「原罪」に関する『パンセ』の二断章 パスカルにとって、人間性とは《偉大と悲惨》の《背反(contrariété)》[『パンセ』B.430]1 である。《卓越性(excellence)》と《嘆かわしい(déplorable)状態》の《混沌(chaos)》、 《奇怪な混乱(confusion monstrueuse)》[B.435]、《縺れ》[B.434]である。しかし哲 学者たちは《かくも可視的な》[B.430]背反を把握し得ない。哲学者たちに原因の究明 など望むべくもない。しかし、人間の中に何らかの《偉大さの大きな原理》と同時に《悲 惨さの大きな原理》が存在すると《教える》[B.430]唯一の教説がある。「原罪とその遺伝」 というキリスト教のそれである。それによれば、人間は「神の似姿」として「偉大」なも のとして創造されるも、おのれの意志により「善なる神」に離反し、その結果「悲惨」を 引き入れた。人間性の「偉大」と「悲惨」の「背反」およびその「原因」が見事に解明さ れている。けだし、パスカルにとって「原罪とその遺伝」説は一種の「人間学的哲学」で ある。 『パンセ』には、「原罪とその遺伝」を提示する代表的な二断章がある。《A P. R.》2とい う略語で始まる断章(B.430)と、《背反性》という章に配された断章(B.434)の二断章 である。両断章は強調する。人間の「不可解な背反性」の原因究明は人間能力を超出して いる。つまり《人間は人間を無限に超えている》[B.434]と。ならば人間を《形成した》 [B.430]者、すなわち《神》[B.434]、あるいは《神の知恵》[B.430]—すなわち、イエス・ キリスト3—に《聞く》[B.434]しかない、と。しかし、後者の断章(B.434)は、哲学 者たちの人間観の二律背反性を詳細に説き、この《縺れ》を解くには、《神に聞く》以外 にないと断言するが、《神》の言葉は記さない。単に、この《縺れ》が開示するのは、曾 て《完全の段階》にいた人間が《不幸にもそこから堕ちた》ということであると記され、 その直後に、《驚くべきことに》、《われわれの理解から最も遠いところにあるあの神秘 (mystère)》すなわち《原罪遺伝の神秘》なしには、人間は人間自身について《何の理解 も得られなくなる》と記す。一方、 前者の断章(B.430)は《不可解(incompréhensibilité) キーワード: 人間の偉大と悲惨、独断論と懐疑論、原罪とその遺伝、 イエス・キリストと人間回復、真の理性
人間学の基礎としての原罪論
-パスカルの『パンセ』を中心として-
道 躰 滋 穂 子
を説明した後で》という文で始まるが、人間の不可解さの詳細な記述はない。単に、哲学 者や他宗教は人間の《かくも可視的な》《偉大と悲惨》の事実に閉ざされているがゆえに、 《悪》や《傲慢と邪欲》からの《救済》は齎し得ぬとのみ記す。しかしその直後に、《神の 知恵》みずからが人間に《人間からは真理も慰撫も期待すべきではない》と親しく語りか ける手法が採られる。したがって、この二断章は明らかに補完関係にある。 a)人間理性の背反性と原罪 哲学者たちの人間観の二律背反性を詳細に説く後者の断章[B.434]の前半は、人間に とって真理把握が可能か否かの観点から、独断論者の主張と懐疑論者のそれが要約される。 最初に提示されるのは《懐疑論者たちの主たる原理》である。すなわち、人間が《自然 本性的に(naturellement)感じとっている》《諸原理》—たとえば《時間、空間、延長、 運動、一個》4 あるいは《数(の比例関係)》[B.282]というような、 人間生活を《囲繞す る》本質的な《原理》—が、《真理》であるか否かに関して、人間は《いかなる確実性も もち得ない》という主張である。5 言い換えれば《どんな独断論者も打破し得ぬ証明への 無力》[B.395]が人間にあるのだ。《これらの原理》はすべて《定義しようとすれば、ど うしても却って不明瞭になってしまう》[B.392]観念、すなわち《定義不能》の観念だか らである。6 たとえば、「独断論者」によれば、《運動》という「自然的原理」は「共通概念」 である。しかし、懐疑論者に言わせれば、この言葉の内包が万人にとって同一であるとい う保証はない[Cf.B.392]。また、懐疑論者の正当性は、何人も《おのれが目覚めている のか眠っているのか確信がもてない》[B.434]7という主張にもある。つまり、 われわれは 《目覚めていると見なす一生の半分も眠っているのではあるまいか》、あるいは《われわれ は眠ると思うときに目覚めるのではあるまいか。》8 これが真ならば、人間に《真理の観念》 の存在を保証するものは何もない。 パスカルは懐疑論者のこの主張を一旦は容認するが、最終的には《独断論者たちの唯一 の砦(fort)にとどまる》ことを宣言する。すなわち《誠実にかつ真面目に話すなら、自 然的諸原理を疑うことなどできぬとする》立場である。当該箇所にその理由は記されてい ない。しかしそれは他の断章や他の著書から明らかである。9 パスカルによれば、人間に はいかなる懐疑論者にも打破し得ぬ《真理の観念》[B.395]があることの揺るぎない証 拠がある。たとえば、幾何学は《定義不能》の諸観念をもとにするが、それをもとにした 論証になんの混乱も生じないという事実がそれである。さらに《懐疑論者たちを混乱させ る》[B.434]事実がある。「自然的な諸原理」の存在と、それが万人の「共通観念」であ ることを《信じる》ことなしには、どんな人間の生の営みも—たとえば、農業も商業も、 あるいは衣食住に必須の簡単な計算さえも—不可能となる。それは万人が「定義不可能」 の「自然的諸原理」を《両義性を完全に脱したやり方で説明されたと同様の安心と確信を もって》10用いていることの証しである。したがって、《いまだ曾て実在の完全な懐疑論者 なるものの存在したためしはない》[B.434]のだ。《自然本性が無力な理性を支えて、こ
