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シンガポール共和国の建国について

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シンガポール共和国の建国について

人民行動党政府とイギリス帝国 1963–1966 鈴 木 陽 一

The Founding of the Republic of Singapore

The People’s Action Party Government and the British Empire, 1963–1966 S

UZUKI

, Yoichi

The objective of this study is to re-examine the reasons Singapore pursued its independence from Malaysia and followed its own path. On September 16, 1963, Malaysia was formed by the independent Federation of Malaya, along with Sarawak and North Borneo, which were ruled by the British. Singapore, which was a British protectorate, also voluntarily joined this group. However, the State of Singapore had an ethnic Chinese majority and was not able to come to terms with the Malay-led federal government for various reasons; this caused serious interethnic riots between Malay and non-Malay groups.

This study concludes with the following findings: (1) The Singapore government arrived at the decision to form an independent state. The main reason that the People’s Action Party was forced to comply with this was because the British Empire, the rear-guard of the party, refrained from giving support to the party in the federal politics during the following critical phases. In the early 1960s, the People’s Action Party tried and failed in creating a multi-ethnic Malaysian federation in cooperation with the British Empire with the objective of participating in the federal government. Therefore, as the relationship between the federal government and the Singapore state government worsened, both sides tried to find a compromise and the State of Singapore attempted to reconcile by loosening its relationship with the federal government. The British government, nevertheless, strongly opposed this policy of compromise which appeared to imply the division and defeat of Malaysia, since, at that time, Indonesia had implemented a ‘confrontation policy’ in an attempt to destroy Malaysia. The People’s Action Party, caught in a dilemma, went on the offensive against the federal government to liberate itself from the oppressive rule and achieved it through the formation of the Republic of Singapore.

(2) Although the Republic remained open to reunification with Malaysia for some time, this never came to fruition. After Singapore gained its independence,

Keywords: Singapore, Malaysia, British Empire, Decolonisation, Lee Kuan Yew

キーワード : シンガポール,マレーシア,イギリス帝国,脱植民地化,リー・クアンユウ

* 本稿の執筆にあたっては,東京外国語大学の左右田直規准教授,広島市立大学の板谷大世准教授か ら貴重なコメントを頂いた。また,2名の査読者からは的確なご助言を頂いた。記して感謝いたします。

(2)

はじめに

冷戦後に繁栄を極めるようになったシンガ ポールであるが,その背景には苦々しいと も言い得る建国をめぐる歴史がある。シン ガポール共和国は予期せざる国unexpected nationとも評され,1965年のマレーシアか らの分離独立とその後の歩みは人々の想定を 大きく覆す事件であったのである。戦後,シ ンガポールはイギリスの直轄植民地として再 出発を果たしたが,小さな島が単独で独立を 果たすというシナリオは誰も予期するところ ではなかった。確かに,独立には,当時,世 界各地でナショナリズムの機運が高まってい たという背景もあった。ただ,マレー半島も シンガポールもその構成比率こそ違うものの ともにマレー人,華人などからなる複合社会 を形成し,両地域は歴史的・社会的な一体性 を醸成していた。それゆえ,シンガポールが 独立するとすれば半島との再合同を通しての 独立となろうことがほとんど自明の道理と 当時は考えられていた。実際,1963年,す でに独立を果たしていたマラヤ連邦がイギリ ス支配下にあったサラワク,北ボルネオと合 同して―これに伴い北ボルネオはサバと改 称―マレーシアを結成するにあたり,同じ くイギリス保護下にあったシンガポールもこ れに加わることで最初の独立を果たすことに

なった。確かに,マレーシア成立後,華人が 多数派を占めるシンガポール州はマレー系が 主導する連邦政府と折り合いがあわず,これ と対立を繰り返した。同州は2年足らずで マレーシアから分離独立することになった。

しかし,この分離はほとんどのシンガポール 人にとって極めて不本意なものであった。分 離の直後,リー・クアンユウLee Kuan Yew 首相が記者会見を開き,その経緯を涙ながら に語ったのは有名な話である。

その後,リーたち率いる人民行動党PAP:

People’s Action Party政府は,同国が置か れた苦境を克服して生き残るべく,強力な リーダーシップをもって人々を導くことに なった。同国は半島という後背地を失った が,外国資本を率先して迎え入れて世界に市 場を求め,徐々に産業を高度化させていく大 胆な経済政策を進めた。また,マレーシア参 加の経験から特定エスニック集団が支配的に なることの危険性を学んだとして,公の場で は,華語でもマレー語でもなく,共通言語と された英語の使用が推奨された。こうして,

英語を共通語とするシンガポール人のナショ ナル・アイデンティティが形成された。現在 の繁栄はこれらの政策の帰結である。予期せ ざる分離独立が予期せざる繁栄をもたらした ようにも見えるのである。

本稿の目的は,なぜシンガポールがマレー the Malaysian federal government established Muslim-oriented governments in Borneo, which ended any hopes for reunification. When Singapore was part of Malaysia, non-Muslims led the governments in the two Borneo states and were potential partners of the People’s Action Party government in Singapore. After the federal government intervened, these non-Muslims met with their downfall.

はじめに

第1章 マレーシア創設のエスノポリティクス 第2章  連邦・シンガポール州関係の展開1 

早々の対立から暴動発生へ

第3章  連邦・シンガポール州関係の展開2 

連邦関係希薄化の試みとその挫折 第4章 分離独立の後

おわりに 参考資料

(3)

シアから分離独立を果たし,自らの道を進む ことになったのか,共和国建国の理由を再検 証することにある。こうした問いを探求する ことは,同国が半島とは異なるナショナル・

アイデンティティを築き上げ,抜きん出た繁 栄を謳歌することになった背景を理解するこ とにも繋がろう。

共有されて来た言説とその難点

シンガポール独立の経緯については,これ まで,うえにもその片鱗を記したとおり,あ る支配的な言説がマレーシア・シンガポー ル両国の人々に共有されてきた。「分離独立 は,マレー系住民と非マレー系住民―主に 華人系住民―のあいだのエスニック集団 間の対立感情が高まるなか,連邦首相トゥ ンク・アブドゥル・ラーマンTunku Abdul

Rahmanが流血の惨事を避けるために行っ

た苦渋の決断であった」というのがその言説 である1)。人々が望んだマレーシアは成立し たものの,先住人であるマレー系住民が主導 する連邦政府と華人が多数派を形成するシン ガポールとの折り合いは悪く,エスニック 集団間の対立感情がすぐに頭をもたげ出し た。1964年,半島で行われた連邦議会下院 議員選挙以降,連邦政府与党・統一マレー 国民組織UMNO: United Malays National Organization内 の マ レ ー 急 進 派 が シ ン ガ ポール州政府与党・PAPの対マレー人政策 への批判を強め,これが契機となって,シン ガポールでは二度に渡って大きなエスニック

暴動が起きた2)。さらに,その翌年,PAPが 半島などを本拠とするほかの野党と強力な野 党連合を形成して連邦政府への全面対決姿勢 をとると,マレーシア政治は混乱の極みに達 した。連邦政府にとってはリー・クアンユウ を逮捕して与党の政権基盤を固めようとする ことも選択肢であり,そうした声も上がって いた。が,そうなればより大きなエスニック 衝突が起こることも予想された。それゆえ,

