奈良教育大学学術リポジトリNEAR
小学校三年生社会科「学校のうつりかわり」
著者 谷山 清
雑誌名 高円史学
巻 2
ページ 19‑41
発行年 1986‑10‑01
その他のタイトル Teaching the Transition of their School for Third Graders
URL http://hdl.handle.net/10105/8638
小学校三年生 社会科
﹁ 学 校 の う つ り か わ り
﹂
一 何に心か動いたか
谷 山
清
︵こんな足元に︑こんなだいじな教材がころがっている︒ぜひ教材化しなくちゃ︶と思いついたのは︑あと一年で停年退
職という一九八五年の春のことだった︒
三年生の子に︑今年の秋の研究会にどんな授業をしようかと思案していた時にうかんできたのだ︒
わが校のある所は元連隊の兵舎だったんだ︒ここで日本の青年が軍隊生活をし︑戦争のためのきびしい訓練を受け︑中に
は耐えられない兵隊もいたんだ︒そして戦争になると︑ここから中国へ南方へと出陣し︑最後はグアム島で全滅したという
歴史を宿しているところなんだ︒そのうえ︑敗戦後は占領軍がここに進駐し︑建物を白とみどりとれんが色にペンキでぬり
かえ︑大プールもつくってアメリカ兵がこのキャンバス内にいっぱいいたのだ︒﹁キャンプC地区﹂と名づけて講和条約が
結ばれそれが発効するまでここにいたのだ︒
この校地は︑このように全国の小学校のどこにもないような特別な場所だったんだ︒
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この事実をていねいに語れば︑子どもたちは驚くだろう︒そして奈良教育大学が今日︑学問のセンターとしてある意義を
つかませることによって︑三年生の子なりの平和教育を試みることが出来ると患った︒
もうひとつは︑あと四年で創立一〇〇周年を迎えるという時︑わが校のうつりかわりを調べることを通して︑三年の子に
応じた歴史教育を試みることが出来ると思った︒
三年の子にふさわしい歴史教育とは︑古い校舎や生徒の服装の写真をみせて︑六十年前の学校の建物の特徴や︑着物に下
駄ばきの服装をイメージ化させたり︑その頃の国語教科書を見せて︑こんな体裁の本で︑こんな内容の本で︑こんな字で⁝⁝
というように具体的にわからせようとする︒即ち具体を通してそのころの特徴をつかませ︑映像化させることだと考えた︒
二 ど ん な に し て 調 べ た か
なんといっても指導者が自分の学校のうつりかわりの事実を知らなければならない︒
そこでまず︑わが校の古いころのことを調べるために︑沿革誌と学校日誌をくったり︑﹁奈良師範学校五〇年史﹂それに
﹁生徒心得﹂などをひもといた︒
それから付小同窓のお年寄りを訪ねて︑子どもの頃の学校生活や家でのくらしぶりの体験談を聞き取ったり︑保存してあっ
た写真や通知簿を借用したりした︒
また︑教育大が兵舎であったころの様子を調べようと︑市内の写真屋さんをたずね︑連隊のころの写真を見つけたり︑隊
内の酒保に出入りしておられたまんじゅう屋さん︑うどん屋さんらをたずねたり︑兵隊としてここで軍隊生活を送られた元
軍人を訪ねて︑当時の連隊の配置図を書いてもらったり︑軍隊生活の恩い出を語ってもらったりした︒その中の一人は︑グ
アム島玉砕の生き残りの方であった︒
さらに︑学校の近くに住んでおられるおじいさん︵自転車屋さん︶に連隊のころの高畑町のようすや︑出征される兵隊さ
んを見送ったこと︑それに戦後に進駐してきたアメリカ兵のことなどいろいろ聞き取った︒
もうひとつ︑大学内のどこに連隊のころのものが残っているかを自分で探し歩くと共に︑大学に務めている中で一番古い
人に学内の昔のことを聞いたり︑昔からの配置図を見せてもらったりした︒
こうして足を運んで︑多くの人の協力を得て資料を集め︑自主教材をつくる準備を整えた︒
そして︑次のような年表を作成した︒
年 表 三 年 二 組
︵
︶ 2220年
時 代
