我が国の封建制について
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(2) . 我国の封建制について. 栗. 原. 薫. 序 我国は帝国憲法を発布し, 立憲制 の採用に成功してより, 国運益々 隆盛に向い, やがて日露戦争 に勝っ た, ここに非民主的な世界の 三大帝国, ロシヤ, 清(支那) , トルコはそれぞれ立憲制採用を こころみた. しかるに各帝国の人民は奥えられた権力を逆用して帝制を倒してしまった. それと同 時に折角の民主制も倒してしまっ たのである, 我国のひそみに習っ て失敗したのである, その原因を考えて見ると, 我国には充分に成熟した封建制があったが, 露, 清, 土三大帝国には それがなかっ たと言う所に原因がある様に思われる, その封建制についていささか論じたい.. 封建制の起源 我国の封建制の起源を, 農奴制的なものに求めるのは間違いである. 我国中世の農奴的なものは, 班田農民がそのまま私的所有の対象になったのに過ぎない鰻} . 農奴も班田農民も本質的には異らな い」 班田農民には天皇のおほみたからとしての名誉があっただけである. 私は我国の封建制は, 社会の上層部に先ず出来, 段々 下層に及んで行ったものと思う. 2 往 ) 蔵人所は 各官庁の長を除く俊秀を蔵 嵯峨天皇が薬子の変に対処する為 に, 蔵人所を作った( , . 人として現職のまま採用し, 天皇が日常生活をされる清涼殿殿上間につめしめた. 天皇は日常的, 私的に蔵人に接した, 自然に信頼感が通った. その様な蔵人から所属各官庁の情報を得, 又天皇自 身の意志を正確に直接に各官庁に伝えられたのである, 嵯峨天皇にとって, 肉親の兄平城上皇や, 藤原一門の式家仲成や葉子を敵に廻したので, 律令制 の通常の体制のままでは, 各官庁を必ずしも信用出来なかったのである, もっ と身近かな人 間関係 を作る事で, はじめて安心できたのである. 蔵人の方から言えば, 天皇の身近かに接しその信頼を 得る事は, 立身出世の 登龍門だっ たのである. 律令体制の通常の関係のままでは安心出来なくなっ たのは天皇だけではなかっ た. それは段々 機 関家から院へと及んで行った. 掘関家では, 別当以下の家司となった, 令制の家司の長官の上に, 私的な別当が置かれた, 別当 は律令制の官職, 正官を別に持ち, 別当を兼ねていた. つ まり天皇にお ける蔵人であっ た. やがて 別当より下の者も別当と同様私的になって行き, 律令制の各官庁で官職を持つ者がふえて行った. 院政で活躍した院司も, 同性格のもので, 各官庁に官職を持つ者が, 又院庁では院司を務めた. そして上皇に親近して, 上皇 に各官庁の情報を伝えると共に, 上皇の意志を各官庁 に伝えた, 上皇 はこの様な仕組みを通じて, 政治の実権を手にされた のである. 11.
(3) . 栗 原. 薫. 蔵人所, 家司, 院司は同一 性格のものである, 皆天皇や機関家, 最後に上皇が, 各官庁でそれぞ れの地位を持つ者を集めて, 私的な関係を結 び, 深い信頼感の下で各官庁を支配したのである. そ れは各官庁がそのままでは必ずしも信用出来なくなった為である. ますらをが意気盛んに国家統治 にあたっていた奈良時代が次第に遠くなり, 平城上 皇と薬子 の事件 が遠ざかっても, かかる機関の 必要はなくならなかったのである, 上のする所, 下もならっ て蔵人風のものが拡がったのであるが, それ以上に上に必要なものは下 にも必要で, 公的機関の中に, 私的な関係を持つ者を入れて置かなくては, 公務も満足に遂行出来 なくなっ て行ったのである. 500年の平和の中に, 朝廷の綱紀が次第に弛緩して行った結果, 長い間にそうなったので, 薬子 の 変 は た ま た ま そ の き っ か け に な っ た の に 過 ぎ な い.. これは下の方から見ると, 公的機関が必ずしも信用出来ず, う っ かりするとどんな目に合うかも しれないと言う事であっ た. 私的な関係を, 公的機関の有力者との間に持っ ていないと, 己の公的 権利を守っ て行けない様になっ て行っ た. 地球上多くの国では500年も平和が続くと言う事がなく, 外部の武力に屈したりなどして, 古代 的奴隷制の再生産がかぎりなく続いて行っ たが, 我国はやや事情を異にしたのである. 我国では奈良, 平安の5 00年も続いた平和の中で, 政治も社会も, 少しづっ欄熟して行き, 腐敗 して行っ て, 段々 そのままでは人々 は暮らして行けなくなった. しかし急な体制の再生産は行われ ず, その中で封建的な主従関係を結 び, 人々 はそれにゆるやかに対処して行っ たのである, かくて我国の主従関係が生れたのである, 主人と何十人かの従者は相互に信頼し合い, 主人は従者の権利を私的に守っ てやり, 従者は主人 の信頼出来る部下として 主人に奉仕するのである. 平将門は, 『将門記』 にいう私君, つ まり私的な主人の関白藤原忠平 (時平の弟) ・に長年仕え, そ の信頼を得ていた. そこで関東で国司に対抗し、 ずい分勝手な事をしても, 結局は見逃されていた. 唯新皇と号し, 猿島によっ て文武百官を置くに至っ ては, 忠平の保護の限度を過ぎていた. 主人の 忠平が将門を討取る気になると, 天皇中心の我国の伝統を無視したと言う事もあるが, わずか2ヶ 月 で亡んでしまっ た. 討伐軍の到着を待つまでもなく, 周辺の土豪の勢力に攻め亡されてしまった のである. これを逆に言うと, 将門は新皇な どになりさえせねば, 主人が撮関か太政大臣である間 は関東で勝手な行動を取っ て富貴を手中に出来たのである. (名例)律によっ て, 官位あるものは刑法上 の特権があり, 国司に対抗出来たので, 土豪はその子 弟を京師に送り, 貴族の身辺に奉仕せしめ, 主人の権勢によっ て最低でもよいから官位を得て帰国 せしめ, その特権で己の 土地を守らしめ, 代々それを続けていたのである. そして武士が発生した. 本来の武士はその様にして官位もあり, 土地を持つ者であった. 中世武士の官位, 官職は幕府の統 制を受ける事となり, 領地のみの武士がほとんどとなった. 近世になると所謂兵農分離で, かつて 領地を持った者も, 多くは土地人民を失なってしまっ た. 唯禄高を称する事によっ て, わずかにか つて 土地, 人民を所持していた事を示すだけであっ た.(禄高はそれだけの生産力のある領 土をもっ て居ればは入る筈の税金を示している.100石は100俵の収入)その禄高を称しうるのは上士の みで あっ て, 下士や足軽 (お足が即ち給奥が少いという意) は別であった. その上士に相当するのが維 新後又官位を与えられる様になったのである. これはいわ ば元に戻ったのである.. 12.
