九州大学学術情報リポジトリ
Kyushu University Institutional Repository
吉利支丹懺悔錄の方言 : 特に九州方言に就いて
土井, 忠生
https://doi.org/10.15017/10590
出版情報:九大國文學. 3, pp.40-56, 1932-02-10. 九大國文學研究會 バージョン:
権利関係:
九大國丈學 第三號
吉利支丹幟悔録の方言
i特に九州方言に就いて一
土 井
四〇忠 生
盟ド電轟コ派のデイエゴ・コリヤ1ド︵硝り一〇σqo 6ご一貯儀︒︶編﹁機悔録﹂︵=ハ三二年寛永九年羅馬にて刊行︶の紹介は︑早
く野村先生が本文の輔部を抄出翻麗して解題を添へられたものがあり︑南攣記︑南螢首記の中に牧められてるる︒近
くは吉野作業博士及び松崎實氏の﹁切支丹繊悔録﹂︵改造第+巻図長沼賢海教授の南窓影響︑姉崎正治博士の切支丹追
害史中の人物事蹟に殆ど首丈に亘っての争点解読が爽表ぜられてるて︑何人も容易に見得るやろになった事は甚だ好
都合である︒骸悔録が慶長元和頃の風俗研究資料として便値多い事はよく知られてみる所であって︑その方面からこ
の書を讃まうとする者にはこれら三種の翻宇本で略その用を具するであらう︒然し語畢資料として取扱はうとする者
は︑これら蘭学本のみを以て満⁝足すべきでない︒以上三種の國字本は夫丸多大な努力が梯はれてるるやうであるが︑
而も禽翻⁝字上士も必要な語塵・上の用意と工夫が充分でなかったかの憾がある︒故に先づ國字本に櫨って軍艦を知った
後にも更に原本に就いて調査し確かめるやうに心掛けねばならない︒
骸悔録に信徒が告白を絡って聴罪師に雲上を乞うた次に︑左の問答が記してある︒
とが かウ しんてい ︵師の問︶仰せある如く︑最も科の鍛も深さも︑いかい事なれども︑心底よりそれを一麦後悔し再び犯すまいと思
ひ切って︑皆一つも淺さすあらはしあった︑の?
ご ぱい あやまり ︵信徒の答︶ なかく︑なにが︑でうす︵06償自︒︶の御代︵御名代の意︶に週を虚しまらせうそ?︵五八頁︒以下引用文
は原本の頁敷を示す︶
これω巴苺8壇言目5経︵一五九八年慶長三年日本耶蘇會緑林出版の國字本︶に敦へてるる所であって︑﹁如何なるもる
たる科︵あにまを絡り馨苦しみに落す程の科也鯛謡︶にてもあれ︑恥しさか恐れかにびかれて隠す事あるべからす︒
其故はこんへそる︵難罪師︶こんひさん︵繊悔︶を聞給ふ時はぜすきりしとの御名里なれば︑こんへそるに科を隠す
事は直にぜすきりしとを量り奉らんとするにことならす﹂とも憂いてある︒すべての翠黛虚飾を去り︑サルヴアトー
ル・ムンデイの明治二年新刻本﹁とがのぞき規則﹂に特に﹁無芯の書葉を蔑すして﹂と注意してある如く︑言葉を飾
り丈章を練るよりも︑李素の話言葉を以て心に浮ぶがまエを告白すべきものである︒でうすやきりしとに直接向って
みる心持で職悔するのであるから︑その言葉が敬語に満ちた他所行きのあらたまったものとなるのは︑臨むを得なか
ったであらうけれども︑亦著しく耳立たぬ程度で郷談即ち方嘗の混入する事も免れなかったであらう︒コリヤードの
骸悔録は信徒の口述その儘の完全な筆記でないにしても︑職悔の嘗葉を全然矩鏡するやうな事磐なかったであらうか
ら︑吉利支丹の多かった近畿から九州にかけての言葉がその中に見出されるであらうと推測せられるのも敢て無理で
はない︒然るに吉町義雄氏は﹁九州方嘗の特異性﹂︵二︶︵本誌第二號所載︶申に重て︑⁝職悔霧中に九州方言が存すると観
る諸詮を廣く槍討し︑絡に
骸悔録などに於ては立派な中央語なる事は今更此廣で繰返す必要はあるまいと思ふ︒其の他の晋聲︑語彙に關し脇
古利支丹繊悔鋒の方嘗 四一
九大國丈學 第三號
四二ても同綴である︒
と断定せられた︒果して繊悔録の中には九州方言の嬰素を全く見出し得ないのであらうか︒吉町鳶の下された結論は
