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: 『おもろさうし』と「公事帳」にみる「御捧」献 上の場〈君誇〉に関連して

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(1)

: 『おもろさうし』と「公事帳」にみる「御捧」献 上の場〈君誇〉に関連して

著者 真喜志 瑶子

出版者 法政大学沖縄文化研究所

雑誌名 沖縄文化研究

巻 34

ページ 33‑88

発行年 2008‑03‑31

URL http://doi.org/10.15002/00007257

(2)

〈キミテズリ百果報事〉は、とくに、中世沖縄の王権にかかわる祭祀儀礼として、はやくから注目をあつめてきた。袋中は『琉球神道記」(以下『神道記』と略記)に僅かではあるがその記録を残し、十七世紀半ばの最古の史書『中山世鑑』(以下『世鑑」と略記)は、これを王の慶賀のための、王府の最重要の儀礼として位置づけている。新井白石は江戸上りの琉球国使にこの儀礼についても質問して

いる。『おもろさうし』は、十六世紀半ば以降の、詞書をもつくキミテズリ百果報事〉(以下〈キミテズ

中世沖縄の王府儀礼〈キミテズリ百果報事〉の意義

l『おもろさうし』と「公事帳」にみる「御捧」献上の場〈君誇〉に関連してI

はじめに 真喜志瑠子

33中世沖縄の王府儀礼くキミテズリ百果報事〉の意義

(3)

リ〉と略記)の多くのオモロを収載している。これらは直接的な史料として、オモロ歌唱を伴う儀礼

であったことを示すだけではなく、この儀礼解明のための最も大きな手掛かりを提供している。「琉球国由来記』(以下「由来記』と略記)は表面的には「神道記』の記述を引用するのみであり、『女官御双紙』もこの儀礼の記録を残さない。

伊波普猷氏以来この儀礼に関する考察は、その多くを『世鑑』の記述に頼っており、これらのオモ

ロの子細な検討を経たものであるとは言い難い。近年『世鑑』の記述と、〈キミテズリ〉のオモロ詞書との間の齪酪について指摘されたが、多くを解明することには繋がらなかった。

研究の進展を妨げてきたのは、従来の王府儀礼、とくに農耕儀礼に関するイメージの固定化であり、各々の儀礼の史料に立ち入って逐一検討し位置づけようという考察が十分に行われてこなかったため

今も定着している王府祭祀儀礼観は、初期のオモロ解釈によって形作られたものであったかもしれ

ない。伊波普猷氏によるオモロ解釈を含んだ、オナリ神信仰を軸とした聖俗二元論は、壬府祭祀観につよい影響を与えつづけた。しかしながらその論拠とすべき、とくに王府の農耕儀礼に関しての、『由来記」巻一の王城公事や『女官御双紙』を基にした基礎的な考察は殆ど行われてこなかった。従来のオモロ解釈と王府祭祀儀礼観は、検証不足のまま互いに寄り掛かる状態、あるいは堂々巡りの状況にある、といっても言い過ぎではないと思われる。 であろうと思われる。

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(4)

たとえば、〈キミテズリ〉のオモロについての従来の通説的解釈は、これらを『女官御双紙』で、君君とよぶ王族女性が直接にかかわり、オモロをうたう儀礼とみている。君々とこれ以外の王府儀礼とのかかわりについても、従来とくに考察されなかった。筆者の試みたところによれば、『女官御双紙』『由来記』の記録する君君とよぶ王族女性などの職事は、年忌などの仏事であり、この状況は尚清壬代にさかのぼることと推定される(拙稿二○○七年)。稲穂・大祭、ミシキョマ・雨乞儀礼の史料にも、彼女ら(聞得大君按司を除く)についての記述はなく、一貫してオモロの専門職であった御唄役などの史料にも登場しない。十七世紀半ばの羽地仕置以前に君々がオモロと関わったとみる説も成立は困難と筆者はみている。〈キミテズリ〉のオモロは十六世紀半ばから十七世紀初めまでの、羽地仕置以前の確実なこの儀礼の記録とも言える。従って小稿のこれらのオモロ群の内容やその歌唱者についての考察は、従来説の

説く王府儀礼、君々のそれへのかかわりの有無を確認しようという試みでもある。〈キミテズリ〉のオモロに登場するアオリャヘ・サスカサ・センキミ・キミカナシなどについては、すでに各々について筆者は、従来説の説く、『女官御双紙』記載の君々に同定することについて異議を唱えた。具体的に言って、『女官御双紙』記載の多くの同名按司の活躍時期は合致せず、なにより

も、上記のたとえばキミカナシほかのオモロの内容そのものが王族女性のものではないことを示すと筆者はみている。

中世沖縄の王府儀礼くキミテズリ百果報事〉の意義 35

(5)

史料A「神道記』「新神出給フ。キミテズリト申ス。出ペキ前一一国上ノ深山一一アヲリト云物現ゼリ。其山ヲ即アヲリ

岳ト云。五色鮮潔ニシテ種種荘厳ナリ。三ノ岳一一一一一本也。大ニシテ一山ヲ覆上霊ス。八九月ノ間也。唯一日ニシテ終ル。村人飛脚シテ王殿二奏ス。其十月ハ必ズ出給フナリ。時二託女ノ装束モ王臣モ 小稿は、前稿と同様の視点で、つまり王府儀礼の基礎部分に参加するヒキ、引き続きかれらに焦点をあててオモロの歌詞を検討し、次いで、「公事帳」の記述を史料に加えながら、この儀礼の輪郭をよりはっきりと描きその意義を考えようという試みである。

〈キミテズリ〉の上記の参加者については、すでに、久米島出自の者との結びつきを推定した。近世の同島の公事帳も、この儀礼の行われた場、キミホコリについて記述しており、この儀礼の考察に

つながるとかんがえる。

僧袋中は『神道記』巻五キンマモノ事で、次のような記述を残した。この記事は、後述するように(1) 『由来記』巻十五、アプリ嶽にもある。 キミテズリ祭祀史料と従来説

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(6)

同也。鼓ヲ拍謹ヲウタフ。皆以龍宮様ナリ。王宮ノ庭ヲ会所トス。傘三十余ヲ立ッ。大ハ高コト七

八丈輪ハ径十尋余。小ハ|丈許」史料B「世鑑」尚円王の項*「成化九年癸巳、三月九日、天神キミテズリ出現有テ、尚円公ノ慶賀ヲゾ、シ給ケル」*同書、尚宣威の即位年(成化十三年)二月「陽神キミテズリ、現ジ給ケレバ、尚宣威、是ハ必定、我ガ慶賀ノ為二、ヲリサセ給、神一一テゾァルラント、悦思召テ、ヲヌシハ帝座二付セ給テ、久米中城王子ヲパ、帝座ノ腋ニゾ立給、旧例ニハ、君々・神々、内原ヨリ出給テ、キミホコリノ前一一、東面二立給ケルガ、今度ハ例二替リ、西面ニゾ、

(2) 史料C〈キミーナズリ〉の詞書付オモロ

時代 立給ケル。…」

中世沖縄の王府儀礼くキミテズリ百果報事〉の意義 37

同右 尚清王 時代

嘉靖二八(一五四九)十月一二日

嘉靖二八

十月十三日 七三二 嘉靖二四 八月二五日 嘉靖二四(一五四五)八月十九日 儀礼年月日

七三四 七三三

_し_L▲′、'、九九五四

オモロ通巻番号

聞得大君 キミカナシ

キミカナシ 聞得大君 聞得大君 冒頭句

(一五二三)稲大祭

(一五一七)稲大祭。(’五三○)与那原行幸 稲祭でうたう重複オモロ

(7)

