社
会
科
学
の
方
法
-
評
伝
大
塚
久
雄
(
そ
の
六
)
日 次 Ⅰ はじめに Ⅱ 経済史の方法 A 「 地 図 」 -「前期的資本」 という概念の構想 B 「 仮 説 」 の 構 築 と 事 実 に 基 づ く 「 実 証 」 C 「 転 轍 手 」 と し て の 「 理 念 」 の 役 割-楠 井 敏 朗
- 「局地的市場圏の理論」 の発見 M ・ ヴ ュ ー バ ー ﹃ 宗 教 社 会 学 論 集 ﹄ か ら 学 ん だ こ と Ⅲ M・ヴエーバー生誕百年記念シンポジウムⅣ 社会科学の方法 A マ ル ク ス の 「 経 済 学 の 方 法 」 B ヴ エ ー バ ー の 「 社 会 学 の 方 法 」 a 「 動 機 」 の 意 味 理 解 の 手 続 に よ る 「 理 解 的 方 法 」 b 「 何 か ら 」 「 何 へ ( w o v o n -w o z u ) の 問 題
i はじめに
一九九七(平成9)年三月はじめ、筆者は京都へ行った。観光が目的ではない。大塚久雄が生まれ育った京都での 生活がどんなものであったかを窺い知りたいと思ったからである。遺族からお借りした大塚の少年時代の 「日記」 (大学ノー-で全18冊) が痛く筆者の心を刺激していた。そこでそれを頼りに'そこに記されている大塚の少年時代 の生酒ぶりを、今日的時点で反萄してみようと思ったのであった。 大 塚 は 1 九 〇 七 ( 明 治 S ) 年 京 都 市 上 京 区 1 条 通 り 新 町 で 生 ま れ ' 1 九 九 六 ( 平 成 8 ) 年 東 京 都 練 馬 区 上 石 神 井 台 で 没 し た 。 享 年 八 九 歳 で あ っ た 。 父英太郎は同志社大学の校友で、新島案の強い影響を受けて育ち'アメリカのエール大学へ留学'帰国後一時京都 市役所に勤務し'同収納役を経て、湯浅蓄電池会社の支配人となった人物であった。母美未は東京女子高等師範学校 (現お茶の水女子大学) で学んだ後、大塚の少年時代は京都府重尚等女学校で教諭を務めていた。 大塚には三歳上の兄恒彦と二歳下の弟重遠の他'一人の姉と二人の妹があった。だが'何かと面倒を見てくれて尊敬していた兄恒彦は、7九l九(大正8年) に他界し、これを追うように母美未も大塚の旧制三高入試の二ケ月前の 1九二四 (大正53)年1月二八日に腸チフスで没した。このため三高時代は虚脱感を脱し切れず、柔道や陸上競技等 で気分直しをやったりして過ごしたが、全体としてはブランクの時代であったようである。 ここで資料として用いた 「日記」は、京都府立師範学校付属小学校「第二教室」に在学中であった時期に'クラス 担任の長谷川弥乎教諭指導のもとで記された日記であった。 ここで「第二教室」とは'当時京都府知事であった木内垂四郎の教育改革理念(形式主義の排除'画一主義の打破t T) 分室教育の実現) に基づいて設置された実験的な英才教育のためのクラスであった。 一学年のクラス編制は二五人で、二年生'三年生'四年生、五年生の四学年四クラス編制、生徒数計百人で構成さ れた特別学級であった。生徒は京都市内の四四の公立小学校から推薦を受けた後'選抜試験を経て入学した者ばかり であった。大塚はその最上級の五年次生に編入された。 同 「 第 二 教 室 」 は 、 一 九 一 八 ( 大 正 7 年 ) に 創 設 さ れ 、 第 二 次 大 戦 中 の 一 九 四 三 ( 昭 和 1 8 ) 年 に 約 二 五 年 存 続 し た 後廃止された。 「第二教室」 の跡地は今日、京都市北区小山南大野町にある京都教育大学教育学部付属京都中学校にある。道路 (新町通り)を隔てた西側には木造平屋建ての付属小学校があるが'これは「第二教室」設立の基礎となった通常の 付属小学校の後進に当たる学校である。 大 塚 が 通 学 し た 山 八 1 八 ⊥ 九 ( 大 正 c -o o ) 年 は 、 「 明 治 が ま だ 遠 く な か っ た 」 時 代 で 、 天 皇 制 国 家 主 義 を 国 民 的 統7の最高の理念に揚げた教育制度が軌道に乗り始めていた時代であった.かの 「教育勅語」が発布されたのは1八 九 〇 ( 明 治 2 ) 牛 で あ っ た . ア メ リ カ の 哲 学 者 で 教 育 学 者 で あ っ た ジ ョ ン ・ デ ユ イ -( J o h n D e w e y , 1 8 5 9 -1 9 5 2 ) の 自
の 由主義教育理念を推進しようとしていた 「第二教室」においてもその影響は大き-伸し掛かかっていた.I l 八 1 八 ( 大 正 7 ) 年 は 一 九 l 四 ( 大 正 3 ) 年 に 始 ま っ た 第 l 次 世 界 大 戦 が 終 結 し た 年 で も あ る . 米 価 の 昂 鷹 に 激 怒した大衆が米屋を襲撃して起こった 「米騒動」 - 富山県魚津で起こって全国に波及した事件 - は、同年七-八 月に起こった事件であった。まだ皇太子であった昭和天皇が成人式を迎え、全国を馬車に乗って巡幸したのは、一九 一九 (大正8)年のことであった。大塚の日記にはまだいくらか稚い筆致ではあったが、こうした事実が克明に描き 出されており、こうした事柄に対するさまざまな感想が述べられている。敗戦によって退位したドイツ皇帝ウィルヘ ルム二世については、新聞に掲載された肖像写真が切り貼りされており、次のような注釈がつけられている。 3 -0 「醤レタルソノ面ヲ見ヨ 英傑ノ末路憐ムベシ」と。 大塚は当時「第二教室」 の図書室に備えつけられていた ﹃模範家庭文庫﹄ (冨山房) を愛読していた。その中には 「ロビンソン漂流記」をはじめ世界の主な童話が収録されていた。そうした本の中で大塚が当時最も興味を示してい たのが'﹃三国志﹄ であったOウィルヘルム二世を英傑と捉えたのは'多分にその影響であったろうO 一九一九(大正8)年六年生になった時、「第二教室」は同年七月二一日から八月二日まで三重県津の臨海学舎で 合宿教育を行なった。ここで大塚は初めて水泳の手解きを受けたし、団体生活の厳しさと愉快さを感得した。 何者のおはしますかは知らねども 有難たなさに渦こぼるる という西行法師の和歌の引用は'伊勢神宮に参拝した時の大塚の気持を率直に述べたものと受け取ってよかろう。 大塚久雄といえば内村鑑三によって直接洗礼を受けた無数会派に属するキリス-者としてよく知られている。一九 九六 (平成8)年の死の直前まで大塚はつねに聖書を傍から離したことはなかったという。「旧約聖書」詩篇「ダビ
デの主の祈り」が最後であったという。だが、少年時代の「日記」には大塚の家族がキリス-者の家族であった雰囲 気を感じさせるものは全くない。遺族の話では'大塚の家族では信仰に対しては全く自由な考えをもっていたようで' 何一つ干渉しなかったという。両親とも敬慶なキリス-者であったが'少年時代の家庭でも同様であったのだろう。 だが教育に関してはそうではなかったようだ。赤松大麓との対談では次のようなことが述べられている。 「幼年時代の教育で父母に感謝したいのは、同志社の今出川幼稚園に入れてくれたことです。ここの園長は経済学 史で有名なラーネッド博士の奥さんで'実に立派な方でした。しつけはきびしくて'行儀が悪いと体罰こそ加えられ ぬが'別の席にしばらくすわらされた。いまでも思い出すのは、なにか清らかな'暖かい雰囲気があったことですね。 -中略-私のばあい、物の考え方、人生の生き方といった生涯を支配する重要なものを幼稚園でずいぶん培われたよ うに思います。ご主人のラーネッド博士はひじょうに威厳のある方でしたが'そのような人が朝のお祈りのとき'ひ o ぎまずいて敬慶に祈られる姿は、異様な感動を与えたものです。」 今回訪れた 「第二学級」 への編入も'両親がこうした幼年-少年期の教育環境の整備を慮ってのことであったろう と推測される。「第二教室」時代には二つ下のクラスに湯川秀樹博士の弟の小川環樹(のち京大教授で学士院会員)' ( 3 ) 同じクラスには今村新太郎 (のち大阪商大教授)へ辻田右左男 (のち奈良女子大学教授) がいた。 ところで今回の京都ゆきには、三つの主目的があった。 一つは大塚家の菩提寺である南禅寺を訪ねること。二つには大塚がこの時期日曜日ごと (春、.夏の休暇中は毎日) 通っていた武術専門学校を探し当てること。三つには 「第二教室」 の跡地を訪ねてみることt であった。 南禅寺は毎年お盆の時期に父英太郎の名代として'大塚が墓参りしていたからである。そこに葬られているのは' 他でもない。大塚家の基礎固めをした曽祖父大塚兵庫(紹雪) である。武術専門学校と「第二教室」は少年時代の大
