2019
年度 修士論文
福島県の伝統的家屋・曲家の耐震性評価 及び L 字型単層建物の
等価 1 質点系縮約手法の提案
2020
年
2月
首都大学東京大学院 都市環境科学研究科 建築学域
川島 康生
i
目次
第1章 序論 ... 1
1.1 研究の背景と目的 ... 2
1.2 先行研究 ... 4
1.3 本論文の構成 ... 5
第2章 調査地域概要... 7
2.1 前沢集落の概要 ... 8
2.2 喜多方市の概要 ... 15
第3章 福島県の曲家... 31
3.1 中門造 ... 32
3.2 喜多方市の曲家 ... 39
第4章 福島県前沢集落における構造調査 ... 57
4.1 調査の概要 ... 58
4.2 A邸の調査 ... 61
4.3 B邸の調査 ... 76
4.4 C邸の調査 ... 88
4.5 F邸の調査 ... 117
第5章 福島県喜多方市における調査 ... 161
5.1 調査の概要 ... 162
5.2 D邸の調査 ... 164
5.3 E邸の調査 ... 196
第6章 比較考察 ... 231
6.1 前沢集落の地域傾向 ... 232
6.2 喜多方市の地域傾向 ... 240
6.3 中門造と喜多方の曲家の比較 ... 242
6.4 他地域との比較 ... 245
ii
第7章 L字型単層建物の等価1質点系縮約手法の提案 ... 251
7.1 概要 ... 252
7.2 等価1質点系縮約手法の提案 ... 254
7.3 提案手法による再評価 ... 267
7.4 提案手法の有効性 ... 276
第8章 結論 ... 277
参考文献 ... 280
投稿論文一覧 ... 282
Appendix ... 284
謝辞 ... 362
- 1 -
第 1 章 序論
- 2 -
序論
1.1
研究の背景と目的
我国には伝統木造建物が数多く存在する。1975 年の文化財保護法の改正に伴い伝統的建 造物群保存地区の制度が発足し、城下町、宿場町、門前町など全国各地に残る歴史的な集落・
町並みの保存が図られるようになった。市町村は伝統的建造物群保存地区を選定し、保存条 例に基づき保存計画を定める。また、伝統的建造物群保存地区のうち、国が市町村からの申 請を受け、我国にとって価値が高いと判断したものは重要伝統的建造物群保存地区(以下で は重伝建地区と呼ぶ)として選定される。文化庁や都道府県教育委員会は市町村が行う重伝 建地区の保存・活用の取り組みに対し指導・助言を行う。また、市町村が行う建造物の修理・
修景事業、防災設備の設置事業、案内板の設置事業などの保存に関わる活動を補助し、また 税制優遇措置を設けるなどの経済的支援も行っている。2020年 1月時点で100市町村120 地区が重伝建地区として指定されており、約 2 万8 千件の伝統的建造物及び環境物件が特 定され保護されている1)。
既往研究において構造調査が行われている地区もいくつか存在し、2-4)、常時微動測定によ る地盤条件や建物の振動特性の把握や、実測を基にした耐震診断、実大架構実験などから耐 震性能の検討が行われている。これらより得られたデータは建物の耐震性能を検討する際 の基礎資料として用いられ、保存活動に貢献している。
以上を踏まえ、本研究では福島県に存在する曲家を対象に建物調査と耐震性の分析を行 う。福島県には中門造という新潟から東北地方にかけて広域に広まった曲家の形式に加え、
地域特有の曲家の形式が存在する。研究対象とする地域は、中門造の形式の住宅十数棟を中 心に構成された福島県南会津町前沢集落と、中門造に属さない独特の形式の曲家が存在す る福島県喜多方市の2地域とした。前沢集落は2011年6月に重伝建地区に指定されており、
歴史的価値のある集落として近年保存活動が進んでいる。喜多方市では市内の敷地にいく つかの曲家や蔵などの歴史的建造物を保存している。
本研究の流れとして、まず対象地域において構造的観点から現地調査を行う。その後、調 査で得られたデータに基づき固有振動数や振動モードといった振動特性の把握や、限界耐
- 3 -
力計算に基づく耐震診断を行い、多角的に住宅の耐震性を検討する。さらに、得られたデー タを基に既往研究で調査が行われている地区のデータと比較し、対象地域の住宅の耐震性 の位置づけを検討する。最後に、曲家のL字型の平面形状や連結部の構成などを考慮し、よ り詳細な評価をするためL 字型単層建物の等価1質点系縮約手法を提案し、従来の限界耐 力計算手法による評価との比較を行い、有効性を検討する。
- 4 -
1.2
先行研究
著者らは、2017年7月26日、27日に、福島県南会津町前沢集落の伝統的な建築様式であ る中門造住宅の構造調査を実施した5)。中門造のA邸と直屋のB邸を対象とし、常時微動 計測や実測調査、損傷の状態確認などを行った。その後、振動特性の把握と降伏ベースシア 係数の算定から耐震性の検討を行った。
振動特性の把握から、これらの住宅の 1次固有振動数は3~4Hz程度であった。また、振 動モード形状から、A 邸では桁行方向の 1 次振動から入隅部分の柱に大きなせん断力が作 用することが示唆された。耐震性の検討からは降伏ベースシア係数の算定と他地域との比 較から前沢集落の住宅は比較的耐震性が高いことが明らかになった。また、状態確認におい ても目立った損傷や問題は発見されなかった。
SG(140×240) SG (140×240) SG(185×200)
N=2 (30×120) SG(130×385)
SG (120×120)
SG(140×200)N=4 N=2
N=3 SG (210×520)
SG (510×510)
SG(150×250)
SG(210×520)
SG (150×250)
SG(150×250) SG (150×250) SG(150×250) SG (150×250) N=2 N=2N=2N=2
N=2 N=2
N=2 N=2 N=2
N=2 N=2 N=2N=2
N=2
N=2
Lww(2550)
Lww(2550) Lww(2000)Lww(2300)
Ww Lww (2550)Hws(840)
Hws (1400) Hws(1000)
Hws(1820)
Hws(670)
Ws
Ws
Hws(1820)
Hws(1000) Ws
Hws (1320)
Hws(1000) Ws
Ws Hws(800)Lws(2000)Hws(1100)Lww(2000)
WwWw
Hws(1000)
