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唐代の通行証に関する一考察 : 「行牒」と「往還 牒」を中心に

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(1)

唐代の通行証に関する一考察 : 「行牒」と「往還 牒」を中心に

その他のタイトル A Study of guosuo(過所)and gongyan(公験)

in Tang Period

著者 佐藤 ももこ

雑誌名 史泉

巻 120

ページ A1‑A23

発行年 2014‑07‑31

URL http://hdl.handle.net/10112/00023639

(2)

唐代の通行証に関する一考察

──「行牒」と「往還牒」を中心に──

佐 藤 ももこ

は じ め に

唐朝(618〜907年)は,その支配下におけるヒトとモノの動きを管理するために,都である 長安から帝国全土に非常に発達した交通システムを構築,運用していた。ただし,その支配領域 内での交通には,すべて予め定められた通行証の取得が義務づけられており,官司による認可を 必要とした。そして,移動の目的や通行者の立場によって,いくつかの種類の通行証が使い分け られて給付され,唐はそれによって人々の移動を掌握し,『唐律疏議』には,駅使は「符券」,伝 送は「逓牒」,軍防・丁夫は「総暦」,その他のものは「過所」と呼ばれる通行証をそれぞれ支給 すると規定する(1)。また,入唐僧の日記などから「公験」と呼ばれる通行証が存在したことも知 られている。彼らが将来した「公験」の実物も伝世し,吐魯番出土文書からも「公験」が見つか っている。また,「行牒」などの通行証が存在したことも,出土文書から読み取れる。ただし,

通行証として現存しているのは,「過所」と「公験」の17通のみであ る(表1 唐 代 の「過 所」・「公験」一覧 参照)。これまで,唐代の通行証は,多くの研究者によって議論されてきた

(表2「過所」・「公験」に関する先行研究 参照)(2)。しかし,膨大な研究の蓄積があるにも関わ

らず,「過所」と「公験」についての明確な定義は定まっていない。また,その二つの通行証に 焦点を当てた研究が多いため,その他の通行証に関しては,未だ明らかになっていない点が多数 存在する。加えて,近年発見された北宋天聖令などの新史料は,通行証という視点からはまだあ まり研究が進められていない。特に,北宋天聖令には,「行牒」と「往還牒」という通行証に関 する記述が存在する。しかし,これらの通行証がどのような機能を持つのか,いまだ明らかにさ れていない。そこで,本稿では,「過所」と「公験」の機能について,改めて考えたい。そして,

「行牒」と「往還牒」がどのような通行証であるのか,通行証全体の中でどのような役割を果た したのかを検討する。以下,第一章では「過所」と「公験」について,第二章では「行牒」と

「往還牒」について分析し,唐代の通行証について考えたい。

第一章 「過所」と「公験」

第一節 先行研究と問題点の指摘

先述のように,多くの研究者が「過所」と「公験」について検討を重ねてきた。まず,先行研 究において,これら二つの通行証がどのように理解されてきたのかについて確認をする。日本で

― 1 ―

(3)

初めて「過所」と「公験」について言及したのは内藤湖南である。内藤湖南は「過所」を関津通 過の際に用いられる文書とし,「公験」を州県鎮鋪においての通過に用いられる文書としている。

ただし,通行証について断定的な定義についての記述はない(3)。それに対して,仁井田陞が反論 を加えている。仁井田陞は「公験」のなかでも関津の通過のために用いられたものを挙げ,「公 験」でも関津の通過の際に使用されたものがあったことを指摘している。また,その異同につい ては「公験」の通用範囲が狭いことに対して,「過所」のそれは広かったようであると,曖昧な 表現に終始している。さらに,「過所」の発給担当官司や,通行証を持たずに移動した際の罰則 などについても考察している(4)

1 唐代の「過所」・「公験」一覧

対 象 者 発 給 年 月 日 西 暦 発 給 官 府 分 類 書 式

図 版 1 石 染 典 開 元 二 十 年 七 三 三 瓜 州 都 督 府 過 所 標 準 過 所 式 池 田 1980, p.327 ;

礪 波 1993, pp.705−706 ;

﹃ 図 文 pp.275−276 ﹄ 4, な ど

︒ 2 不 明 天 宝 七 年

七 四 九 沙 州

過 所 標 準 過 所 式 礪 波

︑ 1993, p.702

︒ 3 年 某 不 明

不 明 西 州 都 督 府 過 所 標 準 過 所 式

﹃ 図 文

﹄ 4,p.199

︒ 4 円 珍 大 中 九 年

八 五 五 越 州 都 督 府 過 所 標 準 過 所 式 内 藤 1930, pp.1330−1331 ;

礪 波 1993, p.695 ;

﹃ 園 城 寺 文 書

﹄ 1, pp.98−99

︒ 5 円 珍 大 中 九 年

八 五 五 尚 書 省 司 門 過 所 標 準 過 所 式 内 藤 1930, p.1331 ;

礪 波 1993, pp.697−698 ;