流血の事態を避けるため,ひどい苦痛を伴う ものであるけれども,そのことは分かりつつ,

トゥンクは分離の決断を下したのであった。

彼がこの決断を行ったのは,対立が絶頂を迎 えるなか,帯状疱疹を患って1月以上入院し たそのベッドのなかでのことであった。1970 年代に出版された回想録において,彼はその ときの様子を次のように記している。

(引用者注:病気の)苦しみがひどくなれ ばなるほど,私は彼(同:リー・クアンユ ウ)が憎らしくなり,自ら巻き起こした問 題とは言え,シンガポールが可哀そうに思 えてきました。心は乱れましたが,たどり 着く結論は一つでした。それはシンガポー ルを残りのマレーシアから切り離してしま うということでした。

その後,シンガポール切り離しの準備作業が 不測の事態を避けるため秘密裏に進められ た。最終局面において,連邦を緩やかにする などほかの方法はないか,リーはトゥンクに

1) ほかに平和への道がないゆえ,トゥンクが自らの決断でシンガポール分離を決断したことは分離当 日の彼の会見でもリーの会見でも強調された。The Straits Times, 10 August 1965. トゥンクが病床 において苦渋の決断を行った詳しい経緯については,その後,当時のストレイツ・タイムズ記者に よって広く伝えられた。The Straits Times, 15 August 1965. シンガポールがマレーシアから追放さ れたことについてはリー・クアンユウ死去時のリー・シェンロンLee Hsien Loong首相の弔辞で も強調されている。The Straits Times, 30 March 2015. なお,シンガポールの歴史教科書では,分離 の原因を①経済的理由(共同市場問題,財政負担問題)②政治的理由(異なった人種の扱いについ ての不合意,国をどう統治するかについての見解の相違,二度の選挙におけるPAPと連盟党の争 い,暴動,「マレーシア人のマレーシア」運動)などが高じて分離に至ったとしている(Ministry of Education 2007 : 195)。

2) 政党名の日本語訳はいろいろありうるが,混乱を避けるため,本稿では原則として鷲田の表記(鷲 田2008)に統一することにした。

(4)

迫ったものの,トゥンクはこれを拒絶した。

このように,分離はトゥンクの英断であった が,人々,とくに連邦から放り出されたシン ガポールの人々にとって極めて不本意なもの であった3

まことに印象的な話である。共存を求めて 努力したにもかかわらず,ままならず,流血 の惨事直前にまで追い詰められた。忸怩たる 思いのなか分離の決断が下され,追放された 人々は生き残りを賭けた国づくりを進めるこ とになった。ただ,冷静になって振り返る と,こうした言説には次のようないくつかの 重大な難点があることに気づかされることに なる。

まず,第一に,分離の主要な原因をエス ニック集団―とくにマレー人と華人―の あいだの対立に求めるのは全くの誤りではな いにしろ,そればかりを強調した言説は,現 実の政治過程から乖離した議論に陥りがちに なる,という難点を持つ。確かに,連邦政府 与党であるUMNOがPAPの対マレー人政 策を厳しく批判したことは二度に渡るシンガ ポール暴動の背景となったし,また,高まっ たマレー人と華人のあいだのエスニック対立 感情は連邦・州関係をさらに悪化させもし た。しかし,以上のことから「連邦を統治す るマレー人政党UMNOとシンガポール州 を統治する華人政党PAPとがエスニック問 題をめぐって互いに譲れない対立を繰り返し て結局は分離に至った」と対立を図式化する ならば,それは大きな誤りであると言わざる を得ないのである4)。まずもって,そのよう な議論では連邦政府がマレー人たちによって

壟断されていたことが前提となっているが,

これは正確さを欠いている。当時,連邦政 府はUMNOのほかマラヤ華人協会MCA:

Malayan Chinese Association,マラヤ・イ ンド人会議MIC: Malayan Indian Congress の三党から構成されるマラヤ連盟党Alliance Party(Malaya)によって運営されていたか らである。しかもそうしたなか,華人政党 MCAは連邦の経済財政政策を握り,連邦政 府・州政府間の関係を考えるうえでも決し て軽視できない存在であった。本論でも見 るように,両政府の対立も元はと言えばこ のMCAとPAPとの対立に端を発してのも のであった。また,さらに言えば,そのよう な議論はシンガポール州政府与党PAPが華 人政党であるかのような前提のうえに理解さ れがちになるが,そのような前提ともなる と,これはまったくの誤りと言わざるをえな い。確かにPAPは華人を中心に構成されて いたが,同党は結党当時から非種族主義的

non-communalであることを党是として掲

げており,華人政党ではなかったからである。

PAPは特定エスニック集団を偏重しないと いう方針の下,公的な場における英語の使用 を奨励し,また,積極的に進めていた都市の 再開発にあたっては特定エスニック集団が集 住しないよう心がけたりもしていた。それゆ え,PAPは彼らの言うマレー急進派Malay

Ultrasと対立したが,英語を解さない人々

が多数派を占める中華総商会とも相当に緊張 した関係にあった。本稿結論において詳説す るが,分離独立後のシンガポールではその傾 向がより顕著なものとなり,PAP政権はい

3) トゥンクは回想録で分離に至る政治過程を記している。本文はほぼこれに沿って構成した言説であ る(Abdul Rahman 1977: 118-124)。分離に至る政治過程については竹下秀邦の詳細な研究もある。

同様の物語を主にシンガポール側の視点から詳細に追ったもので,マレーシアが非種族主義を採ら なかったことに分離独立の原因を見ており,PAP側の主張にほぼ沿ったものとなっている(竹下 1995: 245-257)。

4) 最も優れたマレーシア史の教科書とされるアンダヤ夫妻の『マレーシア史』では,シンガポール分 離について次の趣旨の説明が施されている。PAPが主に華人たちからなる野党連合をつくったた め,対立はマレー人と非マレー人との対立の色彩を帯び,このため人種暴動の脅威が生まれた。そ のことは分離の決定的要因となった(Andaya and Andaya 2001: 288)。

(5)

わゆる華語派の抑え込みを続け,結局,同国 を英語の島につくりかえることで問題の解決 を見ている。マレー人と華人とのエスニック 対立が分離を促したのだとするならば,両政 府ともマレーシア設立を強く望んだマルチエ スニック政党によって統治されていたにもか かわらず,なぜ両政府が深刻な対立を起こし,

またその結果,なぜエスニック対立が激化し,

両政府ともこれを制御できぬまま国家分裂へ と突き進んだのか,そうした疑問に答え得る 必要がある。

また,第二に,こうした言説は分離の過程 におけるクアラルンプール側のイニシアティ ブを強調するあまり,その間のシンガポール 側の動きを軽視し過ぎている,という難点を 持つ。確かに,分離はトゥンクの類稀な指導 力に拠るところが大きかったと断言できる。

当時のマレーシア国内の混乱を連邦からシン ガポールを切り離すことで解決するなどとい う荒技は彼以外の人物をしてはなし難かった であろうし,また,分離がなければ混乱は収 拾がつかなくなっていた可能性は極めて高 く,そうとすれば,その功績は極めて大きかっ たとしか言いようがない。分離の決断がトゥ ンクの固い意志に拠るものであったことは,

