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大 濱 信 泉 先 生 に 捧 げ る

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(1)喜寿を祝して. 大濱信泉先生に捧げる. 執筆者一同.

(2) 1横井教授の御書評を読んでー. 法の解釈と認識・実践⁝⁝⁝⁝⁝⁝・:⁝⁝⁝:⁝. ﹁国津罪﹂ 考⁝・⁝ ー国際通貨基金における制度と慣行の発展−. 国際通貨基金協定にもとづく国際流動性供与の法機構. 大正法制史序説⁝⁝:⁝⁝ 積付の過失と海上運送人の責任⁝ ー航海上の過失を中心としてー. 管理職員の労働組合について:⁝. 山晴康︵壱︶. 佐.藤昭夫︵一︶. 中. ⁝・⁝⁝・⁝西. 井輝生︵互︶. 五. 次. 西ドイツの判例と信頼の原則⁝⁝・ ーその確 立 の 経 緯 ー. (. 原春夫︵五︶. 山和久︵U窓︶. (. ). 一鴫. ). 土杉. 中中 村村 吉 真ゴ 澄郎. 目.

(3) 佐. 藤. 昭. 夫. の解釈と認識・ 実践 横井教授の御書評を読んでー. 一 ︵一︶. 法の解釈と認識・実践. 横井芳弘﹁佐藤昭夫著﹃労働法学の課題﹄﹂ ︵法律時報三九巻一三号﹃〇一ぺージ以下︶︒. 論集に加える非礼をー大浜教授ならびに横井教授にーおゆるしいただきたいと思う︒. ︵二︶. た︒そこで︑日本の文献にかけることはなはだしいにもかかわらず︑右書評と関連して年来のテーマを再論し︑記念. ︵一︶. に出版した小著﹁労働法学の課題﹂にたいして︑横井芳弘教授よりいただいた書評を︑法律時報誌上に見る機会をえ. たいと思いながら︑着独以来日も浅く︑比較法的研究をものするにはいまだ熟していない︒ただ︑たまたま渡航直前. 大学に留まりながら︑教授の喜寿記念論文集の編まれる目を迎えるにいたった︒教授とのえにしを懐い︑小論を捧げ. れわれと接せられた︒そして今回たまたまわたくしは︑大浜総長時代に結ばれた協定により︑交換研究員としてボン. 教授は法学部においてわれわれを導びかれただけでなく︑古稀を迎えられてのちもなお総長の激職にあり︑親しくわ. 昭和二四年︑わたくしが早稲田大学第一法学部三年に編入学したとき︑学部長が大浜教授であった︒爾来今日まで︑. 法.

(4) あ. り. 拙 著. に. まず︑その点から闇題をみていきたいと思う︒. 横井教授は︑筆者の法解釈にかんする見解にたいして︑﹁だが間題は︑こうして措定した﹃法的に正しい﹄解釈を︑ ︵一︶ 著者が﹃認識の間題として決定される可能性をもつ﹄︵二八頁︶とされるところにある﹂といわれている︒すなわち︑ 拙著のつぎの部分︑. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ﹁そこで︑法の依拠する価値体系・その基本原則を︑社会的にも実現するに適する法解釈がなんであるかを考えるな. らば︑それを実践的に是認するかどうかは別問題として︑認識の問題として一致しうる可能性をもつだろう︒すなわ. それは社会科学的認識の結論としての性格をもつ︒そのかぎりでは︑実践的立場の相違にかかわらず一致しうるはず. 判断を探究すること︑そして第二に︑それに法的構成をあたえることを必要とする︒そして︑その第一の点において︑. 用を認識し︑その諸条件において憲法の基本原則を実現していく︵いわゆる法形成的実践をみちびく︶に適する価値. 体系・基本原則を歴史の流れにおいて社会科学的に明らかにすること︑また現実の社会的諸条件や法規範の社会的作. ち︑そのような解釈を確定するためには︑わが国において目本国憲法が最高法規であるかぎり︑第一に︑憲法の価値. つ. 説︵佐藤︶. で. 一. け. 論. 一四号︑ならびに片岡昇・現代労働法の理論︑. いても記憶にたよらざるをえなかった︶︑この点からも将来再検討の機会をえたいと思う︒. ︵二︶ 手許で参照できた文献は︑法律時報三九巻=二号︑. だ. 本稿の課題をとりあげようとする直接の動機は︑前述のように︑小著にたいする横井教授の御批判にある︒そこで. 二.