Hws(800)
Hws(800)
Ws Lww (2550)Lww (1500)
Lws(1500)
差鴨居・貫 土壁 板壁
共通事項
・Ws厚さ 45
・Ww厚さ 20
・貫寸法 24×120
※例外は別途記載
※土壁の貫は 矢印表示抜き
nV=8×2
nH=10
nV=9
nV=6 nV=8
nV=5nV=5 nV=5・6 nV=8
Hws(400)
S1
S3 S3
S4
S2 S2
S4 S1
写真1.2.1 A邸外観
図1.2.1 A邸復元力特性
図1.2.2 A邸耐震要素伏図 図1.2.3 A邸桁行方向一次振動モード(3.32Hz)
0 0.1 0.2 0.3 0.4
0.00 0.02 0.04 0.06 0.08 0.10
ベースシア係数
層間変形角(rad)
桁行Cb 梁間Cb
- 5 -
1.3
本論文の構成
本論文は5章から構成される。以下に各章の概要を示す。
第1章では、「序章」と題し、本研究における背景と目的、先行研究、本論文の構成を述 べる。
第2章では、「調査地域の概要」と題し、調査地域の概要を示す。
第3章では、「福島県の曲家」と題し、調査項目、調査結果を示し、民家ごとに降伏ベー スシア係数を求め、耐震性を検討する。
第4章では、「福島県前沢集落における構造調査」と題し、前沢集落における調査の項目、
結果を示し、振動特性の把握と限界耐力計算に基づく耐震診断を行い、耐震性を検討する。
第5章では、「福島県喜多方市における構造調査」と題し、喜多方市における調査の項目、
結果を示し、振動特性の把握と限界耐力計算に基づく耐震診断を行い、耐震性を検討する。
第6章では、「比較考察」と題し、調査地域内の各住宅や他地域を加えた構造的特徴の比 較を行い、調査地域の耐震性を検討する。
第7章では、「L字型単層建物の等価1質点系縮約手法の提案」と題し、既往の手法を参 考に、より正確な評価を行うための新しい評価手法を提案する。
第8章では、「結論」と題し、本論文全体の結論を述べる。
- 6 -
- 7 -
第 2 章 調査地域の概要
- 8 -
調査地域の概要
2.1
前沢集落の概要
2.1.1はじめに
6,7)南会津町は福島県の南会津郡の最南端に位置し、福島県以外にも関東および新潟にも近 接した地域である。2006 年に平成の大合併によって旧田島町、旧舘岩村、旧伊南村、旧南 郷村の4つの町村が合併してできた町であり、前沢集落はこのうち舘岩地域(旧舘岩村)に 属する農村集落である。前沢集落は中門造と呼ばれるL字型の平面形状を有する住宅10棟
(うち茅葺屋根8棟)、直屋4棟(うち茅葺屋根3棟)から構成されている。
前沢集落は2011年6月に重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。表2.1.1.1にそ の登録内容1)を示す。南会津町では1988年から前沢集落の茅葺屋根の主屋の屋根の葺き替 え等の景観維持に対し資金援助を行っており、伝統的な建造物が周囲の景観とともに良好 に維持されてきた。また、南会津町は平成31年度町政施政方針において貴重な伝統的文化 遺産と文化の保存継承のための事業として、前沢集落の保存対策事業の継続と防災設備の 整備を推進する方針を発表した。
表2.1.1.1 重要伝統的建造物群保存地区の登録内容1)
所在地 南会津町前沢 種別 山村集落
選定年月日 平成23年6月20日
選定基準 (三)伝統的建造物群およびその周囲の環境が地域的特色を顕著に示している もの。
面積 13.3ha
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2.1.2
面積・人口
前沢集落がある南会津町は886.5km2を有し、人口は15318人(2020年1月1日現在)で ある。そのうち前沢集落が占める面積は0.13km2である。過去数十年にわたり人口は減少し ており、また少子高齢化も進んでいる。図2.1.2.1に南会津町の年齢別人口の推移8)を示す。
図2.1.2.1 南会津町の年齢別人口推移8)
0 5,000 10,000 15,000 20,000 25,000 30,000
1980年 1985年 1990年 1995年 2000年 2005年 2010年 2015年 0~19 20~39 40~59 60~79 80~
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2.1.3
地形・気候
6)前沢集落が位置する南会津町は福島県の南西部、会津地方の山間部に位置する。越後山系 から連なる帝釈山を最高峰とした山々に囲まれており、前沢集落の標高は約700m である。
河川は、荒海山を源とする阿賀川水系と伊南川水系の2つを有し、水系とその支流沿いに集 落が点在している。前沢集落は北流する舘岩川の西岸の緩斜面に立地する。
南会津町の雨温図 9)を図 2.1.3.1 に示す。夏は比較的気温が低く降水量が多い。冬期は気 温が平均 0 度以下を記録する非常に寒冷な地域であり、冬の降水量の大半は積雪となって いる。特に前沢集落が位置する西部地区は特別豪雪地帯に指定されている。
図2.1.3.1 南会津町の雨温図9)
- 11 -
2.1.4
産業
10)南会津町の舘岩地域では、近年までほとんどの就業者が農業を中心に第一次産業に従事 していて、1950年代では就業者のうち約8割が第一次産業に従事していた。しかし1990年 頃には3割を下回るほどに減少した。 第二次産業は1990年頃をピークに就業者が増え就 業者全体の約4割を占めるほどになったが、その後は年々減少傾向にある。製造業は精密機 械部品や光学ガラス加工品をはじめ、光ファイバー、通信機器部品、衣料、縫製業などを主 とする。第三次産業就業者は年々増加傾向にあり、1950 年頃には従事者は就業者のうち約 1割であったが2010年代には約7割を占めるほどに増加している。卸売業や飲食店などを はじめとする各種サービス業に従事する人が多い状況にある。また、スキー場や周辺の民宿、
ペンションなどが地域経済の活性化に大きく影響している。
前沢集落は形成当初は焼畑農業を主力としていたが、江戸時代になると貢祖のため水田 耕作が始まった。明治に入ってからは各所で開田され、大正時代耕地整理法が施行されて一 段と発展し、昭和になると供出農家が出てきた。また、林業も盛んに行われており、明治末 期に初めて製材所が出来てから一段と盛んになり、約50年間で天然の森林がほとんど伐採 された。明治以前から養蚕も行われ、戦時中には炭焼きが爆発的に成長した。