(4) . 我国の封建制について. 封建的忠節と天皇への忠節 封建的忠節は御恩に付する代償である から, その道義性は忠節にあるのではなくて, 主従契約を 忠実に守るという, 契約履行についての誠実さにある 天皇への忠節は, 吉田松陰などの言う草非 , の臣, 何ら封禄を貰っ ていなくても (よし毛利公より禄を貰っ ていても, 皇室より禄を貰っ ていな けれ ば草葬の臣である) 猶忠節を霊すのである. 儒教の忠節を, 封建的忠節に利用するのは、 多少の無理が掛る. それを敢えてしていたのが江戸 時代の文教政策である, 封建的な忠節は, 儒教的な忠節より, 義理と人情の義理に近いと言うより, 義理の中に包擬して もよい位である. 義理は, 贈り物に対して, 等価の返礼をするのを義理と言う のである, かつて賄賂をもらっ た役人は, もらっただけで罰せられていた, これは賄賂をもらった役人は, もらった以上必ずくれた人に代償を与えていたからである, つまり賄賂をもらってなにもしないの は, 義理を欠く事となり, 封建的人 間には出来なかっ たのである. 賄賂を貰いながら汚職はしてい なかったので処罰 の対象にはならないと言うのは戦後の現象である. 足軽は先述した様にお足つまり給料が少 い者 (郷土を無足人と言うのは, 給料が輿えられない人 の意である) , 彼等の家族は働いて口を糊しなければならなかった, その様な待遇で, 忠実な奉 仕を 期待するのは無理だと, 封建時代の人間は考えた, 足軽に裏切られたら裏切られた方が悪いのであ る, 赤穂47土から足軽身分の者がはずされたのはその為である. 彼は打入りによる処罰を忍ばねば ならぬ程の義理合いを5万3500石赤穂侯浅野長矩に対して持っ ていなかったのである 厳密に言え . ば, 下士や, 直接の家来でなかった大石主税にもその義理合はなかったが, 準じて扱われたのであ る,. 貰うだけで返さなくて良いのは乞食だけであっ た, 彼等は封建的な大原則に反する生活をしてい たので, 社会最低の人達として軽侮されて いたのである, 封建的な忠節はその様な倫理感の中に位置していたのである, 唯武家の主従関係は, 生命を掛けてお互の権利を守るうと言うものであったから, 有事に生命を 棄てるという事は当然の約束事であった, 琉球国王は, 秀吉の朝鮮征伐に出兵を要求されたにもかかわらず, それを拒否したと言ういきさ つもあって, 一応の王朝の体裁をととのえながら, 武官と軍事組織を全く欠いていた, 随って彼は. 薩摩藩主の封建的家臣にはなれず,古代的収奪の対象となって,年額一万石相当(麻織物等が多かっ た) の年貢を取立てられていた, 軍役奉仕が出来なければ, 家臣としての保護はない 家臣の領地 , から年貢が藩主に取立てられる事は全くなく, 家臣は目領の年貢を一人占めに出来たのである.. 天皇への無償の奉仕は, 年中絶えずやらされてはやりきれない, 封建制の発達した所以であるが, 一朝有事には膨沸として天皇 への忠誠心が涌き起っ て来るのであっ た (幕末の勤王には 嬢夷の外 , , に, 中央集権の中心に将軍でなく, 天皇を据えると言う歴史的課題があったが, その様なものの一 つに外ならなかった.) この二つの忠節の違いは, 儒学に毒された者以外は, 封建時代の人間にはよく分っていたのであ るが, 儒者や知識人には必ずしも良く分っ ていなかった. 吉田松陰もその例外ではなかった, 明治 以後になっ ても, 学者や知識人にはよくは理解されないままであった,. 13.
