職業選択の自由権について
著者
円谷 勝男
著者別名
Katsuo Tsuburaya
雑誌名
東洋法学
巻
37
号
2
ページ
189-215
発行年
1994-01
URL
http://id.nii.ac.jp/1060/00003496/
Creative Commons : 表示 - 非営利 - 改変禁止 http://creativecommons.org/licenses/by-nc-nd/3.0/deed.ja職業選択の自由権につ
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一 二 三 四 目 次 問題の所在 職業選択の自由と営業の自由 ﹁公共の福祉﹂との関係 判例の動向 問題の所在 近現代憲法の基礎となった、一七八九年の﹁フランス人権宣言﹂では、 平等、財産であり、とりわけ最後の財産権は、人間の本性から導かれた 東 洋 法 学 自然権の本質的かつ根底的権利は、自由、 ﹁神聖・不可侵の権利﹂︵象○神ぎ≦○鑓露Φ9 一八九職業選択の自由権について 一九〇 ω8み︶で、消滅することのない権利として、厳粛に受けとめて宣言上で実証化されている︵第一七条︶ことは周知 の通りである。この実証化は、言うまでもなく、市民革命の主導的立場にあった有産市民︵σ○葭αQ8芭εの強い要 請、すなわち、絶対君主制と深く結びついた特権商人や同業組合の通商活動等の独占体制を打破し、営業、契約の自 由等を確立するための、いわば根源的権利としての、私的所有権の法的確認であったことは、よく語られるところで ハよ ある。この意味で、フランス革命は、﹁個人的所有を社会的建造物の基石として考えていた﹂と言うことができるし、 さらに、その法的確認は、独占を解体することによって、文字通りに自由競争の経済社会の土俵を設定しようとする、 ハ いわば資本主義経済体制の発芽的胎動であったと総括することも可能といえよう。 そして、これ等の思想的媒介を果たしたのは、ロックの自然権思想であると、よく語られるところである。すなわ ち、ロックは﹃市民政府論﹄において、﹁個々の人問は自然状態において所有︵讐○需冨蜜︶をもっている。所有とは 生命であり、自由であり、財産なのである。この生命と自由と財産を人間であることの条件として、社会形成の究極 の単位としての人閲に所有させたのである﹂と理解して、財産等は何人にも固有権︵冥εR受︶と考え、この権利を 保持するために政治社会を自ら設定したと解した。ここで言う冥εR蔓は、今日的には﹁財産し、﹁所有物﹂と訳さ れるが、ロックが所有を固有権の中身に位置づけたのは、各自が労働によって自然に働きかけて所有物の増加をはか り、それが結果的に各自の生存を可能にし、それ故に各自の専有︵私有︶は固有のものと認められると考えたからだ と解されている。換言すれば、専有︵私有︶が、労働に基づくもので、しかも生命の維持に不可決である故に、各自 の固有権と考えたのである。
この見解は、生産手段の所有と労働とが分離しない、いわゆる小生産者経済社会では受け入れられたが、市民革命 の理想とした、自由放任経済︵夜警国家体制︶の下で成長発達した資本主義経済では、﹁自由競争の結果として現代 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ めヰ 型独占が形成されること自体をも放任する、独占放任型の自由﹂が進行して、増々その分離が顕在化して、私的所有 権に対する理解も変質していったことは周知の通りである。すなわち分離化現象のなかで、富の不平等や無産大衆の 生活困窮者を生み出したばかりか、さらに、産業社会の独占化等も進行し、市民革命の樹立しようとした自由と平等 は形式かつ名目化する社会現象を前にして、従来の観念である﹁労働にもとづく所有は神聖化﹂するという見解は、 修正化されるようになる。 これ等の自由放任体制の諸矛盾を克服して、市民革命が掲げた、自由と平等を実質化しようとした、社会国家的象 徴の憲法が﹁ワイマール憲法﹂であろう。ロシア革命二九一七︶や帝国主義の反省に立つとともに、社会的公正を 進めてきた人権運動の高揚がこの憲法に結実したといえよう。 すなわち同憲法では、伝統的な平等、自由権の保障に加えて、﹁経済生活の秩序は、すべての者に人間たるに値す る生活を保障する目的をもつ正義の原則に適合しなければならない。この限度内で、個人の経済的自由は、確保され なければならない﹂︵一五一条一項︶と謳って、いわゆる生存権を経済生活秩序の基本原則にすることを確認し、他 方、財産権についても﹁財産権は義務をともなう。財産権の行使は、同時に公共の福祉に役立つことが必要であるし ︵一五一条三項︶として、社会的立場からの、経済的自由に対する、いわば制約と義務を明示している。一言でいえ ば、この二ヶ条の設定は、市民革命以来の経済的自由、とりわけ財産権の絶対不可侵性の否定であると同時に、従来
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職業選択の自由権について 一九ニ ハき の資本主義体制の枠内で、いわば一種の人権の﹁社会化﹂への道を歩もうとする理念の結実ともいえよう。この憲法 自体は、その後のナチス党による全体主義政治体制によって短命で終っているが、そこで示された理念が、その後の 各国憲法に影響を及ぼしたことは記憶に新しいところである。 一方、好況、不況の景気変動を展開しながらも、自動回復によって資本主義体制を維持してきたアメリカは、経済 的恐慌︵勺器一。︶︵一九二九︶によって回復不可能の危機に直面して、いわゆるニューディール︵寄類US一︶政策を 断行する。この政策は、経済史的観点からは、従来のアダム・スミス理論を一部維持し、しかも、﹁公共の福祉﹄の ハる 立場から、その経済的矛盾性を積極的に解消しようとした、いわゆるケインズ理論の導入であったが、憲法史的には、 従来の経済的自由権を保障する枠組を維持しながら、不況と社会的病理現象を解消するための、一種の積極国家の転 換といえよう。すなわち経済的自由領域に対して、金融、財政等の国家干渉を積極的に展開して有効需要を創設して、 完全雇用と福祉の達成を目標としたからである。換言すれば本政策の﹁積極的な法的規制措置や大統領への権限の集 ヘァツ 中は、その多くの場合が、積極的自由の保障につらなる可能性を認める﹂、新たな資本主義体制の試みであったとい えよう。 いずれにしろ、経済的自由権の現代的在り方の、いわば法的原型をなすものがワイマール憲法といえるのに対して、 ニュ⋮ディ⋮ル政策にはじまる積極的な国家関与の社会的機能は、経済的自由権の社会的在り方の、いわば20世紀的 国家の新しい姿といえよう。いずれも近代憲法が謳った、自由と平等を基調とした上で、個人の尊厳を樹立しようと した理念を、いわば現代的に実質化しようとする動きである。これ等の歴史的経過を踏まえて現代憲法は形成されて
