九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
九州方言の特異性(三)
吉町, 義雄
https://doi.org/10.15017/2557130
出版情報:文學研究. 2, pp.95-130, 1932-10-30. 九州文學會 バージョン:
権利関係:
九 州 方 言 の 特 異 性
九 州 方 言
本網は維誌﹁九大隣文母﹂︵九州帝岡大學法文尿部岡文學研究室︶第一眺命昭和六年九月︶及び第一函︵同十一月︶迎戟の同表幽
論文
の紺
稿で
ある
九 ︒
州 方 言
の 文 學
近代日本語開始期即ち室町末期から徳川初期へ掛けてに於ける九州方言文根外國刷係資料で問題になる可きものは
以上で大慌悉した謡であるが︑吾人は常然此臨に内國刷係賽料を展開検討しなければならない︒先づ順序︱こして一言
して置かなければならないのは︑最も参考こす可き口語︒準口語賓料の穂々ある中に
︑佛
書e樅節の
請義註籾
たる抄
物に欄しては低に新村出博士が﹁東方言語史叢考﹂︵昭和二年︶所牧の﹁足利時代の言
語に
就い
て﹂
︵明
治一
二十
八年
︶
があり︑是に由るミ鴬時の僧侶達
は近
畿又は西國出身が多く従って是等の地方の方言が語脈に
なっては居るもの\
ま し
︐" '
が
き
︵ 績 ︶
の 特 異 性 口
吉
九五
町
︵ 三 八七
︶
手全た長
雄
蜀話ミ等しく室町期であつて而も一肝濃厚なる京方
一 = 口ロ語を骨子ミしてゐる上に家ろ東海道筋西部方言の混入影咄が
認められるのであるから︑応認紫要素は矢張り問題にはならないミ云ふ甜になるのである︒
次に古浄瑠璃の用語に欄しては︑古浄瑠璃︱︱︱十敷篇を収むる﹁新群鳴類従﹂第五﹁歌曲﹂
言
﹂に
於ける︵八ー九頁︶水谷弓彦︵不低︶や又此の中の所謂金平浄瑠璃を主ーこして巣めた同叢書第九﹁歌曲﹂
治四十年︶の例言に鴬る所に於ける︵三頁︶幸田成行︵露伴︶博士は訛語や方言に就て一通の注意はされてゐるが︑
何れも上方や江戸を中心にしての観方に過ぎず︑地方的方言文尿こしての意誠は存在しない様である︒彼の今日九州
東北部で行はるこ所謂豊後浄瑠璃に就ては後の段落に於て扱ふ事
にす
る︒
口語査料ミしての歌舞伎脚本の重要なるは言ふ迄もなく︑只例へば早楢田大尿出版部の﹁元緑歌舞伎傑作集﹂︵大正
ばんぜい•一會十四年︶二十四編に帥しても安田喜代門氏が﹁高等國語法﹂︵昭和四年初版︶に於て︵九
0
頁︶都萬太夫座の﹁猟歳丸﹂︵這
麟 年
︶ に 含 ま る 盆 薔 の
﹁まらす︵る︶﹂を︑雑誌﹁國媒院雑誌﹂第一二十七巻第八被︵昭和六年八月︶の﹁九州
方言からの一視黙﹂に於て︵一八頁︶山村座
の﹁
即寧
至即
瞬]
(︱
予虞
冨量
︶に
存す
る
か た さ い は
.
9
ひ さ
dすればあのお日様のお入りなさる:方が西方でござりまつするな
研究
﹂
﹁新
群 粛類
従﹂
第三
︵明
治四
十 一 年
︶四
一五頁F ︵昭和二年︶所収の﹁猿架の狂言の用語﹂ 元来が是は澗色された文章語ミ見る可きものであり九州方言の特典性なさは勿論云々出来ないさして︑さてその江戸時代に書き直された物であるにせよ純梓口語ミ見る可き狂言記の用語に就ては是亦夙に吉繹義則博士が﹁國語國文の
文 學 研
究
第 二 輯
﹁元緑
歌舞
伎傑
作媒
﹂上
堡二
六八
頁
︵明治三十九年︶の﹁例
︵三
八八
︶
︵明
︵明治四十二年︶を痰表されて居り︑是に由ればその成立は陥曲の
九六
九 州 方
言
の持
異 性
L
レ ぃ ︼
1 ‑
﹁江戸文根難語考﹂
然しながら︑共口語たる 只随所に頻
出する﹁御座
の如ぎ四在的國語文獣資料を欅げて居られるのなさは︑勿論自分が本論文に於て常初から意闘してゐる九州方言文學
の劉象ごしては此の場合常態的には扱へない事は最早説明する必要もない一こ思ふ︒催かな相違ではあっても是等が若
しも十八枇紀の後半賞りになるミ大分その存在意義が唆つて来るのであるが︒
吾人の求めてゐる九州方言の特異性に就℃念の為改めて此
鹿に
前骰
‑¢
して附く必要を感する︒それは敷箇の地方的
-•七琥既出) 局部的語砧なるものは︑例へば雑誌
﹁方
言﹂に於ける頴原退蔵氏が
の如き努力は勿論綜敬す可きだが ︑方言文染の棉誠•こしては危瞼であり、 ︵第一
巻第四眺
︑第二
巻第
る﹂や﹁申す﹂口調は其れだけでは目下の別象にはならないミ云ふ事
であ
る︒
諸方に散見する﹁てや﹂
﹁げ
な﹂
等の
語厖も吾人の目的ミする西國語ミしては認容し難いのであるc活用語の即著なる差媒・こ共に助辟の微細なる特徽を筑
紫咲素
の撚
誠`
こし
て
尊重して虹はなければならない︒古く雑誌﹁帝國文梨﹂第拾六咎第四︵第百八十五睛︑明治四十
三年四月︶所載の論文
﹁閥
束べい
﹂に 於て (‑
=‑ +︱
頁下︶保科孝一教授は
紀︶足利時代以降は︑狂
言記セはじめミして︑口語の容料が浙々あらはれて居るが.