皇’

史料を基礎にした研究の始まったのは、伊波普猷氏以降のことであり、氏は、キミテズリを、琉球古層の土着的信仰一一ライカナイからの来訪神キミマモンの異名と解釈された。また、琉球開關以来、各間切各村の御嶽や宮中に出現する神々は君々祝々が扮する神であり、キミマモノ(キミテズリ)は

(3) 女神であり、現人神であるとされた。鳥越憲一二郎氏も、『世鑑』の記述に従いながら、国王慶賀の神

(4) は、キミマモノから、キミーナズリヘ移行したという解釈であり、現在の通説的な解釈(「沖縄大百科事

典』等)は、大筋において以上の説を受け継ぐ。ただ近年、詞書の日時からみて、『世鑑』の記述とは異なり、一世一代の儀式ではないこと、王の即位年月とは無関係で、一代に二度行われたこともあ

一センキミ・

七一一一九

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尚寧王 同右 尚永王

万暦三五(一六○七)十月十日

万暦三五

十月十五日十月十五日

十月十五日 万暦一五(一五八七)十月十八日 万暦六 十月十九日十月十九日 万暦六(一五七八)十月十五日

七七七七四四四四

五四三○

七三九 七三八 七三七 七三六 七三五

聞得大君 首里大君 サスカサ

センキミ センキミ 首里大君 サスカサ アオリヤヘ 聞得大君

(一五一九)稲大祭

(8)

ろという指摘があった。一方、王族女性がオモロに直接的に関与するという説は受け継がれて、現在の通説的な見解の基礎になっている。たとえば、この儀礼を「主だった王族神女が、壬の統治の安泰・永遠を約束するオモロを次々とうたう大がかりな儀礼」、あるいは「君君が祈り、王に百果報を奉る儀礼」「キミテズリは

(5) 君掻たちに葱いて神意を伝えるのであり、その神意がオモロとして表現されている」と捉えている。史料Aについて少し付け加えれば、新井白石は『神道記』を読み、正徳四年二七一四)の江戸上りの琉球使に当時の王国の宗教儀礼について質問した。琉球使の返答は、国俗は変わりすでにキミテ(6) ズリなどは行われていないというものだった。この返答は、右にみた、〈キミテズリ〉オモロの最終は一六○七年であり、これが、おそらくは儀礼の終了を物語るものであろうこと、また、『由来記」がこの儀礼の詳しい記述をしていない理由を推測させる史料となる。

この儀礼の検討に際しては、壬府の祭祀儀礼を行ったのは総じていかなる人々だったか、あるいは

王府祭祀儀礼とオモロとの関係など、『李朝実録」や冊封使の王城の見聞記録を含めて、十八世紀成 こくキミテズリ〉儀礼の背景

中世沖縄の王府儀礼〈キミテズリ百果報事〉の意義 39

(9)

立の『由来記』や『女官御双紙」をもとにした王府の祭祀儀礼の全体像を把握する必要がある。また

すでに指摘されているように、忘れてならないのは、「おもろさうし』は祭祀歌謡集ではあるが、同時に、十五・六世紀の碑文の改作オモロなどを集載しており、当時の社会の内部をかたる、同時代史料としての側面をもつことである。たとえば、ヤラザ森碑文は、尚清王時代の那覇港ロに、海上防備のための砲台ヤラザ城を、ヒキの者や、全島的な動員により、対岸の一一一重城に対時して建造した記録である。オモロ七六三は、嘉靖三十一一(一五五三年)、ヤラザ森創建後に作ったものである。その内容は、その石垣を積むこと、魔除けのクギを刺すことなど、その建造についてでありその碑文と酷似した表現でうたっている。オモロ一○一も、嘉靖二五二五四六年)の添継御門の碑文と結びついている。又、このほかにも内容的(7) に碑文と表裏の関係にあるオモロがある。オモロは祭祀歌謡という枠を越えて、尚真・尚清の時代の、とくに奉仕者としてのヒキに関する同時代的な史料となる場合がある。従来説に、ヒキとオモロの関

係をみようという視点はみられない。歌詞には、幾通りもの解釈があり得るから、まず全体的に王府儀礼を把握し、その特徴を踏まえてオモロ解釈の可能性を探るべきであろう。『由来記』『女官御双紙』などにみる王府の年中祭祀儀礼は、筆者の試みたところによれば大づか

みに云って、冊封儀礼などをふくむ総合的儀礼・農耕儀礼・神仏事などに分類できる。キンマモノ祭

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(10)

事や〈キミテズリ〉、周知の「神道記』の、悪心の者への刑罰に聞得大君や託女がかかわったという記述や陳侃の「俗、神を畏ろ。神は皆婦人をもってPとなす」に始まる、不善をなす者への神判的な事柄、これについての記述は両書にない。両書を通じて、王府の年中祭祀儀礼については、次のようにまとめられると思う。1農耕儀礼(稲穂・大祭、ミシキョマ)・任職儀礼・神仏亭は、城外の首里殿内の首里大アムシラレが、二平等大アムシラレを率いて主宰したと推定される。大アムシラレは、士女(地頭の妻女)という。畿内三間切の地頭は稲穂祭・大祭の際、城外で重要な役割を果たす。2首里大アムシラレ主宰の稲穂・大祭の後、首里城正殿下庫理のヒキ官員と王による、オモロ歌唱があり、首里大アムシラレや首里殿内に直接的にはかかわりのない儀礼が行われた。3ミシキョマ儀礼を百人物参りと呼んだことは、この祭祀の本来の意義を示している。これは穀物成長のために行う物忌み習俗を伴う、もっとも大規模な農耕儀礼であり、城外の首里殿内で行われた。御拝など祭祀行為自体を行うのはヒキ系官人である。4首里城正殿大庫理には、女官(侍女)が控え、七社や大アムシラレなどと連係しながら神事・真言宗的な仏事や彼女らの任職儀礼、勅書迎えなどの外朝的儀礼も行った。尚清王代から、大美御殿に属する君々が年忌などの仏事を行った。5農耕儀礼その他と首里殿内との密接な関係は、王府に敷かれていた、畿内制度と密接に係わると

中世沖縄の王府儀礼〈キミテズリ百果報事〉の意義 41

(11)

かんがえられる。すなわち、首里城は、畿内三間切、真和志・南風原・西原のなかにあり、詳しく

言えば、首里殿内の管轄していた南風原間切(羽地仕置以後縮小され、南風平等とよばれた)の当蔵村に位置していた。つまり首里城とその王府の儀礼自体が、首里殿内に代表される南風原間切とふかい関係にあったことは当然推測されることであり、城内の祭祀の主導権を首里殿内が握るのは自然

な成り行きであったろう。たとえば、『由来記』が王府の年中行事として記すミシキョマは、首里殿内で行われる儀礼であり、そこで王が行うのは、中国の儀礼を踏まえたものであり又王国南部の農耕のみが必要としたという、特別なスキを用いる呪術的な儀礼でもあった。聞得大君按司もともに儀礼を行った。行幸をふくめて、首里大アムシラレは二平等大アムシラレとともに、ヒキ系官人(ヒキから分枝した官人の意)を率いて行った。つまり『由来記』の記すように首里殿内の儀礼が王府の年中行事であったことは自然なことであったとかんがえられる。6船作や航海の儀礼のなかにも、大アムシラレとヒキによる、二つの層があることを指摘できると

