〈論文〉ニックリッシュによる経済恐慌期での経営経済学の課題についての一考察
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(2) 第60巻 第2・3号. は じ め に. 本稿でほぼ全訳しながら検討する,ニックリッシュの論文「国家社会主義国での経営経 済学」(Die Betriebswirtschaftslehre im nationalsozialistischen Staat)と「経営経済 学と国家社会主義」(Betriebswirtschaftslehre und Nationalsozialismus)は,1 933年 に公表された。また,論文「経営経済学者の思考材料に対する全体経済の関係からの影響」 (Einflsse aus den Beziehungen zur Gesamtwirtschaft auf das Denkenmaterial der Betriebswirte)は,1935年に公開された。 特に,2つの論文のタイトルに,ドイツの忌まわしい歴史を暗示する言葉が使われてい るため,正直に言えば,手に取ることにわれわれは躊躇する。しかし,論文「国家社会主 義国での経営経済学」では,国家社会主義という言葉が記載されたのは1箇所のみである。 むしろ,1934年に出版された小冊子『奮起しろ。国民・経済・教育』 (Aufwrts ! Volk, Wirtschaft, Erziehung, Stuttgart 1935.)での主張の要点が,経営経済学者に科せられ た課題として率直に述べられている。 しかし,論文「国家社会主義国での経営経済学」のはしがきには次の文章が書かれてあ る。すなわち,「経営経済学は,今や,どのようにして新しい国の課題に寄与するのかに ついて認識すべきものをまだ全く与えておらない。このため,われわれの雑誌の手元の号 により,意識的に,この問題について始める。これは協働へのアピールであり,同時に, 採用された論文で,専門の緊急に解決されるべき課題の概要を伝える。2つの論文の内, 1つでは,重要な特殊問題が呈示され,次号で若干のその他の重要な特殊問題が持ち出さ れる。しかし,われわれのアピールは,科学だけではなくて,むしろまた,編集者と著作 者との今までの精神上の結び付きを更に深めたいという願いを有する,われわれの読者に と。しか 向けられており,これにより,雑誌は新しい課題をできる限り完全に充たせる」. し,雑誌「商業学と商事実践」の次号,第2 6巻8号にはこのような論文をわれわれは見付 けられない。 この点,ザイシャープ( Seinschab, H. )が作成した文献目録では,論文「国家社会主 義国での経営経済学」の次に, 論文「経営経済学と国家社会主義」が記載されている。 本稿で検討するように,この論文は,一見すると,奇異な印象をわれわれに与える。それ Nicklisch, H. 1933a. S.173 左. Vgl.Seinschab, H. 1936. S.54.. 254 ─ 48( ) ─ .
(3) ニックリッシュによる経済恐慌期での経営経済学の課題についての一考察(牧浦). は,論文の最初と終わりに,国家社会主義に対するニックリッシュの期待が書かれてある が,彼の期待は国家社会主義をスローガンにする政党の公約とはかなり異なるもので,当 然,1933年に実現されているとはみなせない。ニックリッシュがこの政党に対して信奉し ていたか否かは,一部の経営経済学者には関心があるらしいが,われわれにはこのような ことには関心はない。われわれの関心は,ニックリッシュが,1920年に『組織論』を公開 して,経済体制の変更に2度遭遇し,その度に,『組織論』で展開した,一般組織法則を, 経営組織法則に変更しようと苦慮したことにある。この点,既に検討したが,最初は, 「ド イツ帝国」が, 第一次世界大戦で崩壊し,「ワイマール共和国」に代わった,1 920年であ る。そして,2度目が,1929年の世界恐慌で始った「経済恐慌期」で,政変が起こった 1933年である。論文「経営経済学と国家社会主義」は,ニックリッシュ自らが『組織論』 の問題点を指摘したものとして,注目すべきものである。また,1935年に公開された,論 文「経営経済学者の思考材料に対する全体経済の関係からの影響」は,ニックリッシュが, 思考過程で多用してきた,概念を再検討したものとして注目される。. 1 国家社会主義国での経営経済学. この表題の下で行われることは, その精神( Sinn )によれば, 新しいドイツの指導者 (Fhrer)にあらゆる自らの諸力を利用させること,自らの研究の目標を政治上での構成 (Gestaltung)の要求に従って設定することと,主にこれ〈 【筆者補足】政治上での構成〉 にとって決定的な関連を明らかにすることに役立つことを,経営経済学者にアピール(Aufruf) することである。. 失業・賃金体系・給付原則 最もうまく,出来高給(Leistungslohn)が,適応可能な総ての所で,また適応される べきものとみなした,私の講義の終わりでの出来事に私は関連させる。ある学徒が私の所 に来て, そして, 適切な賃金規定の様式についての問いを, しかも, 流行している失業 (Arbeitslosigkeit)の考慮の下で,再度持ち出すことを願った。彼は,このような状況で. この点,ニックリッシュは,1920年に『組織論』を出版した後,同年に,論文,「組織」( Organisations, in.ZfHH.1920.)と, 「一般組織法則」 (Die groen Organisationsgesetze, in.ZfHH. 1920.)を公開し,1922年に『組織論』を改訂する(参照。拙稿「ニックリッシュによる『一般組 織法則』から『経営組織法則』への展開についての一考察」商経学叢 第60巻第1号)。 Vgl.Nicklisch, H. 1933a. S.173 左.;参照。神園厳訳1 933. 109頁. 255 ─ 49( ) ─ .
(4) 第60巻 第2・3号. は,できる限り多くの就業者に対して全体の労働の分配をもたらす,賃金体系が正しいと いう考えから始めた。彼の思考過程は時間給(Zeitlohn)に至った。しかし,遠い未来で は(in der Ferne),この方針では,「できる限り少なく給付し,これにより,可能な労働 を多数の無職者に見付けさせる」という命題(Satz)に規定された,働く様式が現われる。 追求される特殊目標は優れていても,この方針では,経済の健全化が見付けられないこと は明らかである。「この方針では」,ある賃金体系(Lohnsystem)から他の賃金体系への 移転を起こすため,これにより,また,われわれの失業者には,時間給に従えばまだ充分 な給付の状態にあったであろう,僅かな給付数量が適切になる(Platz schaffen)と私は 語った。 われわれに役立つものは, 「各自は自己の最善のものを給付する」という基本原則に従っ た労働のみである。これは給付原則(Leistungsprinzip)の強調である。また,個々の給 付に対する,正当な賃金(gerechte Lohn)がこれに属する。考慮されるものは,給付者 (Leistende)が,給付し,生活できる時に,繁栄すべき,全体の肢体である。ここでは, 共通の効用(gemeiner Nutzen)の奨励(Pflege)の要求が響き渡たる(aufklingen) 。 しかし,これは,個々の給付者にとっては,賃金と給付の正当な関係を越えている。すな わち, 彼は, 全体のために, その他のことを行える( ein briges tun )べきである。 彼 は,このために,また,対価なしに給付する,覚悟をすべきである。更に,彼はこの献身 ( Hingabe )を犠牲にまで高めるべきである。全体は,もちろん,存続しようとするなら ば,給付を常に認めるべきである。全体は,自らの帰属者(Angehrige)の行為(Tat) をその価値に従って報いる,準備を常にすべきである。全体は,前進しようとする時には, 自らの肢体に対して状況に合わせて給付原則を適応することを回避できない。これが,ま た,とにかく,国民(Nation)と国家(Staat)に対する個々人の関係で妥当するならば, この国民と国家の内部での個々の全体とその肢体に対しても,適用される。また,経営に 対しても,これは,上で既に語られ,しかも,全体から見て,正当な賃金を含むという意. Vgl.Nicklisch, H. 1933a. S.173 左S.173 右.; 参照。神園厳訳1 933. 109110頁 失業の原因について,ニックリッシュは,「失業の第一の原因は,誤った構成(Gestaltung) と労働の機会の誤った分配にある。自由主義的・マルクス主義の時代での分業型の経済が国民の 欲求を前面に設定する能力がない点に,この失業の第一の原因は還元される。……そこでは,大 概,欲求を充足することではなくて,むしろ,利益を獲得することが試みられた。その際,国民 の繁栄がこの欲求に依存する時でも,充足に充分な利益の見込みがなければ,欲求は考慮されな い。……そこで,国民が自ら望む,労働の機会の大きな部分が,死蔵され,利用されなかった。 ……利用されないまま残される労働の機会は,自らの需要が充分に欲求に転換され,その結果, ここから労働の機会になるため,多くの人間が充分な購買力を獲得しないことから生ずる。購買 力の不足は国民への全体経済の成果の誤った分配にその根拠を有する」(Nicklisch, H. 1934. S.8 9.; 参照。神園厳訳1936. 7 5頁)と考える。. 256 ─ 50( ) ─ .
