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久 保 田

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(1)

19

︵一︶はじめに

ドイツ・ロマン主義とアイヒェンドルフロ魚滞gぐ8

国行言邑目電弓91旨弓︶との間に漂う相互牽引力の本

質として四号曾邑国呂園が︑二つの相反する要素を掲

げていることは︑前稿において︑すでに指摘したところ

︵も①︾である︒それは︑一つは︑ドイツ︑後期バロックの最後

の束縛された文化であり︑他の一つは︑あらゆる文化と

絶対的に対立する自然の原紫的な力である︒これらの要

索が︑γイヒェンドルフをして︑ロマン主義の潮流に引

き込み︑一方で彼のうちに︑独自のロマン主義を発芽・

成長させたのである︒詞・罵冒は︑この二要素を︑アイ

ヒェンドルフにおける﹁根源︵ご耐ロ昌畠︶﹂と﹁素姓

アイヒェンドルフの文学における庭園

l空間体験の杼情的結晶I

色帝︻冒匙c﹂の諸力に帰属せしめることによって︑彼

の文学を︑自然の童話的世界と︑庭園及び城というバロ

ック的形象世界との交換作用のうちにとらえている︒

ところで︑彼がバロック的文化の遺産的形象として︑

アイヒェンドルフの文学にみている庭園や城︑とりわけ

庭園のもつ文学的価値は︑バロック的世界︑ないしは中

世的世界への澗行的契機のモチーフとしてばかりではな

く︑さらには︑無論︑この時人の擬古的趣好の段階にと

どまる問題としてではなく︑詩的愉簸における空間性の

本質にかかわる問題として評価されなければならないだ

ろう︒なぜなら︑庭園は︑アイヒェンドルフの空間体験

の方法とその詩的世界への還元が︑凝縮的に集約されて

久保田

(2)

20

いる典型的な象徴的形象に他ならないからである︒

庭園は︑彼の散文中では︑一つの不可思議な磁力をも

った舞台として︑その各々の登場人物をひきつけてい

る︒拝悩時においては︑散文的な溶体性を失って︑庭園

が新たな次元空間を形成する︒しかも︑いずれの場合も︑

自然の節止的悩溌の客観的・精密画的映像のうちに︑と

らえられているのではなく︑その現象の仕方には︑かな

りの幻想的要素が加えられている︒つまり︑庭園は︑周

囲と独立的に︑無関係に︑単なる舞台装置︵寓昌房総︶

の一つとして存在するのではなく︑常に諸関係を暗示す

る存在形式を自律的に内含するものとして︑作品の中に

入りこんでいる︒さらに言うならば︑そこには︑時間性

との︑人間の心的部分との︑なかんずく︑空間性との関

係が浮遊する磁力として生ずることなしに︑作品の中に

あらわれてくることはないのである︒

Ⅲ柵においては︑Az呂冨豐冨nVということを問

題にして︑アイヒェンドルフのいわゆる八島①閏ョ⑦

︵守口︾鴨冒且g⑦z鼻昌Vの蘇生と救済を︑時間的側面から究

明したが︑それは・屑冒の言葉をまつまでもなく︑自 然の原素的な力と埋れた文化的遺産との間の混融した魔力に支配された自然の声に他ならなかった︒庭園はまさしく︑そうした声に満たされた夜の側面をもっている︒前稿においては︑庭閲を含む自然を︑垂直的方向に切断し︑その内部をうかがうことに終始したが︑この小瞼では︑庭剛を空間の水平的ひろがりにおいてとらえ︑その意味を考察することにしたい︒

︵二︶開かれた庭園

﹃ぼくの小さい頃の記憶は︑それを辿ってゆく

と︑ある大きな美しい庭園の中に入りこんでし

まうのです︒真直に刈り込まれた樹木の壁から

なる商く︑長い通路が大きな花壇の間を縦横に

はしり︑ところどころには噴水がさびしげに音

をたて︑盤は高くその薄賠い通路の上方にとん

でいる︒その噴水のかたわらに︑年が少しよけ

いの美しい少女がすわって︑異国の歌をうたっ

ており︑ぼくはその間︑たびたび幾時間でも︑

通りへ通じる庭園の門の鉄柵に身をよせて︑外

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界で︑太陽の光が森や草原の上にとびかい︑馬

車や馬に乗った人や徒歩の通行人たちが︑その

門のそばを通りすぎて︑きらきらと輝く遠方へ

むかってゆくのを眺めているのだ︒この静かな

時のすべてが︑それ以後にすごしてきた無数の

日々の背後に︑まるで︑ひどく古く︑悲しみを漂

わす甘味な歌のように︑遠いかなたによこたわ

っているのだ︒その歌のわずかな群きでも︑ぼ

くの心に再び触れることがあれば︑ぼくはたち

まちえもいわれぬ郷愁にとらわれるのです︒そ

の郷愁はただあの庭園や山々に対するだけのも

のではなく︑はるかに遠く︑深い故郷への郷愁

であるのです︒その故郷に対しては︑あの庭剛

も山々も︑一つの愛らしい写し絵にすぎないよ

うにおもわれます︒ああ︑何故ぼくらは︑あの

泄界の無垢な観察と不思議な恢慨︑あの神秘的

な言うに言われぬ自然の卸きを失わなければな

らないのでしょう︒今では︑時々夢の中だけで︑

未知の不思議な場所にめぐりあうだけしかな この庭園描写は︑小説﹁予感と現在︵鈩言匡畠巨且

の偶g乏胃s﹄︵冨勗︶の中で︑レオンティン伯爵の城

において︑この小説の中心的人物フリードリッヒが︑城

主の妹であり︑ここに至る旅の途上で出会った女性ロー

ザに自分の生いたちを追憧的に語るところにあらわれて

いる︒

追憶的に語るという方向が示すように︑ここでは︑確

かに過去への湖行という時間的座標軸のうちにたどり

ついた空間形象として庭園が描写されている︒そこに

は︑フリードリッヒにとって﹁世界の無垢な観察﹂︑﹁不

思鍍な恢慨﹂と﹁自然の神秘的な仰き﹂とが失なわれず

︵■勺︶にあった時代︑いわば︑古き美しき時代の象徴としての

庭閲がある︒さらには一顧のパラダイス願望の凝縮した

形象と︑体験との甘味な融合が庭園形象の中に漂ってい

ることも否定できない︒庭園という言葉で︑時間的表象

があらわされているのは︑アイヒェンドルフの象徴の類

型的語桑の枠外にあるように思われる︒なぜなら彼は時 ︽句争︶

い◎﹂

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ここに描写された庭園は︑現実の庭園ではない︒追憶

の中に表象された庭園である︒そして︑たしかに︑追憾

が時間的湖行という経過によって︑古き美しき時代の形

象としての庭園に至っていることをうかがい知ることが

できる︒しかし︑庭園の意味は単に時間的に過去の蓄積

的形象としてばかり機能しているのであろうか︒そこで 間の象徴的な表現を好んで流動的形象︑例えば泉とか河とかの形象によってあらわすからである︒しかし︑この一見した象徴の不適合性は︑庭園という不動性ゆえに別種の時間象徴を理解させる︒時間的過去は漠然としたひろがりとして︑限定しがたい現在の背後に横たわっているのであり︑それが追憶という形式でとらえられて蘇える時には︑形象的に変貌してしか︑人間の内部にうかびあがってこない︒流動的形象が時の流れを象徴すると同橡に︑固定的・不動的形象は過去のひろがりを内合する蓄概された時間の全貌を象徴する︒これは︑アイヒェンドルフの湖水や池にみられる満々と水を湛えた節水形象