思う。これについては次の機会に詳述したい。

三、〈キミテズリ〉の特徴

すでに指摘されているように、まず、〈キミテズリ〉が王権の代替わりに際しての儀礼ではないこ

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Ⅲその日取り・祭具・場まず、キミマモノ祭祀との密接な関係がこの儀礼の大きな特徴である。『由来記」(『定本琉球国由来記』巻十五・一一八三項)に、先に挙げた『神道記』と同文の記事がある。キンマモノが八・九月の某日に出現すると、国上にアヲリが現じ…、(キミテズリは)、その十月に、王府に必ず現ず。時に託女の装束も、王臣も同也。鼓を拍、うたをうたう。皆龍宮様也。王宮の庭を会所とす…、というものであ とは明らかであり、また、一言で一一一一口えば、これもほかの儀礼と同様に実質的には、首里殿内の取り仕切る儀礼であっただろうということである。しかしここで注目するのは、オモロがうたっていると推測されるその基礎部分である。

つまり、ここに記されるのは、八・九月、北部にキンマモノが出現すると、それが王府に伝えられ、十月にキミテズリが出現する、というのである。〈キミテズリ〉オモロの詞書によれば嘉靖二四

二五四五年)の儀礼は八月であったが、これ以降はすべて十月であるから、『神道記』はほぼ正しく記録していることになる。

この二つの、名の異なる儀礼が、伊波普猷氏の推測されたように、アオリ(冷傘、周囲に房のついた中国風の傘)を祭具あるいは、アプリ川・アプリ嶽など川や嶽名として名を残してきた儀礼であるら

中世沖縄の王府儀礼くキミテズリ百果報事〉の意義 43

(13)

しいこと、坐

(8) いと考える。

〈キミテズリ〉が行われるのは、史料Bによれば、キミホコリであり、これはカワルメとよばれる、

ある区域内にあったらしい。たとえば、一五七八年のキミテズリオモロ七一一一九に、センキミがカワルメに降りる、とある。キミホコリは後述するように尚真王時代にたてられた。

②天界観と信仰王府で行われた、キミマモン祭事や〈キミテズリ〉のオモロには、筆者のみるところでは、久米島の雨乞いのオタカベと共通する天界観と信仰がみられる。海上あるいは海底にあるとされた沖縄の他界観念ニライカナイは、時の推移に従いさらに種々雑多なイメージが重ねられていくという性格をもったが、雨乞いのオタカベでは、それらが天界に集約されている。天界をアマミャ・オポッカグラ・チルャカナャ(一一ルャ)の層をなした世界として捉え、そこで、降雨にかかわるキミカナシやテルカハが神としてその役割を果たす、とかんがえられていた。後述するように、テルカハの登場する〈キミ

テズリ〉オモロ、七三一一一・七一一一四・七四一・七四五などにも、そのような思考の跡が見られる。〈キミテズリ〉と連係する、沖縄の各地のキンマモノとよばれる神に共通するのは穀物に関係して

いることである。 キンマモノ祭事の伝達をいう史料の存在などからこの二儀礼は連係して行われたとみてよ

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王府のキミマモノ祭事は、首里殿内と城を直結する、尚清代に新築した添継御門の国中城(アオリ

ャダケ)で行われた。そこにオモロ歌唱者が参加した、と推測される(拙稿二○○一年)。このことも、首里殿内との結びつきを示していると言える。火神との結びつきもみられる。〈キミテズリ〉のオモロ、六九四・六九五・七四○には「あかぐち

がよいつき」など、火神との関係もうたわれる。

キミテズリのオモロに多くみられる〈ミモノアソビ〉は、モノアソピに尊敬の接頭語ミを付けたものであろう。伊波普猷氏は、沖縄の〈モノ〉について、次のように説明された。

〈キミテズリ〉オモロに共通する問題として、その中で多用される語や思考について予め説明した Ⅲ〈ミモノァソビ〉としてのキミテズリー高次的な物参りとして 四、〈キミテズリ〉オモロについての問題 史料Cでみるように〈キミテズリ〉と稲大祭で歌われるオモロには重複がある。 ③農耕儀礼との関係

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〈モノ〉には、国語同様に、形はみえないが、不思議な作用をなす物の義があり、神仏・病魔などの義にも用いられ、ものまいり(神社仏閣に参詣すること)、百人御物参り、ヤナムン(悪霊)、(9) キジムン(海から来たスピリット)、マジムン(幽霊)、ムヌマーイ(物迷い)などがある。

このようなモノにかかわる人々がヒキ役であり、彼らは、オモロのなかで、物知り・口まさしや、と表現されろ、呪術者的性格をもつ人々であったとかんがえられる。キミマモン祭祀、キミテズリとも、筆者のみるところではこのモノにかかわる儀礼として、これらの儀礼にかかわる人々との関連を示している。キミマモン祭事の行われる首里城の国中城は主に、ヒキ役の手になるもの、と碑文の記していることは先にふれた。また、オモロ解釈のところで述べるが、かれらは、造作を行うだけでなく、四度物参りや百度御物参りとよぶ、王府儀礼の基礎的な部分を担当したとかんがえられる。

何をモノと呼んだかという点において、先に引いた氏の見解は大筋において正しく、従いたいと思う。ただ、神社仏閣に参詣することを物参りと呼んだか、という点については説明を要すると思う。前稿(二○○七年)で考察したように、『由来記』にみる正月の社参は、多くの城外の寺院に多数の官人が祈福のために出掛けて行うものであり、それらはヒキの官人の行う儀礼、という意味でモノ参り

であったのだろう。

具体的にいえば、キミテズリ祭祀のオモロのなかで、〈ミモノァソビ〉は、〈キミテズリ〉と対語になっている場合がある(六九四・七三六・七四○)。また、オモロは、キミホコリという、キミテズ

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リの行われる場が、カワルメのマミャに作られるとうたうが(一九五)、そのカワルメとくみものうちのまみや〉が対になっているオモロもある(七三九)。これも、キミテズリがミモノアソビとよば

れたことに係わると思われる。王府の御物参りは、正月四日の百人御物参り以外は主に、農作物の生育期間、二月~九月、に行われている。とくに、八月のシバサシ前後は、ヨーカビーといって、魔物の跳梁する日とされ、〈国

見〉的なことなど、一年間の吉凶をみる行事が行われる重要な期間であったらしい。シパサシとは、(皿)軒や門口に、ソバを差し魔力で邪気を払い豊年を招くための物忌み行事であった。

しばさし『由来記』巻一、によれば、王府では八月の芝指の夜に、時大屋子は一人で、王府の門や島添アザナにのぼるという儀礼があり、その際は音を慎み鐘を撞かないのだという。芝指を行うのは、ボラ赤頭(ヒチリキなどの楽器を奏す)や下庫理当とよぶ、いずれも、ヒキ系の者であり、時大屋子もまた同

様である(二○○四年拙稿)。次に掲げるのは、〈ミモノァソビ〉が〈キミテズリ〉と対語になっているオモロのうちの一部であ

「嘉靖二四年乙巳の年、君手摩りの百果報事の時に、八月十九日己の酉日の寅の時に、聞得大君の

御前より給申候」という、詞書付キミテズリ儀礼のオモロ六九四には、次のようにある(宛漢字は岩

波文庫本に従ったところが多い。以下同様。R)は繰返し)

中世沖縄の王府儀礼くキミテズリ百果報事〉の意義

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②キミカナシ・アオリヤヘ・サスカサ等の綴依のオモロとして従来説は、繰り返しになるが次のようである。〈キミテズリ〉オモロに登場するアオリャヘ・サスカサ・キミカナシほかは、主要な王府の高級神女であり、『女官御双紙』記載の一一一十三君、たとえば、さすかさ按司・きみかなし按司ほかを指す。初期の聞得大君に率いられる彼女らは、〈キミテズリ〉とそのオモロに直接に関わる(注5の「日本民俗大辞典』〈聞得大君の項〉など参照)。これらについて筆