(5) ニックリッシュによる経済恐慌期での経営経済学の課題についての一考察(牧浦). 味での,給付原則の強調の強化を示唆する。しかも,この正当な賃金は,異議のない基礎 に基づく出来高給である。 このような賃金体系は,失業者の困窮に対応することを妨げない。周知のように,また, これは時短労働(Kurzarbeit)の方法で行われた。経済の多くの場所での状況の改善が, 再び採用された労働者の人数に現れているより,幾分広範囲に進展している現象は,一部 は,これ〈【筆者補足】時短労働〉に起因する。 労働奉仕者( Arbeitdienstlager ) 〈【筆者補足】青少年を労働キャンプに集めて安い日 当で働かせる所(参照。坂井榮八郎 2003.191頁)〉でも,また,労働者のために,調和で きれば,時間給の形式が適応されていることは,特殊な問題である。労働奉仕は,設定さ れた目的に対する手段(Mittel)の制約と,これら手段のより強力な配分の必要性に,し かもまた,給付の場所(Lager)での供給が追加的に参加者の更なる進歩に対して有する 意義と関係している。ここでは,労働者は,即座に支払われる完全な対価なしに,給付し, 実証する(erweisen) ,能力を有し,全体は,個々人を彼らの給付に従って評価し,自ら, 決して,ここでもまた,自由にできないことを忘れるべきでない。しかし,このような困 窮の時期でも,また営利(Erwerb)を有する〈【筆者補足】つまり,儲ける〉者は,自ら の側で,このような〈【筆者補足】共通した効用のための〉組織にとり必要な手段を見付 け出す(aufbringen)覚悟をすることにより,共通した効用を強調すべきである。これは 分かりきったこと(Binsenwahrheit)である。. 価値の循環・分業型の経済・非洞察 学徒の願いと,これに対して与えられる,答えから,新しい国で経営経済学の状況の判 定のためのあらゆる本質的なものが導き出される。経済での給付原則(Leistungsprinzip) は,経営活動(Betriebsleben)が頼る(beruhen)諸原則の1つである。この経営活動で. Vgl.Nicklisch, H. 1933a. S.173 右S.174 左.; 参照。神園厳訳1 933. 110頁 正当な賃金に関連して, ニックリッシュは,「労働の権利が実現されるべきである時には, も ちろん,経済が正しく指導されるべきである。個々人が収容される,労働の機会は,経済で活動 的になる。労働の機会が需要に転換されることにより,これは起こる。このためには,個々の経 済活動者の(分業型の)給付の方法のみがある。この給付に対する対価が,純粋な(正当な)欲 求ができる限り需要に転換されるように,多くの購買力を個々人に与えるべきである。……総て の者が労働の権利を実現できるためには2つのことが必要である。まず,個々人に収容される, 欲求に活気を与える労働の機会に対応したものが,給付されるべきである。また,分業型の給付 の全体の成果の誤った分配にその根拠を有する」(Nicklisch, H. 1934. S.1112.; 参照。神園厳訳 1936. 76頁)と考える。 Vgl.Nicklisch, H. 1933a. S.174 左.; 参照。神園厳訳1 933. 110111頁 Vgl.Nicklisch, H. 1933a. S.174 左.; 参照。神園厳訳1 933. 111頁. 51( ) 257 ─ ─ .
(6) 第60巻 第2・3号. は,給付の様式と数量に関係する( angehen ) , 総てが規定される。 この規定はあらゆ る個々の経営の内部と外部の価値の循環の相互作用( Zusammenspiel )から芽生えてく る( herauswachsen ) 。 その際, 前者の内部の価値の循環は,支払手段の付随した逆流 (Rcklauf)を伴う,経営を通る価値の貫流(Durchlauf)である。後者の外部の価値の 循環は,給付者の手元を通り,給付された場所に戻る,給付の対価の流れに本質がある。 そこでは,このようにして新しい給付が可能になる。しかし,分業型の経済(arbeitsteilige Wirtschaft)では,事情(Dinge)と過程(Vorgang)の洞察を得ることは難しい。とい うのは, [給付に対する]対価(Leistungsgegenwert)が,受け取る権利のある者により 直接的に彼らの日々の,そして,期間の欲求に対して使用されるだけではなくて,むしろ ―特に貯金と銀行による経路において―また生産手段のための経営に使用されるから である。また,あれやこれやの経路で[給付に対する]対価の逆流により新しい給付が可 能になる,経営が,通常では,直接には,カネを稼ぐ経営ではないからである。この結果, 新しい給付の可能性はこの点では間接的にのみ行われる。すなわち,他の経営に,再び注 文を与える, 能力が与えられることによってである。内部の価値の循環は外部の価値の 循環の基礎に基づいてのみ実施されうるため,また,この非洞察性(Unbersichtlichkeit) 。 は内部の価値の循環にも伝染する(bertragen). 両者の価値の循環は永続的に相互に調整されるべきであり,これにより,消費する経営 と生産する経営の繁栄(Gedeihen)が経済において達成される。経営活動(Betriebsleben) とこのような課題は不可分に結び付いている。これら価値の循環は経営経済学者の研究分 野では最も重要なものの1つであり,同時に,今日,非常に重要であり,今後も更にこの ようになるものである。. 合理化・経済の調整・中小経営 この立場から,今や,部門課題( Teilaufgabe )が展開される。そこでは,何よりもま ず,給付過程の構成(Gestaltung des Leistungsvorgangs)そのものである。ここでは,. この点,ニックリッシュが,新しい給付と,これを可能にする生産プロセスは,自社で終結す るものではなくて,企業間分業により,可能になると考えていることに注目すべきである。われ われは,たとえば,車の製造では,生産プロセスでの部品の下請けなどを重視してきたが,保険 やメンテナンス・修理の各企業, 買い取り企業(中古車仲介業者), ローン会社, 更に, 道路整 備やガソリン供給の各企業など,関連した経営を発生させることにより,仕事とその就業者を創 造してきたことを思い出す必要がある。 Vgl.Nicklisch, H. 1933a. S.174 左S.174 右.; 参照。神園厳訳1933. 111112頁 Vgl.Nicklisch, H. 1933a. S.174 右.; 参照。神園厳訳1 933. 112頁. 52( ) 258 ─ ─ .
