入する他の国がその国に対する思いやりと. Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.13. この点,消費と生産が分離された経済活動では,消費者の需要を無視した製品開発が企業で継 続して推進され,結果として,過剰機能の商品や, 使用しにくい商品が市場に氾濫することに なった。 Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.13. Vgl.Nicklisch, H. 1934. S.40.; 参照。神園厳訳1 936. 85頁 Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.14.. 144( ) 350 ─ ─ .
(15) ニックリッシュの『経済の管理』についての一考察(牧浦). して受け取ると, 疑わなくなる。〉これは,〈【筆者補足】沈没する船から離れるべきであ るのに,〉集結して,水上にあっても,船上におろうとする,人間集団に似ている。この ような群れの中に,簡単に,斟酌なしに,前にせき立てる( vorwrtsdrgen )が,秩序 での完全さに対する脅威を〈 【筆者補足】つまり,本能では逃れようとするが,混乱を避 けたいと〉感ずるが,しかし,完全な者(ganzer Kerl)として自らを維持したい人間が 見付けられ,彼らは,たとえ,水上にいる者が,ほとんど,水没したり,水死する恐れか ら身を守らないとしても, ―往来(Verkehr)の強制されない処理(Abwicklung)と 人間に対する,このような過程が自らにもたらす,混乱の総てと共に―最終的にはおそ らくまた起こることを疑っている。圧制者(Drngende)はこれを知るべきである。しか し,自らの利害は彼の意識では総ての思いやり(Rcksicht)を追い出す。 このような利害追求者(Interessente)は,操作される経済にとり,危険に満ちた厄介 者(Belastung)である。全体,あるいは,その内の法人部門の操作にとり彼らは完全に 不適切である。彼らは,一方で,全体の中で私経済的な企業を操作する能力はない。とい うのは,私経済的な企業は,その領域と方針において,自らの目標を維持すべきであるか らである。正に,これら企業は,これらにとり同様のことが妥当すべきであるため,自ら の利害の操作では拒む。利害追求者ではない,人間は,このため,鋭い考察の下と,コン トロールの下で,取り扱われるべきである。経済にとり,強制的に後見されている(unter Vormundschaft zu setzen )ことが,最も良いのであろう。常に,法律上での強い重圧 (Wucht)により,これら企業は,自らの取引(Handel)の悪い結果を自ら負担しなけれ ばならないように配慮させられるべきである。 かつて,われわれは,一度,人間が,高貴で,慈悲深く,かつ,善良で,総ての国民が, 全体での自らの肢体性の意義を完全に感じ取り,また,自らの利害を全体経済の領域と方 針内で操作できる程,良く教育されていると仮定した。この場合でも,まだ常に,全体に 対する個人の関係での弱さ( Schwche )は持続している。 彼らに名前を与えようとする と,彼らは将来を見通した展望者(perspektivisches Sehen)として特徴付けられる。身 近に,展望者の側にあるあらゆるものは,彼には大きく,拡大しているように見える。背 後では,これに反して,排除すべきものが一緒に縮少されている。また,像には,至る所 でまた,縮少(Verkrzung)が含まれており,空間上での拡大が隠されている。ある立 場からの展望のこのような結果で問題になるものは,このような像の特殊性の総てが意識 Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.14. Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.15.. 351 ─ 145( ) ─ .