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葦 若鮎 号睾嘉歪 芸 亘 学
芸 ・ 学 か リ ん 邑 仁 が 盟 校
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り か わ り 三
指 導 案 を こ の よ う に た て た
題材 学校のうつりかわり
目標︒おじいさん︵おばあさん︶の子どものころ︑おじいさん︵おばあさん︶が大人になってから︑お父さん︵お母さん︶
の子どものころを通じて︑戦争前︑戦争中︑戦争後の学校の様子や︑子どものくらしのちがいをつかませる︒
︒それぞれの時代における子どもたちの遊びや勉強︑楽しみや苦労を調べ︑歴史的にものを見る芽を育てる︒
︒聞きとりをしたり︑年表に表わしたり︑紙芝居にまとめたりして学ぶ方法を身につけさせる︒
指導について
二学期は奈良の町の地形︑田原の茶づくり︑南奈良の米づくりやイチゴづくりを︑二学期に入って奈良の特産物奈良
漬︑それにみやげ物を中心とした商店街の学習を︑見学を中心にすえて学ばせ︑事実認識を大切にしてきた︒
26
︒今度は歴史学習の導入として﹁奈良の町のうつりかわり﹂を取りあげ︑その前段階として﹁学校のうつりかわり﹂か
ら始めることにした︒
ちょうどわが校は︑四年後に百周年︵明治二十二年創立︶を迎える︒この百年を頭において︑おおまかに﹁戦争前
の学校﹂﹁戦争中の学校﹂そして﹁戦争後の学校﹂に区分し︑それぞれの時代における子どものくらしや︑学校の様
子の特徴をつかませたい︒
①﹁戦争前の学校﹂は︑わが校出身のおじいさん︵現在八〇才︶の子どものころの話−今文化会館のところにあった
校舎︑着物にはかま着の服装︑カタカナからはじまる教科書︑男子はフットボール︑女子はお手玉などの遊び−を︑
実物や写真を見せながら伝えたい︒
②﹁戦争中の学校﹂の様子については︑クラスの子どもの祖父︵現在七〇才︶を招き︑暗い時代−衣食住の不自由︑
家族の出征︑空襲︑学童疎開︑戦時色にそまった教科書や学校行事−を語ってもらい︑他の子どもたちの調べと相
まって︑この時代のイメージを豊かにさせたい︒
このような語りは︑戦後四〇年︑戦争体験が風化していく中で見のがせないことであり︑聞きとり方の学習も含
めて大切に取扱いたい︒またこの語りは︑﹁戦争﹂をテーマにして学ぶ中学年の文学教材﹁お母さんの紙びな﹂
二 つの花﹂の形象化にも役立てたい︒
それから付小の現在地は︑明治四十二年から終戦の年まで連隊︵奈良五十四連隊1三十八連隊︶ のあった所で︑
戦争中に兵隊さんがシベリアへ︑中国大陸へ︑グアム島へと出陣していった兵舎跡であり︑敗戦後は占領軍が進駐
して﹁キャンプC地区﹂として使用した跡であることから︑戦争とのかかわりが極めて身近かにあることをわから
27
せた
い︒
⑧﹁戦争後の学校﹂は︑﹁もう二度と戦争をしない平和な国になろう︒﹂と︑学校の様子も大きく変わった︒
この時代は︑お父さん︑お母さんの小学生時代なので︑父母の謡を聞きとって学ぶという方法をとりたい︒
︒クラスの子どもたちは︑これまでの見学で︑見聞したことをメモする経験はしている︒今度は︑目︑耳︑足をいっそ
うよくはたらかせて︑身近かにある歴史事実に関心をもって調べるようにさせたい︒そして調べたことを︑紙芝居﹁付
小のうつりかわり﹂にまとめたり︑スライドにして説明したり︑簡単な劇にあらわしたりして︑他のクラスの子や親た
ちにも見てもらえるように表現させたい︒
指導計画︵全十三時間︶
第一次⁝﹁むかしの学校﹂を調べよう−−二時間
第二次⁝﹁戦争前の学校﹂はどうだったか︒︵祖父母の子どものころの話︶−−一蒔問
第三次⁝﹁戦争中の学校﹂はどうだったか︒︵祖父母の大人になってからの話︶1−三時間
第四次⁝﹁戦争後の学校﹂はどうだったか︵父母の子どものころの話︶−−二時間
第五次⁝学習したことを発表しよう︒︵全校集会で︶−1四時間
本時案︵A︶一九八五年十一月十四日
