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九州方言の特異性(四)

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九州大学学術情報リポジトリ

Kyushu University Institutional Repository

九州方言の特異性(四)

吉町, 義雄

https://doi.org/10.15017/2557124

出版情報:文學研究. 3, pp.69-104, 1933-02-25. 九州文學會 バージョン:

権利関係:

(2)

九 州 方

言の

特 異

九 州 方 言

治維新

後文述

の隆盛

が産んだ賂多なる文獣に

面して︑新聞

の続

浣欄や雑誌

の雑録類

に至る迄陣捜

渉漁し悉して

九州方

言の片

言隻

句を迄懸

並べる

のは不可

能さ云

ふよbも或は無意義ミ稲す

可きであらうか否かは

らく置いて︑自

分の森

少な見聞中

最軍

要不

n l 餓ミ信

する物を左に途次隙

列す

るに常り︑中央文

血 子 ミ郷土文學︑作

出生地別ミ作品言 語 種

︑その他色々な

分類の試はそれ

l

\様

々な

色 彩

の装を呈

するであらうが︑名稲の適

否は兎も角今

は便宜上から自 分は都

曾究

料ご地方行事

﹃ こ に

二大別し︑何れも

主ミ

して作品年代順

を経

︱こ

し方

種目別を

緯ミする配

合 様

式に従ふ事

都會夜料に包

含され

たものは小説たるミ

詩 歌

たる︱l

に創作ミ)を間はず更

編邸

ーこ

に組

分け

られ

たが

は先づ創作方

9せ︑しょせいかに

坪内雄

蔵︵逍逝

︶博士が春のやぉぼろ殷者こして

明治十八年(‑八八五︶に世に出された﹁

三麟9口因皿書生

氣 質

﹂ 面から

繰 屈

げられるのであ

る ︒

ナ こ ︒

こし

九 州 方

︵ 紹 ︶

の 特 異 性 国

六九

︵五

一七

^ 

(3)

一八 五

0

(t],i•

氷三

年︶

‑ヴイオ

(‑

ニ︱ ︱ ‑

︵大

正十

︱‑

︶慇

僅か六十五年前に臨も同じ飛鳥山

へ遊

山の途次大に力み返った筑四郎や筑万郎が是では餘り可哀さうではないかミ 春陽堂﹁逍篭選集﹂別冊第一巻所収︶

第 三 紺

は今ゃ明治文根の古典こなつて了った様であるが`

こ•-”みちのくびととく^ゃこ

つく

しや陸奥人も︑慾あればこそ都路へ

︵ 五 一

J

その第一同の始に於て

さ云ふ文句を作者の出生地や少年期を考應に入れて翻く時︑その﹁じゃらう﹂や盛に

﹁ち よ

る﹂を述彼する須河が同

さ出してゐるのは︑全

二十

同を繰つても斯かる言葉が無いだけに︑此の恰も

一 ︱

百年前

の﹁

日本風土記﹂の山歌に見ら

れる祖語)固形式にある九州方言は作者の附した註に於ける得難き方言意誠ミ相應じて誠に是をこそ

罰龍

邸睛の趣あ

るものミ評す可きなのであらう︒自分は今敢へて此の註を左へ

韓賊

する

に巫

品り

︑今度は東京堂の﹁明治文學名著全集

﹂第

一篇

︵大正十五年一二月︶の本文十四頁に在るが儘の個裁を句設黙行数字詰北

0

﹂守

る事

にす

る︒

さくしゃいは言がはことばいかちは•9ことばふんひといづ

作名曰く︒須

i n I

の言語

は如何なる地

方の

言語

なるかミ不癒をいだく人もある

べし

︒こは何

息 加

訳ふ5まりたるものにあらず︒

記印

止鉛ご酢記る応釦なる瞬定加翫)叩ふべし︒. 釦

hrlさことば•-ねものちがいいづここがら態々土佐方言なさを昴似る者ありて︒一概に何臨の方言 かみがたd

事 記 生中には上方の生にありな

さだミも定めがたければなりo]

非難してはならない︒此の年︵明治

十八

年︶に彼の佛人ピ

エー

ルロチ

事ジ

ュリ

エン

rクリザンが海の彼方から長崎を訪れてゐるのである︒そして二年後には

その

﹁お菊さん﹂を

i l t

︐生出

して

ゐるのである︒篇中僅 じ同の終の方に於て小町

田ミ

會談して

あ・︑辛度々々

文 尿 研 究

七〇

(4)

九 州 方

言の

特 異

﹁ ‑ ︱

﹂の所に於て‑

︵勘

五郎

やや.0

閉 唸

2 ,

︵ 唸 .