んなにまで常軌を逸した振る舞いをするのを阻止している》11ことは明らかなのだから。 しかし既述のように、「独断論者」の主張もまた一面的である。彼らは人間理性の《自 然的明晰性(clarté naturelle)》[B.392]を説き、 人間理性における「真理の確実な所有」 [B.434]を主張する。しかし、このような主張は、前掲のような《懐疑論者たちのわず かな一吹きで覆される》。それらの「証明についての無力」が《独断論たちを混乱させる》 [B.434]からである。言い換えれば、人間理性は《僅かばかり攻められるだけで、真理 の証書(titre)も示し得ず、 獲物(prise)を手放すことを強いられる》[B.434]のである。 したがって、 人間が《自然的知恵》[B.374]を有すると《信じる》者は、 いわば人間の《脆 弱》の最大の具現者でもある。しかし《独断論者たちを困惑させる》このような見解は、 《懐 疑論の徒》には《栄光》[B.392]となる。《懐疑論者の栄光》[B.374]とは、もっぱら人 間の《脆弱》の認識にあるからである。ここに逆説が成立する—《人間の脆弱はそれを認 識している者たち[すなわち懐疑論者]においてよりは、それを認識せぬ者たち[すなわ ち独断論者]においていっそう顕著に現れている》[B.376]と。言い換えれば、「懐疑論者」 は《味方(ami)によってよりはその敵対者によっていっそう強固にされる》と。 しかし、人間についての真理は「二律背反の具現者」ということである。《真理の保管者》 にして《不確実と誤謬の掃きだめ》という《矛盾の主体》《混沌》《怪物》《妖怪》《逆説》[B.434] である。しかし独断論者も懐疑論者も一面しか認識せず、むしろ《相互に排除しあうこと によって常に誤謬を犯していた》[B.432]のである。人間性の真理に無知な哲学者たち にこの矛盾の《縺れ》[B.434]を《解く》ことは不可能である。これは《人間的哲学の すべてを越えている》[B.434]。ならば、人間を創造し知恵を与えた者に聞くしか手立て はない—《神に聞くべし(Écoutez Dieu)》。12 しかし、前掲のように、当該断章には「神
の言葉」はない。結論だけが示される。人間は《完全の段階(un degré de perfection)》 にいたが、そこから《不幸にも堕ちた(déchu)》のだと。「原罪」の暗示に他ならないが、 ここではその語は用いられない。また「完全の段階」に関する具体的説明もない。 一方、別の断章は、「完全の段階からの失墜」を、人間に存在する普遍的で根本的「欲 求」から説明する。確かに、人間にとって完全な「確実性」の獲得は不可能であるだけで なく、その生も《悲惨》と《死》によって、《幸福》は阻まれている[Cf.B.437]。しか しこのような状況も、 人間から《真理と幸福への希求》[B.437]を奪うことはできない[Cf. B.437]。13 また、 この「希求」は人間以外の動物には皆無である。この二前提から、この「希 求」が人間だけに存在する理由が判明する。それは人間が《どこから落ちたかを感じさせ るため》[B.437]である、と。言い換えれば、その「希求」は人間が最も高貴な地位か ら失墜したことにより生じたものである。なぜなら《人間が一度も腐敗した(corrompu) ことがなかったら、人間は[今も]その無辜の状態において、真理と至福を確実に享受し ているはずである》[B.434]し、反対に、《もし人間が、最初からただ腐敗しているばか りだったら、人間は[今も]真理についても永福(béatitude)についても何の観念も所 有していないであろう》からである。しかし《われわれの状態のなかに偉大がまったくな
かった場合よりいっそう不幸なこと》であるが、《われわれは幸福の観念(idée)を所有 しながらも、それに到達し得ない》。《真理の映像(image)を感じていながらも虚偽しか 所有していない》[B.434]。しかしそれにもかかわらず、人間から《真理と幸福へ希求》 [B.437]を奪うことはできないとすれば、そこから《明白な》結論が得られる。人間は 曾て《完全の段階》にいたが、そこから《不幸にも堕ちた》[B.434]ということである。 既述のように、後者の断章(B.434)はこの時点まで、「原罪」という語を用いない。しかし、 このあと突如、この語が登場する。《原罪遺伝(transmission du péché)》という《神秘》 なしには、人間は《おのれ自身のいかなる理解ももち得ない》と。したがって、「完全性 の段階からの不幸な失墜」とは《原罪》に他ならず、 また人間の現在の「不可解な背反性」 は、その《遺伝》が今日にも及んでいることの証しに他ならないことが暗示される。しか し当該断章には「原罪」や「完全の段階」に関する具体的な叙述はない。一方《A P. R.》 で始まる断章(B.430)においては、《神の知恵》がみずから雄弁にそれを語る。 b)人間的生の背反性と「原罪」 前掲のように、この断章は《不可解(incompréhensibilité)を説明した後で》という メモから始まり、14 《人間の諸々の偉大と悲惨はかくも可視的である》と続く。しかし「偉 大と悲惨」の具体的な説明はなされず、 すぐ結論が出される。哲学者たちも他の諸宗教も 《人間の無能の救済と、この救済を得るための手段》を教示し得えなかった、と。この確 認のあと、パスカルは《神の知恵》に親しく語らせる。 最初に神は宣言する、《人間たちに真理も慰撫をも期待すべからず》と。その理由は《わ れは汝等を形成した者》[B.430]であり、人間に《汝等が何ものたるか》を、すなわち 人間の真の本性を《教え得る唯一の者》だからである。けだし、いかなる《驚異(merveille)》 であれ、その《作り手》はそれらを《理解している》[B.72]が、《他のなにものにもそ れはできぬ》[B.72]という真理に基づく。しかも周知のように、神を「万物の創造主」 と同一視するのは、ユダヤ・キリスト教だけである 。15 哲学者たちや他の宗教の創始者 でそれを明言したものはない。それゆえ、彼らには人間についての「真理」を開示するこ とも、人間に「慰撫」を与えることも不可能である。神は続ける、《しかし汝等は現在、 われが汝等を形成した状態にもはやない》と。かくして、神の《栄光と驚異》を伝達され た「創造時の人間の状態」と、《暗黒》と《死性(mortalité)》と《悲惨》に埋没してい る「現在の人間の状態」とが、神自身によって、対比的に示され、つぎにその原因が解明 されることになる。 創造時の人間の状態 《われは人間を、聖なる、無辜なる、完全なるものに創造した。われは人間を光と知性 で満たした。わが栄光と驚異を伝えた。当時、人間の目は神の威容(majesté)を見て