分離の数日後のリーの記者会見でも強調され ている。そうした語りは分離が連邦政府の一 方的な決定であって,シンガポール政府の意 に反するものであったことを印象付けてき た5)。しかしながら,分離のイニシアティブ については,実に驚くべきことに,これまで かような言説とは異なる響きを持つ話がとき おり語られて来たのも事実であり,そうとす れば,これをそのまま受け入れることは問題 も多いと言えるのである。たとえば,秘密保 持を理由にシンガポールのマレーシアからの

分離を定めた協定(参考資料。以下,分離協 定と記す。)がシンガポール側で起草された ことは以前から知られたところであった6)。 分離協定は簡易明瞭に記された協定ではある がその適用には争いの余地があり,とくにシ ンガポールがこれによって保障されたと主張 するジョホール州からの水の供給は,今なお 両国のあいだの争いの火種になっていること は知られているとおりである。協定起草とい う重要な作業がシンガポール側に任されてい たことは,支配的な言説とは大きく異なり,

分離作業が両国の合意の下で進められ,シン ガポール側も大きな役割を担っていたことを 示唆している。

さらに,第三に,従来の言説は現在のよう な両国の分立のあり方を当然視し,分離協定 第5章,第6章の内容,あるいはその精神 を軽視している,という難点を持つと言える。

実のところ,マレーシアとシンガポールとの あいだで結ばれた分離協定は単純に後者の前 者からの分離を定めた協定と言うよりも,両 者がある種の国家連合を設立することを定め た協定として読まれるべき文書と言える。第 5章では防衛援助条約の締結が謳われ,両国 が防衛及び援助のために統合防衛委員会を設 立し,マレーシア軍が引き続きシンガポール に駐留することが明記されている。また第6 章では経済分野での協力が謳われ,その実現 のために統合委員会の設立も選択肢の一つと なることが明記されている。分離協定を素直 に読めば,国家安全保障を中心とした国家存 立の基盤を両国が共有しようとする精神が見 えてくる。実際,分離当時,両国分離の状態 は一時的なもので両者はいずれ何らかのか たちで再統合される,との見方を採る者は 決して少数派ではなかった(竹下1995: 289-

5) 本文でも記したように,分離直前の8月7日,リーはトゥンクと会談し,中央・州の関係を緩くし て連邦を維持するよう懇願したが拒否された,とされている。Press Conference of the Singapore Prime Minister, Mr Lee Kuan Yew, with Malay Journalists, 11 August 1965, lky 19650811a, National Archives of Singapore.

6) Asiaweek, 27 March 1992.

(6)

290)。結局,こうした国家連合の枠組みは何 らかの理由で実現されなかったわけである が,ただそうとすれば,分離の政治史を語る のに1965年の協定成立をもって両国の分立 が確定したとするのは極めて不十分な話であ ると言える。分離後,何ゆえ協定の精神が放 棄され,現在のようなかたちでの分立に至っ たのか,その説明に欠けているのである。

シンガポール共和国の独立過程に関する先行 研究

以上,共有されて来た言説の難点を並べて きたが,共和国の建国を考えるにあたってこ こで留意したいのは,ここ十数年余り,公文 書の公開,関係者の回顧録の出版などに伴っ て一次史料に基づく研究が進み,マレーシ ア・シンガポールの脱植民地化について旧来 の言説を覆す研究がすでに現れるようになっ ていることである7)。代表的な研究として は,アントニー・ストックウェルAnthony Stockwell,マシュー・ジョーンズMatthew

Jones, タ ン・ タ イ ヨ ンTan Tai Yongの マレーシア形成の研究などがあげられる

(Stockwell 1998, Jones 2002, Tan 2008)8)。 従来の研究がマレーシア脱植民地化を当然の ごとく現地ナショナリストが主導した現象と して描いてきたところ,これらの研究はその 背後にあった宗主国イギリスの帝国主義的動 機を強調することで新しい視座を提供するも のとなっている。1960年代初頭,イギリス はアメリカ合衆国とのパートナーシップを梃 子に地球規模の勢力であり続けることを望ん でいたが,そのためにはアメリカの望む東南 アジア関与の継続が必要であった。それゆえ,

イギリスは現地ナショナリストと協力しなが ら植民地の脱植民地化を進めてこれをいわば ジュニア・パートナー国家につくりかえるこ と―帝国史研究の言葉を用いれば帝国を非 公式化すること―で地球規模の勢力として の地位を維持しようとした。すでに1957年,

マラヤ連邦はイギリス帝国を後ろ盾とした反 共国家として独立を果たしていたが,マレー 7) 史料公開全般の状況について言えば,旧宗主国であるイギリスの公文書が30年ルールに則って 次々に公開されて来たのに対し,マレーシア,シンガポールの公文書の公開はほとんど進んでい ないことを指摘できる。このため,最近の脱植民地化研究は主に旧宗主国であるイギリスの史料 に基づいて行われる傾向にある。宗主国側から見たときのバイアスを克服できるのかという問題 もあるが,これが現状である。以下,研究に使われている史料の状況について敷衍しよう。イギ リス側の史料は主にイギリス国立文書館NAUK: National Archives of the United Kingdomに保 管・公開されており,非常に使いやすく,実際にもよく使われている。さらに,イギリス帝国脱植 民地化についてはこれらの史料から史料集が編まれている。British Documents on the End of Empire

BDEE)がそれである。マレーシア脱植民地化については,The Conservative Government and the End of Empire, 1951-1957, Series A, Vol. 3, (London: HMSO, 1994). The Conservative Government and the End of Empire, 1957-1964, Series A, Vol. 4, (London: The Stationary Office, 2000). East of Suez and the Commonwealth, 1964-1971, Series A, Vol. 5, (London: The Stationary Office, 2004).

Malaya, Series B, Vol. 3, (London: HMSO, 1995). Malaysia, Series B, Vol. 8, (London: The Sta- tionary Office, 2004). に関連する史料がある。他方,マレーシア,シンガポール側の史料については,

公文書の公開が進まないなか,研究者は回想録,インタビュー,さらに新聞記事,演説原稿など既 存の公開史料に頼ることが多い。うち回想録については,リー・クアンユウ,ガザリ・シャーフィー による三冊が最も重要である(Lee Kuan Yew 1998, 2000, Muhammad Ghazali 1998)。インタ ビューでは,シンガポール国立文書館National Archives of Singaporeのオーラル・ヒストリー・

プロジェクトがきわめて有用である。そのほか,21世紀に入り,インタビューを中心にPAPの歴 史を再構成するプロジェクトが政府系出版社によって実施されて出版されており,これも有用であ

る(Yap et al. 2009)。新聞記事,演説原稿については,シンガポール国立図書館,シンガポール

国立文書館がそれぞれインターネット上にデータベースを公開している。

8) 邦語の研究としては鈴木,木畑の研究がある(鈴木1998,2001,木畑2008,2011)。なお,マレー シア形成に対して,インドネシアは「対決政策」をとった。これについての研究も進んだ。代表的 な研究としてジョン・サブリツキー,デイヴィッド・イースターの研究がある(Subritzky 2000, Easter 2004)。

(7)

シア形成はこの連邦にシンガポールなどほか のイギリス保護領・植民地をも編入しようと いうものであった。これによって植民地主義 批判をかわし,さらにあわよくば防衛負担も 一部現地持ちとしたうえで関与を継続しよう としたのであった。これらの研究においては,

