23正
ひと や
茨城県下における人屋の消長
職業指導研究室 猪 狩 涼
1 ひとやの性格
ひとやは茨城県下の主として鹿稲2郡 鹿島郡・稲敷郡一に行われていた営利職業 紹介業の呼び名で,またの名をけいあん一慶庵・桂庵一という。
けいあんは寛文一1665一のころ.江戸京橋の木挽町に住む医師大和慶庵が出入りの顧客 へ女中などを口入れしているうちに,これを本業とするようになったことからはじまる。
徳川時代の口入れ業には,もっぱら女子を口入れしたすずめ屋,男子専門のちつか屋,男 子と女子のどちらの口入れもしたよりごやど 寄子宿一などがあったのであるが,こ のような業態上の区別からすると・0とやはよりこやどの性格に似ているとみてよい。
要するにひとやは,奉公人と抱え主との中間にあって,労働契約の全般と 就職後の補 導と,さらには労資間に起る紛争の一切を処理したものである。
したがってひとやは,奉公人からも,抱え主からもなくてはならないところの自他とも にゆるす顔役的人格体であって,これをおそらくは茨城県下だけがひとやと呼称している ことそのことにも興味がもたれるわけである。とはいうもののひとやは,単に営利をのみ 追求したものでもなく,旅芸人などに一飯一宿を与え,時には路銀を恵むなどのこともし
たのである。
このようなひとやはかつて隆盛をきわめながらも,そしていろいろな法的規制をうけつ つ次第に衰退していったが現在もなお気息奄々として存在し続けている。
皿 ひとやの発達
口入れ業は人口密度が大きく,しかも産業分化度の高い都市的環境におこり,そして栄 えていくとすることが尋常であって,すゴめ屋も,ちつか屋も,またよりごやども,その ような条件から,稼働人口の需給関係をもととして発達したものなのである。
ところがひとやが起った鹿稲2郡にはこのような条件がまったくなく,たゴ存在する条 件は産業地理的関係だけである。
すなわち,水田稲作および養蚕を中心とする利根下流稲敷郡一帯の営農規模が広大で.
東京を控えた早場米の生産は,台風などの自然的条件ともからみあって,労働力の需要は かなりぼう大なものであった。
この労働力は田植の季節に2,000人,取入れの季節に2,000人・年間では4・000人とさ れている。往時この労働力がまったくひとやの口入れに委ねられていたのであって,雇用 主にかわるひとやの求職開拓は遠く結城・真壁地方にもおよぶ 一第2表参照一のであ
,
驍ェ,その主力は鹿島郡一帯にそLがれた。
鹿島郡の地勢的特徴は,東鹿島灘西北浦にはさまれた丘陵性で,特に南部は砂丘が多く 稲敷地方に比して営農睨模も零細なものが多く,また塾農 卜漁の産業形態となっている。
そのため滞留人口が過剰性を呈しているので稼働力が一衣帯水の稲敷地方に流れるのは,
きわめて自然なことであるといえよう。これがいわゆる鹿島女の名で呼ばれる壮・老年男 子を含めた労働慣行の行われる素因である。
一方労働力を獲得しなければならない稲敷一帯の側では,毎年農繁に当面することと,
また労働力を得るために不必要な競争をさけたいということのために,労務計画を割ふる あつ旋人を必要としたことは当然なことであった。
また雇用主相互が各戸の必要な労働力の分配を部落ごとに協議し,労働契約の一切を特 定のあつ旋者に一・任することが便利であったわけである。
このようにしてひとやは労働力の需要地である稲敷と,またその供給地である鹿島とに 発生し,あっせんの実務にあたり,同時に労資間の労働問題を処理することによって権威
を増大していって確固たる職業基盤を築きあげることができた。