(7) ニックリッシュによる経済恐慌期での経営経済学の課題についての一考察(牧浦). 合理化(Rationalisierung)が相変わらず要求される。しかし,外部の価値の循環での効 果を徹底的に研究し,注目することなしに,価値の循環,特に,内部の価値の循環の関係 に関してのみ「改善する」ことは無意味である。両者の循環は,そうでなければ,既にあ るよりも,更に分離される。両者の価値の循環の調整(Stimme) ,適応(Angepatheit) を脅かす,過程での「合理化」が強引に進められる限り,過程は改善されない。合理化の 過程は,経済の調整( Stimme )を促進する時,このようなものとして,常に,認識され うる。 この調整が必要な限り,変更後には,また,他の価値の循環でも〈【筆者補足】調 整は〉必要である。しかし,このような価値の循環は,可能と思われるだけではなくて, むしろ,適時の発生が確実になるに違いない。われわれの経済の指導者(Wirtschaftsfhrer) がこのような関連について注目しておれば,合理化での多くの無意味が中止されたであろ う。そして,大経営よりも中小経営(Klein- und Mittelbetrieb)での調節の問題がより 好都合であることを経営活動者の多数が忘れなければ,この調節の問題は意思決定(Willensbildung)の方法,意思の担当者〈【筆者補足】実行者〉の忍耐力と,設備と価値の循 環の特殊性に起因するが,大経営が科学上では少しだけ一面的に強調され,経済は科学的 な研究により多く〈 【筆者補足】の知識〉を有していたであろう。しかし,研究は,度を 超すまで初めは進められ,租税法では保護特権(Schachtelprivileg)と,相互のコンツェ ルンの部分的な解散の助成(Begnstigung)として砕け散り,最後には,ここ〈【筆者補 足】以下の闘争〉で変革が現われる前に,中小経営のための国家社会主義の運動(nationalsozialistische Bewegung)が導びく,はっきりとした闘争(Kampf)に行き着くに違いない。 このような非難は,同時に,少数の者にとり賞賛であり,彼らは,まだ共通の承認が期待 されなかった時期に,既に,熱心に中小経営での関連を追求した。丁度,この雑誌の次の (合)巻が専ら経営のこのようなグループを取り扱う時,この賞賛は,同時に,このよう な少数の経営経済学者の特徴と,無視されてきた領域を大規模に育成するという勇気付け (Aufmunterung)を暗示する。これを知っている者は,その際,大きな展望と,総ての 者が持ち合わせているのではない,高度な[導入のための]能力(Einfhlungsvermgen) が必要であることを知る。 中小経営で問題にされる,問いは一般化される。すなわち,給付関係の構成(Gestaltung), 合理化では,そこまで,改造(Umgestaltung)により,内部と外部の価値の循環の調整 を促進できる,限界を見付けることが重要である。欲求の探索(Abtast)はこのための前. Vgl.Nicklisch, H. 1933a. S.174 右S.175 左.; 参照。神園厳訳1 933. 112113頁. 53( ) 259 ─ ─ .
(8) 第60巻 第2・3号. 提である。これを越えるものは,過程が技術上でまたうまく展開されるかもしれないが, 良くない結果である。ここでは経済活動者は技術を彼らの限界で指示されるべきである。 これは確かに重要である。しかし,その技術の適用の合目的性についての判断は常に経済 上の基本原則に従ってのみ見付けられる。これは,このような機関( Stelle )で非常に広 い現場(Front)を眺められるが,経営活動者の最も重要な課題の1つである。. 正当な賃金・対価・生存の最低限 正当な賃金(gerechter Lohn)についての問いの答えは,常に,2つの経営上の循環の 関係の同調した状態(Abgestimmstsein)に左右される。給付価値と対価(Gegenwert) は外部の価値の循環で相互に対向して現われる。これは,直接,給付者が,働く経営から, 商品により,家計について配慮できる所ではどこでも起こる。給付価値は,引き取られる, 財の価格に含まれる。給付者は,財を取り出すことにより,対価を自由に使える。しかし, これは,このような特殊なケースのみではなくて,むしろ,全体の経済に亙ってそうであ る。給付価値の全体は対価の全体に対向しており,全体で,給付者が使用するモノが給付 されることと,対価が―その分配で―これを獲得するのに,充分であることが問題に なる。この関係では,今や,上で既に述べたように,価値の循環を洞察することの困難が 充分に作用する。この困難は,常軌を逸した,経済には,非洞察性の本質的な制限なしに ―必要な場合また劇的な手段によっても―もはや正しい道が分からない程,非常に大 きい。 給付の全体と対価の全体の非常に(beraus)重要な関係(Verhltnis)は,給付者で の関係に内在する使用の傾向により,主に経営経済学者に対して設定される,一連の問題 を包括する。そこでは,まず,正当な賃金を規定する,最良の様式についての問いがある。 関連(Zusammenhang)は,その際,生存の最低限(Existenzminimum)の認識なしに は,受け取る給付者も,支払う経営も,困ることを指摘する。1つは力の経済( Krftewirtschaft)の規模であり,他は財の経済(Gterwirtschaft)の規模である。しかし, 越えるべきでない,そして,結局,越えることが許されない,限界がどこに引かれるのか。. Vgl.Nicklisch, H. 1933. S.175 左. この点,シュマーレンバッハは,論文「技術論としての私経済学」 (Die Privatwirtschaftslehre als Kunstlehre, in ZfhF. 6.Jg., 1911/12.)で,私経済学の「問題は,実際には,どのようにし て最も多く儲けるのかではなくて,むしろ,どのようにして最大の経済性でこのような対象を製 造できるのか,どのようにして最も合目的に市場需要と市場供給を調和させるのかである」 (Schmalenbach, E. 1912. S.311; 参照。齋藤隆夫訳1955. 184頁)と主張した。 Vgl.Nicklisch, H. 1933. S.175 左S.175 右.; 参照。神園厳訳1 933. 113114頁. 54( ) 260 ─ ─ .
(9) ニックリッシュによる経済恐慌期での経営経済学の課題についての一考察(牧浦). 給付者にとり,一般的な限界と,これに基づいて構築される,個々の仕事のグループに対 する特殊な限界が存在するが,特殊な限界は,前者の一般的な限界の近くか,離れてある。 しかし,どこに正確にはこれら限界は引かれるのか。一般的な限界と各グループに対する 特殊な限界では,これら限界に対して平均的な人間か(彼らはどのような様子であるの か), あるいは,自らの力を特別に開発する者か,あるいは,この点で最も好都合である 者が決定的な者であるのか。その際,異なる地理上の区域( Bezirke )の経済上の状況 (Lage)の差異が考慮されるべきである。国家,そして,国家の中での経済にとり,家族, 後継者の教育はどのような価値があるのか。計算なしには,それにも係わらず,うまく行 われない。反対に,基本的には,さもなくば通常であったより,非常に早く行われる時に も,採用される。このような関係は,これらが家計と他の経営の生活に属する限り,全く 新しい領域(Neuland)ではない。しかし,今日必要であるように,これら総てを決定的 に等級を付け,完全に統一的に見るために,明らかに,はるかに大きな研究(Arbeit)を 行うことが残されている。経営の生存の最低限は既に創設(Grndung)で念入りに熟慮 される。生存の最低限についての問いは,最も重要な経営資金問題(Betriebsfondsproblem) に繋がり,その重点は―正に経済の過程(Gang)によれば, ―縮小と拡大の法則性 を見付けることである。私の演習で生じた,まだ非公開の研究は,この関連のより多くの 解明をもたらしている。しかし,これにより―私が期待するように, ―更に〈【筆者 補足】具体的に説明するために, 〉加工者( Bearbeiter )を必要とする, 他の労働の全体 に対する道(Weg)が開かれる。. カルテル・計算制度・計画化経済 給付と[給付に対する]対価(Leistungsgegenwert)の関係では,これにより経営は 共に相互に関係させられ,労働市場も含まれる,あらゆる市場の問いが共に含まれる。こ こで,[給付に対する]対価についての問いは,垂直的な序列〈【筆者補足】原材料から製 品への序列〉で相互に従う,経営が,相互に協働する,完成品の市場供給価格に参加する, 間隙(Spann)についての問いとして生ずる。このような間隙に,経営経済学者は,今ま で以上に取り組まざるをえない。そして,一面で取引が問題になる限りだけではない。と いうのは,これら間隙は,また,総ての他の経営にとっても,活動し,繁栄できるか,衰 退する,価値で表わされた,活動の範囲(Lebensraum)である。間隙が総ての場合に全. Vgl.Nicklisch, H. 1933a. S.175 右.; 参照。神園厳訳1 933. 114頁. 55( ) 261 ─ ─ .