塚の人間形成に不可欠の場であったと考えられたからである。 「 第 二 教 室 」 に 通 っ て い た 頃 の 大 塚 の 生 活 は 、 夏 期 ( 四 -九 月 ) は 大 体 五 時 起 床 ' 八 時 台 就 寝 。 冬 期 二 〇 -三 月 ) は、六時起床九時台就寝の規則正しい生活であった。「日記」 にはその生活ぶりが詳細に書き記されていて興味ぶか かった。その中でとくに注意を惹いたのは大塚と柔道とのかかわりであった。後年 二九五〇年以後) の大塚を知る 者には想像も及ばないほど、少年時代-青年時代の大塚はスポーツを愛好Lt 同時に秀れた能力をもっていた。野球 す ⊥ i > i T -では二塁手か遊撃手をつとめ'打者としては二番バッターをやっていた程である.角力も強く、五1(人抜きはあた りまえのことであった。そうした中でも柔道には特別に気合を入れていた。 「第二教室」には渋川流の古賀太古五段が厚意的に無報酬で教えに来ており、京都師範学校の道場が稽古場であっ た。だが、「日記」 によれば大塚はこれだけに満足しなかった。そして武術専門学校に通ったのである。二-三人の学 友と一緒のこともあったが、皆が休んでもたった一人で通っていたことが知られる。古賀五段の胸を借り、乱取でも まれ'くたくたになるまで汗を流していた。 後年大塚が東京大学の演習時間に学生を指導する時稲妻の閃光を想わすような気迫を見せることがあった。それは 周りの者をたじろがせる程の気迫であった。「日記」を読みながら筆者は直ぐその時の情景を想い起こしていた。渋 川流の柔術を学ぶ大塚の気迫は、恐らくそんなものであったのであろう。 東京オリンピックの柔道最重量級でオランダのヘ-シング選手が優勝した時'大塚がポッリと次のように噴いたこ とを想い出す。「柔術が柔道へ制度化された時から日本の柔道も格闘技としての本来の姿が失われたんだなあ」 と。 格闘技としての柔術が終ってスポーツになったという意味だろうO 筆者は当時その意味を掴めなかったO だがM・ヴ エーバーの 「カリスマ社会学」 を学ぶようになった時、「これか。あれは-」 と悟った。大塚はその後も 「カリスマ
支配」 による特別の訓練と人格形成を追究していたようだ。大塚は渋川流の柔道の訓練を通じて、それを会得したの だろう。 武術専門学校の跡地は平安神宮の裏手にあった。今日の武道センターがそれであった。筆者は側に建てられている 石碑からそれを確認した。そこには一八九三 (明治26)年京都遷都千年を記念して平安神宮が建立された時、延暦武 術の事例に倣って一八九九 (明治32) 年武徳殿が造営されたことが記されている。今日でも残る武徳殿こそ、その当 時大塚が渋川流の柔術を習得しようと適い続けた場所だったのだ。 筆者は八〇年も前に大塚が柔道着を脇に抱えて通った同じ道順を通って、上京区新坂通りの大塚の住居の跡地まで 辿りついた。熊野神社前-荒神橋-荒神通り-荒神口I清和院御門-蛤御門-鳥丸中立売'そしてプライーン・ホテ ル。今日プライ-ン・ホテルの駐車場になっているところに'その頃大塚は住んでいた。京都御所の直ぐ近くで'大 塚は夏休みなど夕方に家族と一緒に御所内を散歩していたようである0 「日記」 には事細かに自分の行動が記されている。不要と思われるくらい道順まで記されている。京都市の地図を そらん 買い求め「日記」に書かれていた地名や道順に赤印をつけて請じるまでになっていたので、京都に無案内の筆者でも' 武術専門学校も「第二教室」 の跡地も直ぐに探し出すことが出来た0 か ば ん 新の着物に袴穿き、肩から斜めにズックの鞄を下げた大塚が'同年'大塚と同じように「第二教室」に編入した弟 の垂遠と並んで、一緒に下駄穿きで'新町通りをいくらか曲折しながらもほぼ北の方向に歩いてゆく姿を幻想で追い ながら'筆者もまた、「日記」の記述に従って、今出川新町-上上皇冗-妙覚寺を経て'「第二教室」の跡地まで歩いた。 今出川新町は当時烏丸通りを南北に走る路面電車の終点であった。当時市電は鳥丸今出川で西に折れて新町を終点と していたようである。電車通学の友人はここで降りて学校まで歩いた。「日記」 によると、大塚もここで友人たちと
合流して学校に向かったようである。路面電車がバスに変ったのは一九七八 (昭和53) 年のことである。 「第二教室」 の跡地のはずれに大きな樫の木が残っていた。かつては直ぐ側を比叡山に源流をもつという疎水が流 れていたとのことである。今は暗渠となって道幅の広い紫明通りが走っている。この樫の木の落す樫の実が大きな椎 の木を見上げて誓う言葉が 今に見ていろ僕だって 見上げるほどの大木に なって見せずにおくものか で あ っ た 。 東京大学を去って法政大学で最初の研究﹃株式会社発生史論﹄を執筆していた頃'大塚はいつも「今に見ていろ-・」 と心に誓っていたといつか筆者に語ってくれたことがある。「第二教室」 で校歌代わりにみんなで歌っていたその歌 の一節が、その当時大塚の心を支えた根性であったのか。 頁にその歌を見出した時、筆者そう思った。 ﹃ 育 英 十 年 ﹄ 1 九 二 八 ( 昭 和 3 ) 年 、 1 1 五 ⊥ 一 六 「第二教室」を卒業した複、大塚は旧制京都一中を経て旧制第三高等学校へと進学した。京都一中時代各クラスか ら図書館委員が選ばれた中、一級上に湯川 (小川) 秀樹'二親上に貝塚茂樹'桑原武夫など'後に各界で活躍するす ( 4 ) ぐれた人たちがいた。大塚はこれらの学友に大きな刺激を受けている。三高時代も良き師'良き友に恵まれ勉学する のに良い環境の中にあった。西田哲学が全盛時代であった中で'大塚は大変難しかったが三木清の哲学を聞き、波多 ( 5 ) 野精一からは、哲学を勉強をする手解きを受けた。
こういう雰囲気のなかで大塚は大学は東京帝国大学経済学部に進んだ。三高時代の教官山谷省吾から講義の時に 「京都生まれの京都育ちはどうも視野が狭いからいっぺん東京に行った方がいいんじゃないか」と言われたことも手 ( 6 ) 伝って、実業家になる気持でその道を選んだという。
Ⅱ 経済史の方法
A 「 地 図 」 -「 前 期 的 資 本 」 と い う 概 念 の 構 想 大塚が東京帝国大学経済学部に入学したのは、一九二七年四月のことである。そこで大塚は本位田祥男の西洋経済 史の講義に出会った。家庭の事情もあり'実業界で働こうと考え直して東大に進学した大塚は'本位田の講義が大変 ( 7 ) 面白かったことで再び歴史に対する興味を駆り立てられて、本位田の演習に籍を置くこととなった。そこで助手とし ( -) ( ォ ) て大学に残ることを薦められたのである。それは商業史 (いまの経営史に当たる) の助手ポズーであった。 一九二七 (昭和2)年といえば日本で金融恐慌が発生した年であった。震災手形の処理問題をめぐって発生したそ ( S ) の恐慌は'銀行・企業の破産を続発させた恐慌である。これに続いて1九二九年にはアメリカ合衆国でも大恐慌が発 生し'これが引金となって一九三〇年代は世界的な大不況の時代となった。第一次世界大戦の戦勝国として、一九二 〇年代は急速に経済発展を続けたアメリカ合衆国と日本でのこの厳しい恐慌。これは大塚の研究生活に強烈な影響を 与えることとなったのである。「企業の成立・発達史研究」が研究テーマとして与えられた時'大塚には今眼の前で 展開している野しい数の企業の倒産の事実が即座に想い浮かんだ。そして「これは面白いテーマだ」と思ったに違い な い 。たまたま一九三〇 (昭和5)年本位田の ﹃欧洲経済史﹄ が日本評論社より出版された。同書は ﹃現代経済学全集﹄ ( 3 ) 第五巻に収められた著作で、本位田が稿を起こしてから二年がかりの仕事であった。 1 . 1 -1 . ) 同書は次のような構成をとった。 序説 第一章 第一節 第二節 第 三 節 第 二 葺 第一節 第 二 節 第三節 第三章 第一節 第 二 節 第三節 第四節 第四章 共産村落時代 技術と団体 共産村落 ( マ マ ) 共産村落の崩壊と荘園の成生 荘園時代 其外貌と技術 領主及び農民の経済と両者の関係 其の共産的傾向 ギルド時代 都市及び商工業の発達 商人ギルド 同職ギルド 荘園の変形 商業資本主義時代