(5) だと思われる︒⁝⁝そのような仕方の解釈は︑憲法の前提とする立場に忠実であるという意味において︑﹃法的に正 しい﹄解釈だといえるだろう﹂︵拙著一二︑一三頁︑傍点横井教授︶. ここでの疑問の第一は︑著者が﹃法的に正しい﹄解釈を︑徹頭徹尾﹃認識﹄の問題として論旨を展開してい. を引用されたのち︑つぎのようにいわれる︒. ﹁ω. るのかどうか︑かならずしもよくわからないところにある︒﹃認識の問題として一致しうる可能性﹄︵一二頁︶︑﹃価値. 体系と価値判断の探究という点において︑それは︵﹃法的に正しい﹄解釈−横井注︶︑社会科学的認識でなければな. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. らない﹄︵三一頁︶などという点からみれば︑著者は︑それを終始﹃認識﹄の問題としてとらえているようにみえる︒. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. しかし︑他面において︑著者は︑しばしば﹃法的に正しい﹄解釈を︑﹃科学的認識にもとづく解釈﹄︵二二頁︶︑﹃科学. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. 的認識の結論としての性格をもつ﹄︵三一頁︶︵傍点はいずれも横井︶ともいう︒. ﹃法的に正しい﹄解釈を︑社会科学的﹃認識﹄そのものとしてとらえることと︑それを科学的認識に﹃もとづく解. 釈﹄といい︑社会科学的認識の﹃結論としての性格をもつ﹄ということとは︑たんに言葉の使い方の差異にとどまる. ものではない︒その間には︑むしろ質的な懸隔すらがあるようにおもわれる︒著者自身も︑﹃解釈が実践であって認. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. 識でないということは︑解釈という行動の一般的性質としては︑正しいと思う﹄︵七二頁︶とされているように︑ 一. 定の事実なり法則の認識とそれに基づく解釈11実践とは︑明らかにちがうものであるからである︒たとえ著者の立場. 三. が︑﹃実践的決断として︑法的に正しい解釈を追求するという選択もありうる﹄︵七二頁Vというところにあることを ︵二︶ みとめたとしても︑右の疑問は解消するようにはおもわれない﹂と︒ 法の解釈と認識・実践.

(6) 論. 説︵佐藤︶. ︵三 ︶. 四. この点の問題は︑一つには筆者の表現のいたらなさに根ずくと思われる︒教授の御指摘に感謝しながら︑説明を補 なっておきたい︒. 第一に︑法の解釈あるいは法律学について︑﹁実践﹂とか﹁実践的性格﹂とかいう問題が︑そもそもどういう意昧. でいわれるのか︑ということである︒ここでは︑二つの観点に注意することが必要だと思われる︒その一つは広義の. それであって︑その行為が現実にたいする働らきかけをもつかどうかという観点である︒法の解釈は︑それが実践的. 適用をもとめての提言であるかぎり︑この意味においての実践的性格をもつことはあきらかであろう︒しかしこの観. 点からみるかぎり︑それは法解釈にかぎらない︒認識︵狭義︶が実践︵狭義︶を導びくという意味において︑労働法. 学は︑その法社会学的認識をもふくめて︑実践的性格をもつといわねばならない︒そしてそれゆえにこそ︑拙著﹁労. 働法学の課題﹂においてもーとくに第一章でー労働法研究における問題意識の重要性︑研究者の社会的責任とい うことを︑主要な論点の一つとしたわけである︒. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. その二は狭義の認識と区別して︑その行為が行為自体の性格として︑対象によって一義的に決定されず︑行為者の ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. 主観的選択にかかるものかどうかという観点である︒わたくしは︑この点でも法の解釈は︑一般には実践的性格をも. つと考える︒つまり︑この点で法の解釈は︑法社会学的﹁認識﹂そのもの−事実ないし事実を支配する法則の認識. ーとはちがった性格をもつ︒それゆえに︑解釈者の実践的立場の相違にもかかわらず︑解釈論の内部でその正否を. 認識の問題として争そいうるために︑﹁法的に正しい﹂解釈というような︑実践の場で表面的には否定しにくいよう. なーもし国家権力がこれを否定する場合にはみずからの合法性の主張を弱めることになるだろう1前提︑ないし.