絶封に動かないものであらうか︒長講方言とか豊後方言とかを明示する事は勿論禺來ないけれども︑少くとも九州方
書ではないかと推定出土るものが含まれてみるやうに思ふ︒以下その学芸的な賢例に就いて述べよう︒ ごろ 巻頭第一の﹁いつ︵又は︶いつ頃こんひさん︵O§剛︒ωωざ昏原語に拘泥せす當時の通用語形を示す︒以下倣之︶を申
しあったか?﹂との聞に樹する答の蝸つに曰く ひっそく われが四五六年さきょり吉利支丹でおりあったれども︑御存じの如く︑ぱあでれ︵男9︒鐸Φ︶様のおん逼塞によって︑
織忍︵絶えず︑常にの意︶こんびさんを申しあげうと︑力の及び才戸山いたれども︑途にそのる御亡がござらいで
ラ 今迄こんひさんを申しあげまらぜなんでござる︵四頁︑當時の﹁せ﹂はすべて︒︒ぴ︒と左書せられてるたが便宜﹁せ﹂で爲す︶G
有告白申の﹁てうび﹂の語は他に省三ヶ所見えてみる︒
今ぱあでれ橡のおん逼塞の盛りでござれば︑どみんご︵Uo欝ぎσqQ日曜日︶醜日︵原本貯9︒ぼとある︶に踏みさ︵凱・・雷︶
し む や を拝むてうびがござらいで︑是非に及ばぬ耳なれども︑二三度は叶ぴながら︑たΨゆるかせで詰みまらせなんで
ござった︒︵三番のまだめんとに就いて︑二八頁︶切 く
嚇.女房を持ちながら近づきも持ちまらした・その手かけも夫のあ薯で書やる・さうござれば・葉灘璽塒
とが も セ も かウ があって︑望のま﹄にそれを科に堕ちまらぜいで︑た野てうび次第に致しまらした︒数はえ畳えねども︑一月に
は二三度もあり︑一度もあり︑無い事もござる︒ ︵中略︶兎角仕合せに相よりまらした︒︵六番の御掟に就いて︑三 脇
六頁︶場
その内叉飾年・一年・ゴ解二年の妾もござった︒何度宛とも畳えまらぜぬ︒た塁塞に任せまらした︒︵六番
の御掟に就いて四四頁︶司.
ラ
右の﹁てうび﹂は如何なる語であるか︒吉野博士︑松崎氏はイの附註に︑︽
カ ね も む チヨウビは封課羅旬文には08箇風︒とあり︑機會の意昧なれば姑く丁日を宛つ︒ラ ラ う うと読明してゐられる︒謬言拉丁丈によれば︑ハ ニはイと同じく︑ロは︒唱噂︒誉§聴手ωとなってみて︑すべで同義 ︵ ︵ ︵ ︵
ナラ
である︒さうして︑この﹁てうび﹂は原本では四つとも︒憲ぼと篇されてるる︒︵イロはoq薗に綾くために.−の上 ︵ ︵に古昔化の暴君が加へてある︶︒ 6は耶蘇會士等の用みた長音記號と同一であって︑合音を示してみる事は︑同じく
コリヤードの編纂に係る日本丈典︵臓悔録と同年に羅馬にて刊行︑但し序言の日附は丈典が一六三一年八月三〇日︑
直接録が=ハ三二年七月八日である︶の序言に⇔d暑℃O︵佛法︶丘はアクセントを示し血の誤植であらうか︑︶を例に朧げ
て呂と岡書債であると註してみる︵四頁︶のに依っても明かである︒﹁佛法﹂の属音は﹁ぶつぼふ﹂であるが︑一五九
八年慶長三年耶蘇會學林版﹁落葉集﹂に﹁ぶつぼう﹂としてあウ︑勿論ブツポーの鞍置であった︒合晋のδに封ずる
開巻はコリヤードに撃ても亦6叉は6で示されてみる︵版本目本交典四頁︶︒ 故に︒ま窪は﹁ちやうぴ﹂でなく︑﹁ちょ
うび﹂又は﹁てうび﹂︵﹁てふび﹂︶でなければならない︒吉野博士松崎氏が﹁チヨウビ﹂と見出して﹁丁日﹂を宛てられた
に就いては︑開合の上から﹁丁﹂の字書を考へてみる必婁がある︒
同盟に從來の重字本はこの開合の別に署してさぼど嚴正でなかったやうである︒一例を示すと︑﹁そうそう﹂︵一二 舖
吉利支丹機悔録の方言 四三
九大國丈學 簸三號
四四そうべつ ぞうぐ賀︶は総別と同じく毫部垂艦などの意昧の語であるが︑吉磐博士松崎氏のは正しく﹁総々﹂とあり︑姉崎博士のは︑ さうぎう さうムし意味のみを傳へて﹁黒物﹂とし︑長沼激授に至っては更に﹁創造﹂となってみて意昧まで誤解せられてみる︒﹁丁日﹂
ラ ラ ちやうびも吉野博士松崎氏が附註でチョウビの磯音として考定してゐられるにも係らす︑本丈では臼も@も丁日となって
