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日本的リーダーシップ再考 利用統計を見る

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(1)

日本的リーダーシップ再考

著者名(日)

斎藤 弘行

雑誌名

井上円了センター年報

6

ページ

176-157

発行年

1997-07-20

URL

http://id.nii.ac.jp/1060/00002833/

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日本的リーダーシップ再考

斎藤弘行

saito hiroy〃ki はじめに  リーダーおよびリーダーシップについての説明において我々は主とし て英語圏の文献を頼りにしていたことはこれまでの陳述の通りである。 これに照らして我々(日本人)の行動様式(正しくは行為様式)がどうな るかを、プロスポーツ集団のなかで考えてみた。さらにリーダーはマネ ジャーとは異なる点についても言及したのであるが、こうした区分作用 も欧米の文献による知識をもとにしている。しかしよく考えてみると、 こうした概念枠組だけで果して日本的特色が発見できるのかどうか疑わ しい。枠組に合致しない思考および行動様式がすべて日本的と断定でき ないことは経験にも知られている。その背景にある日本的なものの特色 をよりよく把握していなければならないこと、その点がしっかりしてい ないことなども反省点としてあげられる。  だからといって今さら日本的なものの正確な把握を試みようとするつ もりはない。一体スポーツ集団のマネジメント(およびリーダーシップ 行使)が今日とくに欧米的なのか日本的なのか判定する基準など我々は 持っていない。もちろんこれまで数多くの日本論や日本人論などが存在 してそれぞれ有益な教示をしているのであるが、それがそのまま我々の 課題に通用しないように思われる(1)。それはとくにスポーツの領域に 限らず、日常生活でどの言動が日本的かそうでないのかをいちいち確定 できないのと似ている。  こうした事情のなかで我々はまたも懲りずにリーダーシップをめぐっ 日本的リーダーシップ再PJ 95(176)

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て、若干のコメントをしようとする。日本のべ一スボールの監督の著し た書物について、欧米的なリーダーシップ論のある部分を基準にしてど のように語られるかを試みるのがここでの役目である。それによって果 して日本的なものの特色が示されるのかどうか全く自信がない。 リーターシップ再考  リーダーあるいはリーダーシップについて語るにはマネジャーにも当 然触れることになる。それはマネジャーもリーダーシップを行使すると いう意味でのことである。その場合にリーダーシップという言葉がある ならば、マネジャーシップもあるのではないかと思われるが、少なくと もビジネス・マネジメント領域についてはマネジャーシップはほとんど 使われない。  もちろん専門的にはリーダーとマネジャーを区分することは当然であ る。全く組織化されない集団にもリーダーが存在することができるが、 マネジャーが存在するのは、組織化された構造があって、それが役割を つくりあげるときのことだけである。そして我々がリーダーシップにつ いて語るときには、いわゆるマネジャーシップにかかわる、やっかいな 資格づけ、適性のことに触れないでもよいということになる(2)。  リーダーシップを認めようとしない理論家もいるようであるが、それ はリーダーシップは社会的複合概念であり、神話であるとしている。こ れは組織にはヒエラルヒーやリーダーが欠くべからざるものだという信 念や考えを強化する働きをするものであるからである(3)。神話は個人 的並びに社会的生活の源泉もしくは中心的な力といった問題についての 伝説や信仰のことであるのはいうまでもないが、それはあらゆる文化の 中心的構成要素であり、証明できないが、生活の方向づけや意味づけの ためには真実だと思わせるようにもって行く力のあるものだと解される (a)。リーダーの存在を無批判的にかつ誰もが信じるようにさせる働き