者は次のようにかんがえる。イ、オモロのサスカサと同一視してきたサスカサ按司の、天女の商としての説話や伝承、とくにそ

の天界観と、オモロに特徴的なオポッカグラを中心としたそれは全く異質の別世界であり、両者

又又又 又

聞得大君ぎや末選びやり降れわちへR)按司おそいしゆきみぎやせぢもちよわれ

とよむせたかこが真末願て降れわちへ

(中略)按司おそいが御言君手摩り間遠さ

王にせが御言見物あそび間遠さ

あと大ころたそろへて守り合へ子達集へて(以下略)

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を直結するには無理がある。ロ、『女官御双紙』の記す三十三君のうち、唯一のキミカナシ按司は、『阿姓家譜』によって、十六世紀後半任職の首里大アムシラレ一族と推定されるが(二○○六年拙稿)、これも、オモロのうたうキミカナシと同一視できない。

ハ、『由来記』「女官御双紙』の記録する、君々とよぶ王族女性(妃以外の王夫人その他の官女)の関わる王府儀礼は、上別述のように尚清時代から、年忌や仏事であること、このことは最初期から、彼女らとオモロの距離が近くなかったことを示す。尚清王の久高行幸に随行した湛氏の記事はその帰途にうたったオモロが風波を静め、その功績により家来赤頭・神唄頭から大島の地頭へ昇進したというものであり(『球陽』)、オモロ歌唱がヒキ役の一職能であったことを示す。前代、尚真王代のオモロ歌唱者もこのヒキ役とみるのが自然な推測であるということになる。五・八巻のオモロは、このヒキ役は呪術的性格をもつこと、その組織内の上下の関係をもうたう。これが、

王府儀礼の〈物参〉を担っていく彼らの特徴的な性格であったとかんがえる。一一、〈キミテズリ〉オモロの大きな特徴は、アオリャヘほかの、血筋を引く者への神降りを強調す

る点である。このアオリャヘほかほとんどすべてが、久米島の御嶽に祀る神名であることから、久米島への王府による数度の討伐の結果起こった社会的状況、その俘虜が、ヒキの奉仕者として

畿内に居住したこと。久米島出自の彼らと血縁的関係のある神として王府で祀るのが、アオリャ

中世沖縄の王府儀礼〈キミテズリ百果報事〉の意義

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へ。サスカサ・キミカナシなどであると推定した。三司官のもとで、首里のソノヒャイプの石門の普請に参加したという竹富島の西塘も八重山征伐の「質」であり、嘉靖年間の三司官馬良詮の

祖父糠中城は大島征伐の俘虜であったという。敗戦者として、俘虜が討伐者の元で奉仕者の組織に組み入れられ、祭祀に参加するというかたちであろう(二○○二年拙稿)。

ホ、先の六九四のセタカコは、オモロの聞得大君の対語として最多数を数えるが、これも久米島イシキナハ城のイベ(神)名の一つである。オモロでは久米島出自のアオリャヘ・サスカサなどの

総称として聞得大君を用いてきた、と推定する。オモロのキミは、久米島史料のキミの用法をも

とに考察すべきであるとかんがえる(二○○二年拙稿の注5参照)。聞得大君・サスカサ・アオリャヘ・センキミ・キミカナシの神降りについて、〈キミテズリ〉のオ(u) モロがこれをもっとも明瞭にうたう。ここでは、七三七(万暦六年)の例を引く。一聞得さすかさが末尋めて降れわちへきらのかず按司おそい守ら又とよむ大君ぎや真末ねがて降れわちへ又聞得大君ちよ十声やり交わちへ(以下略)

ここでは、サスカサが血筋の結びつきをもつ者を探して、神降りすることがうたわれている。これらの神降りは、多くたとえば、「聞得大君がとよむせたかこがさしふ降れなおちへ…」(六九五)などと歌われることが多い。これらのサスカサ・アオリャヘ・キミカナシとヒキ役との間

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にある血縁的関係は、堀一郎氏の説かれた民間信仰的神観念「人を神に祀る習俗、入神」と、神の特定の者への神降り、と重なる(拙稿二○○六年)。氏の説によってオモロの言う、神サスカサほかと、サシフ五コロなどと呼ばれる者への慰依、すなわちアラヒト神と神の子孫への愚依、そして両者の関係について理解できるとかんがえる。

③稲穂・大祭オモロと雨乞オタカペのキミカナシとテルカハ〈キミテズリ〉のキミカナシについては後に少し詳しく考察するが、その前に、その他のオモロにみられるその性格をまとめておきたい。

キミカナシは、「下の世の主」「上下の大とよみ」「按司の又の按司」とよばれ、オモロの歌唱者で

あり、御殿の造作や縄作に携わり国見的な行為をし、呪術的な力をもち、航海にもかかわるという、ヒキの代表者としてその各々の職能を兼ね、又統率する者としてうたわれている。

とくに重要なのは、巻二二の稲穂祭・大祭のオモロにサスカサその他とともに特徴的なキミカナシに関するものがふくまれていることである。これは、下庫理で行われたこの儀礼の際のヒキ役のオモ

ロと推定してよいものである。又、「きみかなしこれとだにのまてだなり/…/治金丸さしよわちへ…」(一五二五Ⅱ一一一一一四、稲

大祭)の、治金丸は宮古島服属の象徴であり、キンマモノと結びつきのつよい宝剣とされていた

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(二○○一・二○○二年A拙稿)。また、近年『由来記』巻一の補填史料として紹介された「正五九月弁之嶽末吉御参詣之時公事」のなかに、王の弁嶽参詣の折りには、治金丸が欠かせない祭具であったこ

(胆)とを示す記述もある。

ヒキの者が、くまてだ〉とよばれ、宝剣を楓く者であり、又「ももしまの宝を積てみおやせ」(三一一五)と呼びかけられるオモロのあることは注目される。

キミカナシだけでなく、オモロに関わる者、やまきにや(すさへしやおもろ)も、「西かないよせ

て…東かないまへ寄せてちよわれ」(一三四五)とうたわれていること、又「かまへ寄せかきつるぎ」(四四六)とあるのは、剣がカマヘをよせる呪具としての意味をもっていたことを推測させる(二○○三年拙稿)。稲大祭でうたわれるキミカナシのオモロの治金丸にも、このような意味がふくまれていたのではないだろうか。適度な降雨が作物成育のために不可欠であったからであろうか、一方で、キミカナシは、久米島の、火神への雨乞いのオタカベのなかで降雨にかかわる神格としてうたわれる。〈キミテズリ〉オモロ七三一一一・七一一一四に、キミテズリとともにうたわれるテルカハ・テルシノ

も、久米島の雨乞いオタカベでは、「み袖を合わせ、組手合わせ」て雨を「やわやわとたまうれ」と人々の祈る、雨乞祈願の対象である(『仲里旧記』。

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(22)