みる︒ 層 司を含む﹁六番の御幕に就いて﹂は全丈削除せられてるる︶︒ 丁の字書は︑丁子︑丁香皮︑沈丁花な ︵ ︵
ど転用ゐられる時は︑﹁ちやう﹂であった︵易林本節用集︑落葉集︶︒ 即ち開書の︒まである︵慶長八年長崎耶蘇會里
林版日葡僻書︶︒ 然るに偶数の意を示す時には合書︷︐てう﹂に畿晋せられてるたのである︒臼葡僻書に︒げOの語を學
げ︑先づ偶数の意であることを設き︑饗の園の偶数が出た意の﹁てうがおりた﹂を拠し︑叉奇数の意の﹁牛﹂をも読
明し﹁てうはん﹂の熟語を加へてるる︒ oま山岨の熟語は留別に標出し︑丁か孚かの懸事をする意の﹁てうはんにか
けてする﹂といふ成語も牧めてある︒これら偶数の意の﹁丁﹂はすべて︒げひと篇されてるるので合書であっだ事が確
かである・平蔵琴ちょうはん﹂の條に指摘してある如く丁傘に零の字を宛てるのもその設となし得る︒更に叉︑
誘概が正しくて丁孚叉は長牛は借字だとする小山田器量の醗︵松屋筆観測三+八の廿︶が當ってみるならば愈以て合
昔でなければならない︒﹁了日﹂の語は日葡僻書にも登録せられてるないが︑他の例から推して當然合昔に磯音せら
れてるたとしてよい︒古くから重日と書かれた例もあるやうである︵抑訓導班引重要抄︶︒ 故に姉崎博士が︑丁臼に
ラ ラ ラ ひイでは﹁てうび﹂︑ ロでは﹁ちょうび﹂と傍訓せられたのが正しい︵ハは丁日のみで傍訓なく︑二はその部分の
︵ ︵ ︵ ︵
本文が怠学せられてるる︶︒かく意義の相蓮に俘って開合も亦異なる例に就いては耶蘇會士ジヨアン・ロドリーゲスも めうにタ ねらぼうしんぼうその日本文典に掻いてみる︒前にコリヤードから引用した憲法の﹁法﹂の如きもその一例であって︑妙法︑王法︑心法︑
擬・難など教法等の意の時は盒・である︒然し法度の意では・雛・難・理を破る灘はあれども灘を破る理は
なしなど墨開音に磯上する︵長峰版交典一七八丁裏︶︒ 以上の宛字及び傍訓は落葉築によったのであるが︑易林本
ホワゴ ダン ホッおン ゲン リウ ラク節用集にもこの別は明かである︒即ち保の部に牧めてある法語︑法談︑法門︑法験︑法流︑法嗣は合習であり︑波の
ハフヤウ レイ シキ マカセ ムウニ部に牧めである法理︑法例︑法式︑ 任レ法は異書であって︑ロドリーゲスの所読と合致する︒王法も節用集にはワウ
ボゥとなってみる︒
かくして稜聖上から冒へぱ︑畠ゆぼに丁日を宛てる事に難はない︒然るに叫方蚕砂僻書にもこの語が蝕められてる
る︒それを見ると︑先づその六義を解して↓08口︒団︒ ⑳o郎9︒嘱罎¢︵と墨のへそなふる︶とある︒易林本節用集にある
テウビ調備がこれに贈るであらう︒長沼教授がその識悔録翻字本に激て︑調備を宛てられたのは此震に擦られたのであらう
ご かんきか︒骸悔録中に﹁た穿御里氣を遁れうするための鳥人︵︒まσq鼠︶で誇りあったれども﹂︵二〇頁︶とある調儀︵策略工
夫の意︶の調と同噂漢字であり︑その字音假名遣は節用集の示す如く﹁てう﹂である︒長沼教授が﹁調儀力﹂と傍註 しながら﹁ちやうぎ﹂と書かれたのは精しくない︒前掲ハの例に﹁てうび﹂とせられたのを採るべきである︒ ︵ さてかの日葡罫書に魚心を註して︑ ﹁食物を調理し叉は入れまぜること﹂と一般に通用する原義を基げ︑次に比喩
しも的の用法として﹁下の地方では好都合好機會の︵ぴ︒餌8添旨口︒腐90や︒噌葺爵達皐︒儀︒︶等の意に解する﹂と論いてある︒
即ち母斑僻書に擦れば︑好機會等の意味の︒びゅ鑑は調備なる字畳語であり︑而も下の地方即ち九州地方に於ける特
殊な用法であったのである︒
是に於て哉々は虚日と調備との中何れに從ふべきかを考.へて見なければならない︒好機會の意に用ゐられる語とし
古利支丹骸悔録の方言 四五
九大國丈學 第三號 四六
ては︑麺類の縛義と見る方が比較的容易に解繹出來るやうでもある︒然し﹁丁の日﹂が﹁丁圓﹂と重箱讃の複合語となつ%
た形がその頃行はれてるたかどうかf不明である︒百練抄の﹁重日﹂は何れに讃むべきかわからない︒博く文献に徴