や ︑大抵測匝方言か︑九
州方
言に附するもので︑閥束方言の屈するものが殆んさない
ミ瞥かれたが︑抑々終止形助励詞﹁べい﹂ー)は似而非なる﹁西國
ばい
﹂ ー
│自分は斯く呼ぴ度い
ーー
なるものは語源
的に考へて本州方
言の
強勢賭尾助僻﹁わい﹂に相常す可き事は兎も角︑此の方言標誠の完全なる指摘列學が膨大なる
徳川期文獣に於て如何に困難`否︑努して効なきかは自分なさが今更の様に云々する迄もないであらう
し ︑
古文書や
古寓本類の博捜迄は暫く措いても︑是は文辿隆畠を極むる現代の出版物に於て矢張軒軽が無い有様なのである事は是
︵三
八九
︶
徳 川期 文根の翻刻物は原本の一割位
しか
無い様である
し ︑ 叉完全なる調査なさは敢
へて
諸事不便な田舎住居な
らす
ミ︶
も一
箇人
の力に到底蛯まる
可
くもないのは自明な事であり
︑更に自分が
目 下 企岡する言語事四の減集配列なるも
の
が分 批 的
には
極めて孤招が軽いにも不拘餘程の
O O 面ざ機緑ミが揃はなければ袂行され難
いのであるから︑今後同好
者
の出現ミ敬示ごに由つて浙時完
整に
近付くより外ないのは勿
論 ﹃こ
しても︑永年の見間ミ
努
力さを有せざる自分が斯か る事を瞥くのは大に氣が
ひ
けはするが
︑
今後残餘の原本を悉皆忠固に検
して見た所で︑
吾人
の論究別象こなる
可き
資
料は以下へ羅
列出来たもの以外には最早殆さ存在しないミ栂
言
しても 大過無いのではあるまいか︒尤も此の主ミ
して
坊間刊行物に郎す
る筑紫言雖
の拙 ぎ羅列の物足らなさは
︑
将来裳然根本的に完全な
照迎 の行はる可き國語史
上の一課 題である限り
︑何れ
無くて
は適はぬ捨石の一ミ
して
勿論識者の窺容を乞はなければな
らない
︒ 以
下
自分は時
代を経‑f)
し稲類を緯`こして上方•江戸雨文學に於ける九州方言文根資料を逐次配列するに常り`所謂筑紫言薬さか西國語ーこか 稲するのは何れも殆さ九州西北部地方の肥筑方言に限られて居る上に大部分は他
國
人の拙劣
なる模倣
であって
厳密な
る國
語 史の研究
射象
さは成り兼る
であらう
事
は固よりながら︑此
の代表的西捌餅さへもが本
州諸
方言
に伍
して其の寂
小説に
随箪に多
く
筑 紫 の 天 地 を 題 材 に し た 井 原西鶴が若し
も些少なりさも四國訛を
ーー ニ︱
︳一
の地
方的
語凸
染で
なく
ー
採 録
して作品に混じた所で︑その古典的本質今笠勧けようミは考へられな
いが
︑
獨h浮世草紙ミ
言は ず上方文展に 於ける都久志
言葉 の影は餘りにも淋しい︒後世に結集された偲謡なさも館にその郷土的方言味に酔ふ様な人々は殊に
審たる影に再嘆一二嘆せざるを得ない次第である︒ 亦繰返す迄もあるまい︒
文 學 研
)L
第 二 輯
九八
会一
0
九)
尿﹂で佐籐鶴吉氏が﹁近松の國語根的研究﹂
L L
11
竹本座に腺つた
巣林子近松門左衛門事杉森信盛︵
虹 疇 翠 五 舅 餌
︶の 著 作 に 腸 して
︑
じゅったんぽうで
中央
の都曾には殆さ存在しなかったのであらう︒そこで吾人はその愁術的伯値は瞥く問はな
いで
︑ 常時物された方言 それ
闊門十哲の
一人
なる森川百仲︵
許六
︶︵
疇ェニ炉予記庭︶がその年次は不明なのであるが
︑
に該地方言
もて 詠んだ短歌があり︑是は現在では﹁長崎地名考﹂
平の逍稿﹁長崎古事集冤﹂なる手露本に書留められてあって︑此の手窓本は古賀十二郎氏に由るミ︵私信︶目下所在
不明な
る香
月氏沿族の手許に保管されてあるのであるが︑
t I J
ち
あまたちの
なる一句は︑本山豊治丘桂川︶氏も例へばその﹁長崎
花街
簡﹂
頁︶をされてゐるのである︒
行く 可ぎ 物︒ こし て︑
さて作者五十二歳時の祖話物﹁曙峡墳説岸歌﹂
︵ 歪
這
5
厨︶には認彫者の袈川源五兵衛を始ミして幾
多の
九州人が活罪して居るが︑彼等の口に上るのは皆今日所副地日迎語であるから言語的地方色は浮出て居ない︒時
ゆ
り わ か
ピいじんのもりのかゞ
み 雙
七 年 て ん
じ
t
︵ 正 墾
一年
︶ 父 醤 土
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<せ^ゃ0
っせ ん
︵ 正 徳 五 年 一 け い せい し・
↑ば らか
はづがつせん代物たる﹁百合若大臣野守鋭﹂(
‑竺
0 )
﹁天喜﹂
一七
ニ︱
‑﹁
母は
1 1 本 國
性爺合戦﹂
一七
一五
﹁仰城島原蛙合戦﹂
喜 謬
︶ さ て は
﹁ 印 苓 霞 疇 昌 巴
︵
噂憚薩︶なさ何れも舞
磁人物
共に
筑紫に刷係してゐるが︑
何
等の
細工も施されてないのである︒
九 州 方
言の特異性 さん<P︑ : る
︵昭和六年十二月︶の如き試は今後徐々に併し営然方言
へも
手が及んで
歌一
首に先
づ一
瞥を彿ふ必要が生じて来るのである︒
.
︵昭
和二
年︑
春隔堂︶で拾
録更
には語秤︵三四一ーニ あらよそわしかぉんだいやばい 長崎来遊の硼
かっ ヽ`
︵ 明
治
舟六
年
︶の
著者なる明治初年に歿した香月燕
例へば岩波
講座
﹁ 日
本文
︵三九一︶ 九州語に就
ては
.
所敗の﹁
國語に於ける東國方言の位附﹂
有する機會があ
ったミ考へられる︒
︵明治三十八年︶で﹁せない﹂
宮森庫太郎氏やロバ
ート
ーカルズ氏の努力になる
﹁近松探作集 訛は︑
京都生れの宮古路幾後禄に由って
如何なる節
廻を以て語られた
かは兎に角こして︑幾多の人士の口に
派に何同
蹴なる
二三の地方的語
5い
埠な
さで
は
な
く根幹的活用語尾は固よりの
事ながら
﹁くさ﹂等の
訳要なる標
誠ーこなる助僻が十八批紀に至る迄記録されなかった
︑少
く
ミも他の文献には催存しなか
ったミ云
ふ事質は詔分
考
へさせられるご思ふ
︒言語 生活の艇敷性の中で最も純其なる 最も固
着せ
る姿は訳時を去る百有條年前の南堡人の耳には諧然人
つて
居ても︑
更には 口にさへ上つ
ては居ても
︑
標準
o o . . . . .