(5) . 栗 原. 三. 薫. 封建制の崩 壊. 封建社会は, その基礎に人間不信があった, 第 一章で述べた通りである. 古代社会は,権力に対する性こりもない期待が崩れては, 又興り,崩 れては又興る繰り返しであっ た, 我国を除くアジヤ, アフリカ諸国及 びロシヤは, その様な状況から未だに脱け出す事が出来ず に い る の で あ る.. 我国及び西ヨーロ ッパ では, 権力に対する不信から, 主従関係が成立し長きに及んでいる. その 不信を持ち続けて, 封建制より資本主義制に移ったのである. 資本主義, 自由主義も権力不信を基礎に置く. 唯その対策が封建制と違うだけである. 資本主義, 自由主義では, 権力より不必要な部分を一掃し, 極端に小さい権力とし, しかもそれ を立憲制でし ばっ て保証としたのである. それは権力への信仰がある所では絶対に出てこないのである. それが労働者の権力であっ ても同 じである. 権力信仰のある所では, うまく行かぬのは, 権力が不十分な為と考えて, 権力をますま す強化して しまう. そして どうかすると大帝国の建設という所まで行ってしまうのである, 資本主義, 自由主義にとって, 大帝国は原則的にはわずらわ しく, 不必要或は有害なものである. 唯帝国主義時代はやや特異な時代として, その構造上の必要に応じ, 各々 の資本主義国は帝国の 建 設に励み, 我国もその例外ではなかっ た. 当時の植民帝国は, 時代の必要に応ずるものであっ たか ら, 夫々の資本主義国の名誉であっ たし, 今も名誉である. ともあれこれは自由主義の歴史にとっ て, 男装の麗人とでも言. うべき特別の時代であった. もとより我国の自由主義の台頭には, 江戸300年もの間に経済が発展し, 全国的な経済圏が成立 して, もはや地域や階層を多くに分割して置く事が出来なくなったと言う事がある, 唯その解決法 として古代帝国の再建ではなく,自由主義の方が択ばれたと言う 事については,70 0年続いて社会の すみずみにまで穆透 していた封建制, その精神 (武士道) が有効に働いたのではないかと思う, 熊本の神風連の生残り組で, 自由民権に走り, 遂には地方自治に貢献した者が多いが, かく尊王 撰夷が自由民権に接続するのは, それなりのいわれがあっ たとすべきである, 人間不信という点で 接続するものがあったからである. もとより人間不信といってもむやみに疑うという事ではない. 人間性 の本質 と考えて大事をとる という事である. 「武士に二言はない」と言うのは 百姓町人を小馬鹿にしているのである 武士は用心深く念を押 , . した. 自ら主張し, その上で人にもその権利を認めるの が武士であっ た, 戦場での功績は,武士が恩賞を得る為に大事な条件であっ た.そこで人に横取りされる心配があっ た, 主人はそこで家来のその日の軍功を確めて, 軍忠状という証文を書いて 一々渡し, 戦争にきり がついた時, その証文に依っ て恩賞を与えていた. 当夜だと証人, 証拠を得やすいので, よく調べ て証文をわた して後日の証としたのである. もとより所領を与える時には必ず文書によった. すべて口約束ですますと言う事はしなかっ た. (原形には, 律令制下ではすべて文書によっ た事があるかもしれない. 律令制は大規模な統治を律 令通りに実施する為であったが, 封建制ではそれで念を入れたのである) それは商人にも及んで いた. 受取ったお札を必ず数えるな どと言う今もやっ ている風習はその種の行為である. 証文を作 る事はもとよりの事である. 14.
(6) . 我国の封建制について. 華僑の様に信用と称 して文書を作らぬのは, 古代的やり方で, 力の弱い方が泣き目を見る事が良 く ある の で は あ る ま い か,. 四 封建制と個 我 封建制は, 信頼感によっ て成立っ ているのであるから, 個人対個人の関係である, そのよい例は, 豊臣秀吉が主人織田信長の殺された後, その子の織田信雄, 信孝, 孫の三法師(秀 信) を尊重して天下の事を行わしめる事なく, 彼等を抑えて己が天下に号令し, その子孫に伝えよ うとした事にある, これは主人信長との主従関係は, 信長と秀吉との個人の関係で, 信長の子の信忠や信雄, 信孝, 孫の秀信とは何の関係もなかった. 本能寺で信長, 信忠が急に死んだので, 秀吉は自由な行動が取 れたのである. 信長の後継者に秀吉がなっ ても誰も文句が言う人はいなかっ た, 当時の封建的習慣′ では容認出来る行動だっ たのである. 或は鎌倉の三代将軍源実朝を, その甥公暁が鶴岡八幡宮でおそって倒したのは, 実朝なき後は, 頼朝の血を引く己に将軍職が廻っ て来るとの考えだっ たと思われるが, 北条義時は公暁を殺して, 頼朝の血統を断った, 義時は頼朝, ついで頼家, ついで実朝の御家人, 家来ではあっ たが, 頼家の子ではあっても公暁 とは何の関係もなかった. 実朝は不意に殺されて, 後継者について遺言する余裕もなかった以上, 実朝の家来だった義時等が新しい主人を誰にしようと自由であった. 