した上でないと断雷は出來ないけれども︑慶長前後の欝書類には見えてみない︒尤も丈献上の讃左がなくても︑ある
地方には既に存してみて意義の霊化も行はれたのであると想像出來ないでもないが︑そこまで想像を逞しうするより
も︑その夏時の相當に信用してよい設明にさほどの無理がなかったならば︑その読に從ふ方が無難であらう︒次に蓮
べるやうに︑﹁しあはせ﹂が﹁てうび﹂と同義に用ゐられてるるのに照し合せて︑機會よりも都合便宜といふ顯に重きを
置いて考へると︑調備の暴騰と解することも敢て困難ではなからう︒それ故に今は日葡僻書に從って丁Hよ砂も調備
を探ることにする︒それは兎もあれ角もあれ︑こ玉に璽要なのはその調備が方言であるといふ窮である︒
繊悔録に牧められた告白は大傘慶長元和の間の採録に係るものと推定せられるので︑その中に用ゐられてるる轡葉
の方嘗であるか否かを定めるのに︑耶蘇會に属する伴天竜が月本人の協力を得て慶長の初め数年聞を費し長崎の地で
編纂した日葡僻書の読明を愈愈とする事は︑西部方言に關する限り︑多くは誤らないであらう︒然らば告白血中の﹁て
うび﹂も九州方言の調進であると雷って差支なからう︒方言の調備に封ずる一般通用語は何であるかと冒ふに︑前揚
刃の文中に見える﹁仕合﹂の語が即ちそれである︒この外にも弐の如き用例がある︒︵ ラ 整が起る時はそのま蕊仕合せをうか囲うてほしいま玉につとめ︵六番の御廟に就いて.四二頁︶ホ ︵ さかつぼ じ を さけ ピ しゅ ヘノ につほんかたず 日本画質に盃の僻儀は回生の事なれば酒︵叉は︶御酒をたぶる仕合せが繁うござった︒︵五番に就いて︑五四頁︶へ ︵
何れもその劃課拉丁文では︒︒8玖︒が用みてある︒日葡僻書にもこの語を暗め︑か語る拉丁語から出てみる葡語で論
明してある︒識悔録と殆ど同時にコリヤードの手に成り同年に羅馬で印行せられた拉日鍬謬僻書︵序言の日附は輔六
三二年八月一日︒ゾチカン圖書館藏コリヤード自筆初稿本の西班牙語日本語謝謬僻欝には最初に=ハ三一年と記入し
てある︶にもO唱℃9葺皆訪露︒︒B既︒と並べ畢げ﹁仕合せ﹂の日本語を︑宛て玉みる︒又︑一五九五年丈腺四年天草
耶蘇會撃林版耳玉日謝謬僻書にもO︒婁ざに﹁仕合せ︑便り﹂を第一義とし︑O署9乱塾塞には﹁よき時分︑幸ひ︑
よき仕合せ︑ついで﹂と温してあるやうである︵一八七〇年プテイヂヤン師羅馬復刻の拉日宇典に篠つたので天草本
がこの通りであるとは聖日し難い︶︒兎に角﹁仕合せ﹂等が一般通用の標準語であって︑﹁調備﹂が九州方言である ラことは認めてよからう︒さうして九州に於ても﹁調備﹂と共に﹁仕合ぜ﹂も併用せられてるた事は︑ ハの例により ︵ ラ 又昌とホとが同一告白申の嘗葉であるのによっても知られる︒ ︵ ︵ 吉町氏の指摘せられたやうに︑﹁さかいに﹂の如き近畿方言と考へられるものもあるが︑その外にも方言ではないか
と疑問を懐かしめるやうな語彙がある︒例へば︑
みくちう たム ごわん ふるまい わづら その上澄︑患ひの難儀な時分に︑その腹申に崇つたものをぱ︑いつもく︒ださる蕊まいと願を立てたれども︑振舞
に人よりやらせられだれば︑横柄な者と思はれまいために︑逮に取ってたべまらした︒︵二番の御為に尊しての科の
事も二六頁︶
右文中の横柄は原本にく︒暁魚とのみで長音符が加へてない︒當時はやはり﹁わうへい﹂即ちく留鼠であった事は日
葡僻書によっても明かであるが︑こムに長雨符のないのは箪なる誤植に過ぎないかも知れない︒か直る誤植は少くな
い︒次に﹁くださる製﹂は﹁ある人に敬意を綿ぴながら自分自身に就いて話す時に飲食する事を魚味する﹂と日葡僻融
必口利支丹燈⁝梅凱録の方嘗 四七
九大國丈學 第三號 四八
書に読明してある通りである︒さうして﹁下さるエ﹂の第︸義は身分の高い者から低い者に與へる事であるが︑﹁や
る﹂が又こ蕊では與へる意に用みてある︒か玉る用例は他にもある︒