第 1 節 第 二 節 第三節 第四節 第五節 第六節 第七節 第八節 第五章 海外貿易の発展 近世国家の成立 此時代の商業の特質 植民の発展 工業及び鉱山業の発展 金融業の発展 会社及び投機の発展 農業革命 工業資本主義の時代 第7節 英国の産業革命 第二節 大陸に於ける産業革命 第三節 商業及び銀行業の発達 第四節 株式会社の完成と経済の律動的発展 第五節 社会関係 欧洲経済史参考書 ( 3 ) 研究を開始したばかりの大塚が'まず同書を研究上の手引きとして、「地図」 のように用いたことは当然のことで あったろう。筆者が大塚の少年時代の 「日記」を地図を片手に検証したのと同様である。 何らの歴史像も持たないで研究に入るのは無謀なことであるO 関連文献を整理し、先人の築いた歴史像 - これを
ゎが行く将来の「地図」として用いて新しい境地に踏み入ることが大切だ。大塚はこのこと-研究史の整理を機会4 ある毎に弟子たちに教えていた。この 「経済史研究の出発点」を、大塚も自分の研究の際にも出発点として用いたの で あ っ た 。 本位田は同書で当然「企業の成立・発達史」を論じていた。第四章「商業資本主義の時代」 の一節で金融業の発展 と並んで論じているのである。そしてこの 「商業資本主義の時代」は'次章「工業資本主義の時代」を導き出す前提 として論じられていた。これを導きの糸として大塚が「商業資本主義の時代」1「工業資本主義の時代」というシュ ーマを近代資本主義成立の基本線として受け入れたことは、論を侯つまでもない。大塚はこのシューマを頭において' 「商業資本主義時代」 の 「資本」とはどんな性格のものかを問うたのである。これがやがて間もなくかの 「前期的資 本」という概念を構想する切っ掛けとなった。 大塚は本位田の提示した「地図」をあれこれ修正しながら、かの 「商業資本主義の時代」に芽生えてくる企業 -コ ン メ ン ダ ( 合 資 会 社 ) 、 ソ キ エ タ ス ( 合 名 会 社 ) ' そ し て 株 式 会 社 が ' 「 前 期 的 資 本 」 の 結 合 か ら 生 み 出 さ れ て 企業形態だということを理解するに至ったのである。 それでは「商業資本主義の時代」 は何時頃から始まったのか。 -本位田は通説にしたがってアメリカ大陸の発見、喜望峰迂回の新航路の発見とともに拓けたと促えている。本位田 ( 3 ) はかの ﹃共産党宣言﹄ 二八四八年) の一節を引用して、そう論じたのである。そして'これに続いて起こった商業、 とくに外国貿易の発達に注目した。ヴェネツィアへピザ、ジエノヴァ'フィレンツェという競争都市の現われた三一 世紀以降のイタリア、北欧のハンザ同盟'そしてポル-ガル'スペイン、オランダ'イギリス、フランスにおける外
( S ) 国貿易の発達である。 ここで大塚の ﹃株式会社発生史論﹄と比較して見られたらよい。大塚の同書の構成は'これまでのところ大略にお いて本位田著の構成と大差はない。だがこれに続く叙述には'決定的な相違が見られる。つまり'それ以後のところ で大塚は、本位田の書いた 「地図」 に大幅な修正を加え'独自の世界像を築いていった。 ところで「地図」とならんで、大塚は「経済史の方法」について次のように論じていることにも注意しておきたい。 大塚は次のように述べている。 「経済史の研究」 は'関連する資料を集めれば自然と出来上がるというものではない。資料も大切だが'これをど のように整合的に配置するかという理論的操作が必要である。経済史的に意義のある史実を拾い集め'それにもとづ いて何らかの 「経済史像」をつくり上げようと試みるばあい'もし何が問題であるのか、また'そのような問題に関 連させて、さまざまな史実の経済史的意味をどのように捉えることができるか'そうした点について十分な用意が欠 けているとすれば'雑然たる史実の推積を前にして'われわれはただ呆然とするばかりであろう。一歩も進むことは できない。経済学はそのばあいわれわれにこうした問題の所在を教えてくれる、というよりは、自覚することを助けへ また、それに関連させて個々の史実の経済史的意味を理解するために必要な概念的道具立てを供給してくれるのであ ( S ) る。--大塚は研究を開始した時'先ず本位田の著書を地図として用い'自分が進もうとしている研究分野を探り当てた後、 関連する資料を集め、これを論理整合的に配置する理論的枠組み (仮説) を構築していった。そして自分の作った仮 説が正当かどうかを検証するため、繰り返し繰り返し実証的研究を続けたのであった。﹃株式会社発生史論﹄ はこう して出来上がったものであった。
B 仮説の構築と事実に基づく実証 - 「局地的市場圏理論」 の発見 三年任期の助手期間が終った一九三三 (昭和8)年'大塚には定職がなかった。そこで本位田の紹介で立教大学で 非常勤講師として工業政策を講義する一万㌧中央大学夜間部で英語とドイツ語を教えることになった。加えて翌一九 三四 (昭和9年) からこれも非常勤講師として法政大学で西洋経済史を講義することになった。法政大学経済学部の ( 5 ) 専 任 助 教 授 と な っ た の は ' 一 九 三 五 ( 昭 和 1 0 ) 年 の こ と で あ っ た 。 大塚は法政大学で西洋経済史'とくにイギリス経済史の講義を担当するように要請され、これまで主としてドイツ 経済史を中心に進めて来た研究(企業成立・発達史研究) とは違った研究方法を模索しなければならなくなったOだ が、このことは大塚にとって本位田の提示した ﹃欧洲経済史﹄ の論理構成とは根本的に違った新しい史実との出会い を導き出す機会となったのである。やがて戦後になって 「大塚史学」と呼ばれるようになった大塚の 「近代資本主義 成立史研究」 の方法は'この法政大学時代の研讃によって培われていったものであった。 この時代 二九三四-三八年) 大塚は、「経済史研究の方法」を確実に身につけていったのである。!彪大な実証 的研究成果の収集、これを論理整合的に整理する理論的枠組み (仮説) の構築、ドイツの歴史派経済学だけでなくt K.マルクスの経済学(﹃経済学批判﹄、﹃資本論﹄)を土台においた経済学及び経済史研究'これらを花々と身につけ ていった。そして経済史研究に役立つ 「経済的概念装置」 の形成とこれによる実証的研究成果の検証を行ないうる基 礎的作業を進めて行った。大塚はこうした地道な研究を続けてゆく過程で'イギリス資本主義が一五世紀以来の 「大 航海時代」 にスペイン、ポルーガル'オランダの歩んだ道とは異なる道を通って成立'発展して来たこと、そして一 八世紀初めには世界ではまだどの国も到達していなかった国民経済の形成を達成し、これを基礎において産業革命期
に突入した事実を知った。そしてその背後にあった経済的・精神的な大きな力が何であったかを理解出来るようにな った。そしてイギリス絶対王制が成立する前後十五世紀末から一六世紀初めにかけてイギリスの経済構造を根本的に 否定し去ったイギリス農村での大きな変化'すなわち、農村工業の成立という事実に出会ったのである。だが、よく 調べてみると、この農村工業の成立はただイギリスだけに限られたものでなく'海峡を隔てたフランドル地方や北フ ランスといった工業の発達が進んだ地方でも発見することが出来た。大塚はこの事実から「ここには何かがある」と 感じた。そして調べてみると'この農村工業の成立という事実の中に、近代的産業資本が生成する条件がある事実を 発見したのである。そして﹃株式会社発生史論﹄の研究に取りかかった時期に構想したかの「前期的資本」の「産業 資本」 への転化によって近代資本主義が成立するという'ドイツ歴史派経済学が唱導して来た考え方が誤ったもので あったことに気がついた。 ここで大塚が自らの考え方を裏づける決定的指標として提唱した理論こそ、「局地的市場圏の理論」であった。 二二八一年イギリスで大農民一按が発生した。この農民一按は、イングランド東部のサフォク及びエセックス両州 を中心に起こったもので、当時農村工業が繁栄し始めていた地域であった。ここで大塚は、この地方で農民一撰が起 こったということは'封建的政治経済仕組みが崩れかけていた一つの兆候に違いないと思った。そこで大塚は、この 農 民 1 按 が 起 こ る 直 前 に 作 成 さ れ た 「 人 頭 税 徴 収 報 告 書 」 { P o l l T a x R e t u r n ) に 目 を つ け ' こ れ を 分 析 し て み よ う と 思い立ったのである。農村工業が繁栄し始めていたこの地域の「人頭税徴収報告書」には'納税者の姓名に加えて' 彼らの職業(あるいは身分)も付記されていたので、これを調べればこの地方の社会的分業(生産話力の発展) の状 態を知ることが出来ると判断したからであった。 大塚の推定は的中した。大塚は典型例としてエセック州ヒンクフォード郡フエルスティード村(Fe-stede)を取り