(16) 第60巻 第2・3号. では残っており,これらが内部から自らの経験により是正されることにある。これに対し て,上辺と目立たない(Vorder- und Hintergrund)所での同様のラインでの長さ〈【筆 者補足】つまり,評価基準〉で,換算なしに,比較可能であると仮定すれば,彼はまた明 らかに, 自らの無力さと善良さ( Gute )を他の人より縮少して見ることができ,このた め,像は彼には重要でないと思われる。彼はこの場合には最も悪い種類の利害関係者に属 するが,これについては既に上で語った。 人的な側面より管理可能な経済のための前提を創造することは,それにも係わらず,教 育の課題である。その中で全体が強調されるべきであるため,政策上の教育が問題になり, その結果は経済に移転されるべきである。結果が充分であるならば,これは絶え間ない自 己教育(Selbsterziehung)に移転されるべきであり,全体での調整(Ausrichtung)が 維持される。これは国民を次第に円熟させ,これにより,また,経済の目標と進行(Gang) は保証される。. 物質的な側面によれば,経済が管理可能である時には,このために必要である,総ての 技術上での可能性が与えられる。 われわれは, 技術者について, 彼らが, 増加する大衆 ( Bevlkerung )が自らの経済のために必要であった,総てのモノを使用できたこと,そ して,彼らは作業手続きをまた更に改善し,経済で有意義なものとして証明できる,その 他の新しいモノを創造できるとわれわれは期待できることが考えられるべきである。 しかもまた,経済では,技術上での酔い(Rausch) ,技術上での可能性(Knnen)の 酔いのようなものが存在する。酔いでは,技術が自制心のないもの( unbeherrsicht )と して現われることが問題となる。技術についての熱狂(Begeisterung)は自制心なしに経 済に転用される。自由な時期はこのようなできごとを促進してきた。経済活動者の自由主 義的な競争は,給付のために全体で必要な生産能力を有するだけではなくて,むしろ,競 争している会社とその生産能力を打ち負かし,これらの売上げと利益を自らのものとする ために,競争者の給付能力を再度,しかも,自らの経営で構成することにある。これは既 にかつて言及した。これは,技術上での可能性( Knnen )が充分な経済上での支配なし に有効になるという,連続した強い興奮(Reiz)の時期である。結果(Folge)は経済で の過剰生産能力であろう。 しかし, この過剰生産能力は,経営での価値の連続した流れ. Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.15. Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.1516. Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.16.. 352 ─ 146( ) ─ .
(17) ニックリッシュの『経済の管理』についての一考察(牧浦). ( Wertdurchlauf )を達成できない。このため,製造されるモノにとり,全体の給付能力 〈【筆者補足】を維持する〉設備のための減価償却と利子を充足するためには,高い価格が 必要となる。そこでは,高い価格は,しかし,直ちには実施されえない。買い手(Abnehmer) はこの高い価格を支払えなかった。反面,このような会社の所有者は資本損失(Kapitalverlust) を認めない。そこで,彼らは転向( Umstellung )をする。少なくとも過剰生産能力は転 向される。このような過剰生産能力は他の製品(Artikel)のために向けられる。しかし, このような製品に対しては既に充分な経営が経済には存在する。これは,既に充分な経営 を打ち負かすことを予想するため,転向を妨げない。そこで,経済は停滞から他の経済に 転換する。過剰生産能力は,空に向けた巨大な山脈のように,そびえており,この山脈は, 動きの中にあり,経済の谷に崩れ落ち,そこでは,将来,存在する関連を破壊し,また, 荒廃させる。 技術の充分でない支配的な適用と共に,設備の過剰な規模により,また,経済で適応能 力に関して増加する欠陥が生ずる。 物質的な側面の考察の結果は,経済が技術者にまかせられないことである。経済での技 術の適用についての決定は経済活動者に留保されるべきである。経済上での操作のための 指導(Fhrung)は,このような関係を確実にすることに本質がある。. 最後に,管理可能性(Lenkbarkeit)にとり,経済の組織の側面により,前提が形成さ れるべきである。事情(Ding)の関連のない山(Haufen)は管理できない。総ての個人 は相互に結び付けられている( verbinden )ことがまず必要である。結び付きは充分に強 固で,継続的(dauerhaft)であるべきである。更に,操作に着手できる,機関(Stelle) が組織されるべきである。 最後に, 操作装置( Steuerungsapparat )が存在すべきであ る。これら総ては,全体に方向を与え,総ての部分を同一方向に向けられる,内部的な関 連(Zusammenhang)と秩序(Ordnung)を有する構成体(Gebilde)を意味する。管 理可能な経済は,永続的なもの( stndig )と呼ばれる,形式で内部展開されるべきであ ることは明らかである。. シュマーレンバッハは,「全体の設備は, 明らかに, 少ない賃金と, しかし, 高い利子と高い 減価償却を惹き起こす」(Schmalenbach, E. 1928. S.244.; 参照。齋藤隆夫訳1 960. 144頁)と述 べている。 Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.1617. Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.17. Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.17. Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.17.. 147( ) 353 ─ ─ .