︽且草︶においてやその典型をうかがい知ることができる︒ 問題となるのは︑何故庭園がフリードリッヒの追憶の中心でありうるのか︑という点である︒さらに︑縄じて︑アイヒェンドルフにおける庭園の意味についての問題で↑︵︾霊︵︾Q

追憶の中心を形成するということは︑何等かの意味

で︑その追憾する人間の自己形成に大きな亜要な影響を

及ぼしているということに他ならない︒ローザに語るそ

の時のフリードリッヒの存在を規定しているものと追憾

の中心的形象としての庭園は︑それ故に極めて亜要な結

ばれ方を示しているにちがいない︒フリードリッヒの存

在を規定するものは︑例えば︑急激に燃えあがりつつあ

るローザとの恋愛であるかもしれないし︑自由な糟神を

術に求めようとする城主レオンティンやその城に寄寓す

る詩人ファーパーとの人間関係であるかもしれない︒し

かし︑フリードリッヒの存在を根本から規定しているも

のは︑現実的な世界での諸々の関係ではない︒それは存

在そのものを規定しているという意味で︑彼が﹁旅する

人﹂であり︑﹁遍歴の途上にある﹂ということにある︒

旅の途上で彼をとりまく諸々の関係は︑彼の存在にとつ

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アイヒェンドルフの文学は︑それ故に旅という根本

的主題によって貫ぬかれているといえるが︑多くの散

文・杼情詩にあらわれてくるそうした旅をする人物︑ア

イヒェンドルフ的な意味で詩人的な旅をする人物や人間

像の一つの典型として︑ここにフリードリッヒが登場し

ているのである︒従って︑まず彼の﹁旅の途上にある﹂

という根本的な存在規定と彼の追憶との結びつきを考え

ていかなくてはならない︒なぜなら︑すでにのべたよう てこ次的であり︑装飾的でさえある︒旅と人間との結びつきを︑アイヒェンドルフが︑単に中世的吟遊詩人の残微として︑あるいは過去への甘い感傷として考えているのではないことは︑同じ小晩の中で時人ファパーの口をかりて言っている次の言葉でもあきらかである︒

﹃旅というものは人生と似ています︒たいてい

の人々の人生は︑パター市場からチーズ市場へ

の不断の商用旅行ですが︑詩的な人間の人生は︑

それに対して天国にむかう自由で際限のない旅

︵侭︾︶

なのです︒﹄

に︑現在の存在を根本的に規定するものに︑姫も強く影

稗を及ぼしているものが︑追惚の中心的形象lll庭園と

なりえているはずであるから︒そしてその洞察によって

はじめてアイヒェンドルフにおける庭閲の意味を空間的

なひろがりの視点でとらえうることができると筒えょ

兵Jo

鹸初に引用したフリードリッヒの迫惚の簡所は︑旅と

いうものの始まりを理解するのに極めて教示的である︒

﹃通りへ通じる庭園の門の鉄柵に身をよせて︑外界で︑

大腸の光が森や草原の上をとびかい︑馬車や馬に采った

人や徒歩の通行人たちが︑その門のそばを通りすぎて︑

へ毎f︾きらきらと輝く遠方へむかってゆくのを眺めて﹄いた

﹁私﹂が︑今やその鉄柵に囲まれた世界を逆方向から︑

つまりは未来にむかっているものを過去にむかって︑外

界にむかっているものを内部へむかって回顧しているの

である︒かっては鉄柵がへだてていたものが︑今や過ぎ

去った日々の目に見えぬ柵によってへだてられている︒

そして︑その隔絶の柵をわずかに浸透して入りこんでゆ

く追憶が現在の﹁私﹂を救うように︑かっての﹁私﹂

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﹃真直に刈り込まれた樹木の壁﹄や﹃花壇︵国盲目昌亙︲

烏己﹄や﹃噴水︵弓勝器具目黒こさらには境界を形成

する鉄の柵はそのことを如実にものがたっている︒それ

︵○ウ︶故に︑前稿で試みたように︑アイヒェンドルフの憎最

を室内︲l土戸外︑という空間的緊張関係でとらえるなら

ば︑これらの人工的な変化が加えられている庭園は庇護

された内部空間をもつがゆえに︑その包括的機能におい

て故郷的なもの︑安全さにおいて定住的頒域に帰属する

もの︑さらには市民的生活の場としての町と家とに密接

に結びついたものであることはうたがいのないところで

ある︒つまり︑フリードリッヒの庭園には楽園的イメェ

ジと同時に︑旅人にとって故郷的な家と同様︑市民的な

安定と定住地的イメエジが重なりあっているのである︒

そこで︑旅という概念︑アイヒェンドルフ文学を一貫

して流れている根本主題を中心として考えるならば︑そ

の後者の意味においていわば遠方世界︵烈日巴と対極

をなす一方の極点として庭閲をとらえる必要がある︒し

かも︑フリードリッヒの庭園において注目すべきこと

は︑それが砿かに市民的生活の定住地的要素を多分に もつものであるにもかかわらず︑そこには外界への視界︑遠方への眺望を完全に遮断するものがないという点である︒それは︑例えば︑同じく﹃予娘と現在﹄の中で︑次のように描かれている庭園と類似した特色である︒

このようなパノラマ的眺望ではないにしるフリードリ

ッヒの庭園は鉄の柵でかこまれているものの︑外界にと

びかう太陽の光と︑往来する人々の動きと卸きにゆれう

ごく違方を︑その内部にいる﹁私﹂から遮断してはいな

い︒その庭聞には家屋の一部としての秩序だった整備さ

れた室内的性絡がありながら︑測り知れない動きに充ち ﹃朝になると︑あたりの魅惑的な輝きが︑窓から射し込んで来た︒彼等は庭園にいそいで駆けおり︑そこで情農の美しさに少なからず感嘆した︒庭園そのものがつらなる丘陵の上にあって︑まるで緑なす土地に被された新鮮な花の冠のようであった︒庭園のどこからでも︑パノラマのように四方にひろがっている土地へはれやかな