大まかに言えば,そうした見解が提出されて いる9)

さらに注目すべき研究がある。こうした研 究の流れのなか,シンガポールの分離独立に ついても一次史料に基づく研究が出されてい るのである。うえに見たジョーンズの研究な どにおいても分離過程の記述はあるが,アル バート・ラウAlbert Lauの研究は詳細かつ 分析も鋭い。分離過程におけるシンガポール 側の主導権という新しい視座を提供している 点で決定的に優れた先行研究となっている。

同書は1964年12月から翌年2月にかけて 連邦政府とシンガポール州政府とのあいだで 衝突を回避するため両者の関係をより緩やか なものにするよう国制見直し(連邦関係希薄 化)の秘密交渉があったことを明らかにし た。さらに,同書は,両政府の対立の頂点と なった野党連合・マレーシア連帯会議MSC:

Malaysia Solidarity Conventionの形成につ いて,これが連邦側の消極姿勢にあって停滞 しつつあった連邦関係希薄化の議論の再開を めざすシンガポール側の戦術であったとも言 いうることを指摘している(Lau 1998)。上 に記した言説の問題点の第二の点について一 定の新しい見識を示しているのである。

ただ,これら近年の研究については,前述 の共有されて来た言説の難点を克服する視座 を必ずしも十分に提供していないという限界 もあり,さらにまた,新しく見出された知見 が今度は新しい疑問を生んでいるとの指摘も ありうる。ラウの研究は分離の過程における シンガポール側の主導性を明らかにしたが,

そのほかの点については従来の言説を広い意 味で踏襲している。たとえば,PAPの連邦 議会選挙参入の理由について,リーたちは MCAにとって替ろうとしただけであって,

マレー人指導者のリーダーシップに挑戦する 意図はなかったのだとしている。PAP政府 は特定のエスニック集団に肩入れする政策を とらなかったにもかかわらず,半島の一部マ レー人たちがエスニック感情を煽り,結局,

分離の道を選択せざるをえなかったというの である。同書はシンガポール側が提示してき た主張をそのまま繰り返したものとも言え,

その意味では一方的な説明と言える。また,

ラウの研究の本論記述は分離時のリーの記者 会見で終わっている。分離協定が両国の密接 な協力関係の構築を約したにもかかわらず,

なぜこれが実現しなかったのか,その経緯に ついては言及がない。さらに,うえに紹介し た近年の研究の動向を咀嚼しようとすれば,

シンガポールの分離独立については次のよう な新たな疑問も湧いてこよう。マレーシア形 成がイギリス帝国非公式化の作業であったの だとすれば,それに続くシンガポール分離の 過程においてイギリス帝国は一体何をしてい たのか,結局,なぜその帝国再編はエスニッ ク対立による瓦解などという無残な結末を迎 えることになってしまったのか,と。

本稿の視点

本稿では,これら先行研究を受けつつ,シ ンガポールがマレーシアの一州であったとき からこれが分離して共和国の運営を軌道に乗 せていくまでの過程について,十分な注意が 払われて来なかった次の二つの点に着目しな がら明らかにする。そのことを通してシンガ ポール分離独立の原因を再考していきたい。

すなわち,本稿がまず第一に着目する点は,

PAP政府が展開したエスノポリティクスの 9) イギリスでは,脱植民地化全般に関する史料公開が進むなか,脱植民地化における帝国主義的要素 を強調する研究が盛んに出されるようになった。これを指摘した代表的論文として「脱植民地化の 帝国主義」がある(Louis and Robinson 1994)。見解はこうした研究の流れに沿ったものと言える。

(8)

起源とその展開である。PAP政府は「半島 との合同を通しての独立」とともに「非種族 主義的であること」を政策として掲げていた が,実のところ,両政策には密接な関係があっ た。華人が多数派を形成するシンガポールが そのまま華人国家として単独独立することを 掲げず,半島と合同したうえで独立すること を掲げたことの前提には,シンガポールを華 人文化から解き放とうとする非種族主義のエ スノ政策があったと言い得るからである。そ れでは,PAP政府は具体的にはどのような 見通しを持ってかかる―見方によっては不 自然とも見える―非種族主義というエスノ 政策を進めようとしたのか。また,PAP政 府は非種族主義を採用したにもかかわらず,

なぜマラヤ連盟党率いる連邦政府と対立し,

さらにマレーシア国内のエスニック対立が惹 起されることになったのか。本稿では,PAP 主流を構成した集団がプラナカンperanakan と呼ばれる帰化系の流れを背景にした人々で あったことに留意しながらこれらの問いを探 求し,分離独立の原因を考える。プラナカン とは生物学的な出自をマレー世界(語の意味 については第1章で述べる。)以外のアジア に持ちながら現地化した人々を意味し,一般 にはそのなかでも華人系住民を指すことが多 い10)。本稿においては現地化した人々のなか でも英語を自由に操ることになった人々― 英語を操るプラナカン―に注目する。PAP を率いた人々がある種のエスニック集団の性 格を帯びていたこと,彼らがマレーシア創設 を通して自らの活躍の場と権力基盤を回復し ようとしていたことに光を当て,非種族主義 的とされてきた彼らのエスノポリティクスへ の理解を深める。

さらに,本稿が第二に着目しようとする点 は,この間のイギリス帝国の動向である。す でに述べたように,史料公開以降の研究では マレーシア脱植民地化の背景にイギリス帝国

の帝国再編への意図があったことが強調され るようになっている。イギリス帝国はその植 民地をジュニア・パートナー国家につくりか えることを通して地球規模の勢力であり続け ようとしたというのである。重要な指摘であ るが,それでは,その後,イギリス帝国はマ レーシアの設立からシンガポールの分離独立 に至る過程においてどのような政策をとった のだろうか。本稿では,脱植民地化の過程を 通してイギリス帝国とPAP政府のあいだに 密接な協力関係が築かれていたことに留意し ながらこうした問いを探求し,分離独立の原 因を考える。上記プラナカンはイギリス帝国 史研究において帝国支配の現地協力者と位置 付けられているエスニック集団でもあった。

その流れを背景にした人々が主導したPAP 政府はイギリス帝国ときわめて密接な協力関 係を構築し,マレーシア創設において大きな 役割を果たした。そうした協力関係がその後 どのような展開を見せたのかを見ていく。

本論では,以上のような点に着目しつつ,

シンガポール共和国建国の過程を順を追いな がら明らかにしていく。(1)まず初めに,マ レーシア形成の政治過程を振り返る。そもそ もなぜPAP政府がマレーシアへの参入を果 たそうとしたのかについてエスノポリティク スの観点から再考する。(2)次に,マレーシ ア成立以降,連邦政府とシンガポール州政府 とが深刻に対立するようになっていった過程 を明らかにする。二度に渡ってシンガポール 暴動が起こった時期までを見る。(3)その次 に,連邦政府とシンガポール州政府とが新た な国のあり方を模索しつつも結局後者が分離 独立する決断を下していった過程を明らかに する。イギリス帝国とシンガポールPAP政 府の協力関係の変容が分離にどのような影響 を与えたかについてはとくに注意を払って 考える。(4)最後に,その後,マレーシア・