(18) 第60巻 第2・3号. この場では,読者に再び正確に,自動制御的な操作は存在しえないことと,このため, 全体経済を意図的に管理する以外に人間には他のものは残されていないことを思い出して ほしい。上で説明された関連では,これは,永続的な方向で発展が維持されることも,維 持されえないことも意味する。また,これに対して抵抗する者は順応すべきである。彼ら に対する他の救い(Rettung)は存在しない。しかし,この確認では,管理可能性に対す る必要条件において,永続的な発展に対して限界が引かれることが,同様に,追加される べきである。経済から見れば,これを完全に管理能力があるようにするために,必要なも のを上回っている限り,これら必要条件はその本質を失っている。 この節の総ての解説(Ausfhrung)は,経済の管理可能性の前提について論究した。 総てがこのような事情を前提にすべきであることは,たとえ経済がそうであっても,操作 が問題になることを意味しない。むしろ,管理者の特殊な課題の1つは,どの程度前提が 充たされているのか, 経済がより良く充たせるために,適切である,やも得ない前進 (ntigenfaller Schritt)をするのかを考察することにある。. 6 第4問 目標を達成できる,方法の特徴はどのようなものか. この問いに答えられる前に,初めに,方法(Weg)自体が簡単に描かれるべきである。 方法は単純ではない。むしろ,目標に合流する2つの方法である。一方では,需要の充足 に必要な,価値が生み出されることが問題になる。更に,このような過程(Vorgang)か ら生ずる,就業(Beschftigung)が,経済活動者では,彼らに自らの当然の欲求の充足 (Befriedigung)を可能にする,所得をもたらすべきである。特殊な困難は,同時に価値 を働いて獲得し,所得を稼ぎ,これにより時間の経過後に価値の充足を手に入れる(anschaffen) ことにある。これは,合間(Zwischenraum)ではなくて,本心に立ち返らせる(Besinnung) ための時間である。だが,全く,このような密接な一体化(Verkoppelung)は強制的な 解決を含んでいる。その際,個人の所得と,これと共に,全員により一緒に,ある期間の 社会的生産が製造されることにより,稼がれる,全体の所得の分配が強調される。全員の 生産での個人の給付に対する全体の所得を巡る個人の取り分の割当( Zumessung )によ り,割当に対する総ての国民の当然の需要の最高水準が労働の機会に転換されるようにな るべきである。また,これは失業問題の不幸(Schwarze)にも妥当する。私の論文(Schrift) Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.18. Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.18.. 354 ─ 148( ) ─ .
