‑A Pair of Blue Eyes を中心として‑
宮本義久
On Thomas Hardy's First Three Novels
‑with special emphasis on A Pair of Blue Eyes‑
YOSHIHISA MIYAMOTO
日の目を見ることなく散逸した処女作The Poor Man andtheLady以後,人気ある題材 探索のために,小説家Hardyの描いた軌跡は,さながら,さまよい込んだ闇夜の森に,道を 求める旅人の歩みの如く,貯余曲折し,その努力の跡を物語っている.
こゝに取りあげた三作Desperate Remedies, Under the Greenwood Tree, A Patγ of Blue Eyesは, Hardyの習作期の作品とも言うべきものであり,各々,題材選択上の試行錯誤を示 すようであるが,これ等三作は,この軌跡の中で典型的な一個の弁証法的発展とでも言うべき もの‑の試みを示していると思われる. Hardyは, A Pair of Blue Eyesに於いて,成否は 別にして,前二作を統合した,いわば習作期の集大成とでも言うべきものを意図しているので ある.この点を作品の構成と登場人物の性格を中心として考察してみたい.
The Poor Man and the Ladyは,断片的な証拠から判断すれば,貴紳階級の冷酷さ,中産 階級の俗悪さ,教会の偽善,社会道徳,家庭道徳の状態など,社会全般に亘る批判を目指す, 改革的な書であったが,極めて稚拙なものであったらしい. ① Hardyの最終小説Jude the Obscureが,作品の質は全く異るにせよ,同様に激しい社会批判の書であったことは, Hardy の小説全体を見て,一つのらせん状の円を形成していることになるのである.それは社会改革 への志向が,作家生活を通じて,彼の低流をなしていたことを示すものと考えられよう.後年 の, Judeへの批判攻撃を考慮すれば, Hardyに対する, George Meredithの処女作出版断 念の忠告は,適切であったと言わねばならない.
A Pair of Blue Eyesの中で,評論家Henry Knightは,小説を書かない理由を問われ
て,その一つは,受けの良い小説を書こうとすれば,自分の本当の考えを分別よく省く必要が あるからだ,と答えるが(p. 176),刊行第一作のDesperate Remediesは,作家志望者Hardy が,本当の考えを引っ込め,完全に社会に妥協した作であり,彼のdesperate remediesであ
ったことは明白である.
複雑な筋を持った小説を書けというMeredithの忠告は, Hardyをして,社会風刺から180 度転回して,流行のミステリ‑小説に向わせしめた.この作品の筋は,美貌の乙女Cytherea Grayeが,金持の雇主, Miss Aldcliffeとその隠し子のManstonの策にかゝって,恋人 Edward Springroveとの仲をさかれManstonと結婚式をあげるが,危いところで,彼の
先妻殺しが判明して, Edwardとめでたく結ばれるという,メロドラマ小説である.秘密と策 謀を中心に展開するこの物語の最後の三分の一は,完全な探偵小説となり,犯罪者と摘発者側 との秘術をつくした攻防戦に興味は移動し,中心人物は犯罪者の観を呈し,女主人公Cytherea の存在は,影の薄いものとなってしまっているDesperate Remediesという題名は,悪玉が犯 罪の露見を防ぐために行う,さまざまな工作‑先妻の替玉作り,写真のすりかえ,等‑を指し ているのである.
Hardyは,偶然の出来事や暗合に,物語の重大な展開を頼りすぎる傾向があるが,こゝで は,それが特に顕著である.作者は,この作品の開巻第一行で, ̀long and intricate in‑
wrought chain of circumstance'という言葉で,この物語を説明しているが, Cythereaの父 の青年時代にはじまり,以後切れていたかのように思われていた,このchainをつなぐ役割を するのは,彼女の兄Owenの,原因不明の足の病気である.このためにOwenは船に乗り遅 れ,偶然泊った家で, Miss Aldcliffeの過去の秘密を解明する端緒となる話を聞き込むので あるが,同時に,彼が船に乗り遅れたことから, CythereaとEdwardの出合い,恋愛が始 まるのである.出来事のchainは, Edwardの故郷の村で, Cythereaが父の昔の恋人であっ たMiss Aldcliffeの許に小間使いとして雇われること‑とつながってゆく.こゝらあたり, 偶然により,人物の相互の緊密な関係を作り上げてゆく作者の手並は巧妙という他はなく,杏 しき因縁の糸を想像させて面白い.
第二の段階は,女主人公が意に反して結婚へと追込まれてゆく過程で起る偶然である.
Manstonが,妻の来る汽車の時刻を見間違え,迎えに行かなかったこと, Edwardの父の経 営する宿屋が,同日焼失し,彼女がそこに泊っていたことで,彼女の焼死と信じられる事件が 起る.その結果, Miss Aldcliffe母子による,二人の恋人の離間策に, Owenの足の悪化に
よる経済的困窮が加わって, ManstonとCythereaの結婚‑とつながってゆくのである.