︵ 十

普寺︶位が散見するさはしても︑其の七月十三日の所で女主人公

知られぬ日

本の

面影﹂ は百餘年前是亦殆

さ 同 年

輩で同臨を訪れた瑞

典の

青年植物學者の手記,︶こ

上っ た日

本語

の 一

さ漿音を等しくするからさ云つて見

逃し

難き

長崎

土語の片鱗なさ:力んで

はな

1大國第一陵稿参照i

(‑

試藷5

琶 警

﹁尉夏︵

噸 蘊 鑓

︶ ない︒此

の記

憶す可ぎ西南文學の佳什も伊人ヂャ

ーコ モ プ

ッチ

ー ︱ ︱

さ同様方言意識

の上

からは格別長崎の香を疲抑

して

ゐないのである︒否吾人はロチミ同年生れの小泉八雲事ラフカデ

ヘルン

([

O l i p g O ︷ 郷

罷甕庭︶が数多

くの

作品の中で松江時代︵明治廿

三年 八月

1同廿四年十一月︶を描

いた

︵第一

書房

︐邦繹﹁小泉八雲全集﹂第三巻所牧︶には泌桜の地

に語

られる出雲訛

りや

更には隠

岐方言

に迄 i J J

なりの闘心を示して

ゐる

のに

熊本時代︵明治廿四年十一月ー同廿七年十月︶ではその﹁束の國

から

︵邦繹全渠第四巻所牧︶の中に﹁九州根生﹂なる

項う へ

あつても言葉

には

全然無頓着

なる

事質なさの方により

多く

興味を見出ださなければなるまい︒

夏目金

之助

漱石

︵譴

邸 庭

︶が

舞磁

︐で

佐に求めそして偶語は松山のを以てした﹁坊っちゃ

ん ﹂

︵ 温 喜 は四

國︑否中固

の方

言文學に取つても姐何なる役割を勤

める

かミ云ふ様な事は今更ら

しく

獨れる場合で

は勿

論な

いこ

ても

︑ 常 時 二

盛の

流行を

見せ

てゐた方言熱や更には批術を背最

に附

いて考

へる

各種幾多

の話

題が提供される筈で

あるが︑同年

内の

半年後に書含上げた左の同じく短節物は或は人々に却つて逸

せら れな いー

)も

限ら

い ︒

イオ

﹁二百十日﹂

︵明

治三

十九

年十 月︑

雅誌﹁中央公論﹂掲賊︑岩波﹁漱石全集﹂第二

巻所 牧︶

阿蘇郡の下女

の所

謂肥後訛りが兎も角

一 二 十

敷同活躍

して ゐる

︒仙りなり

にも

宜感だけは柔

順に

して

ある から

是位 が痰する土耳古語ならぬ

Z

01

ヽ ヽ ヽ 〜

i . かにI

i0

ミ 蕊 `

︵鼠︶

︵五一

九 ︶

(5)

, ︑ ︒

" `

  崩﹂

﹁富

︐  士 ﹂ 七。二十・ニ三•四五●六章や附録の和歌序に肥後訛が活躍して二十四及が特第ぴ二十六章には

第一巻(大正十四年五月初版、全集第十六巻所牧)は廿八章中で第一・ニ。四•五。六•七•九・

﹁竹 崎

子 ﹂

︵大正十二年四月初

﹁説花全集﹂第

十五

所収

︵大

正六

年一

二月初版︑新潮祉﹁窟花全集﹂第

十 一

巻所

牧 ︶

少々

示さ

れてあ

り ︑ 薩岸

路には﹁美

しい

nビけは豊後路には矢張り特異性は先つ見

られ

す︑日向路には﹁可愛料上﹂

﹁南洲

山荘

一櫻島﹂

ミ評し得ようし︑肥後路に

なる

さ前半の肥後地方の諸

所に

は本格的なお國訛りを挿入してゐる︒中の巻

﹁ 南

滋洲さ朝 ﹁名残の半

日﹂

の 諸項で記さ

れて

ある方言は鹿兒島言薬でなく肥後辮であるのは寒ろ鴬然

一同見え`奉天の所には特に﹁肥後言葉﹂なる一小項さへあって僅か鮮﹂に於ては南満洲の部の初の方に熊本言薬が

ながら會話を採

入れ

て居

る︒

中で第一―-•十一。二•三o

﹁死 の

蔭に﹂上の巻﹁門出かふ九州めぐり

﹂に

於て 遠應

なく

採用して

居る

︒ 珊 翌

に筑紫言薬を用

ゐな

かつ

たのは︑

稲々

な意味に於て穏諧ご評し得ようが ︑流

石 に 晩

年の

大作には彼の御閾訛を 徳富健次

︵ 開

︵ 響

言吟

裕 讐

翡 時 代

に世に問ふ

た﹁

灰熾﹂︵囀疇望也ゃ﹁おもひ出の記﹂

︵一九

ても

次に掲げ

る文

人の

態度

こ比

較して見て誠に津々

たる

興趣

が湧出しはしま

いか

︒ の材料ミ肘比しても一九の殊

に肥

後踪なさミ稲す

る物

如何

に盲

蛇的

まや

かし

ものなる

かは

容易に納得されよう︒

併し﹁三

四郎

﹂︵

遷嘔

応︶

を始こして以後

公試の見られな

いの

は`

小泉八雲の

慌瞼

は暫く意

誠外に證くさ

はし

究第一1一輯

︵ 五 ︱

1 0 )

(6)

九 州 方 言 の 特 異 性

地に生育した非九州人なる兼常洞佐博士をしてその﹁昔架巡證﹂

七一

﹁そ

りば

てん

﹂を

阿剥

陀訛

‑)

断ずる様な蛇足は兎も角ごし

ても

は例へば足

長子の戯名を附して友ーこ共に著された﹁旺麟個性教育膝柴毛﹂

︵昭

和五

︑日束書院︶に於て︵二

00

頁 ︶

松月秀雄博士に親しみを感じさすのみならず︑特に﹁柳河風俗詩﹂の如きは時に等しく西國語園内に入れられる可き

︵五

ニ︱

)

︵大正十四年︑岩波︶に於て︵ニニ

0

ー四貞︶方言 の混用によって涼はされてゐ

る ︒

﹁思

ひ出﹂全篇 は註秤さ

へ附

してあるものが存するが︑ して﹁性の芽生﹂全三

十八

章︑

﹁思

ひ出

﹁柳河風俗詩﹂全二十三章は

殆さ

全部に豊かな地方的俯緒が彼の

故郷

の言薬

T

ON

KA

] OHN

の悲

哀﹂

全十九常には各一章乃至敷章宛に訛語が見られ所々に 語)銘打つものは此の方而では或程

度の

古典的の密を人々に典へる様

にな

つて了ったらし

い ︒

︵明治四十四年六月初版︐

﹁おもひで﹂は全十九章︑そ ァルス﹁白秋

詩 躯

﹂ 第

二巻︑同﹁白秋全集﹂第二咎所牧︑

集﹂︑改造龍﹁新選北原白秋

集詩歌篇

﹂︑新潮社﹁現代詩人全集﹂第五巻︑改造文廊﹁作曲白秋民

陥集

抄出

の出

作たる此の詩集は

U t

﹁序

詩﹂以下八節を含むが是

等の

中︑ •+。-0六章が人の眼み惹く

﹁過ぎし日﹂全二十章︑

氏 同

﹁ 白 秋

小唄 0-―-•四•五•六●七•八•0十.-•六·七章に於て同じ方が盛に織込まれ、第十七章には些少ながら長崎方言さへ見える。第二巻(大正十五年月初版全集第十七咎所牧)は全廿章中で第•五0六•七•九•十

0五。七e十二年早第一二巻(昭利二年月初版全集第十七谷及第十八巻所牧)は全十四章中 四•六。七八o+o-。二章咎(昭和三年二月初版梨第十八巻所牧)は全十七章中で第·七 北原隆吉︵白秋︶氏の創作も九州方言を混じた作品をご探すf

こ案

外に

その所謂筑後の柳河参々たるものであるが︐︑

(7)