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2.1.5
歴史
10)2.1.5.1
前沢集落の誕生
前沢集落は横田(現金山町)城主・山内氏勝の家臣である小勝入道沢西が文録年間 (1592~1595)の摺上原の戦い後に現在の前沢集落のある場所に移り住んだことから始まった とされており、現在も集落内のほとんどの住民が小勝の姓を名乗っている。また、「前沢」
の地名の由来は集落の前に沢(川)が流れていたことに起因する。集落は発生当初、現在の 集落の位置より東側、舘岩川付近にあり、そこから徐々に現在の位置に移動したとされる。
その後の集落は中門造と直家を含む計13棟で、現在の民家と比べ高さが低い形状だったと いう。
2.1.5.2
明治
40年の大火とその後の復興
前沢集落では1907年に大火事があり、土蔵4棟を除く家屋の全棟および神社が焼失した。
その後3年ほどの間に復興されたのが現在の集落である。田島・南郷・伊南および新潟の大 工棟梁13人によって主屋 13棟の再建と2棟の新築が行われた。ほとんどの家屋は以前と 同じ場所に再建された。社寺建築については鹿島神社本殿および薬師堂が再建されたもの の、前沢寺は廃寺となった。前沢集落近辺は落雷の頻度が高く、その後も昭和末期と 2006 年に落雷による火災が発生しているが、早急な通報と消防隊の対応によって大事には至ら なかった。
2.1.5.3
舘岩地域の沿革
前沢集落が属する舘岩地域(旧舘岩村)では、古くから畑作農耕を中心とする生活が営ま れ、前沢集落も畑作農耕を中心とする農村であった。明治中期の道路整備に伴い林業が盛ん になる。その後昭和に入ると木炭の生産が盛んになり、全国屈指の木炭生産地として栄えた。
しかし戦後のエネルギー革命や社会情勢の変化により人口が減少し、少子高齢化が進んだ。
この中にありながら前沢集落は近世から現代にかけて一定の世帯数を保ってきたが、少子 高齢化の影響や生産人口の出稼ぎなどにより日中は集落にいるほとんどの住民が高齢者と なる。
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2.1.5.4
重要伝統的建造物群保存地区に選定される経緯
1975 年の文化財保護法の改正により重伝建地区の制度が発足した。これにより全国各地 に残る歴史的な集落・町並みの保存が図られるようになる。市町村は歴史的な町並みに対し 保存条例に基づき保存計画を定める。文化庁は市町村からの申出を受け、我が国にとって価 値が高いと判断したものを重伝建地区に選定し、保存の取り組みに対し指導・助言や税制待 遇措置などの援助を行う。これに伴い旧舘岩村では1970年代より都市と交流事業の展開に よる観光立村が目指されてきた。この推進に当たって当時の東京藝術大学・藤木忠義教授の 提言を受け、「自然環境との共生」を理念としたまちづくりを行っている。前沢集落は平成 23年に重伝建地区に選定されており、以下の表2.1.5.110)にその経緯を示す。
表2.1.5.1 前沢集落が重伝建地区に選定される経緯10)
1907年 土蔵4棟を除く全棟を焼失
1985年 「舘岩村環境美化条例」を制定し、住民と行政による自然環境および文化遺産 である中門造りの建造物の保全のための環境美化推進事業に着手
1987年 国土庁主催の第2回アメニティーコンクールで最優秀賞に選ばれ、「住みよい 村日本一」となる
1988年 「舘岩村環境美化推進費補助金交付規則」を制定し、中門造の建造物が多く残 されてきた歴史的文化遺産のある地区として「特別風致地区」に指定。茅葺屋 根の葺き替え等に経費補助を行うようになる
1993年 第15回山本有三記念「郷土文化賞」受賞
1993年 第1回美しい日本のむら景観コンテスト全国土地改良事業団体連合会長賞受賞 2000年 建設省より「手作り郷土賞」を受賞
2011年 文化庁より重要伝統的建造物群保存地区の選定を受ける
- 14 -
2.1.5.5
補助金の交付に至る経緯
舘岩地域では、歴史的文化遺産としての茅葺き曲家集落の景観を維持するために昭和 63 年から前沢集落の修繕事業などに対し補助金を交付している。舘岩村が南会津町に合併さ れる前の「舘岩村環境美化推進補助金交付規則」と合併された後の「舘岩村ふるさと景観づ くり推進補助金交付規則」の二つがそれにあたる。どちらも舘岩地域のみに適用される暫定 規則である。
以下の表2.1.5.2に補助金制度導入に至るまでの経過11)を示す。昭和60年3月に舘岩村環
境美化条例を制定し、特に景観の優れている地域については風致地区として指定した。その 際に前沢集落・水引集落は「中門造」と呼ばれる茅葺き屋根の曲家が数多く残存しているた め風致地区に指定された。1988年3月に曲家を本格的に保存するため、「舘岩村環境美化推 進費補助金交付規則」を制定した。この制度は茅葺き屋根の補修、トタン屋根の色の塗り替 え、外部補修改造、住みやすくするための内部改造などに対し補助金を交付するという内容 のものである。修繕費に対して限度額が決められており昭和63年からの工事費の通算が限 度額を上回ると補助金の交付を受けられない決まりとなっていたが、平成 9年 4 月の「舘 岩村環境美化推進費補助金交付規則」改正により茅葺き屋根補修に対しての限度額が撤廃 された。舘岩村の合併と同時に平成18年3月に舘岩村の旧「舘岩村環境美化条例」を移行 して「舘岩村ふるさと景観づくり推進条例」とした。この条例の第7条に前沢集落が「舘岩 ふるさと景観地域」として選定されているが、水引集落は対象から外れている。
表2.1.5.2 補助制度導入に至るまでの経緯11)
1983年6月 「舘岩村民憲章」制定 1985年3月 「舘岩村環境美化条例」制定
前沢集落・水引集落が「風致地区」に制定 1988年3月 「舘岩村環境美化推進費補助金交付規則」を制定
1991年3月 「舘岩村環境美化推進費補助金交付規則」を改正(内部改造、景観上大幅改 正)
1993年3月 「舘岩村環境美化推進費補助金交付規則」を改正(石積み工事を対象)
1997年4月 「舘岩村環境美化推進費補助金交付規則」を改正(茅葺き屋根補修限度額の 撤廃)
2005年3月 「舘岩村環境美化推進費補助金交付規則」を改正(茅葺き屋根住宅以外の限 度改正)
2006年3月 「舘岩村ふるさと景観づくり推進条例」制定