いるし、日本国憲法も例外ではない。 すなわち日本国憲法は、経済的自由権として、居住・移転及び職業選択の自由︵二二条︶と財産権︵二九条︶を保 障しているが、両者は、それは絶対不可侵なものでなく、いずれも条文の文言上で﹁公共の福祉しが明示されて制限 を含むことを予定している。また二五条以下で、﹁社会権﹂を設定して、いわゆる福祉国家の標榜のもとに、国家の 積極的関与の責務を謳っている。このことは当然のことながら、経済的自由に対して一定の制約があることを黙示的 に認めているともいえよう。本稿では、経済的自由権のなかの﹁職業選択の自由﹂、とりわけ﹁営業の自由﹂に焦点 をあてて、その有り様を論究しょうとするものである。
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︵3︶ 高野真澄﹁財産権﹂杉原泰雄編鴨憲法学の基礎概念H臨二二頁。 ﹁ともかく、市民革命期に支配的であった自然権としての所有権という観念は、まさに資本主義の発展の法則基礎とな る﹂と指摘されている︵憲法理論研究会シンポジウム﹁財産的自由の再検討﹂での中村睦男教授の補足発言、﹁フランスに おける財産的自由の歴史的変遷﹂法律時報一九七二年二月号二九頁︶。 次の指摘はそれを物語っていよう。すなわち﹁ロックは私有財産を無制限に認めていたのではない。彼は所有権をば人問 が個人的に使用しうる範囲を限度として制限しようとしていた。それ以上を所有することは自然の富を浪費するものでしか ないと考えていた⋮⋮彼の所有権論の底には、土地が人口に比して豊かに存在しているという前提があったと考えられるが、 これはロックの楽観論的な考え方を証明するものにほかならない。結局、彼の所有権論はイギリスの初期資本主義的な自作 農民︵あるいは農村のジェントリ⋮︶の所有権をモデルとし、それを商工業者にもおしひろめて考えた理論であると考えら れる﹂︵出口勇蔵鴨社会思想史臨 一〇五∼一〇六頁︶。 東 洋 法 学 一九三7654
職業選択の自由権について 一九四 樋口陽一﹁近代憲法の原理とその展開ー憲法史における歴史性と連続性1﹂大須賀明編﹃現代法講義ー憲法⋮﹄ 影山日出弥﹁ヴァイマール憲法における鴨社会権﹄﹂東大社研編﹃基本的人権3﹄一八五頁以下参照。 宮 義一﹃近代経済学の史的展開﹄一一〇頁以下参照。 大須賀明﹃社会国家と憲法﹄三〇頁。 一四頁。 二 職業選択の自由と営業の自由 江戸時代は、土地に拘束された固定的身分制であったので、移転の自由や職業選択の自由が制限されたことはよく 語られるところである。そして明治に入って、殖産興業の錦の旗の下に産業の近代化が図られて、これ等の自由が解 放されたことは周知の通りである。 すなわち明治憲法においても、これ等に関する条文を設けて、不透明ながら法的後見性を明示している。二二条で は﹁日本臣民ハ法律ノ範囲二於テ居住及移転ノ自由ヲ有ス﹂と定め、二七条では﹁日本臣民ハ其ノ所有権ヲ侵サル、 コトナシ、公益ノ為必要ナル処分ハ法律ノ定ムル所二依ル﹂と規定している。これ等の条文から明らかのように、職 ハユ 業選択の自由ばかりか営業の自由についても条文上で明文化されていない。しかし、明治憲法制定の指導者であった 伊藤博文は、その解説書、﹃憲法義解騙において、営業の自由は二二条の﹁居住・移転の自由﹂に含まれると解説し ていることは注目されよう。すなわち﹁本条は居住及移転の自由を保明す。⋮⋮維新の後廃藩の挙と倶に居住及移転の自由を認め、凡そ日本臣民たる者は帝国彊内に於て何れの地を問わず、定住し、借住し、寄留し、及営業するの自 ハ い 由あらしめたり。﹂としている。このように解したのは、幕藩体制の下で領内の土地に結びつけられた農民を解放す るとともに、商工業振興の道︵営業の自由︶を開く契機は、門居住・移転の自由﹂の観念が成立することが不可欠で ハ あるという認識に基づくもので、両者を一体化して考えていたといえよう。 当時の学説は、憲法上で営業の自由は保障されていないとする否定説が通説である。その理由は、憲法第二章の ﹁臣民権利義務﹂に列挙されている自由のみが、いわば憲法上限定的に保障されていると解するのが支配的であった ハまレ からである。従って明文化されていない﹁営業の自由﹂は認められる余地がなかった。ただし、有力憲法学者の美濃 部達吉は、通説に対して、﹁是レ従来ノ通説ノ最モ大ナル誤謬ノ一ニシテ唯我ガ国二於テノミ見ルコトヲ得ベキ僻説 ナリ﹂と批判した上で、﹁憲法ノ列記スル所ノ外⋮⋮職業選澤ノ自由、営業ノ自由⋮⋮﹂も憲法上で保障されており、 しかもその自由の制限は﹁法律ノ定ムル所二依ルベキコトヲ要求5として、いわば立憲国家における法治主義の原 ハる 則からもその自由は保持されていると語っていることは注目されよう。いずれにしろ憲法上では明示されなくとも、 明治憲法体制下の産業の発展は、いわゆる上からの典型的な産業発展︵国家主導型︶であったので、その意味では、 対国家との関係で営業の自由を論議する社会的背景がなく、仮りにあったとしても、産業独占化が進行するなかで実 ハるレ 質的意味がなかったともいえよう。 この点で現行憲法は、﹁居住、移転及び職業選択の自由を有する﹂︵二二条︶と規定して、いわゆる﹁職業選択の自 由﹂を保障している。本条設定の歴史的意義は、言うまでもなく、封建社会のように身分による職業制限の撤廃であ