語の弾
黙
力の下には
︑
或は恐らく知つて知らぬ
顔
して
︑遂に眼へ
鵞る機合
は無かったのであるミ想像されまいか︒問 題は九 州囮北 方而ミ限つて見ても
︑
彼の﹁日本風土記﹂の倭寇が催へた郷談俗語
ー こ 此
の巣林子が筆に留めた海
賊の絶
唱0こ
を結び付けて味語する時
︑
獨り束悔島嶼國
さ云はず
︑所細叩訛語が偶話が國語
史上に於ける地位ご伯値.こに今更
の
様に磋嘆せざるを褐ない膵
で
ある︒此の禅瑠璃に記された所謂長崎訛も
上方文
尿に於ては無論の事である
が︑比 較的
には
査
料の賑かさな
る江戸文
尿に於
ける
非九州人の
校窃 した所謂
西國語に比しても ︐
時間的には同じく
一世
紀程
の空
白を有 するにも不拘
︑
頗る現図味を魯ぴて居る貼は大に注意を要するの
であって ︑
巣林子が其の
幼時を
肥前胆津で過
した
事があるミ云ふ
史腐
論眩
にも
案外有力な傍
證↓
芦 加へられ
よう
し︑少くミ
も肥前
泌の方言
には可
なり密接に欄係を 日本の沙翁
﹂
︵
一九二六︑倫
改
︑英 文︶中の英膵
︵二六七ー七
0
頁︶なさでは問題にならないが
︑
新村博士が
﹁束方言
賭
史叢
考﹂
﹁ばい﹂﹁ばん
﹂﹁たん﹂﹁けん﹂
ミな
く指摘 引用されて来たのであ
るが
`
﹁ならぬ﹂等の束國語法を
指摘される︵二六
享保 三年(‑七
一八︶+一月に上板
された晩年の作﹁
博多小
女 郎 波 枕
﹂
上咎二箇所に見える毛剃九右術門の長崎 文 昂 研 究
第 二 輯
10 0
︵ 三 九 ︱ ︱
)
九 州 方 言 の 持 異 性
10
四頁)態度1了今若し更に進める`こするミ、上田尚年博士及ぴ樋口股千代氏の「近松語~幽」
無いごしても.そよさ波音船彩に︑心を付けら蛋取眼︑物案じ類も頬ついた
る時
は荒々しい﹁ばい﹂も︑
頻色
打解け
て ︑
糾中の淋し
さ︐
条切
らす
頃に
は
何時しか愛姻の簡る﹁ばん﹂﹁たん﹂の頻出は︑その徹妙なる心接の斐化さ共に︑
繊細に感じ分けなければならないのである︒竹田出雲が﹁斑町パ叩配暇記﹂︵土這止疇︶は西國語に全く無覇心だ︒
へいけにょごのし2翌享保四年の八月に同しく竹本座で上樅された同人の﹁平家女
i i t
島一は大慨が時代物ではあるし︑此の第二段に出る
.た•9せ’'ばなしい・_こく…んや鷹七年一︱︱︱箇所の千烏の悔女言葉なさは︑宜は
三年
後同人が同所で上場させた﹁唐紺噺今願性爺
﹂ ご 七
二二 の努頭に見える
シーサ・9ス
ニン
﹁十
三
省﹂の胴昔程の正確さは勿論有して居らす︑又斯かる事を吟味す可きではないミはし
ても
︑
鬼界島の世界へ常
時に於ても姫康訛|—而も得慌の知れないーーを以てする事の可否を論ずる野祥は質は目下の立場では大に款迎しな
ければならないのではあるが︑九州方言史に於てすら南部のものは其の其に躍動せる生活を此の頃には未だ未だ文字
に窟
して後世に
他へる機述に惑まれなかっ
た 消 極 的
二畢
宜ミ
し て 記 憶
翁重さ
れる可き性
質に岡するものなのであら
け•-う。佃只にその文梨の偲統•こ本質さを犠牲―にして常て込んだ食蔽南北氏作詞、紐澤友次郎氏作仙の は地元では廿九H間大入を紹けさせたミ言はれるが︑雑誌﹁樅務粛報﹂第二十六年第五城︵昭和七年五月︶に於ける
石割松太郎氏の枇評︵四一
二頁
︶の
様なものは今緩も枚殿に暇があるまいが︑流石に筑紫路巡業の際︵昭和七年六月︶
々はH如にB叩ろ一種の滑稽を感じたー~のを思ふミ、阻にむつまじい睦言に少しならず長刀ではあっても、
ぎや
﹁仰
す﹂
﹁好かばい﹂なる片語がそれも浙く一同宛若手の太夫に由つて痰された
ーー
i
八")ぞ﹁可愛か﹂
﹁申
す﹂
等の脱廂訛りを曲なりにも示さうさした二百年前の集林子の如在なさには同じ座で上演された竹田
︵
1 1 1九 三︶
だけ
は盗本には全然熊い筈の
﹁無
か﹂
﹁三勇士券肉弾﹂
︵昭
和五
年︶
は勿論非難は
さ答 へ
て居る直ぐ後へ
ふ .
rぞ
く て っ ち
だてな風俗組圏に替らぬ丁稚を
つれ
て︑
て傭人逹が もろこしふね西八郎
朋土
船﹂
侮日八ツの前後温に入るは上方者ミも九州共︑詞付が紛らはし
︶で
は翠叫岐高松の温泉宿に於て郷代官並川源蔵が蕗人を詮議する時亭主の長兵衛が性を受け
享保
五年
一七二〇︵
さ る て
で努頭に飛び出す門司が刷に住む無筆の猿手ミ梱する紺乗なさ位では如何にも扱ひ様が無いであらうが`翌
年の﹁銀
和六年七月︶では格別問題にもされて居らぬ様な作品セ引合に出さなければならない︒
︵ 大
正十五年︶なさに由
西 ミ 呼 ば れ た 竹 本 座 賃 して
同じ大阪で東ミ稲された竪竹座に腺った紀海音事榎並善八︵芦鱈一二姑饂琴庭︶の作
ふ ︒ 出雲の
因に毛剃の長崎訛りミ何時も射に引用
され
る口
牢は
叫界
竹
座で上紙された彼の烏亭焉馬等
が
文 楳 研 究
拿 噂 記
︶ ゃ
﹁ 喜 偲
授手習鑑﹂︵葦繹類︶なさ
を想 ひ 出 す
.
︑ 喜 誓 せ
ざるを得ないこ息
い だ い り に ほ と
bの
・
5とり
﹁大
内
裏大友其烏﹂
ご た い
へい5しらいしばなし﹁
碁 太 平 記 白 石 噺
﹂
冨 雑
︶
の奥
州訛り
なさ
も ︑
﹁大近松令集﹂第五巻︵昭和二年︶に︵二四八頁︶見えてゐるが︑如何なもの
であ
らう
︒
此の海女言築
から胚
胎してゐるのかも知れな
いミ
云ふ
詭が木谷正之助︵
迷吟︶氏の
昴の地位や伯値は敢へて黒木勘蔵が﹁近枇演劇考説﹂︵昭和四年︶所収の﹁紀海昔作品考﹂
らないでも想像はされ
るが
︑その﹁傾城
國姓 爺﹂
︵量
噂 韮
︶︵ 此
の年次は勿論も
つ ‑ こ