又,婚約者の結婚で,自由の身となったEdwardが, Cythereaの結婚日を一日間違えて聞 いたため,求婚のための到着は,式直後となってしまう.これまでは,偶然は,昔の恋人の娘 と自分の隠し子の結婚によって,代理願望を果そうとする母親と,女主人公‑の欲望にかられ る息子という,エゴイスティックな陰謀者母子にのみ,好都合に働くのである.しかし,第三 段階に入り, Manstonの生きていた先妻に買収されていた赤帽が,良心に駆られて,事実を
告白して以後,攻守は入れかわり,偶然は急転直下,逆に働き出すのであるEdwardが大陸 へ新婚旅行に出発したCythereaを追跡するための汽車は,出発した後と思ったのが,実は, 屑解けでレールがすべって延着し,彼女をその日のうちに連れ戻すことができる.又,犯罪の
‑発覚後, EdwardがManstonを偶然見つけるのは, Manstonが農夫に変装して逃亡中とい う話を聞いた直後のことである.そのために,彼はManstonに襲われたCythereaを危機 一髪,救うことが出来るのである.又,この物語で,最も重大な契機をなすOwenの足の病 気が, Cythereaの運命と規を一にして,原因不明のまゝ回復するというのは,どう考えても, 不自然で不可解なミステリーである. Hardyの偶然はIoaded diceであるという批判は,こ の作については,全く正当であるという他ないのである.しかし,これは,ミステリーを織り 込んだメロドラマ小説であり,この点は許容されて然るべきであろう.
Hardyは,この‑ピーエンドの結末部に更にミステリーを加えている. CythereaとEdward の結婚を祝って鐘をつく村人達の中に,一人の正体不明の黒服の男を配したことである.急死 したMiss Aldcliffeの遺産の始末を,この他所者がきゝ出すという形式で,読者にそれを知 らせる方便としているのであるが,実はこの男は,取材に来た新聞記者であったという訳であ る.ミステリ‑の最後の‑ひねりである.
Desperate Remediesは, Hardy作品中,習作中の習作として,評価の極めて低いものであ る.しかし,ミステリー小説としては,読者の興味を充分につなぎとめることの出来るもので ある.後の作品‑の発展という点から見れば,こゝには断片的ながら,その原型となるものが 散見される.その最大のものは,結婚前のCythereaとManstonの状況がTess of the d'UrbervillesのTessとAlecのそれに,かなり類似していることである.二人の女性の言 動には異句同音のものが,何度かみられる.そして又,二人の男性の,女主人公攻略の手に は,酷似している.前者は改良を加えられてTessに利用されてと見て差支えないであろ う.後に見るように, Hardyは,以前に用いたイメージや断片的思考や状況を,後に利用す ることの多い作家であるからである.
II
大学教育はおろか,大した学校教育も受けていない,いわば,独学者であり,社会的,経済 的にも背景を持たない,田舎出の建築技師の卵にすぎないHardyは,まだ文壇に知己とてな く,唯あるのは,彼の作家‑の志望だけであった.彼は,彼自身の才能の認識も持たず,進む べき方向も解ってはいなかったようである.次作の方向の決定も,批評家の間接的示唆に負う
ところが多かったようである. F. E. Hardyによれば, The Poor Man and the Ladyを読ん だJohn Morleyが,その中の田園場面が,最上の部分であると批評したことから,その中の
「運送人」もそのまゝ導入して,刊行第二作のUnder the Greenwood Treeが書かれたとい う.㊨ Desperate Remediesに関して言えば,書評は極めて良好であった. ㊨ Miss Aldcliffe
に私生児があるなど,上品さに反するという理由から,ただ一紙,この作品を酷評したSpec‑
tator紙も,この作品の中の数ヶ所に見られる端役の農民たちの場面の素晴しさに着目し, 作者のこの方向‑の発展を示唆したのであった. ④以後のHardyの̀Wessex'の田園生活瓶 写の核となり, ̀Wessex Novels'の一大特色を形づくる,いわゆる̀chorus characters'が, Under the Greenwood Treeでは,集団として主人公となり,舞台の前面を占めて描き出され
るのである.
この作品は,複雑で考案を凝らし,スリルとサスペンスを狙った前作とは対照的である.こゝ にはi偶然の跳梁も見られない.この作品の中心テーマは, A Rural Painting of the Dutch Schoolという副題の示す如く,平凡で素朴な田園人の牧歌的生活風景描写なのである.その
タッチは軽快で,ユーモアに満ち,コミカルでさえある.
Peter V. Marinelliは,牧歌について次の様に述べている. 「牧歌の大きな特色は,理想的 な,或は,少くとも現実の世界よりは,無垢な健界が失われたと感じられ,しかもその喪失感 が,その世界の記憶を破壊するほど,或は,現在の現実の世界と過去の完全な世界のあいだの 想像力の交流を不可能にするほど,深くない場合に,牧歌が書かれるという点である‥‥し たがって,牧歌は都会的な,屈折した視点とでも言うべき視点から書かれている.喪失感を意 識しない人が,郷愁という感情を抱くことはない.したがって,現実の牧人は,牧歌を書きは
しない.牧歌という芸術は,本質的に回顧的な芸術であり,アルカディアは,その創造以来, 切ない憂愁をこめた憧れの産物である.牧歌は,歴史の過程を(そしてその「進歩」を)逆転 するのである.」(9
1896年に附した序文の中で, HardyはUnder the Greenwood Treeの聖歌隊の部分は, 50‑60年前のあちこちの村の聖歌隊に普通に見られた人物,風習,習慣の,かなりありのまゝ の姿を映し出したものである,と言っている.作者の祖父も父も,作品中のDewy家の祖父 や父と同様に,約40年間にわたって,村の聖歌隊のヴァイオリンを弾き,この聖歌隊は,作者 の1才頃に解散になったと言われる. ⑥又, Hardy自身も, 12才頃からかなりの期間,村の 結婚式や大晦日のパーティなどで,時には父と一緒に,ヴァイオリンを弾いたことがあったと 伝えられる. ⑦従って,この作品は,作者自身の幼時の経験の所産と言って良い.上に引用し たMarinelliの牧歌についての言は,正しくUnder the Greenwood Treeを創作したHardy の心境の,適切な説明となりうるものであろう.回顧という美化のフィルターによって漬過さ れた,無垢で幸福な過去の世界,それがこの作品の世界である.処女作との隔たりを考えた場 合,正にこれは,都会人Hardyの屈折した視点から書かれた作品なのである.