上げて検証し'次の事実を知り得た。 大まかにいってその村の人口構成は、村民の約毎が種々の職人であったこと。他の好の者が日雇から構成されて いたこと。つまり、純粋な農村村落の性格を失って'手工業に従事している人の比率が高かったこと。つまり'社会 f。o¥d-i) 的分業の展開度が進んだ村落であったということ、これであった。 村落内に社会的分業が進展していたという事実は'封建農民によって構成されていた封建的共同体が解体し始めて いることを裏づける事実に他ならない。それは、同時に村落内の消費と生産の仕組みが決定的に変化し始めているこ とを物語る。つまり、村落内の手工業者は、自分が生産した工業製品を農民たちに販売すると同様'必要な農産物を 工業製品の販売代金を用いて入手し、消費活動を始めているということである。これらの村落はもはや封建的経済制 度の仕組みから離れ始めているのである。大塚が分析を始める前に構想していた仮説は的中したのである。大塚は 「局地的市場圏」の成立を実証的に確認し得た。 C「転轍手」としての「理念」の役割 - M・ヴエーバー「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」から 学んだエー-ス論 封建制の末期'絶対王制が成立する時期にイギリスで成立した農村工業が、次の時代にイギリスを担う産業資本を 輩出しつつあった土壌であったことを実証的にも確認した大塚は、次の課題として'農村工業の担い手である農村の 手工業者が'どうして資本主義の成立・発展を担う産業資本家に推転してゆ-ことになったのかという問題を、理論 的にかつ歴史的に明らかにするという課題を背負うことになった。そしてM・ヴエーバーの「プロテスタンティズム の倫理と資本主義の精神」という論文に出会ったのである。
大塚とヴエーバーとの出会いは、前稿でも触れておいたように'東大に入学した一九二七 (昭和2)年に、父英太 郎から黒正巌訳﹃一般社会経済史要論﹄を手渡されたことから始まる。しかし本格的にヴューバーにのめり込むよう になったのは、クルー∴ソンガ-との接触からであった。大塚が東大助手二年目一九三一(昭和6)年クルージンガ -が東大に着任、特別外国語講読担当として学部三年生を対象に、M・ヴューバーの ﹃宗教社会学論集﹄や﹃経済と ( 2 ) 社会﹄をテキス-に講義を行なった。大塚はその助手をつとめたのである。 難解極まりないヴエーバーの著作に体当たりを続けへ ﹃宗教社会学論集﹄ の一つの章「儒教と道教」 の終節「儒教 とピユウリタニズム」まで読み進んだ時、大塚には忽然とヴエーバーの主張していることの意味が理解できるように ( 8 ) な っ た 。 そ れ は 「 経 済 的 利 害 」 に 及 ぼ し た 「 理 念 」 の 影 響 と い う 問 題 で あ っ た 。 「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」 でヴエーバーが言いたいと思っていたことは、禁欲的プロテス タンティズムの倫理と資本主義の 「精神」 のあいだに見られる歴史的関係であった。 S E a H ヴューバーが禁欲的プロテスタンティズムと呼んでいるのは'カルヴァン派の人々や再洗礼派系諸教派に属する 人々の信仰のことで、ヴューバーは、このような人々の担った禁欲的プロテ・スタンティズムの倫理が、「近代資本主 義」を生み出すの七預って力があったと論じたのである.ここでヴューバーが主張しているのは'大塚に言わせると' 「思想史と経済史の交錯」という問題であった。 「 思 想 史 と 経 済 史 の 交 錯 」 と い え ば 、 K ・ マ ル ク ス が ﹃ 握 済 学 批 判 ﹄ の 序 言 で 述 べ て い る あ の 史 的 唯 物 論 ( 唯 物 史 観 ) の 公 式 を 想 い 起 こ す 人 も 多 い だ ろ う 。 「 経 済 構 造 」 ( 下 部 構 造 ) が 、 政 治 、 法 制 度 、 社 会 へ 芸 術 、 宗 教 、 思 想 等 (上部構造) を規定するというあの公式である。宗教倫理と利害状況との関係について言えば、マルクスには前者は 後者の 「画数」 にすぎないと解釈されていた。
だが 「プロテスタンティズムの倫理-」論文でヴューバーが主張しているのは'そうではない。まさに宗教改革の ● ● ● ● ● ● ● ● ■ ● ● ● ● ■ ● ● ● ■ ■ ■ ● ● ● ■ ● ● ● ● ● 結果生み出されたプロテスタンティズムが、逆に経済構造に極めて大きな影響を及ぼし、封建的経済構造に変革をも ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ■ ● ● ■ ● たらし、近代資本主義の成立に寄与したという主張に他ならなかった。マルクスと違って「思想」 の「経済」に及ぼ した強烈な歴史的効果であった。 「働きなさい。働きなさい。そうすればあなた方は救われる」という「救いの教説」がどのようにして利潤追求を 合理的目的とした 「資本主義の精神」に転化したのか。ヴューバーはこの間題を説明したのである。 プロテスタンティズムは'これまで'「安く買って高く売る」、あるいは「地域差をめざして価格差を追求すれば利 益が得られる」ことを追究して来た「前期的資本」の商取引を徹底的に批判し'「節約」と「禁欲」、そして「質素」 を胃とした「勤労」の精神に則った生活こそ神に仕える正しい道で、やがて富裕につながる道だと教えて来た。ヴュ ーバーは、これを受けて'こうした禁欲的な生活倫理-職業倫理 (エー-ス) に従って慎まし-生きて来た人々 (プ ロテスタン上 が'やがてどうして近代社会を担ってゆ-産業資本家に転換してゆくことになったのかtと問うたの で あ る 。 ヴューバー論文を読みながら大塚はこの間題にぶつかったのである。それは'「理念」 (思想)と「利害状況」 の関 係について'自分がかつて学んだマルクスの 「史的唯物論」 (唯物史観) とは全く異なった考え方を打ち出したもの であったからである。 ( S ) それは現実の世界で果す「理念」の転轍手としての役割であった。ある日何らかの機会に閃くものがあって新たな 理念に突き動かされた場合、この理念が転轍手となって作用し、これまでの生活が全くつまらないものに思えて来て、 その 「理念」に動かされて直進することがある。「理念」にはこのような作用がある - ヴューバーはそう言ってい
るのである。 かつて中世の封建社会に生きて来た人々が禁欲的プロテスタンティズムに接してこれに従って新しい生活を始めた のは'まさにこうした 「理念」 の働く転轍手としての役割によるものであった。彼らはこの救いの教説にしたがって 質素に憤しく働いた。その成果は'当然'蓄積された冨となって現われた (commonweal)の蓄積であるO無駄な ● ● ● 失費を慎んだ行き先は、当然へ蓄積された富 (comm昌We巴) の合目的な支出'すなわち再投資に向かうほかにはな い。その結果は経営の合理化であった。合理的に運営される経営は、これまで以上に富を積み重ねて行った。プロテ スタンティズムの禁欲倫理は、このプロセスを経て合理的経営に意識を注ぐ「資本主義の精神」 に転換していったの で あ る 。 大塚は「判った」と思った。そして梶山力に手伝って「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の邦訳 に力を注いだのであった。
Ⅲ M・ヴューバー生誕百年記念シンポジウム