いた。当時、人間は(・・・)暗黒のなかにも、死性と(・・・)悲惨のなかにもいなかった。》 [B.430] これが、《アダムの栄光的状態》[B.560]と呼ばれる《状態》であり、人間が曾て享受 していた《完全の段階》[B.434]である。この状態において、人間は《被造物たちを使 用し支配する》[B.486]ことができ、それは《人間の尊厳》のしるしでもあった。 同様の記述が、『恩寵文書』—アウグスティヌスの広範な「原罪と恩寵」の神学をパス カルが正確に簡潔に要約した作品—にもある。曰く。 《神は最初の人間を創造し、彼のうちの人間的全本性を創造した。神は人間を正しく、 健全に、強壮に創造した。いかなる邪欲もなしに。善にも悪にも等しく傾く自由意志を もたせて。至福を欲し、それを欲せずにはいられないものとして。》16 アダムの過失 しかし人間は《かくも大きな栄光》を《傲慢(présomption)》に陥ることなくしては《保 持し得なかった》[B.430]—人祖アダムの「過失」もまた神の口から啓示される。人間は《お のれ自身で中心になる》ことを欲し、神の《助け》から《独立》することを欲し、《おの れを神と同等と思った》。神は人間を人間自身に《委ねた》。「原罪」の暗示である。しか し前掲のように、当該断章ではその語は登場しない。この箇所の記述を補完するかのよう に、『恩寵文書』には「原罪」の経緯が《聖アウグスティヌスの説》として神学的な語を 用いて記されている。 《神の手から出て、無辜の人間は壮健で健全で正しい者であったが、神の恩寵なくば神 の戒めを順守し得なかった。(・・・)神はアダムに十分な恩寵(grâce suffisante)、言い 換えれば、戒めを果たし正義に留まるにはそれ以外のなにも必要とせぬ恩寵を与えた。 (・・・)それゆえ、彼の自由意志は、おのれの望みに従って、この十分な恩寵の支配者と して、それを空しくすることも、有効にすることもできた。神はアダムの自由意志に、 この恩寵の善用も悪用も委ねた。アダムがこの恩寵を介して堅忍していたなら、栄光を 受けるに値していただろう。すなわち犯罪を犯すという危険なしに、永遠に恩寵のうち に堅固であるという栄光に。良き天使たちが同じ恩寵の功績によってそれに値したのと 同様に。(・・・)[しかし]悪魔に唆されたアダムは誘惑に屈し、神に反抗し、神の戒め を破り、神から独立した。神と等しい者にならんと欲したのである。》17 これは確かに、アウグスティヌスが多くの著作で執拗に展開する説である。以下はその 一例である。 《アダムは(・・・)卓越した恩寵を有していた。彼はその創造者の好意から戴いた諸々の 善のうちにあった。(・・・)いかなる悪も全く被ることがないようにさせる善である。》18
《最初の人間は(・・・)それに留まり続けようと望むなら、決して悪人にならず、しか もそれなしには(sine qua)自由意志をもってしても善きものではあり得ぬという恩寵 をもっていたが、それを自由意志によって捨て去ることもできた。(・・・)これが第一の アダムに賦与された恩寵である。(・・・)それはもし人間が望むならば、義を保たせるこ とのできる恩寵である。(・・・)(この恩寵の)助けなしには善に留まることはできぬが、 もし望むなら、その助けを捨て去ることができるような(助けである)。》19 《(・・・)それゆえ人間は望むなら、留まり続けることができた。人間が欲する善を、堅 忍をもって確保することを可能にし、またそれなしには、望んでも不可能にする助けが 欠けていなかった。(・・・)聖なる天使等がなし得たように。(・・・)聖なる天使等は(・・・) 同じ自由意志によって堅忍し続け、(その結果)留まり続けたことの報酬—常に至福の うちに留まっていることが完全に確信できるような至福の完成—を授受し得たのであ る。》20 《(・・・)悪魔とて、もし人間がすでにみずからおのれに満足し始めていなかったら、人 間を誘惑しはしなかったろう。なぜなら人間の愉楽の原因は「汝は神々のようになるだ ろう」という言葉であったのだから。》21 これらのアウグスティヌスの執拗な表現に比べれば、パスカルの『恩寵文書』の記述は 簡潔である。後者はいわば「異常に生い茂ったアウグスティヌスの森」を「樵夫の斧を持っ て歩き回り」、「何本かの巨木だけを切り倒さずに立ったまま残した」22 かのようである。 一方、 『パンセ』の当該断章(B.430)には、 「原罪」という語も、「恩寵」や「十分な恩寵」 という語もない。また「アダムの過失」の原因が「悪魔」の「誘惑」によるとの記述もない。 「過失」の原因はひたすら人間の《傲慢》に帰される。人間がおのれ自身の「中心」になり、 「神 と同等」になろうとすることに。けだし、パスカルは『パンセ』では、アウグスティヌス の巨大な神学を「異常なほどに簡素化」23しているだけでなく、いわば脱神学化している のである。 「失墜」による変化 神からの離反の結果、《恐るべき変化(horrible changement)》24が人間に生じた。万 事がそれ以前と正反対となったのである。原罪以前の人間は《おのれを盲目にする暗黒の うちにいなかった》し、《神の威容を見る》[B.430]こともできた。《おのれを苦しめる 死性(mortalité)と悲惨のうちにもいなかった》。また《被造物たちは人間に服従させら れていた》。 しかし、 原罪以後の人間は《盲目と邪欲という悲惨》に《沈潜》することになっ た。したがって、第一の「恐るべき変化」は「知性」におけるそれである。「知性」は弱 体化し、その《全認識は消し去られるか掻き乱され》[B.430]、その後は《その造り手の 混乱した光》が《辛うじて残存しているにすぎぬ》ものとなった。第二の「恐るべき変化」