主人実朝を殺した公暁を, 主 人の罪人として殺し, 結果として源家の血統が途絶えるという道をえらぶのも自由であっ た. かくて北条義時は, 実朝とは何の関係もない藤原頼経を迎えて将軍としたのである, 江戸の将軍家が大名達に, 将軍の代替り毎に黒印状, 朱印状を新たに発行していたのも同じ原理 に基いてとられた処理である, 封建的軍隊は, 個人としての主人, それに対する個人としての従者, 又はその個人としての従者 を主人とする個人としての従者よりなっていたから, 個人としての主人を倒しさえすれば, その従 者の集団は, 戦争の目的を失っ て, 戦闘能力が十分あっ ても瓦解せざるを得ないのである. 従っ て死中活を求め様として, 総指揮をとっ ている主人を襲うて倒そうとする事は, 劣勢な側が 時として選んだ戦術であった. 楠正成が湊川の戦で, 足利直義をねらい, 楠正行が四条畷の戦で, 高師直をねらい, 織田信長が 桶狭間の戦で, 今川義元を襲っ たのは皆その様な戦術であった. それは封建的な軍隊に対する戦術 としてのみ有効であっ た, しかし大むね失敗した のは, 守る側でもそれを十分心得て用心していた からである. 成功した桶狭間では, 義元4万の軍は, 十分な戦闘余力を持ちながら瓦解し駿河へと 退いてしまった, 信長のねらいが当 ったのである. 大阪夏の陣で, 真田幸村が徳川家康の本陣を突こうとしたのも同じねらいであったが失敗した. これも同じ例である, 封建制が象徴的な形では, 大名が己の領土で何でも自由に出来た如く, 家来はそれぞれ自己の裁 量にまかされた領域を与えられていた, (領域とは必ずしも領地に限らない)それは主人が自ら信頼 出来る家来の数はそう多くはなく, 他の者は信頼出来ぬとすれば, それらの家来に己の仕事の 一部 を分嬉せしめる時には, その分野の自由な宰領を許さざるを得なかっ たのである. それは家族の間にも及び,妻は妻の領域を夫に対して持ち,夫の干渉を許さないと言う事にもなっ 15.
(7) . 栗 原. 薫. た. 台所仕事や, 衣類に関する事は, 妻の領域であった, 又子の教育は親の領域で, 祖父母の干渉 は許されなかった. 江戸時代には, 人それぞれにその領域を認めるやり方が社会の隅々 にまで行きわたっ ていた, それは総べて天皇に帰 し, 高級の役人であっ た伴造, 国造でさえ, とものみやっ こ(奴) , くにの みやっ こ (奴) であり, 部や国の奴隷と称せられていた古代とは著しく違っ ていた, (聖武天皇が, 三宝の御奴と言われたのは, その様な社会の下に於いて意味があったのである) 後述する様, 古代 は我国に自由の概念と言葉の生れた時代として尊重されね ばならないが, 社会の実状は, 奴隷が法 的にも実際にも存在 し, 自由民ですら賦役制の下で苦しんで居り, 中世封建時代に比べて末だしで あ っ た,. 我国の古代は奴隷制社会の名に価したが, 我国以外のアジヤ, アフリカ諸国, ロシヤは未 だにそ の状態にある. 中世になっ て, 己に許された領域の中での己の自由が見られる様になり, それが中世を通じて国 民各層, すべての国民に行きわたっ たのである. それが近代になってその領域を越えた自由に発展 したのである. 中世という踏台がなければ, どうして近代があり得たであろうか. (沖縄は社会構造の上では, 日本の他の地方より, 日本以外のアジヤ, アフリカ諸国と同じ領域で ある. 元琉球王国の領土で, 江戸時代の初期に, 島津氏によっ て取上げられた奄美大島以南の薩南 諸島も同じである. 此等の地帯は, 原始時代のまま日本の律令時代の統治の圏外に積み残されたの である. 日本の鎌倉時代頃より歴史時代に入り, 遂に封建時代を経験する事なく現代に及んでいる 為にそうなのである.). 五. 武士道と騎士道. 我国の封建制と西ヨーロッ パの封建制とは, 構造的に同じだが, 東西に分れて別々 に発展したの で, 具体的な現象的な事になると相違が著しい. これは逆に両者を比較し, 両者に共通するものの みが封建制に本質的なものとも言えるであろう. 例えば私は終戦直後京大で鈴木成高氏のヨーロ ッパ の封建制についての講義を聞いたが, 氏は我 国の封建制とヨーロ ッパ の封建制とは良く似ているが, 女性に対する態度では著しく違っ ていると 言わ れた, た しかに一 見ヨーロッ パの騎士道では女性を尊重し, 我国封建制では女性が低く見られているか に見えるが, 構造的に見れば必ずしもそうではないと思う. 封建制主従関係は擬制的に男女の関係にも入り込み, 夫は妻に家庭生活の大きな部分を専管の領 域と して与えてしまっ たので, 妻は自主性を持ち, それに応じた自由と尊敬とを得る様になったの である. 又妻や娘は夫や父の保護を受ける立場であったので, 第三者の力がすぐ及んで来なかった. これも女性の為に役立っ ていたであろう. 唯近世の封建的イ デオ ロギーとして, 実際にあっ た武士道とは別に, 儒教倫理が輸入されて居た. その儒教倫理の女性観が観念的に受け入れられて,知識層に女性を著く低く見る傾向を生ぜしめた. それにとらわれると, 具体的な実相を見損うのである,. 16.