(19) ニックリッシュの『経済の管理』についての一考察(牧浦). のある場所で,この関係を,労働の権利(Recht auf Arbeit)と関連させて,私は次のよ うに示した。すなわち, 労働の権利(Recht auf Arbeit)が実現されうるべき時には,もちろん,経済が正しく 指導される(fhren)べきである。個々人が経済に持ち込む,労働の機会は経済を活性化 させるべきである。これは,労働の機会が需要に転換されることにより,行われる。これ に対しては,個々の経済活動者の(分業型の)給付による方法のみが存在する。彼らに対 する対価(Gegenwert)は,彼の(当然の)欲求ができる限り完全に需要に転換するよう に,彼にできるだけ多くの購買力を与えるべきである。このような関連は,はっきりと, 労働の権利がまた実践では経済での分業と結合している様子を示す。分業が保証されれば, 経済は,花が咲き,延びる〈【筆者補足】つまり,栄える〉。そして,分業が個々の経済活 動者に対して保証されなければ,経済は全く繁栄できない。個々の経済活動者が,使用し たモノを購入できるような金額を,自らの給付と引き替えに,受け取るため,使用される モノが作られ,このようなモノが購入されうる時には,分業の確保( Wahrung )は達成 される。これには2つのことが必要であり,これにより総ての経済活動者が労働の権利を 実現できることが知られている。一方で,個々人が持ち込む,需要に生命を与える労働の 機会に対応したものが給付されるべきである。他方で,分業型の給付の全体の成果が,製 造された価値に関連付けられるように,分配されるべきである。また,前者と後者の方向 で,個々の国民に労働の権利が認められる時に,彼らが信頼できる,国家の間接的な影響 (Einwirkung)の可能性と必要性がある。 国家がここで置かれている,事情(Ding)は,非常に困難である。その際,とにかく問 題になることは,以下の考察により,更に明らかになる。充足されるべき,欲求について の総ざらえ表(Inventur)が作成されたと仮定する。総ざらえ表は,欲求が総て完全に充 足されうるという前提の下で作成される。個々の欲求は,この場合,100%の充足で表さ れる。作成されたグラフでの像では,この場合,総て同じ大きさで並列され,このため, 直線の同様の線で区分された欲求の領域が生ずる。発生する欲求は,その中で総て個々に 更に細分されて,考慮される。与えられた大雑把な像は,具体的に示すために,大きな見 取り図で,最も必要なモノのみを示す。 〈【筆者補足】図表1では, 〉欲求者の購買力が彼を生活させるように,個々の欲求は価. Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.1819; Nicklisch, H. 1934. S.1112.; 参照。神園厳訳1 936. 76頁 Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.1920.; Nicklisch, H. 1934. S.1112.; 参照。神園厳訳1 936. 76頁 Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.20.. 355 ─ 149( ) ─ .
(20) 第60巻 第2・3号 図表1 100%の充足 食べる 欲求. 着る 欲求. 住居の 欲求. 等々. 0%の充足. 値に関して需要に一致している。しかし,関連は,与えられた購買力が望ましい価値の需 要の60%である時,総ての欲求の完全な充足の内,40%が削除されるようなものではない。 むしろ,総ての人間の欲求は総体( Gesamt )であり,これらの内のどれかが,他のモノ の排除より以前に,より少なく必要になるように,縮少する。これらは,長く続く縮少で は,正に,それぞれの重要性の程度により,しかも完全に,排除され,その結果,最後に は,充足することが必然的なモノのみが残されるが,その際,残っている購買力は少なく ともその程度で充分であることが前提にされる。しかし,このような縮少の程度は個々の 人間では異なる。また,充足が必要である,欲求は,個々の者において,全く同一ではな い。このため,購買力が縮少したり,増大すれば,変動(Bewegung)は,さまざまな財 に対する需要で同様には移転しない(bertragen )。むしろ,購買力の一定の規模では, さまざまな欲求はさまざまに捉えられる(bedacht werden) 。これは次のことを意味する。 すなわち, 生ずる財の需要は, 個々の欲求では100%の充足とはさまざまな程度で異なっ ている。それにも係わらず,上と同様に,欲求では,人は,需要の総ざらえ表の良く似た 図解に到達できる。その際,個々の経済活動者の一定の購買力と,大衆(Bevlkerung) における,購買するための,全体の力の一定の分配から,開始すべきである。個々の場合 に個々人が完全な充足の100%より離れている程度に係わらず, このような状況での彼ら の意義に従って, 個々の欲求から生ずる, 需要は,100に等しく設定される。グラフの表 示のために,この場合また,個々の欲求による需要は,同様の大きさで並列されうる。と いうのは,常に,100%の需要が問題になるからである。そこで,欲求の領域に良く似た, 需要の領域が生ずるが,欲求の領域の経過より,より少ない。また,ここでは,その際, 編成(Gliederung)は,個々人に行き着くまで,考察される。. Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.2122.; Nicklisch, H. 1934. S.1213. この図表2について,ニックリッシュは次のような注記をする。すなわち,幅は,欲求の図表 での幅に,この場合,明らかに一致しない。むしろ,幅は,他の割合で相互に現われるであろう。 そこには,差異の効果が縮少で示されるであろう。図表での表示は,できる限り簡単に表示をす るために,これは考慮しない。. 356 ─ 150( ) ─ .
