私の日本甲殻類学会入会め
動機
本 尾 洋
Carcinological Socie砂ofJapan
り , 12 頁には日本語で,そして 16 頁には英語で, 日本海の深海性ベニズワイガニのことが説明されて いました 1966年 l 月 21 日のことです さて , ここまでなら,読者には私が甲殻類学会に 入会する動機は見当たらないと思います. 酒井先生 (日本海甲殻類研究会) は上記のご返書で 日本甲殻類学会の存在を教えて 私が金沢大学の学生( 理学部生物学科) だった昭 和 4 1 (1966) 年の正月明け頃に,金沢市の中 心 部 にある近江町市場で見慣れない蟹を見かけました 未だ茄ででなくて生のままなのに鮮やかな紅色のそ の蟹は,食品市場に出されているのだからもちろん 食用です 大きい蟹ながら今まで自分は見たことが なかったので,市場の売り人にその名前を尋ねると 「赤がにj と 答 え る だ け で , ど う も 要 領 を 得 ま せ ん. そこでやむなくその内の l 匹を買い求め,歩い て10 分足らずのところにある大学に持ち込んだわ けです 早速,動物分類学教室の堀 克重先生( ご専門は 蝿の分類) に,今しがた市場で買 ってきた蟹を示し て名前をお聞きし ました ところが堀先生からは 「自分も初めて見る蟹で学名はもとより和名も知ら ない
J
とのご返事で,堀先生は即座に,I
自分に は分らないが,蟹に詳しい先生を知ってるから紹介 しょうJ
とおっしゃったのです. そして翌日横浜 国立大学の酒井恒先生に紹介状を書いて下さり, 後日その紹介状を添えて,上述の蟹のカラー写真を 酒井先生にお送りした次第です. 何日かして酒井先生から「それはベニズワイガニ である」との御返事をいただき,初めてその蟹の名 前を知りました そして酒井先生は親切にも,今は 懐かしい赤い表紙の「甲殻類の研究j 誌の第 l 号 を,その表に「呈 本尾君j と記して同封して下さっ たのです. 早速開いて見ると口絵の第 1ページに, ご存知の方も多いと思いますが,イサベラ・ゴルド ン博士も写っている「日本甲殻類学会発会式 (1961 年4 月 7 日) ,於小田原甲殻類博物館」の記念写真が 掲載されており,続 く第2ページには真っ赤な見事 な 雄 の ベ ニ ズ ワ イ ガ ニ Chionoecetes japonicus Rathbunの精彩色図が載っていました. そしてその ページの下には Isee Pg.12and 16J と酒井先生直筆 のメモが記されていたのです 先生のご教示のとお くださり,I
エピ ・カニに関心があれば学生でも入 会可能」と付記されていたのです. 学生の身には決 して安くはなかったはずの当時の入会金ですが,後 日早速入会申し込みをし,晴れて学会員となったの です 余談になりますが,その後,石川県で採集したカ ニ類の和名や学名を知りたくて,採集標本を持参し て鎌倉市浄明寺の酒井先生宅に幾度かお伺いしまし た. 初めて訪れた時は,厚かましくもお言葉に甘え て酒井先生のご自宅に泊めていただき,その当時と しては珍しい座式の洋式トイレに,田舎学生は大い に面食らった次第です日本甲殻類学会開設
50
周年を
迎えて
安原健允
(日本大学名誉教授) 平成 23 年 3 月 11 日,午後 2 時 11 分,この日, この時刻を忘れることはないであろう. 我が国の有 史以来の大地震,大津波,加えて福島第一原子力発 電所の大惨事. 東北地方の太平洋岸を中心とした未曾有の東日本 大震災は,今2 ヶ月に成ろうとしているのに,復旧 が進んで、いない地域の現状が毎日報道されている 行方不明の方が2万数千人と言われ,海岸や沿岸地 域を襲った大津波は,漁船ばかりでなく,貨物船お も陸地にまで運んだ. 沿岸漁業の漁船は8 割が破壊 したり沈没して使用不能になっ たという. 海岸にあ る,各県の栽培漁業センタ ーや水族館な ども大きな 被害を受けた. 毎日入ってき た学会からのメール は,被害の様子が生々しく, 送信者の姿が目に浮か ぶ このような年に,我が日本甲殻類学会は開設 50 12750周年記念に寄せて 周年を迎える. 