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をするのは正に神話の作用そのものだというのがこうしたリーダーシッ プ解釈である。  もちろん我々はこうした理解を支持するのでなく、例えば極く単純に 歴史のなかでのある人の仕事の成功や失敗が、リーダーシップに原因の かなりの部分(?)があることを経験的に知っている。事業について、 またある抗議運動、スポーツなどにおいてリーダーシップが成功もしく は成功の原因となっているのは日常的に語られている。その重要さは認 められるとしても中味についてはうまく説明できないこともまた確かで ある。  どのように見ようとも企業、政府機関、軍隊などを含めてあらゆる制 度(組織)にはリーダーシップが必須であるのは変りはない。そこでマ ネジメントという立場から見て、リーダーシップが、目標の達成に向け て他人に影響するプロセスのことだということはわかる。権限とパワー も他人の行動の方向づけをするために用いられるけれどもそれが希望し た結果を得るためには適切でないような多くの事情が存在する。そうい う場合にリーダーシップは代替的方法となるのであって、これこそが人 の脅威となることなく、より多く受入れられるものである。この点でリ ーダーシップは権限もしくはパワー以上の何かであるが、その意味する ことは、フォロワーによる自発的服従である。こうしてリーダーシップ の本質は、マネジメントの指令に日常的に従うこと以上に、影響力を増 加することである。ある一定のヒエラルヒー上の位置にあるマネジャー はすべて公式的権限と管理影響力について同等ということになってい る。ところが現実にはそれは同じではない。マネジャーのなかには、別 のマネジャーよりも人間の理解に勝れているものもあり、また上司や部 下により受入れられ易い特性をもつものもいる。そこで本当のマネジャ ーとは人間との係りに当り自分の公式的役割以上のことを行う能力をも つものだと言える。このマネジャーがリーダーとして行動することがで 日本的リーダーシソプ再考 97(174)

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きる(5)。 マネジャー・リーター・ポリflクス  リーダーとマネジャーは同じでないとする見方が支配的である。我々 はこれについてしばしば語って来たがもう1度触れてみる。リーダーは どういうコンテクストに適するかを考えると、変りやすい、流動的で、 漠然とした状態にあり、そのまま放置しておくと人にたいして陰謀をた くらむようになり、人の息の根を止めてしまうように思われるほどの状 態である。そしてこういう状態は抽象的だが、かなり我々の周辺にある とみてよかろう。リーダーはこの中にあって、こうしたコンテクストを 克服するものだが、マネジャーはこのコンテクスに屈するのである㈹。 また場合によってはリーダーであることなしにすぐれたマネジャーであ ることもある。マネジャーはマネジメントの基本機能を果すけれど、本 当のリーダーはそのマネジャーの部下の1人であることも生じるのはよ くある。こうして名目的にある集団(もしくは部署)の長として、マネ ジャーの地位についているとその人が注目すべきリーダーになってしま うことがあるけれど、それは他の人たちがマネジャーのマネジメント機 能をうまく処理しているのに過ぎないのだとする見方も出てくる。リー ダーとマネジャーの特性の相違を示すと表のようになるが、それはあく まで科学的なものではない。

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マネジャーとリーダーの特性比較 マネジャーの特性 行政管理者 コピー 現状維持 システムと構造に焦点を合わせる コントロールに頼る 短期的見方 どのようにするか,いつかと質問 する 底辺のあたりに目を向ける 模倣する 現状を受入れる 古典的な良き兵士 正しく事を行う リーダーの特性 革新をする人 オリジナル 開発、発展 人間に焦点を合わせる 信頼を呼びおこす 長期的視点 どんなことか、何故なのかと質問する 水平線に目を向ける 考案する 現状に挑戦する 独自の自身 正しいことを行う Luthans, op. cit., p. 342.(なおこの表は、 W.G. Bennis,1989によるも のと示されている)  このようにしてリーダーシップは単なる監督責任あるいは公式的権限 を超える何かを含んでいる。それは監督者としての合法性に付随する通 常の影響力をはるかに超える影響力から成立する。このことを「増加的 影響力」と呼ぶことは前にも語られている。この力はそれぞれの集団の メンバーにあっては様々な程度を示す。ということは公式的権限がなく ても実質的に増加的影響力をもつ「部下」が出現する可能性があること を意味する。このようなリーダーは非公式的リーダーと呼ばれる。この ようなリーダーはその仲間を助けることができるという点で測り知れな い高い評価を得る。  通常は非公式的リーダーが存在するためにマネジャーが大きい援助を 得ることができるのだが、このリーダーの価値観と公式的リーダー(こ こではマネジャー)のそれとが一致しないことも生じる。非公式的リー 日本的リーダーシップ再考 99(172)