は「肉体的な堕落」である。人間は「数え切れぬ苦痛」に苛まれるようになっただけでなく、 神の掟を順守するなら獲得し得た「不死」という能力をも喪失した。第三の「恐るべき変化」 は《感覚(les sens)》の《理性からの独立》である。「 感覚」は原罪以前は「理性」に柔 順であったが、原罪後はしばしば《理性の主人》となり《理性》を《快楽(plaisir)の追 求へと駆り立てる》ようになった。「 理性」は「感覚」の支配下に入ったのである。また、 原罪以前は人間の支配下にあった《被造物等》が、原罪以後《反抗させられ》、《人間の敵》 とされた。爾後それらは人間を《苦しめ、試み、支配》する。ときには《力によって服従 させ》、 ときには反対に《その甘美さ(douceur)によって魅惑する》[B.430:et Cf.B.334]。 パスカルによれば、この《甘美による魅惑》の《支配》のほうが《一層恐ろしく侮辱的 (injurieux)》[B.430]なのだ。なぜなら、《無辜》のときには《人間の尊厳》は《被造物 を使用し支配する》ことにあったが、原罪以後は《それに服従する》[B.486]ことになっ たというその原因は、その「甘美な魅惑」にあるからである。かくして《人間は獣に似た もの》[B.430]となり、その《腐敗した本性》のために、もはや《自分の存在を形成す る理性》によっては《行動しない》[B.439]のである。そして、第四の「恐るべき変化」 は『恩寵文書』に記された「人間の意志の変化」である。 《アダムは罪を犯し、(・・・)その謀反の罰のために、神は彼を被造物への愛においてお いた。そして人間の意志(volonté)は(・・・)邪欲(concupiscence)—それは神によっ てではなく、悪魔によって植え付けられたのであるが—に満ちた状態となった。それゆ え、邪欲は彼の肢体のなかで増大し、彼の意志をくすぐり、悪を楽しませた。そして暗 黒が彼の精神を満たしたので、彼の意志は(・・・)彼の肢体に肥大した邪欲に魅了され るようになった。》25 同様の主張はトマス・アクィナスにも見られる。彼はアウグスティヌスの恩寵説を解説 しつつそれを容認する。 《(・・・)『伝道の書』第 7 章は「神は人間を直しき者(rectus)に作り給うた」という。 この箇所における「神が人間を作り給うた際の最初の状態における直しさ(rectitudo)」 ということから、以下の考えが当然要請される。けだしこの場合の「直しさ」とは、(1) 理性が神に服し、(2)下位の諸能力が理性に服し、そして(3)身体が魂に服するとい うことにおいて成立するものであった。しかるに、第一の服従は、第二のそれ、第三の それの因なのである。というのはアウグスティヌスの言うごとく、理性が神に従属する ものとして留まるかぎりにおいてこそ、下位のものは理性に服従するものたるのであっ たのだから。明らかに、(・・・)身体の魂に対する従属も、また下位の諸能力の理性に対 する従属も、ともに自然本性的なものではない。さもなくばそれは罪の後もなお留まっ たであろうから(・・・)。アウグスティヌスが『神国論』第 13 巻においてつぎのように 説くのもこのゆえに他ならない。(・・・)もし恩寵の去るにおよんで、肉の魂への柔順が 失われるに至ったのだとすれば、下位のものが魂に服していたのはやはり、魂において
存在していた恩寵によるものだったということになるであろうと。》26 パスカルの時代に最も近い公会議、「トレント公会議」第五総会(1546 年)もまた、 それを書式化している。 《もし誰か或る者が、最初の人間アダムが天国で神の戒律に違反したとき彼がその状態 で形成されていた聖性と義をすぐに喪失したことを認めずそれを公言しないなら、そし てまたこの違反の行為によって、神の怒りと憤慨を受け、その結果、神が前以て警告し ておいた死を受け、そして死とともに、「死の権力をもつ者、すなわち悪魔」(ヘブル、 2,14)の力のもとの囚人となったこと、また「違反の行為によって、アダムは肉体に 関しても、魂に関しても、完全に悪化の状態に変えられた」ことを認めずそれを公言し ないなら—その者は排斥される(anathma sit)。》27 これがパスカルの強調する人間の《今日おかれている状態》[B.430]である。つまり 最初の人間に生じた「恐るべき変化」が、その後の人間にそのまま受継され、人間の《第 二の本性》[B.430]として定着したのである。いわゆる「原罪遺伝」である。しかし前 掲のように、 『パンセ』の当該断章[B.430]にこの語は使用されていない。むしろ人間は《盲 目と邪欲という悲惨に沈潜した》にもかかわらず、今もなお《最初の本性の幸福(bonheur)》 についての《いくらかの無力な本能が残存する》と明言されている。「至福への欲求」と「真 理への嗜好」が保持されたこと、それゆえ今も人間の《心》は《自然本性的に普遍的存在 を愛する》[B.277;Cf.B.81]ことが確言されている。 キリスト教史における「原罪」と「原罪遺伝」説 一方、聖書には「原罪」という語はない。イエス・キリストの受肉がその罪の贖いのた めであるという明確な記述もない。それを暗示する言葉は、洗礼者ヨハネがイエス・キリ ストを指して発した言葉—「ほら、世の罪を取り除く神の子羊だ」[ヨハネ、1・29]— だけである。28 周知のように、「原罪」説の源泉は、旧約聖書の「創世記」(1・26 ~ 3・24)の記述に ある。神はアダムを「神の似姿」として創造し、楽園エデンに住まわせたが、「善悪を知 る木」の実を食すると「死」に至るがゆえに食してはならぬと命じた。しかし妻のイヴは「そ の実を食すれば神のごとくになれる」という蛇の誘惑に抗しかね、ともにいたアダムとと もにその木の実を食す。その結果、二人は「死」をいただく者となり、エデンから追放さ れ、あらゆる艱難辛苦を味わうようになった。旧約聖書の「知恵の書」(1・13-24)にも 同様の記述がある。《(・・・)神は人間を不滅な者として創造し、ご自分の本性の似姿とし て造られた。悪魔の妬みによって死がこの世に入り、悪魔の仲間に属するものが、死を味 わうのである》。