其の餓の童.慧と能う智ながら・いまだその蘇をやりまら譲︒兎角あらぱやらうとの定めはたび一でござ
と と つた︒やるまいとも一度も二度も存じまらした︒さりながらも早渡しまらせす︒ ︵七番のまだめんとに就いて︑四六
頁︶かく﹁やる﹂を物を與へる意に用みるのは地方的なものであったやうである︒慶長八年出版の日葡僻書にはこの語の
第榊義を命令する事であるとしてみるが︑翌慶長九年刊行の同僻書補選の部では更に﹁車を遣る﹂といふ言ひ方に就
いて照明し︑次にある物を與へるといふ意味のある喜を註した所に特に拉丁語で︾剛醐象ぼ︵ある所に於て︶と︑附記
してある︒古くから存し︑今圓も廣く行はれてるる意味であるが︑當時にあっては地方的に限られてみたのでもあら
うか︒疑を存して置く︒糟密な研究を点したならば︑この類の語は膚見出されるであらう︒
方向を示す助詞が畿内九州關東で相違してみた事は︑ ﹁京へ筑紫に關東︵叉は坂東︶さ﹂といふ諺となって最もよ
く知られてみた所である︒即ち京都附近では﹁へ﹂といひ︑九州では﹁に﹂といひ︑關東では﹁さ﹂を用みてみたの
である︒ロドリーゲスの読明によれば︑都では﹁へ︑の環へ︑の携へ﹂︑ 下即ち九州では﹁に︑の灘に︑の如く︑
さま︑さな︑の麓へ︑の甥へ﹂を用みた﹁長崎版日本文典一噌○愚息︑一七〇畳表には﹁さま﹂を﹁さまへ﹂として
ある︶︒ 尤も﹁都のやうに上る︑關東の如く下る﹂等といふのは粗野な低級な書ぴ方であった︵同輩典=三丁裏︶︒
コリヤードも亦この窯に接して簡軍に詮明してみる︒彼の日本文典の初稿本たる西班牙文上本︵大英博物館藏︶には︑ 鋤
先づ﹁あちへ参らう﹂を禦げ︑次に﹁都へ︵又は︶都を奪いて︵又は︶へ向けてのぼる﹂︑ 或は︑ ﹁都のかたへ叉は︶
はう方へのぼる﹂といふ例を示し︑更に九州方言に就いて﹁ある人は﹃都のやうに︵叉は︶都の如くのぼる﹂と書ふ︒然
しそれは悪い言ひ方である﹂と述べてある︵;二頁︶︒拉丁丈に改められた版本︵五八頁︶では︑九州方言に﹁都さ
な﹂の用例を加ヘロ氏の記事を確實ならしめてみるのを多とすべきであるが︑ ﹁都のよりしとあるのは﹁都のやうに﹂
の誤りと見るべきであらう︒叉西斗掻本の標準語繕言ひ方﹁都を長いて︑都へ向けて﹂が︑版本で﹁都に指いて舞ろ﹂
﹁都に向けて参ろ﹂となってみるのは如何したものか︒或は刊行に際して拉丁文に書き攣へるのに九州方雷に索かれて
却て誤を響く傅へるやうになったのでもあらうか︒何れにしても九州では﹁に﹂が最も多く用ゐられたのである︒ し 繊悔録を見るに︑殆どすべてが﹁へ﹂である︒例へば︑その奉行へ丈なりとも使をやってなりとも︵一八頁︶ も でうすに饗しても悪口を吐いてゐらる温言へわれが附き合うて︵二〇頁︶ し 寝てみる所へ人がそろ一と近づいて︵六番の御回に就いて︑四〇頁︶
人の内の物が物を喪りに身が所へ來たれば︵七番のまだめんとに就いて︑四六頁︶
蓼なる窮噸三人身が磐おぢゃって︵五番重いて︑五畏︶
さまたげ あなりわ 今はやる吉利支丹の障碍︵迫害の意︶に就いて身が邊へ奉行が來て︵慈悲の所作に封して五六頁︶
又︑第一誠の申の﹁きりしたんになりてより神ほとけを拝みたゆや否やと糺し拝みたるにをぴては幾度と其歎をも申
べし﹂︵耶蘇會學林版サルヴアトール・ムンデイ︶との條項に罷る告白の一つに次のものが出てみる︒
く じ 或時も譲りの公事︵相績に關する訴訟票︶に就いてぜんちよ鴨︵σq⑦馨ぢ異教徒︶の所に久しう居りまらしたれば︑その
吉利支丹繊悔録¢方醤 四九 鋤
九大國文學 第三號 五Q
みばう む 宿の亭圭と隣りより︑晋利支丹と見知られまいために︑それを重石いてたびノ\ぜんちよの御堂︵佛教の寺院︶へ
かみほホぴ うぴ うなつ 行って︑ぜんちよなみに十念もなしまらした︒又再々ぜんちよ卓説の事を褒美せらる寸時︑我も低頭いて︑言葉で こ もなか一御尤もちやと申して︑深い科を犯しまらした︒これは何度でござろ︵らうか︶と畳えまらぜねども︑大