マックス・ヴエーバー生誕百年記念シンポジウムは、山九六四年1二月五日出'六日価の両日、東京大学経済学会 および東京大学社会学会主催で東京大学を会場として開催された。開催に先立って同年夏まえから薯にかけて数回も の研究会が行なわれ、周到な準備がなされた。当日のプログラムは次の通りである。マックス・ヴェーバー生誕百年記念シンポジウム 第 一 日 開会の辞 鈴木鴻一郎(東京大学経済学会会長) シンポジウム 「社会諸科学におけるマックス・ヴューバーの現代的意義」 司会 石 田 雄 ( 東 京 大 学 ) 住 谷 一 彦 ( 立 教 大 学 ) 総 報 報 報 報 報 報 括 菖 告 告 菖 告 菖 5 4 3 2 1 社会学とヴューバー 経済学とヴューバー 歴史学とヴエーバー 法学とヴューバー 日本思想史おけるヴエーバー的問題 戦前における日本のヴューバー研究 富 永 健 一 ( 東 京 大 学 ) 青 山 秀 夫 ( 京 都 大 学 ) 堀 米 庸 三 ( 東 京 大 学 ) 広 中 利 雄 ( 東 北 大 学 ) 内 田 義 彦 ( 専 修 大 学 ) 丸 山 英 男 ( 東 京 大 学 ) 石 田 雄 ( 東 京 大 学 ) 住 谷 一 彦 ( 立 教 大 学 ) 第二日 シ ン ポ ジ ウ ム 「 マ ッ ク ス ・ ヴ エ ー バ ー に お け る R a t i o n a l i s i e r u n g の 問 題 」
報 告 - ヴ ュ ー バ ー に お け る R a t i o n a l i s i e r u n g の 概 念 I l つ の M o t i v f o r s c h u n g 報 告 c o l n t e l l e k t u a l i s m u s と R a t i o n a l i s i e r u n g 報 告 3 ﹃ 社 会 層 ﹄ と 宗 教 倫 理 の 相 関 - 経済の合理化における -報 告 4 ︽ B e t r i e b ︾ と 経 済 的 合 理 主 義 所感 討論者発言 討論 閉会の辞 司会 福 武 直 ( 東 京 大 学 ) 隅 谷 三 善 男 ( 東 京 大 学 ) 安 藤 英 治 ( 成 撰 大 学 ) 折 原 浩 ( 東 京 大 学 ) 内 田 芳 明 ( 神 奈 川 大 学 ) 大 塚 久 雄 ( 東 京 大 学 ) 大 河 内 7 男 ( 東 京 大 学 ) 中 川 敬 一 邸 ( 東 京 大 学 ) 生 桧 敬 三 ( 中 央 大 学 ) 住 谷 一 彦 ( 立 教 大 学 ) 尾 高 邦 雄 ( 東 京 大 学 ) 見られるようにこのシンポジウムは、当時わが国でマックス・ヴエーバー研究の最前線で活躍していた各学問分野 の研究者を報告者に総動員して行なわれたシンポジウムであったといえる。
第一日日は'広大な分野に研究を広げ'それまでの社会科学のあり方を問い直したヴューバーの学風を知るために、 社会学、経済学'歴史学'法学の分野の専門家の報告が行なわれた後'内田義彦と丸山真男によって'日本の学界に おいてヴューバーの研究がこれまでどのように進められて来たか'その影響はどうであったかに関して報告がなされ、 今後の課題が提示された。 ラ テ ィ オ ナ リ ジ -ル ン ク これに対して第二日目には、ヴエーバー社会学において大切な地位を占める 「合 理 化」概念が集中的に論じら れた。そして 「合理化とは何か」う その担い手は誰であったか'理論化が進むことと合理化とはどんな関係があるか' 近代資本主義の成立・発展とともに徹底した合理化が進展するが、その歴史的結果は何をもたらすか、という諸問題 が論議された。 ;22ナ ヽ-′ 」うした中で大塚は二日目のシンポジウムで報告した。両日とも早朝から多くの聴衆を集めへ きわめて盛会であっ 大 塚 の 報 告 「 ︽ B e t r i e b ︾ と 経 済 的 合 理 主 義 」 は 次 の 四 節 に 分 か れ て い た o ・ -< ( B e t r i e b ︾ 概 念 の 成 立 c m ( B e t r i e b ︾ 概 念 の 意 味 内 容 3 ︽ B e t r i e b ︾ の 歴 史 的 意 義 4 経済的合理主義の根底にあるもの 大塚はこの報告で、ヴエトバーの 「合理化論に係わる安藤、折原、内田三報告を受けて、M・ヴエーバーによって 経 済 的 合 理 主 義 を 支 え る 拠 点 だ と 捉 え ら れ た ( B e t r i e b ︾ ( 経 営 ) を 取 上 げ 、 ヴ ュ ー バ I の 大 著 ﹃ 経 済 と 社 会 ﹄ 及 び ﹃ 宗
教 社 会 学 論 集 ﹄ ( 全 三 巻 ) か ら 、 ( B e t r i e b ︾ に か か わ る 関 連 記 述 を 考 証 L t 世 界 史 を 振 り か え り な が ら 、 l 歩 l 歩 問 題 に 接 近 し て い っ た 。 ま ず 第 1 節 牽 ロ e t r i e b ︾ 概 念 の 成 立 か ら 見 て ゆ こ う . ここで大塚は'表題にある「経済的合理主義」 (「経済という文化領域における合理主義」) という概念を、「近代社 ( 2 3 ) 会」 (資本主義経済) の成立過程を三口で表現した概念だと理解した。そして、 「経済」という文化領域は人間の日常生活と最も結びついた領域で 本来「伝統主義」 (「永遠の昨日」を草葉する ● ● ● ■ ● 価値観=信仰) の基盤になりやすい、「合理化」が最も進展し難い領域だとヴューバーは考えていた事実を指摘し、 それなのにどうして近世初頭の西ヨーロッパでは一六世紀以後「経済的合理主義」が全面的に展開するに至ったのか、 と問うたのである。 こういえば「合理主義」とはどういう意味なのかが判って来る。「合理主義」はヴエーバーによって'「伝統主義」 ■ ● ● ● の対立概念に位置されているもので'「日常的」な生活態度を理性によって拒否し'自分が思い描く新しい非日常的 な'そして創造的な生活を意識的に追求する禁欲的行動なのである。 大塚は本報告でこのような観点から、「経済的合理主義」を捉えたのであった。そしてこのような「経済的合理主 義」こそ、近代西洋文化を特徴づける決定的な指標であり、かつまた、「経済」分野を含め、「経済」という文化領域 以外のあらゆる分野にも現われる合理化の動き'つまり徹底的合理化の一環として姿を現わしてくるものであったこ とを明らかにした。 それでは︽Betrieb︾概念は'ヴューバー社会学ではどのように用いられ'どのような意味をもっていたのであろ う か 。 ( 第 二 節 )
先 に 述 べ て い た よ う に 、 大 塚 は 、 ま ず 第 l に ' ヴ ュ ー バ ー が 「 経 営 」 ( 経 済 分 野 に お け る ︽ B e t r i e b ︾ ) を 「 経 済 的 合理主義」を支える拠点だと考えていたことを強調している。その意味内容は、ヴューバーが「経営」を近代西洋で 著 し く 広 が り 深 ま っ た 市 場 状 況 ( M a r k t -a g e ) ' そ の 市 場 シ ャ ン ス ( M a r k t c h a n c e n ) に 基 づ い て 行 な わ れ る 資 本 計 算 ( 3 ) ( K a p i t a l r e c h n u n g ) と い う も の を 結 び つ け て 考 え て い た か ら で あ っ た O ( c o l 第二に 「経営」と「家政」との完全な分離という事実に注目していること。そして、大塚は'この 「経営」と「家 政 」 と の 分 離 と い う 事 実 は 、 ヴ エ ー バ ー の 博 士 論 文 ﹃ 中 世 に お け る 商 事 会 社 の 歴 史 に つ い て ﹄ ( Z u r G e s c h i c h t d e r H a n d e l s g e s l l s c h a f t e n i n M i t t e l a l t e r , i n ︰ G A Z S 玉 の 中 に 萌 芽 が は っ き り と 出 て い る こ と ' こ の 用 語 が ウ ェ ー バ ー の意味内容をもち、ほぼ完成された形で現われて来たのは、かの有名な「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の 精 神 」 ( D i e P r o t e s t a n t i s c h e E t h i k u n d d e r G e i s t d e s K a p i t a l i s m u s . i n ︰ G A Z R S , I ) あ た り か ら で あ っ た こ と 、 さ ら に ﹃ 代農業事情﹄ では'この概念装置が世界的規模で駆使されるようになった事実を指摘している。 ( 2 6 ) その上で読者に次の二つの点で注意を促している。 一つは'ヴューバーが「経営資本主義」などという時の 「経営」 の意味内容である。ヴエーバーはこれを屡々 「形 B馳 式的に自由な労働者に基づいて形成される合理的な労働組織」 というふうに説明したり、あるいは「生産経営」(B? ( 2 8 ) s c h a f t u n g s b e t r i e b ) と 言 い 換 え て い る こ と . もう一つは'近代的経営のいわば社会的系譜に関して'ヴューバーの独自な深い歴史的観点が現われてきているこ と、である。こうした点に注目している点は'大塚の歴史観 (分析能力の鋭さ) を窺わせるものである。 それでは︽Betrieb︾という概念は'どのような意味内容をもつものとヴューバーによって理解されていたのか。 58