︒ねらい⁝﹁戦争前の学校﹂は︑校舎︑服装︑教科書︑遊びなど︑今とずいぶんちがっていたことを知らせる︒
︒展
開
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学 習 活 動
指 導 上 の 留 意 点
︒本時のねらいを確かめる
・生徒や先生の数
・教 科書
◎北村のおじいさん︵八〇才︶の
小学校のころの話を聞く
・校 舎
・生 徒の 服装
・生 徒の 数
・先 生と 教生 先生
・教 科書
・遊
び
・そ のほ か
︒今とくらべてちがいを発表する
︒家で調べてきた子の発表を聞く
︒ノートにまとめる ︒﹁戦争前の学校﹂はどうだったかを調べる︒︒付小のできたころの様子を聞く︒九十六年前︵一八八九・明治二十二年︶創立のころの付小の様子から
・小嶋さんの大おじいさんの卒業証書を手がかりに
・生徒は二十六人︑先生は五人
︒七〇年前︵大正のはじめのころ︶の付小の様子
写真を見せる
・今の文化会館の所に建っていた
・着物に袴︑はいからな帽子
・五〇〇人ぐらい
・つめ襟にひげの先生
︐カタカナからはじまる国語教科書
・県庁前の公園で男女別々の遊び
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︒その都度︑見つけたことを発表させる
︒特に遊びのいろいろを発表させる
︒時間の都合で家庭学習に
準備物︒年表︵付小のうつりかわり︶・明治の卒業証書・古い校舎の頃の写真︵校舎︑制服・先生と教生先生︶・学校日誌・石
板と石木・古い教科書
※本時は︑第二次の一時間目
本時案︵B︶一九八五年十一月二十一日
︒ねらい⁝おじいさんの話をもとに︑﹁戦争中の子どもたちのくらし﹂は大へんだったことを知らせる︒
︒展 開
学 習 活 動
︒本時のねらいを確かめる
◎おじいちゃんの話を聞く
・いつごろのことですか
・どこの学校のことですか
・どんな勉強をしていましたか
・どんな遊びをしましたか
・学童そかいの話を聞かせてく
ださい
指 導 上 の 留 意 点
︒﹁戦争中の学校﹂の様子はどうだったかについて学習する︒
︒孫がおじいちゃんに聞くという形ですすめる︒
︒食べる物が大へん不自由な生活︑空襲で死ぬかもしれない不安︑電球を黒い布
でおおう夜︑家族と別れてくらす疎開のさみしさなど︑戦争というものの実相
を具体的につかます︒
︒要所でスライドを見せて︑話の内容とつなぐ︒
※本時は第三次の一時間目︒おじいさんは︑学童疎開をされた体験をおもちの奥西真名のおじいちゃん︒
四 全校集会での発表
一九八六年一月二十八日
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司会 これから︑二学期に社会科で勉強した﹃付小のうつりかわり﹄の発表をします︒
一幕目は︑﹁学校の名前のうつりかわり﹂を︑ステージで見せます︒
二幕目は︑﹁むかしの付小﹂の様子を︑スライドで説明します︒
三幕目は︑﹁むかしの子どもの遊び﹂やくらしをステージで見てもらいます︒
丁
・
・幕
かー
ヤ︑
・
司会 わたしたちの学校の名前は︑どう変わってきたでしょうか︒
わたしたちの学校は︑今から砺年前に誕生しました︒その時の名前は︑奈良頗尋常師範附属小撃校といいました︒
生徒の数は︑みんなで26人︑先生は5人でした︒明治22年という年のことです︒
次に名前が奈良柩師範撃校附属小筆校に変わりました︒師範撃校というのは︑先生になるための学校という意味で
す︒明治31年のことです︒
次は︑昭和16年太平洋戦争のはじまった年に︑という名に変わりました︒
それから︑どんどんふえて70年前には別人︑50年前には530人とふえ︑一番多かったのが35年前の脚人でした︒この年
は男子部と女子部二つの学校が合併して一つの学校になったからです︒この時は︑複式学級の生徒123人がいて︑一年と
二年︑三年と四年︑五年と六年がいっしょに勉強していました︒
今は 63 2人 です
︒
このように︑生徒の数も変わってきたのです︒
1−幕がしまる−−
鐘が 鳴る