本来なら, 50 周年を祝す,とすべ きであろうが,本文では使わないことにする ともあれ,開設 50 周年という節目の年,この 50 年は我が国の歴 史にとっても波乱の歳月であった 高度経済成長というバブルの時代には,公害という 言葉を生んだが,求人難が始 ま り,南米諸国からの 労働者が歓迎された 多くの企業が中国を中心に生 産拠点を移した. その後,現在は,就職難,有効求 人倍率は 0.6 と言う 戦前戦中は食料として,園内だけでなく東南アジ ア各国の資源生物,有害生物などの研究がなされ, 多くの業績,研究成果が蓄積された. 中央の研究機 関や国立大学では戦後も食糧難の時代には,資源、生 物研究の目的は継続された 時の流れは,研究者の流れも大きく変えた. 国立 大学( 帝国大学) の臨海実験所の役割は縮小 され, それぞれの臨海実験所が付属施設としていた水族館 は, 現在京都大学白浜水族館 l 館だけになった 自 然史学や 自然地理学,分類学を目指す若い研究者が 減少したことは誠に残念で、はあった し か し 近 年,各地に大形の博物館や水族館が建設され,学芸 員という資格が制度として生まれ,若手の研究者が これらの施設で研究活動が行える ようになった . 日本甲殻類学会は,英国のゴルドン博士を迎え, 小田原利光先生,酒井 恒先生, 三宅貞祥先生,久 保伊
i
幸男先生,椎野季雄先生,岡田 要先生,福井 玉夫先生,横尾 猷先生,岩佐正夫先生,蒲生重男 先 生 , 林 宏 先 生 , 佐 野 実 先 生 等 15 名の先生方 が中心となって ,昭和 36 年 4 月 7 日, 小田 原 甲殻 類博物館で発会式が行われた. 学会の別の名は,エ ビとカニの会である( 学会のH P '学会の歴史より 抜粋) • 私が入会した当時の入会申込書には「エピとカニ の会」入会申込書と書かれていた その趣旨は,海 や川に棲むエビやカニに興味のある多くの人たちの 参加を期待するもので,各地の甲殻類愛好者から は,珍しい甲殻類の標本や情報が寄せられた. 多く の方々は,専 門の先生に協力して地域のエピやカニ の生物地理学, 自然史学を育てた 現在,大学だけでなく多くの博物館や水族館の職 員, 小・ 中 - 高校の先生を始め学生,生徒諸君が, 自然を改めて見直し野山, 川や湖沼,海岸や海の 128I
Ca
n僧r20(2011) 生物を学習して,自然の姿を環境という視点から見 つめようという時代になっている. N P O という民 間団体が増えて,地域の自然や生物,環境を守ろう という機運が強まり活動して いることは,我が学会 のスタートを幼併とさ せてくれる 自然を考え , 自然と遊ぶ,そして,自然を理解 し , 自然、と共に歩む. この中に見いだせる物 = 甲殻 類は,一つの地球に我々と共に住んでいる 仲 間とし て見つめる対象なのである. 生命は海から出発した 海には無限の幸があり, 宝が潜んでいる 無数の生き物がいる. エピやカニ は無限の研究対象である まだ記録されていない種 類も無数であろう 解らないことの多い甲殻類に は,夢があり希望がある 一つ一つ解明して形のあ る物にすることが研究であると思う. 私が本学会に入会したのは昭和 四 年 (1984 年) , 横浜市の神奈川県青少年センターで開かれた第 22 回研究発表大会の前年であったと記憶している . 小 田原甲殻類博物館を 訪ね, 小 田原利光先生にお願い して会員となった 第 22 回大会は,初代会長の酒 井恒先生のご挨拶を拝聴 した最後の年ではなかっ たかと思う 歴代の会長先生,先輩諸氏のご尽力に よって,現在日本甲殻類学会は若手研究者が第一線 で 活 躍 す る 時 代 に な っ た 発 会 か ら 50 年を経て, 次の 10 年, 20 年, 30 年,そして, 50 年を 見守りたい と思う 益々発展を続ける日本甲殻類学会が,国際的な研 究成果を発表する場であることは勿論であるが,我 が国固有の生物,甲殻類の保全,保護,育成に,ま た,I
エピとカニの会J
と言 う学会の原点も忘れる こ となく,各地に潜在している甲殻類愛好者と共 に,地域の自然を語り継ぐ場が続くことを 祈念す るー 最後に,物故された歴代の会長, 小田原先生,諸 先輩に感謝し,ご冥福をお祈 りすると共に,今回の 東日本大震災で亡 くなられた方々に,お悔やみとご 冥福をお祈 り致し ます. ま た, 被害に遭われた多く の方々には,活力 を取り戻し, 以前の生活に戻られ る日が近いことを 期待し,お 見舞いを申しあげま す日本甲殻類学会の楽しい
思い出
大石正道