この作品では,二つのエピソ‑ドが同時に進行する.その‑つば, Dewy家の篤信の祖父を リ‑ダ‑とする,伝統の聖歌隊にまつわるもので,これが前半では前面に押し出される.もう 一つは,このDewy家の長男Dickの求愛の物語で,後半を独占する.そして,このDewy 家を中心とする二つのエピソードの両方に,若い牧師Mayboldと,師範学校新卒の女教師 Fancy Dayという,外部の世界からの新参者がからんでいる.
聖歌隊は,この牧歌世界の代表であり,古い伝統,慣習の守り手である.彼等は情緒的,人 格的なもので結びついており,融和, ‑‑モニ‑の人間関係を形成している.この世界は, Terdinand Tonniesの言うゲマインシャフトのプラス面を示していると言い得るであろう.
例えば,靴屋のPennyの店先に看板が吊されていない理由は,次の様に説明される:
No sign was over his door; in fact‑as with old banks and mercantile houses‑
advertising in any shape was scorned, and it would have been felt as beneath his dignity to paint up, for the benefit of strangers, the name of an establishment whose trade came solely by connection based on personal respect, (p. 69)
おつむの弱さを,自他共に認めるThomas Leafも,対外交渉や祝宴において,除け者とさ れることはない. Dewy家のクリスマスパーティは,開放的,包容的で,聖歌隊の敵である農 場主Shinerも,新参者Fancyも,差別なく招かれるのである.
しかし,作者の祖父や父の聖歌隊が,解散の止むなきに至ったように,この郡内にただ一つ 残る聖歌隊も,外部から寄せてくる,新しい時代の波に抗し得ず,廃止させられ,流行のオル ガンに席を譲ることになる.この新しい波を代表するのは,オルガン好みの牧師Mayboldで あり,隣村に住む父の財力を背景に学校教育によって,教養を身につけ,オルガンの弾ける IFancyである.時代は変り,古いものは消えてゆくのであるMidsumme卜eVeの,未来の 夫占い(p. 54)や, Whitsuntideのclub‑walking (p. 114)の慣習がすたれてしまったのと同 mm
伝統の聖歌隊の解散と相前後して, DickのFancy ‑の求愛が成功して,正式の婚約が成 立する.しかし,この過程にも障害は皆無ではないDickの恋をおびやかすのは,聖歌隊を 直接又は,間接的に解散に追い込んだのと同一勢力の人々である. Dewy家が代表する牧歌世 界は,集団としても,個人的にも,異質の世界の挑戦をうけるのである.まず,金持ちで野卑 な農場主Shinerである.聖歌隊との感情的もっれ以来,悪意を抱き,又, Fancyを恋して, 彼女を教会のオルガニストにさせるべく,教区委員として,牧師に聖歌隊廃止‑と圧力をかけ た彼は, Fancyに関して, Dickのライバルである.最大の障害は,貴族の所有する森の管 理人であるFancyの父である.彼の財力崇拝,節約,娘の教育への投資も,すべては,娘を 財産ある紳士と結婚させたいという,社会的野心の達成に向けられている.従って彼は,娘に Shinerをすすめ,貧乏なDickとの結婚には大反対する.しかしFancyは,魔女と評判さ れる女に,断食作戦という策を授けられ,娘の命を気遣う父親は, Dickとの結婚を承諾する のである.最後の危機は,密かにFancyを恋していたMayboldの, Fancyへの突然の求婚 である.そしてこれは, Fancyの,又,作者に言わせれば,恐らく全女性の,本性的願望‑
ambition and vanity (p. 189) ‑と,深くかゝわる事柄なのである.彼女は,自己の本性的願 望と,婚約という道義上の義務のどちらを選ぶかという決断を迫られるのである.この強大す ぎる誘惑に,彼女は自分のDickとの婚約を忘れ,承諾してしまう.そして,迷った挙句に, 翌日になって,道義上,又,善良そのもののDickへの愛を悟って,承諾を取り消すのであ
るDickの恋は, Fancy自身によってもおびやかされるのである.即ち,彼女の教養とその 洗練された美しさ‑それ等は元来, ambition and vanityに発するものである‑は, Dickのr 他に, ShinerとMayboldを惹きつけ,聖歌隊廃止を促進したが, Dickの求愛の実りを脅 かすのは,彼女のこのambition and vanityに外ならない.
Fancyは,最終的には善への愛とモラルの選択によって,彼女の本性的願望に幾分かの来観 を残しながら,父共々, Dewy家の代表する無垢と調和の牧歌的世界に入る.二人の結婚にお いては, Fancyの希望によって,教会への行列の並び方や,式後の,花嫁花婿を先頭に立て た村内の行列という,代々の慣習は受けつがれる.最後に,枝を広げた老木の緑の陰で,老若 男女による慣例の結婚の祝宴が,めでたく行われる.古い習慣は,或は消え,或は維持されな がら,新たな調和を見出してゆくのである.