(10) 第60巻 第2・3号. 体で貫通する数量に関係させられる時,このような範囲(Raum)が初めて完全に明らか にされることは自明である。これは,相変らず強調して現われる,経済の職務(Dienst) での市場分析と市場観察と宣伝(Propaganda)の問いと共に,景気変動の問題に導く。 景気変動から,市場関係の非洞察性(Unbersichtlichkeit)を自らに有利なように制限す る,あらゆる試み(Versuch)と組織(Einrichtung)により,カルテルとカルテル類似 の連携(Verband)が成長する。経営経済学者は,経済の来たるべき展開に対して準備を する時には,この構成体( Gebilde )での経営上の活動を徹底的に認識すべきである。彼 は,カルテルとカルテル類似の連携により市場規制のどのような手段が適用されるべきか, どのような根拠から経営はこのような手段を採るのか,経済でのどのような変更にこのよ うな手段は自然に導いたのか,どのような結果が最終的には確定されたのかを知るべきで ある。あらゆる問いは,経営経済上の努力(Kraftaufwand)の総てを必要とする。これ は,更に,特に,国民経済の限界を超えている,カルテルに妥当する。 経済の非洞察性を制限する手段は,常に―また,討議されない所でも, ―何らかの 方法で計画(Planung)と関連している。私はこのような領域で更に特別なものを追加す る必要はない。今まで,これについて明瞭に指摘してきた。すなわち,経営経済学者は, この領域で方法にのみ従事している限り,自らの課題を解決していない。彼らは判断材料 (Materie)を自ら充分に調べるべきである。 計算, 簿記と計画と統計で適用されうる, 方法( Methode )の集合としての計算制度 ( Rechnungswesen )は,確かに重要である。しかし,この計算制度は,ただ,活動して いる経済はこれにより調整するが,このような経済を完全に形作る(Durchformung)た めの道具(Werkzeug)と準備である。経営経済学者のだれが精神上での方法(Methode) にとどまれるのか。 彼は目標に向かうべきである。もちろん,方法の支援によってであ る。 決定は目標に対して下される。 既に今では, 認識されている。 将来のドイツの経済 が,ロシアの意味での配置と実施( Anordnung und Vollzug )を有する,「計画経済 ( Planwirtschaft )」になりえず,むしろ, ―コンツェルンの退化と中小経営の割り込 みの下で―強くコントロールされた基準数値を有する「計画化経済(geplate Wirtschaft)」 であり,そこでは,経済に関与する,個々人の精神上での協働(Mitarbeit)の適合(Anpassung )と調節( Stimme )に依存している。われわれは計画化経済を創造することを. Vgl.Nicklisch, H. 1933a. S.176 左.; 参照。神園厳訳1 933. 114115頁 Vgl.Nicklisch, H. 1933a. S.176 左.; 参照。神園厳訳1 933. 115頁. 56( ) 262 ─ ─ .
(11) ニックリッシュによる経済恐慌期での経営経済学の課題についての一考察(牧浦). 支援することが重要である。 この目的のために,われわれは精神上の基礎を要求するが,この基礎は,また目下の所, 至る所で見付けられない。そして,その際,問題になるものは,最も良く,カルテルの発 生と展開で示される。これらカルテルは,その存在と,努力して獲得した意義を,自由な 分業型の経済の非洞察性(Unbersichtlichkeit)と,個々の経済活動者の充分な組み入れ ( Einordnung )の不足に負っている。初めの〈【筆者補足】自由な分業型の経済の非洞察 性(Unbersichtlichkeit)〉については既に上で語ったので,以下では,更に語るべきで はない。第二のもの〈【筆者補足】個々の経済活動者の充分な組み入れ(Einordnung)の 不足〉には更に語るべきことを付け加える。カルテルを発生させる困難は,総ての者が, あたかも,1人で全体であるかのような時より,更に,経済的〈【筆者補足】利己的に行 動するよう〉になることから生ずる。決定的な規範的な関連は上の空で聞かれた(in den Wind schlagen) 。従われるべき,基本原則は,一般では, 「私益(Eigennutz)は公益(Gemeinnutz)に優先する」である。この基本原則は,多数の感嘆符を有する1つの言葉,すなわ ち,「私益 !!! 」で把握されると言われる。少数者はまた他のことを考えることが追加され るべきである。しかし,彼らは,他の人の行動様式から生ずる,リスクをただ負担するし かなかった。カルテル自らは,たとえ,産業組合的な精神(genossenschaftlicher Geist) の現れであるとしても,この精神上の立場を越えては通じていない〈【筆者補足】つまり, カルテルは私益を越えた公益では行動しない〉。人は,これに関して,カルテルが, ― 総てが自らの事業部門のために―合理化問題から,危険なやり過ぎが回避されうる,共 同体的なものを形成することを成し遂げていないことを認識できる。これは,また,カル テルの価格政策で非常に明らかに示される。カルテルの指導( Leitung )は,様々な点で のこれらの課題から価格引き上げの傾向(Trendenze zu Preissteigungen)が生ずるこ とを認識している。すなわち,かつて,手負いの経営をできる限り完全に操業させるため に,充分に大きなその他の領域が充たせる程,一般に認められている領域での価格を高く 設定する必要性から〈 【筆者補足】つまり, カルテル協定地域外ではダンピングする必要 から, 価格引き上げの傾向が生ずる〉 。それから,カルテル価格がまた最も弱いもの,そ して,丁度これらに対して必要経費(Aufwand)を埋め合わせるべきであることから〈 【筆. Vgl.Nicklisch, H. 1933. S.176 左S.176 右.; 参照。神園厳訳1 933. 115116頁 この点,ニックリッシュは,ロシアのような社会主義国で実施されている「計画経済」や,当 時,ドイツで行われていた,カルテルを中心にした,大企業体制ではなくて,中央政府が適切な 介入をすることにより,カルテルの経済支配力を抑制し,中小企業が活性化されることを目指す, 「計画化経済(geplate Wirtschaft)」を理想としていた。. 263 ─ 57( ) ─ .
(12) 第60巻 第2・3号 。しかし,カルテルは今まで一度も,たとえ,こ 者補足】価格引き上げの傾向が生ずる〉. のようにして,カルテル内で活動する,良いことを,とにかく,分業型の経済の非洞察性 の制限を最もうまく防げるとしても,これを公に認めさせる(zugeben)勇気を見せられ なかった。もちろん,このような態度には,損害を取り除く傾向が結び付いているのであ ろう。すなわち,たとえば,参加構成員には,必要経費が過大であり,これにより事業部 門の状況には,除外という罰を科せられ,結局―もちろん,〈【筆者補足】カルテルでの 利益分配という〉補償(Entschdigung)なしに,この場合,買い手が負担すべき,休止 助成金( Stillegungspramie )の形式で―,実際に排除される恐れがある。しかし, 最近の法規制を一瞥して,そこで,自らの基礎を見付けた,公的機関(ffentliche Hand) の干渉を研究するならば,これら干渉は,カルテルとその参加構成員にとり良い徴候では ない。ここでは,個々人に対して,規範的な関連(normative Zusammenhang)に注目 し,この関連の経過が要求するように,組み込む,能力があるようにする,完全な精神上 の変更(Umstellung)が必要である。また,変更は,企業家気質(Unternehmertum) を内部から改造する(umbilden)。すなわち,需要充足経済としての経済に設定される, 課題よりも,営利に過剰に合わせない(einstellen) ,精神で充たす。このような企業家は, また,公的経営でも望まれる。このような公的機関でのカルテルの指導( Leitung )は, 共同して(gemeinschaftlich)合理化をするという必要性と,カルテルの価格政策の欠点 を,無理解に,あるいは,無気力に,全く見過ごさせない。規範的な関連に対する洞察と, 整理(Einordnung)の充分な力を有する企業家(Unternehmer)をわれわれは用いる。 彼らにより,強制カルテル(Zwangskartelle)の立場の構造に関連させて,領域を拡大す ることで,カルテルでのアウトサイダーの問題(Auenseiterfrage)を全く劇的に(radikal) 解決することが可能になるであろう。このような企業家が活動しているのかは,時間の経 過において,製造側での更に強化された条件により抑制されている,景気変動が,最終の 消費者の側,つまり,家計で,需要の充足の変動したり,増大する不足で再び見付けられ ないことで明らかに示される。更に,これに加えて,増大する程度で,欲求が充足されて おらないならば,時点が近くても遠くても,経済が自らの課題,つまり,欲求の充足を非. カルテル協定により,もし,自由な競争が行われていたならば,生産コストが高いため,撤退 していた参加企業を操業させるために,価格協定が行われている領域での価格を高く設定する必 要性から,また,生産コストが高いため,最も競争力が弱い参加企業に対して必要経費を埋め合 わせる必要性があることから,価格引き上げの傾向が生ずるとニックリッシュはみなしている。 カルテルに参加すれば企業は安泰ではなくて,たとえば,合理化カルテルでは,カルテル間で の競争により,生産コストの割高な企業は,統合整理され,非効率による損害を取り除く傾向が ある。. 264 ─ 58( ) ─ .