これらの記述から、パウロは推論し結論した。《一人の人によって、罪が世に入り、罪 によって死が入り込んだように、死はすべての人に及んだ。その人においてすべての人 が罪を犯したのだから。(・・・)一人の人によってすべての人に有罪の判決が下され(・・・) 一人の人の不柔順によって多くの人が罪人とされた(・・・)》29[ロマ、5・12]と。 アウスグティヌスはパウロの説を引き継ぎ、パウロの言葉を随所で復唱する—《アダム、 その人のうちですべての人が罪を犯した》、30 《すべての人が彼の人のうちで罪を犯し、すべ ての人が彼の人のうちで死ぬのである》。31 つまり、神秘的連帯責任によって、万人がその 源泉で罪を犯し、その結果を被るのである。しかもアウグスティヌスによれば、「万人とア ダムの結合」は「法律的な」それではない。いわば「実在的(réel)」である。32 それを説 明するために、彼は原罪の「神秘的遺伝」に関して、しばしば「病気の世襲的遺伝」—重 病を負った悪しき始祖のように、最初の人間は腐敗した家系しか作り出し得ない—の比喩 を用いる。33 《有罪の根ねが有罪の芽を産み出すということは不思議でも不正でもない》34と。 トマス ・ アクィナスもパウロ説を踏襲する。《アダムから出てきたすべての人間が、彼か ら原罪の汚れを被った。さもなくば、万人がキリストの贖いを必要とするわけではないと いうことになる》と。そして《最初の父の罪(peccatum primi parentis)》から《原初の過 失(culpa originalis)》が《子孫へと伝えられる》仕組みは、《現在犯される罪(peccatum actuale)が肢体に伝えられる》それと同様であると。すなわち《現在の罪が肢体に伝え られ得る》のは、明らかに《肢体が魂の意志によって動かされるという本性をもつからで ある》が、同様に《原初の過失が万人に伝えられる》のは《万人がアダムに由来する生殖 運動で動かされる》からである、と。35 前掲の「トレント公会議」第五総会はパウロ説を第二箇条で書式化する。 《もし誰か或る者が、アダムの違反は彼だけしか傷つけず、彼の子孫たちを傷つけなかっ たと主張するなら、(・・・)あるいはまた、不柔順の罪によるこの腐敗した存在(inquinatum illum)は、全人類に単に肉体の死と苦痛を伝えただけで、魂の死である罪を伝えたので はないと主張するなら、その者は排斥される。その者は使徒の言葉に反しているからで ある。使徒は言う、「ただ一人の人によって、罪が世に入った、そして罪によって死が入っ た。それゆえすべての人に死が及んだ、彼においてすべての人が罪を犯した」と。》36 さらに、同総会第四箇条は「幼児の洗礼」の必要性をも宣言する。 《もし誰かある者が、母の体内から出生した直後の幼児たちは、(・・・)原罪に関すること がらにおいては、アダムからは何も引きずっていないし、永遠の生に達するために、再 生の洗礼盤の中で贖罪によって浄化する必要があるような何ものも引きずってはいない と主張するなら、(・・・)その者は排斥される。なぜなら、使徒が述べていること、すな わち「ただひとりの人によって、罪は世に入り、罪によって死が入った、こうしてすべて の人に死が伝わった、その人においてすべての人が罪を犯したのである」(・・・)を、(・・・) 別様に理解すべきではないからである。(・・・)》37
パスカルと「原罪遺伝」説 パスカルがこれらの説を踏襲していることは言うまでもない。たとえば、『恩寵文書』 には、アダムとその子孫との「有機的連帯」を主張するための、アウグスティヌスの腐敗 した植物の表象を借りた表現がある。 曰く、《この罪はアダムから彼の全子孫に受け継が れ、彼らは悪い種子から出る果実のようにおのれ自体で腐敗した。そのためアダムからで た全人間が、無知のなかで、邪欲のなかで、生来的に、アダムの罪の科を負い、永遠の死 に値する》38と。 また、「初代と今日のキリスト者の比較」においても、《教会が、かくも幼い年齢におい てこの世の伝染病(contagion)から引き離した人々》39という「伝染病」の表象を利用 した表現がある。「父の逝去の際の手紙」には、この《伝染病》は「魂」を《汚染してい る(infecter)》と記す。40 『パンセ』も、確かに、パウロ神学を受容している。たとえば、神学論争のためのメモ と思われる断章に、パウロのラテン語の言葉《In quo omnes paccaverunt(その人[アダ ム]において万人が罪を犯した)》[ロマ、V,12]が引用され、アウグスティヌスと同様に、 それを《幼児たち》にまで適用している[Cf.B.775]。別の断章には、《原罪の伝統》の 例として、「創世記」の「人が心に思いはかることは、幼きときから悪い」(8,21)とい う文章が引用され、また「この悪いパン種は人間が形成されたときから、人間のうちに置 かれている」[B.446;Cf. コリント、I,5,8]とも記されている。 しかし実際には、 『パンセ』は「原罪とその遺伝」説に関する神学的な説明をほとんど 与えていない。むしろ現在の人間は《アダムの栄光的状態も、かれの罪の性質も、その 罪のわれわれのうちへの遺伝も、了解しない》[B.560]状態にあること、言い換えれば、 それらは現在の人間の《本性の状態》とはまったく異なった《本性の状態》のうちで起き たことであり、《われわれの能力の状態を超えた》ことがらであることを強調する。した がって、キリスト教は《原罪》を《馬鹿げたもの(folie)》[B.445]として与えていること、 それゆえそれは《道理(raison)》を《欠如》したものであると明言する。 人間の「背反性」の「縺れ」は《神に聞く》しかないと主張する前掲の断章[B.434] においても、事情は同様である。前掲のように、そこには神の言葉は記されないが、現 在の人間の状態が「完全の無知でもなく、さりとて確実な知をも有さぬ」ことの指摘か ら、突如、結論が導かれる—人間は曾ては《完全性の段階》にあったがそこから《不幸 にして失墜した》と。そしてその直後に、何の説明もなしに、《罪の遺伝(transmission du péché)》という語が用いられ、こう記される。《しかし、驚くべきことだが、われわ れの理解から最も隔絶した神秘、すなわち罪の遺伝のそれなしには、われわれはわれわ れ自身のいかなる理解ももち得ない》と。その「神秘」とは、《最初の人間の罪が、この 源泉からかくも隔絶しており、ためにそれを分与することが不可能と見える人々をも、有 罪(coupable)とした》ということであり、また、《意志の行使不能な(incapable de