さらにこのひとやの発達要因を労資間の心理分析に求めるならば,明治末期から大正年 代にかけて,鹿島・新治・筑波・真壁地方における貧農階層の次三男が作男として永年労 働に定着したがったこと,また一家経済の危機に際して貧農の子女が労働を債務とする前 借金制度が行われていたこと,しかもそれらを雇主側が,いわば旦那気分を味いたい風潮 があったことなどもひとやの発達に荷担しているものとみられるのである。
かようにしてひとやによる出稼ぎは次第に慣行化されていった。昭和29年5月稲敷郡下 に就労した鹿島女の一小グループの応答のうちに,(1)家計を扶ける。(21レクレーション旅 行の費用にあてる。(3)結婚の準備金とする。なとがあるが,これらは中農以下の階層の人 だちであろうが,㈲村の友だちが出はらってしまうので淋しくなるから。という村長の娘 がいた。これなどには鹿島地方の出稼ぎ慣行の強固なものであることを認めさせるに充分 なものがあるのではなかろうか。
以上一連の事情がひとや発達の要因をうかがわせるものとなってよいようである。
皿 ひとやの分布
これまでの記述によって,ひとやは主として鹿稲2郡に存在したものであることが諒解
猪 狩:茨城県下における人屋の消長 233
されるであろうけれども,利根流域の農作業を終了した鹿島女はやがて行方半島の湖岸地 帯に移動し,その後帰村して自家の田植に着手する行程からみるとひとやは行方の一部に
も存在しなければないはずである。しかしながらこれを確める資料はなにもない。しかも 「
サ在では,たとい僅かながら 第1表 年代別分布(稲敷郡)
地域1柴君長睡鳩大太生[安金竜長十江娘高1君舟「木 存在しているとしても,例え 年代
崎畔崎崎1騨轟崎1戸島崎1本田原關須 ケ 余戸1 計 ば職業安定法などの労働法規 明治321・111112111・「lll211・1211hl・il目24 からきびしい抑制をうけてい
昭和2・illl」1・ll1211il1目i213「2313「23 るためにその概数をすら察知
昭綱 ? 1 することが困難なのである。
一 一一 第1表はわずかに残された
記録と,終戦当時までひとやであったE氏の記憶による口述とにもとずく稲敷郡下のひと やの分布情況である。
表中明治32年のものは,後に掲載する稲敷人屋業組合が結成されて同年12月7日口入れ 手数料を議定した御届なるものとともに江戸崎ならびに竜ケ崎警察署長に対して提出され た規約書のなかの連署によったものである。そして昭和20年当時のものは,昭和24年8月 上に記したE氏の口述によったひとやの業者の村別分布であって,明治から昭和終戦まで 少くともその員数のうえからは勢力がおとろえていなかったことがわかるのである。そし て現在では各方面からの情報を綜合してみて,せいぜい数名しかなく,その活動はきはめ てりょうりょうたる状態にあるようである。
W ひとやの倫理
こLに掲げた規約書は前項にも引用したもので,明治32年12月7日竜ケ崎ならびに江戸 崎警察署長に提出されたもので,おそらくはその筋のしようよう一懲漁一によって議定さ れたものであろう、前文・19条文・附則からできているのであるが,業者間の倫理的規範 を示したものとすることができる。
規約書には誤字や脱字が散見するのであるが,これらに修正を試みながらその全文を載 せておく。
規 約 書
今回吾等営業上ノ弊風ヲ矯正シ 後来営業ノ隆盛ヲ計ラン為メ 営業者一同協議ノ上 規約スルコ左ノ如シ
第一条 当組合ヲ稲敷組合ト称ス
第二条 当組合へ協議委員六名ヲ置キ南部北部ヨリ三名宛ヲ選挙シ 委員中ハ正副弐
縞 . ・
名ノ長ヲ両部へ分置シ 其任期ハ満壱ケ年トス
但シ 集会日当ハ…人金三拾銭トシ 該金額ハ 組合中ニテ負担ス 第三条 委員ハ規約二関スルー切ノ事務ヲ協議処理スルモノトス
但シ 営業者中四名以上ノ申出アル時バ ー洞会議ヲ要ス
第四条 営業者ニアラズシテ ロ入ヲ為モノアルトキハ 直チニ所轄官署へ申告スル 者トス