(13) ニックリッシュによる経済恐慌期での経営経済学の課題についての一考察(牧浦). 常に悪く充たす,束縛( Fesseln )を企業家が打破する,時点に向かって,われわれは移 動する。しかし,需要の充足を常に完全にするために,経済の洞察性を高めるという自ら の目的を拘束(Bindung)が達成するならば,これは,経済の課題と安全性を営利より優 先するという,企業家タイプの精神であり,企業家タイプの精神がこれを惹き起こす。 このようなタイプを流布することは,決して形式的な望みではなくて,むしろ,研究(Arbeit) を行い,そして,この巨大な教育者の課題を設定する,運動に全力で参加することが重要 である。正に,経営共同体(Betriebsgemeinschaft)の関係を担当してきた,経営経済学 者に, 完全に実施されるべき給付〈 【筆者補足】研究の遂行〉の大部分がまかせられる 。 (zufallen)。だから,研究に,全力で前進しろ〈【筆者補足】つまり,取り組め〉. 2 経営経済学と国家社会主義. 経営経済学を自由主義的( liberalistisch )と呼び,また,目下の所,経済専門大学 ( Wirtschafts -Hochschule ) (商科大学)にも似た形容詞を与えようとする,傾向を有す る,一群の経済科学者が存在する。ほとんど,経営経済学を国民経済学と統合したい(vereinigen)という,期待との連想(Gedankenverbindung)で起こった。これとの関係で, 経済専門学校を放棄する,傾向が現われた。これら総ては充分に注目されている。という は,〈【筆者補足】次のことによる〉。 1.存在する,自由主義的な調整は,国民経済学者との統合によっても,経済専門学校 の放棄によっても取り除かれないし,むしろ,全体に向けられた見解(Gesinnung)が普 及されるべきである。これは,この場合もちろん,経営経済学だけではなくて,むしろま た,国民経済学に,経済専門学校だけではなくて,むしろ,総ての単科大学に,科学者と 単科大学だけではなくて,むしろ,総ての人,特にまた,あげられたような考えに係わる, 経済科学者についても一般に言われている。 2. 経営経済学と国民経済学が統一体を形成することは, 既に履きつぶされた〈 【筆者 補足】言い古された〉,問題(Sache)である。この問題は全く新しいもの(Neues)では ない。また,この問題は反対の意見(uerung )を「新しく」創らない。しかし,経営 経済学と国民経済学が一致するという主張は,真面目に(im Ernst),ただ完全な無知の Vgl.Nicklisch, Vgl.Nicklisch, Vgl.Nicklisch, Vgl.Nicklisch,. H. 1933a. H. 1933a. H. 1933b. H. 1933b.. S.176 右S.177 右.; 参照。神園厳訳1 933. 116118頁 S.176 右S.177 右.; 参照。神園厳訳1 933. 118頁 S.305. S.305.. 265 ─ 59( ) ─ .
(14) 第60巻 第2・3号. みを呈示できる。国家社会主義の政策により,企業家の意義は,前よりも強く強調される が,同様に,企業家と総ての彼の協働者を包括する,共同体の経済としての経営経済を包 括する。この状況は,ただ(allein schon),経営経済学と経済専門学校の攻撃者が時期を 不都合に選択したことのみを示唆する。経営共同体(Betriebsgemeinschaft)を国民全体 の肢体として考察し,私益(Eigennutz)より公益(Gemeinnutz)を重視にするという, 経営経済学者に対する国家社会主義の要求と,この要求に従う必要性は,このような立場 をただ(nur noch)強めるに過ぎない。 3.また,経営経済学と国民経済学が統一体を形成すれば,これら2つの構成部分の内, 前者より後者がより包括的である。その範囲と関連は,相変わらず,分業(Arbeitsteilung) を必要とする。分業のために全体の内部構造が注目され,経営経済学者と国民経済学者が 自由に利用するため,最善では,経営経済学と国民経済学の課題での分割(Aufteilung) が生ずる。2つの構成部分の各々が再び統一体を形成するため,このようなグルーピング が最善のものである。有機的な統一体より良い区分(Einteilung)は確かに見付けられな い。 4.経営経済学と国民経済学は異なるが,統一体であるように,経営経済学者と国民経 済学者の仕事の方針は異なるが,一緒に,相互に補完して,包括的な統一体を形成する。 経済探求者( Wirtschaftsprfer )は,このような統一体では,経営経済学者として存在 する。2つのグループ,つまり,国民経済学者と同様に,経営経済学者は,優れた一般教 養( Allgemeinbildung )を要求し,国家社会主義国のための共通教育を,しかもまた, 新しい国の経済の特殊な課題のための訓練と教育を要求する。経営経済学者と国民経済学 者での相違が既に存在しなければ,今,相違が生ずるべきである。このようなことは,経 済が必然的に分業であることから生ずる。また,同様の根拠から,総ての職業グループに 対して国民全体と公益は支配するもの(Beherrschende)であるべきであることになる。 しかし,このような事実は,各グループが有する,特殊な課題から完全に( vllig )同一 のものになるようには作用しない。 5.今まで語った,個々の経済科学者から遠く離れた,他の側面から,すなわち,ドイ ツの国の人の権利の戦い(Deutsche Rechtfront)から,ここで言及された,多くの場合 に,たとえ,ただ広範囲に補足として聞くとしても,経営経済学者と国民経済学者が法律. Vgl.Nicklisch, H. 1933b. S.305. Vgl.Nicklisch, H. 1933b. S.306. Vgl.Nicklisch, H. 1933b. S.306.. 266 ─ 60( ) ─ .
(15) ニックリッシュによる経済恐慌期での経営経済学の課題についての一考察(牧浦). 家であった,あるいは,なれたことを信じる,傾向が生ずる。これは妥当しない。そうで あったら,われわれは,直ちに,新しい経営経済学者と国民経済学者を探すべきである。 われわれが彼らを有するまでに,破局的な中断(katastrophale Lcke)が生ずるだろう。 しかも,総ての経済活動者と経済科学者にとり協働すべき義務である,ドイツの国の人の 権利を創造するという,大それた課題(gigantische Aufgabe)に関連した協働は,経済 活動者に与えられる,全体の課題の一部分を法律家と自覚している者が満足に解決できな いため,困難に苦しむであろう。 続けて,私の本『組織論』(Der Weg aufwrts !(C. E. Poeschel Stuttgart1920.)か らの断片が記載される( abdrcken ) 。 これら断片は総ての本と私のその他の著作を代表 し,金儲け論としての経営経済学が最低でも必要なこと(das mindeste)を行っていない ことを指摘する。重版(Abdruck)では,他の学派,あるいは,方針の教義,また,全体 との個々の経営の連携(Verbundenheit)に,重要であることは,はっきりと追加して, 記載されている。. 「また,人間の[構成のための]活動(Gestaltwirken)の描写には,分業(Arbeitsteilung) という大きな問題が含まれる。ここでこれについて語られるように,工場と流通センター (Kontore)での労働だけではなくて,むしろ, [目的が定められた]活動(Zweckttigkeit) に関連して,どこで常に,かつ,どのようにして常に分業が行われるのかについて全く共 通して考えられている。労働のこのような広い概念が大抵の人間の意識では消滅している ことが,われわれの時代の弊害になっている。しかし,多くの人間が無益な活動である趣 味と遊びを労働としてみなすという他の概念は全く良くない。そこでは,分業は経営組織 の問題だけではなくて,むしろ,一般には人間らしい[目的が定められた]活動の組織の 問題である」。 「分業であるものは,われわれの関連で,むしろ最もうまく説明できる。すなわち,人. Vgl.Nicklisch, H. 1933b. S.306. ニックリッシュは,分業型の経済体制を維持し,自由主義経済体制を存続させるという立場か ら,経済科学でも分業が行われるべきであるため,経営経済学と国民経済学を統合するという主 張に反論している。また,現況では,一部で,自由主義が利己主義になり,過剰な営利の追求が 行われているため,経営共同体は,国民全体の肢体であること,つまり,私益(Eigennutz)よ り公益( Gemeinnutz )を重視すべきであるとみなす。しかし,彼の「私益より公益を重視すべ きである」という考えは,1920年の国家社会主義ドイツ労働党綱領の第24項に見られるような, 民族主義に付随して主張されたものではない。 Vgl.Nicklisch, H. 1933b. S.306. Nicklisch, H. 1933b. S.306.; Vgl.Nicklisch, H. 1920. S.86.; Nicklisch, H. 1922. S.8586.; 参 照。鈴木辰治1975. 133頁. 61( ) 267 ─ ─ .