残 念 な こ と に ヴ ュ ー バ ー 社 会 学 で は ( B e t r i e b ︾ 概 念 は 纏 っ た 形 で 説 明 が な さ れ て い な い O だ が 、 ﹃ 経 済 と 社 会 ﹄ や ﹃宗教社会学論集﹄(全三巻)を手探りで跡づけたところによると'その概念は'大体次のように理解されてよかろう' ( 2 9 ) こう注釈して'大塚は、﹃経済と社会﹄六頁に基づいて「一定種類の持続的な有目的行為」という定義を与えた。妥 当なところだろう。 そして大塚はこの概念によりながら、本報告と主題に関わる次の大切な概念や歴史事実を説明していったのである。 す な わ ち 、 ① 「 経 営 体 」 ( あ る い は 「 経 営 団 体 」 ) 、 ② 経 営 体 に 独 自 な 「 規 律 」 の 存 在 。 こ れ と の 関 連 で 歴 史 上 に 現 わ れ る 「 官 僚 制 支 配 」 ( b i i r o k r a t i s c h e H e r r s c h a f t ) ' ③ 経 営 と 家 政 と の 分 離 ' あ る い は 経 営 体 と 家 政 共 同 体 ( 世 帯 と し て の家族)との分離'④経営と企業との関係、⑤経済の文化領域以外の領域に現われる経営および握営体とその特質で ( 8 ) あ る 。 第 三 節 ( B e t r i e b ︾ の 歴 史 的 意 義 で は 、 以 上 考 察 し た 「 経 営 」 と い う カ テ ゴ リ ー の ヴ ュ ー バ ー 社 会 学 に お け る 位 置 づけが考察された。 ここで大塚が聴衆に力説したかったことは'近代資本主義社会が成立し、「経済的合理主義」 (経済という文化領域 おける合理主義)が展開するまでの'世界史の大逐な流れの中に占める(Betrieb︾と経済的合理主義の関係を'ヴ ューバーがどう捉えていたかを理解してもらいたかったこと、これであった。 ま ず 第 l は 、 経 営 の 家 政 ( H a u s h a l t ) か ら の 分 離 、 つ ま り ' 仕 事 場 と 世 帯 が 別 々 に な っ て ゆ -こ と と ' そ の 歴 史 的 意 味 で あ る 。 経営の家政からの分離は'恐らく早く古代オリエン-からかなり大規模なものさえ現われていたようだ。だから当 然、合理主義の基盤の上に立っていなかったため、本質的に「非合理的」性格を帯びていたと考えられてよい。これ
ら「非合理的」経営のうち、ヴューバーがあげているもののうち重視されるものは'次の二つであった。一つは'オ ● ● ■ イ コ ス の 内 部 に 畢 ま れ て い た 「 経 営 」 ( B e t r i e b ) の 形 成 と ' そ の 展 開 形 態 で あ る 。 す な わ ち 、 王 と か 貴 族 と か の 巨 大 な'しかし伝統主義的な家政で'家族成員以外の人々を吸収して'持続的合目的的に生産を始め、さまざまな営みを ( S ) 行なうものである。 これは、古代オリエン-の専制国家にも見られたLt古典古代の帝政期から中世封建社会の初期、さらに近世東ド イツのダーツヘルシャフー、さらにルネサンス期イタリア諸都市の巨商たちにも家業として営まれた問屋制前貨など ( 3 2 ) に見られたものであった。 このような巨大経営を内部に畢むオイコスの家父長制的支配が'オイコスを越えて家産制的支配の形をとり'周辺 に向かって拡散し、さらにその外側の家産制外的地域にまで政治的支配の綱を拡げて成立したのが、ヴューバーのい < 8 ) う 家 産 制 国 家 ( d e r p a t r i m o n i a l e S t a a t ) に 他 な ら な い 。 次 ぎ に 注 目 し て お く べ き も の は 、 第 二 に 、 宗 教 の 領 域 に お け る 教 権 性 ( H i e r o k r a t i e ) の 形 成 で あ る . これは宗教的カリスマが世襲カリスマの形か官職カリスマの形で日常化し、その土台の上に、ヴューバーがKirche (教会) と呼んでいる宗教的経営体が形成されてくるものである。ここにも「教権的官史層」が現われて来る。これ ( S ) は、政治的官僚に対比されるものでその中で最も典型的なものが中世ヨーロッパのカーリック教会であった。 ■ ● ● ● ● ● ■ 大塚はこれに注目し、それが来した「合理化」の進展の役割を強調している。それは'法意識の合理化という事実 と結びついていたからであった。つまり、教権制は近代合理的経営における合法的支配'あるいは合理的支配を内面 から支えた法意識の源流の一つになっていたからである。 こうした議論に続いて大塚は、「経営がこのような'いわば逆立ちした順序で出現することになったのは、いった
( 3 ) いどういう事情によるのか」t と問いかけ'この間に対するヴューバーの考えを引き出してくる。 ヴューバーによると、それは、経済という文化領域が慣習的な 「日常性」 の本来の場所という性質を備えているこ と。そのため伝統主義の最も箪固な地盤を形成していて'「合理化」 に最後まで抵抗する拠点になっていたからだと l e v いう。そしてヴエーバーは、近世初頭の宗教改革の結果としてあらわれたプロテスタンティズム'とくに禁欲的プロ テ ス タ ン テ ィ ズ ム の 倫 理 ( E t h o s ) の ' 伝 統 主 義 の 倫 理 ( E t h o s ) に 及 ぼ し た 決 定 的 な 役 割 を 論 じ た O ここでヴューバーは次のように述べているのである。 経済の領域でも長い歴史の流れのなかで'伝統主義は'とくに小市民的職人層を基盤に少しずつ壊れて来てはいた。 が、近世になってt lつには禁欲的プロテスタンティズムの倫理が起こったこと、今lつは独立と自由を求めた小生 産者層の活動が一層広汎に展開するに至ったこと。この二つの要素が結合して'ついに最終的に伝統主義の倫理 こわ ( E t h o s ) を 根 底 か ら 打 ち 穀 す こ と に 成 功 し た の だ T と 。 こ の こ と に よ っ て 、 経 済 と い う 文 化 領 域 に 「 合 理 化 」 が 全 面 的に進行することになった。そればかりではない。これに併行してへ他のさまざまな文化諸領域でも、「合理化」 が f C -1 全面的に進行することになった0 -ここで大塚は'「経済的合理主義」 が現実に成功するに至った実質的前提条件として、ヴエーバーが挙げた前提条 ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ■ ● ● ■ ● ■ ● ● ■ 件に注意を促している。一つは客観的条件としての成熟した市場関係の成立と、その市場における自由な競争。いま 1 つ は 、 主 体 的 条 件 と し て の ' い わ ゆ る 「 専 門 人 」 ( F a c h m e n s c h e n t u m ) の 存 在 、 す な わ ち 専 門 的 な 習 練 を 積 み 、 特 ( c o ) 定の事柄 (Sache) に対して義務として献身するような人間類型の存在であるO ここで見られるのは、K・マルクスとの違いである。M・ヴエーバーは、歴史の動きをつねに 「理念」 (Idee) と ( 3 9 ) 利 害 状 況 ( I n t e r e s s e n l a g e ) の 緊 張 を 畢 む 相 関 関 係 か ら 説 明 し た こ と で あ る 。