Ⅶ〈王にせ〉のことl尚寧の神号「英祖にや末てだが末」についてl同様の例は七四二など、ほかにもあるが、次に引く〈キミテズリ〉オモロの、〈王にせ〉用例中、a~cの〈王にせ〉が、尚清王、dは尚永王、eは尚寧王を指すとみて間違いないであろう。a(嘉靖二四年)「按司おそいがおこときみてずり間遠さ/王にせがおことみものあそび間遠さ」(六九四)

b(嘉靖一一四年)「按司おそいがおこと王にせがおこと・・・」(六九五)c(嘉靖二八年)「聞得按司おそいや君よほこりよわちへとよむ王にせが神このみしよわちへ」

d(万暦十五年、一五八七)「聞得せんきみぎやなりきょ降れふさてなさいきょもい王にせせぢまさてちよわれ」「首里もりちよわるあがなさいきょ王にせ末ながくせぢまさて

ちよわれ」(七三九)e(万暦三五年、一六○七)「按司おそいがおこと王にせがおこと年八年なるぎやめ/又きみて

ずり間遠さみもの遊び間遠さ」(七四○)

次に掲げる碑文にも、尚寧の神号「てだが末按司おそいすえまさるわうにせ」が記される。従って、『神道記』や『世鑑』が記したように、この儀礼にこの王が関わったことは明らかであり、とくに注

目したいのは、「てだが末」と捉えられていたことである。 (七三一一)

中世沖縄の王府儀礼くキミテズリ百果報事〉の意義 53

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「浦添城の前の碑文」(太平橋つみ申候時のひのもん)二五九七年)に、

「りうきうこくちうさんわうしやうねいはそんとんよりこのかた二十四代のわうの御くらいをつきめしよわちへうらおそひよりしよりにてりあかりめしよわちや事てんよりわうの御なをはてたかすえあ

んしおそひすえまさるわうにせて&つけめしよわちへ…」とある。大意は「尚寧は尊敦よりこのかた、二十四代の王位を継給い、浦添から首里に照り上がり天(皿)から王の御名を「てだの末按司おそい末まさる王」と付けられた、ということである。小稿で筆者は、〈キミテズリ〉は、ヒキ役が主体の儀礼であることを述べてきたが、この〈王にせ〉とヒキ役とはどのような関係にあったのであろうか。尚真玉時代には、ヒキ役の修飾句として「てだが末按司おそい」「英祖にや末按司おそい」という表現があることを指摘した。この背後にあったのは、かれらが、本島から久米島仲里間切に移住した、英祖王の血筋を引くと伝えるイシキナハ按司一族であったという同島の伝承された歴史記述であり、

この修飾句はヒキ役が英祖王の子孫として、標傍して用いた成句であったと筆者は考えて、テダが、この〈英祖にや〉の対語であることに注目してきた。

一般には、テダは太陽の意とされ、日光感精説話との結びつきが指摘されている。感精説話自体は東北アジア一帯に古くから分布しているものという。たしかに、『中山世譜』(察温本、一八世紀)によれば、英祖王は母の夢に「日輪飛来」し懐中に入った子であり、「天日之子」とよばれたという。

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(24)

そい」

たが、

える。 しかし『世鑑』二六五○年)は、「英祖王ハ天孫氏の後胤…其母夢上帝、娠給ケル間、後人、天子トハ申奉ル也」といっているのみであり、これを日輪感精説話とは言えないだろう。これよりさらに成立の早い『おもろさうし』では、「てだが末按司おそい」と「英祖にや末按司おそい」とが対句になっている(二○六ほか)。さきに、同時代史料としての同書の特徴について述べたが、その意味で、「てだ」が、英祖壬(英祖にや)と対句関係にあることを重視すべきだとかんが これらのことから、テダ・大テダを、各々、太陽の物質性・神性、あるいは、太陽神と解釈する従来説に筆者は疑問をもつ。テダと大テダがあり、前者は、英祖壬という実在の王の別称であり、後者 格を持ち、アニえられている。 テダとともに、オモロや、とくにオタカベのなかには「大テダ」とよばれるテルカハがみえる。この二つの語の存在も合わせて考えていくべきであろう。テルカハは、先述したように降雨を掌り、又「世のムスビを下ろす」(一一一一一一三)ともうたわれている。つまり霊力を身につけ、人格的ともいえる性格を持ち、アオリャヘ・キミカナシその他のオポッカグラの神格よりさらに高所にいる神格として捉 一方、釦(M) ている。 このティダという語については、琉球における、宗教的感情を背景とした太陽の尊称として認める方、超越的神格を意味する「天道」という語の、ヤマトからの方言的借用である可能性が指摘され

中世沖縄の王府儀礼くキミテズリ百果報事〉の意義 55

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るテダなのであろう。 は、より抽象的な、万物を産みなす霊力とも言われるムスビと結びつけられ、主宰神的位置に居るようにも思われる存在である。二つのテダ、ということ自体、太陽神という解釈がそぐわないことを示している。また、前述のように、英祖王と日輪感精説話との結びつきも本来的なものとは言えない。そして、テダやテルカハ(大テダ)の居る、オタカベにみる天界は少々複雑な多層構造になってはいるが、そこにはヒキと血縁的関係を結ぶ神格としてのアオリャヘ・キミカナシの居場所があり、そこでテルカハはアマ一一コと会話を交わす(一○○)、と考えられていた。大テダは、さらに高位にい

このようなことから、テダに超越的神格の意味をみる解釈に賛成したいと思う。

ヒキ役は、「てだが末、英祖にや末」という修飾句を冠せられて「王にせ」とよばれることがあった。ヒキとしてのキミカナシも先に述べたように「まてだ」とよばれていた。尚寧も又同様の神号をもった。これらからみて、王とヒキ役はきわめて近しい間柄にあったものと思われる。先にあげたdの「首里もりちよわるあがなさいきょ王にせ末ながくせぢまさてちよわれ」(七三九)の、

(応)「あがなさいきょ王にせ」という呼びかけの表現は、その親しさをよく表現している。

⑤首里殿内と〈キミテズリ〉

繰り返し述べるように、首里殿内は、王城の祭祀に決定的ともいえる影響力をもっており、それが

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ミシキョマの王府儀礼のあり方に象徴的にあらわれていた。また、継世門碑文にみるように、首里殿内と直結する門の築造のための人員の動員はこの三間切だけではなく、北部や南部、大島諸島に及んでいた。これもまた、その力の背景を示す事象であろう。〈キミテズリ〉も、王府儀礼の一つとして、首里殿内の強い影響を受けていたと思われる。〈キミマモノ〉の儀礼がどのように行われたかをみると、首里殿内と〈キミテズリ〉との関係も透けてみえ

首里城におけるキミマモノ儀礼については、すでに述べたが(拙稿二○○一年)、簡単に言えば、これは、二で述べたように、嘉靖一一五年(一五四六年)に完成した、すえつぎ御門(継世門)の一郭、国中城で行われたものである。これをその碑文「すえつぎ御門南のひのもん」と、それを改作したと推定されるオモロ一○一によって、知ることができる。碑文は、首里城の東南の城壁を二重にする工事について、三番の親雲上や。家来赤頭、つまりヒキ役などとともに、大島諸島・宮古・八重山の役

人などが、その城壁を積んだことを記す。その一部がアオリャダヶという、キミマモノの儀礼とかかわる部分であり、改作オモロはアオリャタテとよぶ。継世門にキンマモノ(ニライとよむ大主・筆者はアマ一一コと推定)がおりてくることを、オモロ一○○