第五条 刑人営業者へ口入ヲ託シタル時ハ直チニ上リ銭トシテ 金弐拾銭ヲ申受クル モノトス
第六条 雇人雇主ト契杓シ勤務三日以上二渉ラザル時ハ 給料ヲ与ヘサル「
第七条 屏人甲営業者ノロ入先ヨリ逃走シ乙営業者へ口入ヲ託シタル時ハ 乙営業者 ハ甲営業者へ照会ノ上 措置スルモノトス
第八条 曜人甲営業者ノロ入先ヨリ逃走シタルコト 乙営業者知ラスシテ [入ヲ為 シタル時ハ 甲営業者ノ請求二従ヒ 速二雇人ヲ引渡スモノトス
但シ 示談上ナスヘシ
第九条 雇人甲営業者ノロ入先ヨリ逃走シタル「ヲ知リ 乙営業者は之レヲロ入シ
猪狩:茨城県下における人屋の消長 235
若シクハ 甲者ハ乙者二向テ捜査スルニ当リ 隠匿シタル1 他日発覚シタ ル時ハ 甲ノ捜査費用ハ 乙者負担スルモノトス
第十条 各営業者前条ノ捜査費用ヲ負担セサル時ハ 所轄官署へ隠匿罪ヲ告発スルモ ノトス
第十一一条 営業者ハ契約アル雇人ヲ 同営業者二於テ 途中ニテロ入セザルー1
第十二条 雇人ヲ募集シ携帯シタルモノヨリ 周旋ヲ受ケタルトキハ ロ入手数料ノ三 分ノー以上ヲ与ザルコト
第十三条 雇人雇主二於テ 雇期日六分ノー以内二 解雇申出シ者ヨリロ入手数料ヲ負 担スルモノトシ 以上ハ両者負担トス
第十四条 雇人二関スル証書ハ 組合一定ノ証書ヲ用ユル1 第十五条 委員長ハ各営業者ノ帳簿取調ノ為メ開見スルコアルベシ
第十六条 満期後壱ケ年間 雇人雇主ト相対ニテ 雇契約ヲナシタル者ハ 受宿規約二 ヨリ 手数料ヲ双方ヨリ領収スル〕ヲ得
第十七条 酌婦ハ是迄月給五十銭ナルヲ改正シ 自今月給金壱円宛二取扱フ〕
第十八条 営業者ニテ・右条項二違約スル時ハ 委員長ハ説明ヲ与へ 若シ応セサル時 ハ 委員集会ヲ開キ除名スル「
第十九条 委員長ハ除名1人名各営業者へ通告スル者トス
毎年旧暦十一月十日ヲ定日トナシ 営業者一同開会議会費ヲ金五十銭卜定メ
出会セサルモ出金スルモノトス 9
稲敷郡柴崎村大字伊佐津
委員長 池 田 国 松 ⑭ 同 郡君賀村字松山
副 長 沢 辺 繁 造 ⑭ 同 郡柴崎村字柴崎
委 員 内 藤 伊 助 { 一
同 郡長竿村大字長竿
委 員 小 更 庄 之 助 ⑰ 同 郡伊崎村大字伊佐部
蛯 原 松 之 助 ⑭ 同 郡鳩崎村大字鳩崎
山 口 栄 次 郎 同 郡大賀須村大字市崎
山口いち代理人
山 口 豊 松 同 郡太田村大字太田
委 員 内 田 久 助 ㊥ 同 郡生板村
直仲勘次郎
代理 池 田 国 松 ⑭ 同 郡安中村大字谷井田
俵 太 助 同 郡金江津村大字金井津
須 田 貞 三 郎 同 郡竜ケ崎町
成島 禎助
代理 池 田 国 松 ㊥ 同 郡 同 町
飯 塚伝右衛門 ㊥
同 郡安中村大字根火
野口きよ代理人
同 郡伊崎村大字釜井松平
根 本半右衛門 ⑰
同 郡大須賀村字半田
広 瀬 富 三 郎 ㊥ 同 郡長戸村大字板橋
宮 本 熊 次 郎 ⑲
同 郡十余島村
工藤治良衛門
代理 山 口 豊 松 ㊥ 同 郡江戸崎町
坂 本 ナ カ ⑳ 同 郡長戸村大字板橋
宮 原三良兵衛 ⑭
猪 狩:茨城県下における人屋の消長 237
同 郡根本村
織 原 源 太 郎 ⑪ 糸 賀 幸 助 ㊥ 蛯 原 忠 ○ ㊥ 出 ○ ○ ○ ○ ⑳ この規約書の内容を子細に吟味すると,今日の常識あるいは現行法に照応して,ひとや のもっていた権威性と不当性とが目立ってくる。
(1)非組合員の排除 第4条・第14条
組合は任意団体でなければならないのに組合員以外の者の活動を全く認めない立場は,
職業の自由にそむきそうである。
② 上り銭のちよう収 5
雇主が労働者のあっ旋を申込むと同時に料金一上り銭一をちよう収することは,純然た る申込料であって,労働契約が成立しない場合に,上り銭を返却しないとすれば不当性が 感ぜられる。
(3)契約期間内の離職または解雇について 6 13