詩化を奨摯に高潮せしめるに至ってゐる様な有様

であ

る︒

︵大正十一年四月初版

その全四百編前後の中で﹁郷味噌﹂八節

には

筑紫の方言を働かせてあり︑是は全集に於ては南方民謡集の

ギボ副名を附された部分の中の﹁朱槃の花﹂の項に納まつてゐる︒

﹁あしの薬﹂

ーは 方

言味が豊かである︒是は全集では前記﹁朱繰の花﹂の項に収められてゐる︒

が存するのである︒

侮氏の九州方言は是等韻文の外に散文にも僅少ながら既に活字化されてゐる︒

其の自筆本を今日現に島津博物館たる尚古集成陪︵鹿兒島縣靡靡郡吉野村暉磯︶に保管陳列される薩鼎滞士毛利治

右衛門正直︵紐疇尉︷一疇

Q A 琴

︶の

﹁ 大 和 翌

乞岱吻語﹂は其の天明四年︵一七八四︶の自序に由れば先師なる川上氏の

書始めたものであり ︑是を彼一流の盟筆を以て中央古典語に改めた様に思はれるが︑此の元来諧時の治世を諷刺した

さ言はれる郷土文犀作品が所謂姫岸文學

の 梓

r てしその詞悩梢想を翁重愛好され古来幾多の人士に新趣向を凝らした

る挿入絡細ミ共に韓寓刊行されて居るミはしても︑その誇の一である可ぎ特異なる言葉の如幽の姿を文字に留めて證

かなかったのは︑隼入逹の大なる過失では無かつたらうか︒磁滞時代に生ひ立った人々が拉丁語や寺院スラヴ語たる

漢文や日本文語の脳絆を破つてその生術の口語をあ0の儘に寓して罹かうご云ふには︑異常なる環境でなくさも餘程

﹁ 北

原白秋地方民

陥集

﹂ ﹂

抄出

︶ ﹁ 日

本の笛﹂

︵大

正十

︱︱

一年

十月

初版

學 研

︵昭和六年九月初版`栂文館︶九州の部では八幡の「八幡小唄第四部に明白な語法

﹁白

秋全

﹂ 第 七 堡

r f r

選北原白秋集詩歌篇﹂所牧︶

﹁白

秋全

集﹂第

七巻

所収

第 三 輯

﹁新選北原白秋集詩歌篇

﹂ ︑

七四

共の

﹁B

AN

, B

AN

 

﹁作曲白秋民

謡集

(8)

九 州 方 言 の 特 異 性

﹁作人五郎日記﹂

ちよ

ーこ

でち

みてみやれさくらじま

七五

の穎悟さ自鹿︱こを要する性喜物なのであらうか︒例へば明治十八年二月に何れも束京市芝匝愛宕下

町の 腿城館

ミ開

ろうさい

I C

ろうrふ薩は支那昔な あた2

巻之上四頁︶﹁黄脈りん腐品方言﹂ 方

言兒

手盛

の問

嬰少

々媛

るを

いふ

盆堂さから焚兌された和装菊刊一冊本には﹁ごふす天窓

︵巻之下二十五頁︶位の用意はしてあっても︑勿論吾人が目下求める劉象には列せしめ難いのは言ふ迄も無い︒

十六七世紀の交に近衛龍山公が薩靡方言で詠まれたミ稲される短歌が﹁物類稲呼﹂巻一

のを無威出来ぬ限り︑同

様其偽

の程は不明だが槙迎︵山陽︶︵辞野翠戸翌四麟︶の作歌ミ云はれるものが戸田翠香の

︵明治二十二年四月︑絶版︑雑誌﹁方言﹂第二咎第九琥昭和七年九月覆刻韓載︶

か~て永義榮氏が紫雲山人の雅披を以て明治末年から主ミして鹿兒島新聞へ連載された作品は仲々得難い文猷ー、)

なるのであって︑防箪的︑帥典的の短篇ではあるが︑會話は殆さ全部陸岸方言もて物され而も鹿兒島市の言葉に間々

h

作者が出生地なる薩犀郡入米村其他のものを交へて居り︑や

﹁ コ

ラ/

\﹂

り馴味の無い中央の同好者に取っては珍重

す可き査料こなる筈である︒何れも輩行本に親められたが今や絶版入手

不可能︑合本重版の計班も仲々宜現は難しい樅だし︑著者の手許にも散侠︑僅かに縣立邸島闘書館に於て見られる︒

︵明治四十五年︑大正元年八月再版︑廊兒島市︑吉田

魯房

`四六判本文二

0

四頁

聞﹂へも掲載されたるものを含む︒作者の故郷の田園生活描宜であって︑此の作品だけは地の文は文語個である︒本 なる逸外賽料を此虚に改めて紹介する必要を感ずる︒ をごじよだち に見えてゐて︵八ー九頁︶即ち 編揖に係る小冊子﹁鹿兒島こミば﹂

﹁ チ

ェス

ト﹂

︵ 五 ︱ ︱

︱ ︱ ︱ )

﹁質業新 に二三の代名詞﹃こ助動詞位よ

づ た ん バ ら か ら つ き が

C

っで

﹁ぬすひこ﹂の

條に存 する

(9)

ある

︒ ﹁妻

ノロ ジ

ー﹂ ﹁何々の記﹂ ﹁下駄一代記﹂︵大正三年九月 ︑同︑四六判本文二

0

六頁︶

︑附録

には 本編 ーこ 全く 無

瀾係な短

篇寓

字は革緒︑戟は木版が自叙他の髄裁であって 9りのき部に分れ︑何れも桐木下駄之助 ︑

度が六篇見られる︒地の文は以下凡て口語慨

Cある︒東京化した薩

雙 羹

の三例︵五四頁︶は而白い︒

但し店名のみ吉田書店

︑三

五版本文二

00

頁︶ニ大正四年七月 ︑

﹁鹿兒島新

聞﹂

連載

の物 の中

﹁:

.の

記﹂なる標題の

作 ロ

l m但し既刊︑

を除

いて廿六編を集む︒鹿兒島語には好く﹁こ

を付けて語をこ云ふ記述の見える

︵四

︶の

は記録す可きである︒

︵大 正五

年七月`同八月再版︑同︐四六判本文二

0 0

頁︶

生れの婦人が﹁さす﹂を混じて薩慇言葉を使ふ所

(‑

四一

ーニ頁︶は仲々味がある︒

七四猿︑大正八年九月︶以来敷年に互つて沿区表され大泉洞︵黒石︶氏が雑誌

﹁中

公論﹂第三十五年第九賊︵第三

︑只作者は瞬者の理解を懸念して純梓なる九州辮た説苑や創作には所々に九州特に長崎地方の方言が用ひられてあり

さうであるが ︑

それ

でも同業者逹からは地方臭い所が多過ぎ丸出し

は是

を控へわざさ東京辮化したもの

を示

したのだ

るさ云ふ非難を受け

誓 云 ふ ︒

作品は全部各種の輩行本に牧められたが悉く作者の手計には散侠して了つてゐるので 頁︶は大に敬へられる

︶ ー︑

思ふ

同八年五月再版及三版︑ て

﹁僻

町I J t

﹂を澁ひ︑語尾に﹁です﹂﹁ます﹂

司︑

﹁ 木

屈物語﹂

新問連載の日記十八篇を牧む︒西京

﹁夫 から

書﹂﹁

下 駄 二 代 記

さへあれば正直正銘の﹁余所もん﹂さ見るなさ云ふ叙述

︵一

ー六 編は﹁さみだれ日記﹂﹁取り上げ日記﹂﹁菊月日記﹂の一二

節に

附録十三節を附

加し

てある︒近来の普通語流行に

つれ

Ju 

七六

︵五

二四

(10)

九 州 方

言の

特 異 性

︵+ 六

分 ︶

ウモア全集﹂第十巻﹁常世浮世大學

﹂所 牧︶

﹁叩哭人の手﹂

﹁代 官

敷 ﹂

﹁長崎夜話﹂ ︵同大正九年二月披︑

﹁ 大

座歳

黒石蒟歳﹂

その他の刊行物へも氏は

多く

の長崎測係の作品を痰表さ

れて

ゐる

活の

意を葡語もてせるれなせんさ曾の雑誌﹁奈雅斑奇﹂

七七

︵大正八年九月披より同十一

年九 月雄

︑ 東京

毎夕出版部﹁人間開業﹂︑小學館・集英社﹁現代ュ

︵ 同

大正九年一月就 ︑南北祉﹁態を賭く

る女

﹂ ︑

春秋祉﹁血ミ震﹂︑同﹁黄夫人の手﹂所牧︶

︵同大正十二年

十月

批︑紅至堂

﹁人 生見

﹂ ︑

文禄祉

﹁人 間

腹業

﹂所 牧︶

一冊︵昭和七年一月︶から連載されてある田北耕也氏の﹁窟きりしたんの研究﹂に散見する南部肥前の會話は正確な

ものではあるが元来が文要作

品の

意闘を以てしたものでなく︑従つて吾人は同誌第

一巻

第二冊︵昭和七年十月︶に於

ける次の二節を記録して固かなけ

れば

なら

ない︒

らん•

長崎

辿騒動﹂︵廿四頁分

︶ 明

治十九年八月一日に入港した北洋艦隊乖組の支那海兵ミ長崎市民

ミの

争闘顛

儲 叫

末を永見徳太郎氏がその故郷の方言を巧

に配

して

特に本誌へ寄

せら

れた

もの であ る︒

﹁紙挟み﹂蒲原春夫氏がその幼時の思ひ出

を土

地の 言薬

︑笠

交へ

ての創作︒

辛うじて三銃雑誌の涎命を免れた

﹁筑

紫文

學﹂

︵九 州帝

國大根根友會文藝部︑昭和二年十月ー同四年十一月︶は元

来同人の創作痰表を主旨ミしたの

であ

が ︑

人の

別象は何れも窮二琥

︵昭 和︱

︱一 年六 月︶ 掲

載の次の催か二箇の小説 ︵同大正九年四月眺`盛陽堂﹁天女の幻﹂所収︶ ﹁態

を賭

くる女﹂

には 所牧

﹁俺

の自叙催﹂

︵西

一五

︵長崎市商屋町五十二番

地 書

4

田口

金太氏方︶第一巻第

(11)

作︵ 躙

豆認闘戸︶

なる

雅城で物したのであって會話は標

準語

や近畿方言も多かったが︑北九州の言菓がよく露し出さ

れ︑特に博多

部の

それは土地兒ならすんば謳使出来ぬ様な特殊な語法が見られる‑こ

いふ

評判であった3

﹁犬 帥博

士﹂

﹁女

像読

拐﹂

昭和三年十二月十八日付夕刊︵耀這瞑︶ー同四年一二月十六日付夕刊

野脚雄氏が出身地の刷係

上 ︑

筑後の大牟田市や肥後の阿殊郡の方言が用ゐられた︒

昭和六年九月廿三日付夕刊ー同七年一月廿六日付夕刊 る事が出来る︒何れも夕刊迎載

であ

る︒

﹁ 地

底の人々﹂

︵ 五

分 ︶

たのであるが︑例へば雑誌

﹁改

﹂第十一巻第十銃

︵昭 和四 年ヤ 月︶

︵十 二頁 分︶

因に佐賀方言

ー こ

云へば﹁大阪毎

日新 聞﹂

﹁西

部毎H﹂佐筏版には昭和七年十月九日から﹁佐賀ばなし﹂

なる 一口

あら噺の小欄が設けられ問

答閥

の園例が迎日現れてゐる

が `

是は栗原荒野氏の筆に成るのである︒典型的九州方言固内に

あって而も﹁1あん﹂の飛地や範囮の間賠は暫

らく

除いても共

の﹁

1あんた﹂

言語

島を形成する佐賀方言が小匝域なるに不拘古来常

に何

等かの材料を供給する獣は吾人の喜・こする所なのである︒

﹁福 岡日

々新

聞﹂が

掲載

した数多くの小説中で合話に豊富な九州方言を盛込んだ作品は最近では次の三箇を果げ ﹁酒

の話

﹂に類した作品である︒

しか

見られない5云ふ質朕で

ある

文 患 研

 

)L 

第 三

百 八 同 柚

多出身の杉山

泰道

氏が

夢野久

﹁│あなた﹂の語尾に由つて或程度の

dこと佐々木母

氏が小竹丘昴

なる駈名もて佐賀縣東松浦郡岩屋村の方言を會話に於て示し

ヘ掲げられた林

芙美

子女の﹁九州炭坑街放浪記

村山組炉

氏が創作

であって會話は同じく佐賀

縣三 養基

郡地方の方言を以て

して

ある

舞磁は博多であるが作者の上

じ\

9'  

︵五

二六

(12)