(16) 第60巻 第2・3号. 間は多様な欲求を持っている。 このため, 人間は,多様な充足手段のための,基礎,[基 礎を構成する]領域を構成する。ある者はこのため,他の者はあのため,そして,総ての 者は自らと,同時にまた,他のために基礎を構成する。より多くの人間が,このようにな る程,できるだけ多くの多様性でこれら総てが生じ,そして,彼らが自由である限り,こ のように生ずるであろう。このように,常に,より緊密に,かつ,より詳細に大きくなり, 展開するものは,個々人が生活し,生活するために,その業績(結果)を使用するため, 総ての人が自らと他の人のために給付する,個々の人間の[職業として定められた]活動 (Berufsbettigung)である。そして,このような活動は,彼らに,彼らと共に,彼らに より与えられる,総てのもの,つまり,仕事の内容と豊富さ( Reichtum )に関係してい 。 る。この仕事の内容と豊富さで,分業(Arbeitsteilung)が現われる」. 「より正確に傍観する(zusehen)者は,直ぐに,そこから,共同体と分業が同一の瞬間 に生ずるべきであることを見付ける。これらは,既に理念では相互に結び付いて,そして, ある程度,総ての共同体で分業は存在する」。 「暗示された関連は,次のように特徴けられうる。すなわち,分業は[共同体として定 められた]活動(Geminschaftsleben)の特徴(Erscheinung)であり,総ての内で最も 重要な(allerwichtigste)特徴である。この分業は,労働が実施される,形式の側面であ る。他の側面は労働の統合( Arbeitszusammenfassung )である。両者は共に共同体の 。 活動の形式である」. 利益( Gewinn )は,共同体を代表する,企業家に,彼らの効果の割当に対する対価を もたらす。売り上げがまだ全く確定されない時に,通常では,彼は契約された交換手段額. Nicklisch, H. 1933b. S.306.; Vgl.Nicklisch, H. 1920. S.86-87.; Nicklisch, H. 1 922. S.86.; 参 照。鈴木辰治1975. 133134頁 Nicklisch, H. 1933b. S.306.; Vgl.Nicklisch, H. 1920. S.88.; Nicklisch, H. 1922. S.87.; 参照。 鈴木辰治1975. 135頁; Sandig, C. 1 976. S.87. Nicklisch, H. 1933b. S.306.; Vgl.Nicklisch, H. 1920. S.88.; Nicklisch, H. 1922. S.8788.; 参 照。鈴木辰治1975. 136頁 ここでは,ニックリッシュが,「分業という言葉は,肢体化としてこれが解される限りでのみ, 合理的な意味を有する。というのは,常により小さい労働部分を持つことではなくて,むしろ, 労働の全体が常により効果的に行われることが重要であり,これは統一体を維持しながらの分割, あるいは,肢体化により達成されうる」(Nicklisch, H. 1920. S.88.; Nicklisch, H. 1922. S.88.; 参照。鈴木辰治1975.136頁)と主張するように,効果がない労働の分割は「分業」とはみなされ ない。また,「職務(Beruf)は,共同体における分業の結果である。共同体の展開が抑制され, 労働の分割が単に技術上で推し進められるならば,職務を否定することにより脅かされる。職務 をこのようにするものは,その精神上の内容である。……職務は,個々人での共同体と分業の有 機的な関連付け,つまり,精神上の作用と自然法則上の出来事の有機的な関連付けである」 (Nicklisch, H. 1 920. S.9394.; Nicklisch, H. 1922. S.93.; 参照。鈴木辰治1 975. 141頁)と説明するように, 自然の法則を基礎にしながら,人間の精神活動により,意義を見付けられるか否かにより,職務 の効果は影響される。. 268 ─ 62( ) ─ .
(17) ニックリッシュによる経済恐慌期での経営経済学の課題についての一考察(牧浦). に対する協働者( Mitarbeiter )の割当を既に負担するため,彼に対して,また,彼がこ のようにして同意する,リスクに対する調整額を認めることは正当である。自己資本の利 用に対して,原価(Kosten)の確定で全く計算に入れられない限り,彼に利子が承認され るべきである。 利益が, このような金額〈【筆者補足】つまり,協働者の割当である賃金・自己資本の 利子〉の合計より大きければ,協働者の利益参加の形式で追加の調整が必要になる。今, 初めて,その結果の割当が正確に計算でき,そして,これがまた至る所で行われるべきで ある。 その際,また,損失の可能な場合は,企業家に最初から承認されている,リスクプレミ アムにより処理される。企業は,常に,適時に利益から取り出されるべき,充分な準備金 の形成により, 保証されるべきである。 そこでは,また,企業,共同体は,利益参加で 請求者( Fordernde )として現われる。このように処理される所では,有機的組織( Organismus )は,純粋( rein )で,かつ,強力であり,これは維持され続けられ,永続す るであろう。 われわれの経済活動の資本主義的な展開は, 利益の概念を,生活での創造性( Schpferischen ),労働の概念の代わりに,資本の概念に結び付けてきた。これは誤りである。 このような考え方は,結果の割当の評価で基本的に正しいものをベールに隠し,資本の所 有者に, 彼らに, 当然のものより, より多くの割当を獲得することを承認した。 資本に よってではなくて,むしろこのような不当な行いによってのみ,資本主義と呼ばれるもの は発生した。正に,株式法(Aktienrecht),特にまた,利益の分配の法規定が基本的に改 正される時期である。 「私の意見(Auerung)は,資本に対する私的所有に反対しているのではなくて,むし ろ,参加者への全体の効果の不当な分配に反対している。時代の最大の悪癖の1つとして, 。 今なお有効な権利の下には,株主として認められない者が私には認められる」. Vgl.Nicklisch, H. 1933b. S.3 06307.; Nicklisch, H. 1920. S.1 00.; Nicklisch, H. 1922. S.9 9.; 参照。鈴木辰治1975. 152頁 Vgl.Nicklisch, H. 1933b. S.307.; Nicklisch, H. 1920. S.1 00.; Nicklisch, H. 1922. S.99.; 参 照。鈴木辰治1975. 152頁 Vgl.Nicklisch, H. 1933b. S.3 07.; Nicklisch, H. 1920. S.100.; Nicklisch, H. 1922. S.99.; 参 照。鈴木辰治1975. 152頁 Vgl.Nicklisch, H. 1933b. S.3 07.; Nicklisch, H. 1920. S.101.; Nicklisch, H. 1922. S.100.; 参 照。鈴木辰治1975. 153頁 20. S.101.; Nicklisch, H. 1922. S.100.; 参 Nicklisch, H. 1933b. S.307.; Vgl.Nicklisch, H. 19 照。鈴木辰治1975. 153154頁 この点, ニックリッシュは,「多数株の所有者として, 全体の所有者として, 自負しているた. 63( ) 269 ─ ─ .