( 北里大学理学部物理学科 生体分子動力学講座) 日本甲殻類学会は創立されてから今年で 50 周年 を迎える 私にとって日本甲殻類学会は最初に入会 した学会であるとともに. 1961年生まれの自分と 同い年の学会であり,これまでに楽しい思い出がた くさんある, 以前,小田原利光先生の奥様から.i
どうしてカ ニに興味を持ったのかJ
と聞かれたことがある 奥 様はきっと,小田原先生がカニに熱中し ていたのを とても不思議に恩われていたから,私にも尋ねられ たのだと思う. 自分が甲殻類に初めて興味を持った のは,幼稚園時代に三浦半島の金沢八景でヤマトオ サガニを採取したことだ、ったろうと記憶している 他の多くの子どもたちと同様,最初はカブトムシや クワガタムシなどの甲虫に興味をもったが,カニの 形の多様性に心を奪われたのだと思う 小学校時代 に都内の図書館で酒井恒先生の「相模湾産蟹類J
と出会い,カラー図版で描かれたカニの形や色に魅 了された さらに,北隆館の新日本動物図鑑( 中) では酒井 恒先生がお描きになったカニの細密画に 心を奪われた. 当時はコピー機がなか った時代で あったから ,カ ニの図の上 にトレース紙を載せて, 緑色のボールペンで一枚ずつ描いた. おかげでこの 図鑑のカニのペ ージ、は手垢で、真っ黒になり,他の人 に迷惑をかけたのではないかと反省している. 1980年に筑波大学生物学類に入学したが,学類 長で下回臨海実験センター長でもあった江原有信先 生に「自分はカニが大好きだJ
という話をしたこと から,江原先生の先輩でもある酒井 恒先生とお会 いできることになった 1980年11 月29日に ,江 原先生と二人で酒井先生の鎌倉のお宅を訪ねた. 酒 図 1. 第19回大会にて (1981年) 左上写真,酒井 恒先生,右上写真,右からIJ}買に酒井勝司先生, 三宅貞祥先 生,筆者,左下写真,右から順に飯塚栄一氏, 池田 等氏,筆者. 129図2. 筆者の自宅の展示室左上,主に米国で購入 ・採集した貝殻標本,右上,右から北里大4年,高橋陽子さ ん,小林祐佳さん,左下,甲殻類標本室 井先生は当時7 7歳であったが,オダワラフサイバ ラガニのような珍しい種類を次々と記載されてい て,研究の話をされるときは満面の笑顔だった. 酒 井先生の紹介で小田原利光先生を紹介していただ き,学部学生でありながら日本甲殻類学会の会員に していただいた 1981 年の第19回大会に初めて参 加させて頂き,そこで, 三宅貞祥先生,酒井勝司先 生,葉山の池田等さん,沼津の飯塚栄ーさんな ど,多くの方々にお会いできた( 図 l 参照) 酒井先生を訪ねた際に,
I
自分は将来,甲殻類の 分類に関する研究をしたい」という話をしたとこ ろ,古い文献を入手するのが今後ますます困難にな130
I
cat
糊 却 仰11)
るからと,私に分類学者になることは勧めなかっ た そのこともあって,私は分類学ではなく,筋肉 蛋白質の発生生化学の研究室( 平林民雄教授) に入 か甲殻類研究とは全く別の道に進んだ しかし 自分のカニ好きはその後も変わらず, 日本甲殻類学 会に参加することを毎年楽しみにしてきた 1989年,筑波大・院で博士課程修了直後,米国 サウスカ ロライナ大学へポスドクで出かけたことが 甲殻類を新たな視点から見直すひとつのきっかけと なった サウスカロライナ州は米国の東海岸( 大西 洋岸) に位置し日本から直接行くと時差ぼけがひ どいというので,最初はサンフランシスコに降り立った. そこで偶然,市庁舎前の広場で行われた朝 市で,ダンジネスクラブ ( Dungeness crab: Cancer magister) の他に,ロッククラブ (Rock crab: Cancer antennarius) や レ ッ ド ク ラ ブ (Red crab: Cancer productus) を見つけた. 後に,その写真を学会員の 方々に送ったところ,これらのカニの標本を日本へ 送って欲しいと頼まれた残念ながら,サンフラン シスコは通過しただけであったため,カニの標本の 実物をお送りすることはできなかった. このときの 話は, C A N C E Rに報告することができた( 大石, 1992) . サウスカロライナ大学では,電子顕微鏡センター 長の渡部哲光教授のもとで,サンゴの石灰化に関す る生化学的研究を始めたが,それとは別に米国の甲 殻類標本を入手することを心がけた し か し 米 国 大西洋岸は漁業が日本ほど盛んで、はないので,甲殻 類を入手するのは極めて困難だ、った そこで¥ サウ スカロライナ州政府野生生物局チヤールストン研究 所の甲殻類研究者エリザベス ・ウェンナ一博士 ( Dr. E lizabeth Wenner) に手紙を送 ったところ,同 研究所の調査船が大西洋沖で採集したカニの標本を 頂くことができた. このとき頂いた標本はすぐに写 真 を 撮 り , 後 に C A N C E R に 報 告 し た (大石, 1992) . 