はうたっている。

ここでいうニルャは、三②で述べた、久米島の雨乞いオタカベにうたわれ、天界の一部となった、 マモノ〉てくる。

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そこで大主はテルカハと出会うという、〈ニルャ〉であった。「継世門の下に米や黍を(あつめよ)」とうたうオモロ六七二(一○八五Ⅱ一五一一)は、この時代のことを題材としたものと考えてよいのではないだろうか。後述するように、キミテズリを行うやや広い区域をカワルメと呼んだと推定するが、王府の正月初御願の、三平等大アムシラレのオタカベの対象は「みものうちのかわるめの御いくかなし」であった。ここでは三大アムシラレによって行われると記されるが、赤田御門(首里御殿への門)から登る、とあるのは、他の祭祀儀礼と同様に首里大アムシラレ主導を示すものであろう。首里大アムシラレだけ(肥)がその後、国中城。あかす森御嶽・弁嶽大嶽小嶽に参幸頭する。これらは、カワルメや、国中城・弁嶽が、王府儀礼にとっていかに重要な場所であったかを示すものであろう。

⑥「さしふ五ころに降れ直ちへ」についてオモロには「風直す」「海直す」という表現がみられる。この場合の「直す」は、言われているように荒れた海や風を鎮めることであり、風や海を元の穏やかな良い状態に戻す、の意であろう。オモロではまた、「たいらこしらへや降れ直せ神々…百人引ちへ降れわちへ」(五四○)、というように、神降りを「降れ直せ」と表現する場合も多い。このオモロは、一対一ではなく、複数の者を引き連れて神降り、懸依すると言っており、〈キミテ

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ズリ〉オモロの常套句「さしふ五ころに降りなおちへ」と共通する思考のあったことを示している。「さしふ五ころ」は神の五人の畷依者の意であり、筆者は原注その他を総合して、オモロをうたい、(Ⅳ) 神を待つ男たち、の意と考えている。嘉靖二四年の〈キミテズリ〉のオモロ(六九五)に、「聞得大君きやさしふ降れ直ちへ」とあり、

又七一一一一一一・七四○・七四一一一にも同様の表現がみられる。嘉靖一一八年の〈キミテズリ〉のオモロ(七三一一一)では、「聞得きみかなしさしふ降れかわて」と「聞得きみかなしむつき降れ直ちごが対句になっ

この、〈直す〉ことが、ヒキ役などの神職者自身の属性であったことは、たとえば「世直さがえそこ神にしやがえそこ」(五五三)とあり、〈神にしや〉(神職者)と〈世直さ〉が対語になっており、神職者は世を直す者、と言い換えられていることからも分かる。

七三六などのように「さしふ直さとりよわちへ」と、「直さ」をサシフの同格の修飾語として解釈可能な例もある。

万暦一五年のキミテズリオモロ七一一一九では、「さしふに降れ直す」ことを言うとともに、それが、キミテズリの場となるカワルメの真庭で、行われることをうたっている。「かわるめの真庭に、ほこて直ちへからは又さしふ五ころに降れなおちへからは」

つまり、前述したように、〈キミテズリ〉はモノ遊びに属する儀礼であり、それは音を立てずモノ では、「ている。

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を鎮め謹慎して行動を制限するという消極的な行為であったが、一方では、ここでみるように、神降りを「降れ直す」と一一一一口い、わずかながら積極的な意味を付け加えているように思われる。このことも、この儀礼を〈キミテズリ百果報事〉と名付け、「果報事」とみた理由に結びつくのではなかろうか。

げる。工事は、

から、一になる。 尚真王時代と推定されるオモロに、ヒキ役がこの祭事の場君誇りを造作したことをうたっており、キミテズリの祭事が本格的に行われたのは尚清王時代に入ってからと推測される。史料Cとして、〈キミテズリ〉儀礼の詞書付のオモロを年代順に列記したが、『おもろさうし』と『世鑑』によれば、尚清王時代のキミテズリは嘉靖二四(一五四五年)と二八年に行われた。すえつぎ御門(継生門)の工事は、嘉靖一一三年に始まり一一五年に終了した。同年にそれを記念した南の碑文が完成したのであるから、工事の最中嘉靖二四年と、完成後三年目、嘉靖二八年に〈キミテズリ〉が行われたということ 五、〈キミテズリ〉のオモロ七三一一一・七三四・七一一一五について

嘉靖二四年のキミテズリオモロ六九四・六九五は、聞得大君(対語せたかこ)の神降り、ミモノ遊 〈キミテズリ〉のオモロ数首について部分的に説明を加えてきたが、ここでは主要な三首をとりあ

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び、大コロ達の加わる儀礼としてうたわれる。六九五には、「大しまきらなおちへ」「せらちへんに

とよで」の〈大しま〉くせらちへん〉など、解釈困難な語句がある。南の碑文にあるように、この造作は、王国の大島諸島などへの支配の拡大に伴うものと推測され、これらの語彙はその状況に係わる(蛆)ものではないかと考える。

嘉靖一一八年の〈キミテズリ〉のオモロ七一一一三・七一一一四にキミカナシがうたわれる。詞書)嘉靖一一八年已酉の年、君手摩りの百果報事の時に、十月十三日己の酉の日の午の時に、君加那志のみ御前より給申候

一きこえきみかなしさしふ降れかわて首里もり降れわちへR)なさいきよもいしよきみふさてちよわれ又とよむきみかなしむつき降れなおちへまたまもり降れわちへ

又なさいきよもい按司おそいみまぶてす降れたれ

又あが掻いなで按司おそい掻い撫でてす降れたれ又てるかははのだてて末尋めて降れわちへ

又てるしのはのだてて真末尋めて降れわちへ又なさいきよもい按司おそい首里もりちよわちへ大君にしなわ(七一一一三)

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「君加那志のみ御前より給申候」は、神キミカナシの託言、あるいは、四②で述べたように、その神の懸依したキミカナシとよばれたヒキの代表者的人物のこととかんがえられろ。オモロをうたうの

は、音取りをふくむ複数のヒキ役あるいは、御唄役であり、かれら自身がかれらの属す組織の長を「なさいきよもい按司おそい」とよぶのであろう。オモロ歌唱者などを「按司おそい」とよぶことに

ついては旧稿でのべてきた(二○○二年A)。「我が(かいなで)按司おそい」とは、神キミカナシのかき撫でる、我が按司おそいの意であろう。「なさいきょもいあちおそい」にキミカナシが懸依した

結果、懸依者そのものをもキミカナシとよびその瀝依を「かきなでる」と表現しているのであろう。

神キミカナシは、同じ降雨にかかわる神格テルカハをたかくながら、自身の血筋をひくという、ヒキ役(その長「なさいきよもい按司おそい」から、サシフ五コロなど下役まで複数の者)に神降りすることを、うたっているものと思われる。七三四も、ほぼ同じ内容のオモロであり、ここでは「さしふおれかわて」の対句として、「なりきよおれかわちへ」とあり、ナリキョがサシフと同意語であることを推測させる。〈キミテズリ〉の多

くは、以上の二首のように、ある神格が、首里もりの、サシフ・ナリキョなどに降りることを、表現を換え、時に火神との関係を述べてうたうものであり、内容としては単純なものが多いようである。このほか、六九四・六九五・七一一一五・七一一一六・七一一一七・七一一一九・七四○・七四三・七四四・七四五も、これは、詞書付オモロほぼすべてであるが、これらはオモロの輪郭と大筋において類似している。

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七四三は、一一細に表現する。

内〉

る。 一きこえさすかさがさしふ降れ変わて十百年の世添うせぢ按司おそいにみおやせ又とよむさすかさがむつき降れなおちへ又京の内はおしあけて首里もり降れわちへ(以下略)これにより、サスヵサが聖域〈京の内〉をおしあけて首里城におりてくる、という思考のあったことがわかる。ほかのオモロと合わせて考えれば、サスカサは、天界オポッカグラから降り、〈京の内〉を押し開けて、首里もりに下り、その商、サシフに神降りする、とかんがえられていたことにな