後へ
繰り 下げ
る可ぎであるが︶や
属 越 軍 談
比
勺羹
﹂
︵淳嗅造︶に於て同じ頃迄の巣林子が用ひた架空的な鬼語︐
胆言莱
︑
居八語
︑府
語の
模倣
‑ミ
) 1 1 1 心 は れる物を些少混じた趣向ミ同じ様で父幾つた試が吾人の探し求めて居る九州語
ーに
胸し
て摘痰
出来
るのであつて︑何れ
も﹁日本文根講座﹂第十六巻
︵昭
和
一 二 年
四月︶及ぴ第十八春︵同七月︶の﹁紀海音研究﹂︵改訂新版第十咎
所収
︑昭
祠 功 皇 后 言 紐
﹂
︵竿
噂
疇︶
第 二 輯
10
︵ 三
九四
︶
九 州 方 言 の 特 異 性
が、ナ紘に彼の軽口笑話頷を一括する噺本なるものは、大
憫が上方•江戸雨期に跨つて存在する方言資料こ
して翁重す いて居るし︑胴東の田舎者もまた然りである その後江戸文學が刷東方言の上に疲逹するに従って︑︵改
訂
照するさ面然たる典味に包まれはし
まい
か︒
かるか→ど・︶しんらくしのいへづと
奮 云 ふ 文 句 は
︑殊
に同
じ
座で
上場された並木宗輔︒丈助の﹁苅壼桑門銑紫戦﹂︵
誓 翌
5 )
なさを想起して︑彼此別 筑紫育のして:ん奴に身を痰した為朝が丁稚姿の重仁親王に轄ぷなさ労るに應じて
ナ ア イ な い
/
\
なる返事をさせて居るのは此の場合頗る味があるのであって︑更にその道行で始は小ざつまミ瑕稲する琉球女もうき
第三段に於て立宗帝が先年安部仲麿に案内を聞
暑 八 年
︶
一
七 一 ︱ ︱
︱ ︱
んが日本ぐちの筆法や︑同じく時代物﹁立宗皇帝迷莱鶴
﹂︵
いろ
く ら ぺ か ら ぶ ろ に
いて四いた日本へ漕渡り︑長崎の
丸 山
こ色
比の胴風呂沸き云々ミ空想
に耽
る所
で︑
楊費妃が寝起ぎ姿に種々装させて
生 じ あ い さ
つ
i︑Jざんす混
りの
茶の
挨拶
﹁ 日
本文梨講座﹂第二咎︵大正十五年
十二
月︶及ぴ第四咎︵昭和二年二月︶の﹁日本文尿の言語梨的考察﹂新版第一巻﹁日本文尿継説﹂所牧︑昭和七年
一月
︶で保科孝一氏が言はれる如く︵第二巻一三
頁暉
五
七頁︶上面︶元禄ころまでは︑文慇が京阪地方の方言を基礎ミして褒逹
し ︑
測東方言はあまりこれに典らなかったのであ
るが
︑各地方の方言が自由に使いこなされるようになっ
た ︒
束洵追中膝栗毛や木曾逍中等を見ても︑脚本や軽口ばなしの類を見ても︑九州の田舎武士はその地方語を用
I O I
︱ ︱
︵ 三
九五
︶ へんじあいミ返事も後や先
つて
も面白い論題が生する事になりはしまいか︒ い
て
閥東ミ似通うて居をこころがあるからである ﹁涙う良
う﹂
轟二大方言の競争﹂なさへは始非採録されなければならないミ思ふし︑更に保科魯授が﹁日本文根の言語
學的考察﹂︵
﹁ 日
本文屎諧座
﹂︶ に
於て︵第四巻
三六
頁醐八
0
頁︶註︶閥束方言には促音︑脚西方言には長音
芦 嶺
し︑こ
れ を 一大方 言を匝別するもつさも著
しい
特徴になつて居
︵ 中
m "
ので
あるc
冨 桶 な 氣 風 は 長
︱立 自
によ
り︑
剛促な氣級は促音bと
るが
︑これはつ
まり
地方民の氣象の
相 違 に 原 す く も 略
によって代表されたものであらう︒九州地方の言語にも促音のおういに褒逹しているのも
︑や
はりその氣象にお
ミ述べられる観察なさを想ひ合はせ︑抑々筑紫方言は東西何れへ加招す可きものであらうかミ考へ出すさ︑何人に取
次に闘束方言園内の一角地に育つて今後重吸なる新典指母勢カーこなるのみならずやがてはH本全國の規範棉準の地
位に迄登る混合方言
﹁江
戸言葉に
就て
﹂は夙に保科敬授が雑誌﹁東亜之光﹂第四咎第
十 二 誠 盆
5治四十二年十
二月
︶
て吉澤煎士が前掲論文﹁束四雨京の言
葉戦
及び第五巻第一琥︵同四十三年一月︶に於て論述されて居り︑自分は斯< の﹁七 ある
﹁人
はそだち﹂の勢頭に記される
て︑例へば吉澤博士が﹁國語説鈴
﹂︵
昭和
六年︶所牧の﹁東西附京の言薬戦
ひ﹂
︵昭
和二
年︶
や同じく﹁剛語史概説﹂ ミ﹁紅薬﹂fこに掛ける洒蕗に勝る誠に典昧禅々たる査料であっ 品位の貼では兎も角ミして共の時代や内容を考限に入れる時︑彼の安梨庵策他が
﹁醒
睦笑﹂︵字噂式︶︵稿︶巻之五に ︵醤
︶が
可きものであり︑今後様々
の既例は人
々に
由つて
幾多指摘され得るであら
う中 にも
︑
﹁軽口
浮 讐
﹂ ︵ 噂 疇
︶巻之五の﹁言菰ちがひ﹂に見える
﹁ 尉
﹂ ミ
﹁ 叫忍
﹂︱ こに 利
かす口合なさこそ︑ 自分の眼に留った探蔀亭羅山
文 母 研
究第二輯
IO~
(
1 1一
九六
︶
九 州 方
言の特異性
の二
首は蜀山人全集たる 此池は
か な 七 き
は﹁金曾木
﹂︵
﹁
新百家
諒林
﹂︱
︱‑
︶に
記録されてある︵七二四ー五真︶から確直な創作であるが︑
山の端に出る
わりたちもみんな出て見ろ こんげん月はひ
こさん今夜
こそ
老山やまの
ようの二首の方は古来人口に
吟 " 夕 火
さ
れて居り︑例へば大庭耀氏の﹁長崎酪箪﹂
いちわいちごんれて︵ニニ七ー八頁︶あるが︑菟しその﹁一話一言﹂咎二︵﹁新百家説林﹂四︶に於て︵
七一
頁︶
まるA方
一 ・ 白
歌を悉く抽出してゐる様な常時の方言ファ
ンミ し
ては常然あり得
n J ぎ
事柄
ミ世
評
に 上 さ れ よ う も の
\ 此
﹁新 百
家脱林﹂には所甜拾録されざるものに屈するさ云
ふ幽
だけなら格別問隠はな
いー こし て ︑
宜は肉筆の所在が全然不明ではあh傍々其の其偽も頗る怪しい種類のものであるらしいのである︒それに
して
長崎の ミんくもなかぬ
月はよか ばつてんかし
ひ﹂
︵﹁
國語説鈴﹂所収︶で記さるA