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職業選択の自由権について 一九六 ると同時に、圧政的国家等に見られる労働強制等の否認といえる。これ等も踏まえて、本条の意味するところは、本 人の能力、適性に合った﹁自分の従事すべき職業を決定する自由﹂であり、そして﹁その職業を行なう自由︵営業の なご 自由︶をも含む﹂と解され、実際上は、居住・移転の自由と密接に関連してその自由は実現されるので同者はセット して設定されたものと理解されている。τ言でいうと本条では、自己が従事すべき職業を選択決定する狭義の自由と、 職業活動によってそれを遂行する広義の自由、すなわち営業の自由も含まれると解するのが一般的な学説の解釈であ った。 このような憲法学の通説的見解について、﹁営業の自由﹂を憲法上の人権として捉えることに疑問視する見解が、 経済史学者の岡田与好教授から提起されたことは注目されよう。その提起の第一は、憲法学の通説が認める職業選択 のなかに、いわゆる﹁営業の自由﹂を含めて解することが自明の事柄とされていることの、不合理性の指摘である。 すなわち﹁自分の従事すべき職業を決定する自由﹂をもつということと、決定するさいの特定の﹁その職業を行なう 自由︵営業の自由︶﹂が保障されているということの両者は﹁次元を異にする事柄であり、前者の自由は論理必然的 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ に後者の自由をふくむものではない。むしろ逆に、前者の自由は、後者の自由の範囲と程度によって、実質的に制約 ハタ されざるをえない﹂。例えば前者の自由に関わりなく医師の資格制限やタバコの専売制度等は、その証明だと説く。 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ そして、第二の提起は、﹁﹃営業の自由﹄は、歴史的には、国家による営業・産業規制からの自由であるだけでなく、 何よりも、営業の﹃独占﹄︵欝08宕濠ω︶と﹃制限﹄︵毒鋒鉱濤ω○㌘茜8︶からの自由であり、かかるものとして、 ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ それは、誤解をおそれずいえば、人権として追求されたものではなく、いわゆる﹃公序﹄︵陰票o℃呂趣︶として追
ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ハタ 求されたものであった﹂という鋭い指摘である。 これ等の理由により、﹁営業の自由﹂を職業選択の自由に含めて、いわゆる﹁人権﹂の一種と看倣すことは、歴史 的諸事実を無視するばかりでなく、それ故に現代における﹁営業の自由﹂の政策の意義と限界について理解を誤らし め、さらにその理解が、いわゆる﹁公共の福祉﹂についても恣意的な解釈を生み出す原因にも結びついているという 提言である。換言すれば、営業の自由は、国家からの自由という性質の人権よりも、歴史的には、主として独占的制 限を排除する制度的要請を意味する側面を持つ権利であり、それを正確に表現するのは独占禁止法であって、憲法上 の人権と異質のものであるという理解である。 ハル この提起をめぐって、法学者との間で、いわゆる﹁営業の自由﹂論争が展開されたが、その提言は﹁歴史的事実の 社会科学的認識、それもイギリスの、しかもブルジョア革命期のそれを、そのまま日本法の、現代的な解釈論に無謀 ハロ 介に転化しているという致命的な欠陥がある﹂という批判に見られるように、総じて批判的であった。しかし、従来 の憲法学が、経済的自由の問題について、私的独占と公権的規制からの自由とを明確に区別することなく、いわば対 バ ザ ハお 置の形で認識してきたことの歴史的経過の批判は妥当であるという評価は、論争の一定の生産的側面といえよう。い ずれにしろ、この論争を契機に、概念法学的解釈に加えて、歴史的認識にも立った、いわば総合的立場から﹁営業の ハぱ 自由﹂を検討しようとする動きが見られるようになったことは見逃すことはできまい。 すなわちこの論争後、営業の自由を職業選択の自由に含まれるとする従来の通説に加えて、財産権︵二九条︶の保 障との関係でも含まれるとする動きは、その証といえよう。前述したように、自己が従事する職業を決定する自由の
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一九七職業選択の自由権について 一九八 ハおソ みでなく、自ら選択した職業を行う自由、すなわち営業の自由も憲法二二条には含まれるとするのが通説的見解であ った。これに対して、自己の選択した職業が、自営業として、いわば営業主体となって営む職業であれば、その職業 を行う自由は、営業の自由と同義といえ、その限りでは、選業選択の自由は営業の自由を含むと解することができる。 しかし、職業はこればかりでなく、多くは雇用される職業に従事するのを通例とするので、営業の自由と関係なく、 むしろこの場合の職業選択の自由は勤労の権利︵二七条︶となり、さらに時には営業の自由と敵対することさいある ︵営業主体の廃業そこでの失業を強制する︶。これ等を考えると、職業選択の自由は、営業の自由を含むが、両者は ハ へ 概念上で全く重なり合うものではないという指摘も、学説上の一つの動きといえよう。 とりわけ、﹁営業の自由﹂は、社会関係における﹁営業の制限﹂すなわち独占の自由はあっても独占からの自由は ないことの問題提起は、憲法論としても一定の示唆を含むものと受けとめて、従来の国家権力からの自由という形式 論的考察から、一歩踏みこんだ説が示されたことは注目されよう。 すなわち、学説に大きな影響を与えた今村教授は、憲法上の﹁営業の自由﹂には、広狭二義の内容があることを指 摘した。狭義では﹁営業をすることの自由、すなわち開業の自由、営業の維持・存続の自由、廃業の自由﹂がそれに 該当し、広義では、狭義の外に﹁現に営業をしている者が、任意にその営業活動を行ない得る自由﹂としての、いわ ば﹁営業活動の自由﹂を含むとした。通説がいう﹁職業選択の自由﹂のなかに﹁営業の自由﹂が含まれるとする内容 は、狭義の﹁営業をすることの自由﹂を意味し、広義の﹁営業活動の自由﹂は含まれなく、﹁﹃営業活動の自由﹄は、 ハドマ 財産権の自由として、もっぱら憲法二九条に関することである﹂と解説した。