たび ど 略二三十度程︑せめて二十度泊りであっつろ︵らうか︶と思ひふくみまらした︒︵二〇頁︶
この告白に封ずる講罪師㊧嘗葉に曰く︑
でらむ む ぼん 又ぜんちよ寺に行って十念したことの上に︑あの所へ戻りあらう時は︑眞の吉利支丹でござる︒あのぜんちよより
む うげが 見知らる製ために︑それ寺へ行かれう・ずお俘せす︑叉棘佛の事を褒美せられう時も諜はぬのみならす︑却て吉利支
ぬん いちすぐ 丹の賀のでうすのおん教へばかの一勝れた宗でござると︑そのぜんちよの前で申し鰯らしあらいでならぬ︒︵五八
−六〇頁︑五九頁は謝誰拉丁丈︶
信徒の告白には勿論﹁へ﹂を用ゐ︑聴罪師の教講にも大官﹁へ﹂を用みながら︑た穿一つ﹁に﹂を混じてみる︒日本
人ならぬ俘天蓮の誉葉の中であるから︑九州の信徒が九州方言をロにする場合と同一覗幽晦ないけれども︑兎に角︑九
州異言の片影が窺はれる︒都の言葉を標準語として畢暫しながらも︑九州方需を耳にする機會の多い件天蓮が不用意
に方言を混用した喜もあった事實を物語るものであるとは考へられないであらうか︒或は前述の如く拉丁丈日本丈典
の﹁へ﹂の條に見られるやうな誤りもあるから︑これも編者だるコリヤード自身に毒した事であるかも知れない︒
樹︑﹁へ﹂と﹁に﹂との疑はしい例を畢げると︑
ゆいせい 傾城になって女郎町へまかりいて︵昌O︶︑我が身をぱ好む者に費物として︵六番の御側に就いて四二頁︶ 職
ねん 御みさを拝みに参って︑初めから末までその所にまかりいった︵#け餌︶れども︑それに念をかけまらせなんだによ
つて︑拝まぬと同じ事でござると思ぴまらする︒︵三番のまだめん刈に就いて︑こ八頁︶
これらはその拉丁語繹によって見るも︑﹁女郎町へまかの行って﹂﹁その所にまかりみたれども﹂の意である︒從ってそ
の﹁へ﹂﹁にしの用法は標準語と異ならない︒﹁行って﹂を﹁いて﹂︑﹁みた﹂を﹁いった﹂といふ纂もあったかも知れないが︑
誤記誤植の類ではなからうか︒動詞によっては﹁へ﹂﹁に﹂何れをも取ってみた︒例へば﹁われらに下されい﹂とも﹁わ
れらへ下されい﹂とも言ぴ︑﹁そなたには頼むまい﹂とも﹁そなたへは頼むまい﹂とも雷ふ事は標準語の申にあったので
ある︵ロドリーゲス長崎版日本文典一五ご丁表︶︒臓悔録ではかムる場合に﹁に﹂が用ゐられてるる︒
かね しりうと その金の三分一知人にやって︵二番の御掟に封しての科の事︑二六頁︶
貧入になりともか御みさを行はせてなりともか施いて︵七番のまだめんとに就いて.四六頁︶
貧人に施いて︵同前.四八頁︶
叉﹁いんへるの︵H馬・B︒地獄︶に堕ちいで叶はぬ﹂︵一四頁︶は﹁りんぽ︵一注げ︒古聖所︶と申す所へ下らせられ﹂ハ一二
頁︶﹁ぐろうりや︵oq一〇膏天國の榮光︶へござらぬ先に﹂︵一四頁︶と相似た言ひ方であるが︑﹁科に堕つる﹂などともい
ふ動詞﹁堕つる﹂のために﹁に﹂を取ってみるのである︒必ずしも方言的な相違であるとは雷へない︒
じゅねん じゅれん じゅねん 前引書例中の﹁十念﹂は從來の翻字本で﹁諦念﹂叉は﹁呪念﹂︵長沼教授︑一ヶ所には諦念が宛て民ある︶となって
みるものであるが︑原本には圏琴昌︵二〇頁︶旨目窪︵五八頁︶長書記號が加へてある︒阿彌陀の名號を十度唱へる
十念の語と解すべく︑十念は落葉集にも臼葡僻書にも出てみる︒かく︒やuの長短を誤った翻字の例は少くない︒短
由口利実丹儀⁝悔舳鰍の⊥万言 五一 蹴
九大國文學 第三號 五二
晋を墨書とせられてるる例を煽げると︑近纏衆︵噌八頁︶きりしたん衆︵圃八︑三八︑誠六頁︶代官衆︵こ○頁︶等の衆
は﹁しゅ﹂であるべきにも係らす︑大抵﹁しゆう﹂﹁しう﹂と傍訓してある︒符號に關しては誤記誤植が多く常にそのま
製を取る事も危険ではあるが︑原本に封しては忠告に而も當時の聖書に照して綿密に吟味する事を怠ってはならない︒