(21) ニックリッシュの『経済の管理』についての一考察(牧浦) 図表2 100%の欲求の充足 一定の購買力と購買力 の分配に基づく100%の 需要. 食べる. 着る. 住居の. 欲求. 欲求. 欲求. 等々. 0%の充足. 誤解を排除するために,繰り返される,描写は,絶対値の相互の割合を示さない。描写 は,ただ,与えられた購買力と購買力の分配に基づく,100%の充足と,100%の需要との 差異を全く共通して明らかにする。 需要の全体に対して給付の全体が対比される。前者の需要の全体は,全体経済での購買 力とその分布による,財の価値により商品需要(Nachfrage)に転換された欲求の全体で あるが,しかし,後者の給付の全体は,商品需要に対比される,給付された価値に関する 全体である。問題は,ここから見て,その答えはわれわれの像を更に補完するが,必要と される,あらゆる種類の価値の1 00%は, また,比較の時点での給付の全体に含まれ,こ のため,少なくとも,需要があらゆる所で与えられる購買力により,完全に充足される。 個々の必要な価値の100%は,上回ったり,下回ったり,丁度であったりする。このため, 個々の価値の種類に対する給付線は,図表3のグラフの描写で描かれた様な様相になる (aussehen)。. 図表3 a=100%の欲求の充足. c=給付線 b=一定の購買力と購 買力の分配に基づく 100%の需要. a. c. b. 0%の充足. Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.22.; Nicklisch, H. 1934. S.13. Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.2223.; Nicklisch, H. 1934. S.1314.. 151( ) 357 ─ ─ .
(22) 第60巻 第2・3号. 簡略化のために,欲求線はaで,需要線はbで,そして,給付線はcで示される。この 場合,第1に,aとbの間での空間,更に,bとcの間での空間が問題になる。両者は, また,分業型で働く経済で,自らのために,自立している,人間の総ての労働の機会が, 就業に転換し,その結果,彼らが総て完全に就業するという,問題の解にとり完全に異な る困難を示す。第2に,少なくとも,購買力の分配に基づいて必要とされる,総ての財が 給付されるのかという問題が設定される。この問題にとっては,ある財にとり,中間の空 間は,製造に関する超過を,他の財では,不足を意味する。更に,他の財は,丁度,需要 を充足する。最後に,また,中止されることを期待された,財がいたずらに製造されるか もしれない。与えられた目標での方向での経済の指導が途中で遭遇する,困難の内,僅か なものをこの偏差は内容とすると,軽薄な観察者には思われる。与えられた目標に対して, 彼は,自らの側の競争者として,生産者の私的なエゴイズムを有する。彼は,需要に比べ た製造でのプラスとマイナスを,簡単に彼の事業の業績の妨害(Beeintrchtigung)とし て認知する。差異の調整の方向で作用するように,彼を刺激し,努めさせる,経済秩序の ために,彼を競争者にするのは,このような認知である。しかし,このような意見には, 充分な根拠が欠けている。しかも,製造者の私的なエゴイズムは,総ての偏差を,仮定さ れたように,感ずる。しかし,製造者は,偏差を取り除くのではなくて,むしろ,最高で, 発生の様式(Erscheinungsweise)で変化させるように,偏差に対して反応する。自由主 義経済のカルテルは過剰生産を排除できなかったことは知られている。大きな経済体の 過剰生産能力を保有する者は,まだ今日,あらゆる所で,このための明らかな証明(Zeugnis) を度外視している。これによれば,全体経済の指導(Fhrung)が設定する,最も困難な 課題が,既にここで,問題になる。 また, グラフの描写でのaとb〈【筆者補足】aの欲求線と,bの需要線〉での間での 間隙では,困難の重要さと種類が,緩和されずに,軽薄な観察者の目には非常に簡単に明 らかになる。自らが経済活動者であれば,労働の機会が可能にする,就業の程度(Ma) との関連は,ここでは,b線が常に繰り返して上に引かれることにのみに本質がある。