Under the Greenwood Treeは,本質的に牧歌的作品である.牧歌性という枠をはみ出すよ うな,由々しいことは避けられ,すべてはこ.の枠内に収められている.むき出しのリアリズム は,意識的に排除されているのである.ここに描かれている田園は,悲しみ,苦しみのある現 実そのまゝの田園ではない.死産や出産直後の死亡やらで,成人したのは12人の子供のうち で,たゞ一人のLeafの家庭, 5人の子供のうち3人を失ったPennyのまだ若い娘,等,多産 多死の問題も,又,意に満たぬ結婚生活のことにしても,それらは,田園人のストイックな
̀'twas to be'(p. 10, 103, 196)という宿命観に通じているものであるが,彼等の生活の智恵と して片付けられ,背後に押しやられているのである. Mayboldの失恋の苦しみもほとんど触 れられず,物語の前半を支配する,聖歌隊の廃止問題も,大した乳礫を生じない.むしろ,こ の廃止をめぐっての,隊の構成員の数皮に亘るユーモアに満ちた会話と,会話中の動作,表情 のユ‑モラスな描写そのものに作者の重点はおかれており,それがこの作品の興味の中心をな すものであるDickの単純で,逆せ上った求愛ぶりも,ユーモラスに描かれている. Fancyの 父の反対, Mayboldの求婚という,彼にとって障害のあるこの求婚は,現実には,それ程容 易に解決のつく問題ではない筈であろうが,作者は前者を魔女の智恵により,後者を主とし て, Fancyの道義的良心によって解決している.しかし,この道義心というのが,実は地者 なのであって,第‑に自分の髪と顔の色つやを,第二に服装と帽子を関心事として,男性すべ てを魅して讃美されることを生命の粒とするFancyにとって,最も期待することの出来ない 性質のものなのである.彼女のこの讃美されたい願望は,教会のオルガニストとしてデビュー する際に,明らかに示される.女教師としての節度も,教会での慣例もすべて無視して,孔雀 のように身を装い,自分のデビューの陰に,聖歌隊の解散という痛恨事があることも,念頭に ないのである.又,彼女が本当にDickを愛していたかどうかも,甚だ疑わしいところであ
る.作者のFancyの乙女心の解剖は,単純なDickのそれに比べて,はるかに入念である.
彼女を女王か女神のように崇めてくれるDickを手玉に取りながら,平凡,素朴で,善良さ丈 が取柄の彼に,物足りなさ,幻滅を感じながらも,彼と結婚する気になったのは,時には他の 女性のことでDickに嫉妬したり,親に秘密の彼とのデートに刺激を見出し,最終的には,
父親の猛反対で,恋心が極度に煽られる結果となったからである.いやそれ以上に,孤独な一 人暮しに退屈し,奇態な性分の義母のもとで,生家で耐えられない生活をするよりも,相手が 誰であれ,結婚した方がずっと良いと思うからなのである,と作者は説明しているのである.
だからこそDickが彼女の見栄に腹をすえかねて,決然と決別の態度を示せば,驚きあわて て,彼を追うのである.
Fancyは,牧歌の世界よりも,現実の性界に属する人物になりかけている.特に聖歌隊に とって代った以後の彼女には,作者の描き方にシニカルなものを感じさせるものすらある.
Hardyは, Fancyの父の反対とMayboldの求婚という, Dickにとってのこの二大障害を, 牧歌的‑ピーエンドの枠を優先させることによって,めでたく解決しているのであるが,これ
は,作者の魔法の杖の二振りであるという印象は避け難い. Fancyが,柄にもない道熟し、を とらず,その本性的願望を追求してゆけばどうなるか.それは作者が故意に避けた問題であ り,早晩,作者が,非牧歌的作品で取組むことを迫られる問題であろう.
III
Under the Greenwood Treeについて,批評家達の評は良好であったが,次作の構想に当っ て, Hardyは再び,前々作Desperate Remediesのプランに基いた,筋中心の小説へと,方 向を戻すことになった.それにはMacmillan杜からUnder the Greenwood Treeの原稿の 判定を依頼されたある批評家の,次の様な意見が,かなり大きな影響を及ぼしているのではな いかと思われる:
.‥ I don't prophesy a large market, because the work is so delicate as not to
hit every taste by any means. But it is good work, and would please people whose taste was not ruined by novels of exaggerated action or forced ingenuity
....ョ
作家業に専念するかどうかを決め兼ねているHardyにとって,ポピュラ‑な小説を書くこと によって,財政的保証を確保することが,まず第一に必要であったのである.
A Pair of Blue Eyesは, Desperate Remediesと同様に,登場人物の秘密と,その解明を 中心に筋が展開する.たゞ両者の違うところは,後者では,秘密は読者にとっての秘密であ
り,その極端な形として,探偵小説,犯罪小説的趣きを呈した.ところがこの作品では,初頭 部では,秘密は読者にとっての秘密であるが,以後は,他の登場人物にとっての秘密である.
読者は既に秘密の正体を知っているのである.その秘密の性質は,その発見者の特徴的偏見 に,真正面から対立する致命的なものである.しかし発見者が,その秘密の保持者に対して, 好意乃至愛情を抱くのは,正にその偏見そのものに応えてくれるものが,相手にはあると誤解 するが故なのである.即ちdramatic ironyを作者は意図しているのである.