2006年3月 3月10日「舘岩村ふるさと景観づくり推進補助金交付規則」制定 2006年3月 3月17日 景観行政団体となる
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2.2
喜多方市の概要
12) 2.2.1はじめに
13)福島県喜多方市は福島県の北西部、県内の最西端に位置する市である。北西に飯豊連峰、
東には雄国山麓が広がる会津盆地の北部に位置し、豊かな自然に恵まれている。
喜多方市の主幹産業は農業だが、年間約 180 万人の観光客が訪れる観光業が盛んな市で ある。喜多方市は「蔵のまち喜多方」として知られ、市内には四千棟を超える数の蔵や、本 研究の調査対象としたいくつかの伝統的様式の住宅などの歴史的建造物が存在する。これ らの蔵は酒蔵、味噌蔵、蔵屋敷といった用途で現在でも使われており、建てられた年代など によって様式や使う材料も様々である。喜多方市は多くの特産品や伝統行事、伝統芸能が現 在でも残されており観光資源豊かな市である。喜多方市は日本 3 大ラーメンの一つである 喜多方ラーメンの発祥の地として知られ、市内には120件を超えるラーメン店がある。その 他の特産品として、漆器、桐下駄、桐工芸品、せんべい、そばや蔵で製造された清酒、味噌、
醤油などがある。
- 16 -
2.2.2
面積・人口
12)喜多方市は総面積554.7km2を有し、人口は47573人(2019年10月8日現在)である。
図2.2.2.1に喜多方市の年齢別人口推移12)を示す。過去数十年にわたり人口は減り続けてお
り、2019年現在とおよそ20年前の2000年を比較すると19%減少している。老年人口率は 上昇し続けており、2019年現在で総人口における 65 歳以上の人口の割合が35%となって いる。
図2.2.2.1 喜多方市の年齢別人口推移12)
0 10000 20000 30000 40000 50000 60000 70000
1995年 2000年 2005年 2010年 2015年 2019年
人口(人)
喜多方市の年齢別人口推移
0~19 20~39 40~59 60~79 80~
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2.2.3
地形・気候
12)喜多方市は福島県の北西部、会津盆地の北部の扇状地に位置する。北西には飯豊連峰東に は雄国山麓が広がっている。市の東部、西部、北部などに森林が広がっており、市の面積の 67.7%を林野が占めている。一方、中心部から南部にかけては平坦な地形となっており、市 街地を囲むように田園地帯が広がっている。市の南端には阿賀川が流れており、猪苗代湖を 源流とする日橋川や山林地帯からの支流が集まり、只見川と合流して新潟県に流れている。
喜多方市の雨温図(統計期間1981年~2010年)14)を図2.2.3.1に示す。喜多方市の気候は 日本海側気候に属しているが、盆地特有の内陸性気候の特徴も併せもつことが特徴である。
寒暖の差が大きく、夏は高温多湿、冬は平均で1~2mに及ぶ積雪に見舞われる豪雪地帯であ るが、一方会津の山間地と比べると盆地に位置する喜多方市は比較的少雪である。年間平均 気温は11度前後、年間降水量は1400mm程度となっている。
図2.2.3.1 喜多方市の雨温図(統計期間1981年~2010年)14)
- 18 -
2.2.4
産業
12)図2.2.4.1に喜多方市の産業別就業者人口の推移12)を示す。
喜多方市では1960年頃までは稲作を中心とした農業などの第一次産業が基幹産業となっ ていたが、農作物価格の下落などにより農業従事者が減少していき、代わって金属、繊維、
製造業、建設業などの第二次産業の従事者が増加した。しかしバブル経済が崩壊し、長期間 にわたる不景気が続くと製造業や建設業はその勢いを失っていき、商業においても若年層 の都市部への流出などによる後継者不足、大規模店の進出、人口の減少などの要因も相まっ て個人商店や小規模店舗などが減少、商店街がの衰退が懸念されている。
一方、喜多方市は飯豊連峰や雄国山麓、三ノ倉高原などの豊かな自然環境、蔵などの歴史 的価値のある多くの建造物、温泉施設、地域性を活かした祭りなどのイベントなど、豊富な 観光資源に恵まれている。また、会津漆器や会津木綿などをはじめとする多くの特産品、日 本三大ラーメンの一つに数えられる喜多方ラーメンなどの名産品があり、年間約 180 万人 の観光客が訪れるようになり、近年では観光業などの第3次産業が成長している。
また、喜多方市には良質で豊富な水資源や米を活かした酒造業、漆器などの伝統産業が息 づいており、農業においても環境負荷が小さい生産方法を採用した高付加価値の農産物の 生産や、グリーン・ツーリズムによる都市と農村のつながりを促進するなど、新たな取組が なされている。
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図2.2.4.1 喜多方市の産業別就業者人口の推移12)
0 5000 10000 15000 20000 25000 30000 35000
1995年 2000年 2005年 2010年 2015年
人口(人)
第1次産業計 第2次産業計 第3次産業計
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2.2.5
防災
2.2.5.1
被災履歴
15)福島県に被害を及ぼした主な地震15)を表2.2.5.1に示す。
福島県に被害を及ぼす地震は主に太平洋沖の太平洋プレートの沈み込みによって発生す る地震と陸域の浅い場所で発生する地震である。福島県沖の海域では巨大地震が無い代わ りに比較的大きめの地震(マグニチュード7程度)が多発する傾向がある。
福島県の太平洋側沖合で発生した地震では1938年の福島県東方沖地震(マグニチュード
7.5)や 1987年に福島県沖で複数回ゆれが発生した地震(最大マグニチュード6.7)などが
知られているが、2011年3 月に宮城県沖で発生した東北地方太平洋沖地震(マグニチュー
ド9.0)を除けばこの一帯ではマグニチュード8を越える地震の発生は知られていない。
1938年の福島県東方沖地震は塩屋崎の東方で発生し、県内の広い範囲で震度 5が観測さ れた。また、小名浜の研潮所では107cmの津波が発生したが、これによる被害は無かった。