〈京の内〉は、セヂの溜まり場所であり、そこには占方の場があったのではなかろうか(一五○二)(二○○二年A拙稿)。オモロによればここには主に〈キミテズリ〉の神々、歌唱者・大やなどが関わっ

た。「なかみねきよもん…首里京内あまやかせ/又貢しちへきよもん」(二五一)の「なかみね」とは、おそらくはアカンコオモロともよばれる歌唱者でもあり(二五一一)、首里森正殿にいる者(二五○)

でもあった。 そのなかで、数首は、わずかではあるがこの儀礼の細部についてうたっている。

京の内から首里もりに降りてくるというキミカナシその他の神々について、もう少し詳

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一聞得せんきみぎやなりきよ降れふさてなさいきよもい王にせせぢまさてちよわれ又とよむきみとよみがいけな降れ直ちへ

又みもの内の真庭に遊で直ちへからは

又かわるめの真庭にほこて直ちへからは又さしふ五ころに降れなおちへからは(以下略)とあり、ここでは、この儀礼が、カワルメという名の場所で行われたことをいう。カワルメの真庭とは、『由来記』が、首里城中の御嶽のひとつとしてあげる、ミモノ内(神名カワルメの御イベ)の近(四)辺ということになるだろう。

さらに、カワルメについては、

「聞得さすかさがもちろかちへ遊へは百末おきやかもいしゆちよわれ…又英祖にや末按司おそい…又かわるめの御内に君誇りげらへて…」(一九五)、あるいは「せんきみぎや…/又かわるめのまみやにほこて直ちへからは:。」(七三九)ともうたわれる。

以上により、カワルメとよばれる区域にあるく君誇り〉は、ほぼ尚真王時代に造られたものである

ことがわかる。この造作にかかわったのもヒキ役たちであったろう。 ロ七三九には、 みもの内とかわるめについては次のようにうたわれる。たとえば、万暦十五年(一五八七)のオモ“

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奉神門は首里城正殿の門であり「きみほこり御門」ともよばれるという(「南島風土記』)。『由来記』巻三は、「奉神門(君誇)」と記録している。これらのオモロなどから、旧稿で述べたように、尚真王時代に君誇りが作られ、つぎの尚清時代に

〈キミテズリ〉が行われるようになったと考えられる。従って史料Bキミテズリ儀礼の記事は、儀礼と〈君誇り〉との結びつきを明記している点で重要であるが史実ではなく、後代に付け加えられた

ものとかんがえる。

『由来記』の約二○年後に成立した「間切公事帳」は、君誇を、御捧を並べる場所として、又それを取り仕切る取納座について記録している。近世琉球の改革は、羽地朝秀にはじまり、察温の時代に

完成したといわれる。公事帳の公布は一七一一一五年、察温の三司官就任の七年後であったという。オモロ解釈のてがかりを得るために、近年紹介された「由来記』補填史料や「公事帳」研究の成果に学び

(別)ながら君誇や御捧に関する具体的な史料を改めてみてゆきたい。 六、公事帳からみた君誇り

中世沖縄の王府儀礼〈キミテズリ百果報事〉の意義

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Ⅲ「間切公事帳」について

琉球王国は現在の市町村の区画にほぼ相当する間切という行政単位に区分けされていたが、「間切(皿)公事帳」は、琉球王府が、間切役人の職務について規定した一種の規則・法令集である。

現存する間切公事帳はごく少ないが、第一級の史料として認められていろ。ほぼ全体の内容を確認できるのは、「与那城間切公事帳」(道光十一年、一八三一年写)、「久米仲里間切公事帳」(雍正十三年、

(塑〉一七一二五)、同年の「公義帳(久米具志川間切)」、「渡嘉敷間切公事帳」などである。その特徴は規則(鰯)が間切の実情に△ロわせて作成、増補されたということである。離島の久米島・渡嘉敷間切両公事帳に

唐船方の条文があり、本島の公事帳(与那城間切)にないのは二島が中国福洲へ向かう進貢船の航路上に位置するためであろうという。二島のそれにも又部分的な違いがあり、久米島の間切公事帳には、各種の産物とその上納に関する条文が多く、取納当という職事があるが、渡嘉敷間切にはみえないという。「公事帳」には、行事などが月毎に書かれ、その大部分は、何種類もの貢祖に関しての事細かな諸手続の規定・役人交代時の

手順・慣例その他である。月毎の儀礼・祭祀・行事が巻頭に記されるのは、それらの遂行が間切の役人たちにとって、きわめて重要な職務であったからであろうとかんがえられている。

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②御捧献上と君誇渡嘉敷間切と久米島の「公事帳」の、王城への二つの儀礼、①正月元日一と十五日、十一月の冬至の

日の「朝の御拝」、②歳末の「御捧」の記述について他の公事帳と比較すると、川部裕幸氏によれば、渡嘉敷島(間切)と久米島に対しては特別待遇がとられていることが明らかだという。つまり、離島二島は、①について、元日と十五日の王城の儀礼参列は免じられていた。一方、本島の間切役人は、首里城中庭の御庭への参集が義務づけられていた(「与那城間切公事帳」)。この年三回の王城への「御拝」は、間切役人と王府の臣従関係の確認と再強化の機会であったが、渡嘉敷島・久米島にはその機会が与えられていなかったことになる。しかし、一方で②の、十二月二十七日の歳暮の「御捧」献上のためには、離島二島の役人の渡海を義務づけている。渡嘉敷島の歳暮の「御捧」は、鹿や夜光貝であり、久米島は「塩魚・生屋久かい」であった。これらは、十二月二十七日に儀式をへて献上される。『由来記』巻一、附に「年首・歳末、

(別)諸郡その他の物をもって、贄となす」とあるのがこれに関連するものと思われる。「与那城間切公事帳」では、「御捧」は元日の行事となっており、その手順や儀礼の内容は、久米

島・渡嘉敷間切とほぼ同じである。離島の一一島は、正月元旦の「朝の御拝」に参列せず、「御捧」を

十二月二十七日に献上した。少し詳しく言えば、王府への歳暮の「御捧」は、渡嘉敷(座間味間切もふくむ)の場合、十二月

中世沖縄の王府儀礼くキミテズリ百果報事〉の意義

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二十六日に王府取納座へ持参することになっていた。この時代は、取納座が、前述のように王府の貢舶納の事を取り仕切っていた。

君誇は、公事帳によればとくに歳暮と正月御捧と関わる場であったらしい。

「元日十五日、夫地頭さはくりおえか人ノ内黄八巻一人赤八巻一人青八巻一人同日四前一一登城取納座役人引合仕諸士同前一一朝之御拝相勤御役人衆下庫理江御着座被成候得者取納座役人下知一一テ位之さはくりおえか人ハ左右之廊下前江相・・・、無官之さはくりおえか人ハ引之家来赤頭同前一一御庭ニテ提子之御酒被下候…」とある。夫地頭・さはくり。おえか人は、〈引〉(ヒキ)の詰所下庫理で、役人と共に並び、大通が下

され、無官の者には庭でヒキの家来赤頭とともに酒を下される、と記す。この元日の御捧については、「君誇左右脇御門より罷通君誇前五番め敷瓦一一一並に担立後並にさばくりおゑか人着座…」とあり、君誇の脇門奉神門を通り、君誇前の五番め敷瓦一一に、献上の品を一列にならべ、その後にさはくり。おえか人は着座し、御捧の御拝を勤めるという。注目したいのは、応対する王府側の役人はヒキの者たちであったということ、又、その官位により座席も異なっていたと 次に、正[日の記事に、 正月御捧の儀礼に参加する官人たちについてみてゆく。「与那城間切公事帳」の引く正月元