さらに問題提起者が指摘しているように、職業選択の自由は、﹁個人の性格や能力に適した職業を這求する自睡し で、いかなる社会体制を越えて普遍的に所有しているものであるが、しかしここで問題となっている﹁営業の自由﹂ は、﹁実はこれは資本主義社会の仕組﹂であって、経済的自由が認められていなければこの自由もあり得ず、その意 味ではこの体制固有の原理から発芽するものであり、﹁従って、﹃営業の自由﹄が﹃職業選択の自由﹄の一部をなして ハめい いるのは、基本的には、憲法二九条が、財産権行使の自由を保障していることに基づいている﹂と解した。 また一方、従来の通説が、﹁職業選択の自由﹂が経済的自由権に分類して、﹁公共の福祉﹂の立場から合理的範囲の 政策制約が憲法上で可能だと考えられていたが、しかし通説のいう狭義の﹁職業選択の自由﹂が﹁人間の能力の発揮 ハぶツ の場﹂の自由と定義づけることによって、その性格は、人問の尊厳を基底にした精神的自由権の人格権的立場に位置 づけられるようになる。このような学説の動きのなかで、﹁営業の自由﹂には、概念上、﹁能力発揮の場の選択の自 由﹂という普遍的側面と、資本主義社会に固有の原理としての側面とがあり、その立場から区別して考えるべきだと ハれハ いう意識されるようになる。このような考えを前提にした場合には規制の範囲と根拠についても、前者すなわち人格 的側面を持つ﹁職業選択の自由﹂は、その性格故に他の人権との比較衡量の上で、規制を必要とする場合に根拠があ るのに対して、後者は、資本主義における一定の発展を踏まえた規定と理解した上で、いわばその体制を維持・発展 ハのハ する立場か皇高度の規制が加えられると考えられる。ただし、現実の営業活動が、﹁営業することの自由﹂と﹁営業 活動の自由﹂のいずれかに分類することは難かしく、さらに、憲法二二条でいう﹁職業選択の自由﹂に関する制約原 理も内在的かつ政策的に多面的であることを考えると、通説を克服しようとした説は、規制については両者間で、具
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職業選択の慮由権について 二〇〇 ハのッ 体的な結果に差異がないともいえよう。 いずれにしろ、﹁営業の自由﹂を憲法二二条に含まれると解釈した従来の通説的見解に対して、﹁職業選択の自由﹂ と﹁営業の自由﹂を区別し、とりわけ後者は憲法二二条に加えて二九条にも法的根拠があるとする見解が有力になっ 或︾ 薦 てきているが、必ずしも通説までに形成されていないので、その解明展開は他日に期したい。 ︵1︶
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明文化されなかった理由を次のように解説していることは興味深い。すなわち﹁明治憲法が制定されたとき、その第二章 ﹃臣民権利義務臨のなかに﹃営業の自由輪が規定されなかったことの意味を明らかにする資料を私は知らないが、それは、 当時の各種営業の実態を消極的な形で反映していたのではないかと思われる。小農民や小商工業者はすでに、明治初年の諸 政策により身分的に解放されており、農民一揆や自由民権運動のなかで反税闘争には参加するが、鴨営業の自由﹄を求めて 反﹃独占翰闘争を組織するということはなかった。規模の大きな資本主義的営業にとって、国家からの自由よりも、国家に よる保護が必要であったから、鴨営業の自由臨は外来思想としては問題になっても、日本法の内在的な問題とはならなかっ たのである﹂︵長谷川正安﹁営業の自由i﹂法学セミナ⋮一九七三年八月号六三頁︶。 伊藤博文﹃憲法義解軸岩波文庫五二頁。 佐藤英善﹁営業の自由﹂有倉遼吉還暦記念畷体系・憲法判例研究豆基本的人権ω臨一五九頁。 中村睦男門経済的自由﹂鴨論点憲法教室臨 一八七頁。 美濃部達吉﹃憲法撮要全脳︵有斐閣︶一八一頁以下。 平松毅﹁経済的自由﹂大須賀明編﹃憲法臨一二八頁。 宮沢俊義﹃憲法H新版転三九一頁。 岡田与好縄営業の自由臨と﹃独占﹄および﹃団結﹄東大社研編﹃基本的人権5各論E﹄ 一三一∼二︸三頁。109
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蓬9 18 王7 i6 岡田前掲︵8︶一二九頁。 中島茂樹﹁﹃営業の自由臨論争﹂法律時報四九巻七号三三四頁以下。これらの論争経過を整理した論文として、下山瑛二 蕎営業の自由駈論争について﹂歴史学研究圏三八巻︵⋮九七六︶三八頁以下。 長谷川前掲︵i︶六七頁。 奥平康弘﹁営業の自由の規制﹂別冊ジュリスト続判例展望三九号一七頁。 この提起の今日的評価の動きとしては、次の見解が妥当といえよう。すなわち﹁この見解は、法人資本主義と呼ばれる今 日の状況を、憲法上の人権の行使の結果生じたものと考えてきた従来の通説的理解に根本的な疑念を投げ掛け、さらに、憲 法と私法秩序との関係や、法人の人権などの問題についても再検討を促すものであった。その点で、戦後の憲法解釈学の歴 史上、おそらく最大の意義を有する問題提起であったと思われる。しかし新説をめぐる論争は、なお十分に行われていな い。﹂︵安念潤司﹁経済的自由﹂戸波他著兜憲法ωー人権ー蕊 一九八頁︶。 浦部法穂﹁営業の自由と許可制﹂ジュリスト﹃憲法の争点︵新版︶﹄︵一九八五︶一一六頁。 最高裁の判例はこの見解が踏襲されている。すなわち﹁職業は、ひとりその選択、すなわち職業の開始、継続、廃止にお いて自由であるばかりでなく、選択した職業の遂行自体すなわちその職業活動の内容、態様においても、原則として自由で あることが要請される﹂のであり、その意味から憲法二二条一項は、﹁狭義における職業選択の自由のみならず、職業活動 の自由の保障をも包含していると解すべきである﹂︵昭和五〇年四月薬事法違憲判決、民集二九巻四号五七二頁︶。 浦部法穂﹁経済的自由﹂浦部他﹃憲法講義2基本的人権輪二一四頁。 今村成和禄営業の自由鮎の公権的規制﹂岡現代行政と行政法の理論臨九一頁。 岡田前掲︵8︶二二二頁。 今村前掲︵葺︶九一頁。次の指摘も同趣旨といえよう。﹁営業の自由の町主観的側面魅については﹃職業選択の自由﹄を 導き出しうるが、他方その鴨客観的側面﹄からは出てこなく、むしろこれは、二九条の財産権の保障のコロラリーとしての 経済活動の自由の一内容をなすものである﹂︵浦部法穂﹁営業の自由と独禁法制﹂奥平・杉原編冊憲法学3翰四二頁︶。 東 洋 法 学 二〇一24 23 22 21 20 ︵25︶ 職業選択の自由権について 二〇二 今村前掲︵賀︶九二頁。 棟居快行﹁居住・移転・職業選択の自由し佐藤幸治編﹃要説コンメンタ⋮ル日本国憲法﹄ ㎝五七頁。 中村睦男﹁国民の権利および義務﹂樋口・佐藤・中村・浦部冊注釈日本国憲法上巻賑五一四頁。 中村睦男他同憲法1﹄四二二頁。 浦部前掲︵絡︶一二四∼二一五頁。