(7) 限定をおくことが必要であり︑重要だと考えたわけである︒. だが︑ここでさらに︑解釈の技術的側面に注意しておきたいと思う︒すなわち︑一般に解釈は︑いくつかの価値体. 系・価値判断の認識︑その一つの実践的選択ということに加えて︑その価値体系にもとづく価値判断を法論理的︑整. 合的に構成しなければならない︒そしてわたくしは︑結論的にいって︑この法的構成は一つの技術であり︑同一の価. 値体系・価値判断のための構成が︑かならずしもただ一つにはかぎらないと考えている︒そして価値体系・価値判断 ︵四︶. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. がおなじである場合に︑ちがった法的構成の間において問題なのは︑それがいずれも整合的であるかぎり︑その技術 的優劣であって︑認講的正否ではないと考えるのである︒. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. 拙著﹁労働法学の課題﹂は︑以上のような考え方に立っている︒横井教授の指摘された︑﹁科学的認識にもとづく. 解釈﹂︑﹁科学的認識の結論としての性格をもつ﹂とのべたところは︑﹁法的に正しい解釈﹂が︑価値体系・価値判断. の認識︑確定の点においてはまさに﹁認識﹂の問題だと考えるが︑その法的構成の点においては﹁認識そのもの﹂と. ︵二︶ 横井芳弘﹁佐藤昭夫著﹃労働法学の課題﹄﹂︵法律時報三九巻二言万︶. はいえないことを考慮したからにほかならない︒. ︵一︶. 本田尊正教授からも︑季刊労働法六五号における拙著への書評で︑認識と実践との関係についてより立ち入った考察を加. 一〇二ぺージ︒. ︵三︶. 五. この点は前著・ピケット権の研究︵第六章︶以来の考え方であるが︑﹁労働法学の課題﹂では参照箇所を注記するにとど. えるよう御忠言いただいていたと記憶する︒あわせて御礼申しあげる︒ ︵四︶. めておいた︒いたらなさをおわびする︒. 法の解釈と認識・実践.

(8) 責冊. 説︵佐藤︶. 三. もし﹃法的に正しい﹄解釈があくまでも認識の領域にとどまるものであると著者が解するのであれば︑著者. /、. ヤ. ヤ. ヤ. ︑︑︑. 一方で著者自身が出発点としている解釈の実践的性格と﹁前後矛盾することにな. ヤ. 第一に︑それはあくまで︑解釈一般ではなくて︑﹁法的に正しい﹂解釈がなにかという範囲にかぎっての問題であ. えている︒それはつぎのような理由からである︒. とにする︒そうした場合︑わたくしはやはり﹁法的に正しい﹂解釈が︑認識の問題として決定されるべきものだと考. さてここでは︑前述の解釈の技術的側面はさておき︑価値体系︑価値判断の確定の問題にかぎって論をすすめるこ. ではないのか﹂と︒. ︵二﹀. とすれば︑﹃憲法の基本原則を実現していくに適する価値判断の探究﹄は︑社会科学的認識の枠の外にはみでるもの. ヤ. れるのか︒それになによりも︑この選択自体︑﹃認識﹄とは区別される価値判断そのものではないのか︒もしそうだ. ヤ. もわれる価値判断が複数存在する場合︑この中の一つを﹃適する﹄ものとして選択するのは︑どのようにして行なわ. りはしないだろうか﹂︒右に関連して︑﹁憲法の基本原則を実現していくに適する価値判断が︑かりに終局的にはただ ヤ 一つしか存在しないとしても︑その唯一の価値判断を見つけだすのは︑どのようにして可能なのか︒﹃適する﹄とお. ︵一︶. 解釈を問題にするということは﹂︑. 自身は︑法の解釈という人間行動をいったいどのように解するのであろうか︒⁝⁝﹃法的な正しさ﹄の観点から法の. ﹁⑭. だが︑横井教授の御批判はさらにつづく︒. …△.