月はよかばい えつさなかばい こまか鮒'( )
も
︵二 四
一ーニ頁︶
10
五
︵昭 和︱
︱一 年` 郷土 研究 祉︶ な
きにも収録さ 面︶江戸方言ff)京方言
ミの
地位は︑前の上方文慇に於ける反別にならなければならぬ筈である︒
粟
毛. 一二 馬
の浮世風呂なさ
では
︑
京方言は正しく他の田合方言‑こ同様に取扱はれて︑江戸人のお笑ひ種に用ひら
れてゐる︒冠肢はこ:﹄轄仰し
て ︑
京方一q口は替て江戸方言
に加
へた
)
ころ
の もの
を以て報いられたのである
ミ云ふ叙述を拝借
して
︑
直に
以下の前骰に換へる事ミする︒
誓文
紐 子 に
於ける九州方言は先づ蜀山人事大田直次
郎︵ 襲 言 言 庭
︶の
敷首
の狂
歌から始まる︒彼が文化六
年(‑八
0
九︶八月四日に長崎の立山で詠んだミ自ら記し且語籾さ
へし て
ゐる所の
出うきfl)もする
︵三
九七
︶
﹁物類稲呼﹂に含
一九
の束海道膝
この
くに
3 0
0ばし此國はもふ氣がなか橋だ 川柳狂歌が散文化されたミも見倣す可ぎ黄表紙を看
過無視
する氣は固より砥もある筈がないのであって ︑
その
穂数
約二
千 嘉 へ ら れ
る作
品の中で︑代表的の約三百がやがて﹁麟黄表紙代表作選﹂ミして江戸時代文化研究會
から
醗刻
刊行を完了した暁は尚の事︑恐
らく
是以上精彩ある匝國語は先づ見られまいミ
信ず
る質例を一っ提供して此の難課題
を我ながら巧妙に切抜ける事にしよう︒通笑事市楊小平次︵鱈奴鳩[‑笠芸庭︶の﹁娯印隼めぐ町﹂︵表捻隣︶は小
林三郎平なる男が叩犀に會
った
後各稲の珍奇な島を巡る筋であ
って
︑栂文館﹁絞帝國文廊﹂第三十四緞﹁諏黄表紙百
面治舟四年︶及ぴ國民図書株式會祉﹁近代日本文學大系﹂第十二巻﹁黄表紙集﹂
されてあるが︑此の作の寓意は元来何鹿へ行かうさも江戸程結梢な士地はある
まい
さ云ふ事であらうご紹帝國文血本
校訂者が解する(︱
ニニ
頁︶のは兎も角さして︑此の三郎平が手長島において矢張り典味索然たる餘り
紹帝
國文
庫本
一︱
七頁
近代
1 3 本 文
學大
系本
四
0
一 頁
さ言ふ所がある︒即ち作者は蹴に﹁氣が無い﹂ミ﹁長橋﹂こを平凡に掛けたのであるが︑知らず︑百五十年の今日自
分は不卸火の筑紫國に於て此の天典の珠至を有難く拝領するのである︒ 種﹂
︵昭
和
二年初版︶へ翻刻所牧 は宜に彼に於て初て出現を見るのではないか︒ も彼が様々の斐名を以て盛に欄係した洒蕗本
には
一九や三馬に貧けず各地の方言が巧に寓
され
てゐるのに︑西固語は
矢張り全然見常らないのを想ふミ︑是等敷酋の方言歌は屯も角記認さる可きものであらう︒彼の所謂﹁長崎ばつてん﹂ 文學
研 究
第 二
輯
10
六
会一
九
八︶
九 州 方 言 の 特 異
性
10
七
︵三 九九 )
だにお國訛は記録してない以上.既在する中央の強料では次の二作品を以て滴足するより外仕方があるまい現朕なの ぃbミ言ふのみであり︑後北れでは女郎のミらミ文朝ごの間に﹁芋客﹂云々ミ影で喩されて居るだけであって︑何れも片語
よ う ヤ す
` し
コフ
おぎくさんその様にあくせくせずミちつミ御休なさらぬか ︵誓諏翠︶には闘崩者は出るが
︑前者では腰掛けて屑る二三人の薩靡侍の一人が茶屋娘のお菊に向つ
て只
一同
や天狗
山人 事 芝 晉 交
︵誌
︶の
しメ
め
い ピ い
く最初にして最後であるかも知れず︑森羅腐象事森島中良︵輝疇麟二⑬虚翌醗︶が﹁兵女意題﹂の自序で
サ﹂は固よ
りだが︑眸
川子事西村定雅︵紐聾翠一疇謬図虹︶の﹁蜀瞬"冑声砥]
︵誓
諏鯰
乍
︶に於ける姓名だけの長崎
麿 闊 讐 し て も
︑
紀 橋 柳 下
︵ 謳
︶ の
﹁ 罰 雷
﹂ ︵ 議 論
︶
︵稿
︶
し な か ハ や う じ
﹁品
川
楊枝﹂ ︵昭和六年五月︶の
﹁九 州方
言の輪廓﹂ 所牧の﹁尾張名古屋方言で雹かれた洒落本Iこ
中本
ーこ
を紹
介し
て﹂
江戸時代の西國武士は︑少からず洒落本育料こなって女郎衆の槍限にあがつてゐる
さ云ふ様な事は誰にも
言は れ又想倣されるが︑抑々既に所謂標準語を語る田舎侍に於てさへ西國生れは矢鱈に出現し 忍ない様である︒唐来三和事加藤源蔵︵繹韓竺一冦量烹瞬︶の﹁厨即参加﹂︵吠環緯︶に於て日本語は江戸言薬
のみ しか
見られぬ不服を言ふの
は﹁
放送講演集︒九州方言
講座
﹂
︵九頁︶が恐ら ︵大正十五年︶に於て︵五一二九ー四
0
頁︶﹁幾
後の
モ
洒落本五百節の中には解籾の仕方により内容的には滑稽本ミ匿別の
つか
ないものが多々あるに
して も︑
その大部分
は江戸時代文化研究會等の努力により今や研究縞刻され終つて●可なり様々の事か言へる繹になったのであるが︑所 謂代表的傑作に於ける九州方言存在の有無なさは勿論問題にならないさして︑文學的には何れも索呼ろコンマ以下の作 品に瀦むであらう斐態的西國訛なるものが仲々得難いのであり︑否︑更に例へば吉涸博士がその﹁國語國文の研究﹂
る所で
らう に心
O通こやらになつて浪人のいたしたら よからうし︑然る限り是は常然匝國語助僻の 大系本第阻巻五九=貢十
二行
六合館の
雲中合山
蝶︵
碑諏
︶の
﹁洒落本大系﹂︵江戸時代文化研究曾︶第四咎盆昭和五年十一月︶
. ,
︵天 明元 年︶ に出
る西劉侍の言薬は平凡な
標準語
で通してゐるのであるカ
こ . 9だ い の む に ご と
﹁公大無多言
﹂一七
八一
つうじ00
さだ
めてミうちの通人はおもしろいこーこなるへい
さあ
るのが見逃し難いのであ
って
︑
総じて洒落本も其の性毀上勿論だが此の作品は憫黙を振
つて
ない所が多々存する