(8) . 我国の封建制について. 六. 我 国に ・於 ける 自 由の概 念. 我国民の自由の概念は, 西欧のそれと平行し, 独自に現われている. 『養老令』 に 自由の語が使われている その 『戸令 に 「凡棄 妻 先由 祖父母々々 』 , 二 , , 「 若充二 . 『 「 夫得 祖父母々々- とある 自由 令集解 自由猶 也 に 目専 ……釈云 自由如 二 二 - - . 』 , 三猶言二任 . .」 , . 愚「 ……穴云, 自由. 謂目専也. 古記云. 得二自由「 夫任 意可し由人告知葉耳, 但以二手書‐送二里 長「 籍帳之時告二国郡-知耳也,一釈, 穴は当時の明法家, 即ち法律学者の名である, 『令集解 励ま彼 等の令の解釈も集めたものである, 釈は延暦時代成立, 穴は延暦時代成立説と, 弘仁, 天長頃成立 . 説とがある, 『古記』は, 『大宝令』の注釈なので, それに自由についての解釈があるのは, 『大宝令』 に於いて既に自由の語が使われて いた事が分る. (注3) ここに自由とは, 他より規則を受けないという意味で, 西欧のl i be t r y と同義である. 法律書のみでなく, 『日本書紀』 や 『日本後紀』 『三代実録』 な どにも使われている. 中世にも当時の裁判記録などに, 自由の語が時にみられるのは, 令に自由の語がある のを受けて いるのである, 一般用語としても使われ, 『同日辞典』 にも出ている. 西欧のもう一つの自由を意味する語としてf r eedom がある. これは元来王侯が献金に対する反対 給付として典える封建的身分の事である, それがその身分を得た者にとって自由を意味するので自 由の意味を持つ様になったのである. 我国にその様な言葉はない, しかし献金や借金の棒引きの反対給付としての封建的身分の授輿は あった, 所謂苗字帯刀である, それは実質的にそれを持った人の自由を意味したが, 苗字帯刀が自 由の意味を帯びるには至らなかった, これは我国の封建制が, 江戸時代に自然に成熟し, 自由主義に移行して行く形勢にあっ たが, 幕 末西力の東漸によっ て, そのゆるやかな動きが外部の刺劇による急激な変化に変った その為に, , 西欧の様に, 苗字帯刀という言葉が自由の意味を帯 びる余裕がなくなったのである.(この様な所に 自由の本質が露呈しているのである) これを見れば我国の自由主義は, 西欧の自由主義の影響が我国に及んで始めて成立したものだと 専ら言うのは必ずしも適切ではないの が分るであろう, 欧米以外で, 我国にのみ資本主義が成立した本当 の理由もその辺にあると思われる 一朝一夕の . 事ではなかったのである,. 注- 班田農民は, 自ら耕作する土地を持ち,家をなしていたが, 主たる賦課は傷役, つまり強制された労働であっ た, それは農奴の属性に外ならない, 注2 蔵人所が薬子の変後も永続したのは, 奈良時代を建設し維持して来たますらを等も次第に姿を消し, 政官界 更には国内一般に腐敗の色が日に日に強く強くなって来た為, 天皇が私的な臣下である蔵人で側近を固める必要はな くなりはしなかったからである, つまりいづれにせよ蔵人所が必要な時期になっていたのである, 薬子の変はきっか けになったに過ぎない. 注3 古代の自由の用例 「 一 『令集解』 凡棄し妻. 先由二祖父母父母- . 若無二祖父母父母「 夫得-自由- . ……古記云, 夫一得自由, 謂夫任し 17.
(9) . 栗 原. 薫. 意可し由人告知棄耳, 但以ニ手書-送一塁長一 , 籍帳之時, 告二国郡-知耳, 『令義解』 ……謂 自由猶二目専一 , . 『古記』 は天平10年頃の 『大宝令』 の注解 『大宝令』 は7 01完成, 我国最古の用例である, . 村尾次郎氏が, 『東洋文化』 復刊7号 「日本人の思惟と表現 --・自由″ に関する二三の史料 --」 で, 我国の自由 を不法不道の人間行為を意味するとされたが, 我国の自由の最古の用例では, 純粋にその人の権利を示している だけ で, 不法, 非道の意味は全くないのである, 村岡美恵子氏は, 『法政史学』25号 「『自由』 の語義の変遷にみる思想史的意義」 で, 『令義解』 を引き, 「『令義解』 戸令七出之条に, 凡棄し妻, 先由二祖父母々々- . (謂, 自由猶し云ニ目専一也,)とあ . 夫得二自由- . 若無ニ祖父母々々- る. つまり 『令義解』 を施行した承和の頃にあっては, 「自由」 はまだ語義に註を必要とする程度に外来語であったこ とを示し, 同時にまたここに至って, 少なくとも法律用語としてのその語義の明確化とその一般化があると考えられ よ う.」 と さ れた.. 村岡氏は 『令集解』 を利用されていないが, 『令集解』 には, 本文で書いて置いた如く, 延暦時代の注釈の釈云に如 三猶言二任意-とあるとあるので, 承和の頃は延暦の頃に溺らせねばならない. 更に天平時代の注釈である『古記』にも, 夫の任意, 由るべき人, 告知し棄つるのみとある. これは自由に当る国語学的解釈が任意で, 由るべき人云々は, こ の条項を法律学的に説明する為に付け加えたのである. 