米国大西洋岸は,北はニューヨークから南 はフロリダまで延々と砂浜が続き,海岸線がきわめ て単調である また,大西洋は地球の長い歴史から 見ると歴史が浅いため,甲殻類の種類がきわめて少 ない. 日本産のカニ類が約 1,000種類もいるのに対 し , W illiams (1984)によると米国大西洋岸には 174 穫しか生息していないという. したがって ,カニ類 の進化を考える上では,日本列島の太平洋岸と米国 の大西洋岸を比較するときっと面白いと思う. 筆者は,二次元電気泳動法を中心に,さまざまな 生物のタンパク質を網羅的に解析する「プロテオミ クス」という研究分野の専門家になったが,この技 術を甲殻類研究に生かすことができないかと考え, 「甲殻類研究への 2 次元電気泳動法の応用
J
という タイトルでC A N C E Rに執筆させて頂いた (大石, 1995). 1991 .年に北里大学に助手として赴任した 後,同じく北里大学の上野正樹先生にはたいへんお 世話になり,アメリカザリガニ筋肉の研究に取り組 ませて頂いた. その一方で,米国でサンゴに関する5ctJ
寄年記念に寄せて 生化学的研究を行ってきた経験から,甲殻類の甲殻 に含まれるタンパク質を解析したところ,タンパク 質成分が想像以上に複雑であることが分かり, 2006 年の函館大会のときに発表させて頂いた 最近では,プロテオミクスや電気泳動関係の学会 が日本甲殻類学会の日程と重なってしまい,大会に なかなか参加できないのが残念であるが,今後もで きるだけ日程を調整して参加させて頂きたいと思 う最後になりますが,町田市の自宅に貝殻と甲殻 類の標本の展示スペースを作ったので,興味のある 方はぜひお越し下さい( 図 2) . 圃 文 献 大石正道, 1992. サンフランシスコのカニ。 Cancer,2 35-37. 大石正道, 1992 アメリカ大西洋岸のカニ類. Cancer, 2: 27-33. 大石正道, 1995 甲殻類研究への2次元電気泳動法の 応用 Cancer,4: 19-25W illiams, A. B., 1984. Shrimps, lobsters, and crabs of the Atlantic coast of the eastern United States, Maine to Florida. S mithsonian Institution Press, Washington,
D. C., 550 pp.
小田原利光先生の思い出
一 寸 木 肇
( 大井町立上大井小学校) 日本甲殻類学会の創設に酒井 恒先生とともに大 きくかかわられたのが,小田原利光先生であること は周知のことだ今回は小田原先生の思い出を少し 語 ってみようと思う 私が大学l年生の時,父親が甲殻類研究者だ、った 先輩に連れられて,東京都麻布にあった小田原甲殻 類博物館に伺った 当時,医師でありながら甲殻類 の研究者として意欲的に活動し自宅を博物館にさ れていた先生は,気さくに接してくださった. 先生は,大学時代に甲殻類研究者の中津毅一教授 に出会 ったこと,中津先生の紹介で酒井 恒先生や 久保伊津男先生らにご指導を受けたこと,自分が元 日銀総裁の渋沢敬三氏の主治医であることから研究 伽ncer20
(2011)
I
131
50
周年記念に寄せて の継続や学会発足を励まされたこと,そして 196 1 年に小田原甲殻類博物館を開館し , 日本甲殻類学会 創設にかかわったことなど, 自分が甲殻類の研究や 収集を続けている様子を興味深く話してくださっ た. 更に自分のコレクションを見せてくださり,研 究の面白さを語られ,別れ際にいつか一緒にフィー ルドに出かけようと誘ってくださった. 当時,貝類 を収集していた私は, この 日の訪問に触発され,別 の先輩らと 出かけた紀州への採集旅行がきっかけ で,学会に加入することとなった. その後, 小 田原先生に誘われ三河湾や駿河湾の底 ヲ│き網漁に同行する機会を得た 夜明け前に出漁す る漁船に乗り組み,船上でボタンエピなどとともに 水揚げされるエピ ・カニ類などの底生生物を採集す ることができた. 