そして他方僻書類に徴して見て彼此相違したものや︑或は戦悔録中でも前後一様でないもの玉中には︑時に方言であ
るものが含まれてみないとも限らない︒然し明確に判定する事は極めて困難であるから︑とエには徒に憶測を述べる
ことを⁝握へよう︒
慶長頃にdは9︑或はL等の前にある愚晋が幾分か鼻音化するのが一般の傾向であった︒例へぱ助動詞﹁ぢやしは め箪に﹁ぢや﹂のみであれば︑﹁女ぢや者﹂︵三〇頁︶の如き場合にも先行母音は鼻喬化しない︒只﹁おぢゃる﹂﹁おぢゃっ
た︑て﹂の場合には﹁お﹂が鼻馴化したやうである︒職悔録には誤植かと思はれる一例を除いて︑すべて薫習符が施
してある︒ロドリーグスは︑か蕊る場合の曇膏を明瞭な鼻差でなく興奮昔ともいふべきものであるとし︑南詩人がそ
れを翌月の婁膏に嵩めて︑科をトンガ︑長崎をナンガサキと獲署するのは正しくないと書ってみる︵長腎版国本交典
一七こ丁裏︶︑コリヤードも亦Nと観てよいが︑さほど強い音でなく敏速に包丁せられ柔かい晋であるとしてみる︵拉
丈日本文典四頁︶︒然し凋立の鼻昔と匿別し難い場合もあったのである︒
悪癖にとんちゃくしてみる所で︵六頁︶
色饅︵肉饅︶の見苦しいものにとんちゃくしてみた所で︵六番の御掟に就いて.四二頁︶
右意中の﹁とんちゃく﹂は鴇oq§轟と爲されてるる︒﹁おちゃる﹂等の﹁お﹂の鼻繋化を鷹すのと同じ記法である︒彼と 蹴
此と同一な嚢書と考へられたのであらう︒亦當時の護晋そのものが甚だしく類似してみたのでもあらう︒その鼻習詑
號を長音記號と誤って︑吉野博士松崎氏は闘雀を宛てられ︑姉崎博士亦これに從はれたけれども︑岡雀は﹁どうちゃ
く﹂叉は﹁とうしゃく﹂であって︵日葡解団︶︑﹁ぢや﹂︵σqεと﹁じゃ﹂︵智︶との襲蝦上の士別をも無学せられたものであ
る︒長沼教授も前の例を﹁とちやく﹂とし︑後の例をば﹁頓着力﹂と傍註して﹁とじやくしと書いてゐられる︒か製る
﹁ぢゃ﹂と﹁じゃ﹂との混同は磯字本に往汝見受けられるが︑本よりその時代には一般に識別せられてるたのである︒
﹁とんぢやく﹂は漸村先生が貧富を宛てられたのが當ってみる︒古版愛想記で﹁とんぢよく﹂と傍訓が施してあるのは
誤植に過ぎなからう︒
コリヤードはこの種の鼻音化した母音の上には綿密に黒熊を加へてるるが︑叉當然鼻習化すべき場合に全く認號の
加へてない所も少くない︒その頃9の前の槌音を鼻習化させないのは備前地方の特徴であった︵ロドリーゲス長崎版
日本丈典一七〇下裏︶︒さればとて︑骸悔録に9の前の慨音に鼻音化の記號が施してないのは即ち鼻昔化しなかった場
合を爲したものとし︑それを以て直ちに備前方嘗と見るのも早計である︒
か玉る鼻昔と共にアクセントをも一々表記した者はコリヤードの外に例なく︑我々は大いに珍重すべきである︒殊
に九州の地以外は知らなかったらしいコリヤードの書き賞したアクセントには可成り九州地方のものが含まれてみる
のではないかと考へられる︒然し我々はそれと比較考定すべき他の材料を殆ど持ってるない︒その上にアクセントの
記號は誤植が最も多く︑僻書は彼の自筆稿本に擦り得るが︑野営録に至っては版本のみなので︑安榊して利用禺來な
いのを遺憾とする︒
吉利支丹機悔録の方嘗 五三
九大國丈學 第三號 五期
下二段活用動詞に歯黒する推量の助動詞に﹁う﹂の外に﹁よう﹂が出來たのは近世の事である︒職悔録では幅般に
﹁う﹂が用みてある︒然るに姉崎博士の翻字本には次の如き例が見える︒
析艦魏へやうすなんど工誓文たてまらする︵切支丹趙害史申の人物事蹟五六二頁︶︑原本二四頁
宿に止めやうとぜらる蕊に就いて︵義六五頁︑三〇頁︶
原本には︒暑9︒冨ON口8ヨ︒Oとあるから︑やはり﹁加へうず﹄−止めう﹂と書かれるべきものである︒叉
繋も雪嵐寄り合うて・胤鷺傍訓﹁ろう﹂は﹁らう﹂の誤り︶・戴鷹恭農なる婁難諦舞寵︒とあるも僻書
には艶h︒及び﹁ひはう﹂となってみるし︑それに敬ひ加へやうする慈悲の代りに︑た野そしりあざけりばかりかけ