まず第一のdramatic ironyとして,ロンドンから来た建築技師Stephen Smithの秘密
と,辺村の貧乏牧師Swancourtの偏見があるSmithの秘密は,父がこの村のLOrd Luxellianの石工頭という身分卑しいものであることである.そしてSwancourtは,今は 落ぶれているにも拘らず,貴族の血を引くところから,人間の価値判断を家系,血統におくと いう偏見を持っ,階級意識の権化である. Smithの名前から,彼を名家の血を引くものと一人 決めし,又,彼の卒直で開放的な人柄もあって,牧師は彼に極度の好意を寄せるのであるが, Smithの告白でガラリと態度を変え,娘のElfrideとの結婚に反対する.
次のdramatic ironyは, Elfrideの秘密と, Smithが師と仰ぐ評論家Henry Knightの 偏見に関するものであるElfrideの秘密は, Smithと親の許さぬ恋に陥り,秘かに結婚する 為に,ロンドンへ駆落ちした前歴である.しかし.彼女に勇気がなかった為,不成功に終って しまう. Knightの偏見は,結婚相手が,彼同様に異性との恋愛経験のない清浄無垢な女性で なければならないという,潔癖な願望に基づくものである.彼は, Elfrideが,彼の理想とす る女性と信じて,愛しはじめる.しかし,彼女の秘密が,序々に露見されるに及び,彼は彼女 から去って行くのである.
Elfrideと読者に対しては, SmithとSwancourtの,謎の行動で,この物語は始まった が,作者は,最終部に於いて, Elfrideとの結婚に再び執心を燃やすSmithとKnightに, 最後のそして最大の皮肉を用意していた.そしてそれは,読者のfg]待,好奇心にも,完全な肩 すかしを食わせるものであるElfrideはLOrd Luxellianと結婚した後,流産の為,すで に死んでいたのである.この作品は,ここまではかなりの成功を収めている.にも拘らず,そ の全体的評価が人により別れるのは,この最終部分(第36章以下)のためであろう.この作品 は,作者の分類によればRomances andFantasiesに入るものである.従って個々の出来事 の蓋然性を,細く詮議するのは適当でないかもしれないが,それも程度の問題であろう.特に 問題にしたいこの部分について言えば,いかにインドでのこととは言え, 21才そこそこの,し かも作者に言わせれば,独創性がなく,あるのは受容的能力だけのSmithが,建築技師とし ての手腕により,有名を馳せるようになるとは,同じ職業出身の作者は信じてもいなかったこ とであろうし,そのエピソードの導入の仕方(第36章)も,取って付けの感が強いElfride に正式に求婚する資格をSmithに与える為の,不自然な細工であると言わねばならない.以 下巻末までの4章では,ロンドンでのSmithとKnightの偶然の出合いによって, Smithは KnightとElfrideの恋愛が破綻したことを知り, KnightはElfrideの以前の恋人がSmith であり, 2人の駆落ちが,子供っぽい罪のないものであったのに,怪聞知らずの彼女が,それ を重大な罪と考えていたのだということを知る.そして両者が, Elfride獲得のために,狐と 狸の様に,腹をさぐり合い,編し合い,ライバル意識や自惚れを露出するところは,コミカル
というより,茶番狂言に近い.この物語の初頭の, DickとFancyの恋愛を思わせる軽快な タッチから,中盤の悲劇的調子への発展に比し,この急激な調子の低下は,読者に戸惑いを 感じさせるものである.特にKnightの変り方は大である.これまで絶えず強調されてきた Smithとの対照性とは打って変って,偽臓を行ったことのないKnightが,自尊心を失い,
Smithと全く同じ浅ましさを呈している. Knightをこうも変えた作者の意図は,一つには, この作品の一つのモチ‑フとなっている̀No man is fair in love.'(p. 88, 90)を例証し,紘 密を自ら告白しなかったElfrideを免罪するためであろう.その上,作者は, Knightの彼女 に対する残醋な取扱いのために,彼がこうまでして獲得したいElfrideを,永遠に彼の手の届 かないところへ置くことによって,彼に処罰を与えたいのである.
この茶番劇のために,又,彼女の死が,知人によって間接的にしか語られないために,この 死は悲劇的という印象が非常に稀薄であることは否めない.それが,後に述べるように,作者 の狙いでもあったと思われる.
Hardyは後年, Elfrideの死の結末は,本質的に正しく,この作品全体から見て,芸術的に 完全であると思い,後悔していなかったらしい. ㊥確かに全体として見た場合,その通りなの である.この作品は,徹頭徹尾, ̀chain of circumstance'(p. 369)のアイロニーを描くこと を作者は意図しており,中心人物たるElfrideをはじめとして,全登場人物の意図は挫折に 終るのである.例を2, 3挙げると,父の反対のため, 2人を永遠に離すかも知れぬ̀forceof circumstance'(p. 106)を防ぐためのSmithとの秘密の結婚の企ても失敗に終る上,後には それがKnightの潔癖な性倫理に糾弾され, Elfrideには致命的な結果を招来するSmithと の結婚の約束という義務をとるか, Knightへの愛をとるかに迷った末,自己犠牲を覚悟し て, Smithとの約束を守ろうとした直後に, 「名なしの崖」で事故に遭ったKnightを命がけ で救出することで, Elfrideの心は,完全にSmithから離れることになる.息子の死を, Elfrideへの失恋によるものと恨み,復讐の機をうかがって,黒い影のように彼女につきまと
うMrs. Jethwayに,自分の秘密を口外しないようにと頼むElfrideの手紙が, Mrs.