契約期間が示されていないが,就労者が就労後3日以内に離職を申出てた場合,第6条 ではこの労働者への賃金を支払わないように規定していることは甚だしく残酷である。ま たその労働者に賃金を支払うか支払わないかは雇主自身の自由意志であるぺきで,これを ひとやが決定しているのは越権である。
第13条で雇主が契約期間給以内に解雇する場内,雇主の違約責任を認め口入手数料の全 額を雇主が支払って労働者を保護してあることには賛成できる。
(4)就労者逃亡の処置 7 8 9 10
就労者が逃亡し,他のひとやへ就労のあっ旋を依頼した場合の規定は第7〜10条に渉り この規約書の中心をなしているもののように思われる。それは警察権の介入をうたい出し ている一第10条一ことによってもうかがわれるのであって,ひとや相互の人間関係の複雑
さを露呈したものとしてよいのかも知れない。
伺 中間紹介者に対する報酬 12
ひとやに労働者を紹介したものに対する報酬として,手数料の絶以内と規定したことで そのような中間業者も相当数いたことを思わせておもしろい。
(6)受宿規約 16
うけやど規約がどのようなものであったかは詳らかでないが,これによって契約満期後 1年間その労働者と雇主が自由意志による再契約を認めないということにも不当性と越権
か感せられる。
(71委員長の職権 15 18
委員長はすぺてのひとやについて,帳簿取調権一15,説諭権一18,除名権一18 をもっ ていた。もちろん違約業者に対してであるか,この職権設定にもゆき過ぎがあるのではな かろうか。
(8)労働賃金への干渉 17
第17条では酌婦の賃金所得が月給定額に取扱われて,人犀組合が雇主と扁われた労働者 とのいずれの意志も認められないて一律定額に規定していることも不当な労働干渉である とみるべきである。
鍾〜、
御届は[入れ手数料を規定したもので,明治32年12月7日池田国松・沢辺繁蔵両名か竜 ケ崎警察署長ならびに江戸崎警察長あて提出したものである。この提出者池田国松と沢辺 繁蔵は,さきの規杓書の連署筆頭者で,それぞれ組合の委員長と副長であることからみて おそらくは組合規約書の附属文書として同時に制定されたものてあろう。
御 届 雇人口入手数料ヲ定ムルコ左ノ如シ
壱ケ年雇 雇証書定給料額ノ十分ノート相定メ 雇主・雇人双方ヨリ五分宛申受候「
但シ拾円未満ハ雇主・雇人双方ヨリ五拾銭ツ・中受候「
弍ケ刀雇 雇証書定給料額ノー割ト相定メ双方ヨリ五分ツ・申受候「
壱ケ月雇 雇証書定給料額ノー一割五分ト相定メ 雇主・雇人双方ヨリ七分五厘ツ・申受 ケ候コ
猪 狩:茨城県下における人屋の消長 239
日 雇 日当額ノニ割ト相定メ 雇主・雇人ノ双方ヨリー割ツ・申受候1 壱ケ年習業雇 雇主・雇人双方ヨリ金一円宛申受候]
料理店・旅人宿・飲食店水使雇 雇主・雇人双方ヨリー円ツ・申受候1 酌 婦 雇証書前借金拾円未満ハ雇主ヨリー円 以上ハ壱割申受候1
雇人弐拾円未満バー円 以上ハ五分申受ケ候「
雇人宿泊料 一日金拾八銭宛申受候1
、 病気二罹リタルモノハ 食事ヲ要セザルニ拘ス十八銭申受「
但シ食事ヲ要セサル者ハ 宿料トシテ金五銭申受候]
右営業者一同協議ノ上取極メ候二付此段御届候也 明治三十二年十二月七日
稲敷郡柴崎村大字伊佐津
池 田 国 松 同 郡君賀村大字松山
沢 辺 繁 蔵 竜ケ崎警察署長
警 部 井 出 輔 殿 江戸崎警察署長
警 部 野 尻 宇 一 郎 殿
書中酌婦の口入れ手数料をみると,抱え主から前借金10円未満のときは1円,10円を超 えたときおとしているのに対して,酌婦からは2・円未満で1円・2・円を超えた場合売とし て酌婦の側の手数料が低くなっていて同情的なものが表われている。
また雇人宿泊料を規定してあるところをみると,ひとやが公然と旅館営業をも兼ね営ん だことがわかるのであるが,掲げられた料金は一般の旅館宿泊料より低く,求職者の便宜 をはからった同情的処置であったであろう。