九 州 方 言 の 特 異 性

めてあり︑序に常る所に於て︵一頁︶大和田建樹は

七九

帥戸市出生の十一谷毅三郎氏には丸で外國語たる肥後方

言がかくも敷しくかくも巧に使用されてあるには勿論充分な苦心が隧れてゐるのであって︑滞熊約一箇月徳日各階級

一九の肥後踪や熊本市誌の方言集さては石原氏の紳風連干

仔文章却`熊本銀磁士官未亡人︵作者居住地在住︶直接の数示︑太田黒氏追族が特に作者の為に熊本鼎もT書いて典

へられたる資料︑是等を以てしても作者は徳日泣かされて居るミ云ふ精進振なのである︒

﹁日 向の

言薬﹂

月︑絶版︶の巻末︵二

0 1

︱︱

ー四

頁︶

には

﹁夕

暮﹂ミ題する日向方言

自巾詩一節が

月︶には︵二

0

八頁︶盆踊の譜に合ふミ云ふ日向方言歌一箇が轄賊されてあり︑吾人は今後か:る文獣の成長今

笠益

次に都曾資

料 ︱

こしては残る編纂部門を筒軍に紹介する順序ミなる︒是は必然的に歌謡

類の

みを包描する結果ミなっ

た︒今吾人は一面九州の地方行事に筆を進める橋渡しの意味に於て︑先づ中央書牌で従来刊行されたものに於て論述

到象を改めて指摘する事ミ

し ︑ 然る後に九州各地の郷土査料を羅列するが︑郡誌ゃ案内記類に散見する物は之を省

く︒抑々最初から方言意識の意闘のみを以て上梓された歌謡なるものは皆無ミ稲してもよいかも知れす︐民謡︑偲陥

︑俗謡さては小唄等様々の表題を附されてはゐるもの\継じて方言の特異性を表す物は矢張り現代でも少い

様だ

博文館﹁緻帝國文廊﹂第四編﹁日本歌謡類米﹂下巻︵明治一︱︱十一年五月︶の﹁其

I l

期待しなければならない︒ 最後に若山甲蔵︵蔵六迂人︶氏の

︵宮

崎市

町一

丁目

の老人から聞いて日記に認めたるもの︑肥後狂句の研究︑

﹁神 風辿

昭和七年九月一日付夕刊から目下連載中

︵ 五 二七

地方唄﹂は多方面に互

つて

5 同方言書の第二巻︵昭和六年六 宮崎縣政評論祉︶第一巻︵昭和五年十

(13)

例へば福岡縣の

竜謡

の中

に見

える

第 三 輯

地方唄は報者の草稿を其ま:

﹂窃

して成

るぺ

<純粋無垢の方言を味はしめんさつミめた

5 m )

さは

あっても方言要素は殊に九州地方の部分に

は看

取さ

れな

い︒

方言はなるべく之を保存

し ︑

原意の推測せらる

よ限 り

は傍に記して︑

ミはあるが︑九州七縣に欄

して

は腿兒島縣を除

いて

は全

く問題になら

ない

し ︑

高斯辰之︵斑山︶博士さ大竹舜次︵紫

︶氏

この

偶謡集拾

辿﹂

︵大

正四年四月︑六合館︶に於ても同じく鹿兒島縣を除いては吾人に取って別段目を惹<

轄訛語の原形を知り得がたくて︑

適裳な嵌

を見

さな

かっ

たものA混在する

︵ 釦 ︶

さなっT

居り

第三編なる﹁九州沖縄偶謡﹂には可な

り の 材

料が盛られてあり︑

︵六 二五

頁上︶﹁応い﹂なる語尾形は九州方言味

の﹁

5い﹂位が未だ未だ中央人士には認識されて居ない而白き質例

さ言へようし、大分縣には「方言唄」、崎•佐賀長崎熊本各縣には「言詞」、して鹿兒島縣にはの何れ もが

設けられてあり︑古書からの引用もあるが中には他の網った偶陥集には

餘り載

せられず而も人口に腑灸されてゐ

る例

へば

肥後の﹁おてもやん﹂の如きもあって大に興趣を添

へて

ゐるのである︒

長崎縣は﹁松の葉﹂以来

祖蒋

時代に支那ゃ泰四の文化に接親してゐる個輩なる九州方言問題に限つて見ても何時も

賑かである︒束北人なる鈴木力︵天眼︶が古く物した小冊子﹁碩長崎土産﹂ 然るに

同じ

高野博士の

﹁日

本歌謡集成﹂︵春秋

祉 ︶

巻十二﹁近世揺﹂

︵明 治廿 二年 九月

︑同 一一 一年 二月 再版

︵ 昭

和四年二月︶は﹁解説﹂に於て︵六頁︶ ものは含まれてゐな

い ︒

一見 知り

易からしめたり 文部省文藝委員會編簗

の﹁

裡陥集﹂

︵ 大

︱ ︱

年九月初

版︶

は長連慌氏の編輯校合にな

り ︑

文學

研 究

﹁緒言﹂には︵二頁︶ G

二八

(14)

九 州 方 言 の 特 異 性

に於て九州にあつてさへ珍重す可き此の地方の言語味に酔ふ事が出来る︒

再版は同七年八月に第二輯ーこ合本刊行)以来小川新一氏が辿載されてゐる(祇賊第四•五。六輯)