理. この点, シュマーレンバッハは,「現代の経済は, その高い固定費により, 生産と消費を自発 的に一致させ,経済上の均衡を確立する,治療薬(Heilmittel)を喪失している。比例費(proportionale Kosten)は非常な程度で固定されたため,経済は消費に対する生産の適応の能力を欠き, 機械自体が常に自動的な操作を装備し, 人的な支援をなくて済ませるが,全体での経済機構 ( Wirtschaftsmaschinerei ),つまり,巨大な国民経済は自発的な操作を失うという,注目すべ き事実が生じた。固定費は,不足した商品需要に係わらず,生産能力を充分に用いることを経営 に強制することだけでは満足しない。 〈【筆者補足】更なる生産能力の拡大を要求する。〉」 (Schmalenbach, E. 1928. S.247.; 参照。齋藤隆夫訳1 960. 149頁)と述べている。 Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.2324.; Nicklisch, H. 1934. S.1415.. 152( ) 358 ─ ─ .
(23) ニックリッシュの『経済の管理』についての一考察(牧浦). 想的な状況は,それが,a線に重なることである。しかし,この方向での総ての圧力は, 分業型の経済の全体の成果の分配での変更,購買力の分配での変更を示唆する。そして, このような総ての過程は,また,これにより,所得を失う,人間に出会う。彼らは,一般 には,経済上で支配する者に所属する。決定がとりあえず下される,組織上での構造に対 するその意義は,b線がa線により近く迫れるのかにある。更に,私的なエゴイズムは, 解決をもたらす,力にはなりえない。このような考察は,全体の需要,このようなものと しての国民共同体(Volksgemeinschaft)の需要を含む。国民共同体にとり,防衛力を含 めて,安全性の根拠から,文化の促進の根拠から,あるいは,他の根拠から,必要になる ものは,経済では,共同体的なものと共同体の需要として,現れる。 方法(Weg)によれば,その特徴は〈 【筆者補足】次のようである。〉 個々人は,自らの当然の需要を充足するために,彼が用いられる,価値の範囲(Wertraum) を獲得できるべきである。操作(Steuerung)は,常に,総ての人がこの価値の範囲を有 するのかを問うべきである。このような価値の間隙(Wertspann)は,決定的な規模であ り,自由主義者が考えているような,価格ではない。いずれが差異をもたらすもの( Unterschiede)であるのか。 価格は,これが発生する,時点の商品供給(Angebot)と商品需要(Nachfrage)につ いての方法(Weg)で説明される,単位(Einzelheit)である。商品需要と同様に,商品 供給では,影響要素の束( Einflubndel )が問題になる。この影響要素の束には,個々 のケースで問題になる,数量の販売者(Verkufer)と購入者(Kufer)の影響のみでは なくて,むしろまた,同一の市場でのそれ以前の販売者と購入者の,まだ有効な,影響, 並びに,販売者と購入者になろうとし,市場から既に見られている人間の影響がある。こ れには,彼らの影響が直接有効になることを試みる,要素が含まれる。私は,ここでは, とにかく,公的機関の介入を考える。もちろん,より詳細な考察は,また,購入者と販売 者が同調しない時には,書類(Papier) 〈【筆者補足】調査表など〉にその作用が残るため, 影響要素は,商品供給と商品需要を通じてのみ,しかも,両側により,作用できることを 示す。また,はっきりとした強制はこの両側を通じてのみ作用できる。 総てのこのような影響要素を成立させるものは,特定の種類の特定の財の数量に対する 価値の割当(Zumessung)である。この割り当てられた価値が,正に,価格,今まで述べ. Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.24.; Nicklisch, H. 1934. S.15. Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.24. Vgl.Nicklisch, H. 1935. S.2425.. 359 ─ 153( ) ─ .
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