地震による被害としては、家屋、道路、鉄道などの被害のほか、死者1名などの被害が生じ た。この地震は余震活動が非常に活発であり、本震の2時間後マグニチュード7.3、次の日 にはマグニチュード7.4の余震が発生するなどマグニチュード7程度の余震だけでも2ヶ月 に6回の地震が発生した。
平成23年東北地方太平洋沖地震では、県内で死者 3868名、行方不明者224名、負傷者 183名、家屋倒壊15435棟など多大な被害が生じた。(平成31年3月1日現在消防庁調べ)
陸域で発生した地震被害として1611年の会津地震(マグニチュード6.9)、1659年の田島 付近の地震(マグニチュード7.0)、1731年の桑折付近の地震(マグニチュード6.5)、1943 年の田島地震(マグニチュード6.2)などが知られている。
1731 年の桑折付近の地震は福島県盆地西縁断層帯で発生したが、この断層帯の活動によ るものであるかは定かではないが、地震の規模の大きさから震源は断層全体ではないと考 えられている。1611年の会津地震は会津盆地西縁断層帯で発生したと考えられている。1659 年や1943年に田島付近で発生した地震に対応した活断層は知られていない。
喜多方市がある県西部ではしばしば群発地震が発生することがある。1936 年に会津若松 付近で最大マグニチュード4.1、1979年に金山町付近で最大マグニチュード4.4、1985年に 下郷町付近で最大マグニチュード4.4 の群発地震が発生した。特に南会津町(旧田島町)、 下郷町付近では活発な群発地震活動がしばしば発生している。また、群発地震ではないが南 会津町付近では 1943年の田島地震(マグニチュード6.2)のようにマグニチュード 6程度 の本震‐余震型の地震が発生したことがある。県内で発生する群発地震の規模としてはほ とんどがマグニチュード 4 以下程度であり、継続時間は半年以下の場合が多いと考えられ ている。
福島県では、福島県沖や県内の内陸で発生する地震以外にも、周辺地域で発生する地震や
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三陸沖北部から房総半島沖の海溝よりにかけての太平洋沖合で発生する地震によって被害 がもたらされることがある。また、1960 年のチリ地震津波などのような海外で発生した地 震によっても津波被害を受けることがある。
表2.2.5.1 福島県に被害を及ぼした主な地震15)
西暦 震源(地震名称) マグニチュード 主な被害 869年7月 三陸沿岸 8.3 津波が発生
圧死者多数
溺死者1000人以上
1611年9月 会津 6.9 山崩れ
家屋倒壊多数 死者多数 1611年12月 三陸沿岸
及び北海道東岸
8.1 津波が発生 死者5000人以上 1659年4月 岩代・下野 7.0 死者39人
家屋倒壊409棟以上 1677年11月 磐城・常陸・安房・上
総・下総
8.0 津波が発生
死者・行方不明者・家屋流 失・同倒壊多数
1683年10月 下野・岩代 7.0 山崩れが発生
1710年9月 磐城 6.5 家屋倒壊9棟
1731年10月 岩代 6.5 家屋全壊300棟以上
1821年12月 岩代 5.5 ~ 6.0 家屋倒壊130棟
死者あり 1938年11月 (福島県東方沖地震) 7.5 死者1人
負傷者9人 家屋全壊4棟 1960年5月 (チリ地震津波) 9.5 死者4人
負傷者2人 1964年6月 (新潟地震) 7.5 負傷者12人
家屋全壊8棟 1978年6月 (1978 年宮城県沖地
震)
7.4 死者1人
負傷者41人 家屋倒壊3棟 2003年5月 宮城県沖 7.1 家屋一部破損124棟
その他建物一部破損29棟
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表2.2.5.1 福島県に被害を及ぼした主な地震15)
西暦 震源(地震名称) マグニチュード 主な被害 2004年10月 (平成16年新潟沖中
越地震)
6.4 家屋一部破損1棟
道路14箇所、学校1箇所 2005年8月 宮城県沖 7.2 負傷者5人
2008年6月 (平成20年岩手・宮 城内陸地震)
7.2 死者1人
負傷者2人 2008年7月 岩手県中部 6.8 死者1人 2011年3月 (平成23年東北地方
太平洋沖地震)
9.0 死者3868人
行方不明者224人 負傷者183人 家屋全壊15435棟 家屋半壊82783棟
(平成31年3月1日現在、
消防庁調べ)
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2.2.5.2
災害危険度
15)福島県の主な活断層は阿武隈高地の東縁部に双葉断層、会津盆地の西側に会津盆地西縁 断層帯、東側に会津盆地東縁断層帯がある。また、県内に被害を及ぼす可能性のある海溝型 地震には、福島県沖、宮城県沖、茨城県沖、青森県東方沖から房総沖にかけての海溝寄りで 発生する地震や超巨大地震(東北地方太平洋沖型)、青森県東方沖及び岩手県沖北部から茨 城県沖の沈み込んだプレート内の地震がある。
今後30年以内に震度6弱以上の揺れに見舞われる確率分布を示す確率論的地震動予測地
図を図2.2.5.116)に示す。福島県は今後30年以内で震度6弱以上の揺れに見舞われる確率は
喜多方市を含む県内のほとんどのエリアで3%に満たず、ある程度以上の揺れに見舞われる 危険度は関東地方等に比べ低いといえる。県内では海岸沿いや会津盆地東縁断層帯の東側 の危険度が高く、それ以外の内陸部は比較的危険度が低い。
また、表層地盤増幅率を図2.2.5.216)に示す。表層地盤増幅率を見ると喜多方市は1.2程度 であり、この値は県内の約 8 割が山地となっている福島県の中では比較的高い値となって いる。会津盆地の北部の扇状地であることからも、山地の地盤に比べ表層地盤が軟弱である と推測できる。しかし関東地方や福島県から神奈川県にかけた太平洋沿岸部などの平野と 比べると表層地盤増幅率は低く、広域にみればそれほど軟弱な地盤ではないことがわかる。
図2.5.2に福島県内及び東京都内におけるハザード曲線16)を比較して示す。ハザード曲線
はある地点における地震動強さ(工学基盤上の最大速度)とそれを決められた期間内に超え る確率(超過確率)の関係を示すものである。本研究で用いるハザード曲線は30年超過確 率とする。内陸部の喜多方市や前沢集落は阿武隈川沿いの平野上である福島市に比べると 比較的危険度が低いことがわかる。また、都心部の新宿区や東京の内陸寄りの南大沢と比べ ても危険度が低いことがわかる。