上 ︑
大系本の顔刻及ぴ後から
︵昭 和七
年︶配布された正誤表に由つても`此の﹁へい﹂は動
きの
無い所ミ受け取
って う ︒
作者自身は所謂﹁もさ言薬﹂
﹁ば
い﹂
︵ 四
O O )
ヘ闘刻所牧された行成山房大公人一名
の大に在る可くして而も
容易に得難き片鱗
ミ解す可きであら
︵﹁
申す
﹂
を用
ふる
意︶
ミして言語上では東西南
北の
誠別をせす﹁躙束平﹂ミ同一
視してゐたか否かは︑此の
場合
自分の主張に少しも動揺を典へない︒他の作品に於て敢へて珍らしくもなかる可き棧
黄裏が思はず洩らす
﹁べ い
﹂ミ恐らく代は同一物であらうにも不拘 ︑作
者が
明らかに最初から西
こく 方の 生れ ーこ 見え てミ 限定
して奥れてゐる所をばに捨て難しこし炭いミ思ふ︒斯く見る時此の侍が第九同目に今度は食客の平架に答へ
する 一
條の終の方で 所自分はそのお國訛
ミ既
しきものを褒見
した
︒
である︒
文 學 研
匹)1,
第 二 輯
それは此の侍が全部十同口を利くが第一二同
目に吾要庵通雷
ー に 肘
して
痰 只一箇
10
八
九 州 方
言
の 特 異 性
さだ
けは吾
人に
典へて呉れるのである︒ 十
返合
一九
嵐
田 貞 一
︵ 認 翠 一
疇翠
五
︶に
至って︑以後総じて泊稽本なるものは些少ながら阻も角資料ミ
興 味
一名桃尻山人︵譴︶の
10
九 ﹁あんがい﹂﹁こんがい﹂ き九州者の言疵の存
する
事は︑盆
改訂新版第
十 ミ評される一人に
節へ
らる可き金太棲︵主
人 ︶
﹁翫︵
闘
︶ 翫 椰
︱砂
竺 門
︵改
庫噂 婢
︶に珍らし
同上
本五
九七
頁 一
行
さあるのも︐他の場合に多く欣見するのミは違つて非常に生ぎて来る
ミ息
ふの
である︒
同じく﹁洒落本
大系
﹂
第八巻︵昭和五年十二月︶の﹁解幽﹂で山崎麓氏に
︵二
四
頁︶
︵釦
︶上
方
の洒落本の振はぬのもこんな骨惜みの作者が居るからである
﹁ 日 本文學諧座﹂第九巻︵昭和二年八月︶の﹁方言研究ミ方言文根﹂
四巻所牧︑昭和七年
十月
︶ に於て︵一七七頁
︶束
條操氏に指摘されてあるが︑此の作品は洒落本ミ云ふよりも滑稽本
に近く殊には劣作たるの故を以l勿論春陽堂の﹁洒落本集成
﹂に は拾録されざるものA
︱つ で
あ
って
︑
六合館の﹁洒
落
本大
系﹂にも漸くその﹁紹
刊﹂
第一巻へ醜刻される事ミなった︒編邸者の一人なる高木好次氏の原本調査書抜の御
敬示に由るミ︑三五兵衛及び八右術門なる二人が僅少の所謂四國語を弄するのであるが︑
﹁ し
ちよ
り﹂
位の外に﹁申す﹂を頻痰
して
居るだけでは︑宜在性や巧拙は暫く措いても︑必ずしも九州翔ご見倣す可
ぎ程のものではないのであって︑只その歌になる所で
0 0
よか
嫁をもちゃった
ミ云ふ一句が`此の作品の査料伯値を吾人
に高
めて
い犬
れる
ので
あ る ︒ その餘りにも有名なる﹁叩呵膝栗毛﹂全八編
は享
和︱
一年
(
‑八
0
二︶から文︵ 四 0 1)
頁 ︶
︵昭和七年七月︶に於て︵八一頁︶
弼る
A 氏も﹁日本文尿講座﹂第九咎︵昭利二年八月︶の﹁方言
研究
ーこ
方 言文尿﹂
最初はほんの滑囲の材料に使った方言も︑終にはい:加減ではすまなくなっ
たも
の`
こ見
える
︒
及び第十六咎
︵ 四 0
1
︱ )
本でも洒蕗本でも ︑咎中の方言は多くは机上の作
で ︑
あまりあてにならないものが多い︑しかし膝栗毛は是等の
中ではかなり忠宜なもので ︑之は作者が宜際旅行した結果であらう
さされて居り︑更に一屁細かに検討する時には︑例へは﹁日本文根講座﹂
第十五巻︵昭和
三年一︱
‑ H
)
︵同四月︶の﹁一九研究﹂
る︵第十六竺︱︱頁︵聾言一七
頁︶
膝柴毛の方言は東海道中京阪の分はまづ正確なものであるが ︑他國の分は可なり怪しい
さ云ふ批評なさ`九州在住以来五年に垂ミする此の頃でこそだが︑東京で生れて十敷年︑東海道筋を経て以後京阪神
こな
︑正直の所詔分椛威のありさうな論結ご感じられてゐた︒更に東間に同じく十敷年の生活経瞼しかない自分なさ
i l
條氏が﹁説文學者
一夕
話﹂
︵改訂新版第十巻所収 ︑昭和六年七月︶で源村作博士が束條操氏の言
さし
て引用されてゐ
羹 慶
に﹁方言資
料こ
して見たる東海道中膝柴毛﹂ミ云ふ隠
を選
んだのは今から考へるミその選定そのものが
既に滑籾であった︑方言研究を志しながら臨地の宜地
採 集 蓋 拿 材 料 を 膝 栗 毛 な さ に 求 め た
rヽ:ころ︑認誠不足 一個に云ふミ滑稽 ︵改訂新版第十
四巻
所牧
︶
に於て︵一七五 ら文政五年(‑八二二
︶に
瓦
つて
著されたのであるが︑
抑々
是の中に含有される諸國方言の質在性に就ては︑東條操 化六年︵一八
0
九 ︶
ヘ掛けて物された上︑所謂﹁如叫﹂は文化十
一年
に迫
加
され
︑﹁絞膝栗毛﹂全十編は文化七年か
文
學
研
究
第 二 輯
︱
10
九 州 方
言
の 特 異 性
︵俺共︶でなければならず︑ 文學の小説に於ては最初の水準的西國柄の出現さ云ふ様な修飾句は勿論保留して附いた方が安全であらうが︑長崎方
. .
︒ ︒
﹁うんさも﹂︵是は﹁汝共﹂を邸味するのである︶は﹁おっ
さも
﹂
﹁物
類稲呼阻國方言索引﹂を参照され度い︒ てゐる而白
味が
九州訛の の手前口はばたいが︑あらずも哉の私見を追加させて腹ふミ︑ で落第ものである
( m )
・ミ
云ふ
告白に野して︑殊には三田村立龍︵店魚︶氏の﹁東海道中膝栗毛輸諧﹂三篇︵大正十五年ーー昭和五年︶なさ
一九
の方
言なるものには時に彼の越谷吾山の﹁止町
が
. . . . .
︵安 永
年 一
1 1. . . .