(9) る︒そして実践的選択は︑この認識作用の前︑あるいは後におこなわれるのだと考える︒たとえば︑憲法の基本原則. に反対の立場からは︑種々の手段︑装おいをもって︑その実現に適する︵﹁法的に正しい﹂︶解釈︵それが確定された. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. として︶がおこなわれるのを妨げようとするだろう︒基本原則をわざとあいまいにすること︑社会の諸条件︑解釈が. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. おこなわれた場合の社会的作用について誤まった認識をひろめようとすること︑などなど︒だがそれは︑認識として. はその﹁法的に正しい﹂解釈が憲法の基本原則の実現に適することを知るがゆえに︑自己の実践的立場から︑その解. 釈に反対するのではないだろうか︒事実はそれに反対の立場でありながら︑なおしばしば憲法に忠実であるかのよう. な外見的装おいをもって︑自己の主張をかざることがおこなわれる︒それは︑﹁法的に正しい﹂ということによる自. 己の立場の正当化が︑解釈論の分野では︑今日なお実践的に重要であることを意味しよう︒そしてそれゆえに︑憲法. に刻みこまれた歴史の成果をまもり︑これを拡大するという筆者の問題意識からして︑はたして真に﹁法的に正し. い﹂か否かについてその認識を科学的にふかめること︑認識の科学的真偽を争そうことを︑必要と考えたのである︒. 第二に横井教授は︑前述のように︑憲法の基本原則を実現していくに﹁適する﹂とおもわれる価値判断が複数存在. する場合︑この中の一つを﹁適する﹂ものとして選択するならば︑この選択自体︑﹁認識﹂とは区別される価値判断. そのものだといわれる︒御指摘のかぎりではまことにそのとおりであり︑わたくしもこれに異論をもたない︒しかし. それは︑科学的認識ないしその検証の事実上の困難さにともなう問題であり︑原理的には︑認識が科学的にふかめら ︵三︶ れるにつれて︑その範囲を狭められていくものだと考える︒そして実践の場においてみるならば︑解釈論のあらそい. 七. は︑どちらが相対的により正しいかの問題である︒たとえすべての点にわたっての科学的認識がなお不可能であると 法の解釈と認識・実践.