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ダーが同僚にたいして組織目的に反するような行動をとらせるようにし たり、マネジャーにたいして強い要請を行ったりすることもある。こう したことが繰返されると非公式的リーダーは政治的敵対者になってしま う(7)。  もちろんここは組織的政治学を語る場ではないが、政治的行為とは次 のようなことを含むと考えられる(8)。 (a)合法的で、認知されたパワーシステムの外部にある行動 (b)個人もしくはサブユニットの利益になるように設計された行動で、  これは組織一般の犠牲をともなう。 (c)パワーを獲得しそれを維持するための意図的で、そのための設計を  施した行動。  政治的行動のために、組織の公式的パワーが横道にそらされたり、妨 害されたりすることがよくある。すなわちパワーの入れ替えを生んでし まうことになる。政治的行動のうち、とくに政治的策略をどう見るかの 研究がある。これはエレクトロニクス産業におけるマネジャーにたいす るインタビューで認められたものである。  それによると、政治的行動の策略は、 (a)他人を攻撃するもしくは非難する (b)情報を行使する (c)イメージ形成、インプレッションマネジメント (d)支持の基盤をつくる (e)他人を褒める、気嫌をとる (f)パワーの提携、強力な合同 (9)影響力のある者との結びつき (h)恩義をつくる、ギブアンドテイクの関係をつくる  このようなリストは組織の上位にいる者、スタッフにあるもの、単な る下位のマネジャーについて幾分ウエイトづけが異なるが、一般的に、

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(a)∼(c)について政治的策略の内容として強調されている。そして現実に とる政治行動パターンは、公式的な手続を避けること(ルール回避)、命 令の処理を促進するかもしくは阻止するかするのに交友関係を用いる (個人的一政治的行為)、相手方を説得して自分流の言葉使いないしは視 点のなかで思考するように試みる(教育的行為)、自分と相手方の間の公 式的もしくは非公式的相互作用パターンを変化させること(組織的行為) である。  さらに政治的行為を効果的に用いた人間の個人特性をマネジャーに質 問した調査があるが、13の特性が重要であることがわかった。スコアの 高い順にあげると次のようになる。考えをはっきり述べる、敏感に反応 する、社会的交流に熟達する、適格な能力、大衆的、外向性、自信、攻 撃的、野心的、素直でない、組織人間、高度に知的、論理的(9)。  我々はこうしたデータが他の領域にもそのままあてはまるとは考えて いないが、政治的人間のある部面を知ることができる。マネジャーはど う見ようとも組織における経験のある部分は政治だということを知って いるのは事実である。純粋にルールに従った行為、論理を貫き通す行為 はありえないことなど、マネジャーは誰かに教えられることなしに身に つけて行くことは組織生活の現実なのである。  特に政治的行為には上手下手がある。政治行為を成功させる方法には (a)権限、権威に反抗すること(反乱ゲーム)、(b)権限に反抗することに対 する反撃措置をとること(反乱対抗ゲーム)、(c)パワーの基盤をつくり上 げること(スポンサーシップゲームと、提携形成ゲーム)、(d)競争相手を打 ち破ること(ライン対スタッフゲーム)、(e)組織変化を達成すること(密 告ゲーム)のことである叩)。  こうしたゲームがあると組織にとっていつも良いとか、悪いとかいう のではない。その発生頻度はいろいろあるが組織には必ずこうしたゲー ムが行われるということを示したに過ぎない。極端に行われるとすれば 日本的リーダーシンプ再考 101(170)

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組織に有害であるが、それをすべて除去しようとすることも非現実的で ある。どんな勝れた組織でもこうした政治的行為は行われているのだと いうことを知るべきであろう。  リーダーシップの研究がポリテイクスの領域に入りこんでしまった が、ここで我々は再びリーダーについての若干の説明をする。リーダー の研究がリーダー特性の研究から、リーダーの技能に移行して来たこと は大方の認めるところである。例えばここで次のようなリーダーの技能 をあげることができる(前に若干のべたことと重複するところもあるが) (11)o (a)文化的弾力性:仕事が国際的になれば文化的自覚と敏感性が必要で  ある。しかしそうした情況のなかでだけが文化性の課題ではない。国  内の組織においても、組織におけるあらゆる局面の多様性に上手に対  応するには、あらゆる価値を認識し、その良い点を認めてやる技能が  なくてはならない。 (b)コミュニケーション技能:いうまでもないことだが文書だけでな  く、口頭で、さらにはノンバーバルのコミュニケーション形式にすぐ  れていなくてはならない。特にノンバーバル形式においては文化的知  識を土台にする。 (c)人間資源開発の技能:これは学習的風土をつくり上げること、トレ  ーニングプログラムを設計すること、情報と経験を伝達すること、結  果を測定すること、組織変化をつくり出すことなどを含む。 (d)創造性の技能:自分自身を創造して行くだけでなく、創造性を促進  する風土を示し、人々が創造的になるように支援する能力を持たねば  ならない。 (e)学習の自己マネジメント:新しい知識と技能の継続的学習の必要性  が重んじられる。変化とカオスの時代ではリーダーは自分自身継続的  変化を受けねばならない。リーダーとはセルフ・ラーナーでなくては