当時,図鑑でしか知らなかった生 物を実際に観察できたことは,本当に貴重な経験 だ、った 1969年 に は , 酒 井 恒 博 士 の コ レクションが旧 神奈川県立博物館に寄贈されたのを記念して,同館 で「日本のカニ ・世界のカニ」展が開催された. 1971 年夏には,学会として東京の東武百貨庖で 「かにの世界展」を開催した. その後,千葉のそご う百貨庖でも夏休み中「カニの生活」展を開催し 世間へ甲殻類について啓発を図ることができた ど この展示も盛況だったが,小田原先生は私たち学生 に相談員として勉強の機会を与えてくださった. 私 はまだまだ分からないことばかりだ、ったが,入場者 に質問されることで,自分が勉 強することができ た. 先生はいつも人を信じ,相手のためになること を実践された. 小田原先生には, 何度か食事に連れていっていた だいた. 先生は食べ物が運ばれてくると,決まって 「どのように食べたらよいですか.J
と,お庖の方に お聞きになった 私ははじめのうち ,なんでそのよ うなことを聞くのだろうと,いぶかしく思ってい た. しかしそのうちに,出された料理を一番おいし く食べるのにどうしたらよいか聞いているのだと分 かった. もちろん,それに対する庖の対応はまちま ちで,親切に対応してくださるお庖の食事は,やは りおいしかった. 謙虚に相手に教えを乞うという態 度 を 小田原先生は学問だけでなく日常でも実践し ておられた132
I
car
糊r20(2011)
当時,学会の会場は東京が多く, 小 田原先生のご 自宅に近い麻布のお寺で開かれたこともあった. 学 会では学生だろうがアマチュアであろうが,分け隔 でなく話し合いが行われ,誰もが研究することの楽 しさを誇っていた. その ような学会の運営を支えて くださったのが小田原先生であり,学会への資金援 助 も惜し まれなかった 今はすでに小田原甲殻類博 物館はないが, 2009年に東京で国際学会が開催さ れるなど,現在, 日本甲殻類学会が多くの学会員で 構成され,ますます甲殻類研究が多岐にわたって盛 んになっている. その原点には,小田原先生の存在 があることを,いつも私たちは忘れてはならないだ ろう . 文 献 小田原利光, 1973 蟹の博物館緑書房,東京, 115 pp. 小田原利光, 1991 日本甲殻類学会創立30周年記念 に際しての想い出. Cancer, 1: 29-32. 神奈川県立生命の星 ・地球博物館, 1998 酒 井 恒 博 士寄贈カニ類標本目録. 神奈川県立博物館資料目 録( 自然科学) 第 11号, pp.3-4日本甲殻類学会五十周年を
お祝いして
渡 部 冗
(理化学研究所生命情報基盤研究部門) 今年,日本甲殻類学会は五十周年を迎えるとのこ とで¥ 大変喜ばしいことと感じる. 思えば私がこの 学会に参加するようになっておよそ四半世紀になる が,その聞に感じたことをふまえ,甲殻類研究と学 会の将来について思うことを述べてみたい. この学会の特質は,元来アマチュアコレクタ ー と 職業研究者の交流の場として形成され,多分に新種 記載を通じたコミュニティ ー形成と,知的財産とし ての著作物のあり方をよく認識したところが挙げら れると思う 新種記載の場合には地元のコレクター が苦心 して採集した標本に研究者が学術的な観点か ら付加価値を付 け,生物標本を蒐集する行為に 関 して正当化と統制を与える役割を果たしていたのであ ろう. そして,コレクターは自らの住まう地方の生 物を取りまとめた目録や図録の作成乞研究者は学 術論文や図鑑を構成することで社会との接点を有し ていたものと見られる. また,昭和天皇の相模湾で の海洋生物学の影響のもと,小田原利光先生が指揮 されたスポンサーシップがあって,コミュニティー 形成が維持されてきたと思われる ところが,昭和の時代の終わりとともに,学会設 立に尽力された方々がこの世を去られて以後,この ようなコミュニテ ィー形成の形が大きく変質し 世 情とあった大量消費,甲殻類の物質的側面にのみ拘 泥したあり方が主流を占めるようになった. 我が国 の漁業の現状では伝統的に「みなし物権」としての 漁業権を核とした対処法がある現象だが,これまで 著作物が担ってきた物的資産の価値に関する減耗防 止策が取り外されてしまった結果であろう. ちょう ど漁業権と法学的に類似した著作権が「みなし物 権