口入手数料は後に県令で規制されたのであるが昭和20年当時では,雇用期間1月まで20
%1〜3月まで18% 4〜6が16% 7〜12月14%であって,12月以上のあっ旋は禁止さ れておったそうである。
V ひとやの活動
秋の取入れが終ると顧客はひとやに来春の需要労働力の供給を申込んでくる。求人開拓 はいながらにしてできる。そこから年間延べ40日間前後に渉って150〜160戸を対象とする 求職探訪の旅行が始まる。この旅行には相当な体力を必要としたそうである。
大正3年から昭和17年までの様式第2表 求職者の分布(郡別)
園 茨 城 i千剰計 甲の契約届書 (以下甲票と称す)
鹿 行 稲 新 真 結 筑 香 海 175件について求職者の住所をみる 郡
島i方 敷 治 壁 城 波 取 上 と第2表のようで,これによってひ
一頻 一1−P02 29 一一Q912 2 下一}@1 一 5 3 175 とやの旅行先が鹿・行2郡から利根 対岸の千葉県方面にまでおよんでい たことがわかる。この訪問旅
備 受手 住 求 住求 年 契 総 手 期契i
行が強行された背後には,労 年数
似ソ 所 職=@者 所 人=@者 月蔑 数 甲
働力の需給調整が容易なもの 考 日収 名 ノ 名 ノ 日 立 額 料 間約 第 でなく,また累年のあっ旋で
ナきあがったひとやと求職者 ニのつながりと信頼とを維持
農作雇 昭和十六年六 鹿島埜局松 稲敷郡木 昭和十六年六
傘冨参拾銭 育半
四号
しなければならなかった事情 星 村泉
原村 月十
旨励負同 担上
給
があったであろう。 川
ェ 浜 郷
ャ 中
七日 塵馨 料額
ひとやはこれらの活動を通
じ求職者に対して労働情報を 認者取 扱
1
木す 林 1
@ 1
金天
流し,労働条件を納得させた 烽フであるし,求人者に対す
(置) み
・ ニェ1二明 釜卸6』
P ! 1銭 る責任から, 聞き込みによる身元調査を充分に行って,営業の権威を保持しなければなら なかった。
第2表では労働力の最も主要な供給地は鹿島郡であることは明であるが・102名の郡内 での分布をみると巴2,白鳥2,大同4,中野1,鹿島3,高松26,息栖57,軽野7とな
り高松以南の砂丘地帯にその中心勢力がある。
次に求人の分布を甲票から分析すると 第3表求人者の分布
第3表のようになって,ひとやの取扱っ 千 葉 1 計 た労働力が主として稲敷地方に配給され 地 域 稲敷
オ
1印酬香取
1 1
たものであって,本新島,十余島,伊崎
169
・1 11 1 セ
大須賀,太田,柴崎,長竿,源清田,金
頻鞠} i
3
2i 例
井津など,また千葉県下では安食,八生 きおろし
z鎌,本郷,六郷,宗方,木下舟穂などが主な需要地であった。
第4表は甲票を契約の時季からみたもので,雇用関係が6月を中心とする農繁期に集中 しておってll・12などの初冬期には契約件数が全く無い・
猪 狩:茨城県下における人屋の消長 241
第4表 雇 用 契 約 の 時季 暦月
w次
1 2 3 4 5
6i7 1
8 9
旨撃潤@Ill
121不明 1
計
『「大正3
4 4
1
一一一n−一
一一
1昭和11 7 馳R12 2 lI 28 5 58
一 「 一
12 1 1
『 一 『
13 2 i 4 1 3 20 3 1 1 35
一 一 』
14 1 3 34 5 3 2 48 i −一
一一 一
15 2 2 1 2 7
一 一
16 20 201
一一一一一
一一一一 }−P一
17 2 2
1 }㎜
『 一
不明 i 1 1
}
計 11 8 3 6117 104 15 5 2 3 1 一一一一奄撃V5 1
1
一一一一 一一一一 一1 1