︵叩︶眺望がひらけていた︒﹄

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た外界との接触の可能性がある︒助きに充ちた外界と静

止的な庭園内との見馴な対比がフリードリッヒの言莱に

よってもうかがい知ることができるが︑そうした動的な

ものが︑生命力豊かなリズムとして外界を支配している

動的なものが静止的なものを揺りうごかさずにはおかな

い︒ここに外部からの動きへの勝い︑旅への誘惑が起こ

る︒なぜなら︑アイヒェンドルフにおける旅のはじまり

は︑常に外界からの︑遠方世界からのよびかけに対する

人間の内部からの返答をその発端とするからである︒

﹃楽しげにゆらめく朝の光が庭園を越えてぼく

の胸に輝いた︒ぼくは樹の上に起きて︑久しぶ

りに初めてもう一度遠い土地を眺めた⁝⁝どう

したものか︑その時急に以伽の旅への欲望︑つ

まり︑あらゆる昔の悲しみと歓びと大きな期待

とがぼくをとらえた︒同時に︑今頃︑あの美し

い女は上の館で花と絹のふとんにつつまれて眠

っているだろう︑そして天使が朝の静寂の中で︑

彼女のそばにいることだろう︑と思ったがI ここでもう一度︑フリードリッヒの庭園にもどって︑

その意味するところをまとめてみよう︒すでに指摘した

ようにその庭園には楽園的要索と庇謹空間的要素があっ このように︑遠方への眺望は︑多くの場合︑光や音響の多様な交錯やそれによって暗示される野性的な自然のリズムを静止的︑庇縦的空間へ侵入させ︑その内に生活する者に︑遠方世界への抗しがたい衝助を起こさせる︒その衝動は微温湯的な市民的幸福によっては︑鎮めることはできない︒憧慨はあらゆる束縛からの解放と夢の領域への到達以外には癒しがたいものであるが故に︑幼年的庇謹空間にあるものは︑その楽園的充足の状態から︑そして︑定住地的空間にあるものは︑その市民的・微温渦的充足の状態から常に離脱を繰り返さなければならない︒停滞と満足は詩人的な旅においては︑結局は許されないものである︒ ﹁いやいや﹂とぼくぱ叫んだ︑﹁ぼくはここから出ていかなければならない︒青い空がつづく

︵伽︶かぎり︑どこまでも︑どこまでも!﹂﹄

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たが︑それを牧歌的自然との類似と人工的室内空間との

類似として言いかえることもできる︒フリードリッヒの

庭園が一見牧歌的楽園的様相を呈していることで明らか

なように︑庭園はそれが人工的な造形美をあらわしてい

るにもかかわらず︑すでにそこには︑たとえ純粋ではな

いにしる外界的自然の一部としての性質が現われてい

る︒このことは︑これまで︑主に庭園を故郷的なもの︑

市民的定住生活の総体的倣域の一部としてとらえてきた

だけに︑特に注意すべき点である︒なぜなら︑空間的な

ひろがりにおいて庭園を考えるならば︑庭園が外界と室

内的庇護空間との境界であるということは諭耽に庭園が

後者の一部として外界に接しているだけではなく︑外界

からみれば︑庭園は前者の一部として︑室内的庇護空間

にせ堂っているからである︒遠方への眺望という点で

は︑アイヒェンドルフの文学の至る所にあらわれる﹁開

︽吃︶かれた窓﹂の機能も同じであるが︑こうした﹁開かれた

庭園﹂のもつ重複した性質において多いに異なると言え

よう︒畢寛︑窓は室内的空間を形成するものの一部でし

かない︒庭閣はその符後に自由なる世界及び自然的・動 的な空間を持っているのに対して︑窓はその背後に不自

︵ぬ︾由なる世界及び人工的・肺的な空間を持っている︒それ

故に窓と庭園がそれぞれが帰属する二つの世界の接点と

して対峠する時︑その間をゆきかう外部からのよびかけ

と内部の衝動的な旅立ちの反応が一価硫実なものにな

る︒窓辺にたたずみ︑庭園の方から聞こえてくる音響に

耳をすます情紫はアイヒェンドルフの股も美しい︑同時

に鮫も意味深い悩漿の一つであろう︒なぜなら︑そこで

は本質的に異質の世界に属するものが︑それらの世界の

前衛として対峠し︑しかも遠方への眺望を可能にし︑憧

恨を生ぜせしめるという通路的機能において共同的な働

きをするからである︒遠方世界は術に光と青響によっ

て︑その通路に侵入してくる︒

﹃窓は庭園にむかっていた︒庭園越しに広い谷

へと神秘的な眺型がひらけていた︒谷は静かな

夜の暗いひろがりとなって彼等の前に横たわっ

ていた︒少しばかり遠いところには︑川が流れ

ているらしかった︒小夜啼鳥の声が谷の至ると

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これは小税﹃詩人連とその仲間︵ロ宥言の﹃臣且︺言の

︵巌世行︒︶﹄︵旨麓︶の中から︑ローマの庭園場面を抜莱し

たものである︒ここに登場するオットーは︑いわば﹁常

に詩的な酩酊状態にあって︑ついにはそうした歓楽の後

︵咽︾悔をあじあわれぱならない﹂人物で︑いわば︑アイヒェ

ンドルフの描く詩人像の中では︑敗残者的詩人の一群に

共通する錯誤と幻想と自己享受の陶酔にひたりやすい性

格の一つの典型であると言えよう︒彼はイタリアへの

旅︑ローマへの到述によって︑窓辺から眺めあこがれた

遠方世界を現実の地において狸得したと思いこんでい 多彩な蝋がきらめきながら︑上ラヒラと出入りしている︑あけはなたれた窓やドア︑そうした全てのものが︑南国の家の独特な姿を示していた︒オットーは連れをすぐさまその家を通り抜けてその背後にある人気ない小さな庭胤へ連れて行った︒そこは周囲を隣近の庭圃でかこまれていて︑四方から咲き乱れる花が垂れ下がっているため︑どの方向の眺望も全くとざされてい