. ゜ : ゜
・ : ・ :
言物類稲呼﹂一七妙五のみを材料ミして
繋ぎ合
はした手法痕跡が想像されるのであつて
︑
﹁江
戸
軟文根考異﹂
闘 讐 毛
﹂ 全 八 編 中 で 九 州 方
言の出るのは只︱二箇所しかないのであって︑六編︵改庫噂婢︶上編で伏見から大阪へ
行く八訓
家舟の中で乗合の人々が闊藝を行ふ時に長崎の人が合計七同程所謂長崎緋を使用してゐるだけである︒江戸
言
こし
て
受取る
限り
︑
︵ 四
0三 ︶
﹁な
し﹂
︵何
故︶
︵昭和三年初版︶所牧の﹁十返舎一
九の
旅程
﹂
少くさも尾崎久弛氏の
︵ 大
正十五年十二月︶に由れば︵ニニ四頁︶不詳
ではあ
るが若干の質感
があったかも知れない西海道に濶して︑明らかに此の細上が看取されるのである︒
﹁ 詞 誓 毛
﹂
後編
︵嘩璧琴︶の凡例に暗示は得なく﹃
l )主張も強硬にし
得る
︱ 二
の例
が殿げ得られるのであって︑直接
なさ云ふ事は誰にでも相常翌富な語例を有する憫瞼ではあっても︑例へば束北緋では執拗に﹁いぐ﹂ 是は強ち
採集に多大の不便を感じた
であ
らう西國語に於ては営然な事
であ
らう
し︑
口 咤
空為に右の凡例の中で記して
ゐる
ふ•9ELKがつものいひせいだくしゃべつ(下一騨 々 風 土 に 賭 言
音律
に
梱
濁の
差別あり各屑
︵行く︶ミ出し
には
全然鋏除してゐる様な片手落が存するのであらう
︒尚本誌前輯
拙稿
自然であって︑さも無けれ
ば亭
主を
始‑
ミェ
する
中 國鼎ミ匝別が付け
られ
まい︒
は勿
論の事だが︑﹁ならな
い ﹂
る助詞はさうも感心出来
ず ︑
是は
﹁よ かば い﹂
の 讐 述 の
差異を除
くさ
︑語曲は悉く﹁物類稲
呼﹂
︵ 麟 闘
︶
から
借用し
たら
しく ︑
さらしい四國語の組合せから生する滑稽には再誤三誤噴阪せずに居られない︒
゜
﹁い たい て﹂
︵致
して
︶さ
しない所なさ 同じ二編の下巻では宮嶋の旅
籠屋
に丁
度
泊り
合は
せた
ニ︱
︱
︱ 人 の四
國侍が︑定宿なるに不拘自分逹を禰次郎︑北八よ
゜
りも扱を後にし
たミ
云
ふ幽
へ据
んで
︑
亭主に常り散らすので
ある
が︑その約九同疲するお國手形は﹁
てい す﹂
︵
亭主︶
ぶ1
ら く は
よい加減なもので
あり
︑数同宛見えてゐる﹁ケ
ニ ﹂
や﹁投蕗﹂位の
語 益 下
に於て示した音腺描寝を除
いて
﹁な
か ばい
﹂を頻出す
る手
前か
らも
﹁ケン﹂ ﹁
テヤ
﹂な
﹁ク
イ
﹂
こし
なければ不
﹁せない﹂等の束殴語法も此の楊合非常に不用意に感
じら れよ う︒
九編︵謬
嘉
︶上冊
で大
町宿附近の村外れの茶店に於て肥前
唐津
出
身`
こ稲
する修業者が十同程雁津糾たる可き
もの
合口に
して
ゐる
のであるが︑是は
一九
の膝柴毛中でも分拡最も多く︑内容的にも彊
次郎
︑
北ハの外に茶屋の老夫婦の
かく
考
へる
't J
その如何にもわざ h込まれた時︑ 量︵改
庫
論︶上巻
に於
て弾次郎︑
讐敷に居合はせた四國侍が振られたのを怒つて誓九州方言を一同許り謳使す
るの
であるが︑多少 北八の雨人が備後の町の淡︱E泊つて遊女町を冷見し璧眼屋ざ呼ぷ遊女屋
へ引 ず
が出て居り︑最後の二箇所
は善
光寺道中に於てであって ︑帥ち次の通りである︒ ﹁紐膝栗毛﹂全十編に於ては四箇所に西國語が存
在し
てゐる︒ ばならないのである事を注意し度い︒ 文
゜
﹁よんによ う
﹂
そして最初の二箇所は宮嶋参詣
に於 て
記
され
何れも侍 ︵肥後北部なさでは孤立的︱音啓現象
の一
一こ
して
T r 派
に幽
在するらし
いが
︶
屎 研 究
゜
は﹁よんにゆう﹂でなけれ 第二 輯
盆血〇四)
九州
方 言 の 特 異 性
つさ
うて も﹂
﹁あぎゃん﹂
﹁た
い
﹂
の思
ひ誤ミ解す可ぎで
あら う︒
かねの"らじ
む
金草娃﹂の初編は文化十年に著され︑以後廿数篇
に亙
つての刊行年時ミ内容筋書さの諸本異同問題は 方言元の﹁
修業
尾崎久禰氏の﹁
﹃金 草娃
﹂の
編次に就
て ﹂
︵﹁江戸軟火根考奥
﹂所 牧︶
で詳諒
されてあるが︑
抑々
此の作品は鼻毛延
高ミ
千久良坊こ稲する奥州生れの二人が全國を旅行する膝栗毛物ではあ
って
も︑元来が合巻本である為︑題名の角書
に似合はす殆き方言文學の引用裔料にはならない程平凡な文憫を以てした淫猥な小咄集なのであ
って
︑
況や手並の知
れた一九の西國語なさを強ひて求める必要もない様なものA︑博文館﹁組帝國文庫﹂の﹁一九全集﹂
︵十
四
ーニ十
四綱同州四年同上︶
では
T
度意地悪く大阪から海路金毘羅を経て長門に着き宇佐八幡宮から陸路山國川に沿うて長崎闘山町
に至
る原本四
編 一
二十
丁分の西海道の部分を全く鋏除
して 居る ので
︵尾崎氏前掲論文参
照︶
︑
念の灼尾崎氏にその御家蔵本
︵廿
四
編物︶を詳細に検して戴いた所`
索苧
ろ意
外に
も此の四編︵文化十一年の出版さ考へら
れら
︶
には長崎遊典の
條に 於て
女郎叉
は幣 間の 言薬
‑こ
して左の様な九州語が
載せ
られ
てあるので
ある
︒
明治舟
三年
鰈刻︶及
び﹁
緻
一九
全集
﹂
﹁こぎゃん﹂ミなければ可笑し
から
うし
︑
~
頻出する中國式の助語
﹁ で
や﹂
は若
し宜感のあるものなら
︵ 囮
0五 ︶
︵大
分
︶位を除
いて
は大分非難があらう︒﹁あんが
い ﹂
︵彼︶
︵初
ー十三編 ︑
﹁こ
ん
が
い ﹂
︵是︶は 壁舌が加り﹁麟疇膝架毛﹂六編のものミ共に賑かな場面で
ある
︒
﹁ふ
ミか
﹂︵ 大ぎ な
︶さ云ふ語泣は使用出来ても﹁ち
︵ 小
さくても︶なさ云はせてゐる貼位を除
くミ
︑
殊更新に非難す可き所は餘り無い様だ︒
同じ九
編の
下冊でほ善光寺の旅簡局
で西
國同者廿人斗が所謂肥後辮を二同許り語るのである︒恐らく偶然許され得
る
かも
知れな
い﹁
ょん
によ
う﹂
のは全然見嘗らないのである︒
であ
る︒
ぉ含やくさまがた︑すねふ
りきもに
つらんばい
﹁金草鞄﹂通語は吾
人に
取って全く﹁無駄修業﹂なの うんさもA
おさ
もして
︑か
みがたさなへづらんば
いか
︑よか
/\
ぼうぶらまくらl﹂
へこ こい て︑
そこねいこAねいっ
h
さるき﹁ 物
類稲呼﹂に見える所謂四國語︵翫疇
鱈疇
︶を引抜いてお茶を禍したに過ぎない事