代表的見解としては﹁職業選択の自由とは、国民がいかなる職業につくかを選択する 自由とその職業を任意に営むことの自由をいう。それは営業の自由を包含する。そして営業の自由は、経済活動の自由、す なわちみずからの財産権を行使する自由でもあり、その点で二九条の財産権の現われとしての面をも2︵佐藤功﹃日本国 憲法概説輪︵全訂新版︶二〇三頁︶。 例えば、佐藤幸治曝憲法新版﹄四八九頁では、﹁﹃営業の自由﹄をもって、営業をすることの自由と営業活動の自由とに分 かち、後者は財産権行使として一一九条の問題であるとする注目すべき説がある。﹃職業選択の自由﹄が上述のように個人の 人格価値と不可分の関係において理解さるべきものだとすれば、この説は説得力にとむ。が、実際問題として営業活動の自 由から切り離された営業をすることの自由︵あるいはその逆︶は考えにくく、両者を含めて飛職業選択の自由﹄の一内実た る閥営業の自由﹄の問題と考えるべきものと思われる﹂。 三 ﹁公共の福祉﹂との関係 現行憲法は、基本的人権を前国家的な自然権と設定し、 尊重を認めることを確認している︵一一条、九七条︶が、 任を負うことの一般的原則規定も設けている︵ 二条︶。 しかもその権利は永久不可侵性を有するが故に、最大限の しかし他方、この権利は﹁公共の福祉﹂の為に利用する責 とりわけ経済的自由に関する、二二条一項および二九条二
項では、個別的に条文で、﹁公共の福祉﹂の文言が明示されて、その立場からの制約を予定している。 ここでいう﹁公共の福祉﹂︵陰窪o≦Φ浮お︶の概念は、アリストテレスの書う﹁最高善﹂以来、﹁社会的正義﹂、 ﹁実質的公平﹂、﹁最大多数の最大幸福﹂、﹁共存共栄の利益﹂等、種々の・”言葉で理解されてきたが、歴史的には、﹁公 共の安全﹂︵し 。巴窃2票8︶と言う立場から、絶対主義時代の、いわゆる警察国家の人権に対する警察的取締りの観 ハヱソ 念として用いられ、そして、そこで言う﹁公共﹂とは、文字通りに国家そのものを意味したことは周知の通りである。 しかし、市民革命後は、いわゆる自由主義的法治国家の誕生のなかで、国家目的はできる限り消極的態度とする理念 の基に、個人の自由を機軸に展開される共通の利益、すなわち個々の個別的利益に対して、ときにそれを社会的側面 から制約・調節する機能であるという性格に変質したといえよう。現行憲法も基本的には、その延長上にあり、いわ ハワご ばそれを踏まえて、二琶で言えば﹁実質的公平の原理を意味する﹂概念と言えよう。また法的現象から・”言うと﹁権利 はすべて法的な秩序ある社会関係があってはじめて存在しうる﹂ものなので、このような法秩序を、いわば門公共の ハ サ 福祉﹂と呼ぶこともできよう。 他方、自由主義的法治国家︵夜警国家︶の発展のなかで、資本主義体制の繁栄をみるが、同時に新しい社会問題が 発生したことは、前述したところである。そしてそれを克服する体制として、いわゆる﹁福祉国家﹂が出現し、そこ では、いわゆる門公共の福祉﹂の立場から伝統的自由権に制約を加えるようになり、とりわけ経済的自由権にその要 請が著しくなったと言えよう。 これらの史的潮流に添って制定された現行憲法は、言うまでもなく、近代自由法治国家と現代福祉国家の二重構造
東洋法学 二〇三
職業選択の自由権について 二〇四 的性格を基底にしていることは異論のないところである。すなわち基本的人権の共存の秩序を図るために、いわば消 極的目的として、人権一般の内存的制約原理としての﹁公共の福祉﹂二二条、一三条︶を設けるとともに、他方、 自由主義国家体制の矛盾を克服して、文字通りに全ての国民が自由、平等が実現して、人間に値する生活が保障され る社会的土壌を設定する目的から、いわば積極的な制約原理としての﹁公共の福祉﹂︵二二条、二九条︶を設定して へまソ いることは前述したところである。しかし両者の関係をどのように理解するかによって学説の上で分かれるところで でゑ ある。 学説の動向としては、初期の段階では基本的人権の全てに、前者でいう﹁公共の福祉に反しない限り﹂の制約を受 けるので、後者は前者を受けながら、いわば注意的意義をもつにすぎないと解されていた。すなわちこの見解からす ると、経済的自由の制約も他の人権も同じ原理で考えればよいと理解するものであった。しかしその後、両者の相違 を強調する見解が説かれて、この説は少数となる。つまり、前者の﹁公共の福祉﹂は基本的人権そのものに本来的に 包含されている、いわぱ内存的制約原理であるのに対して、後者のそれは、社会・経済的に、いわば政策的立場から へすツ 特殊な意味をもって設定されたものであると解して、今日的には通説といえる。 すなわち通説的学説の代表的見解をみると、第一は、前者は、消極的原理としての人権に伴う内存的制約と考え、 ヘア 後者は、﹁国家の政策的考慮からする政策的制約﹂に区別して考える見解であり、第二は、前者を憲法上の一般的留 ハ ハ 保制約と考え、後者を政策的立場からの法律の留保制約と考える見解であるが、今日的通説は、さらに一歩踏み込ん で、前者は複雑高度化した現代社会における必要最小限の人権相互間の調整原理と考え、その特色は﹁事前の行政的
規制を許す点にある﹂と解する。また後者は﹁高度化した資本主義社会における、社会的不平等に対する規制の原 理﹂すなわち﹁経済的自由に対する社会的拘束の根拠を示すもの﹂として、とりわけ﹁経済的自由に対しては、高度 ヘウ の政策的規制も可能とされる﹂と解されている。そして、前者のいう内存的制約とは、かつてフランス革命の人権宣 言が明示した、﹁自由は、他人を害しないすべてをなし得ることに存するし︵四条︶を基本理念とした、いわば消極目 的の制約で、具体的には﹁①他人の生命・健康への配慮、②他人の人間としての尊厳への配慮、③人権相互の調整﹂、 という観点から導かれる人権の限界であるのに対して、政策的制約とは、﹁経済的・社会的弱者の生存を保障すると ハリ いう積極的な政策目的のために、経済的自由に対して加えられる制限﹂と解されている。そして、ここで言う﹁内存 的制約しや﹁政策的制約﹂は、一般的かつ抽象的で、内容がなお不明確であるので、問題となった個別的ケースにつ いて、その制約を必要とする公共の福祉の具体的内容、制限される基本的人権の種類、さらに制限を受ける権利の態 様とその範囲などを充分に配慮しつつ、その手がかりを与える理論として、今日の学説では、﹁比較衡量の理論﹄、 ﹁二重の基準論﹂、﹁立法事実論﹂等が提唱されていることは周知の通りである。 ところで、﹁職業選択の自由﹂は、本質的に社会性を含んでいるので、精神的自由に比較して、より公権力により 制約規制を受けることは少なくない。すなわち規制対象は多岐に渡るが、人の生命、健康を保護する目的として、薬 事警察上の規制や反社会的職業の禁止等があり、さらに独占禁止法等に見られる私的独占や不当取引の制限等が見ら れるが、その規制範囲の審査基準については、判例のなかで追求したい。 東 洋 法 学 二〇五