(18) 第60巻 第2・3号. 「(精神的な本質としての)自ら,家族,国民と人類( Menschheit )に対する義務は人 間では一致すべきである。事情(Dinge)の正常な展開では,このような一致を維持する ことは人間には法外に難しくはない。矛盾(Konflikt)は,困窮の時期に初めて,家族の 構成員,国民と人類に対する義務が自らの生活,あるいは,自身を脅かすか,あるいは, 人類に対する義務が国民の存在を脅かす時に,現われる。矛盾は,自らは人間であるため, 身体の活動を犠牲にする,必要性が意識させられるような場合に,精神上の本質として自 ら自覚する時に,生ずる。矛盾の経過では,次のことが妥当する。どんなことがあっても (身体上の)自らの生活を主張する者は,(精神上の)自らの生活を喪失する。そして,人 類のために(身体上の)自らの生活を喪失する者は,(精神上の)初めて正当なものを見 付けられる。この古い言葉の意味は,総ての精神上で健全な個人の最も奥の深い自覚にあ る」。 「家族と民族は常に(durchaus)人類の方向に向いている。後者の人類は前者の家族と 民族なしには考えられないし,同様に,これら家族と民族は個人なしには少ししか考えら れない。家族と民族に反して行動する者は,もしかすると非常に辛い困惑でも,精神上の 生活を犠牲にして,自らの身体上の生活を維持する。彼は,自らを共同体から解放し,天 罰により永久に彷徨う, アハスヴェル( Ahasver )に従って,道に迷い, 永遠の不安者 。 (Ruhelosen)になる」. 「あらゆる時期, 正に初めて困窮の時期にとり,共同体,とりわけ,国民の生活のため の最高の命題(Satz)は,次のものである。すなわち,人間に対して,精神,自由,良心, 目的設定の法則の移転として妥当する, 構成と維持の法則( Gesetzen der Gestaltung und Erhaltung)に従って行動しろ。一体化し,肢体化しろ(Eine und gliedere !) 。総 ての人が,自らの能力に一致した,程度で,肢体性になることを支援して,共同体は団結 することで努力しろ。その際,自ら,自己を過剰に評価しない。精神上の本質として努力. め,他の者を犠牲にして,できる限り多くの準備金を会社に蓄積する,大株主に対して,小口株 主を防衛するという可能性は無視されてきた」(Nicklisch, H. 1920. S.101.; Nicklisch, H. 1922. S.1 00.; 参照。鈴木辰治1 975. 154頁)とみなすと共に,たとえば,世襲により,企業家として, 共同体を代表して,意思決定をする能力を有し,実行することができない者も問題視している。 Nicklisch, H. 1933b. S.3 07.; Vgl.Nicklisch, H. 1920. S.111112.; Nicklisch, H. 1922. S.110 111.; 参照。鈴木辰治1 975. 168頁 この点,ニックリッシュによれば,「良心により先行する人間と後続する人間は共同体にある。 また,共同体では,彼らは自らを人類の肢体として認識できる。そして,共同体では,彼らは, 自らを,世界史を実現する( erfllen ) , 有機的組織の肢体として認識できる」 ( Nicklisch, H. 1920. S.71.; Nicklisch, H. 1922. S.71.; 参照。鈴木辰治1 975. 112113頁)。 Nicklisch, H. 1933b. S.3 07.; Vgl.Nicklisch, H. 1920. S.112.; Nicklisch, H. 1922. S.111.; 参 照。鈴木辰治1 975. 168169頁. 270 ─ 64( ) ─ .
(19) ニックリッシュによる経済恐慌期での経営経済学の課題についての一考察(牧浦). しろ。とにかく,これら総ては,指導する(fhren)ことを使命とする者に妥当する。総 括して,指導しろ(Fasse zusammen und fhre !) 」。 「分けて,支配しろ」(Teile und herrsche)は,この関連では,当然のこと(was es ist)として現われる。共同体にはもはや組み込まれず,むしろ,人間を,考慮なしに,権 力の獲得の単なる手段にする,権力者のための常套句(Formel)としては, 〈【筆者補足】 当然のことと思われる。〉 これは「支配しろ(Herrsche) 」にある。支配することは,全 く,物質の召使い(Materie Knecht)であることをわれわれは知っている」。 強者(Starker),組織者(Organisator),そこで「支配する」,心の貧しい人(Armen) , 狂人(Wahnsinn),あるいは,獣性(Tierheit)を取りあげ,彼を自由にし,精神上の本 質にする時には, また,「一体化して, 肢体化しろ」,「総括して,指導しろ」という命題 はこの精神上の本質を照らし出す( leuchten ) 。すなわち,この場合には,われわれの前 にはもはや支配者(Herrscher)は存在せず,むしろ,指導者(Fhrer) ,共同体の僕(Diener) がいる。僕は,支配者より偉大である。というのは,支配するために,分割すること(das Teilen)は,一体化して,肢体化しろ(Einen und Gliedern),総括して,指導しろ(Zusammenfassen und Fhrer)に比べて,常に,最高の能なし(Stmper)の仕業(Arbeit) であるからである。これは,常に,組織者の才能の不足と,組織の手練手管(Kunst)の 証明である。支配するために,そこで分割する者は,常に(allezeit) ,有機的組織の邪魔 。 者(Strer) ,全く組織者ではない」. 例が示すように,経営経済学のための基礎は,非常に広く,かつ,詳細に設計されてい る。組織と,経済上の構成( Gestaltung )の問題は,生産と取引だけではなくて,むし ろ,家計と人間の生活で重要な役割を果たすため,常に,民族,国民全体に関連して,行 われるべきである。 考察は,経営経済学の展開では,正に,国家社会主義の運動と同様に,非常に早くから 同一の方針が確定できることを指摘する。正に,これが,経営経済学が,国家社会主義の 国で,歓迎される(zu Hause fhlen) ,根拠である。 Nicklisch, H. 1933b. S.3 07.; Vgl.Nicklisch, H. 1920. S.115.; Nicklisch, H. 1922. S.114.; 参 照。鈴木辰治1975. 172頁 Nicklisch, H. 1933b. S.3 07.; Vgl.Nicklisch, H. 1920. S.115.; Nicklisch, H. 1922. S.114.; 参 照。鈴木辰治1975. 172173頁 Nicklisch, H. 1933b. S.3 07.; Vgl.Nicklisch, H. 1920. S.115.; Nicklisch, H. 1922. S.114.; 参 照。鈴木辰治1975. 173頁 Vgl.Nicklisch, H. 1933b. S.307. Vgl.Nicklisch, H. 1933b. S.307.; 参照。田中照純1 979. 89頁. 65( ) 271 ─ ─ .