は ︑
最早自分の指摘する迄も無い
であ らう
︒
因に最後の巻たる廿四編又は廿五編の囮陸追は原本にも矢張り筑紫言葉は全然見酋らないさうであるか
ら︑右に示した四同分の面白くもな
い人
造九州語を除
いて
は︑
同様な趣に於て同人の
滑 稽 本
﹁ 輝 罪
如彰尉
琴 函 勾
﹂︵改暉戸
︶は
︑
原本所持者なる頴原退蔵氏の御敬示に由る
さ︑恰も常時流行した茶番の種本用に組人を以て滑稽なる話を盛り込んだのみであって︑此の方は叉方
言衰
料なるも
然るに同じ一九が合咎本の﹁忠臣鰤疇釦︑﹂︵改贋
冠
︶ で は そ の 得 意の方言通を盛に振舞は
し て ゐ
るのであって︑
筋は狸が種々の役者になつてゐるのであるが︑上欄にある﹁忠臣
蔵穀
鵡石﹂に於て骰名手本忠臣蔵の淮瑠璃の文句を
各地の方
言に翻繹
して示して居り︑九州に濶係
して
は
小の
定九郎には肥州fこして肥州揺を︑原郷右伽門
には 肥前 ーこ し
て肥前織を語
らせ
綿計
二 ︳ ︱ ‑
百語可なりの長文であるさうだが︑その一斑は雑誌﹁文藝春秋﹂第十年第
九拙
﹁
涼風誤本﹂
︵昭和七年七月三十日夏期臨時増刊︶の尾崎久弾氏が﹁九州方言の小説﹂に於て(‑四ー五頁︶親ふ事が出来る︒勿 いかなちうつろばつてん
から
文 學 研
;Iし
第一︳輯
︱︱
四
︵ 四 0
六 ︶
九 州 方
言の特
異 性
初代一九の膝栗毛
は所謂膝栗毛盃ざも梢す
可ぎ敷多の模倣類似物を蔽んだ中で︑厨応
恥和
雲水
︵社
疇
︶の
﹁ 麟
A J L 寇峠
加﹂
︵改
隣 疇
︶は﹁新群
害 類 従 第
七
こして︵六一二四頁︶並べられたが︑ ︵明治三十九年︶に於ては大久保豊
︵ 砲
雪︶により年次不明の洒
落本
氏に由つて解隠もされて(‑七一ニー四頁︶ある︒帥ち洒落本さ云ふよりも滑稽本に厨す可き此の作品の隠名は田舎の
粋に通はせたものであって︑内容は九州及び奥州
﹃こ
呼ば
れる
二人
の旅人が京見物をして滑稽を演ずる趣向であるが︑
此の九州男の言菓
が吾
人の求
める
方言である甜は尾崎氏が雑誌﹁民俗悠術﹂第笠巻第拾武披
︵昭
和︱
︱一
年十
二月
︶へ
投
稿された﹁
膝栗
毛物
ーこ
俗褻
﹂に於て︵五ニー三貞︶察せられ︑此鹿に抽出された一斑
から
推しても此の作者は九州方
言に脳しては一九よりは逝に個瞼が深いらしい様で
ある
︒
同じく中央で物された膝栗毛物
の 一
っごして梁ぐ可ぎ物に︑
︱︱
五
﹁靡田
怠 屑
﹂
︵戎庫正︶の作者なる束里山人事細川
浪二郎︵芦聾三喜怒︸
庭
︶が
證 柄 本
﹁ 叩 鴨 寄 腐
﹂
︵改庫論︶は`常時の一江戸人
ー 此
の作
者乞
盆謂
ふ
ーーが認誠し
て 魯
誓九州語の一標
誓 云 ふ 意 味
に於
て︑
是 亦 彼 の 枠 懇 尻 揖 事 林 主 水 ︵ 醤
︶ が
﹁ 后 讐 尉
﹂ ︵
改庫疇︶の如き
作品よりも︑目下の吾人に記憶さる可き突料であらう︒雑誌﹁文葱春秋﹂の尾崎氏が前掲論文に於ける引用例(‑五
頁︶
を見
ても分る通り︑漠然たる﹁もさ言莱﹂を使つて見たいなら此の作品の文尿的伯値を高める個に`作者は﹁妥
に九州の傍示杭ぱづ
れに
﹂
を宜しく﹁妥に奥州の傍示杭はつれに﹂ミ限定す可きであったのだ︒抑々質は殊に江戸在
住者に間泣ひられ︑否牽翌の無蔵されたであらう西國の﹁ばい/
\﹂
言薬なるものは︑更に今少し吾人が興味さ餘裕ミ ﹁江戸軟文學考堤﹂所牧の
﹁ 膝
栗毛物の研究﹂
盆 四 0
七 ︶
︵大正十五年︶に於ては尾崎久彊 論お定りの彼
一流
の
礎態四國語である︐
料目﹂
吝緊篠の﹁江戸文學諧座﹂第七冊︵昭和五年八月︶で藤井紫彩博士がその﹁江戸文學概説﹂に於て記される︵二六
5
︶且□‑馬はその言語をうつすこミの巧であるこミ︑
︵岬
︶
︱九
よhもまさつてゐる
さ云
ふ批評は︑
無 論 翫 畠 聾 翠 も 確 か に 該 掌 す る 筈 で あ っ て
︑ 更 に 谷
川十前の﹁和訓栞﹂首巻︵翌
談 讐
﹁ 大
はし
かと
あし
か
と の ぺ ん
︵享
和
三年一の中で網﹂に見える﹁田合
こ﹃ こば に
は櫛
音多し﹂云々
なさ
の補正
‑ r)も見倣す可き彼が﹁掘疹典海
鹿之
緋﹂
一八
︱︱0 1
ご い
んりつり・‑︑五音律呂の開語わるくて︑はしかもあしかご聞ふるなり︑國
とうに
く げ ん
すべて東奥の人言語鼻にかAるがゆえに y :
^
困 硲
00 0 0 0 0 ., とば 四 炸
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へる
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`罰濁わからぬ言もあり︑江々の方言さま
K
\にて︑一ツニッを妥にいはゞぴるばちさんぽうカいふにふつばったから︑本が
引 喜 紐
戸から一夜に莱附る︑眼嘉の間ですら︑ふき窓のふぼを︑ふっぱるな/\ミ
( F )
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らふつ切たさい
ふが
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<
各なる記述は同年に著された前掲一九の﹁麟峠膝栗毛﹂後編凡例に比較して見るrl)一段の進歩さ評さなければならない
い た こ ぶ し
ので
あり
︑更
にそ
の文
化一
一一
年(
‑八
0
六︶の筆になる姻稿﹁潮来婦誌﹂後編凡例に於ては北綿左原の方
言描寃に欄す 一頁︶ 式亭
一 二
馬 事 菊 地 泰 輔
︵ 麟 塁
⑬ 芸 嚢 晒
︶ は
︑ 間
接に
してもその
﹁ 狂
言
田釦巴︵改鴎論︶巻之上に於て江
戸
者の
人
て切らす淡呵の手前からも常然想像はされるが︑例
へば
て
く は た
ご形逍なる木偶蔵をして上方者の浄瑠硝語なる旅簡太夭に向つ
ては
寛容なる可き九州兒`何れもが此の﹁べい/\﹂言薬許りからは咀國的の香を到底掬し得ないであらう︒ 言語事宜を今此鹿で意誠中に入
れて
も入れないでも︑
﹁和
胆珍解﹂に於
ては
腸氣な筈の東京
人 ︑
第 二
輯
を是に貸す時︑博多では並存的に﹁べい﹂
ミ出
る
ー ー ー
外形だけでは全く東國方言ミ奥らない結合さへ屈々生ずるーー
文 學 研 究
︱︱ 六
品 四 0
公大無多言﹁﹂に於 八 ︶