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いうことである。次の項では、かれらが〈物参〉に加わる場合、勢頭方、つまりヒキ系官人の指図により勤めた、と記す。又近年、豊見山和行氏の紹介された史料「琉球国王家年中行事正月式之内」によれば、王府の正月の行事として、次のようなことが行われたという。元日には、君誇の前に楽器をおき、「御所帯方御物奉行」が登城して、中頭・島尻御捧目録の取次を行う。続いて、「中頭・島尻弐拾六ケ間切より御捧献上一一付、…御捧物君誇之前擴立させ、さはくり。おえか人後並一一居候得者…」、とある。これ

は、中頭・島尻の二十六間切からの御捧献上の儀礼の記録である。捧物は「生魚二百十五斤・干魚百斤・生蛸百六十斤」であり、これを君誇の前に並べたということであろうか。捧物の置き場所の表現は同一ではないが、先の「与那城間切公事帳」に類似している。その後、取納座大屋子が大台所役人に取次、御中門より御内原に差上、とも記している。これは、一七一九年から一七九九年までの間の

(鴻)作成と推定されるものであり、元日の公事についての最も詳細な史料という。この記述からも、正月に、中頭・島尻の御捧儀礼も君誇の前で行われ、又、この儀礼に、王府の取納座が深くかかわっていたことが分かる。

王城のている。

二月中に、役人(サバクリ)が、村々からあつめた御捧を、取納座役人の指図のもとに、二七日的 〈君誇〉について、久米島「仲里間切公事帳」(雍正一一一一年、一七三五)は、次のように記し

中世沖縄の王府儀礼くキミテズリ百果報事〉の意義

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③取納座と代官制取納座とは、近世の租税に関する役所で物奉行所に属していた。取納座は、王城に登った間切役人達を指揮して御拝を勤めさせ、さらに上納品を始め、仕上世・雑物などの諸品を各蔵の収めさせる指 に(首里城の)下之御庭に置き、サバクリは君嬉の前の五番目の敷瓦に並ぶ。一廿七日御捧差上候付而位之さはくり徒朝衣八巻二而早朝取納座江罷出…献上之御肴下之御庭江差上せ置取納座役人差図次第諸島同前一一君嬉左右脇御門より罷通君嬉前五番目敷瓦一並二擴立後並二さはくり着座、…「君嬉」は、道光十一年(一八三一)編纂の同書に「君誇」とある。又、渡嘉敷の公事帳には、次(瀦)のようにあり殆ど同一の記述である。一廿七日御捧差上候付位さはくり捉色衣装八巻二而早朝取納座江罷出…献上之御肴下之御庭江差登取納座役人差図次第諸間切同前二君嬉左右之脇御門より罷通君嬉前五番目敷瓦一並一一婚立後並一一さはくり着座、…双方とも「君嬉左右之脇御門より罷通君嬉前…」、君誇の左右の門、つまり奉神門を通って、君誇の前五番目敷瓦の上に歳暮を並べたことを記していろ。正月と年末という相違はあったが、儀礼の内容は本島間切と同じであったことがわかる。

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間切の祭祀には三レベルのものがあり、一つは、稲・麦の穂祭・大祭であり、いわゆる一一・一一一月ウマチー、五月・六月ウマチーなどとよばれる祭りである。これらは、取納座から「日撰」が通知された。麦と米は王府への重要な上納物であり、祭のために収穫の時期がおくれて、損失にならぬように毎年の日撰は取納座がその年の実り具合に応じて連絡するのであろうと田里氏は推測されている。「間切公事帳」成立の背景には、一七二八年の代官制度の廃止と取納奉行の設置があった。『由来記』その他は、取納座の前身として代官制度があり取納事務に関わったこと、代官制度自体も時代の(鍋)推移に伴い、初期の七代官制度から四代官制度へと改変したことを記録する。

これを簡単にいえば、取納の制度は、七代官制度↓四代官制度(一六六○年以降)↓取納座(一七二八年)、へと変遷を経たということになる。つまり代官制は、『由来記』編纂十数年後に、取納座へと継承された。その後本島や離島の受け入れた新しい制度がいかなるものであったかを記録するのが公事帳ということになる。

「与那城間切公事帳」によれば、先にもふれたが、麦穂・稲穂祭・大祭の日選の「言上写」も取納座から村々へ触れ回った。御捧の目録を、取納座が諸間切分をまとめることからみて、取納座がこれ 揮をとる。王府のなかで、間切行政にもっとも強い権限をもっており、間切役人は取納座の監督下に(”) あったという。

中世沖縄の王府儀礼〈キミテズリ百果報事〉の意義

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仰初期の貢物献上・〈取納〉の仕組みとヒキ

〈キミテズリ〉を行っていた時代の〈取納〉あるいは捧物献上の儀礼は、時代的に一一一一口って、七代官制度との何らかのかかわりを考えるのは自然な推測であろう。旧稿で述べたように、原初的な官人として、ヒキ役の者たちは元来、その職名からみて、勢頭(船頭)や船子たちであり、それとともに、王の身辺の雑用や造作にかかわり、兵士ともなる者たちであつ(羽)たとかんがえられる。とくに、オモロでは「物知り」とうたわれ、オモロ歌唱にも直接的なかかわりを持つ者であった。オモロは、筆者のみるところでは、彼ら自身の事柄をうたうものが多く、彼らの職事として、自身のもつ呪術的な力でカマヘを〈寄せる〉ことをうたっている。深くは立ち入れないが、この代官制度との結びつきを推測するのが自然だと思われる。たとえば、首里周辺の、真和志・南風原・西原の、畿内三間切は、七代官制度の一まとまりの区域になっており、王府の下庫理の稲穂祭で、この三間切の稲穂を御内原に献上することが行われている(抑)(一一○○四年拙稿)。このことからみても、双方の関わりが推測される。 ら、稲祭や歳暮のミササゲに関する事柄すべてを取り仕切っていたと推測される。

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⑤オモロにみるカマヘ・カナイ・ササゲ一般に、古代的な国家においては、農業生産物とくに稲の貢納は、共同体成員の負担として、土地からの収穫物の一部を初穂として首長に貢納する慣行から発生し、それが租税に転化していったと云われている。又、これとは別に、古代の日本では、貢納物の一部として贄またはミッギとして、山野・河海の所産など食料品を天皇または朝廷に貢進する慣行があったという。琉球王国でも、稲や麦は王府への重要な上納物であり、御捧や三月一一一日の〈御初〉はいわゆる初物

(Ⅲ) を神に捧げる習慣から転じたものといわれる。『混効験集』(一七十一年序文)は、「かまへ〔貢物ノ事〕」として、「かみ下のかまへつでみおやせ」。むかしはつかかなひと申て人の頭の程に稲壱たばりづつ上納

有たるよしなり。と記録している。これは、かって、人の頭位の大きさの、稲一夕パリを上納することが行われ、それをツカカナヒと呼んだという意味であろう。『奄美方一一一一口分類辞典』によれば、一夕パリは八チカ、一

(躯)チカは一二握りの稲に相当するのだという。この「混効験集』の記述は、オモロの「かみ下のかまへつでみおやせ」のカマヘと「つかかなひ」のカナヒを、ほぼ同一視していること、又、稲の上納をカナヒと呼んだ、ということを語っていると

みてよいであろう。

中世沖縄の王府儀礼くキミテズリ百果報事〉の意義 73

参照

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