﹁方

言他謡評糊﹂ 宮崎縣は日向郷土會編輯の雑誌﹁日向郷土資

料 ﹂

︵福岡市春吉四番丁六八六二輻岡土 ︵福岡市本町廿七番地︑同氏方︶第笠巻第四 崎市︑新街活版所︑絶版︶に所謂蜀山人の作ミ僻

へら れ

る例の狂歌ミ﹁ほうかい﹂節さを一首宛録した序に害

留め

た問答個の一飽︵九七ー百三頁︶は大盟に於て長崎言薬の況蘭をよく撒んだミ評す可・ぎであらうが︑浦

川 和 ︱ ︱ 一

郎氏の

﹁ 日

本に於ける公敬曾の復活﹂前節︵大正四年一月︑長崎市南山手町︑天主堂︑絶版︶には南壁の香高ぎ数首が拾は

れ ︑

長崎市役所の﹁長崎市史﹂風俗編︵大正十四年十一月︶下

咎な

る第拾参章﹁蛮謡﹂には紅毛や居人の味豊なる草

々の品数が

鉱へ

られてあ

るの

は此虞に今更

らし

く紹介する迄もないであらう︒最近には田島久雄氏の努力になる﹁長

崎民謡集﹂

︵長

崎市

町 ︐

森屋書店︶第一僻︵昭和六年五月︶が出て︑小冊子ながら古民謡︑民謡︑そのほかの唄︑

切支丹を

うた

る歌

︑章駕の諸項目に分れ︑諸書に所録引用され来

った

査料は大抵洩なく集められてあり`吾人はそ

の第

二 ︑

一二

輯の

成刊行を切認して巴まない次第

であ

る︒

福岡縣では﹁九州日報﹂の昭和五年五月三日から六月一日迄断紺十四同に亙つて橋詰武生氏が

﹁ 土

俗民謡から見た

原色の博多﹂を執筆

され

たが

是は郷土文化研究會の雑誌

﹁ 旅

ミ郷土﹂

琥︵昭和五年十一月︶ヘ共儘輯載さ

れ此

稲の物こしては従来餘り見ら

れぬ

涙厚な方言資料を供してゐ

る ︒

尚昭和七

年五月から梅林新市氏が主ミなつて登表されてゐる謄寓版﹁福岡縣郷土民陥集﹂

俗玩具研究會︶が何時か完成したら翌富な材料が得られるであらう︒

︵宮崎市神宮町六八八︑日野巌博士方︶第三輯︵昭和六年七月︑

︵五 二九

(15)

﹁博多小女郎波枕

﹂上

巻第二場なる 第三輯G

五 一

11 0)

大分縣は大分縣教育會編の

﹁ 大

分縣郷土催設及び民陥﹂︵昭和六年六月︑絶版︶があり民陥の部は七十二頁あるが方

在絶滅︶︑博多︑鹿兒島三市にのみ見られる方言統端奢ゃ各

地に

僅か宛出没する名産菓子類の附屈印刷物に迄眼を向

けるさする5︑吾人は最後に以下略述する九州一二大郷土的方言文學査料︑乃ち東北九州の翌後浄瑠璃の残存 ︑西北九

て是非設者の注意を喚起しなければならないのである︒次に

. .

州の博多仁和加の偲統南九州の肥後狂句の痰展に別し︑

 

•ooooo

展開する順序は方言

﹃ こ 地

理ミを考慮した結果である︒

何れも元来軽口滑稀から褻逹した狂言ではあ

るが

費縣

︵一

低翠

一‑

)頃

つた

こ云はれる江戸の茶番に

封應

する上方の俄

は晏

︵ 一

鱈声

5)

頃に始まったミされてゐるのは既釧の事質であり︑是等の原始的形態は無論もつミ古へ遡り得るであ

らう

様な事は自分

なさ

が改めて諒<迄もないこしても︑大阪俄の如きは今や痕跡を留のない迄に腹絶

して

居り上方郷

土研究會が辛うじて昭和七年十二月十七日大阪北新地樅舞場

で再

的の

會を佃した程の有様であh︑例へば雑誌

﹁ 上

方﹂第二十五眺︵昭利八年一月︶の叩和芳太郎

氏が

手記(‑五九頁︶に於ても一斑は解るのであ

るが

︑九州の博多仁

和加こ

そ今

日でも最も誇る可き郷土藝術の

一で あ

らう︒博多仁和加が中央の文献に於ける

片彩

や餘韻なさは︑例へば

木谷蓬吟氏が﹁大近松全集﹂第十一二

︵昭和二年四月︶に於て

︵ 五

︱︱

ニー ニ

頁︶ なさも索9

人を失望さす性賀の様

であ

り︑従

つて

長崎

︵ 現

語︑肥

後の

肥後琵毯は勿論だが︑

脳岸

の兵六踊や仁オ歌 享

殊 に

央の文献では殆さ間題にもされな

い幾多の九州地方行事の中

で 方

言衰料を他に訛る時︑筑後の

t i

鶴束町︑同會

︶に

僅かに混入する催語の程度ミ大差が無い︒ 言の貼になるミ盆踊歌ミ同様殆さ問題にならず︑郷土史蹟催説研究

會の

﹁ 鰤

翌後儲説集﹂

︵昭和七年七月︑大分市舞

(16)

八 一

﹁博

︵大正九年四月︑同六月再版︑福岡市︑金文

柳町

の 両 乖

明きにある踊の滑稽な

る 一

條は

﹁博

多二

0

加﹂の面影が迎想されるやうであるミされたり`又少く共現今で

は博多特有ミ見倣されてゐる半面即ち眼墨なさも自分の眼に獨れた大阪の戯作者なる鑑水軒浮木︵荘諏︶が噺本

闊 闊 枕

︵ 疇 囀

︶ の 後 編﹁ 骨 璧

堡 羞

" す

かみ二輪

加こ 云ふものは五十年己前上は大臣胎を半分関し仕歩きし物也`これ半而のは此時分より初りしに今は 絶えて無く多く藝者又は耕脱株のする事さは威りぬ︑是は云うていらんさへ/\御免

なさ云ふ記述を見るさ今後も相常問題は頻出

しよ

うもの\︑下に追々掲

げる

種々の仁和加脚本集の序文や附録に僅か

宛拾はれる説明や観察もさりながら︑竹田雅弘

︵秋

︶が﹁博多物語﹂

堂︑

絶版

の中で︵一七九ー九一頁︶甲︵質問する人︶さ乙︵説明する人︶ミの標準口語閤の問答を以て試みた

﹁博 多仁和加﹂なさは極めて乏しい此の種の浩革資料の恐らく白眉であらうが︑三松荘一氏等が編まれた﹁趣味の博多﹂

︵昭和七年五月初版︑輻岡市取中洲二百

十二

地 ︑

輻岡協和會

︶の

改訂

附補

一=

版︵同十一月︶で︵六四ー九真︶

's多仁輪加に就て﹂記される平田定吉︵汲月︶氏の文字も勿論味設す可ぎものーこ思ふ︒

即 ち そ の 起 源 叉

1から約三百年前に嶺し元来は孟叫盆會に樅ぜられた盆踊から轄化して遂に劇的形式を採るに至っ

た博多俄は宵菜︵一応翫︶年中に最も

晨 苓 極 め

たのであっ

て ︑

是は博多が黒田家入封以前は天領であった覇

係上

猫時代を辿じて町人階級が那珂河一筋隔てた輻閻器の枇政に鉗

して 痛罵諷刺セ加へ為政者も亦是を許容する雅

量を有 して居たのであるが︑組合は構成されても出演者は皆

他に

定の職業.を

する

素人なる事`大阪倣や江戸茶番の如き

歌舞

伎式

炭僻を用ひず純粋なる方言を以てする事の外に︑逍具や衣裳は凝らない様に力める代りにポテ墨

は兎

も角

﹃︑

︶ 九 州 方

の特

異性

︵ 五

︱ ︱ ︱ ︱ )