︒
司会 ﹁この鐘は︑今のチャイムの役目をしてきました︒前の校舎では︑用務員のおじさんやおばさんが︑時間のはじめ︑
おわりに︑このように︑カンカンカンカンと鐘を鳴らしてくれました︒﹂
﹁それでは︑こんどは﹁昔の付小﹂はどんなだったか︑スライドで見てもらいましょう︒﹂
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認 1−幕があくーー
説明①・⁝:﹁最初の写真は︑今からm年前︑大正のはじめのころの附属小学校の正門です︒今の文化会館のところに建って
いました︒正面の高い建物は先生たちの部屋で︑教室は左に屋根瓦の見える建物です︒みんな木造です︒クラスでこれを見
て学習したとき︑﹁お寺みたいや︒﹂という子が何人かいました︒
次はこのころの生徒の服装です︒男の子の制帽は︑三角にとがっていて横にふさがついていました︒制服は着物に袴です︒
この子は北村信昭といいます︒今は81才になっておられますが︑とても元気なおじいさんです︒
次はクラスの子がみんな出てきましたね︒女の子も着物に袴の姿です︒履物は下駄です︒一番後ろの列におられるのは︑
担任の先生と教生先生で︑先生は今の高校生のような︑黒いつめえりの服でした︒
次は︑そのころの﹁国語の教科書﹂です︒なんと書いてあるか読んでみます︒
尋常小撃国語読本巻三
第六課 軍のまね
此の子供は︑西東のふたくみにわかれて︑軍のまねをしてゐます︒
西方は︑西の方の小だかい山に︑はたをあげました︒
東方は︑西方をせめようとして︑いそいです1んでゆきます︒
足をそろへて︑一せいにうたふぐんかをきけば︑ひかりかゞやく あさひのみはた︑おしたておしたて す1んでゆ
けば︑てきは︑にげゆく 草木はなびく︑
むかふに まえなき 日本男児︒
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説明②⁝⁝﹁こんどは︑今から別年ぐらい前の付小です︒校舎が今の県庁のある所へ移りました︒
これは付小の正門で︑すぐ前が奈良公園でした︒服装は︑男子は今と同じ制服制帽︑女子はベレー帽が制帽でした︒校舎
は二階だてで︑東西に長く二棟建っていました︒
そのころの付小の運動場はせまいので︑体育大会は春日野グランドでしていました︒今は赤白肯黄の四色で競争していま
すが︑そのころは赤と白の二色でした︒この写真は︑その年赤組が優勝して谷山君が代表で優勝旗をもらったところです︒
谷山先生はこの時14才で高等科二年生でした︒
このあとの三枚は︑付小のではありませんが︑戦争に近づくころの小学校の様子がよくわかるので見てもらいます︒
子どもたちは校門を入ると︑必ず天皇陛下の写真をなおしている建物に礼をします︒下校する時も必ずしなければなりま せん
天皇陛下を神様のようにうやまうことを教えられていたからです︒ ︒
次に女の子は写真のように︑なぎなたをならい︑いざという時には敵と戦うけいこをしました︒男の子は剣道をならいま した 教科書では︑このように兵隊さんにあこがれるような勉強をならいました︒みんないっしょに読んで下さい︒﹃ススメ ︒
ススメ へイタイ ススメ﹄
いよいよ戦争の時代に入っていきます︒
ここは先生に説明していただきます︒
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先生の説明⁝⁝日本は一九三七年から中国と戦争をしていましたが︑一九四一年からは︑アメリカ︑イギリス︑フランス︑
ソビエトなどとも戦争をはじめました︒これを太平洋戦争といいます︒
はじめは勝ちいくさでしたが︑三年目ぐらいからアメリカの飛行機が︑日本の都市を空襲するようになり︑日本の主な都
市には焼夷弾や爆弾がいっぱい落とされました︒
これはB29というアメリカの爆撃機が爆弾を落している所です︒
次はそのころの日本中の小学生が避難訓練をしているところです︒運動場に集った子どもたちが︑先生の号令で地面にう