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図2.2.5.1 確率論的地震予想図16)
◎ 喜多方市
◎ 喜多方市
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図2.2.5.2 表層地盤増幅率16)
◎ 喜多方市
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図2.2.5.3 ハザード曲線16) 0.01
0.1 1
0 20 40 60 80 100 120
30年超過確率
工学基盤上の最大速度(cm/s)
東京都八王子市 東京都新宿区 福島市 南会津町前沢集落 喜多方市
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2.2.5.3
災害対策
17)福島県は 2011年 3月11日に日本海溝で発生したプレート境界型地震である東日本大震 災で最大震度6強、相馬の津波観測点で9.3m以上の津波を観測し、これまでの地震対策に は想定されていない規模の被害を受けた。それに続き、震度7 の前震に続き震度 7 の本震 に見舞われた平成28年の熊本地震や鳥取県中部地震など日本列島は地震の活動期に入って いる。また前述したように福島県内陸部にも阿武隈高地の東縁部に双葉断層、会津盆地の西 側に会津盆地西縁断層帯、東側に会津盆地東縁断層帯の存在があり、今後も地震による被害 があることが懸念される。そのため、福島県では平成28年に、再度地震の被害にあうこと を前提とした「第5次地震防災緊急事業五箇年計画」を策定し、これに基づきこれまでの防 災計画の未達成部分を含めた緊急性の高い項目を抽出し、災害対策を進めている。図2.2.5.4 に福島県における気象庁・国立研究開発法人防災科学技術研究所・大学における地震観測点
18)を示す。
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図2.2.5.4 福島県の地震観測点18)
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2.2.6
歴史
19) 2.2.6.1江戸時代
江戸時代、喜多方市一帯は会津藩の領地となっており、その北部に位置したことから北方
(きたかた)と称された。江戸時代初期から藩が奨励したことにより会津藩では新田開発が 進んだ。市場の開設地であった喜多方では訪れる人々を中心に酒の需要があったことから、
村役人の郷頭・肝煎や半農半商の在郷商人などの資産家によって喜多方の良質な湧き水を 利用した酒造が行われるようになった。これをきっかけに麹を使った酒造の技術を応用し、
味噌や醤油などの醸造が行われるようになった。この頃から喜多方に醸造のための蔵が建 てられるようになった。
2.2.6.2
明治時代
小荒井村の小荒井小四郎が東京の資本を背景に近代的製糸場を製造し、200万本の桑苗木 の貸付を行ったことにより喜多方に養蚕業がおこり、県内でも主要の繭生産地となった。小 荒井が明治 6 年に開業した喜多方製糸工場は会津地方での器械製糸の発展のきっかけとな った。明治末期の経済不況によって糸価が下落し零細企業は淘汰されていった。
明治 8 年に小荒井村、小田付村などをはじめとする 5村が合併し、「喜多方町」となる。
醸造業や漆器業の作業場として喜多方市の蔵は増加していった。
明治13年の大火で町の中心部の170戸が焼失したが、蔵だけが焼け残っていたことから 住民の蔵に対する認識が高まり、蔵屋敷などの多くの蔵が建造された。また、郊外の岩月町 三津谷でレンガが焼かれていたことにより、レンガを用いた蔵も多くなった。
明治16年には会津三方道路が設けられ、新米沢街道の重要な経由地となった。
明治37年に私鉄の岩越鉄道が喜多方駅を開業し、漆器や酒造、生糸などの主要生産物の 流通が発展し、生産が飛躍的に成長した。
2.2.6.3
大正・昭和以降
昭和20年代後半から30年代にかけ、町村合併促進法により複数の市町村が形成された。
これらの市町村のうち喜多方市、熱塩加納村、塩川町、山都町、高郷村の5つの市町村が合 併し、現在の喜多方市となった。
古くから市場として発展した小荒井や小田付で味噌や醤油といった特産品に携わった業 者達や酒造業者、漆器業者などが市内に多くの蔵や屋敷を残したことや、代官所の許可無く 蔵を建てることができるようになり一般農家の間でも蔵を建てる世帯が増加したことから、
喜多方市の蔵はさらに増加した。
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戦後、モータリゼーションや農作業の機械化が進み、蔵は改造されるものや取り壊される ものが多くなったが、テレビなどのメディアを通じて喜多方の蔵が全国的に知れ渡り、観光 客が訪れるようになった。
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第3章 福島県の曲家
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福島県の曲家
3.1
中門造
20,21)3.1.1
概要
中門造とは、主屋から馬屋を突出させた L 字型の住宅である。主屋下手から前面に曲が り棟を突出させて馬屋を収納する。中門造では、この馬屋を収容した曲がり棟を中門と呼ぶ。
中門の発祥は、豪雪地帯における冬季の出入に備え、廊下をもつ馬屋としての中門に発展し 主屋に付帯したものとされる。中門造では中門の正面が主要な出入口となるため、主屋は寄 棟造でも中門正面だけ入母屋造にしたり、中二階のある住宅は切妻屋根に破風をつけるな どして飾り、立派に見せる。中門造の中には主屋の上手前面にも寝室など突出させて設けた コの字型のものもあり、下手の馬屋中門と合わせて両中門造と呼ばれており、秋田、山形の 日本海側に分布する。
屋根は茅葺き屋根のものが多く、主屋は寄棟、馬屋部分は切妻または入母屋が一般的であ る。軒高は高く、壁面は柱や梁、束、密に通した貫を化粧とし華やかな木組を見せるつくり になっている。このつくりは最上層農家の形式として定着していったとされる。
中門造の典型的な間取り22)を図3.1.1.1に示す。中門の正面に大戸口を構え、土間への通 路を取り、馬屋、便所を設けるつくりが多い。