︵︶

た︒﹄

る︒イタリアは︑とりわけローマは彼にとってあらゆる

︽Ⅷ︶希塑と詩人の夢を実現する約束の地なのであるから︒さ

らに︑そうした夢と願望の実現の仮身のようにあらわれ

る美少女アニディの存在は︑彼にまさしく旅の終局に到

達したことを硴信させずにはおかない︒オットーにとっ

て︑かっての遠方は今まさに自分の足元にあり︑此所と

遠方世界の緊迫した対極はローマの咲き乱れる花に埋れ

た庭園の中で止揚されたのである︒彼には︑それ以上の

旅は考えられない︒ここで彼をむかえるはずのものが現

に彼の周囲を取りかこんでいる︒時悩の華麗な化身と見

紛うばかりの少女アニディ︒そして至福な静寂が支配す

る市民的幸福の場︒それらの美的な庇護的な状況へのオ

ットーの盲目的な陶酔ぶりを象徴的に表現しているのが

まさにこの眺望のまったく塞がれた庭園といえよう︒

冒頭に引用した︑あのフリードリッヒの庭園にみられ

た一見楽園的状況を呈しながら︑庇護と微温湯的抱擁の

うちに静止と停滞とを促がす室内的空間のもつ求心力の

支配が︑このオットーの庭園では︑全体をおおいつくし

ている︒フリードリッヒの庭園は開かれており︑オット

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Iの庭園は閉じられている︒さらに前者の庭園はフリー

ドリッヒにとっては︑故郷的なもの︑無垢と美が防愉さ

れて内在する母胎的なもののいっさいの形象として彼の

追憶の中心をなしているのに対して︑オットーの庭園は

現実の庭園として彼自身を包囲している︒フリードリッ

ヒが彼の心のうちにつつみこんでいるものが︑ここで

は︑オットーを現実世界としてつつみこんでいる︒人間

を中心にしてみる時にうかがい知ることのできるこの

罠ョ母己照琶l屋目苛眉g協旨の関係を︑庭剛を中心にし

てとらえて直してみる時︑そこにはじめてオットーの庭

園のもつ求心力的な魔力が姿をあらわしてくる︒それは︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑追惚としていだかれている庭圃と現実としていだいてい

︑︑︑

る庭園の関係であって︑この後者の庭園の能動性にこ

そ︑外界への眺望が拒絶されている庭園の本質的な力が

暗示されている︒オットーをこの庭園に呪縛する魔力の

本体は瀞止と停滞とを促がす求心的な力にあり︑それは

遠方世界への髄慣を駆立て︑常に動きを促がすうリード

リッヒの庭園のもつ遠心的な力とは全く対立する力であ

る︒それは︑自己陶酔的な詩人にとって︑あらがいがた く誘惑的な力であり︑総じてアイヒエンドルフにおける人間存在の根本的形姿としての旅人一般にとっても︑この上なく危険な魔力なのだ︒なぜなら︑そこには︑無限的な過程でしかありえない旅の11故郷と遠方との間の無限のひろがりの中での人間存在の意味の流転きわまりない追求でしかありえない旅のl途上における有限性の甘味な誘惑が潜むからである︒永遠に辿らねばならない遠方世界への旅の途上で︑甘味な空間体験が︑いいかえれば︑有限的傾城での錯覚的な無限到達の陶酔が魔力的な誘惑とならぬはずはない︒オットーの庭園の極彩色に飾りたてられた楽園的情景はこのことを雄弁に物語ってくれる︒花で埋れた庭園︑美少女アニディ︑それらは楽園的安住地と女性の定着性を︑そのこぼれるばかりの美しさによって表象しているが︑この内側からの牽引力を︑さらに強めているのは︑外側からの牽引力を拒絶する眺望のきかない状況である︒ここに﹁閉じられた庭園﹂の決定的な機能がある︒つまり︑求心的磁場の強化と遠心的牽引力の拒絶である︒

憧悩をいだくものはまた︑その憧慣的世界に到連した

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自己を夢みる︒従って︑アイヒェンドルフの作品には一

時的であれ︑永続的であれ︑こうした魔力の誘いをうけ

ぬものはあらわれない︒各登場人物が︑何等かの形式で

これとかかわりをもつ︒それ故その魔的な誘いの場は︑

アイヒェンドルフにとって詩人的気質の旅人をさらに選

別する場としての意味がある︒遠方への憧恨を常にも

ち︑停滞から自己防御するに十分な醒めた認識力をも

ち︑しかも遠方世界との永続的なつながりの中で︑自己

をとらえることのできる人間を典の詩人というなら︑オ

ットーのごとき詩人は︑詩的に酩酊することによって幻

想的錯綜のうちに遠方への志向を失い︑有限的空間への

呪縛から︑詩人的生命に終止符を打ち︑錯覚的な至福状

態の中に自己を見失ってしまう自己陶酔的な詩人といえ

よう︒この対比は︑オットーと︑その連れとして庭園に

入ったフォルトナートとの間にはっきりとした人物形姿

としてあらわれている︒フォルトナートには故郷を唾棄

しローマの花乱れ咲く庭園に美少女アニディとの陶酔状

況にあるオットーの姿が︑ただ異国にあって﹁亜話的に

呪縛されて﹂いるとしかみえず︑その姿は︑月光に蒼白 ︵釦︾な顔をうきあがらす死人のそれとしかうつらない︒オットーはとらわれ︑フォルトナートはこの魔力的な磁場を脱出したのである︒

︵四︶庭園における空間体験の謡情的結晶

これまで︑アイヒェンドルフの散文作品の中から︑典

型的ともいうべき二つの庭園をとり扱ってきた︒そして

そのいずれの場合も︑空間の水平的なひろがりの中で︑

いわゆる通方世界a厨恩g巴との結びつきが維持さ

れているか︑否かはともかくとして︑常に﹁旅﹂という

アイヒェンドルフの根本的な文学主題に視点をおいて︑

その意味を考えてきた︒そこで次に杼情詩において︑そ

の本領を発揮していると評価される彼が︑こうした庭園

における空間体験をいかに杼情詩の世界に結晶化したか

をみることにする︒

無論︑その際に拝悩詩においては睡園そのものが客体

として描写され︑詩の悩蛾の中に具象的・棋写的に再現

するものではないことは当然である︒杼悩詩において表

現されるのは︑幼年フリードリッヒの胸に生じ︑ローマ

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従って杼憎詩にあっては︑そこで表現されるものは︑

庭園における空間体験そのものであって︑その外形的な

美が愉緒豊かな言葉によって再現されるものではない︒

杼悩時の本質はこうした空間体験そのものの表現によっ

て︑人間の内部と密接に結びつき︑その表現は術に個性

的なものにたちむかって行なわれる︒人間の心をとらえ

た悩緒はその個人の内部に容体的世界の限界を逸脱して の庭園でオットーの胸から消失した感情︑つ室り遠方への憧慣そのものに他ならない︒このことに関して︑そもそも文学一般が﹃現在や現実の単なる描写や模倣では