つぶせになって手で目と耳をおさえるのです︒爆風の強い力で目がとび出し耳の膜がやぶれないようにするためです︒
次は大都市の子どもの場合ですが︑空襲がはげしくなると︑授業中でもこうして防空ずきんをかぶったままで勉強しまし
た︒いざという時にすぐ防空壕に逃げられるようにするためです︒
次は学童疎開といって都会の子が小学生も親元を離れて田舎のお寺などに移ってそこで生活したのです︒はじめのは︑親
元に残る下級生と田舎へ疎開する上級生がお別れの式をしている写真で︑二番目のは︑疎開先で食事をしているところです︒
食べ物が少なくひもじい患いをしました︒三番目のは冬でも乾布摩擦をしてからだをきたえているところです︒
次はそのころ日本のどの町にどれくらい爆弾や焼夷弾が落とされたかをあらわした地図です︒大阪の町︑東京の町などを
よく見て下さい︒こんなにたくさん落とされたんですよ︒
最後は︑ヒロシマに原爆が落とされた様子をあらわした写真です︒一九四五年八月六日のできごとです︒一瞬にして十万
人以上の人が殺されました︒
そして八月十五日︑日本は太平洋戦争に負けたのです︒
アメリカ軍は日本を占領するために上陸してきました︒奈良へもやってきました︒中でもこの私達の学校のある奈良教育
大学を﹁キャンプC地区﹂といってここにとどまりました︒
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話をここでちょっとさかのぼって︑アメリカ兵がやってくる前のこの場所︵奈良教育大学︶はどんなところだったのかを
説明します︒
ここは︑日本の兵隊さんが戦争のけいこをしていた連隊のあった所です︒
今から八〇年ぐらい前から日本が戦争に負けるまでずっと兵舎だったのです︒
この写真は︑兵舎の前で記念さつえいをした兵隊さんたちを写したものです︒
次のは︑門を出て中国へ戦争に出発する兵隊さんと︑それを見送る家族の人たちを写したものです︒この門は今の大学の
正門
です
︒
奈良の連隊から戦争にいった兵隊さんは︑最後にグアム島でほとんど戦死し︑生きて帰った人はたった三人でした︒
︵これで先生のお話を終わって︑子どもにマイクをもどします︒︶
司会⁝⁝﹁私たちは︑先生が話された連隊のころのものが今も残っているかさがしてまわることにしました︒十一月二十七
日のことです︒歩いた順に説明していきます︒
1番目は︑十三階段です︒これは付小の学級園の近くにあるれんがづくりの階段です︒みなさんもふだんよく見ているこ
とで
しょ
う︒
これは何に使われていたものかよくわかっていませんが︑連隊のころの建物の都であったことにまちがいありません︒
2番目は︑赤れんがの倉庫です︒これも︑みんな学校の行き帰りに見ているのですぐわかるでしょう︒これは︑ちゃんと
した形で残っているただ三の建物です︒連隊のころは食糧倉庫で︑アメリカ軍がきて洗濯工場に変わり︑アメリカ兵が帰っ
てからは図書館の書庫になり︑今は普通の倉庫になっています︒
私たちは︑先生のお話を聞いて︑﹁いろいろ変わるんだなあ﹂と笑いました︒
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3番目はクヌギの大木です︒これもみんな毎日この木の下を通っていますね︒この木は百年ぐらい生きているということ
です︒連隊のはじまるもっと前からあった木で︑この学園の中で一番年よりの木です︒
4番目は大学の正門前にある二本の松の木です︒川本さんは︑この木を見て短かい文にしました︒
たま5番目は弾薬庫です︒弾薬庫とは戦争に使う弾丸をなおしておくところです︒大学の食堂の南にあります︒これを守るし
七
〇 年 前 の 松 の 木 川 本 め ぐ み
大学の正門の外に︑大きな松の木が二本立っています︒この松の木は七〇年ぐらい前から生きているそうです︒
戦争中の兵隊さんの様子や︑戦争が終わったことや︑アメリカの兵隊さんの様子︑それに今のことなど︑じっと上か
ら見てきた木です︒
私も幼稚園の時︑三年間この松の木の下を通りました︒松の木がしゃべれたら教えてもらえるのになあと恩いました︒