votonté)子供》をも《彼が存在する六千年も前に犯されて、彼がそれに関与したように はほとんど思われない罪》のために《永遠に地獄落ちにする》ということである。しかし これ以上の説明はない。むしろこれほど《人間理性に激しく突き当たる(heurter)》教説、 人間の《惨めな正義の尺度に最も対立的》な教説は他にないばかりか、これほど《あり得 ないと思われ》《ひどく不正とさえ思われる》教説は、他にないことが再度強調される。 他の断章も主張する、《これらの神的な認識(divines connaissances)》[B.435]なし に《人間とは何か》[B.445]が言えようか、と。すなわち《すべてのなかで最も理解不 可能なこの神秘なしには》[B.434]、 人間は《おのれ自身のいかなる認識も持ち得ず》、《お のれ自身に対して不可解なまま》[B.434]となる。《この秘義なしには》人間は《この秘 義が人間にとって不可解である以上に不可解となる》と。つまり《人間の状態の結び目は その折り目と曲がり目をこの深淵のなかにもっている》[B.434]と。また、「人間性の不 可解さ」の解明は「原罪とその遺伝」説の他の何ものにも求められぬこと、その意味でこ の説はいかなる人間の知恵よりも賢い、と。 《原罪は人間の目には愚か(folie)である。(・・・)しかしこの愚かさは人間のすべての 知恵 (sagesse)よりも賢い。(・・・)なぜなら、これなしに「人間とは何か」が言えよ うか。人間の状態全体が知覚不可能なこの点に依存しているのである。いかにしてそれ は人間理性で気づかれようか。なぜなら、それは人間理性に反することであり、人間理 性はおのれのやり方でそれを案出するどころか、それが提出されるとそれから身を離し ていくのだから。》[B.445] 『パンセ』において、「 無辜の状態」や「原罪遺伝」に関する描写が「異常なほど簡素」41 である理由はたぶん他にもある。パスカルの以下の主張がそれを暗示する。人間にとって 《重要なこと》は何か。《アダムの栄光的状態、その罪の性質、その罪のわれわれのうちへ の遺伝》を《了解すること》に非ず。そこからの《脱出》[B.560]である。ならば、こ れらについて《知ることは無益》[B.560]というものである。むしろ《認識すべき重要 なこと》は、人間は《悲惨であり堕落し神から切り離されている》が、それにもかかわら ず《イエス・キリストによって贖われている》ということであり、また《それについての 見事な証拠の数々がこの地上にある》[B.560]というのである。 もちろん、アウグスティヌスの多くの著書にも同様の主張が見られる。曰く。「原罪」 による「魂と身体の汚れ」等に関して、われわれは正確なことは認識し得ない。しかし、 それはさほど重要のことではない。そのような認識は「救霊」には「無益」だからであ る。むしろ、われわれが考察すべきは、おのれの「腐敗からの脱出」を可能にする「恩寵」 についてである、と。42 キリストの犠牲の恩恵をわれわれに受けさせる「洗礼」によって、 われわれの《邪欲の罪過(concupiscentiae reatus)》は除去され、唯一残存するのは、われ われの《弱さ(infirmitas)》だけであるが、それこそが原罪における罰なのだ、と。43
「贖い主」による偉大への回帰 一方、 パスカルが『パンセ』において強調するのは、「原罪遺伝」の「神秘」と「イエス・ キリストの受肉」による「贖いの神秘」とが表裏一体の関係にあるということである。曰く、 《宇宙全体が人間に教えている》[B.560 bis]こと、それは人間が《堕落しているかまた は贖われている》ことである、言い換えれば、《万事が教えている》のは人間の《悲惨か または偉大》である、と。したがって、パスカルが「原罪遺伝」による人間の「堕落」と「悲 惨」を強調するのは、人間を「絶望」に落とすためではない。むしろ、人間がおのれの意 志で引き入れた「悲惨」が、イエス ・ キリストの受難によって贖われること、そしてそれ によって人間は本来の自分の位置—「 完全の段階」すなわち「偉大」—に帰還し得ること を説くためである。端的に言えば、パウロの教説—《しかし、恵みの賜物は罪とは比較に なりません。一人の罪によって多くの人が死ぬことになったとすれば、なおさら神の恵み とひとりの人イエス・キリストの恵みと賜物とは、多くの人に豊かに注がれるのです》[ロ マ、5・15]—の、パスカル独自の敷衍である。しかしパスカルはそれを神みずからに語 らせるのである。 《私が汝等に啓示するこの原理によって、汝等は、万人を動揺させ、かくもさまざまな 感情に分裂させたかくも多くの背反の原因を、理解し得るのだ。今や、かくも多くの悲 惨の試練でさえ窒息させ得ぬ偉大さと栄光の動き(mouvement)のすべてを観察すべ し。そしてその原因が、他の自然本性のうちに存在すべきでないか否かを考えてみるべ し。》[B.430] この神の言葉を受けてパスカルは宣言する、《キリスト教は正しい人々に、キリスト教 は彼らを神性そのものの分有にまで高めると教え》、同時に《最大の不信仰者たちにも、 彼らは贖い主の恩寵に与かり得ると呼びかける》[B.435]と。また別の断章で記す。《イ エス・キリストは人間につぎのことを教える以外なにもされなかった》[B.545]と。す なわち《人間は奴隷であり、盲人、病人、不幸、罪人である。しかし御自分(イエス・キ リスト)は人間を解放し、照明し、祝福し、かつ癒さねばならぬ》と。なぜなら、とパス カルは言う、《イエス・キリストの外には》《悪徳、悲惨、誤謬、暗黒、死、絶望》しかなく、《イ エス・キリストの内には》人間の《すべての徳とすべての至福がある》ということが明ら かである以上、 《イエス・キリストとともにある》人間は《悪徳と悲惨から免れる》[B.546] ことは確実だからである、と。つまり《受肉が人間に示すのは、人間が必要とした治療の 大きさによる人間の悲惨さである》[B.526]。したがって、「原罪遺伝」とその「贖い主」 という《神的な認識》がなければ、人間は《残存する過去の偉大さの内的感情》[B.435] によって《高慢になる(s'élever)》か、または《現在のおのれの弱さ》を見て《落胆する (s'abattre)》しかないということになる。実際、独断論者が「高慢」に陥り、懐疑論者が 「絶望」に堕した理由は、両者ともに「これらの神的な認識」が欠如していたためである。
理性の真の仕事 確かに、パスカルの目にも、人間の《背反性》は、最初は、《宗教》には説明不能であ るかに見えた。それは彼を《宗教から最も遠ざけるように思えた》[B.424]。しかし、実 情は逆であった。それが彼を《最も早く真の宗教に導いてくれた》のである。以下はパス カルの「信仰告白」である。 《私は告白する。キリスト教が、人間の本性は腐敗しており、神のもとから堕ちている というこの原理を啓示するや否や、それが私を開眼させ、至るところにこの真理の痕跡 (le caractère de cette vérité)を見るようにしてくれたことを。》[B.441]