シンガポール両国が分離協定の企図したとこ 10)プラナカンはマレー語の原義で子孫,末裔を意味する。

(9)

ろから離れて別々の国家へと完全に分立して いった過程を明らかにする。インドネシアの

「対決政策」が終了する頃までを見る。

研究にあたっては公開されたイギリス史 料,出版された回想録などを用いる11。 第1章 マレーシア創設のエスノポリティクス

1960年代前半,シンガポールの人々は自 らの意志でマレーシアに加わることで最初の 独立を果たした。しかし,その後,シンガポー ル州は連邦と衝突し,結局これから離脱して 自らの道を進むことになった。なぜそのよう な帰結に至ることになったのか。

この問題を考えていくにあたっては,ある 一つの疑問を改めて追求することが必要であ ると考えられる。PAP政府はそもそもどの ようなエスノ政策上の見通しを持ってシンガ ポールとエスニック構成が大きく違う半島・

ボルネオとの合同を望み,実際,マレーシア に加わったのだろうか,という疑問である。

もちろん,この問いに対しては,シンガポー ルの人々は半島とのあいだで歴史的に築き上 げてきた社会的一体性から半島と合同するこ とを自然の成り行きと見ていたからである,

と答えることは可能である。そうした言説が 支配的であったことはすでに述べたとおりで ある。ただ,たとえそうであったのだとして も,華人が多数派を占めるシンガポールがマ レー人の多い地域と合同するとはやはり大胆 な話と言える。エスニック構成が大きく異な る地域との合同がそれまでにない事態を惹起

することは予想されていたはずだ。

それゆえ,シンガポールがマレーシア内の 一州となってからの連邦・州両政府間関係の 展開を見ていくに先立ち,本章においては,

シンガポールがマレーシア参加に至った経緯 について見直すことにする。合同が進められ るにあたっては,異なったエスニック集団が 共存することについてエスノ政策の見地から これを肯定する議論が展開されたはずである が,どのような理由付けがなされていたのだ ろうか。PAP政府は,本当のところ,どの ような見通しを持ってこれを推進したのだろ うか。合同をめぐる政治は新しく生まれる連 邦にどのような影響を及ぼしたのだろうか。

そういった論点について考えていく。

「多人種が融和するマレーシア」という理由 付け

PAP政府は,マレーシア発足前,エスニッ ク構成が大きく違う半島・ボルネオと合同し て独立するべきとの考えについて,それら地 域の歴史的・社会的一体性の議論を進め,エ スノ政策の見地からある理由付けをシンガ ポール住民に示した。東南アジア社会が本来 的に様々なエスニック集団が共存する複合社 会であるとの前提のうえに立ち,シンガポー ル市民はそれら多様なエスニック集団が融和 するマレーシアをつくり出し,そのなかに自 分たちの安住の地をつくることこそが独立へ の自然の流れとなる,という楽観的とも言え る見通しがその理由付けであった12)。確かに,

東南アジア社会は大陸部,島嶼部ともに複合 11)イギリス史料についていえば,機密性が高かった公文書が40年,50年を経てさらに公開されたた め,それらも用いることができた。他方,シンガポール,マレーシアの公文書の多くは依然として 非公開のため用いることができなかった。

12)エスニック集団とは「周囲のほかの集団と自分たちを隔てる文化的アイデンティティを自分たち が共有しているという明確な認識を成員がともにする集団」(Giddens and Sutton 2013)とされ,

1970年代以降,研究者たちのあいだで民族,部族などという言葉に替わってこれを指す語として 広く使われることになった。他方,マレーシア・シンガポールにおいては,いわゆる民族集団を エスニック集団と呼ぶ呼び方は定着せず,昔からこれを「人種race」と呼ぶことが一般的である。

もちろん,一般的に人種による分類は生物学的要素が基礎となるため,婚姻・出産などによってグ ループ間の移動が生じているマレーシア・シンガポールではこうした用法を用いるのは不適切なは ずであるが,今も使用されている。このようなマレーシア・シンガポールの言語状況に鑑みて,↗

(10)

社会と評されてきた。島嶼部について言えば,

その主要な言語集団は5000年ほど前に台湾 から島伝いに南下して定住することになった オーストロネシア語族―広い意味でのマ レー系集団の人々―であるが,さらにその 後,中国本土,インド亜大陸などからその他 の言語集団の人々もその地に流れ込み,現在 のような状況がつくり出された。東南アジア 島嶼部はマレー世界とも呼ばれるが,それは 様々なエスニック集団に属する人々が共存し て暮らして来た地域でもあるのだ。構想され たマレーシアは主要エスニック集団―マ レー人,華人,インド人,イバン人,カダザ ン人ほか―から構成される複合社会となる 見通しであった。これら多人種が融和する社 会こそがその本来の姿であって,シンガポー ルの人々が半島などとの合同に躊躇すべき理 由はなく,むしろシンガポールの華人たちが 固まって孤立することのほうが危険である,

というのが議論の趣旨であった。1961年12 月,リー・クアンユウは第2回マレーシア 連帯諮問委員会MSCC: Malaysia Solidarity Consultative Committee―委員会の役割 については後述―出席のためサラワクを訪 れたが,このとき,彼は次のように述べてマ レーシアの設立を訴えた13)

もし私たちがばらばらで孤立し続けていれ ば,我々の生き残りは確実に危ういものに なるでしょう。しかし,ダヤク人,ドゥス ン人,ムルトゥ人,マレー人,華人,イン ド人,その他の人々のあいだで道理をわき まえて寛容にやってきたという実績のうえ に立ち,強力なマレーシア連邦を設立すれ ば,多人種のあいだに安定と幸福をもたら

している私たちの多人種社会が生き残り繁 栄し続ける可能性は十分にあるのです。

明快で説得力のある議論と言える。かなりの シンガポール市民がこうした議論に納得して 合同を支持したと言ってよいように思われる。

ただ,このような議論を受け入れるにあ たっては慎重な吟味も必要であろう。議論の 前提となるマレーシアがかような主要エス ニック集団から構成されることになるであろ うという見解については,エスニック集団が つねに構築過程にあることを考えれば本質主 義的に過ぎる粗い議論であり,以下のような 問題点があるからである。すなわちまず第一 に,かかる見解はそもそも上記主要エスニッ ク集団それぞれ自体が複合的な存在であり,

かつそのアイデンティティが常に変容の過程 にある存在であることを見逃している点で問 題があると言える。上記オーストロネシア語 族の人々も長いあいだに分化と統合を繰り広 げてきた。マレー人概念がそうしたなか王権 を中心に長い構築過程を経て確立されてきた ものであることについては研究の積み重ねが ある(Roff 1967, Ariffin Omar 1993, Milner 1995, Barnard 2004)。また,華人系集団に は出身方言ごとに分かれた集団が存在してい た。彼らの主要な出自は福建,広東,客家,

潮州,海南などで,華人としての意識は辛亥 革命以降に高まりつつあったが,こうした出 自意識は強く残されたままであった。さらに,

インド系集団においては,出身地による違い のほか宗教,カーストによる分裂もあり,イ ンド系としてのアイデンティティはかなり希 薄であった。インド亜大陸南部出身のタミル 系の移民が最大多数で,彼らはゴム農園など