JethwayのKnight ‑の暴露の手紙の信葱性を裏付けるものとして利用され, Knightは, 彼女の許から去ってゆくことになる.しかも,上述の如く, Elfrideは,重大な過失を犯した のではなく,実はMrs. Jethwayの悪意ある誤解, Elfrideの無知による誤解に基いて, Knightが,重大な過失と誤解したことから,この決別が起っているのであるから,二重に皮
肉である.
Elfrideの,二度に亘る愛の成就の意図は,階級意識と,厳しすぎる性倫理という,二つの 偏見に阻まれて挫折する.これは勿論, SmithとKnightの意図の挫折を伴う. Swancourt の血統主義は,娘とLOrd Luxellianの結婚によって,目的を達したかに見えるが,娘の流産 と死により,昔の貴族に帰る夢も水泡に帰する.結果的に言えばElfrideの二つの愛を阻み 処罰した男性社会の二つの偏見は,今度は作者によって処罰されるのである.丁度偶然の事故 によって死んだMrs. Jethwayが,結果的にElfrideに息子の復讐をなし遂げたようにであ る.このように見ると, Elfrideの死は,全体的に見た場合という条件っきで,本質的に正し く,芸術的に一貫性を持つものなのである.作者の狙いは,アイロニーにある.そのために Elfrideの死は,悲劇的なものとして特別に強調されないのである.
Elfrideの死を知ったKnightの,
'Can we call her ambitious? No, circumstance has, as usual, overpowered her purposes‑fragile and delicate as she‑liable to be overthrown in a moment by the coarse elements of accidents.'(p. 430)
という言葉にまとめられるように,彼女は全くcircumstanceに翻弄されるのである.が,そ れは又彼女の性格とも大いに絡んでいるのである. Fancy同様に, Elfrideの性格は仲々に興 味深いものであるので,以下,それを考察してみたい.
まず基本的には, Elfrideは,世間を知らずに育っていることが性格形成に大きな影響を与 えている.デリケ‑トで傷つき易い神経の持主なので,行動面では極めて憶病で,未知の事態 に直面すると,自信がなく不安である.常に誰か̀prompter'(p.72)が必要なのである.即 ち,精神的には,まだ離乳していない子供なのである.そういう訳で,彼女が恋人に求めるの は,依存出来る程成熟した男性らしさである.彼女は,最初の恋人となるSmithに対しては, 彼が‑ンサムであるために,一時的に好意を抱いたにすぎない.彼女が彼を見直したのは,彼
の謎の行動から,彼に秘密があり,恋人がいるかも知れないと嫉妬しながらも,秘密を持って いる彼に,一人前の男性らしさを感じたからである. (p. 74)この秘密がなければ,彼女は多分 彼を愛したりはしなかったのである. (p‑ 75)彼女の恋心が煽り立てられたのは, Smithの素 性を知り,父の反対を予想したからであり, (p‑ 82)最終的には父の現実の反対に直面したか
らである. (p. 107)
ここには, Under the Greenwood TreeのFancyの場合と同じパタンが見られる.勿論, 両女性の性格には相違がある. Fancyは自立性があり,異性に対して,自己の見栄の実現を 求める傾向がある.これに対し, Elfrideには自立性は乏しく,男性に精神的偉大さを求める 傾向がある.作者はこの2人の女主人公の性格に応じて,美しさをDickの心からSmithの 容貌‑と移し, 2組のそれぞれの男女を対照させ,ヴァリエーションを与えている.作者の若 い女性の恋に対する,このシニカルとも言える見方は,物語の筋のためではなく,その女性観 に起因しているのである.従って,彼女達の行手には,幻滅と,次の恋愛‑推移していく可能 性が待ち受けているのである.親が身分の低い男との娘の結婚に反対するテーマは,既にThe Poor Man and the Ladyに見られるが,作者は, FancyもElfrideも同じ問題に遭遇させ る.又, FancyにはMaybold, ElfrideにはKnightと,彼女達が異性に対して求める願望 を実現させてくれそうな男性を,初恋の後に配しているのである.前作では,作者は,作品の 性質上, ‑ど‑エンドを求めて,この二つの問題を簡単に片付けてしまったのは前述したが,
この二つは, Fancyの身分上,性格上,全く触れないですませられる性質の問題ではないの である.この点, Under the Gγeenwood Treeは現実を軽視し,女主人公に夢をあっさりと放 棄させて,その性格を歪曲していると言えるA Pair of Blue Eyesに於いて,作者は,かな
りの変化を与えてはいるが,間違いなく,この二つの問題に取組みElfrideの性格をFancy よりもはるかに丹念に描き,その運命を追求しているのであるSmithとElfride各々の悲 愛の初期の行動にも,会話にもDickとFancyの問のそれと類似したものが見受けられる.
又, MayboldとKnightは,身分上各々の女性の上にあり,性格上も両者共DickとSmith が衝動的な子供であるのに比べ,自制力が強く自己隠蔽的な大人であることを指摘したい.