人間理性には「原罪とその遺伝」は不可解であるとしても、これが人間の「背反性」を 説明し得る唯一の合理的「真理」である。 そのうえキリスト教はもう一つの神秘を用意す る。イエス・キリストの「受肉」と「受難」は、人間が等しく負うこの「背反性」から人 間を「脱出」させる唯一のものであるというそれである。両神秘はともに理性を凌駕する が「真理」である。ここから「理性」に関するパスカルの結論が導き出される。《理性(raison) の最後の一歩は、理性を凌駕する無数のものの存在を承認する(reconnaître)ことにある。 理性はこれを認識することまで至らねば虚弱なものでしかない》[B.267]と。パスカル は自由思想家にキリスト教に《理由なく(sans raison)従うことを要求しているのでは ない》[B.430]のである。 註
1. パ ス カ ル の『 パ ン セ 』 の 断 章 番 号 は、Pensées, Œuvers de Blaise Pascal, Hachette, Grands Écrivains de la France, ⅩⅣ, 1925(所謂、Brunschvicg 版)に従い、「B.」の記号を前に付し て示す。
2. この略語は《à Port-Royal(ポール・ロワイヤルにおいて)》を示すとされている。しかし《Apologie à Port-Royal(ポール ・ ロワイヤルでの護教論)》とも《Apologie pour la Religion(この宗教 のための護教論)》とも《Apologie: Prosopopée de la Religion(護教論 : この宗教の擬人法)》 などの略語と解することも不可能ではない:Cf. Pascal, Œuvres Complètes, éd. par Michel Guern, Gallimard, 2000(以下、Pascal, OCG、と略記),Ⅱ, p.1371, n.5 pour fr.139. 3. 《神の知恵》とは言うまでもなく「三位一体」の第二格の属性である;Cf. Saint-Cyran, Lettres
chrétiennes et spirituelles, t.I, L, cit. in Pascal, OCG, Ⅱ, p.1373, n.3 pour fr.139.
4. Entretien avec Monsieur de Sacy sur Épictète et Montaigne(以下、Entretien と略記), Pascal, Œuvres
Complètes(以下、 OC と略記), Ⅲ, DDB, 1991, pp.140-143.
5. Cf.拙論「懐疑主義とパスカル」『桜美林論集』31 号、 桜美林大学、2004 年。 6. Entretien, op.cit., pp.142 ~ 143.
7. 前掲のように、この叙述はデカルトの方法的懐疑を想起させるが、デカルトからの直接な影響 ではなく、モンテーニュの懐疑がデカルトとパスカルにそれぞれ継承されたとも考えられる。 Cf.V. Carraud, op.cit., p.97 & Descartes, Meditationes, Prima, ŒUVRES DE DESCARTES, J.
Vrin, 1973, VII, pp.17 ~ 23.
8. Cf.Entretien, op.cit., pp.90-91.これはまさにモンテーニュニに由来する観念である;Cf.Les
Essais de Montaigne, Ⅱ, XII, PUF, t.1, 1978, p.596:『モンテーニュ』I、筑摩書房、1987 年、 p.433:《我々の生を夢と対にした人々は、彼らが考えた以上に行き当たりばったりにではある が、なにかしかの道理があった。我々が夢を見ているときも、我々の魂は、目覚めているとき に劣らず、生きており、動いており、全機能を行使している。(・・・)我々は眠りつつ目覚めて おり目覚めつつ眠っている。(・・・) 我々の覚醒は別種の眠りなのではないか。》同様の思想はデ カルトの『第一省察』にも見られる :《しかしながら、私とて人間であって、夜は眠る習慣をもち、 そして睡眠中に[夢の中で](・・・)目覚めている時に夢想するのと同じことのすべてを、ある いはまた時折はそれよりいっそう真実らしかざることを夢想する習慣があるのではなかろうか (・・・)》(Descartes, Meditationes, Prima, ŒUVRES DE DESCARTES, J. Vrin, 1973, t.Ⅶ, p.19;『デ
カルト著作集 2』,白水社,1993, p.31;Cf. Pascal, OCG, Ⅱ, p.1353, n.3, pour fr.122. 9. Cf.拙論「懐疑主義とパスカル」op.,cit.,pp.29-32.
10. Cf.De L'esprit géométrique, Pascal, OC, III, DDB, p.397.
11. このパラグラフをデカルトの『方法序説』第4部(ŒUVRES DE DESCARTES, op.cit., t.VI, p.32 の以下の文に関連づけることも可能である:《「私は思惟する、ゆえに私は存在する」というこの 真理はかくも堅固でかくも確実であるので、懐疑論者等の最も常軌を逸した(extravagant)仮 定のすべてでさえそれを揺らがせることはできぬということに気づいたので、私はそれを受け入 れ得ると判断した》[Jeanne Russier, La Foi selon Pascal , PUF, 1949, p.48]。確かに《extravaguer (羽目を外す:常軌を逸した振る舞いをする)》という語による(par)《extravagant(羽目の外 れた:常軌を逸した)》という語の繰り返し(reprise)は、その直接的影響を表わしている- Cf. Pascal, OCG, Ⅱ, p.1355, n.3 pour fr.122.
12. この言葉に、「キリスト変容」の際の雲の中からの声—《これは私の愛する息子、彼に聞け (Écoutez-le)》(「マタイ」XVII,5)の影響を見ることも不可能ではない—Cf.Philippe Sellier,
Pascal et Saint Augustin, A.Colin, 1970, p.532, n.35.