、 こうして大塚は、ヴューバーの考えている 「近代資本主義成立論」 の結論を探り出した。それは、「伝統主義」 か らなかなか離脱し得ない大商人層ではなく'封建制の解体から登場した小ブルジョア層の経済活動と、これら小ブル ジョア層を 「専門人」 に鍛え上げ、その中から資本家的経営者と貫銀労働者を生み出し'これによって 「生産経営」 ( 3 ) の形成を内面から推進していったエーース'つまり'資本主義の精神であった。 最後に本報告第四節「経済的合理主義の根底にあるもの」 で、大塚は、こうして成立した近代資本主義とヴューバ ーのいう「経営資本主義」 の苧む問題点を浮き彫りして'二日間に亘って論じられたヴエーバー・シンポジウムを締 めくくった。 その主題は'「近代資本主義」を作り出す上に貢献したエー-ス'すなわち「資本主義の精神」が、ヴエーバーが ● ■ ■ ● ● ■ ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ■ ■ ● ● ■ ■ ● ● ● ● ■ ■ ● ● ● 屡々論じているようにへ 人間自然の幸福観を変形させるような、根底的に非合理的なものを含んでいるという問題の 提 示 で あ っ た 。 この問題についてヴューバーは次のように述べている。 この 「非合理的」 なものは'たしかに徹底的合理化を生み出した。だが'近代における 「経済的合理主義」 の成立 ( 3 ) とうらはらに、宗教はますます「非合理的」なものそれ自体になってしまったと。大塚がここで最も注目し、提出 したのは、まさにこの間題であったのである。 大塚は関連してヴエーバーの晩年の有名な講演へ 「職業としての学問」 の最後の部分を引用した。それは、徹底的 ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● ■ ● ● ● ● ■ ● ● ● ● ● ● ● ● ● ■ ● ● 合理化の進展という事態に照応してあらわれた、さまざまな諸価値が、神々が互いに争い合う状態を近代の資本主義 ● ● ■ ● ● ● ● ■ ● ● ● ● ■ ■ ● ● ■ 文化の避けがたい帰結だと論じているところである。そして'現在'職業として学問の研究に携わる者は、それにた じろいで理性の外に避難しようとしてはならない。男らしく耐え'各人がそれぞれのダイモ-ン (神霊の合図) に聞
( 3 ) き従いつつ、ザッへ (研究対象) につけと論していることである。 へ 4 3 ) ここで大塚は嘆息した。そしてこれまで論じて来た 「合理的非合理性」問題に数々の疑問を感じた。大塚の疑問と は何であったか。 -醒めた眼で現実を直視することo Iこれは研究者として正しいことで不可欠なことである.しかし'ヴエーバー ヴ ィ ・ i , オ ー ズ のような'すでに自分のダイモ-ンを熟知している達人ならいざ知らず'一般の普通の人にとって'どうしてその ( 3 ) ダイモーンを見付けることが出来るのか。 -いずれにせよ、徹底した合理化の進展した今日'生きることの意味を問い続けることは、愈々難し-なったことは、 事 実 で あ る 。
Ⅳ 社会科学の方法
ここで取上げるのは'一九六四年九月一〇日と二四日の両日'岩波市民講座で行なわれ、その後﹃図書﹄一九六四 年へ一〇月号、二一月号、そして、一九六五年、一月号、二月号、三月号、四月号に連載された大塚の論文﹃社会科 学の方法Iヴエーバーとマルクス﹄ である.同論文はl九六六年に同名の ﹃社会科学の方法 ヴューバーとマル クス﹄ として'その他の論文と一体化して、岩波新書の形で公刊された。 この論文は、マルクスの部分は'一九六五年に発表された 「マルクス経済学における人間の問題」、川島武宣編 ﹃ 人 間 と 社 会 ﹄ ( 「 人 間 の 科 学 」 3 、 中 山 書 店 に 収 録 ) ' ヴ ュ ー バ ー の 部 分 は 、 「 マ ッ ク ス ・ ヴ ュ ー バ ー に お け る 思 想 史 と 経 済 史 の 交 錯 」 ' ﹃ 政 経 論 叢 ﹄ ( 成 蹟 大 学 政 治 経 済 学 会 ) l 四 -二 ' 1 九 六 四 年 t と 重 な る と こ ろ が 大 き い か ら ' 用 語の使い方、言い回し方などで適宜参照して、利用してゆきたいと思う。 一九六四年といえば、ヴエーバー生誕百年記念の年であったことは、先にも述べたが、この年の大塚の研究・教育 活動は目覚ましいものであった。﹃図書﹄論文は同シンポジウムに先立ってなされた講演の速記に基づくものであり' ヴエーバーに関する複の論文も同年四月に成蹟大学で行なわれた講演に基づくものである。この年大塚は'東京大学 での講義や演習を含めて、思想史研究にいかに集中していたかが知られる。 ところで、大塚が ﹃図書﹄論文その他を通じて論じているのは、近代以後益々精轍に練り上げられつつある 「自然 科学」 と対此して、「社会科学」 の分野で果して科学的認識が成り立つのか'どうか。これが第一点。第二点は、成 り立つとすれば'その方法はどういうもので、その意義は何であったか。これを検証することであった。 大塚がこうした 「マルクス=ヴエーバー問題」 に心を惹かれるようになったのは'すでに早い時期、昭和一〇年代 のことであった。つまり﹃株式会社発生史論﹄ と ﹃欧洲経済史序説﹄ の総仕上げを進めていた法政大学在職中のこと ( 4 ) で あ る 。 その当時大塚は'「近代ヨーロッパ文化の成立」を、マルクスのいう生産様式としての資本主義の発達と'ヴュー バーのいう「資本主義の ﹃精神﹄ の生誕」、この両面から捉えてみよう'いや両面から捉えなければ歴史の真実は明 ( S ) らかになって来ないのではないか、と考え始めていたのである。ここで大塚は'歴史の動きを経済史の面からだけで なく、思想史の面からも捉えねばならないことに思い至ったのである。ここで取り上げる大塚の 「社会科学の方法」 は、大塚のそうした思索の中で生み出されたものであった。 以下、この ﹃図書﹄ 論文を基礎に大塚の 「社会科学の方法」を見てゆくことにしよう。
Aマルクスの「経済学の方法」 マルクスの「経済学の方法といえば、﹃経済学批判﹄序言に書かれている史的唯物論(唯物史観)の公式を想い起 こす人が多いだろう。 「人間は'その生活の社会的生産において、一定の必然的な、かれらの意志から独立した諸関係を、つまりかれら の物質的生産諸力の一定の発展段階に対応する生産諸関係を'とり結ぶ。この生産諸関係の総体は社会の経済的機構 客形づ-っており'これが現実の土台となって'そのうえに、法律的'政治的上部構造がそびえたち'また、一定の 社会的意識形態が'この現実の土台に対応している。物質的生活の生産様式は、社会的'政治的、精神的生活諸過程 一般を制約する。人間の意識がその存在を規定するのではなくて、逆に、人間の社会的存在がその意識を規定するの である。社会の物質的生産諸力は、その発展がある段階にたっすると'いままでそれがそのなかで動いてきた既存の 生産諸関係'あるいはその法的表現にすぎない所有諸関係と矛盾するようになる。これらの諸関係は'生産諸力の発 (S) 展諸形態からの権櫓へと一変する。このとき社会革命の時期がはじまるのである。」 筆者なども大塚と出会うまでは、マルクスのこの史的唯物論(唯物史観)の公式を「金科玉条」のごとく大事にし ていた。その意味もよく知らないまま。﹃図書﹄論文で大塚が提示したのは、これとは全く異なった接近方法であっ た。「自然科学のばあいと異なって、社会科学には'研究方法のうえで、生まれながらに一つの根本的国難がつきま (--¥{蝣&) とっている。」それは認識対象が他でもなく「生きた人間諸個人」(dielebendigemenschlichelndividuen)であるか (49) らである。すなわち、彼らは自分の意志をもって目的を設定し、手段を選択し、多かれ少なかれたえず決断をしな がら行動している諸個人なのである。こういうばあいに、自然を対象にするのと同じような意味で理論的方法が用い (g) られるだろうか。用いられるとすればどのような方法によってか。