︵lV
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︵m︶ 職業選択の自由権について 二〇六 明治憲法における﹁公共の福祉﹂の概念はこのような観点に立っていたといえよう︵小林孝輔飛憲法学要論﹄九〇頁以下 参照︶。 宮沢俊義﹃憲法豆︵新版ζ二三五頁。 覚道豊治哩憲法︵法律学全書︶﹄二︸二頁。 経済的自由上で明示されている﹁公共の福祉﹂は当然のことながら﹁二〇世紀福祉国家といわれる場合の福祉であり﹃そ れは自由主義時代の国家社会に通常要求され妥当した権利自由制限の諸原理とははっきり区別された方向及び内容をもつも のでなければならない﹄と説かれる﹂︵由本桂一﹁公共の福祉﹂富沢俊義還暦記念﹃日本国憲法体系第八巻基本的人権H細 二一頁︶。 学説の動向を分析した論文として、今村成和﹁基本的人権と公共の福祉﹂﹃人権叢説脳一∼五一頁。 俵静夫﹁基本的人権と公共の福祉﹂﹃憲法講座2﹄︵昭和三八年︶一五頁。 佐藤功鴨臼本国憲法概説﹄︵全訂第二版︶ニモ頁以下。 橋本公亘鴨日本国憲法﹄一四二頁以下。 今村成和﹁基本的人権と公共の福祉﹂﹃ジュリスト憲法の争点駈五六頁。学説の動向を整理したものとして、中村睦男他 ﹃注釈日本国憲法上巻﹄五一八頁以下参照。 浦部法穂嘆憲法講義2基本的人権隔 一九一∼一九二頁。 四 判例の動向 経済的自由、とりわけ﹁職業選択の自由﹂ が ﹁公共の福祉﹂との関係で問われた、 リ⋮ティン ・ケースは、職業安ハヱ 定法違反事件である。すなわち有料職業紹介事業を禁止した職安法三二条に対して、最高裁は﹁各人にその能力に応 じて妥当な条件の下に適当な職業に就く機会を与え、職業の安定を図ることを大きな目的とするものである﹂ので同 条は、立法上憲法違反に該当しないと判示した。この判旨については、職業の選択の自由のもつ社会的機能にかんが み、それが国家的かつ公共的見地から立法政策上で広範な制限が課せられることを明らかにしたこと、さらにその立 法事実に踏み込んでその自由を実質化しようとしたところに、﹁公共の福祉﹂の適合性を見い出そうとしたことは評 ハゑへ 価されているが、他方、同条が原則的な禁止という、いわば厳しい規制手段を用いることの適否について言及してい ヨ ないのは、初期の判例の限界性を示したものだという評価もみられるところである。 少なくとも、昭和三十年代までのこの種の事件の合憲性の基準は、﹁公共の福祉﹂のために﹁必要かつ合理的とい う論理﹂の下に、一律的に合憲とする判例が一般的であったといえよう。例えば、古物営業を許可制とする古物営業 ハく 法の合憲性を認めた、最高裁の判例は、その典型的判旨例といえよう。 すなわち﹁憲法二二条は国民の権利として﹃職業選択の自由﹄を保障しているが、その自由を無制限に享有させて いるのではなく﹃公共の福祉﹄の要請がある限りそれは制約されうることを認めているのである。従って古物営業法 が許可制をとり、無許可営業を処罰することが﹃公共の福祉﹄を維持するために必要であるならば、その制限は何等 憲法に違反するものではない﹂という一般論を示した上で、同法の許可制を﹁被害者の保護を計ると共に犯罪の予防、 鎮圧及至検挙を容易にするために必要であり、右は国民の安寧を図り、いわゆる﹃公共の福祉﹄を維持する所以であ る﹂から合憲であると判示した。一読して理解されるように、合憲性の基準として、抽象的な﹁公共の福祉の確保の
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二〇七職業選択の自由権について 二〇八 ために必要な制限﹂という手法を採用したもので、個々の人権の性格上、何が﹁公共の福祉﹂の概念を含むのかとい う、具体的検討を試みがなされていない。この手法は﹁職業選択の自由しの規制立法の合憲論理として、その後の判 マユ 例にも踏襲されていることは注目される。 ハら これ等の判例動向については、学説では、概ね支持されていたが、しかしそのなかで、公衆浴場業の開業許可に関 して距離制限規定が憲法一二条一項に反するかどうか争われた最高裁の判決は、唯一、学説上で多くの批判を受けた ことは周知の通りである。 ヘマ 判旨は、当該訴訟の﹁公共の福祉﹂の内容、すなわち公衆浴場が﹁公共性を伴う厚生施設﹂であり、もしその設立 を業者の自由に委ねると﹁その偏在により、多数の国民が日常容易に公衆浴場を利用しようとする場合に不便を来た すおそれなきを保し難く、また、その濫立にょり、浴場経営に無用の競争を生じその経営を経済的に不合理ならしめ、 ひいては浴場の衛生設備の低下等好ましからざる影響を来たすおそれなきを保し難ど。従って公衆浴場の偏在及び 乱立は﹁国民保健及び環境衛生﹂の保持防止という門公共の福祉﹂からその制限規制は合憲であると判示した。 この判旨に対する学説上の批判の多くは、距離制限を合憲とする場合の﹁公共の福祉﹂の説明、すなわち制限の必 要性の有無について、﹁⋮⋮不便を来たすおそれなきを保し難﹂いとか、﹁⋮⋮低下等好ましからざる影響を来たすお それなきを保し難﹂い等の理由づけは、いわば一種の観念上の推測であって、立法事実の審査に対して客観的に論証 ハ い されていないという声であり、また、この規制目的は、本来は公衆衛生の確保という、消極的な警察規制であるのに、 その規制は結果的には浴場業者の経営保護に結びつくということになり、その論理は現実的に矛盾性が多いというと