︽鈍︶な﹄かつたアイヒエンドルフの次の言葉が深い意味をも

つ︒﹃杼悩詩は︑あらゆる文学の中で最も主観的なもの

であって︑それは叙率詩のように生起した行為や戯曲の

ように生起する行為を問題にするのではなく︑その両者

の本質的な︑より深い韮盤︑つまりは内なる人間a寓

目弓制冨目胃ごとつながりをもつものである︒杼憎詩

は傭調含汚の二目ョ目輌︶と関係しているのであって︑

この情調の外的表示食尉営汗厨冒昌蓋脇冨二目︶と関

︽艶︶係するのではない︒﹄ 無限的なひろがりとなる︒しかもそれが不可視的なものであるかぎり︑杼情詩は︑その無限なるもの︑永遠なるものの表現のためには︑感覚的形象をその媒介として︑

︽詞︶象徴的な表現にならざるをえない︒﹁開かれた庭園﹂に

おいて﹁私﹂をとらえた遠方への憧恨的志向は︑﹁開か

れた窓﹂における此所と遠方とを結ぶ一菰の緊張関係と

同質のものであることは︑すでに指摘したところであ

る︒そこで︑庭圃での空間体験を︑遠方への恢恨と旅へ

の誘いという点で築約する時に︑この不可視的な感憎の

静止的状況から動的状況への変貌は︑そしてまた此所

含勝里曾︶と遠方世界含厨胃昌sとの緊張関係は

どのように表現されるのであろうか︒

のの昏弓ゆ匡○言拝

同切切呂庸弓28蝿具号冒昌のの篇目︑

鈩目蜀而易篇﹃言言⑦旨協ョの冨邑・

己冒旦彦野篇煙匡切乏里討﹃両曾冒の

同旨弔○異宣︒﹃ヨョヨ巽三①邑F画旦︒

ロ囲い出雨愚ヨ弓一ヨFのぎの二号3冒昌⑪

ロ画一園ウ旨コョ胃壷色目一言ぎぬ8画a言軸

(15)

Ach,werdamisreisenk6nnteInderprachtigenSommernacht!ZweijungeGesellengingenVorii"rammrgeshang,Ichh6rteimWandernsiesingenDiestilleGegendenUang2VonschwUndelndenFelsenschlUften,WodieWalderraus"whensosacht,VonQueUen,dievondenKlilftenSichstUrzenindieWaldesnacht.SiesangenvonMarmorbildern,VOnGarten,dieil"nnGesteinIn"mmerndenLau"nverwildem,PalastenimMondenschein,WodieMadchenammnsterlauschen,WannderLautenKlangerWachtUnddieBrunnenverschlafenrauschen

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(16)

34

この詩において︑具体的な形象により可視的な惜最を

構成するものが︑わずか二つの形象でしかないこと︑つ

まり蛍金色の出と窓辺に立つ﹁私﹂以外にないことは︑

この詩の表現するものを如実に示している︒この詩にあ

らわれる悩景は︑第一詩節の峨初の二行に描写される情

蛾を除いて︑全て英然とした輪郭しかもちえない︒否︑

むしろそこにあらわれてくる諸悩設は全て現実の憎景た

る基猛をもち得ないでいる︒なぜなら︑それらの情景は

すべて吉泌的なものに移行した形でしか笠期していない

からであり︑音響的なものは︑常に不可視的世界にうご

めくしかないからである︒ 彼等は歌っていた︑大理石像のことを︑巌も暗く葉におおわれたあれた庭園のことを︑すばらしい夏の夜にラウテが瀞き噴水がねむそうに音たてる時︑少女が窓辺で耳すます月夜に映える宮殿のこと︒ では︑そうした情景とはまったく異質の部分︑つまり

具象的な二つの形象によって柵成されている卵一持節の

股初の二行にあらわれる傭景にはどのような詩的な意味

の可能性が潜んでいるのだろうか︒それは︑要するに︑

この二行によって突如として眼川に開示する詩的空間へ

の導入部であり︑詩的空間内にとらえられた空間的次元

の拡大の基点である︒言いかえれば︑これまでみてきた

散文作品において描写されたあの庭個︑もしくは窓l

遠方世界︑の空間的なひろがりが︑ここではわずか二個

の形象の並磑によって︑突如としてて実現しているので

ある︒この急激な膨弧はひとつには詩的悩趾の中でのペ

ルスペクテヴィシュな眺望の実現であるとともに︑この

詩的情裁そのものへの眺望を意味するものである︒﹃受

けとめられた感惜を解説するのでもなく︑熟視するので

もなく︑描写的に装飾をほどこすのでもなく︑そうした

感悩を受け取った時のように︑飛蝿的に︑すばやく︑要

するに移り目もなく突如として迅速に︑おもいもかけな

いところに︑極めてすばらしい眺望を開かせる直接性と

︵褐︾外見的な龍とまりのなさ﹄という民謡の特質が︑まきに

(17)

35

ここに突如として開示した空間的なひろがりは︑時の

情景の中で﹁私﹂の眼前に膨張的な拡大現象としてあら

われる︒拡大を促がすのは哨々の動き︑特に音轡によっ

︵卸︶てのみ表現される可視的実体を伴わない動きである︒そ

れはまず︑第一詩節第一行であらわされる広大な空間と

第二行の﹁私﹂との関係が︑たんに赫止的な並存関係で

あるのではなく︑相互に引きあう緊迫した関係にあるか もない自明のことである︒ この時の岐初の二行においてあらわれているとみることができる︒それはこの二行にうかがわれる民謡的な状況や親しみ深い伝統的な形象からのみ言われるのではなく︑無限の宇宙空間の暗示的形象としての星と狭い室内的空間lこれは︑遠方世界との対極として庭園についても言えることであったがlの中にとらわれている﹁私﹂との隔りが︑この最初の二行の何気ない並置の中にきわめて亜要な詩的空間の拡大という機能を担って入

︵妬︶りこんでいるからである︒この一見異質の世界をつなぎ

とめているのが︑﹁開かれた庭園﹂及び﹁開かれた窓﹂

の通路としての機能であることは︑繰り返して言う必要

第二詩節において︑空間はさらに拡大してゆくが︑そ

の際にも︑脊響的世界に変貌してあらわれる動きによっ

て促進される点では第一詩節と同じである︒しかし︑そ

こにあらわれる森がざわめき目まいのするほどの﹁岩の

狭間﹂や﹁岩の割れ目から森の夜にくだけおちる泉﹂ を鮮かに表現している第一時節卵三行以下の部分にあらわれている︒はるか遠くから響いた馬車の劇叺の一声︑この一声によって﹁私﹂と遠方とを結ぶ緊迫した関係はもはや否定しがたいまでに高じ︑にわかに激しく揺れ動く︒その遠方での音響に象徴的にあらわされる緊狼関係の一端の振助にあたかも共鳴するかのように︑さらに高次の均衡的緊張の形成にたち至るかのように︑﹁私﹂の心は燃えたつ︒﹁私﹂の心は遠方からのよびかけに応じたのであり︑ことに﹁恢恨﹂の原型がある︒﹁私﹂の心の中で︑まるで肺かな野に響く剛叺のように一つの願凱