(10) 論. 説︵佐藤︶. 横井︑前掲︸○二〜三ぺージ︒. 八. しても︑認識によって争そいうる余地のあるかぎり︑研究者はその点での争そいをも避けるべきではないと考える︒ ︵一︶ ︵二︶. れに思う︒. 二九ぺージ︶との御批判. もし﹃法的に正しい﹄解釈が純粋に認識の領域にとどまるものではなく︑むしろ社会科学的認識によって基. ヤ. だるのは︑右の点にとどまらないのであろう︒指示されている文献を現在参照しえず︑これについて再検討できないのを遺. 諸と思う︒それゆえにわたくしは︑こうした諸条件についての社会科学的認識をも必要と考えたのである︒だが教授のいわ. 作用などについての認識がちがえば︑おなじ価値体系を実現するために︑個別的具体的な価値判断がちがってくるのは当然. をいただいている︒ここでいわれているかぎりでは︑わたくしは別に異論をもっていない︒社会的諸条件︑法規範の社会的. 然に︸致するわけではない﹂︵蓼沼謙一﹁労働法﹂一九六七年学界回顧︑法律時報三九巻﹃四号︑. ︵三︶ 拙著の立論にたいしては︑蓼沼教授からも﹁価値体系が同じだからといって︑それに基づく個別具体的な価値判断まで当. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. といい︑﹃結論としての性格をもつ﹄というのが︑いったいどのようなことを意味するものであるかということであ. 的認識と﹃法的に正しい﹄解釈との両者をむすびつける論理的な媒介物はなんであるのかと︒著者が︑﹃もとづく﹄. ヤ. 礎づけられうるものと︑著者が解するのであれば︑ここからは︑つぎのような疑問がでてくる︒すなわち︑社会科学. ﹁⑥. ついで横井教授の御批判は︑つぎのように展開されている︒. 四.

(11) ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. る︒社会科学的認識の成果をどのように法の解釈H実践的価値判断とむすびつけるかという問題でもある︒. 法の認識と解釈H価値判断を峻別し︑かつ法解釈の真理性もしくは正当性をー倫理的・政治的正しさの問題とし. てではなくー追求していくとき︑もっとも困難な問題は右のそれである︒右のような問題意識で本書をみるかぎり︑. それら両者を論理的にむすびつける媒介物は見あたらないようにおもわれる︒あるいは︑ここでの問題提起そのもの ︵一︶ が︑著者の問題意識とまったくはなれているためであるかもしれないが﹂と︒. さてこの点は︑すでにお答えしたことになるのだと思う︒わたくしも︑認識の真偽をもって︑立場の相違をこえた. 解釈の正当性と結びつけることは︑むしろ不可能だと考えている︒認識はむしろ︑実践をみちびき︑実践に奉仕する. ものであろう︒それゆえに︑なんらかの実践的立場をまず前提とすることによって︑その実践的目的を達成するため. に︑認識の科学性が問われることになるのだと思う︒そして前述のような理由から︑わたくしは憲法の原則の実現︑. 横井︑前掲一〇三ぺージ︒. ﹁法的な﹂正しさということをもって︑解釈論の内部において認識の真偽を争そう︑一つの土俵を設定しようとした のである︒. ︵一︶. 法の解釈と認識・実践. 九. ﹁今日︑わが国の法学界においては︑法の認識と解釈H実践を峻別する考え方が支配的になっているかのように見. ところで横井教授は︑右にのべた拙著への批判を展開されたのち︑つぎのような基本的提言をされている︒. 五.

(12) 論. 説︵佐藤︶. 一〇. える︒しかし︑このような考え方は︑はたして自明なこととしてうけとめることができるものかどうか︒法の解釈を. 実践H価値判断と規定してしまい︑その正しさはたかだか実践的立場からのいわゆる倫理的・政治的な正しさとして. 実践を峻別する立場そのものを︑その根底から検討してみるこ. しか問題にならないとすることが︑まったく疑問の余地のないものであるかどうか︒われわれはもう一度︑この支配 ︵一︶. 的になっているかのように見える︑法の認識と解釈 とが必要なのではあるまいか﹂と︒. この提言にたいしては︑拙著が解釈の倫理的・政治的正しさのみならずその法的正しさを問題とし︑それを認識の. 問題にかかわらしめようとしたかぎりにおいて︑わたくしの考え方もまた一脈の共通性をもつということを許される. であろうか︒しかしながら︑おそらくこの提言の背後には︑﹁法の解釈すなわち法の規範的意味構造の把握﹂は﹁実 ︵二︶ 践的形成的﹂に行なわれなければならない︑とする横井教授の見解がよこたわっていることであろう︒そしてこうし. た方向は︑沼田稲次郎教授によって早くから一つの見事な展開をみており︑最近︑片岡舜教授によって︑その全体的 ︵三︶ な理論体系にわたっての整理︑検討をこころみられたところである︒本稿では︑もとより︑これにつみ重ねての検討. ヤ. そしておお. をなしうべくもない︒だが︑拙著への書評の労をとられた横井教授の御好意におこたえするためにも︑拙著での見解 と関連して︑この点についてのわたくしなりの考えを︑幾分なりとのべておきたい︒ ヤ. まず︑法の解釈をどういう行動とみるかの問題がある︒そしてこの点で︑わたくしが出発点とした. くの理解もそうだと思われるーある法文が﹁現在以後においていかなる意昧をもつべきであるかを決定すること. ︵川島教授のいわゆる実践的解釈ごと︑﹁現に妥当している実定労働法の規範的意味構造の認識﹂ということとは︑.