↗ 筆者が主体的にエスニック集団について記述する際にはエスニック集団の語を用いるが,引用・準 引用などの理由から人種・民族などの語を用いることになったときは,そのままの語を用いること にした。

13) Prime Minister’s Broadcast Speech over Radio Sarawak, 19 December 1961, lky 19611219, National Archives of Singapore. リーは半島との再合同をシンガポールにとってあるべき当然の姿,自然の 摂理のようなものと考えていたように読める。

(11)

で働いていたが,そのほかの地域からイギリ ス帝国によって特定職業に従事するために招 かれた人々もいたし,また,イギリスが来る 以前からグジャラートなどからのムスリム商 人も棲んでいた14。かように状況を注意深く 見るならば,上記見解において言及された主 要エスニック集団は植民地支配下において初 めて現在に近いかたちを成すようになったも のであることがわかるし,住民のエスニッ ク・アイデンティティが依然として変容の過 程にあること,したがって,そうした変容の うえにナショナル・アイデンティティも形成 されていくであろうことも推測され得る。主 要エスニック集団が確定的に存在し,マレー シア成立後もそのまま存在し続けるかのよう な語りは誤解を生みやすい15)

さらに第二にかかる本質主義的な見解は主 要エスニック集団の構図で説明することが困 難な人々―主要集団に本来的に属さない小 集団や越境的な立場にある人々―の存在を

見過ごしかねない点で問題があると言える。

半島にもボルネオにも主要エスニック集団に 属さない小規模のエスニック集団は多々存在 した。半島のオラン・アスリOrang Asliな どはその典型である。さらにこのような類型 では,長く複合社会において媒介者として支 柱的な役割を担い,今また現に脱植民地化を 担おうとしている(と本稿が注目する)リー ら帰化者の存在もなぜか無視されている。マ レー世界においては,生物学的な出自をマ レー世界以外のアジアに持ちながら現地化し たプラナカンたち―言わばアジア系クレ オールの人々―が重要な役割を担ってきて いた16)。東と西を繋ぎ外来者が集うこのエン ポリウムにおいて,長らく彼らプラナカンた ちはムラユ王権が支配する内世界と自らの出 自である外世界とを結ぶことで社会をリード していたのである。彼らプラナカンたちは現 地化しつつも,広い意味での外来系エスニッ ク集団―アラブ系集団と華人系集団など 14)イギリス帝国から招かれ,専門職として働くインド系住民も多かった。彼らは少数者ではあったが,

職業柄,タミル系より社会的影響力があった。鉄道などで働いたセイロン系の人々,英語学校など で働いた人々などである。また,インド系移民は単純にインド系とは言えない側面もあった。現在 のインド出身者のほか,パキスタン,バングラディッシュ,スリランカ出身者もいた。うち,セイ ロン系はインド系というよりセイロン系としての集まりを重視していたふしがあるし,インド系ム スリムは,ムスリム・コミュニティに身を置くことが多かった。独立期に至るインド系移民の状況 については先行研究がある(Sandhu 1969)。

15)植民地支配の結果,エスニック集団が構築された,という議論が盛んであるが,マラヤ主要三集団 の分類もまた植民地支配に由来する,と言いうる。チャールズ・ハーシュマンも指摘するとおり,

時系列に沿って海峡植民地センサスを並べると,カテゴリーとしての三大種族が形成されてきたこ とがわかる(Hirschman 1987)。当初,イギリス人はその被治者を見るのにマレー人というカテゴ リーを狭く考えていた。それが,19世紀末以降,半島への介入を進めるにつれ,ミナンカバウ人 なども含むかたちで被治者としてのマレー人を広く考えるようになった。「マレー人」の創出は,

イギリス人が「弱い人種」である「マレー人」への庇護者としての役割を意識するようになった結 果であった,とも考えられる。

16)本稿におけるプラナカンはアイデンティティそのものよりもむしろその集団の置かれた社会構造に 注目してエスニック集団を規定した概念になる。通常,エスニック集団はエスニック・アイデンティ ティによって定義されるが,そのエスニック・アイデンティティは集団の置かれた社会構造のなか 構築される。本稿はそのことに注目した。プラナカンを構築主義的に理解した研究にルドルフの研

究がある(Rudolph 1998)。今日のマレーシアにおいては,プラナカンというと,「マラッカあた

りに今なお暮らしているらしいけれど,基本的にはその独特の衣装とともに博物館に入った過去の 人々である」というイメージを浮かべる人が多い。これには「華人独自の文化を失った根なし草の 人々」というネガティブなニュアンスも伴う。もちろん,こうした理解は本質主義の典型的な陥穽 に陥っている。彼らがいつも冠婚葬祭の服を着て暮らしているなどということはあり得ない。そし て,かように壮麗な衣装は彼らが相当な資産を持った上流階層にあったこと―単純なエスニック 集団ではなく,その社会階層性に拠っても規定される集団であったこと―を強く示唆しているの である。

(12)

―にも所属し,そこで内世界と外世界とを 繋ぐ宗教,文化,経済などのチャネルを握り,

そのことを通して集団の内外で強力な発言力 を確保していた17)。ムスリム移民は帰化する と,マレー・ムスリム系住民集団の構成員と なったが,彼らはそのコミュニティと域外の イスラム世界とを繋ぐ役割を果たした。マ レー社会の先進者集団は彼らムスリム移民と の混血者によって形成された,というのはマ レーシアにおいて広き行き渡った言説とさえ なっている18)。また,同様のことは華人系帰 化者たちについても言えた。彼らは華人系集 団を地場権力へ結びつけ,また,内世界には 外来の文化や豊かな富をもたらし,媒介者と してそこに高い社会的地位を築いていた。ム ラカ王国の繁栄は彼ら華人系集団が政府機構 の一翼を担ってのものであったし,マレー語 新聞の走りも彼らの資本や技術によるところ が大であった(Anderson 2006: 133)。

イギリス帝国とプラナカン

実のところ,シンガポール脱植民地化の背 景をエスニシティの観点から理解しようとす るならば,次のことは前提として押さえてお く必要がある。19世紀以降,その地の新た な支配者となったイギリス人たちもまたかな りの数のアジア系帰化者をその体制に組み込 み,帝国支配を支える新たな帰化者層―本 稿が着目する英語を操るプラナカン―がつ くりあげられていたということ,さらに脱植

民地化が進むなか,イギリス人がますます彼 らを頼むようになっていたということである。

実に,イギリス帝国支配の下,帰化者の少 なからぬ者たちがイギリス帝国との特別の関 係―英語の受容,帝国臣民としての地位の 獲得など―を通して海峡植民地を中心とし たイギリス支配地域に主導的階層を形成する ことに成功した。これが本稿の注目する英語 を操るプラナカンである。彼らの多くは主に 海峡植民地に暮らし,植民地の発展に伴って その勢力を拡大させた。植民地経済の運営に 貢献することが期待され,欧州系企業に従業 員として仕えたり,植民地政府の信任を得て 外来者を動員した事業を行ったりもした。そ して,彼らプラナカンにはインド系,アラブ 系などの人々も含まれたが,なかでも帝国が 最も重用し,最大の人員を擁していたのは華 人系帰化人であるババBabasあるいは海峡 華人Straits Chineseと呼ばれる人々であっ た。もともとババと呼ばれる華人系帰化人の 人々には何代にも渡ってマレー世界に暮らし たため祖先の母語である中国系諸語を解さな くなった人々も多かったとされる。また,彼 らの多くはムラカに集住し,独自の料理,服 装などの文化を発達させていた。ところが,