Elfrideは,駆落ちする前に父に告白しようかと迷う.又,その途上でも進むか退くか迷っ た挙句,その決定を乗馬の進む方向に預ける.このようなところに彼女の行動面の憶病さ,自 イ言なさは明白に現われているSmithの子供っぽい手違いがなくとも,教会に入る勇気はなか ったであろうElfrideはこれまでSmithよりも̀greater'(p. 131)な男を知らなかったので ある.しかし結局,彼はElfrideの望む頼りになる強い男性ではなかったのである:
His very kindness in letting her return was his offence. Elf ride had her sex's love of sheer force in a man, however ilトdirected; and at that critical juncture in London Stephen's only chance of retaining the ascendency over her that his face and not his parts had acquired for him, would have been by ‑. dragging her by the wrist to the rails of some altar, and peremptorily marrying her ‑ ‑
〔D〕ecision, however suicidal, has more charm for a woman than the most unequivocal Fabian success, (p. 140)
偶然のつながりから出現する,強大な知力と精神力を備えたKnightの方が, Elfrideの理 想に一層近い男性であったのである.彼女の心がSmithから彼へと移って行くのは, ̀that
natural law of physics which causes lesser bodies to gravitate towards the greater
(pp. 172‑3)による様なものである.By the side of the instructive and piquant snubbing she received from Knight, Stephen's general agreeableness seemed watery; by the side of Knight s spare love‑making, Stephen was hardly enough of a man. (p. 288)
尊敬するが故に,又,自己の卑小感,劣等感を味わされ,尊敬されたいという願望を起すが故 に,彼女が愛するようになったKnightは,偶然にも生来潔癖すぎて結婚に適さない男であっ た(p. 366)これが彼女の不幸であったのである.男女両性の調和的結合への,作者のペシミ ズムの最初の表われである.
Fancyの場合と同様に, Elfrideについても言えることは,道義的責任感の欠如である.婚 約者Smithに対する彼女の義務感と, Knightへの愛の推移の間には,かなりの期間に亘っ て葛藤があったのは確かである. Knight ‑の愛に踏み切ったElfrideは,彼女の過去の秘密 を告白するか否かの倫理的決断を迫られる.しかし,ここでも彼女は彼の愛を失うことを恐れ
るあまり,最後まで秘密を守り通そうとする.そしてその為に誤解が生じ, ̀the possible vastness of an issue which has only an insignificant begetting'(p. 216)が現実のもの となるのである.フロイト流に言えば, Elfrideはsuper‑egoが弱くpleasure principle に支配され続け, 2人の男性に苦杯をなめさせ,遂に, Knightの強力なsupeトegOに処罰 されるのである.前作において, MayboldがFancyを̀less an angel than a woman' (p. 187)と考えるように, Elfrideも又, Hardy小説の女性の多くに共通して,その遠心的
快楽志向性によって男性に破壊的影響を与えるwomanである.
にも拘らず, (そして,ここにHardyの特徴があるのだが)作者はElfrideの肩を持つの である.まず作者は, Elfrideは未成熟の乙女である.従って,男性ならば負わねばならない 道義的責任を,彼女に強いるのは酷であり,女性の魅力も,一部は恋愛に於けるその微妙さに あると,彼女を免罪するのである. (p. 300)逆に彼女の純潔を邪推したKnightの残醋な仕打 ちと,彼女の過去にこだわり, (SwancourtのSmithの素性‑のこだわりも同様である)現 在の彼女の献身的愛を,ありのままに受け取ることも出来ないKnightの狭量とエゴイズムが 責められる:
.‥ Knight never once thought whether he did not owe her a little sacrifice
for her unchary devotion in saving his life. (p. 390)
このようにHardyは, Elfrideに対する同情へと読者を導いてゆく.そして前述の如く,彼 女をcircumstanceの犠牲者とするのである.
Hardy小説に関しては,その建築学的構成がしばしば注目されるところであるが, A Pair of Blue Eyesは特にそれが目立った作品である.人物問の緊密な関係は言うまでもないことで あるが,人物の性格及び相互関係の対照法は,必要上,当然のこととして,類似の行為の並 列,反覆が細心巧妙に組立てられているElfrideとSmithを中心とする発端部では,パラ
レリズムが顕著にみられる. SwancourtとMrs. Troytonの秘かな交際は, ElfrideとSmith の恋愛と時を同じくして進行し, 2組の男女の秘密の結婚‑の試みに伴う行動も,同一のパタ ンをとるのである.即ち,彼等の時を同じくした同一の目的を持った,いくつかの行動が, 平行して描かれるのであるElfrideとKnightを中心とする中央の展開部では,反覆と対照 が支配的である.発端部でのElfrideとSmithの行動が,彼女とKnightによってすべて 繰返される.しかし, Elfrideの2人の男性に対する関係は対照的である. SmithもKnight
も各々Swancourt家を二度訪れる.そして二度目に訪問した際に行うElfrideとのチェス が, 2度共恋愛の引き金となる.勝者となったElfrideはSmithに勝を譲ろうとする.又, Knightは敗者になったElfrideに勝を譲ろうとする.二人の男性は常にElfrideにとって,
このように対照的に描かれてゆく.反覆は又, Elfrideの秘密の露見‑の布石としても用いら れている. Felix Jethwayの墓では, ̀the first comer in a woman's heart'(p. 213)たり たい2人の男性が,そうでなかったことを発見する. WindyBeakの崖行きも繰返され,こ こでKnightは恋人が̀untried lips'(p. 333)の持主ではなかったことを発見するのである.
作者は又,イアリングやElfrideの寝言などを配して,秘密の露見の布石として用いている.
又, Elfrideは, Knightを追って二皮目の実りなきロンドン行きを繰返す.
終結部は,再びハラレリズムが用いられる.ここではSmithとKnightの行動は,パタン の上からも時間的にも,行動は全く並行している.そして作者は,求婚のために,共に用事 をキャンセルし,互に相手を出しぬくつもりで村に急ぐ二人の乗った汽車に,棺に納められた Elfrideの死体を乗せて,パラレリズムと共に,三人の運命のアイロニーを一段と増している
のである.