(13) 一見するとあまりにもかけはなれ︑その後の論議を無縁にするかのようである︒しかし︑わたくしのいわゆる﹁法的. に正しい解釈﹂は︑実はこの間の架橋の役割りをもはたすものと考えている︒なぜならば︑﹁法的に正しい﹂との限. 定を付することによって︑解釈における選択は対象からの制約をうける︒そして︑憲法の価値体系下において法的に ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. 正しい解釈はなにかの問題は︑いいかえれば︑﹁現に妥当している実定労働法の規範的意味構造﹂はなにか︑の問題. を意味するであろう︒そうした解釈の確定は︑﹁法的に正しい解釈﹂としては﹁いかなる意味をもたせられるか﹂の. 認識︵前述の︑法的論理構成の技術的側面はしばらくおく︶となり︑﹁実定労働法の規範的意味構造の認識﹂になる と思われるからである︒. つぎに︑その認識が︑﹁実践的︑形成的﹂におこなわれる︑との点はどうであろうか︒わたくしは︑この点におい. てもーわたくしの理解する意味においてにすぎないがー異論がない︒前述のように︑労働法学は法社会学的認識. をふくめて現実への働らきかけの作用をもつし︑認識ーiおよびそれにもとづく実践iが対象を動かす以上︑事実. の認識はその結果をふくめての認識でなければならない︒拙著において︑﹁法的に正しい﹂解釈を確定するためには︑. ﹁第一に︑憲法の価値体系・基本原則を歴史の流れにおいて社会科学的に明らかにすること︑また現実の社会的諸条. 件や法規範の社会的作用を認識し︑その諸条件において憲法の基本原則を実現していく︵いわゆる法形成的実践をみ ちびく︶に適する価値判断を探究すること﹂を必要とする︑とのべたゆえんである︒. ただここで︑あらためて問題としたいのは︑こうした意味での﹁法的に正しい﹂解釈︑あるいは﹁現に妥当する実. ︸一. 定労働法の規範的意昧構造の認識﹂が︑﹁はたして価値判断をぬきにして︑認識の問題として一義的に確定すること 法の解釈と認識・実践.