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 ならない。  こうして単なるマネジャーの存在だけでなく、リーダーの存在も同時 に認めることが、マネジメント領域では必要となってくる。繰返しにな るが、この原則はあらゆる組織および集団情況のなかで欠くべからざる ものである。 フピスポーツの監督からの教訓  上記のようなマネジャーとリーダーの基礎的知識の復習をもとにし て、プロベースボールのマネジャーの、リーダー技能を考察してみる。 そのためにはいわゆる監督の著した文献の中にどのようなリーダーシッ プの陳述があるか、それがこれまでのリーダーシップ解釈とどのように 合致するかまたは相違するかを観察しなければならない。 (1)監督の仕事について  ここで監督とは我々の言うところのマネジャーに当る。「監督とは勝 つことを要求される商売だ。監督の目的はそれ以外にない」と述べてい る(a28頁)。プロスポーツだから勝たなければ何の意味もない。わが 国には負ける美学というのがあるが、一般論としては勝つことがプロの 唯一の目的とするのは当然である。従って戦いに勝つこと以外に用務が あるとすればマネジャーの仕事負担がそれだけ多くなる。  企業においては差し当り利益をあげることである。利益をもたらさな いマネジャーは先ずもって失格とみなされる(利益はこの場合長期、短期 を含めて)。マネジャーはこの場合どのレベルにあるかを考えないで一 括してマネジャーとされていて、すべて利益目標を達成するものだとみ なされてしまっているが、それでは正確でない。また業績をあげたマネ ジャーがその人ひとりの活動によるものとみなされ、あるいは自分もそ う思いがちであるがそれも正しくない。しかしこうした表現がプラスか マイナスかで行動結果が出る社会ではよくされているのは誰もが知って 日本的リーダーンップ再考 103(168)

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いる。  日本の企業もスポーツ集団も「利益をあげる」「勝つ」ことに関して、 いわゆる現場マネジャーとトップマネジャーの業務、責任分担区分がは っきりしないことはよく指摘される。企業において、ある数の部下と資 金、その他の経営手段が与えられてそれに見合うだけの活動結果を出す ようにもって行くことは事業部などの組織編成を通してなされるけれ ど、べ一スボールの領域では、とくに監督と呼ばれる人の責任範囲がは っきりしないことが多い。レベルとしては課長クラスで、しかも一軍の 指揮をとるほどの重要な地位と責任を負わされているのが監督である。 それはフロント(マネジャー)と監督(マネジャー)とのマネジャー問の 職務分担が明確でないためである。またフロントがさらに上位のマネジ ャー(球団所有者などを含めて)によって統括されていて思ったより自由 な行動ができない仕組みになっている。つまり企業規模からすると小企 業くらいしかにならないところに、課長レベルの監督にあらゆる責任を 与え(権限については別)ているのがプロチームのおかしなところであ る。しかし監督がリーダー的役目を多くするように要請されているなら ば勝つ責任もゆるめられてよいのではないか。フォーマルの要請として の勝利(=利益)はフォーマル・マネジャーにあるのであってリーダー にはない筈である。  そうはいってもスポーツ集団では第一線にあって指揮をとるのは監督 であり、フォーマルの役割だけでは済まされない。「与えられた戦力の 範囲で勝利に付随するあらゆる課題を克服する」「与えられた戦力を使 って勝利を追求する」(a.30頁)というけれど、そのように割切って行 動できる監督がどれほどいるかわからない。しかしわが国の場合、与え られかたがいいかげんであっても、勝つように義務づけられている。ま た逆に与えられた範囲だけでやればよいことになれば、勝つ程度は場合 によってはかなり制約される。あるときには責任を果さなくても言い訳