が響く︒

﹂〆︑夛勺昇署の門口騨胃ヨ芹﹃①厨の雪云幸ヨご︽の

胃弓且①門口﹃睦○壷昼頒の包叩g弓富ゴ①﹃己幽︑写︹一︵羽︶

(18)

36

は︑一見︑二人の若者たちがゆく山腹の情溌のようであ

るが︑それは決して﹁私﹂の眼伽にひろがる傭擬でもな

く︑若者がそこを通過してゆく現実の傭景でもない︒そ

れらはすべて音響的世界に凝縮される情跣であって︑歌

にうたわれている悩景にすぎない︒それらは︑第一時節

において副叺の音と﹁私﹂の心の同調的握勤によって高

じた﹁私﹂と遠方世界とを結ぶ緊迫した均衡関係におい

て歌うことa勝︑旨鴇己がひきおこした新たな振動に

他ならず︑その擬幅の大きさは︑現実の可能性を超越し

た視界を可能にする︒空間は音響によって︑このように

絶えず拡大の一途をたどるが︑それは﹁私﹂のいる空間

をもはや起越している︒従ってこの第二詩節の怖溌は別

次元的な空間への拡大︑現実の空間の彼等にひろがる空

間への拡大を示唆している︒なぜなら︑それらの悩景を

みたす空間はもはや二人の若者の歌の世界以外にはあり

えないからである︒第二詩節ではこうしていわば現実空

間から純粋空間への過程︑ないしは第一時節の殺初の二

行で形成された空間の広さから﹁広さの感情﹂への移行

がはじまっている︒なぜなら︑第二詩節では次の一行 によって︑まだ第一時節的な空間とのつながりが維持されながらも︑すでにその後半はもはや空間性の彼岸としての世界で﹁広さの鵬愉﹂を伝える歌の中から新たに拡大してゆくからである︒

このことは第三詩節に至って特に明確になり︑特にそ

の後半においてその完全な移行が実現する︒ここではす

でに﹁私﹂のいる世界ははるかかなたに沈んでしまっ

て︑あらわれてこない︒空間の拡大とともに︑詩そのも

のが﹁旅﹂の経験を︑遠方へのヴァンデルンを余儀なく

されていることは︑いや︑むしろ遠方への空間的なひろ

がりの感情とともに︑この時にあらわれてくるのが﹁旅﹂

の感情︑つまりは瞳慨そのものであることは特に注目す

べき点であるように思われる︒﹁私﹂の願望の化身とし

ての二人の若者の旅以上に本質的に﹁旅﹂そのものをあ

らわしているのが︑この空間の飛踊的なひろがりにみら

れる詩の経過である︒すでに第三詩節においては︑その

﹁旅﹂は第二詩節後半にひきつづいて現実的空間を超越 胃○雪壷α﹃庁の一目︼塁弓鯉ヨユの﹃冒望⑦望︒瞳⑦画●●

ロ厨の三行の①晩の弓邑⑦昌冨ヨ照晶︶

(19)

37

して実行されている︒﹁大理石像﹂や﹁巌も暗く葉にお

おわれたあれた庭園﹂もまた若者の歌の中でしか存在し

えない情最であり︒決して﹁私﹂の眼前にひろがる悩最

そのものではない︒しかも︑これらのひろさの感燗を音

響的なものに導かれて辿ってゆく﹁旅﹂の感情そのもの

がゆきつく所が現実の空間を超越しているのみならず︑

時間をも超越した世界であることが︑この第三詩節にあ

らわれている︒第三詩節はたしかに第二詩節の﹁岩の狭

間﹂や﹁岩の割れ目﹂といった岩のモチーフを受け継い

でいるのであるが﹁大理石像﹂や﹁あれた庭園﹂には︑

さらに停止した時間︑いわば時間の石化の象徴的な意味

が附与されている︒こうした硬直的イメエジを惹起させ

る石像や廃園の形象は時間の硬直的状況への暗示に富

み︑そこではあたかも硬直した時間が永遠の現在として

その空間を支配しているかのようであり︑このことは後

半の宮殿形象の中で時称の表現の差異に明白に認められ

﹂︽兵ゾ◎

殉堅勝扁雪言夢冨︒ご烏愚&扁旨.

至言○口一の︾﹇睦包○写①自餌画旨圃句邑切庁の﹃﹄画巨いゎ茸の国や これは﹁旅﹂への憧恨を歌い﹁旅﹂そのものの表現と

なっているこの詩の経過が︑その最終的な時間︑空間の

束縛を完全にまぬがれた世界に到述したことをあらわし

ている︒ここに開示する空間は純粋空間であって︑その

時間は永遠に時をきざむことのない現在のままである︒

しかし︑﹁私﹂と遠方枇界との緊張関係から︑外界か

らのよびかけに応じた﹁恢慨﹂が旅そのものの感情とし

てゆきついたこの空間的時間的束縛からのがれた世界に

あらわれる諸形象に︑第一詩節の般初の二行にあらわれ

たこの詩における唯一の可視的情最との類似を見い出す

のは容易なことであろう︒星と月光のみならず︑特に顕

著な類似は窓辺に立つ﹁私﹂と窓辺で耳をすます﹁少女﹂

との間の関係である︒その際にこの少女もすでに卵二時

節後半以後︑空間が現実的な視界の可能性を大きく打ち

破って拡大する折にみられる名詞の複数形を適用されて

いる︒

二言画ヨヨロ①﹃F伽匡庸邑壗口釦ヨ歯①﹃乏画︑壷庁ロョ旦邑厨国昌己︒g患易︒三脚詩冒恩昼闇胃冒胃二・の凰己司蝕○一胃一mの国︑済高ご弓︼の﹃ヨ酌⑥毒拝︒111ぺ凱一

(20)