ごとは大事なので︑兵隊さんは夜もねないで交代で見はり番をしていたそうです︒
6番目は︑サクラの古木です︒新谷くんはこの木のことを短い文に書きました︒
サ ク ラ の 古 木 新 谷 周 志
運動場の東に芝生があって︑私たちはここでよく鬼ごっこや陣とりをして遊びます︒その芝生のところどころに古い
サクラの木が何本かあります︒この木は六〇年ぐらいたっていて︑サクラの花が満開になるころには︑奈良の町の人が
おべんとうがりに来たそうです︒それで町の人は﹁連隊の桜﹂と呼んでいました︒ぼくはこの木で陣とりをしていたの
でびっくりしました︒古い木だから幹にこけが生えています︒
一番おしまいは7番目に行った﹁無縁併﹂です︒これは︑大学の大プールから少し南東のさみしい所にあるお墓です︒説
明してくれた先生の話しぶりがへんだったのでこわかったです︒安井君はその時のようすを次のように書きました︒
無 縁 彿 安 井 健 一 郎
このお墓は︑兵隊の訓練︵けいこ︶がさびしくてがまん出来なくなった人が自殺して︑その中で身よりのない人をま
つったところで無縁俳というそうです︒
ぼくは先生からこの話を聞いてぞーっとしました︒そして︑︵かわいそうだな︶と恩いました︒
戦争のけいこって苦しかったんだなと恩いました︒
今︑連隊の時のもので残っているものを写真で見てもらいましたが︑もうひとつ︑通用門の少し北の方にこんな碑が見え
るでしょう︒これも調べに行ったので︑つけ加えます︒これは︑奈良連隊の記念碑です︒小嶋さんに読んでもらいます︒
奈 良 連 隊 あ と 記 念 碑 小 嶋 め ぐ み
これは︑わたしが学校に来る時︑毎日見るものです︒これは︑元兵隊さんだった人が︑
﹁教育大学の中に記念ひをつくらせて下さい︒﹂
とたのんだけれど︑大学から︑
﹁だめ︒﹂といって︑ことわられたので︑学校の外に建ったそうです︒
記念ひの上には鉄ぽう三ちょうと旗のまわりが記念に残っています︒
私は︑今日はじめてこの記念ひのいみがわかりました︒
これで﹁昔の付小﹂のスライドによる説明を終わります︒
鐘が鳴る︒幕がしまって 団の用意
国 幕の前で男の子の遊びが始まる︒
司会⁝⁝昔の付小の子はどんな運びをしていたでしょうか︒冬の遊びは﹁竹うま﹂﹁ぺったん﹂﹁びー玉﹂﹁こままわし﹂﹁た
こあげ﹂などでした︒これからやってもらいます︒
︵﹁竹うま﹂﹁ぺったん﹂﹁こままわし﹂の実演をする︒︶
−−幕があいて︑女の子の遊びが始まるーー
司会 女の子は︑﹁おてだま﹂﹁おはじき﹂ ﹁まりつき﹂などをして遊びました︒
︵この中で﹁おてだま﹂﹁まりつき﹂の実演をする︒︶
お手玉の歌
一ばん初めは一の宮
二で日光東照宮
三で讃岐の金比羅さん
四で信濃の善光寺
おおやしろ五つ出雲の大社
六つ村々地蔵さん
七つ奈良の南門豊
八つ八幡の八幡さん
九つ高野のこうぼうず
十でところの氏神さん
司会 戦争がさびしくなり︑大阪や東京に大きな空しゅうがあるころになると︑奈良の子どももこんな姿︵防空ずきんをか
ぶった子数名︶で登校し︑外での朝の会には爆弾が落とされた時にはどうするかの訓練をしました︒﹁伏せ﹂という先生の
号令でみんな一せいに地面に伏せ︑目をおさえ耳をふさぎました︒爆風で目がとび出したりこまくがやぶれないようにする
ため
です
︒
やってみます︒
﹁伏
せ﹂
﹁立
て﹂
﹁伏
せ﹂
﹁立
て﹂
︵実
演す
る︶
もうこんなことをする時代が絶対こないようになってはしいです︒
−ここで﹁みんなの胸に﹂︵あつまりの歌︶のピアノ伴奏に合わせて︑クラス全員歌いながらステージに集まってくる︒−
﹁みんなみんな集まる時は︑すがすがと若木は伸びる︒太陽の輝くように﹂︵ここで合唱ストップ︶の歌のように︑元気いっ
ぱいに伸びる付小を続けたいです︒
司会 これで八クラスの発表を終わります︒
︵元
奈良
教育
大学
教育
学部
附属
小学
校教
諭︶
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