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が可能となる。こうしてスポーツ集団においてはフロントと現場のマネ ジャーの区分があっても、マネジャーはマネジャーだけでいられないこ とがはっきりしてくる。  勝つことはあることへの拘わりから生まれる。それは別の表現をすれ ばマネジャーの本来の業務の中にないものから発生するものである。M 監督の事例においては期待されない監督として登場した。そこで監督と してあるのなら手抜きをしないでやることはきちんとやる、「自分自身 に対する挑戦」(a.53頁)をすることに努力する。より著名な、実績の あるマネジャーがいるけれどもそういう人がとれないので代りになった 監督という地位を挺子にして仕事をした結果が勝ち続けたのだという。 これは我々が意地、気骨、根性などと言い慣れている言葉で表現される ことである。要するに欧米流のマネジャーの流儀とは異なる。 (2) リーダーについて  これまでリーダーとマネジャーの区別を何度も語ったが、実際にどん な人、どんな仕事をする者がリーダーとしてスポーツ集団では考えられ ているかを見る。  先ず「指揮官たる監督は、何よりも己の精神安定をはかり、揺ぎない 自己を確立し、いつでも自信たっぷりの、重みをもった決定を下す必要 がある。大げさにいえば価値観、哲学、人格、すべてが問われるのであ る」(b.110頁)とN監督は語っている。こういう人物モデルはスポーツ だけでなくあらゆる場面に通用する。  ここで気づくことはリーダーとマネジャーの区別をしないことであり どちらでもよいことである。しかも価値観、人格の影響力が大きいこと も知られる。意思決定は決定者のパーソナリティが大いに関係がある。 自信の裏づけたる科学的判断基準は別にして、決定は人間がするものだ という原点に人は立つ。精神的不定的の人が決定を下したとしても信頼 されない。それで具体的な価値観として「一所懸命に燃焼する」ことが B本的リーダー・・プ癖105(166)

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示されている(b.111頁)。これは先のM監督のあきらめないでやるとい った勝利への意地と同じである。頑張ってやって苦しみの中に楽しみを 見出すといった境地である。欧米のマネジャーは価値観としてこういう 面は余り強調しないのが通例である。トップマネジャーならいざ知ら ず、現場の、第一線マネジャーはよりドライである。  M監督も「リーダーというのは、しっかりした信念を持っていなけれ ばならない。逆に言えば信念のないリーダーをリーダーと呼ぶことに は、無理がある」(a.48頁)と言う。ここでの信念は、組織論でいうと ころの、価値、信念、規範といったものの部類に入ることである。そし てその時組織文化のことに言及しているのと同じなのである。そこで価 値とは何が重要かを示すもの、信念とはものごとがどのように作用する か動くのかを示すもの、規範とはどのように人はある事柄をすべきなの かを示すものである。そして価値と信念が相互作用をして規範を生み出 すことになる。これが文化というものである㈹。従ってリーダーはこ の文化を負担する者にほかならない。  M監督が信念というのは一般に我々が専門の組織文献で知るのと変ら ない。つまり信念は上に述べた如く、人がどんなことが真であると思っ ているのか、真と思っていないのかということに関係する。例えば実績 に応じて報酬を増加すれば生産高が増す(従って練習を重ねれば勝利に近 づく)ということであるかもしれない。その場合実践上信念と価値の区 別をするのは難しい。我々の世界がどのように機能しているかというこ とについての信念はしばしば価値を含んでいる。つまりどんなことが行 われるべきか、行われるべきでないかということを含むという意味であ る㈹。スポーツ集団において信念を貫き通すのは難しいのは企業の場 と同じだとしても、信念は貫き通すことができるかどうかにより、その 信念が本物であったかどうか判断できるのだという見解は興味がある。 スポーツにおいてはやたらに知識に惑わされることなく自己の行動にっ

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いての意識が忘却の彼方にあるときはじめて信念があったということが できる。既にこうした類の陳述では哲学、心理学、意思決定論の総合に おいてリーダーの行動がなされていると見ることができる。  プロスポーツではとかく勝つことだけを続けていると非難されること が多い。ある戦法を採用すると(例えばバントの多用)それではゲーム をつまらなくするという批判である。しかしこれをやり通して勝つこと に結びつけるのが信念だとM監督は言う。ここでもちろん勝利に結びっ かないと信念は無惨に打ち砕かれる。信念を曲げてある成果を出したと してもそのことについて人は評価しない。故にそうならば信念を貫くの がよいというのがM監督の考えである。そして良い結果が出ないときに はそれはマネジャーの能力がなかったのだとする。信念というのはこれ ほど非科学的なものなのである。だから信念を持つのが良くないという のではなくて、意思決定を下すこと、他人の意見に迷わないためにはど うしても必要なのである。  これに対してプレイヤーが信念を持つかどうかは判断するに難しい。 とくに戦いの現場において信念に反する監督の命令にどのように行動す るかというときに、命令に従わないのが命令違反なのかそれとも自己の 信念に忠実であったのか。このことは特に倫理一道徳的情況でよく出て くるものであり、スポーツのプレイの場面とは異なる。としても一般に はプレイヤーは監督の命令にたいして忠実に従うのがルールとなってい る。プレイヤーはもはや戦闘の現場においては信念に反するかどうかを 思考する余地がないのが普通である。信念は多分マネジャーが持つもの であり、マネジャーが優れたリーダーとなる基本である。プレイヤーに おいてはマネジャーの手駒として余計な、信念もどきものは必要としな い。  マネジャーは信念なしにマネジメントできないことについてもN監督 が同じように語る。「上質のファンも、われわれと同じことを考えてい 日本的リーダーシ・プ再考 107(164)