釈云の任意は 『古記』 の国語学的解釈のみとったもので, 穴 云の目専はそれを更に言いかえたものである. (法律的な意は自然に一切の制限を含まぬ事となる)したがって自由の 用例として天平時代まで溺らせる事が出来る, 更に 『古記』 は 『大宝令』 の注であるから, その本文と思われる 『夫』 1年には, 自由という用語が使わ 01年に完成したのだから70 得自由は, 大宝令の本文と見てよい, すると大宝令は7 れていたのである, この時自由が何の意味か理解される事なく無意味に使われていたのだろうか. 任意という注解は 天平時代のものであるが, そういった理解は発布当時, 単に制定に関った人達だけでなく運用に関る相当多数の人に 理解されていたであろう. 朝廷は発布当時律令の普及徹底に努めたので, 又法というものの性質からそう考えられる. 運用にあたる官吏, 又一般人民多数の理解なしには法による統治はなりたたないからである. したがって村岡氏の承 和は大宝にまで測らせるべきである, そこまで溺らせてみると, 用例が二つあり, 養老4年に成立した『日本書紀』より更に20年湖る事になる. そして, 日本における自由の用例は勝手気ままといった意味ではなく, 他より制約されないというしたがって道徳的判断を伴 わない言葉としてはじまっていると言う事になる, 今まで誰もふれていないが自由には対応する和語がある. それはわがままである. これは中世以後は勝手気まま, つまり道徳的批難を伴う言語として使われる様になったが, 元来はそうでもなかったのである, それをあげてみたい, ー 『源氏物語』 賢木巻 院 (桐壷院, 源氏父帝)のおはしましつる世こそ, はばかり給ひつれ, 后の御心いちはや くて,「かたがたおぼしつめたろ事どもの, 報いせむ」と思すべかめり, 事にふれて, はしたなき事のみ出くれば,「か かるべき事」 とは思ししかど, 見知り給はぬ世の憂さに, たちまふべくもおぽされず (世間につき合う気にもなれな い) , 左のおほい殿 (左大臣) も, すさまじき心地し給ひて, ことに内にも参り給はず, 故姫君を引きよきて (東宮は よしにして) , , この大将の君 (源氏) に, 聞えつけ給ひし (さし上げなさった) 御心を后は思しおきて (根にもって) よろしうも, 思ひ聞え給はず. おとど (右大臣) の御中も, もとよりそばそばしう (よそよそしく) おはするに, 故 院の御世には, (源氏は) わがままにおはせしを (自分の思ひ通りにしていらっ しゃったのに) , 時移りてしたり顔に お はす る を, 「あ ぢき な し一 と {右大臣が) おぼしたる, ことわりなり, (かっこの内は玉上琢弥氏 『源氏物語』 の口. 語釈) 右大臣--一弘微殿女御(后) ”÷ ÷ ÷ 今上 (元東宮) 故 院. 左大臣. 姫. 桐麦上皇が崩ぜられると, 他に愛情が移って羽ぶりが悪かった弘徹殿女御や右大臣の立場がよくなり, 逆に今まで 羽ぶりのよかった左大臣や源氏が羽ぶりが悪くなったのである. 源氏は故院御在世中には, わがままに, つまり他よ り規則される事なく振舞っていたのである. このわがままには道徳的批難の意味はない. 2 『栄華物語』 二九 たまのかざり 18.
(10) . 我国の封建制について 方寿四年 (後一条天皇御代) , 一品の宮 (三条天皇皇女禎子, 後三条天皇母) は十五, 東宮 (後朱雀天皇) は十九, 女房もわりなかりつるに, いとどおもふ事なきよのありさまなり おのおの我ままにみがきたてて たつ (辰) のと . , き ばか り に こ そ, お ま へ に いく めり .. 東宮が禎子の御所に行き一夜明した翌日, お仕えしている女房がそれぞれ自由に思うままに化粧して午前8時頃 , 東宮や一品の宮の御前に出たのである. この場合もわがままには道徳的判断が加っていない 思う様にやっているの , だがそれは良い事でも悪い事でもないのである. この用例をみると, わがままには後に付け加った道徳的判断は元来は付いていなかったのである そして単に他よ , り規制されないと言う意味である, 村尾次郎氏は前掲論文で, 「『ことば』 は, 語の意味が民族的共同生活にとって本質ともいえるほど深く歴史的に惨 透した意味に添って使われてのみ, 生命がほとばしる, これにさからって, すでに高度の内容を含むにいたった外国 語を -- 翻訳するに当って, 語の意味の歴史性を無視して既存の国語から訳語を選んだとすれば……」と述べて居ら れるが, わがままは, その様な言葉である. わがままのままは, 紙父 継母 継子などのままで境い目があるの意で , , , わがままはその境い目を自由に越える事が出来るという意味である それが他より規制されないと言う意味を持つ様 , に な っ た の である,. 他より規制されないと言う意味を持つに至って, 自由の我国での最初の使用例に対応する様になったのである . 其庶兄手研耳命, 行年己長, 久歴二朝機「 ……遂以二諒闇之際-綴精皆 雷 港目高禍ムー . . 図し害ニ二弟- .. ニ 『綴靖即位前紀. 綴靖は第二代. 三 『清寧即位前紀』 吉備稚媛 陰 謂-幼子星川皇子一日. 欲し登二天下之位- . 