[百分比 壬57 1.71 a491991 59.44 8.57 2.86 1.14 1.71 i 0.57 100
第5表求人者の職種 同じく甲票175件を求人側の職種から
國婁
瞥騰 肇1雛萌 計1 みると第5表のように,農業が中心で,
@ ほかにも僅ではあるがかなり広範な産業
廠… llllrll 1圃1乃
界にわたるものであることが知られる。
したがって表中不明143にっいても農雇が大部分を占めるものとみてよかろう。
こんどは,175件をあっ旋した職種からみると第6表のようで,農仕事のほか炊事雇な
どが目立っている。第6表 あつ旋職種
■
鞭降雇1御畷子守擁婦不側計 甲票によって契約期間をみると第7表
頻数i3・18i・ 11123「175 のようで,7日,10日360日などのも のが多い。5日以上3週間が普通の就 労期間で,12月間にわたるいわゆる年季奉公もかなり行われていたのである。但し契約期 間が1年を超ゆることは早くから県令禁で止されておったことは前にも述べた通りであ る。そのうち6.5とか9.5といった半日労働があつたことは,雇主と就労者の相方からよ ろこばれたことであったろうし,便利なやりかたであると思われる。
甲票の就労者を性別にみると男子47−2086%一女子128−73,14%で女子が圧倒的に多
い。
またこれら就労者を年令段階によってその分配をみると第8表のように13才から65才ま
であって20代を中心としてその上下に分配される。低年令者の職種は子守などが主で65才 の1名は農雇であった。
第8表就労者の年令 W 労働契約第7表 契約期間
一一一一 一一
契約期間 年令段階1人釧備 考 承諾証は就労に
(日) 頻 数 12才以下i・ 労働禁止年令段階
先だって,就労者
1 i
2 1 13〜16 4 労働制限年令段階 の親権者またはこ
3 5
4 17〜19 10 労働保護年令段階 れにかわる者が,
5 11
20〜29 25
6 15 組合所定の木版刷
6.5 6
30〜39 7
7 36 りの用紙を用いて
8 6
40〜49 5
8.5 3 ひとやに提出した
9 3 50〜59 9
9.510 262 1 ものである。
60〜 2 最高65才
ll 2 1 1 うん時代によつて
13_ 4 不 明 l ll3 1 年令記載なし 1
一 1314 1 計 i恥 1文面の形式と内容
15 3 は変遷したではあ
16
17 ろうが参考のために昭和9年のものを掲げておく。
18 1
ツ 諾 証
19 琳
20 1 稲敷郡高田村大字椎塚
21 1
一 22 福 田 喜 市 ⑳
23
24 五男 同 儀 助
25 十七才
26
27 右之者本籍正確ナル者二付 今回家内一同承諾ノ上 貴殿方へ
28
29 前書傭紹介之義御依頼申候所明確也 然上ハ何方ヘナリ共傭入被
30 7 ●
60 4 下度候 且傭中本人身上二付何様ノ儀出来致候共 私方二於テ引 90 4
120 2 受貴殿へ少モ御迷惑相掛間敷候 為後日承諾証傍テ如件
150
180 3 昭和九年十二月十三日
210 壼
240 1 承諾人 福 田 口 市 ⑳
270 1
300 4 稲敷郡太田村大字下太田 330 1
365 21 石 田 弥 助 殿
計 175 この承諾書の受理人の石田弥助はもちろんひとやであって,さ きに掲げた規約書のなかの組合委員内田久助はその親に当る人で ある。ひとやはこの承諾証によって雇主に対する責任を表明し,
就職後の補導の足がかりとしたものであろう。
猪 狩:茨城県下における人屋の消長 243 次にひとやは求職者を帯同して雇主を訪れ,労働契約の締結にの立会う。
傭 之 証
鹿島郡大同村大字荒井
村 田 ふ よ 定給料金五拾五円也
此ノ内前借金拾五円也
紹介人手数料一金弐円七拾五銭