まらした︒︵五六六頁︑三〇頁︶ し やつこの例の﹁加へやうする﹂は︒舞鉱︒&N9鎧となってみて他と同じくない︒字欝の開昔の場合であるが︑仕訳が慈α
ともあり︵六二頁︶︑醤=o鐸︒とも腐してある︵三二頁︶︒これを其の儘に解するならば︑シヤオと共にシーヨ二型の獲
音もあったのを遣し別けたのであるとも考へられる︒か至る例から推して︑合書に於てもクワヨー﹁加へう﹂からク
ワエ翁一︵加へよう︶が焚生しかけてるたのを特に注意して堅き留めたのであると言へるかも知れない︒﹁よう﹂に就い
ては鷺ドリ!グスも設リヤードもその丈典で難く鰯れて居らす︑よしや褒生してみても新しいものであったであらう︒
︵狂嘗記其の他徳川時代の轡篇に係る狂言本の用例によって︑この新語形の書生を蜜町時代に湖らせるのは如何かと
思ふ︶︒ さうして關策に早くあらはれたかと思はれる︒近畿以西の纂は明かにし得ないが︑關東人の告白が牧益せ
られてるるかどうかも甚しい疑問であるから︑寧ろあの綴は翠なる誤記誤植であって︑﹁お﹂﹁を﹂を琴やぐ︒と爲す 蹴
のが普通であったから︑意味なくuを添へたのであると見る方が事實に近いのではなからうか︒
﹁六番の御掟に就いて﹂の外聞を憬る告白の中に︑
ほ めん 今申しあらぱせうする事は御冤なされうす︒揮のながらこんひさんの申ぢや所で︵申であるから︶申しまらする︒
︵四四頁︶
とある︒﹁あらはせうする﹂は9︒鑓く奨曾毎質となってみる︒﹁せう﹂は大抵器︒と書いてあるが︑eを挿入しない場合
もある︒eを加へるのは實際の獲音よりも國語假名邊に拘泥した綴字である︒コリヤードもその文典西文腐本では﹁あ
はぜう﹂﹁まらせう﹂﹁敦へう﹂を碧9︒囲ρ巳袋︒錺巻蟻ぐ︒綴巻と甘してるる︵ご西霞︶︒置文版本では第一の例を訣き︑第
三の例をく︒慈︒と為してみる︵二〇頁︶︒何れにしてもeの焚晋が行はれたわけではない︒﹁あらはす﹂の⁝臓悔録に用
ゐられてるる活用形を調べると︑
漣用形 あらはしまらする︵一六.五こ頁︶
申しあらはいた︵五八頁︶
あらはしあった︵五八頁︶
絡止形 申しあらはすに︵二八頁︶
蓮腿形 申しあらはす所に︵一六頁︶
右の如く四段活用であって︑コサヤードの丈典では第二種活用に憎し︑從ってその未壁塗は﹁あらはさう︵す︶﹂とな
るべきである︒ ︵篇本五八頁︑版本二九頁︶︒﹁せう︵す︶しとなるのは第一種活用の動詞である︒ ︵腐本三四頁︑版本二
士蹴利支丹儀梅仙録の浩万晶賛 五五 卿
九大國丈學 第三號 五六
〇頁︶︒故に﹁あらはす﹂が﹁あらはせうする﹂となってみるのは︑第一種活用への類推違ひと解せられる︒恐く︑當時
盛に行はれた謙譲助動詞の﹁まらする﹂が﹁まらせうす﹂となるのに類推したのであらう︒た穿それが個人的か地方
的かといふ貼に至るとわからない︒
因に﹁まらする﹂は當時佐行痴愚活用であった︒繊悔面出の用例もすべてそれに外れてみない︒新⁝村先生の吉利支
丹文學断片︵南攣更紗所牧︶の中に︑
大友檬の御内心を語らせられたで︑なほ明かに思出しまらせた︒︵豊後物語︶
一切舟が延びぬやうに思ひまらせた︵加津佐物語︶
と出てみるのによって︑合目政治教授は九州地方に本來の下二段活用が淺ってみた例謹とせられた︵重語史上の一時
期︶︒然しこれらも︑その出所たるロドリーグスの文典を見ると︑﹁思出しまらした﹂曾琴笛隅田一五三丁裏︶﹁思ひまら
せぬ﹂︵譲轟蓉聲=三丁裏︶となってみる︒南整丈學中特に九州方言を傳へた資料として甚だ珍重せられたのである
が︑實は全くその資格を撫たないものなのである︒
以上述べて干たやうに繊悔録から拾ひ出される九州方言は︑ロドリーグスの文典︵主として一九丁裏−鱒七〇丁霊︶
に読いてあるやうな顯著なものとては殆ど無く︑極めて僅少な片鱗に過ぎない︒かくて骸悔録に九州方誉が多いとい
ふのも︑亦反樹に全く無いと冒ふのも共に言ひ過ぎであるといふ結論に達するであらう︒
︵昭和六年十二月二十四日稿︶