先取二大蔵之官- , ……遂取二大蔵官 「 鎖三 間 外門「 式備二乎 難 「 権 勢 自 由・費ニ用官 物 「 清寧天皇は雄略天皇皇子 でその次の天皇である, 雄略天皇崩御後, 吉備稚媛が自分の生んだ星川皇子を天皇としよ うとして失敗したのである, これら自由は谷川土清の 『日本書紀通証』 以来, 『後漢書』 より引いたと見られているが, 『綴靖即位前紀』 のは威 福自由の四字が合うだけ, 『清寧即位前紀』 のは, 権勢が威福に似ているということだけであるから 『後漢書』 より , 引いたと言い切る事は出来ない. 一方 『日本書紀』 の成立したのは養老4年 ( 20 ) で, 大宝令成立 ( 7 7 0 1 ) の20年後 で, それまでに大宝令は国内に定着して行ったのであるから, その条文も国内によくしられ, 『書紀』の編者もついそ れを利用したと見られぬ事もない. そして, 『書紀』の二, 三の例も, 他より規制されないという意味に解すればそれ はそれで理解出来るのである. { ニ七日 ) 四 『日本後紀』 大同元年八月丁亥 不し納ニ租米- 燈分梱 - , 勅,如聞,七道諸寺壇越等, 或佃二寺田- , . 或費- . ー モチヒ タグヒ 不し事 二燃燈- 還 経 年不 或奴蝉牛馬 俊 如 此之 流 -用私家 濁 類繁多 加以寺山樹木 し し 二 - し し , 或債二‐用銭物- , . . . . , , 任し意折損. 愛憎自由. 故二‐補三綱- . 有し一二於此- . 登謂二檀越‐ , 従し今而後. 若有し犯し一科二違勅罪- , 国司三綱衆 僧知而容隠. 亦輿同罪, 大同元年は8 06年嵯峨天皇即位の年である. ィ 武二用は借用. 俊用は役用, 折損は切りそこなう, 愛憎自由, 改補三綱は, 感情にまかせての行動が他よりの規制を受ける事がなく, 寺の役僧である三綱を勝手に改 補したという意味である, 十二日 { ) 五 『日本後紀』 弘仁元年9月己酉 , 藤原朝臣薬子自殺. 薬子贈太政大臣種総之女, …… (平城) 天皇之嗣し 位. 徴為二尚侍- 恩寵隆渥 , 巧求二愛娼- . . 所し言之事. 元し不ニ聴容- , 百司衆務. 吐納自由, 威福之盛. 露 二‐ 灼 四 方- 奥 天皇 同輩 知 衆悪之婦 己 遂仰 薬而死 ▽ 二 - 二 し , 周 二倉卒之際- , . , , 弘仁元年は8 10年, 四の四年後である. 嵯峨天皇の時代である. 百司衆務. 吐納自由は, すべての官庁の多くの事務がやるのもやめるのも他の規制を受ける事なく薬子の思いのま まであるという意味である. 無は薫である. ( 十二日 } 六 『続日本後紀』 仁明天皇嘉祥2年5月乙丑 , 遣二参議従四位上小野朝臣璽……於二鴻嘘館- , 賜二勅書井太 政官牒- 勘海国中台省 牒 得 中台省牒 -…“ 二 , 此日(潮海)客徒帰却……太政官牒日, 日本国太政官 , 二 -構……令し親ニ ナンゾ 貴国-者. 小之事し大, 理難二自由」 盈 - 縮期程 郡 得 在 彼 事須 在所却還 戒 其鯨違 二 - し し 三 二 - . . . . . 嘉祥・ 2年は84 9年である.この年湯海が12年を1期として使を我国によこすべきなのにそれより早く使をよこした の で, そ れ をと がめた の で ある.. 「 小之事し大. 理難二自由- , 盈二‐縮期程- , 那得し在し彼は, 小国が大国に仕えるには, 道理として小国が制限される 19.
(11) . 栗 原. 薫. 2年の期限を守ったりちぢめたりする権利がどうして彼潮海にあってよいもので 事なく行動してよいものではない,1 あろうか,」 の意である. 七 『三代実録』 清和天皇8年4月11日乙酉. 近江国言. 播磨国加古, 美嚢2郡夷伴長宇賀古秋野, 尺漢公手纏等 放縦如し此. 従来任し意. 出入自 5人, 妄出越し境. 来在二此国- . 太政官下二符播磨国-称. 凡夷惇之性, 野心無し悔. 由, 是則国司防禁疎略. 無し心二有徳一之所し致也. 貞観8年は866年である, 帰順した蝦夷の夷伴を播磨国に置いて同化させようとした所, 勝手に近江国に住んでいたのである, 従来任し意. 出 入自由は従来心のままに播磨国の国境を出入りしているというのである,この自由も規制される事なしで意味が通る, ・帝不し聴, 遣ニ左 八 『三代実録』 陽成天皇元慶4年12月15日甲午, 正2位太政大臣藤原朝臣墓経上表日, 伏‘…・ 此職 把第 宣 日 口勅 就 太政大臣批 一 一 二 近衛少将正5位下兼行沓院長官近江権介藤原朝臣遠纏- ニ . 大上天皇之所ニ拝 , , . 旧 職撮理如 須 早親 戒心勿 潔 時 加之諒闇在 豆朕之可 - 自由 乎 し ニ し 授- し し , - , ニ , , . 元慶4年は88 0年である, 基経が辞表を出したのを陽成天皇がしりぞけ, お前の官職は大上天皇 (清和) が授けられたものだから, 朕の自由 になろうかと言われたのである. この自由も他より規制を受ける事なく思いのままの意で筋が通る. 1日壬申. ……又謀首……府司大監正六位上平朝臣高平…… 追ニ‐捕罪 九 『三代実録』 光孝天皇仁和元年12月2 人- . 拷掠違し法, 放免自由, 仁和元年は886年である, 2年前元慶7年7月19日, 筑後守都朝臣御酉が殺された. そこで太宰府の役人である大監正六位上平朝臣高平等が 命を受けて犯人を取調べた. その折罪人をつかまえ, 法に反して拷問むちうちを行い, 或は勝手に許したというので 罰せられたのである. 