13. P. シャロンにも同様の主張がある:《人間は当然のこととして、またなによりも、真理を認識す ることを欲する。しかも神を認識することはできぬし、神の業も、自然の秘密も、人間の魂の 原動力と運動も、彼の身体の密かで内的な諸部分の状態と配置も、認識できぬ》と:P.Charron,
Discours chrétien, I, p.2, cit. in Pascal, OCG,Ⅱ, p.1447, n.5, pour fr.380.しかしシャロンには、 人間は《真理》のみならず《幸福》をも希求するという言説はない。
14. この断章の記述順序には異説がある—Cf.Pascal, OCG, Ⅱ, p.1370, n.4 pour fr.139. 15. Cf.「 創世記」。
16. Écrits sur la grâce, Pascal, OCG, Ⅱ, p.287:『パスカル全集、Ⅱ』(以下、『全集』と略記)、 人文書院、 1967、pp.515 ~ 6; 言うまでもなく、これらの主張は完全にアウグスティヌス的である:《い かなる欠陥もなく方正に創造された最初の人間》(Augustinus, De correptione et gratia, Ⅹ, n.26,
ŒUVRES DE SAINT AUGUSTIN(以下 , ŒUVRES と略記)、 DDB, 1962, t.24, p.326:『アウグス ティヌス著作集、10』、1985(以下、『著作集』と略記)、 教文館、 p.132;《永遠に生きることを みずからの権能のうちにもっていた。(・・・)身体の健康において最高、霊魂の全き平静におい て最高であった。》(De civitate Dei, XIV, 26, ŒUVRES, op.cit., t.35, p.456);《悪しき邪欲》(De
peccatorum meritis et remissione, II, 22, N.36)も知らなかった—Cf. P. Sellier, op.cit.,p.243. 17. Éc. sur la grâce, Pascal, OCG, Ⅱ, pp.287 ~ 288:『全集、Ⅱ』、op,cit., pp.516 ~ 517. 18. Augustinus, De corr.et grat., Ⅺ, 29:ŒUVRES, op.cit., p.334:『著作集、10』、 op.cit., p.136. 19. Augustinus, op.cit., XI, 31, p.338:『著作集、10』、op.cit.,p.139.
20. Augustinus, op.cit., XI, 32, p.340:『著作集、10』、op.cit.,p.140。
21. Augustinus, De civ. Dei, XIV, 13,n.1 ~ 2: ŒUVRES, op.cit., t.35,p.410;『著作集、13』、
op.cit., p.246;Cf. P.Sellier, op.cit., p.249. 22. Cf.P. Sellier, op.cit., p.244.
24. Pascal, Lettre(au sujet de la mort de M.Pascal), Pascal, OCG, Ⅱ, p.21:『全集、Ⅰ』、
op.cit,p.282.
25. Éc. sur la grâce, Pascal, OCG, Ⅱ, p.288:『全集、Ⅱ』、op.cit,p.517.
26. Thomas Aquinas, Summa Theologiae, I, q.95, a.1, BAC, t.1,p.678:『神学大全、7』、創文社、 1984, p.108;Cf. Garrigou-Lagrange, La Synthèse Thomiste, DDB, 1946, p.307.
27. Cit. in Claude Tresmontant, Introduction à la théologie chrétienne, Seuil,1974, p.620 ~ p.621; Cf. Denzinger-Schönmetzer, ENCHIRIDION SYMBOLORUM DEFINITIONUM ET
DECLARATIONUM, Herder,1965, pp.366 ~ 367. 28. Cf.C. Tresmontant, op.cit.,p.574. 29. しかし、「創世記」のヘブライ語テクストにおいては、「アダム」は普通名詞である。複数では使用 されぬ集合名詞的であり、「人々」あるいは「人間全体」を意味する。したがって、ヘブライ語テ クストが語っているのは、「アダム」と呼ばれる「一人の」個人の「罪」についてではない—Cf. C. Tresmontant, op.cit.,p.567 & p.624.
30. Augustinus, De corr. et grat., Ⅵ, 9, ŒUVRES, op.cit.,p.284(『著作集、10』、 op.cit.,p.198); Contra Juliani responsionem, opus imperf.,Ⅱ, 191, ŒUVRES COMPLÈTES DE SAINT AUGUSTIN, Vivès, t.32, 1874, p.114;Contra Julianum, Ⅵ, 10, 28, ŒUVRES COMPLÈTES, op.cit.,t.31,p.402: 『著作集、30』、p.379;Cf. P. Sellier, op.cit., p.253, n.31.
31. Augustinus, Opus imperf., Ⅱ, 197, ŒUVRES COMPLÈTES, op.cit., t.32, p.116. 32. Cf.P.Sellier, op.cit.,pp.252 ~ 253.
33. Cf.ibid.
34. Augustinus, Contra Jul., Ⅲ, 12, n.24, ŒUVRES COMPLÈTES, op.cit.,t.31, p.227:『著作集、30』、 p.144;Cf.P. Sellier, op.cit.,p.253, n.33.
35. Thomas Aquinas, Summa Theologiae, Ia, IIae, q.LXXXI, a.3, BAC, t. Ⅱ, p.533:『神学大全、
12』、op.cit., p.243.
36. Cit. in Claude Tresmontant, op.cit., pp.621 ~ p.622;Cf. Denzinger-Schönmetzer, op.cit., p.367.
37. Cit. in op.cit.,p.625;Cf. Denzinger-Schönmetzer, op.cit.
38. Éc.sur la grâce, Pascal, OC, Gallimard, Ⅱ, pp.288 ~ 289;『全集、Ⅱ』, op.cit, p.517.
39. Comparaison des chrétiens des premiers temps avec ceux d’aujourd’hui, Pascal, OC, Gallimard, Ⅱ, p.105:『全集、Ⅰ』op.cit, p.96;(傍点引用者)。
40. Pascal, Lettre, op.cit., Pascal, OCG, Ⅱ, p.19;『全集、 I』, op.cit, p.280. 41. Cf. P. Sellier, op.cit, p.243.
42. Cf. Augustinus, Contra Jul., V, 4, n.17, ŒUVRES COMPLÈTES, op.cit.,t.31,p.340:『 著 作 集、 30』、 p.294;Cf. P. Sellier, op.cit., p.253, n.35.
43. Cf. Augustinus, Retractiones, I, 15, n.2:ŒUVRES, op.cit., t.12, p.364;P. Sellier, op.cit., p.253, n.36.