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図3.1.1.1 中門造の典型的な間取り22)
A) うわえん
主屋部分の中央に位置し、多くは天井が無く屋根まで吹き抜けた大きな空間である。床に は畳が敷かれ、表側の1間にのごえんと呼ばれる板床がある。どまとの間にかきこまれてあ がり口があり、ながどから出入りが出来る。
B) したえん
大黒柱、小黒柱の間の敷居を挟んで、うわえんより4~6寸低くなっている。どまからは1 尺半程度高くなっていて全体が板床であった。どまとの間に建具は無く空間的にひと続き であり、天井は屋根裏の床をかねる裏板が張ってあった。食事の支度から食後の団らんまで いろりを中心に行われ、日常生活の場であった。
C) どま
どまは踏み固められた土の地面で、天井はしたえん同様裏板が張ってある。したえん同様、
人の日常生活の場であったとともに、馬の世話もどまで行われた。
したえん いろり ちゅうもん
うわえん のごえん ざしき
床の間 仏だん
ながど 溝どの
小便所 おおど
うまや どま
わらぶち石 すえ釜
うまぶね
こえだし口 ません棒 大便所
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D) うまや
土間より少し掘り下げて、わらをしいてこえを作り、1頭または2頭の馬を飼っていた。
どまに面してうまぶねとませんぼうで仕切られており人がいつも馬の様子を見ることが出 来た。
E) ちゅうもん
うわえんの裏側にあって、通常板床である。納戸として使われている。
F) ざしき
うわえんの隣の表側にあり、8~12 畳ほどの大きさである。畳が敷かれ天井が張られた部 屋で、床の間と仏壇を付す。日常は子供や老人の寝室となっているが、儀式や寄り合いにも 使われていた。
G) へや
仏壇と床の間を挟んでざしきの裏側にあり、4畳ほどの大きさで板張りである。夫婦の寝 室として使われる。
H) おおど
曲がりを入ってすぐの大便所の外側、あるいは大便所とうまやの間にある幅1間弱の板 の引戸で、1枚か2枚である。この戸で外部と内部を区切っており、馬の出入もここから行 う。
I ) ながど
入隅部の出入口で、半間の引戸がほとんどである。現在は上部にガラスが入っているもの も多いが古くは板戸であった。
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3.1.2
形式の成立
中門造は新潟、山形、秋田などの日本海側や福島県の内陸部に分布し、その系統は成立時 期や課程により秋田中門造と会津中門造の二つに分かれるとされている。
秋田中門造の成立は会津中門造よりもかなり早く、17 世紀中頃といわれており、会津中 門造は18世紀前半に成立している。成立の過程は秋田中門造と会津中門造で異なっており、
秋田中門造ではそれまで別棟であった外馬屋を土間前面にひきつけて一体化させている。
一方会津地方では、18 世紀初頭に住宅において既に馬屋が主屋の土間前隅に収容されてお り、内馬屋を徐々に押し出す形で会津中門造が成立した。そのため18世紀初頭に建立され た会津山間部地方の住宅では曲がりの部分に内馬屋を半ばだけ押し出した形式など、成立 途中の中間的な形式が見られる。その後それぞれ18世紀前半に本格化し、地方色を示しな がら広がっていき、20 世紀初頭まで続いた。そのため到達した時期は地域により大きな差 があり、新潟県の信濃川沿いの小千谷付近では少なくとも18世紀前半に中門造の住宅が造 られていたが信濃川の支流をさかのぼった長野県の秋山地方に達するのは上層農家で18世 紀末から 19世紀初頭、一般に普及するのは 19世紀後半のことであったとされる。長い期 間をかけこの建築様式が広がっていったため、最終的な分布域は一つの形式の占めるもの としてはきわめて大きい。現存する年代の確かなものの中で一番古いものは1718年建設の 旧五十嵐家住宅(福島県南会津郡只見町)である。
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3.1.3
南部曲家と中門造
中門造と似た造りに岩手県に分布する南部曲家というものがある。南部曲家は18世紀前 半に成立した茅葺屋根の伝統木造の住宅で、主屋から馬屋を収容した曲がり棟を突出させ たL字型のつくりであり、中門造と共通点が多い。中門造との違いは、入り口がL字の入 隅付近に付くこと、曲がり棟と主屋との規模の差が少ないこと、主屋と曲がり棟の連結が弱 いことなどが挙げられる。また、その他の対比した情報を表3.1.3.1 にまとめる。また、南 部曲家を含む曲家と中門造の分布21)を図3.1.3.1に示す。
表3.1.3.1 南部曲家と中門造の対比
南部曲家 中門造
概要 茅葺屋根のL字型の住居。主屋と馬屋 を収容した曲がり棟が隣接。
茅葺屋根のL 字型の住居。主屋と馬屋 を収容した曲がり棟が隣接。突出した 馬屋部分は中門と呼ばれる。
屋根の形 主屋:寄棟
馬屋:入母屋または寄棟
主屋:寄棟
馬屋:入母屋または切妻 発祥 旧南部藩(岩手、青森東部) 福島県、秋田県
分布 旧南部藩領(岩手、青森東部) 新潟、山形、秋田や福島県西部 成立の時期 18世紀前半 17世紀中頃(秋田中門造)
18世紀前半(会津中門造)
成立の背景 ・南部藩が奨励した馬の多頭育の影 響で住居に直接馬屋を取り込むよう になる。
・上層農家の他の農家との差別化の ため
・深雪地帯の通行の便から廊下を持つ 馬屋として中門がつくられた。
・上層農家の他の農家との差別化のた め
間取り上の 相違点
・入り口の位置が南部曲家は曲がり棟の入隅部分、中門造は馬屋の先端部分に なっており、それによって馬屋の取り込み方、土間の形が異なる。
外観上の 相違点
・主屋と馬屋の規模の差が南部曲家のほうが小さい。
・中門造は南部曲家に比べ軒が高く、横架材がむき出しになっている。
構造上の 相違点
・南部曲家は中門造に比べ主屋と曲がり棟の連結が緩い。
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図3.1.3.1 曲家と中門造の分布21)
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3.1.4
前沢集落の中門造
本研究で調査対象とした前沢集落の中門造の住宅は平屋で、加えて物置として利用され ている小屋裏部屋を持つ場合が多い。ほとんどを主屋が寄棟造、中門を切妻造としている。