0 河内守源頼信告文案 (石清水田中家文書) 十 『平安遺文』 巻3 64. 承元元年歳次丙戎 若有二諸謬‐者. 省過錐失, 不し虞二自由- . 承元元年は1046年, 後冷泉天皇受禅即位の翌年である, この告文にまちがった点があっても勝手に直すなというのである. 清和源氏の出目に通説と異る記載がある. 405 十一 『平安遣文』 巻4 1. 民有年解案 (書陵部所蔵壬生家文書) 民有年解申祭主裁事 請被任道理令礼返, 僕従伴常遠馬一疋 為検非違使経貞 不論是非押取不し安愁状……而件. 御使(検非違使)経貞先不尋札如此文書, 押取之旨, 不し似ニ尋常沙汰- , 以二自由事-為し事, 不 , 例内々難し鰯二此由- 也 …… 例今所訴申 返 件馬 - し ニ , . 承徳3年7月 25 日 民有年 99年で堀河天皇の御代である. 承徳3年は10 有年は有年名主とこの文書に記してあるので,これは名主層の文書で,名主の様な身分の者も自由という言葉を使っ ていた事が分る. 自由事は法や公的機関の判断を待たずに, これを無視し, 己の判断に基いて行動するのを正しいとする事.『鎌倉遺 440 文』 には, 自分で勝手に税額をきめて, 公的な賦料を無視する国を自由所済国と記している. ( , 主殿寮年預伴守. 方解) ) 701 要するに我国で最も古い自由の用例は大宝令の中にあり ( , それは他より制約を受けぬという意味であった, 国語のわがままの原義は他より制約を受けず思うままに動く事で同義である. わがままが自由の訳語として作られた とすると, 自由の原義が他より制約を受けぬという意味だった事を証拠づけているし, わがままが自由とは別に発生 した言語だとすると, 共通の概念が別の共通の意味を持つ言葉を生んだと言う事になる. 自由は 『後漢書』 の用例に は道徳的批難の意が含められているが大宝令, それを引いた養老令には全くその様な意味がない. 和語のわがままに もないのである. それ以後の例には, 道徳的批難を伴っていると見てよいものもあるが, 大宝令, 養老令の他より規制を受けぬ事と いう意味が, 律令の普及と共に一般の文章, 言語にかつては律令のみにあった自由が応用利用される様になり, やが て道徳的批難を含む用例もある様になったと解してよいのではないかと思う.. 20.
(12) . 我国の封建制について 中世封建社会は社会的自由という点で古代的迷路を抜け出ていた. 権力信仰 (権力がよくなれば国家統治がうまく 行く様になるという信仰) をすてているからである. そこではそれぞれ己の領域を持ち自由であった 非西欧世界で . 我国にそれが可能になった理由が色々あるにしても, その一つに我国に個我の自覚が行きわたっ.ているという事があ げられるであろう. 中世自由の用例は義仲が兵をあげてより急にふえ室町に及ぶ, 中世は自由を求める武士と自由を批難する貴族社寺 との争いの時代でもあった, {発生期の言語は精神史の史料たり得るのは, その原義がその当時はすべての人に知られていたと考えてよいから である. 旗をハタというのは, 旗が風にひるがえる時パタパタと音をたてるのでパタと言ったのである パタが音韻 . の変化でハタになったのである, 応神天皇の誉田ホムタの古音ポンタ は 『書紀』 に胎中天皇とある, その和語で, ボ ンは腹の意のポンポン, 父帝仲哀天皇崩御後, 応神天皇は母后神功皇后の胎中にありながら天皇であったので, ボン タなのである, 人はひと (一) と (人, 隼人ハヤトのト) のととが約ってひととなったものである. どちらも乙類の とである, 獄をひとや (馬屋にうまが入っている様にひとが入っている) というひとは, 単なる人ではなく罪を犯し て共同体より追放された一人ぼっちの人である, 仲哀天皇が三韓征伐の御神託を疑ってひと道をゆけと言われて崩御 された事, ひと道は追放され一人ぼっちとなった人の行く道である. 帰化人が姓がわりに使っていたひとも, 母国よ り離れた一人ぼっちの人の意である, 熊野速玉神社のひとつものというのもある, これらは人間一般をさすひとと同 時に使われていたのである, 当時の人は, ひとの語源をしり, その意味を知り受け入れていたのである. そ のひと= 人は一人ぼっちが語源なのである, 人は元来疎外された人間の意であったが, 人間とは元来その様に孤濁なものだと いう自覚が生じて一人ぼっちの人間の意味から人間一般をさす様になったのである, ひとに原義と人間全般との両義 があった時代が上代にあって,その時代,或はそれ以前に作られた熟語が今に残っているのである ひとに両義があっ , た頃には, 人間とは孤濁なものだと言う事が自覚されていたのである, つまり日本人一般に個我が自覚されていたの である, エリートだけでなく庶民一般にそうだったのである. 個我を知る者は銘々が自由にやるしかないのである . 個我の自覚は自由の主張に連る. 自由という言葉が古代に使われていて不思議はないのである,} 注3は私の退官最終講議の一部である, (本学 教 授. 旭川 分 校). 21.
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