大塚の提起したこの間題は、史的唯物論の公式を「金科玉条」としていた筆者の脳天を打ち砕くほどの衝撃を与え るものであった。 ここで'このような「生きた人間諸個人」を対象にして、自然科学のように社会科学的認識が可能となる根拠づけ として、大塚がもち出した説明方法が、これまたマルクスのエンゲルスとの共著書﹃ドイツ・イデオロギー﹄第一章 「フォイエルバッハ」 であった。 「フォイエルバッハ」といえば、「疎外」論を想い起こす人が多いことだろう。自然成長的分業(dienatur w i i c h s i g e T e i l u n g d e r A r b e i t ) と い う 方 法 概 念 を 用 い て 、 マ ル ク ス が 説 明 し た あ の 「 疎 外 」 と い え ば ' よ り は っ き するであろう。 さまざまな人がさまざまな生産部面(流通部面等を含め)を担当しながら'彼らの共働によってへ社会全体の物質 代謝がなり立っている。そのような分業に基づく共働が計画的でなく'偶然なこととして行なわれているような場合、 その社会的分業は自然成長的分業として現われるのである。 このような自然成長的分業のもとで起こる「疎外」 (En替emdung) 現象'これを取上げてマルクスは、そのもと に包括された諸個人の営みは'自然科学の場合と同様'社会科学の認識対象になりうると考えたのである。それでは 「疎外」とはどういう現象をいうのか。ここでは'大塚の説明を用いて明らかにしておこう。 出発点は社会をなして生産しっつある生きた人間諸個人である。この諸個人は、それぞれ独自な生産用具をもって 労働対象に働きかけつつ、さまざまな物財を生産している。この、さまざまな物財を生産している諸個人の力がマル ク ス に よ っ て 生 産 話 力 ( d i e P r o d u k t i v k r a f t e ) と 呼 ば れ て い る も の で あ る . こ う し た 生 産 話 力 の 総 体 が 社 会 の 生 産
を形成している。ところでこうした生産話力を支える基盤が、計画的でなくて自然成長的な分業である場合には'本 来人間諸個人の力の総和に他ならない社会の生産力が'そしてその成果である生産物が、生産している人間自身から まるで独立してしまって'その全体を見渡すことが出来ず、人間の力ではすぐさまどうすることもできないような働 き、そういう客観的な過程と化してしまう。その意味でまったく自然と同じようなものになってしまうというわけで ある。つまり'経済現象というものは、本来は人間諸個人の営みでありへ その成果であるにもかかわらずへ それが人 間諸個人に対立し'自然と同じようにそれ自体頑強に自己を貫徹する法則性をそなえた客観的な運動として現われて くる、というわけである。これが 「疎外」 に他ならない。すなわち'マルクスのいう「疎外」 とは、人間自身の力や その成果が人間白身から独立し'人間に対して、あたかも自然がそうであるように'独自な法則性をもって運動する 客観的過程と化してしまうことである。 だからこそ、「自然」を取り扱うのと同じやり方で、同じ理論的方法を用いて科学的認識が成立するのだとマルク ( S ) スは述べたのであった。 ● ● ■ ■ ● この 「疎外」 の事例を大塚は群衆の事例を用いて分かり易く説明していることは'よく知られている。誰もが経験 のある群衆の中に身を置いた時のもの凄い力=エネルギーを想い出して頂きたい。そこでは'自分一人の力ではどう することも出来ない力が物凄いエネルギーで作用しているのだ。 大塚はここまで議論を進めて来て、マルクスの「経済学の方法」についてへさらに興味深い問題を投げかけている。 それはマルクスの主著﹃資本論﹄体系が'実は 「疎外」現象からの人間の解放を観念の世界で明らかにした著作だと いうことである。 大塚が説明しているのは、例えば次のところに見出される。
﹃資本論﹄が第一巻「商品」 から始まって第三巻第七編第五二幸「諸階級」 で終ることはよく知られていることで ■● ある。つまり「物化」 された形のもの'「商品」 から始まって 「階級」という、人間のあり方の最も現実的な条件、 ●● そして社会をなして生産している諸個人の'最も現実的な姿である階級的諸個人、そうした人間で終っていること。 ■ ■ ● ● ● ● ● ● ● ● ● ● このように物にはじまって人間で終るというこのマルクス ﹃資本論﹄ の構成に大塚は注目しているのである。 そしてマルクスのこの方法は、決して ﹃資本論﹄ の最後の部分にのみ現われるのではなく'﹃資本論﹄ のいろいろ な処に現われて来ていることを見出した。 例えば最初の 「商品」 の構造分析から価値形態論の終りまでは、すべて物と物との関係として、商品と商品とが方 程式の両辺におかれて等置されながら、価値が表現され'現象してゆくさまざまな形態が一つ一つ辿られている。だ が'一般的等価形態にまで進んで来て、貨幣の必然性が論じられるところからは説明の論理が急転回するのである。 第一章第三節「価値形態あるいは交換価値」と、第二章「交換過程」 の間に、第一章第四節「商品の物神的性格とそ ■■ の秘密」 が挿入されへ ここで「商品の物神的性格」が暴露され'人間が想起されていること。また第一巻第二編第四 章の 「貨幣の資本への転化」 の中でも、またまた人間が登場し'貨幣の所有者が資本家として、労働力の所有者で彼 の労働者である者を従えて'工場へ誘導Lt剰余価値の生産に携わせるという論理が導き出されていること。 -先に見た第三巻の終末'第七編では'ブルジョア社会の経済的諸関係の疎外された現象形態であり、物神的性格の 完成であるかの 「三位一体の範式」、すなわち、資本には利子'土地には地代'労働には賃銀が、という三位一体の 範式が批判され、ブルジョア社会における現実の異の姿である 「分配諸関係と生産諸関係」 とその 「諸階級」 が明ら かにされている。そして、ブルジョア社会における人間のもっとも現実的な婆'あるいはもっとも現実的姿における ' 蝣 l O I
人間諸個人に到達することになっている。 -﹃資本論﹄体系に見られるこうしたマルクスの論理の脈絡を辿りながら、大塚はマルクスの 「経済学の方法」が結 ● ● ● ● 局のところ、観念の世界の内部で、資本主義社会の中では逃れ得ないかの 「疎外」 からの回復'つまり物化現象 ( V e r s a c h l i c h u n g ) に 陥 っ て い る 人 間 の 解 放 を 論 じ た も の で あ っ た こ と を 明 ら か に し た 。 そ し て こ れ を 土 台 に し て 、 「ウエーバー社会学」 の方法の特徴と対比を明らかにしていったのであぅた。 B M・ヴェ-バー社会学の方法 a 「 動 機 」 の 意 味 理 解 の 手 続 に よ る 「 理 解 的 方 法 」 「疎外」論を論じ'「疎外からの人間回復」 こそがマルクスの 「経済学研究」 の出発点であり、かつ最終目的であ ったと説明した大塚は、次にマックス・ヴューバーの 「社会学」 について論じた。K・マルクスとM・ヴエーバー、 この二人は生きた時代も違っていたし、研究対象も異なっていた。だからこの二人を同一レゲエルで論じることには かなり大きな批判も抵抗もあった。大塚はこのことを十分承知した上で、そうした批判にめげず、「ヴエーバー社会 学」の研究に励み'「マルクス=ヴューバー問題」に集中していったのである。それはヴューバーの社会学の方法には' マルクスの方法を補う極めて重要な要素があることむ発見していたからであったO 大 塚 は t か の ﹃ 図 書 ﹄ 論 文 で は ' ヴ エ ー バ ー 社 会 学 に 対 し て 周 辺 か ら 順 々 に 接 近 し 、 本 論 に 迫 っ て い っ た 。 以 下 、 大塚が 「ヴューバー社会学」 から何を学んだか'そしてそれをどのようにして自分の研究に生かしていったかを中心 に論じてゆくことにしたい。 大塚はまずヴエルーフライハイー(We1年eiheit︰価値自由) の説明から始めている。通常「没価値性」などと訳さ れているこのヴエルーフライハイー(価値自由) という概念は、「ヴューバー社会学」を知ろうとするとき'極めて