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る。何が何でも勝つのだという精神の延長線上に意外性やハッスルプレ ーがあることを承知している」(B.104頁)ということのなかに勝ちへ向 けての信念を押し通すことが伺われる。N監督によると、夢を実現する ことは個人記録よりも先ず勝つということに執着することで信念を持つ ことと同じなのである。 (3)リーダーの進歩性  マネジャーは現状維持、ルール順守的と言われるが、それならば常に 同一路線、組織の規定のみを重視して行動をとるようになってしまう。 それは並のマネジャーのとる行動パターンであって、リーダーにはなれ ない。リーダーの進歩性を特色づけるのは自己の満足を捨てることであ る。「自分のした仕事を大きな仕事だと考えるようでは、とうてい大き な仕事などはできないということである」(a.66頁)。スポーツで常に勝 ち続け、企業活動で継続して利益をあげることの障害になるのはこの満 足感情である。  さらに進歩を促すものは「競争意識、ライバルを持つということ」ま た「模倣、すなわちマネである。いわゆるイメージもこの中に入る」さ らに「ヤル気の持続」であるという(b.68−70頁)。もちろんスポーツに おけるプレイは単なる勉強とは異なる。ここでスポーツと勉学の進歩性 を見ると、後者は蓄積の総量がものをいうことが多いが、前者では結果 が重視される。つまりいくら「練習しても進歩が可能なものはせいぜい 1か2」であるという(b.67頁)。  こう言われてみると勉学の世界では勉強家ということで結構通用する が、スポーツの場合では「練習家」はそれだけでは価値がない(ある評 価がなされるのはわが国の高校野球である)。要するにスポーツにおいては プロセスは何の価値もないということである。それ故に効果的な進歩の ために上記の3項目が必要となる。この3項目はリーダーだけに要求さ れるのではないのはもちろんである。

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 この場合模倣ということについて、我々の組織論において学習する組 織という概念があてはまるような気がする(14)。学習の意味は2つある。  その1つはシングル・ループ学習である。既にわかっている目標を達 成するための組織能力を向上させることである。この際に組織は基本的 前提を大きく変えることなしに学習する。  その2つはダブル・ループ学習である。これは組織目標の性質とそれ をとり囲む価値と信念を評価し直すことである。これは組織の文化を変 化させることである。これは組織がどのように学習するかを学習すると いう点で重要なのである。  さらに学習を適応的学習と生成的学習に区分する考えもある(15)。前 者は環境変化に適応する。学習の第一段階とでも呼ばれることである。 後者は創造と革新を含む。組織の経験とそこからの学習の全体的枠組の 再構築をすることである。  このようにして我々はリーダーの進歩性の1つの大きな要素は模倣= 学習ということに還元してみる。その際に学習組織における組織を人間 個人、もしくはリーダーに置きかえればよい。とすればマネジャーでな く、リーダーを最もよく特色づける創造的で、革新的であることを我々 は思い出す。模倣というのはここでは他の人の勝れた点を自己のイメー ジのなかにすっかりとり込んで自分のものにしてしまうことであり、自 分がこれまで過去に習んだことから抜け出ることである。従って模倣は 進歩をつくるのであり、完全に模倣したならばそれはそれで自己変革の 一つの具体的表現である。現実に誰もが模倣して最高のモデルのコピー ができるのが理想であるがそうとは限らない。もしそれが可能であれば 誰もが勝れたリーダーとして存在できることになるはずである。 (4)自己マスタリー・リーダー  学習する組織において5つの技法のうち「自己マスタリー」をあげる ㈹。「自己マスタリーとは、個人の視野をつねに明瞭にし、深めていく 日本的り一ダーシップ再考 109(162)