(14) 論. 説︵佐藤︶ ︵四︶. 一二. ができるものであるかどうか﹂ということである︒前述のように横井教授はこれに否定的と思われるし︑片岡教授も. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. また同様のようである︒片岡教授はいわれる︒. ﹁真理の認識という場合には︑対象となる事物の真相をとらえるという意味での認識が問題なのであって︑そのよ. うな認識は︑われわれが普通そうしているように︑多くの場合認識者の立場や価値選択の介入のもとになされる一種. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. ヤ. の総合的判断を意味するというべきであろう︵もちろんその場合も分析的判断を前提とする︒そして︑認識者の一切. の価値観を排除した︑純粋に事実に則した認識といったものは︑少なくとも社会現象に関する真理認識の立場からい. えば︑むしろ擬制にすぎないのではないかと思われる︶︒そして︑法の解釈を実定法規に含まれる真実の意味内容を. 把握することであるとすれば︑その過程において価値選択その他の実践的要素の介入が含まれるとしても︑なお解釈 ︵五︶ 学は認識の学であるといわざるをえないのである﹂と︒. この点に︑わたくしは疑問をもつ︒﹁労働法学の課題﹂第一章でのべたように︑認識における立場の相違は︑その. 認識活動の奉仕しようとする実践的目的︑したがってその問題意識の差となってまずあらわれる︒だがそれだけでな. く認識が︑既存の利益・環境などからの影響をうけ︑意識的・無意識的偏見におおわれやすいのも事実であろう︒だ. からたとえば︑いわゆるプロレタリア科学の立場からは︑個々の現象の記述はするが全体の関連をみようとしない︑. いわゆる俗流ブルジョア科学にたいして︑﹁事物の関連がひとたび理解されれば︑実際の崩壊に先だって︑現在の秩. 序の永久的必然性にたいする理論的信仰がくずれはじめる︒だからここで︑無思想の混乱を永久化させることが︑支. 配階級の無条件的な利益となってくる﹂として︑その偏見︑非科学性が非難されもする︒また︑そうした立場は同時.

(15) に︑﹁学間が何物をも顧慮するところなく︑何物にも囚われずに進めば進むほど︑労働者の利益と要求とに一致する. ようになる﹂として︑自己の立場の真の科学性の主張ともなるだろう︒しかしそこでの問題は︑認識の事実としての. 被制約性であり︑それは︑認識をすすめるためには︑できるかぎり排除すべきことである︒. また人間は︑すべてが科学的に認識され︑証明されるまで実践しない︑というわけにはいかない︒認識のまだとど. かない部分については︑そのすでに有する認識から可能なかぎりの予測ないし仮設をたて︑それにもとずいてーそ. れに彼の存在をかけて−行動し︑むしろ実践によってその正しさを検証し︑あるいはあらたな認識に達するほかな. いであろう︒そしてその予測ないし仮設の設定において︑彼の実践的立場が影響をおよぼすことは︑おそらく事実だ. と思われる︒しかしそれは︑認識のかけている部分を︑推測に托したまでであり︑同一の事実ないしそれを支配する. 法則についての真の科学的認識そのものに︑実践的価値選択が介入するはずのものではあるまい︒先にものべたよう. ﹁認. に︑認識の拡大は︑こうした推測の範囲を狭め︑またその確実度をたかめ︑逐次これを科学的認識にかえていくので はないだろうか︒. たしかに事実として認識のとどかない部分のあるかぎり︑片岡教授のいわれるように︑社会現象にかんして︑. 識者の一切の価値観を排除した︑純粋に事実に即した認識﹂といったものは︑﹁むしろ擬制﹂にちかいかもしれない︒. しかしそれにもかかわらず︑わたくしが﹁法的に正しい﹂解釈についてこのことを問題にするのは︑ほかでもない︒. 原理的に︑立場の相違によるちがいを容認することは︑実際上は権力の側の価値選択に免罪の符をあたえる危険が感. 二二. ぜられる︒相争そう解釈者に最大限の認識と立証の責任を負わせることにより︑その危険をできるだけ小さくしたい 法の解釈と認識・実践.

(16) 論. 説︵佐藤︶ ︵六︶. と考えたからである︒. ︵三︶. ︵二︶. 横井︑前掲時報一〇三ぺージ︒. 片岡昇・現代労働法の理論︑とくに一六七ぺージ以下︒. 横井﹁労働法の解釈ー二︑三の方法論的疑間について﹂︵労働法二四号︶︒蓼沼︑前掲二七ぺージによる︒. ︻四. ︵四︶ 片岡・前掲書二二七ぺージ︒. ︵一︶ 横井︑前掲一〇三ぺージ︒. ︵五︶. こうした考え方は︑いわゆる弁証法的論理学の立場からの認識論とも共通性をもつのではないかと考える︒たとえば︑つ. ﹁対象をほんとうに知るためには︑そのすべての側面︑すべての連関と﹃媒介﹄を把. ︵六︶. ぎのようにいわれているからである︒. 握し︑研究しなければならない︒われわれは︑けっして︑それを完全に達成することはないだろうが︑全面性という要求は︑. 一一四〇ぺージ︶と︒. われわれに誤れや感覚喪失に陥らないよう用心させてくれる﹂︵レーニソ︑﹁ふたたび労働組合について﹂国民文庫版労働組 合論︑下︑. 解釈について︑﹁労働法学の課題﹂ではちがった視角をとってみた︒いわばひろく民主主義法学一般に共通しうると. 沼田教授の壮大な理論体系には︑わたくしとして学ぶべき非常に多くのものをもっている︒だがわたくしは︑法の. 最後に一言つけくわえておきたい︒. 山 ノ\.