(20) 第60巻 第2・3号. 3 経営経済学者の思考材料に対する全体経済の関係からの影響. 〈【筆者補足】第一次〉世界大戦以降,特に,最近のドイツでの,各国民の経済の展開は, 経営が全く「モノ自体(Ding an sich)」以上ではありえないと主張されることを示唆し てきた。個別経済者(Einzelwirtschafter)は,全体経済の活動での総ての自らの活動の 発現(Lebensuerung)では,必然的に(naturnotwendig),統合され,これによる最 終の結果(letztes Ende)により,初めて,自らの活動の準備と活動の可能性が維持され ている。日々新たにわれわれの目前に現われる,そして,ドイツでの,また,経済活動者 の意識では,他のどこよりより強く国家( Staat )により,行われている,このような事 実は,一連の経営経済上の概念が拡大され,そして,その内容について新たに調査研究さ れるべきであることの原因になる。手元の論文では,〈【筆者補足】私,〉 ニックリッシュ が,自らの今までの著作に継続して,このような概念の本質の変更と展開について概観を 与える。とりわけ,経営,[経営に定められた]給付(Betriebsleistung) ,必要経費,原 価,収益性,経営での責任,企業家,価格と市場という概念について言及する。. まず,全体経済の関係で考えられるものについて,簡単に説明されるべきである。その 際,今日の経済は全く分業型(arbeitsteilig)であることから始められるべきである。こ れはこの雑誌の読者層には特に直観的に分からせる必要はない。ただ,そこから生ずる, 困難のみを新たに示唆すべきである。それは主に次の2つである。すなわち, 1.分業型の経済(arbeitsteilige Wirtschaft)では,需要の充足のために供給される モノに対する供給者( Leistende )の関係は間接的である。これは,全体としての社会的 生産( Sozialprodukt )だけではなくて,むしろまた,その各部分についても妥当する。 供給者は,台所で使用される,肉,衣服とその他のモノを自ら製造する(hervorbringen) のではなくて,むしろ,これら総ては,総ての供給者の生産,正に,社会的生産において,. Vgl.Nicklisch, H. 1935b. S.265. 論文「経営経済学の思考材料に対する全体経済に対する関係からの影響」(Einflsse aus den Beziehungen zur Gesamtwirtschaft auf das Denkmaterial der Betriebswirte)が公開され た,1935年に,ニックリッシュは,他に,著書『経済の管理』(Die Lenkung der Wirtschaft) と共に,論文「指導者原則」 (Das Fhrerprinzip), 「経営経済学の研究の新体系」 (Die Neuordnung des Studiums der Betriebswirtschaftslehre), 「新しい経営経済の研究」 (Das neue wirtschaftswissenschaftliche Studium) , 「経済の肢体としての経営」 (Die Betriebe als Glieder der Wirtschaft) などを公開して,「指導者国家」での,経営経済学の成立の可能性を再検討した。. 272 ─ 66( ) ─ .
(21) ニックリッシュによる経済恐慌期での経営経済学の課題についての一考察(牧浦). 他の者により内部〈【筆者補足】家計〉に供給される。個人の需要の充足はこれら〈【筆者 補足】社会的生産〉から生ずる。自らの需要の充足を可能にすべき,欲求(Anrecht)に より,個々の需要は,価値のこのような全体性( Gesamtheit )に対抗している。そこに は,上で語った,間接性が存在する。財と人間の間での直接的な関係が間接的な関係に転 換される〈【筆者補足】つまり, 生産と消費が分離する〉前には,欲求の充足はこのよう な状況では行われない。〈【筆者補足】しかし,分業型の経済では,〉個々人が,彼が使用 するモノを,社会的生産から選択し,獲得することが必要である。この場合,彼はこのよ うなモノを自由に処理できる。 彼には自らの給付により財の獲得( Erwerb )のための能 力が与えられるべきである。これら給付は社会的生産に組み込まれるため,彼にこのため の手段をもたらすものは,これら給付に対する対価(Gegenwert)であるべきである。対 価は彼に貨幣の形式で与えられる。彼はこれら貨幣を財の獲得のためにのみ使用できる。 このようにして,個々の供給者は社会的生産に対して割当権者(anteilsberechtigt)とし て証明されること,また,彼が引き取ることを正当化する数量は価値上では制限されてい ることが明らかになる。 われわれは,ここでは,独立した経済活動者の分業型の経済(arbeitsteilige Wirtschaft) では,必然的に,貨幣が現われるという事実に直面する。貨幣は,価値の創造の直接的な 関係を欲求の充足の間接的な関係に転換するための,手段である。貨幣が共通した最良の ものに対するこのような機能を発揮すべき時,その基礎,つまり,通貨が容易周到に(sorgsam) 維持される( pflegen )べきである。これが,容易か,あるいは,困難かは,個々の経済 活動者の態度(Verhalten)に左右される。 2.経済(Wirtschaft)は,欲求,供給可能性と,人間の供給が重要な役割を果たす, 過程の全体である。 需要と供給は相互に一致すべきである。これら〈【筆者補足】全体の 過程〉は, 規模と関連に従って, これ〈 【筆者補足】需要と供給の相互の一致〉をすべき である。変動と供給可能性はまず全体の供給の可能な規模に作用する。そこから,更に, 需要の規模に影響を及ぼす。準備されるものは,需要の変動か,需要の拡大である。これ により,需要の構成(Zusammensetzung)が変化する。というのは,縮少では,他の財 の欲求より,生活に必要な財の欲求はより強固であり,拡大の場合には,まず,必要であ るが,その時には(bis dahin),それにも係わらず後回しにされる財の需要は,他の財の. Vgl.Nicklisch, H. 1935b. S.265 左S.266 左. Vgl.Nicklisch, H. 1935b. S.266 左.. 273 ─ 67( ) ─ .
(22) 第60巻 第2・3号. 需要の後で初めて追加される〈【筆者補足】つまり,奢位品に比べて,必需品は,供給可 能性の縮少では, 削減が, 拡大では, 増加が後回しにされる〉。需要の構成の変更は,ま た,供給される価値の全体が異なって構成されることを要求し,その結果,需要と供給が 相互に再び一致することを要求する。このような過程を構成する総てのものが経済の調整 (Abstimmung)の過程である。これは,独立した経済活動者の分業型の経済では,大き な困難に遭遇する。というのは,このような困難は,存在する〈【筆者補足】つまり,需 要と供給が分離された〉状況により,完全な知識は全く獲得されず,完全に統一され,か つ,同時の意思行為(Willensakt)により,決定が有効にならない,個々の意識とその環 境の大多数で起こるからである。個々の妨害者(strend)が現われ,彼らは妨害(Strung) では自らの長所を見る〈【筆者補足】つまり,自らにとり,作りやすいモノや,利益の大 きいモノを重視する〉ため,困難は特に大きい。 徹底した考慮(die durchgefuhrte berlegung)は,独立した経営の分業型の経済の 通貨と貨幣の問題(Whrungs- und Geldproblem)は固有(eigentmlich)であり,そ の中での調整の問題( Abstimmungsproblem )は,難しい解決でのみ行える,固有の困 難に結び付いていることを示す。原因(Grund)はこのような様式の分業(Arbeitsteiligkeit) の支配下での関係の間接性である。 このため,より厳密に言えば(und zwar),常に,異なる段階(Stufe)での経済の調 整の展開の簡単な追跡調査(Verfolgung)が更に行われる。その際,多くの機関(Stelle) で歴史上での混入物が認識され,かつ,特に,都市型(stdtische)の全体経済から国民 型(staatsvlkische)の全体経済への移行が歴史上で追跡調査される時には,これら〈【筆 者補足】経済の調整の展開〉は歴史的には考慮されない。 ワンマン経済(Ein-Mensch-Wirtschaft)で始める。これは,一瞥で簡単に思われるよ うな,単なる思考上での補助構造(blo gedankliche Hilfskonstruktion)ではなくて, 現実に生じた。また,現在でも,このための例は見付けられる。そこでは,明らかに,調. Vgl.Nicklisch, H. 1935b. S.266 左. 分業型の経済での通貨と貨幣の問題として,ドイツでは,1923年に天文学的なインフレを経験 したが,1923年11月25日のレンテンマルクの切り替えで乗り切った。しかし,インフレは給与や 年金に頼る生活者に打撃を与えたが,モノを所有する者や企業は巨大な利益をあげた(参照。長 守善1939. 2728頁 5758頁)。 Vgl.Nicklisch, H. 1935b. S.266 左. Vgl.Nicklisch, H. 1935b. S.266 左S.266 右. 通常,1924年から1934年は, 政治体制から, ワイマールの「議会制民主主義」からナチスの 「中央集権政治」への転換とみなされているが(参照。坂井榮八郎2003.187188頁),ニックリッ シュは,経済体制から,都市型(stdtische)の全体経済から国民型(staatsvlkische)の全体 経済への移行期とみなしている。. 68( ) 274 ─ ─ .
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