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ことを意味する。エネルギーを集中し、忍耐力を養い、現実を客観的に とらえる」のだという。これは高いレベルの結果をいつも出すようにあ ることを習熟することをも含めている。  このことはスポーツの現場でも同じである。進歩のないものは勝利を 手に入れられないことが指摘される。プロ集団においてはすべてある一 流のレベルの人材が集められているから、その中でさらに進歩しなけれ ばならないという困難な課題がある。「ありとあらゆることをやって、 自分で工夫をこらす。試すということでもある。試すことによって変わ る。進歩は変わっていく中にある。変わらなければ進歩とはいえない。 また試すには必然性がなければならない。つまり何故という疑問だ」 (b.73頁)ということのなかに自己マスタリーと学習の本質が見られる。 ここで重要なのは「疑問をもつこと」である。勝利のとき、何故勝てた のかということがある。敗北のときの理由づけは常に易しいが、勝利の ときのその発見は難しいとN監督は語る。その何故を発見できるのは他 人より多く感じる力がなくてはならないのだという。  このことは単に勝つだけでなく完全に勝つことに通じる。リーグ戦な らば総合的に評価して勝つのでなくてそれぞれの相手に勝ち越すことを 意味する。「勝つなら完全に勝つ。そういう高い目標が、心の緩みを防 ぐ」「高い目標を持ち続けることが、慢心をおこさせない唯一の方法だ と思う。」「これでいいと思ったとき、闘いは終る。そういう意味では、 闘いの相手は自分で生み出すものだ。つねに闘う対象を鮮明にして、そ れとの緊張関係を持続させる」(a.86頁)ことが自己マスタリーの極意 であり、本質である。また自己マスタリーはスランプ脱出にも関連す る。スランプになった人はどうするか、「自分はスランプになる価値が ある人間だったと喜びたまえ」(b.63頁)というのである。その言うと ころは未熟者が口にするスランプと超一流のスランプと意味が異なると いうことである。前者は仕事に対する熱意も研究心も足りない人のこと

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である」(b.・62頁)。自己マスタリーはこうして能力のレベルに応じて考 え方を異にするけれども、何はさておきあくまで、深い探究心を欠いて は実現できないことである。  自己マスタリーは実に、心の成長があうて可能なのである。それは創 造的な仕事を通してできることである。またそのような生きかたそれ自 体でもある。自己マスタリーは2つの基本的活動を現実にすることであ る。(a)「自分にとって何が大切かを常に明らかにしつづけること」、(b) 「どのようにすればいまの現実の姿がもっとはっきりと把握できるよう になるか、学習しつづけること」。つまり前者においては自分の活動の 位置の確認である。人は仕事の過程のなかで何か問題が生じるとそれを 克服しようとするけれど、問題は1つだけではない。あれこれやってい るうちに時間を消費し、その上に問題群のなかに置かれてしまいがちで ある。後者においては、人はとかく問題のないところに居るほうが心持 ちよいに決っているけれど、それは問題のないふりをしているのにほか ならないのである。自分の望む目標と結果の獲得の能力をつけることが 学習であり、そのことが自己マスタリーなのである。それは最終目標に 到達しないことを含んでいる。  リーダーはこうして厳しい自己マスタリーを続けることによりすぐれ たマネジャーになることができる。それは正に、クリエイティブ・テン ションを持続させることを意味する。テンションは一種の制約である が、それが克服されてはじめてクリエイティブになるのだということで ある。 終リに  マネジャーとリーダーは正しくは別のことであるが、それが同一にな るときに最高の効果を発揮することがわかる。このことはとくに英語圏 の文献のなかで明らかにされる。プロベースボールの世界においてこの 躰的リーダー・・プ再考111(160)

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原則があてはまるかどうか考えてみたのがこの小稿である。といっても プロスポーツからの資料は監督のあらわした書物に限られるから、そこ から得た文言に頼らざるをえない。しかもこうした資料は学問向きに書 かれたものではなく、あくまで自己の経験および見聞をもとにしてい る。そのことから我々の土台となる英語文献のエッセンスに何か共通点 はないかと探してみたわけである。かすかにかわかることは信念、創造 性、反省の継続、勝つための強い意志などといった点である。それは組 織論やマネジメント論においても近時、よくとりあげられる事柄であ り、この点から見ると特に日本人が精神のことばかり強調するというこ とでもないことがはっきりする。  なかんずく、信念といったことは組織文化のこととして、創造性は真 のリーダーのこととして、反省の継続は学習する組織のこととして、最 後に勝つための意志はデシジョンメーキングおよびモチベイション理論 のこととして、オーガニゼーション・セオリーの中で語られている。こ うして見ると、わが国の監督の示す考え方が立派な組織論となっている ことがはっきりする。  残念なことにこれに対応するアメリカの監督のあらわす最近の資料を 使用しなかった(入手できなかった?)ことである。それをもとにして もっときちんとした日米比較ができたものと思われる。また我々の最初 の計画としての監督の作戦については、とくに日米の差が大きくあると いうわけではなく、野球にたいするマネジャーのリーダーとしての考え によってプレイの様式が若干異なるということで、もっぱらリーダーシ ップのことについて語ってしまったことも作戦変更としてあげておかな くてはならない。  最後にこうした若干の考慮から我々が日本的なものとして評価ないし は批判してきたべ一スボールの実際のプレイは、リーダーシップの視点 からするとさほどの日本的特色があるとは思えないことがわかったとい