﹁滑

(17)

竹田秋棲﹁博多仁和加集﹂大正三年四月︑同四年

一月

再版

︵十

頁分︶が記されてあ

絶 版 四 六 判

︵ 五 ︱

︱ ︱ ︱ ‑

)

しても彼の少く共現在では獨特ミ見倣される天保二年(‑

八︱

111)に始まる﹃こ稲される所謂牛面の使用をその他統的

本質ミすらのであり︑明治維新以来寧ろ常然ではあるが衰述に向った今日でも勿論九州では他地方の類似物に追関を

許さないのみならず︑本州地方に釘

して

も恐らく遜色だけは些かも感じない郷土褻術である様な

事は今更

らしく自分

なさ

が繰返すには及ばないミはしても ︑方言文根の肘象ミして扱ふ時左に敷言を典す必要を感ずるのである︒

抑々博多仁和加の脚本なるものは磁僻や動作は格別文字には現はさないのであつて`輩

に土

佐半紙敷枚を横綴にし

益露帳が其儘脚本さなるのであり︑帥ち各人の扮装の糊を描いた傍へ配役者の名前を附し併せて出場の順序を附記し

てある。作者—~是は時に役者を兼る事があるーーは配役者一同に豹して恰も芝居の本語同様 新作仁利加の筋を腹 に入

る様に練述

し ︑

筋の痰展ご受持の磁僻のメリハリの大意を述べ︑最後の﹁落

し ﹂

は普通作中の主人公が受持つ事

になつてゐるが︑磁僻の文句は固定的なもので

なく

︑各自が筋の疲展を妨

げぬ範

内で

自由自在に頓智郎妙の滑稼版

訛を口.に上すを得るのである︒所で平田氏直接の御放示に由をこ此の筋書だけの脚本は現在迄に約六百蒋痰表されて

あるが現在行はれるものは約

二百

称であるさ

うで

是は元来仁利加なるものが其の時限りの際物である結果︑時局を

超越する小

敷の

もの:みが永絞的生命を有する繹なのである︒此の外に平田氏の自作が既に約

百一

二十

七硲

セ狩

︑同 上の意味の永絞性ある物は約四十蒜であるミ。従って吾人論究の素材娑求める•こなるミ殊に活字化したる隕行本

は最近の所では僅かに次に殿げる物位であって何れも福岡市内痰行で

ある

善敬堂瞥店 ︒

J I L ︿三薬口裕の中一薬は所消脚本の見本を示してある︒巻頭には多﹂﹁博仁和加の巾来

文 學 研 究

八四

本文二三八頁

(18)

九 州 方

言の

持 異 性

咎頭に窟蹂六薬を掲げ例言

の中

には

内賜

猿星

﹁博

多仁和加大會﹂

大正五年十一月

二十

R間部房吉 増

補版 には附録ごして﹁

博多

節﹂

昭和四年六月増補五版 将喘齊抜天

出版

されなかつたのである

が ︑

﹁ 放

送謁演集0九州方言謁座﹂

八五 菊判和絶版装

郡 文 園 堂 絶 版 袖

珍判

袖珍刊 して﹁博多の方言﹂ 頁︶﹁時の流行四森﹂

︵一 ー三 七

頁︶

︵八 ニー

一八

頁︶ 三硲﹂

﹁借錢消典組合 ︵三八ー五七頁︶

三称﹂

︵一七四ーニ三八頁︶は五十昔順の合計約千五百

の脚本に於ても全鬼めてある︒以下

然り

であ

るが︑故入

なる

竹田は福岡部出身の人ではあり殊に此の附録なさは博多部出身の平田氏の手が餘程入って居るさうで

ある が︑誤植以外に大分間違が存するら

しい

︒肉本聾で

こ 七 四 頁︶豫告された

﹁ 博

多仁

和加 集﹂第二

輯な

るものは

︵昭 和六 年五 月︶の﹁稲岡

縣の

方言﹂の博多仁和加語

例︵三四ー九頁︶は本書所収脚

本の

最初敷節から抽出

され

た様で

ある

﹁翻

闊 一

人仁

0

集﹂

大正五年十

一月

十八日

本文

︱二

(︱二七ー八頁

︶が

る ︒ 方言は出来る丈け`其他を漢字に

鴬て

はめて居ま

すが

︵︱

‑九 ー七 一

1一頁︶の五篇か牧められ︑附録) り︑脚本

は﹁

歌は豫言五称﹂

﹁ 大

滴作﹁夢の上納

春吉二番丁中通 三癖﹂

︵五 八ー 八一 本文一九九頁

中島勉強堂

栂多方言

の間

投詞﹁

ふて

ー﹂ミ接紹詞﹁ばってん﹂

︳ こ か

ら 成 を

こ考

られる

此の 低名者の本名は最早如何しても分

らないのであ

るが

薩版は二百

五十 餘箇の︑増補版は二百六十餘箇

の方

言もてせる所謂口合︑

一口

噺を収めてある︒

本文百頁二段絹

rで﹂

の匝

別丈けは薇み辛いので訂正して居ます

G

三三

(19)