19世紀以降,イギリスの海峡支配が確立する と,イギリス支配に仕える者が増加し,彼ら は本拠地をシンガポールに移したのである19)。 帰化者である彼らは広い意味での華人系集団 に身を置きつつも,清朝臣民ではなく,イギ

17)彼らは後の主要エスニック集団で多数派を構成する人々―農村に暮らすマレー人,年季奉公で来 たまま留まっている華人など―とは随分と違ったエスニック・アイデンティティを持っていた。

主要集団から独立していたという表現も可能かもしれない。

18) 1981年から22年余りに渡って首相を務めたマハティール・ビン・モハンマドは論争を巻き起こし

たその著書『マレー・ジレンマ』のなかで,マレー人の社会が都市の外来者との混血(を含む)マ レー人と農村の純血なマレー人とに分かたれており,前者が進んだ存在,後者が遅れた存在であり,

イギリス人の到来以降,その差はますます拡大した旨を記している(Mahathir 1970: 16-31)。 19)海峡華人とババとは類似した概念であるが,同一の概念ではない。ともに定義することが困難な語

であるが,ここではそれぞれを次のように説明しよう。海峡華人とは,政治学的な概念で,海峡植 民地やその周辺を自らの本拠とし,往々にしてその市民権を取得していた華人系帰化人を指す。バ バとは,文化人類学的な概念で,何代にもわたって南洋に暮して帰化し,往々にして華語を話さ なくなった華人系帰化人を指す。ババについては,クラマーの研究(Clammer 1980),ルドルフ

(Rudolph 1998)の研究が最重要である。

(13)

リス帝国臣民であることを主張する者が多 かった。イギリス帝国に忠誠を誓う者たち は結束し,1900年には,海峡英籍華人公会 SCBA: Straits Chinese British Association を結成した。その後,彼らは植民地の立法評議 会Legislative Councilや執行評議会Executive Councilに代々議員を送り込んだ(Rudolph 1998, 93-156)20)

その意味で,戦後,世界規模で進行しつつ あった脱植民地化の流れがこの地に波及する 過程において,帝国がそれまで長く協力関係 にあった彼ら英語を操るプラナカンたち―

そのなかでもとくに海峡華人たち―にこう した指導的役割をますます与えるようにな り,彼らが政治の世界へめざましい進出を果 たすようになっていったことは当然の成り 行きであると言えた。当時,アメリカが主導 する国際連合などの安全保障枠組みと地球規 模の単一市場が成立し,さらに冷戦の勃発と 波及を見て,公式帝国は宗主国の重荷となり つつあった。そうしたなか,各地植民地では 様々な立場の人々が市民的自由を求め,ナ ショナリズムを唱えることで権力奪取をはか り出した。そして,帝国支配の協力者層には こうした動きに恐怖した者たちもいたが,自 らナショナリズム運動の指導者となり,帝国 から権力移譲を受ける者も多かったのだ。1948 年,シンガポールに立法評議会が設置される と,進歩党Progressive Partyが選挙に勝利 した。同党はSCBA人脈と欧州人の商業的 利益を代表したシンガポール協会Singapore Associationの人脈によって1947年に成立 した政党であった。創設者はSCBA政治小 委員会委員にあったCCタンC. C. Tan,イ ギリス人で弁護士事務所を構えていたジョ ン・レイコックJohn Laycockらであった。

英語を唯一の公用語とし,自由貿易港の地位 を維持する,などといった植民地政府の施策

を支持した。この進歩党は1955年選挙で大 敗を喫するまで政府と協調しながら立法議会 をリードした(Yoe 1973: 98-105)。

重要なことは,リー・クアンユウ率いる PAPが台頭し,マラヤ全域に影響力を伸ば そうとし出したこともまたこうした流れを受 けたものと位置付けられるということであ る。当時,左派勢力として売り出されていた PAPであったが,これは,実のところ,リー ら主流派の英語教育を受けた帰化者たちが左 派イメージを出すことで華語を母語とする華 人たち(以下,華語集団と呼ぶ。)を支持基 盤に取り込むことで成立した政党であった。

リーたちは結党にあたってリム・チンシオン Lim Chin Sionら労働組合指導者たちを党の メンバーに迎え入れた。彼らには華語集団に 圧倒的な支持があり,これによって党勢拡大 を図ろうとしたのである。実際,この戦略は 奏功した。1959年5月,新憲法の施行に先 立つ立法会議Legislative Assembly(立法評 議会に替わり,1955年に設置。)総選挙では,

リー率いるPAPは過半数の得票を得て圧倒 的多数の第一党の地位を獲得することに成功 し,6月,新たな憲法の下に自治政府(外交・

防衛以外の事務を掌理)が成立すると,彼ら 英語教育組がその権力を掌握した。しかも,

このとき,リーは組閣に先立ち政府によって 拘束されていたリムらPAP左派指導者たち の釈放を求め,これを実現したものの,彼ら が力を揮うことには制限をかけた。左派指導 者には閑職を宛がったに過ぎなかったのであ る(竹下1995: 126-132)21)

リー・クアンユウは裕福な海峡華人の家系 に育ちながら,青年期を戦中戦後の混乱期に 過ごすことで政治的自覚を発展させた人物で あった。崩れることがないとされていたイギ リスの支配が瞬く間に崩れ去るのを目撃し,

いつまでも帝国に頼ることができないこと,

20) SCBA創設の経緯については篠崎の研究を参照(篠崎2001)。

21)このときの選挙は新憲法の導入によるもので,立法評議会は立法会議に改組され,その権限は強化 された。

(14)

英語を操るプラナカンたちが率先して自立を めざしていかなければならないことを自覚し たと考えられる22)。実際,政権発足後,リー は現地ジャーナリスト向けの演説で英語教育 を受けた者たちの役割について印象的なこと を述べている。マラヤ(ここでは,マラヤ連 邦ではなく歴史的マラヤを意味。)で英語教 育を受けた者たちはある特定の特徴を身に着 けている―たとえばマラヤで英語教育を受 けた華人は中国で英語教育を受けた華人たち よりもマラヤで英語教育を受けたほかのエス ニック集団の者たちにより共通のものを見出 す―としたうえで次のように述べているの である23)

「英語教育を受けた人」という言葉の意味 をはっきりさせたところで,その特徴をあ げてみましょう。長所の第一は,同質であ るということです。第二は,基本的に自分 たちのことを華人,マレー人,あるいはイ ンド人とは考えなくなっていることです。

植民地当局に従順すぎるところもあるもの の,彼らはこの社会に忠実であり,正直で あり,また良く振舞うのです。……

この階層の未来はどこにあるのでしょう。

……

イギリス帝国領すべての植民地革命におい て,イギリス支配から独立が勝ち取られた とき,権力は英語教育を受けた現地ナショ ナリストへと手渡されました。インド,パ キスタン,ビルマ,セイロン,ガーナ,マ ラヤ(引用者注:この場合,マラヤ連邦を 意味)またしかりです。……シンガポール とマラヤにおいて英語教育を受けた者の役 割はインドにおいて担われたものと同じで あると私は考えています。イギリスから勝 ち取ってきた権利と特権を大衆―その多 くは英語教育を受けていない人々―へと さらに拡大することで彼らは社会革命を達 成したのです。