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える。 【注】 (1)例えば、浜口恵俊、「日本型モデルの構造特性:「関係体」の原基性を    めぐって」、浜口恵俊編著『日本型モデルとは何か』新曜社、1993年。   例えば間人と個人のモデルの説明がなされているが、日本においては前   者のモデルがあてはまる。これを通し日本における人間関係が説明され    る。一時間なギブアンドテイクの関係でなくて、縁による時間的、空間   的なひろがりのネットワークが形成されるとしている。24−25頁。 (2)Weihrich, H./Koontz, H., Management, International Edition,   McGraw・Hill,1994, p.490. (3)Gemmill, G./Oakley, J., Leadership:An Alienating Social Myth ?   in:Human Relations, Vol.45, No.2,1992, p.113. (4)Hillmann, K−H., W6rterbuch der Soziologie, Stuttgart, Kr6ner,   1994,S.587−588. (5) Bedeian, A.G., Management, New York, et al., The Dryden Press,   1993,p.470.なおここで次のものも指示される。 Katz, D./Kahn, R.L,   The Social Psychology of Organizations, New York, Wiley,1978, pp.   526−528. (6)Luthans, F., Organizational Behavior, New York, McGraw・Hill,   1995,p.342. (7) Vecchio, R.P., Organizational Behavior, New York, et al., The   Dryden Press,1995, pp.332−333, (8)Ivancevich, J.M./Matteson, M.T., Organizational Behavior and   Management, Plano, Texas, Business Publications,1987, pp.358−362. (9)Allen, R.W. et al., Organizational Politics:Tactics and Character−   istics o社ts Actors, in:California Management Review, December   1979,p.78. (10)Minzberg, H., Power in and around Organizations, Englewood   Cliffs, NJ., Prentice−Hall,1983, pp.171−271. (11) Luthans, op. cit., pp.387−389. (12)Ivancevich/Matteson, op. cit., pp.29−30.「あらゆる組織は文化を持   つ、そして文化は効果的に業績をあげるにあたり、プラスもしくはマイ   ナスの力となることができる」と。 (13) Brown, A., Organizational Culture, London, Pitman,1995, p.21. し 日本的リーダーシップ再考 113(158)

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  かし価値の説明は概して社会科学的に扱われるが、信念の説明はむしろ   別の領域の事柄らしいと思われる。もちろん信念は態度と同一視できる   し、政治分野などでは用いられるであろう。興味あることに、Glaube   は例えば次の事典には存在しない。Fuchs−Heinritz, W. et aL(Hrsg.),   Lexikon zur Soziologie, Opladen,1994;Holtmann, Politik−Lexikon,   Mtinchen, Oldenbourg,1994.もちろん哲学事典にはある。例えば   Prechtl, P./Burkard, F−P., Metzler Philosophie Lexikon, Stuttgart,   Metzler,1996, S.195−196、確実な知識なしに推量もしくは仮定する意   味とすれば、意見と同じとみなされると。 (14)例えばLuthans, op. cit., pp. 41−45. (15)Senge, P.M., The Fifth Discipline:The Art and Practice of the   Learning Organization, New York,1991.我々の参照できるのは次の   ものである。ピーター・M・センゲ『最強組織の法則』(守部訳)、徳間   書店、1995年、14頁「ラーニング・オーガニゼーションをイノベーショ   ンに変え」とある。 (16) センゲ、上掲書、15頁。 なお監督のあらわしたものとして次のものから引用した。 森祀i晶『勝ち続けるために何をなすべきか』講談社、1995年(本文でaと表   示) 野村克也『勝者の資格』ニッポン放送、1995年(本文でbと表示) 永谷脩『仰木監督の人を生かす技と心』二見書房、発行年なし 森舐晶『覇道』べ一スボールマガジン社、平成8年 ボビー・バレンタイン『1000本ノックを超えて』永岡書店、1996年

参照

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