ヘヨ いう指摘である。しかし、最近の学説では、判決の論理の粗雑さには批判的であるが、公衆浴場の公共性と事業の特 ハめ 殊性を考慮したとき、﹁公共の福祉﹂の実現策として、今日的には一定の評価を受けると一部支持されていることは 注目されよう。 そしてこれまでの﹁公共の福祉﹂という抽象的概念によって一律的に審査をした動向から、一歩踏み込んで、﹁職 業選択の自由﹂の個別的かつ具体的審査基準を明らかにして、判例理論の転換を形成したのが、小売商保護の見地か ハじ ら、スーパ⋮マ⋮ケットの設置に、いわゆる小売市場の開設許可制規制を合憲とした、最高裁の判例︵四七年︶とい えよう。 本判決では、営業の自由は憲法二二条の職業選択の自由に含まれるとする、従来の判例見解を踏襲した上で、本件 小売市場許可制が合憲である理由として、憲法が採用する福祉国家の理念から、第一に﹁国の責務として積極的な社 会経済政策の実現を予定しているものということができ、個人の経済活動の自由に関する限り、個人の精神的自由等 に関する場合と異なって、右社会経済政策の実施の一手段として、これに一定の合理的規制措置を講ずることは、も ともと、憲法が予定し、かつ許容するところと解するのが相当﹂と判示して、判例上はじめて、いわゆる﹁二重の基 準理論﹂を導入している。そして第二に、経済活動の規制には、いわゆる消極、積極規制の二種類があることを明ら かにした上で、本件のような積極規制では、法的規制の必要性と規制の合理性について﹁立法府がその裁量権を逸脱 し、当該法的規制措置が著るしく不合理であることの明白である場合に限って、これを違憲﹂と判示した。一言で言 うと、社会経済政策の積極規制では、法的規制措置がたんに﹁不合理﹂であるかどうかは、一種の政策上の問題なの
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二〇九職業選択の自由権について 二︸○ で違憲理由とはならず、更に一歩踏み越えて﹁著るしく不合理﹂であること、すなわち客観的に﹁明白﹂にそうであ る場合にのみ違憲という、いわゆる﹁明白性の原則﹂を導入したことが特徴的といえよう。このことの意味は、社会 経済の積極規制は、ことの性質上、政治部問の政策的・専門性の判断に委ねられる側面が強いから、規制立法に強度 あ の合憲性推定を与え、それが結果的に立法府の判断を最大限に尊重しようとした趣旨と解することができよう。ただ し、消極的規制については、判示はどのような規制基準が適用されるかについては、言及していない。 この点で、違憲審査基準を明確にした上で、消極的規制についても、積極的規制と異なる合憲性判断基準を明示し ハお た、いわゆる薬事法訴訟︵薬局開設の許可基準として距離制限が問われたケース︶の最高裁の昭和五〇年の違憲判例 は重要といえよう。 すなわち第一に﹁職業は、それ自身のうちになんらかの制約の必要性が内在する社会的活動であるが、その種類、 性質、社会意義及び影響がきわめて多種多様であるため、その規制を要求する社会的理由ないし目的も⋮⋮千差万別 で、その重要性も色々にわたるものである。⋮⋮これらの規制措置が憲法一二条一項にいう公共の福祉のために要求 されるものとして是認されるかどうかは、これを一律に論ずることができず、具体的な規制措置について、規制の目 的、必要性、内容、これによって制限される職業の自由の性質、内容及び制限の程度を検討し、これを比較したうえ で慎重に決定されなければならない﹂と、一般的制約論を判示した上で、その規制態様としての許可制が合憲とされ るためには、﹁原則として、重要な公共の利益のために必要かつ合理的な措置である﹂として、いわば﹁立法府の裁 量﹂を尊重するという、従来の判例を維持しつつも、国民の生命及び健康に対する危険の防止という消極的・警察的
目的に基づく規制の場合には、積極的目的のそれに比して立法府に委ねられた裁量の幅は狭いと判示した。 すなわち規制目的による職業の自由の制約には、二種類があることを明示した上で、消極的規制の場合は、当該規 制が、①﹁重要な公共の利益のために必要かつ合理的措置﹂であること、しかも②﹁よりゆるやかな制限−⋮によっ て右の目的を十分に達成することができないと認められること﹂という厳格な審査基準を示した。このことの判例の 意味は、消極的規制にも、より厳しい審査基準があること、そして、立法府の裁量を容認する場合に、いわゆる﹁明 白性の原則﹂が要請されるという従来の判例にもその限界があることを明示したこと、すなわち消極的規制の場合で も単なる﹁合理性・明白性﹂だけでなく、その規制手段については﹁より制限的でない他の選び得る手段の基準﹂ ︵LRAの基準︶という、いわば必要最小限度の原則を採用した点が特徴的といえよう。消極的規制に一つの手法を ハね 採用したものとして高く評価されているところである。 ハど そして第二に、本判決では、薬局の適正配置規制を違憲とする結論を導く手法に、いわゆる門立法事実論﹂を採用 したことも注目されよう。すなわち立法目的の必要性と合理性について、﹁競争の激化ー経営の不安定ー法規制し という因果関係の想定は、﹁単なる観念上の想定にすぎず、確実な根拠に基づく合理的な判断とは認めがたしく、不 良薬品が出回る危険性は行政上の取締りにょって達成できると判示している。このような立法事実論を展開した理由 は、前述した﹁公衆浴場法合憲判決﹂で最高裁は﹁公衆浴場の濫立i経営不安定;ー衛生設備低下﹂という図式が、 推定による、いわゆる﹁風が吹けば桶屋がもうかる式のあらっぽい論理﹂だという厳しい批判にさらされたからだと ハぴ いう声が多い。
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︸二一職業選択の自由権について 一ニニ 最後に、第三として本判決では、前述した小売市場許可制合憲とした昭和四七年判決で示された、いわゆる﹁二重 の基準の理論﹂をより明確化した意義は高い。すなわち職業は前掲した判旨でいうように、﹁社会的相互関連性﹂が 大きいので、﹁それ以外の憲法の保障する自由、殊にいわゆる精神的自由に比較して、公権力による規制の要請がつ よく﹂はたらくことは、あらためて憲法二二条一項で﹁﹃公共の福祉に反しない限り﹄という留保のもとに職業選択 の自由を認めたのも、特にこの点を強調する趣旨に出たものと考えられる﹂と判示している。このことの意味は、規 制目的が、消極的、積極的を問わないで、両者ともに、精神的自由よりも、より強度の制約の必要性が本質的に内在 していることを明らかにしたといえよう。ここで言う、いわゆる﹁二重の基準の理論﹂は合憲性を判定する理論とし て、学説上で支持されている。しかし、精神的自由と言っても、種類や性質によって多種多様であり、一律的に経済 的自由よりも弱いとする形式的に二分した理論として本判決でも採用したのでないことに注意する必要があろう。す ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ ヤ なわち、﹁両者が重なり合う部分をもつことを認めつつ、純粋の言論・出版の自由の規制立法には、より厳格な審査 基準が妥当し、経済的自由の積極的規制の場合には、最も保障度の弱い表現の自由の規制立法よりも更に緩やかな基 へゆマ 準﹂、すなわち門明白性の原則﹂が妥当するという、いわゆる一般原則を明らかにしたと解されよう。ここで明示さ ハおレ れた﹁二重の基準理論﹂は、人権の一般制約原理として、基本的には今後も維持されていくであろうが、しかし経済 的自由でも、多くのものは幸福追求の権利と結びついて精神的価値と分ちがたく結びついている状況では、﹁精神的 ハ 基本権と経済的基本権の両者に通じて新しい二重基準を適用することが考えられないかどうか﹂の提言もあり、その 意味では﹁利益衡量論﹂と同様に、個々のケースで、その人権のもつ性格を十分に検討した上で、従来のコ一重の基
め 準理論しを採用しなければならないといえよう。 ところである。 ハオい その意味で判例の集積と学説の深化の推移をまたなければならない
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︵5︶76
者に刑罰を科することが争われた事件で、最高裁︵昭和三一年一二月大法廷刑集一〇巻一二号一七四六頁︶は、右禁止は 昭和二八年三月大法廷判決刑集七巻三号五七七頁。麻薬取締法が麻薬の譲受、譲渡、所持を一律的に禁止して、その違反 奥平康弘﹁営業の自由の規制﹂﹃別冊ジュリスト、続判例展望﹄三九号一九頁。 保木本一郎別冊ジュリスト内憲法判例百選−臨一二号六二頁参照。 昭和二六年六月大法廷判決刑法四巻六号一〇四九頁。 ﹁公共の保健衛生の要請﹂という﹁公共の福祉のため必要である﹂として、科刑の規定は合憲と判示している。 この判例の底流には、昭和二九年六月、当時の田中耕太郎長筥が自民党憲法調査会で述べた﹃基本的人権と覇法﹄が、判 例を支配していたとみる芦部教授の指摘は興味深い︵芦部信喜﹁職業の自由の規制の﹂法学セミナー一九七九年八月号五五 頁︶。すなわち同書によると、田中長官はいう﹁個人の権利や慮由を無制限に認めると、社会はアナfキーに陥ります。反 対に何でも公共の福祉を振りまわして来ると、昔のファッショ時代にあったような誤りに陥るわけです。そこで裁判所の役 割というのは非常に大切なものになります。それは具体的の場合に人権や自由と公共の福祉との関係を明らかにするのであ ります。:.・:具体的に申しますと、裁判というものは公共の福祉とはこういうものだ、従ってこの場合には公共の福祉から して人告人の主張は認容しがたいというふうにやるのではなくして、現在ある法律が違憲じゃないのだ、これはこのくらい な権利や自由の制限は公共の福祉から見て当然なのだというようなことを個個の場合について判決して行くわけで、その判 例がたくさん集まって公共の福祉というものがどういうものであるかが帰納的にわかるわけであります﹂。 清水睦﹁職業選択の自由﹂﹃ジュリスト別柵⋮日本国憲法ー三〇年の軌踏と展望﹂六三八号﹄三一六頁。 昭和三〇年一月大法廷刑集九巻一号八九頁。 東 洋 法 学 ︸二三︵8︶ ︵9︶ ︵10︶ 13三21i ︵M︶ ︵15︶ ︵16︶ 職業選択の自由権について 一二四 同旨批判の論文が多いが、さしあたり、山下健次﹁営業の許可制と距離制限﹂別柵ジュリスト﹃憲法判例百選︵第三版︶ 四四号駄八八頁以下参照。 覚道豊治﹁職業選択の自由の制限﹂﹃基本判例解説シリ⋮ズージュリスト憲法の判例鮎七三頁参照。例えば次の指摘はそ の代表といえよう。すなわち﹁無用の競争により衛生設備が低下するという現象が生じた場合には許可の取消の途がすでに 用意されてある﹂こと﹁もし判旨が正しいとすれば、公衆浴場のみならず、公衆の日常生活に不可欠の営業はすべて配置の 適正という見地から許可制をとることも合憲であることとなり、また各種の事業の無用の競争による弊害を是正するという 見地からすべての事業について設置の距離制限を定めることも合憲であることとなり、憲法の本条の趣旨が没却される﹂ ︵佐藤功﹁ポケット註釈憲法﹂ 一六五∼六頁︶。 小嶋和司﹃ジュリスト憲法判例百選︵旧版︶魅五六頁。また自己の住居に入浴設備を設置することのできない、利用者の 生存権の立場から、公衆浴場の適正配置規制の合憲性を示す見解もある︵浦部法穂﹃違憲審査の基準賑二〇七頁以下︶。 昭和四七年一一月大法廷刑集二六巻九号五八六頁。 中村睦男他﹃憲法−脳四二五頁。 昭和五〇年四月大法廷民集二九巻四号五七二頁。この判旨を総合的に検討した論文として、高見勝利﹁薬局開設の距離制 限と職業選択の自由し中村睦男他編﹃憲法判例の研究﹄四〇五頁以下。 芦部信喜哩憲法判例を読む臨二五〇頁。戸波江二﹁薬事法六条、二項に定める薬局開設の距離制限は憲法二一条一項に反 する﹂法学協会雑誌九四巻一号二孟頁。経済規制立法とLRA原則の適用を分析した論文として、藤井俊夫﹁経済規制立 法と違憲審査基準﹂鴨憲法訴訟と違憲審査基準﹄一六三頁以下。 ここでいう立法事実とは﹁法律の基礎にあってそれを支える事実であり、それはω立法目的の合理性ないしそれと密接に 関連する立法の必要制を裏付ける事実、及鋤立法目的を達成するための手段が合理的であることを基礎づけている事実であ る﹂︵富沢達﹁薬事法六条二項、四項と憲法二二条一項﹂、法曹時報三〇巻九号︸五八頁︶。 芦部信喜﹁憲法裁判の問題点﹂閥憲法訴訟の理論﹄一六二頁。公衆浴場法の合憲判決と本判決を対比して、本件判決の立
法事実論という違憲判決の手法を分析した論文として、和田英夫﹁薬局開設の距離制限違憲判決﹂法学セミナi一九七五年 七月号四頁以下。 ︵17︶芦部信喜﹁職業の自由の規制面﹂法学セミナ⋮㏄九七九年一二月号三四頁。 ︵娼﹀ 和田英夫﹁公共の福祉﹂清宮・佐藤・阿部・杉原編同新版憲法演習三臨二〇四頁。 ︵珀︶鵜飼信成﹁﹃法の支配﹄の原理の原則と現代行政の課題﹂﹁公法研究﹂三九号二二頁。 ︵20︶ この理論の動向を分析した論文として、江藤崇﹁二重の基準論﹂兜講座憲法訴訟第一一巻瞼 τ五頁以下。 ︵蟹︶総合的参考文献として、中村睦男﹁経済的自由﹂芦部信喜編﹃憲法m人権ω臨四︸頁以下参照。 東 洋 法 学 ︸二五