演説は,英語教育を受けた自分たちこそがマ ラヤの独立と社会革命をリードすべき存在で ある,そうした趣旨のものであった。強い政 治的な意志を感じさせる演説であるが,ただ,

その真意を正確に理解するためにはさらにそ の言説の背景で起きていた出来事にも注目す る必要があるだろう。演説は自分たちのアイ

22)リー・クアンユウは1923年にシンガポールで生まれた。リー家はシンガポールに19世紀以来続 く客家の家系であるとされる。両親とは英語を話し,祖父母とは華語が混じったマレー語を話して 育ったとされる。シンガポールで英語教育を受け,戦後,渡英してケンブリッジ大学を卒業,弁 護士試験に合格した。帰国後,海峡華人の大立者で華僑銀行経営者の陳振傳Tan Chin Tuanの姪 に当たる柯玉芝Kwa Geok Chooと結婚。またSCBAの事務局長も務めた。職場はレイコックが 経営するレイコック・アンド・オンLaycock and Ongで,弁護士として頭角を現したとされてい る。彼は,こうした進歩党人脈にあって1951年の立法議会選挙では進歩党の運動を支援していた が,これに飽き足らず,1954年,仲間とともにPAPを結成した。華人コミュニティ主流からの支 持がなければ自分たちの支持基盤は弱まることを察知し,華語世界の取り込みに奔走したのであっ た。なお,1955年選挙では進歩党は大敗を喫しており,以降,彼とレイコックとの関係は悪化した。

結局,リーは弟や妻とともに自分たちの法律事務所を開設している。

23) Text of an Address by the Prime Minister, Mr. Lee Kuan Yew, at the Singapore Union of Journalists, 16 August 1959, lky 19590816, National Archives of Singapore. 当初,英語教育を受けた者のあい だにはPAP政権への根強い不満があった。PAP政権は主流派が自分たちと同じ英語教育組によっ て構成されているとはいえ,自分たちとは相容れない親共の華語集団の支持で成立したことが明ら かであったからである。演説は自分たちが英語を話すジャーナリストたちとともにあることを訴 え,彼らの支持を確保するためになされたものとも考えられる。リー回想録参照(Lee 1998: 319- 320)。なお,このような英語教育による同胞意識形成の議論はアンダーソンの示した植民地支配下 の青年のあいだの国民意識の醸成の図式に似通っている。英語を共通語としたマラヤン・ナショナ リズムの主張と評することもできよう。アンダーソン著『想像の共同体』参照(Anderson 2006:

120-122)。

(15)

デンティティーを確認するだけではなく,逆 境を越えてマラヤをリードしていこうという 扇動の目的も込められたものであった。一見 すると,プラナカン主導による脱植民地化は 現実味を帯び出したものの,その実,次段落 以下のように現実を冷徹に見るならば,彼ら がマラヤを主導する立場にあるというかよう な言説はその足元において急速に妥当性を失 いつつあったのである。

すなわち,まず,かような言説の背景にあっ て英語を操るプラナカンたちの指導的地位に 深刻な影響を与えつつあったことの第一に,

1948年にマラヤ連邦がシンガポールを切り 離したかたちで半島に成立しさらに1957年 には独立を果たしたため,実のところ,彼ら の主張する歴史的マラヤの一体性は薄れ,シ ンガポールの孤立化が進みつつあった,とい う事実があった。確かに,脱植民地化の過程 にあってシンガポールの住民大多数はマラヤ 連邦との合同を通しての独立を「本来そうあ るべきこと」,ほとんど自明の道理と考えて いたふしがあった24)。さらに,それを裏付け るような両者の結びつきがイギリス帝国に よって維持されてもいた25)。ただそれにもか かわらず,肝心の半島の人々はマラヤ連邦の 独立によって自足の傾向を強めていた。とく にマレーナショナリズムは自らの起源である

旧海峡植民地から勢力を退潮させ,マレー人 たちはシンガポールを華人の島とみなすよう になりつつあった26)。半島華人たちの少なか らぬ人々も連盟党を支持することで市民権を 得て,独立の恩恵に浴しているただなかに あった。そうした傍ら,シンガポールの人々 は直轄植民地の自由貿易港として未曾有の繁 栄を謳歌していたが,客観的に見れば,同島 はますます多島海のなかの孤島の島になりつ つあり,彼らは拠って立ってきた後背地を失 おうとしていた。イギリス帝国の東南アジア 政策によって両者は辛うじて繋ぎとめられて いたが,脱植民地化が進むなか,何もしなけ ればプラナカンたちが活躍の場としてきた旧 海峡植民地と半島諸邦からなる歴史的マラヤ が瓦解するのは時間の問題であるかのようで あった27)

さらに,英語を操るプラナカンたちの指導 的地位に深刻な影響を与えつつあったことの 第二に,マラヤ連邦においてマレー人優位の 体制が固まりつつある傍ら,シンガポールで は市民権の拡大が進み,プラナカンならぬ華 語集団が政治的発言力を増大させつつあった という事実があった。当時,シンガポールの 人口の四分の三は華人たちであったが,その 多くは中国に戻ることを前提に仕事に来たも のの内戦による本国荒廃などの理由からそこ 24)シンガポール政治においてはほとんど全ての政党がマラヤ連邦との再合同を条件の違いこそあれ政

策に掲げていた。各政党の主張などについてはヨーの研究に詳しい(Yoe 1973)。

25)マラヤ連邦は依然として英馬防衛協定Anglo-Malayan Defence Agreementによってシンガポール を拠点とするイギリス帝国の極東軍事戦略のなかに組み込まれていた。同協定は本旨としてはマラ ヤ連邦防衛のための条約であったため,イギリスはその他の目的のためにそこに駐留する自国軍を 動かすことができなかった。そのため,その他の目的のためにこれを動かすときは,一旦シンガポー ル基地に軍隊を動かすという煩雑な措置がとられもしていた。他方,シンガポール政府の治安評 議会Internal Security Councilにはイギリスと並んでマラヤ連邦からも委員が送り込まれていた。

治安評議会はシンガポールから3名,イギリスから3名,マラヤ連邦から1名,計7名の委員か ら構成され,シンガポールの治安の方針を決定した。

26) 1950年代,シンガポールは依然としてマレー文化の中心地であったが,マラヤ連邦の独立に伴い,

それまでマレー文化をリードしてきた人々の多くがクアラルンプールに活動の本拠を移しつつあっ

た。50年代世代Asas ‘50の作家たちがそうであり,さらにマレー語紙ウトゥサン・ムラユが本拠

をクアラルンプールに移したのもこの頃である。

27)マラヤ連邦独立への動きが進むなか,連邦に組み込まれた旧海峡植民地では,SCBAなどを中心 に連邦からの分離運動,さらにシンガポールとの再統合の運動も起こった。しかし,こうした運動 は受け入れられず,ペナン,マラッカは連邦に留まり,シンガポールのみが植民地として残された

(Mohamed Noordin 1974: 71-80)。

参照

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