形象にとどまらず︑梢溌そのものの類似性は形式的に

3も表現されているが︑こうした回帰的連関は︑アイヒエ

ンドルフの杼情詩における一つの技巧としてよりも︑彼

の﹁旅﹂の概念︑あるいはアイヒェンドルフにおける故

郷と遠方世界との関係を如実に物語るものである︒なぜ

なら︑旅の回帰性l遠方世界含厨恩昌巴への旅立

ちは︑畢意︑故郷a篇園里ョ胃︶への出発に他ならない

という回州性lがこの詩においては内容的にも形式的

にも表現されているからである︒それは︑この詩が旅の

経過を随伴的に描写したものではなく︑﹁旅﹂そのもの

の眠柵を︑空間のひろがりの感愉の中でとらえ︑遠方と

﹁私﹂との間に揺れうごき︑絶えず遠方を志向する恢僚

の心情をうたっていることの証拠である︒

アイヒェンドルフは人間存在の根本的形姿として﹁旅

人﹂をとらえ︑遠方への永遠的な志向を失なわない﹁旅

人﹂を其の詩人として評価し︑多くの旅人の惑いを︑遠

方へのあこがれ︵烈日毛呂︶と郷愁含蛍ョ鼻箸g︶と

の抗しがたいふたつの力を相反する力としてしか感じ得

ない人間の現実世界での自己喪失の姿にとらえる︒なぜ なら︑彼にあっては遠方世界︑旅の目的地は詩的な意味においても宗教的な意味においても故郷的なものに他ならないからである︒無論︑彼はいわゆるパター市場からチーズ市場への俗物的商用旅行を考えているのではない︒彼の世界は︑あくまでも詩人的気質の人間によって柳成されている︒従ってそうした人間における﹁旅﹂は常に何等かの意味で故郷にむかうのであって︑遠方へのあこがれ︵瀞昌芝呂︶はとりもなおさず故郷へのあこがれ色帝冒胃毛呂︶である︒憧恨はこの二つのものの混然一体となったものに他ならない︒従って︑この小論のはじめにもみたように無垢なる魂を庇没した楽園的庭園をフリードリッヒのように脱けだしたものは︑常に遠方への衝動にかられながらも︑その故郷的庭園を追憶させる

︵並︺郷愁を術にいだきつづけている︒さらにこの詩における

二人の若い旅人のようにその庇護的空間としての宮殿と

その庭園的悩景をうたう時︑﹁私﹂のいだいている遠方

への憧恨が︑彼等のいだくと思われる故郷への恢慨とこ

の詩の中でまじりあい︑ここに旅そのものの感情の美し

い回帰性が第三詩節の鹸終行において︑

(21)

39

という一つのすばらしい同調的空間において実現するの

である︒かくして︑詩の冒頭と詩の結末部とが11旅の

出発点と到逮点とが一つに結ばれる︒この詩には可

視的な旅の描写がない︒そのかわり旅そのものの﹃感傭﹂

がある︒これがまさしくアイヒェンドルフのいう仔怖詩

︵期︾の杼悩詩たる本髄である︒

アイヒェンドルフの文学における庭園を︑空間的なひ

ろがりのなかで︑遠方世界と対極をなす一端としてとら

え︑この遠方との関係において︑﹁開かれた庭園﹂と﹁閉

じられた庭園﹂の二つに区別することができた︒そこで

﹁開かれた庭園﹂においては実現されており︑﹁閉じら

れた庭園﹂においては拒絶されている遠方世界との緊密

なつながりを︑特にアイヒェンドルフの﹁旅﹂の概念を

中心にすえて︑その空間体験の杼情詩における結晶化を

究明したが︑その際に庭園における楽園的要業を故郷的

なものとしてだけとらえることに終始し︑彼の庭園的形

象における自然の魔力についての問題は︑すでに前稿に

おける自然の重層椛造というとらえ方で取り扱ったの 胃邑竺①﹃℃﹃睡○云墓蝿の己の○冒ご旨︼の周.煙の三一︒︵錘︾で︑ここでは割愛した︒

併口目胃胃冒侭曾

の金沢大学法文学部論築︑文学筑︑節十八号︵一九七一年︶

一二○頁︒

国の包銀閉極言回国句色負畢こ﹄︽の﹃弄一幽冒顔画の︒︵﹄の罰↑︒︶

守食同篇言のヨ竺○罠憲⑤回昌畠竪n画①目旦︒尚霞旨⑲巨毎の︾

い︽︽︑4m③︒

③國島9号昌管昔閑呂卑の号の﹃﹃ぐ◎詞z2⑲の⑩侭邑冨50

恩冨烏﹃三寓庸巨邑の呂乱岸曾︵君.宮.い︶・国律令凹閉劃

・旨呉将鷺匡呂5号﹃ご◎里厨呂のョ匡荷日冨﹃ロ⑲皀冨呂岳目房尋

︵一唾切﹁︶

③︵乏.臣.⑫︶圏.いい亀1麓.

・旨亀声冒包巨回閤巨回竺︒①醜の目軍国廓憲︵勗温︶

④︵署.目.g西日﹃・切謹.

色冒の①a⑥言畠回号﹃司愚BQg︵属望︶

︿・●.︒︒︒︒::︒

シ﹄頓亀︒︸岸⑦邑留の電画︑の國函の回

ぐ︒コユ胃塾篇夛闇討︒旨の邑薗⑲岸●﹀

⑤金沢大学法文学部證集︑文学繭︑第十八号二○頁

⑥︵菫.旨.い︶雨震い︑.合・画旨良嘗邑巨畠臣且①屑目頭国ns

執〃一竪具い︒︽﹃︑く︽唾

⑧F言冨︾要目⑫旨昌函会旦呂冒眉旨且ロ肴冨⑦﹃ず但舂閑呂

こ◎回国篇彦のpQo罠感︒︒meいむ察

(22)

LockungdesoffenenR,aume$derNatur,der

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ibid.S,1舵.

<DaSFenStergehOrtzumHause,dasderOrtderOrdnungundSicherheit。derHutist・Xhnlichd@m

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(W.u、S、)Bd.2.S.73.9infAhnungundGegenwartP

IAmmert,EberhardggEiChendorffsWandelUnterden

"""hPn・乃pingDieDentscheRomantikphrsg.

vonH.Steffen.S.2".

LUthi,IhnsJUrg8"DichtungundDichterbeiJoseph

vonEichmndorffDS、1".

(W.uS.)B42.S.634.,inqDichterUndihreGeSe‑

llenn(1834)

ibid.S、647.

LUthi,HansJUrg8fDichtungundDichterbeiJo8eph

vonEiChendorff" 〈…GeradeimDichterbrenntdieSehnsuchtnaChdemAusbruchausdemParadiesesgartenmitverZmrenderGIUt。undermuBanfbreChenzur

WnnNPrgChzftnaChdemfernenZiele、>

頓麗織1.浬拭珊・錘嶽′令〈』ト震′壗十童dI,lli侭。

(W.u、S.)Bd、2.s、74.jnKAhnungundGeg"wartp.

ibid,9.367.,infAusdemLebeneinesTaugenichtsp

(1826)

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《EiChendOrffheUtepS.15.

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dorfflahnlichverwendeteTUr)dieGrenzeund

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dorffdadurchnochgesteigert,daBsichvorseinen

Fenstemunweigerlicheineweitelandschaftauf=

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LUthi,HansJUrggqDichtungundDichterbeiJoseph

vonEichendorffDS.103.