五 内 野 猿

星﹁新編博多

仁和 加﹂

大正十年二月

絶 版 四 六 判 本 文

六八

て﹁

一﹂ミ大同小異の秋棲の手になる﹁拇多方言

集﹂

u ‑

一ー

0

︶が加へられてある︒貞 が︑以上の間に総計五

箇の

﹁一 口仁 和加

︵ニ ニ︱

I

六一 頁︶

︵一 六︳ ニー ニ︱

0

︶の 三

節を集のてある 煩憐に子畜

生 ﹂

︵六

ー九

0

頁︶﹁麟

誓 贔

は内野猿星氏編

の﹁

は苦

種 ﹂

(五四—七頁

露戦争國描し

00

頁︶の十四篇が見られ︑外に﹁一口俄﹂合

計十

︱︱心 郡

を中間に

る︒因に本箸者内野健吉氏は福岡部の出身

であ るが

褒打者は俄師の一人なる博多

兒で ある

︒ 環星•秋棲

( 1 0

九 ーニ

九頁︶

﹁時 の流 行﹂

︵一 ーニ 七 頁 ︶

﹁借

錢消典組合﹂ 勉強堂書店

西日本之宜業屁

﹁ 帥

根の椅

子 ﹂

︵ 二

九ー四二頁

︶﹁ 車上 の夢

︵ 四 一

ー六

0

1 1

頁 ︶

﹁親

︵ 四

分 ︶

を屈き

︑脚

本は前掲の

﹁一

及び﹁ 四 ー九頁︶

﹁ 新

選博多仁

和加

大正七年四月︑同七月再版

絶 版 四 六 判

﹁ よ みち

かへり二場﹂

﹁ 麟 誓 鼻

︵八九ー九六頁︶ のば﹁逆せ引下げ二場﹂

︵九

ー九︶

﹁花 合せ

ー場﹂

︵九 九 ー 一

(三・ニ•――-0•七•四八•八七頁挟んであ

本文

二七

0

ロ組芭

J l L

︿四

を掲げ巻頭には秋棲

の筆 に

なる﹁博多仁和加の由来﹂

三﹂ か

ら代表的傑

作ミ

も見るべきものを撰抜し併せて誤植並に迅漏

を悉 く

訂正補綴したミ梱するもので︑即ち前篇に

︵九

一ー

︐一

0

八頁︶の五郎を︑後篇には竹田秋棲編の﹁夢の上納﹂

(二八。四二。九0。―――-0•一六二頁)を挿してある外に、附fこし

場﹂

一場﹂

︵七 七

頁︶一場﹂

︵七

八七 貞︶

r應多風嘩欧州戦争國鏃し一 人仁 和カ

一場

︵八 八

﹁者島凱戦二場﹂0五八ー六

一頁

︶﹁藝者の仇討二場﹂︵六ニー七六頁︶ 二

場 ﹂

︵一 八ー ニ五

頁︶

﹁ 鳴 是 麟 臀

尿

﹁車上の夢 )

四場﹂

︵二 六ー 三七

頁︶二揚﹂

︵ 一

二八ー五三頁︶

﹁ 早

合勘

さ云

ふ文句が見える︒脚本は﹁夫知塚立一楊﹂(-三頁)﹁梨

は苦 の

三場

J﹁親煩憐に子立m生 ︵四ー一七頁︶ 八六

︵五

三四

ょくろく﹁理根の椅子

(20)

九 州 方

言の特

異 性

穂亜誌雨愁

﹁新 作郎

多仁

和加

本文二

0

八頁

八七

昭和四年四月︑同八月三版春吉二番丁中通中島勉弛堂

菊半祓判

く秋棲の手になる

﹁博

多の方言﹂

︵八

頁分︶九百餘語が添へられてあるが是は別冊こしても販布された様である︒

此の

僅かな佐賀方言は間多言菓に料して而白ぎ特異性を璽輝

9

て居るミ思ふ︒本書は附録ごして﹁こ﹁四﹂ミ同じ

雅目第一揚に一同見える︵六六頁

︶ 肥 應

羹の女のお國訛りの趣向は此の種の物にあつては前例がない様であり︑ 博多絣以外に標準普通語令を用ふる人物も僅かな誓出現するのは他の作晶に於けるミ同様で格別珍らしくないが︑第

東雲逍人﹁賓廼入船日龍同盟﹂大正十三年十二月高木喜

七 絶 版 四 六 判 本 文 一 六 八

頁 七ー九八

頁 ︶ ﹁ 一

家の芝居

三場﹂

頁 ︶

﹁厄 脱ひ

三場﹂

﹁借錢鳥退治三場﹂ ﹁

瑠硝大會

二場﹂(‑五一ー七

頁 ︶

﹁m A

麟鬼

世の中

︵一九九ーニ︱四頁︶ ︵一五八ー八五頁︶

﹁九

深車旅行﹂

︵ニ

一五

ーニ

ー頁

︶ の八 篇 を 入 れ て あ

二場﹂一場﹂︵一八

( 1

﹁三國の力味合ひ︶八頁(︱二六ー三場﹂

m

0

六ーニ五頁

﹁平

の獨

り、組計十一箇の「餘興用一人仁和加」

(10

0

五七•八七•ニニニ°三。四°五頁)を挿入してある。因に本郎の

﹁橡告﹂に見える同著者の

﹁ 巽

Eーさうぢやろ會﹂なる博多仁和加古

{7

脚本集は刊行され

なか

つたのである︒

拇多部出身の高木齊七氏がその煎餅廂の除技に表記の低名もて上梓した五甜物であり竹田秋棲の手が入つて居る︒

︵五

三五

0

﹂︵一三九ー五一場 ︵五八ー七七頁︶︶七頁

﹁犬 の相 撲 四 場

︵七

八ー

0

五頁︶の四篇を︑

後篇

に﹁洋服の振

ミ現

状﹂

︵四頁分︶を配し︑脚本は前篇に﹁萬歳ミ念佛二場﹂ 包紙には﹁関多文庫﹂第一編こ見え︑翌

J l L

︿口縮四枚︵八頁︶を掲げ巻頭には内野

氏の

にな

﹁博

多仁和

加の

甥逼

︵ニ ーニ 三

頁︶﹁稲荷の御利益三場﹂

︵二 四ー 五

(21)

(ーニ七—――ー七頁)

﹁色

男の

路 ﹂

︵一 八七 ーニ

0

六頁︶の十節を

節へ

られ

各餘白に附録さして﹁新作謎

々﹂ が

綿

計十隠牧められてある︒

本 齊 涵 ら れ た

方言は

著者

の出

地た

る筑紫郡太宰府町及び近傍の物であるから︑學問的見

今博多言葉の見本を左に傍註して示すに営り匝宜上﹁四﹂の脚本銀から抽出す

る事

にす るが

是等の文例は

元来

0述の如く内斯•竹田雨氏共に福出身の為例へば「澁

を兼て情濁分別共に自分が特に平田氏の修正校阻を経たものなのである︒

ナ︑腹ばし痛

ます

ーこ

きら

r;

,0

0

アラ

吉蔵ざんぢや無かナ︑何うし

なさ

つた ミ 冨 ぶ つ せ ェ

︑ 忍 1 万

叩雰尉造れて知ミ

りま

す︑何うぞ虹印ヽ

寡 鬱

はっ

然も︑何うも無かけん何うするケ

船 贔 即ひ込うさる~ )~

饗 っ か さ る り や 加 炉

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参照

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