(17) 思われる立場から︑法解釈の科学化がどのような意味で可能か︑またそれがどのような役割りをはたしうるかを考え. 沼田理論にかなり. てみたのである︒その理解には︑なお多くの不十分さや︑あやまりをま鳳かれていないであろう︒しかしともかくも︑ ︵二︶. その結果は︑解釈論にかんするかぎりi法律学全体におけるその位置ずけはともかくとして. の程度まで接近したのではないかと思う︒﹁正しい法解釈は真の多数者の福祉と自由との実現を志向する立場︑いわ. ば法の公共性を社会的事実として実現せんとする︵価値の実現ー規範の妥当︶立場に立ってはじめて可能なのであ. り︑かかる立場に立って︑法形成的実践を洞察しつつ︑それを導くごとき規範的論理乃至は価値体系を具有する法解. 釈こそが真理性を担い得るのである︒そして︑そのような法解釈は真の多数者の歴史的社会的な実践そのもののうち ︵一︶ で生成する生ける規範意識に密着することによって可能なのである﹂との沼田教授の立言は︑﹁法的に正しい解釈﹂. とおきかえてみた場合︑日本国憲法に﹁法の公共性﹂がみとめられるかぎり︑これを類推するのにほとんど困難をみ ないようである︒. そしてこのことは︑戦後の労働法論争史において︑多くの基本的に共通な解釈論が展開されたこととともに︑つぎ. のことを示唆していると︑わたくしには思われる︒すなわち︑いわゆるマルクス主義法学と︑より広汎な民主主義法. 学とが︑その基本的ないし窮極的問題意識ーマルクス主義法学は社会主義革命を︑ブルジョア民主主義法学は憲法. 秩序の実現を︑それとしてもつだろうーを異にしながも︑すくなくとも現在の争点である改憲阻止と解釈論の分野. 一五. においては︑その科学的良心をともにし︑統一戦線をくみうるし︑またこれをくむべきだー学問の自由をまもるた めにもーということである︒ 法の解釈と認識・実践.

(18) 論. 説︵佐藤︶. 一六. 一九四ぺージによる︒. 最後に︑横井教授︑片岡教授︑沼田教授の所説の理解にあやまりをおかしているかもしれないことをおわびし︑大. 沼田稲次郎﹁労働法における法解釈の問題﹂︵季刊法律学二〇号︶五六ぺージ︒片岡・前掲書︑. 浜教授の御健康 を 祈 っ て 筆 を お く ︒ ︵一︶. ︵二︶ 蓼沼教授は︑拙著の立論が︑﹁沼田理論における法解釈方法論と果たして︑またどのように違うかに触れている余裕はこ. 一九六七・一二・一四︑小雨の降る夜︶. こにはないし︵前掲︑法律時報三九巻一四号二九ぺージ︶と書かれたが︑沼田理論との関係を本文でのべたように解してよ いかどうか︑御教示をえたいと念願する点の一つである︒ ︵ボン︑シューマン・シュトラーセ五三番地三階の一室にて︒. なお筆者が外地にいるため︑本稿の記念論集への参加について中山助教授の御配慮を煩らわした︒付記して謝意を表する︒.

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参照

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