規模としては主屋は桁行7~8間及び梁間4~5間、中門は桁行3~4間及び梁間3間規模が平 均的である。茅葺屋根を維持している住宅は13棟中10棟で、勾配は矩勾配である。棟高は 主屋で8.3m程度、中門で7.7m程度である。
前沢集落の中門造住宅を写真 3.1.4.1 に示す。意匠上の特徴として、外壁は真壁とし、現 在は漆喰で仕上げるものがほとんどである。また柱や梁、密に通した貫や束などによる木組 みを華やかに見せることが外観上の大きな特徴である。中門の妻壁には中央上部に大きく 開けた窓、妻飾りには狐格子を取り付け、前包には彫刻等を施す場合もある。多雪地域であ ることから平壁上部にも明かり取り窓が見られる。壁面腰部を下見板張り等として壁を保 護する住宅も多く見られる。
写真3.1.4.1 前沢集落の中門造住宅
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3.2
喜多方の曲家
喜多方の曲家を写真3.2.1に示す。喜多方市に保存されている曲家は前述した中門造から 影響を受けているとされるが、これに属さない特殊な形態である。詳細については後述する が、最も大きな相違点は主屋に付帯した曲がり棟の出入口の位置で、中門造では曲がり棟先 端部にこれを設けるが、喜多方市付近の曲家では入隅部分に設ける。この違いは喜多方市は 前沢集落などの山間部と比べ比較的少雪であることが関係しているとみられる。また、曲が り棟の屋根が寄棟造であることなども異なっている。市内にはこの形式の曲家が江戸期末 にかなり流行した形跡がある。調査対象とした D 邸はこの形式にあたるが、E 邸はこの形 式にも当てはまらず、若干特殊な形式である。そのため、本項では両邸について保存状況や それぞれの形態、変遷などについて述べる。
写真3.2.1 喜多方の曲家
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3.2.1 D
邸
23)3.2.1.1
概要と特徴
D邸は茅葺屋根を持つ伝統的な住宅で、寄棟造りの平屋である。D邸の特徴として、主屋 に曲がり棟が付帯した曲家である。
D邸は1771年に江戸期を通して郷頭(ごうがしら)職を務めた最上層農民の住居として 建てられた。D 邸は現在の形に至るまで社会的格式による要求や生活様式の変化などによ る幾度かの増改築歴があり、1990年に移築復元され現在の形となっている。
馬屋を主屋の土間付近に収容し、やがてこれが土間前方に突出してきたいわゆる中門造 の形式は会津地方でも早くから起こり、山間部の只見川、伊南川沿いに農民住宅として普及 したが、D 邸を含む喜多方市域などの盆地部の曲家はこの中門造の形式と共通点は多いも のの機能や形態がやや異なり、これに属さない。
図3.2.1.1に曲がり棟の両形式の相違23)を示す。中門造が曲がり棟に馬屋を収容し先端に
便所を設け、これらの側面を通路として先端に出入口を開くのに対し、喜多方付近の曲がり 棟では、通路を設けることは同じながら出入口は通路側面の入隅部に、便所はその側部に下 屋として設ける。したがって、中門造の曲がり棟は一般的に前面道路に向かって突き出すが、
D 邸を含む喜多方付近の曲家ではその方向を問わない。出入口の位置の相違は積雪量の相 違によるものであると考えられている。豪雪地帯である会津の山間部では入隅部の出入口 が雪に覆われ冬季は曲がり棟先端が主要な出入口となるのに対し、山間部に比べ比較的少 雪な盆地部ではその恐れが少ないため、喜多方付近の曲家では入隅付近に曲がり棟の出入 り口を設けている。
岩手県に残存する南部曲家という形式の曲家では、主屋に付帯した曲がり棟の入隅部分 に出入口を設けるため、機能や形態としては喜多方市付近で流行していた曲家はこれに近 い。しかし、南部曲家は主屋と曲がり棟の規模に大きな差が無いことや、その形跡がほとん ど岩手県を出ないことから、喜多方市付近の曲家はこれには分類されないことがわかる。
なお、先に移築復元による保存がなされている E 邸の曲がり棟の機能は会津盆地部のも のであるが、形態は喜多方付近の曲家としてはやや特殊なものである。
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(a)中門造の曲がり棟 (b)喜多方付近の曲家の曲がり棟
図3.2.1.1 曲がり棟の両形式の相違23)
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3.2.1.2
保存の経緯
会津地方の民家の保存状況23)を表3.2.1.1に示す。
D邸は1963年度に福島県教育委員会が実施した県内古民家基礎調査の際、喜多方市は一 次調査票を提出したが曲がり棟や背方の突出し棟の解体が済んでいたため調査の対象から 省かれた。1969 年と1975年に行われた県下古民家緊急調査の際にも報告リストにD 邸に 関しての報告は無かった。
1988年に隣村熱塩加納村米岡の三浦家住宅(藩政時代の五目組上野村の肝煎宅)と、D邸 の解体が決定したことを受け、東北工業大学の草野研究室が急遽この二棟の調査を行った。
当初調査の主目標は三浦家住宅であったが、三浦家住宅は土間廻りを除いて改造も少なく、
上手側からの解体作業が進んでおり、原形への復帰には施しようが無いと判断された。一方 D 邸は現地調査の結果、曲がり棟は除却されているものの当初建立部分の改造は大きくな く、原形への復帰がさほど難しくないと判断された。
この調査結果を受け、喜多方市の迅速な対応と外島家当主の全面的な協力によって D 邸 の解体の延期が決定した。また喜多方市はD 邸の復元移築の計画を立て、詳細な調査の上 1989年6月に解体、翌年の1990年に現在の所在地での復元組立が行われた。
喜多方市は移築保存先の一画を伝統的建造物や歴史資料の保存見学施設として整備しつ つあり、後述するE邸も既に移築、保存管理される対象となっていた。この一画は市有地で あり、排水、日照等に欠陥無く、喜多方市の今後の保存管理にも比較的便利な場所といえる が、唯一の難点は敷地が狭小であることであり、D邸の復元に関しても屋敷林や池、屋敷畑 などの再現はほとんど省かれた。また、敷地が狭小であることにより茅葺屋根の住宅では出 火、類焼きの両面から火災の危険度が高く、喜多方市では防火・消化の設備を整え不慮の災 害に備えている。