̀Ars est celare artem.'⑲ Hardyがこの作品で行ったコントラスト,パラレリズム,反覆 は,確かに彼の構成の巧みさ,細心さを物語るものではあるが,同時にそれは,このように過 度に,又あまりに整然と用いられると,作品中の出来事がいかにも人為的という印象を与え, 結果的にマイナスになるという裏腹な効果をもつものではないであろうか.そういう感を抱か せる作品である.
IV
以上, Hardyの初期三小説をA Pair of Blue Eyesを中心に,前二作との関係を考察しな がら概観した.即ち,ポピュラ‑なstory‑tellerを目指すHardyは,まずミステリー趣味を 狙って,複雑な筋のDesperate Remediesを書いたが,次のUnder the Greenwood Treeで は,単純素朴な田園人の生活を,芸術的まとまりのある単純な筋を持つ,単純な構成の物語に 描いた.田園趣味を狙ったと考えてよいA PairofBlue Eyesは,前述の如く,前々作から は複雑巧妙なミステリーの手法を更に磨きをかけて取り入れ,前作からは後半の人物問の関係 に多少の変更を加えて,それを進展,複雑化したものである. Hardyの習作期の集大成とで も呼ぶべき作品である.前作の女主人公Fancyの性格描写が,適確だが大ざっぱなものであ るのに比して, Elfrideに於いてはますます精緻になっており,人物問の状況も,一段と深刻 化したものになっているのが注目される.
The Return of the Native完成直後に, Hardyは次の様な覚え書きを記している:
A Plot, or Tragedy, should arise from the gradual closing in of a situation that comes of ordinary human passions, prejudices, and ambitions by reason of the characters taking no trouble to ward off the disastrous events produced by the said passions, prejudices, and ambitions.㊨
これを三作品にあてはめるとDesperate Remediesでは, Cythereaを最大の窮地に追い込む 原因となった火事に際して, Farmer Springroveの怠慢が作者によって問題とされる.しか し彼女の災難を防止し,最後には幸福をもたらすことになるものは,陰謀者母子を除く全関係 者の良心の糾合と注意深い行動が,偶然をも利用することが出来たからであることを,作者は
強調している.その上passionは女主人公のそれではなく,むしろManstonのであり, 又, Edwardの恋は̀warm fellowship'(p. 296)であるとされるのであるUnder the Green‑
wood Treeでは, Fancy父娘のambitionが災難を惹き起す可能性をはらんでいるが,魔女 に授かった策とFancyの良心によって,災いは避けられ,かなりの幸福が約束されるのであ るA Pair of Blue Eyesでは, SwancourtとKnightのprejudicesに災いされると共 に, Elfrideは自らの願望をFancyのように良心によって律することが出来ない.願望に流 されcircumstanceにもてあそばれる丈で,災難を防止することが出来ず,不幸に陥って行く のである.彼女の過失が,思い過しであったということはここで重要な意味を持つのである.
この作品は上述のtragedyの条件に合致するが,巧妙この上ない工夫の効果に重点がおか れ,女主人公も悲劇的人物たる大きさに欠け,悲劇と呼ぶには適当でない.
Elfrideをめぐるこの状況の深刻化はThe Poor Man and the Ladyに於いて意図された 社会批判と関係を有しているように思われる.これら初期三作品では,貧困,階級意識,性道 徳規範などが,登場人物の幸福を危機に曝す大きな要素としてあげられているのは確かであ る.しかし,これを後のTessやJudeに見られる社会批判的要素と同一であると判断するの, は早急であろう. Hardyにこれ等の社会悪を批判する気持が皆無があったという訳ではなく, A Pair of Blue Eyesに於いては,それが強く感じられる.しかしこれ等の社会悪はむしろ story‑tellingの道具として用いられているのであるCythereaとMiss Aldcliffeとの間 には貧富,階級を越えた心の結びつきが見られるし, Fancyの父は容易に軟化し,社会的 偏見が最も強大な力を振う第三作でも, Swancourt, Knightは例外的個人として描かれ, (Swancourtの貴族主義とKnightの潔癖な性倫理は,各々Tessの中のTessの父とTess・
の恋人Angel Clareに対応するものが見出される.)それ等の偏見は個人悪として扱われ, 社会一般‑の批判‑と拡大,普遍化されるものではない. Hardyは,社会問題に関してもま だ̀real thoughts'(P. 176)を隠し,巧妙なstory‑tellerたることに徹しているのである.本 格的な社会批判は,すでにこの三作品に見られるこれ等の社会悪を基にした的∫∫を待たねば
ならないのである.
Desperate RemediesからUndeγ the Gγeenwood Tree ‑と急転回したHardyは,再び方 向を第一作にもどしたが,この一巡の結果たるA Patγ of Blue Eyesは,当時のHardyと しては野心的作品であったのであり,ここにHardyの習作期は終ったと考えてよい. Hardy の最初の傑作と言われる次作Far from the Madding Crowdは,再びUnder the Greenwood Treeの田園生活描写へと帰るが,そこにはA Pair of Blue Eyesの成果が利用されているの
が見られる筈である.
Notes
(テキストはMacmillanのThe Greenwood Editionを使用)
㊨ J. I. M. Stewart: Thomas Hardy: A Critical Biography, pp. 47‑8 (Longman, 1971) F. E. Hardy: The Life of Thomas Hardy, p. 86 (Macmillan, 1965)