右ハ私儀昭和七年一月二十四日ヨリ同年旧十二月十五日迄 紹介人立会ノ上 前記給料 ヲ以テ 貴殿方へ農傭二取極メ申候処実㊥正也 然ル上ハ業務上堅ク相守り可申候 若万 一私儀止事ヲ得ザル場合出来 半途ニシテ解傭申出候節ハ前借金二対シ 右給料日割計算
ノ上不足相立チ候節ハ 速二返金可仕候 且本人差支候ハハ紹介ノ私何方迄モ罷出将明 ケ貴殿方へ少モ御迷惑等相掛問敷候 且残金ノ儀ハ紹介人立会ノ上相渡可被下候 為後日 傭人之証依而一札如件
昭和七年一月二四日
右傭人 村 田 ふ よ ㊥ 稲敷郡太田村下太田
稲敷郡生板村大字内野
高 山 伊 三 郎 殿
このほかに様式第三号(日計簿)という日計簿があって,口入れ状況を警察署に届出な ければならないことになっている。
昭和14年ごろからは手数料収受簿をそなえつけて,警察官の検閲をうけたのだが,これ
は料金の領収高をみたものではなく,ひとやが行う労働者の登録と犯罪人との関係を探知 o
したいことから行われたものであろう。
皿 ひとやの衰退
ひとやは明治5年の太政官布告第295号,大正14年の労働者募集取締令,同県令などか ら規制されながらも,活発な活動を続けた。
しかしながら日華事変が大東亜戦争に突入するころから勢力がにわかにおとろえる。そ れは
:、
三 ニ ー
ト ノ但ニヲ毎記傭由業産産記ル本
ス数シ記集日入労業交業業入日簿 記ル字日入計ノス働家通鉱別スノハ 載
コハ傭スシ成ル者事業業ハル外休 注 ト計労ル計績コハト公工農コハ業 意
ノ働コノハト別シ業業業ト毎シ 外者ト欄之 二日自商水 日タ
日 二 月 八 様
日 隊 公 交 商 工 鉱 水 農 一 Y『一 一 凸一 式第
傭 務 三
労 計 自 通 産 業 号
働者
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由業
業 業 業 業 業 業 別 曾
一一一一一一一一一一一一 一一一 男貼 一一一一一一
求 計
一一一鼈鼈 一一一一一
二 二 女 人 讐
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男 登
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二 計 数
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二 二 1
Q__1_.
女 職者
ニ 1 t 1[計 数
(1)勤労動員計画が実施されたこと。
鋤 新憲法を根幹とする新しい労働立法がなされ,特に職業安定法ができたこと。
(3)農地解放によって営農規模が縮少されたこと。
樹 自家労働力の分配,機械化などによる農業経営の合理化が進捗されたこと。
などのことによるものにほかならないのであって,現在ではほとんどその機能を発揮して いないところまで衰退してしまっている。
猪 狩:茨城県下における人屋の消長 245
皿 あ と が き
ひとやのことについての興味は職業指導に関係する職業紹介史とでもいうべきものから であって,その端緒は昭和23年ごろにあったであろう。当時稲敷方面出身の学生からひと やの存在を知り,伊崎村の元ひとや蛯原兵蔵氏を頬わして口述をいただき,同じく木原村 の元ひとやの福田ちよ氏にも同様な労を願い,併せて僅かに残された資料の提供をみた。
また同郡太田小学校教諭岡崎恒夫氏の殆走によって,同村石田弥助翁の手もとから組合 規約など貴重な資料を得ることができた。
なお茨城大学農学部高島永幹氏からは鹿・稲2郡の人口や農業構造を研究された論文 一茨城大学農学部学術報告第3〜4号一 を授けられ,本稿のためにひ(神)益する
ところ大なるものがあった。
本稿を茨城大学教育学部紀要に掲載するに当り,上記諸氏の援助に対して感謝の意を新 たにするものである。