<DasFensterwirdsozurGrmzeundzumDurch‑

gangzwischenHutundFreiheit,zwischender

gefesseltenSeeleunddemzaUbermftenZielihrerSehnsucht9ZwischenGeborgenheitundUngeborg‑

enheit・DurchdasFensterdringtvonauBendie

︵︒︶合︒一一

童璽

金一

重重

(23)

41

アイヒェンドルフにおいて︑しばしば遠方世界が︑イタ

リアへの方向にむいて広がっているのは︑ドイツ文学にお

ける伝統的な週歴と恢恨の方向としての南国によるばかり

ではない︒墨画愚旨員F厚冨は︑アイヒュンドルフのイ

タリアを︑詩人の夢の国︵烏§常侭且.§篇目︒

暦己巳困監呂胃講呂g弓国巨目命.温︶ととらえてい

る︒イタリアのもつ﹁偉大な過去の国︵昏印冒己胃◎需舜

く胃恩ョ恩号島︶しと﹃永遠の都の国︵烏冒邑号甸両亀員︲

曾切冨黛︶Lとの亜なりあった性質を︑その魅力としてか

かげ︑その魅力の本質を︑異教的古代とキリスト教的緒神︑

官能的魔力と救済予感︑誘惑と解放︑といった対極性の中

にみている︒︵妙旨巴

働︵乏.厚.い︶画屡いめ&韻.︾旨︽貝口冨禺巨息昏﹃①︒①醜竺︲

の目︾

剛︵乏.産.い︼園.令塑隈・管冒会︒︑⑱︒昼⑥宮①身内gね号呂9

厘芯圃巨昌ロg盾呂盲目時︾

幽言貸妙霊.

固筐食い全.

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詞◎恩詩烏いロョの宮巳旨胃鼻色①些勝岸昌い号①ご胃堅い

く︒号男皇冨口興巨回包い唾旨旨巳号印同君筒①邑烏目巨翼里行ご

砂臣⑥雪一○・﹀

剛︵署.宮.い︶圏.一.少践.あ⑦冒曾各9︵屍壁︶

門室いいごrご︽ロ苛言関屋目色喜吊︒①m里苛邑︾ 固︵薯.臣.い︶閉凄﹄.妙畠学重言負の①の⑤言⑥言①号﹃己◎の胃gg

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鯛牌昌冒○鵲胃如内くの﹃四便号⑦g禽固号①且︒﹃震︾︵壱謡︶

︿両﹃里の臣ヨ邑制電曾誌園璽行自警三詩宮禺①盲の回蜘巨里国包胃邑⑱﹃

旨号冒二①号堅冒碕邑陽邑巨月毒包巨跨自号愚Pm◎吊言

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蜘巨鼻①茸⑦ヨ胃ゴ里具画号侭⑦辰駕﹃◎昌旦曾目く︒﹃忍己寧邑閏守

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宍胃月日︾g己邑臼目く巾民今弓禺自己蝿くo自国①君呂巨ご甲

(24)

42

ロヨ◇﹀

函F三宜罵言い旨員輔負團⑤言旨員巨且貝⑥言の﹃ず里菅叩①目

ご◎宮圃旨茸⑦︒②◎罠辱凹︺つつ︒gいこい

卿︵毒.二.妙︶圏デい観.

剛酔P○.剛伊P○.

圃巨景霞弓四旨晶翼豆呂冒員巨昏且ロ再三目ウ里きい⑮碁

ぐ︒国同苛毒①二口︒﹃震辱いの甲くい伊

︿ロ胃︒鼻⑦包邑魑豈の言国二月毒の包め⑥三◎圏の的箭序冒匡呵

里邑一己厨島国諺高言己駒鳥ゆ毎冒曾⑦ロ匡邑包含①篇尉回

○鼻$︾号﹃誇弓︑凰冨竺恩罰陣冨ヨー青豈①昌一篇胃︒﹀○具

︿ロ篇丙匡⑥穴の﹃言︒⑮﹃巨筥函幽邑讐コー騨殉胃幽島①m①牌昌匡ョ﹀・

鋤︵君.宮.い︶圏.一・い鵲.

鋤アイヒェンドルフの文学を︑空間・時間・人間の三つの視

点から拝細に分肝研究を賦みている○ぃ雷﹃艀昌冒は時

会牌ご豊︑言己を拡大︵毎局電凰冒呂︶と分離︵シ匡尉自局︶と

いう二つの詩的経験脳においてとらえている︒

拡大を遜験させるものものは︑まず内容における違近法的

構遺で︑歌から第二の歌がうまれ︑その歌から楽器や喰水の

音へとつながり︑舞台中の舞台を柵成して︑その奥ゆきを深

める︒これは︑外的櫛造においても︑三つの部分の展開によ

って実現されている︒すなわち︑第一節第一行のA8A渚呂︐

n頁V第二行から第一詩節の終りまでの八旨更ざ農⑤言V︑第

二詩節以下残りの人骨b凰獄言Vである︒この八鰹叉詔全︐ ⑤言Vはさらに国昌与冒月←司里穏宮毎且闇冨算←魚昌gとひろがる︒音響的な面においてはアクセントを担う母音の数

の豊富化や韻における母音系統の数の増加︑︵蛎一詩節午凹︑

第二節冨と︑第三詩節冨冨二曲︶あるいはリズムの点での︵く×くく︶から︑ゆっくりとした︵くく×くl︶への変化に拡大の形式的側面が指摘される︒

しかし︑拡大も決して一つの世界から他の全く異った世界

への拡大ではない︒常に拡大されたものの中に︑それ以前の

疲跡をとどめている︒そこで︑拡大に伴う分離の詩的経験盾

において︑この詩をうかがうと︑そこには何等かの結びつき

がある︒例えば︑内容面では︑一見無関係なはじまりをみせている

第二詩節も︑

﹃号9塁の冒尋冒号冒凰①昌昌g

によって︑すぐに卵一蹄節の炎禦世界と結びついてしまう︒

この二人の若者の旅は第一蹄節の﹁私Lの願剋総体から離れ

でてきたもので︑代理的な司私Lの分離として︑司私Lには

できない旅の途上にある︒旦言凰協口という司私Lの願盟

が︑第二涛節で超個人的な有効性をおびて︑その可視的形姿

として︑可二人Lで時の舞台に登場する︒そして︑若者が二

人旅をする山胆は︑彼等の歌の中で﹁岩の狭間Lと﹁岩の例

れ目Lとにつながり︑これがさらに可大理石像﹄へう連鎖的

に分離してゆく︒蛎二詩節後半にうたわれる野性的な自然の

原初的形象は庭園の文化的憎景と対立するようにみえなが

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