﹃ 園 城 寺 文 書

﹄ 1, pp.98−99

な ど

︒ 6 米 巡 職 貞 観 二 十 二 年 六 四 九 庭 州

公 験 簡 易 辞 式 礪 波 1993, pp.709−710 ;

﹃ 図 文

﹄ 3, p.306

︒ 7 某 人 調 露 二 年

六 八

〇 不 明

公 験 標 準 不 明 礪 波 1993, p.711 ;

﹃ 文 書

﹄ 5, pp.213−214

︒ 8 石 染 典 開 元 二 十 年 七 三 三 沙 州

公 験 簡 易 牒 式 B 池 田 1980, p.327 ;

礪 波

︑ 1993 ; pp.705−706 ;

﹃ 図 文

4, pp.275−276

な ど

︒ 9 最 澄 貞 元 二 十 年 八

〇 四 明 州

公 験 標 準 牒 式 B 礪 波 1993, p.675 ;

石 田 1998, pp.92−95 ;

荒 pp.273−275 川 2000,

︒ 10

最 澄 貞 元 二 一 年 八

〇 五 台 州

公 験 簡 易 牒 式 B 礪 波 1993, p.676 ;

荒 川 2000, pp.273−275

︒ 11

円 珍 大 中 七 年

八 五 三 福 州 都 督 府 公 験 簡 易 牒 式 B 礪 波 1993, pp.680−682 ;

﹃ 園 城 寺 文 書

﹄ 1, pp.72−73

︒ 12

円 珍 大 中 七 年

八 五 三 温 州 横 陽 県 公 験 簡 易 状 式 礪 波 1993, p.685 ;

﹃ 園 城 寺 文 書

﹄ 1, pp.76−77

︒ 13

円 珍 大 中 七 年

八 五 三 温 州 安 固 県 公 験 簡 易 状 式 礪 波 1993, p.686 ;

﹃ 園 城 寺 文 書

﹄ 1, pp.76−77

︒ 14

円 珍 大 中 七 年

八 五 三 温 州 永 嘉 県 公 験 簡 易 状 式 礪 波 1993, pp.687−688 ;

﹃ 園 城 寺 文 書

﹄ 1, pp.78−79

︒ 15

円 珍 大 中 七 年

八 五 三 台 州 黄 巌 県 公 験 簡 易 状 式 礪 波 1993, p.689 ;

﹃ 園 城 寺 文 書

﹄ 1, pp.80−81

︒ 16

円 珍 大 中 七 年

八 五 三 台 州

公 験 標 準 牒 式 B 礪 波 1993, pp.691−692 ;

﹃ 園 城 寺 文 書

﹄ 1, pp.74−75

︒ 17

円 珍 大 中 七 年

八 五 三 台 州 臨 海 県 公 験 簡 易 状 式 礪 波 1993, p.690 ;

﹃ 園 城 寺 文 書

﹄ 1, pp.80−81

― 2 ―

(4)

ついで,駒井義明がこの問題について言及した。駒井義明は,「大中九(855)越州都督府給円 珍過所」(表1−4)・「大中九(855)年尚書省司門給円珍過所(表1−5)」・「貞元二十(804)年最 澄明州牒」(表1−9)・「貞元二十一(805)年最澄台州公験」(表1−10)という4通の通行証を紹 介しながら,「過所」を関所手形とし,「公験」を旅券と定義した(5)

小野勝年は円仁『入唐求法巡礼行記』(以下,『行記』とす)を考察するなかで,「過所」と

「公験」についての見解を述べた。「公験」とは広く公的証明書を指す言葉であり,旅行証明書も その意味では「公験」の一つであるという。この考えは,多くの研究者に踏襲され,影響を与え た。これに,杉井正臣と中大輔も賛同している。杉井正臣は「公験」を中央・地方を問わず一般 官府が発給する証明書であり,使用目的が広範であるので,通用範囲が指定されないとしてい (6)。また,中大輔も小野勝年と同様に『行記』に登場する通行証を検証しながら,「公験」を 公的証明書とし,「過所」もそれに含まれると定めた(7)。山岸健二も小野説に従う。さらに,小

2 「過所」・「公験」に関する先行研究

「公験」

州県鎮鋪の通過のための通行証。通用範囲 が狭い。

常に通用範囲狭いわけではない。関津通過 にも用いられた。

旅券。

公的証明書。過所も含む。広義と狭義,2 種類存在。

地方的。関津が衰えるにつれて,過所の機 能も兼ねる。

公用交通で発給された。

一般官府の証明書。使用目的が広範。通用 範囲は指定なし。

関所以外のための通行証。管轄外の交通も 認可。

発給官司の管轄内と隣接する州県の交通に 用いられる。往復用。

差異なし。

公的証明書。過所もこれに含まれる。

差異なし。ただし,過所には所定の書式がある。公験には書式なし。

差異なし。簡易型と標準型に分類。

「過所」

関津通過のための通行証。通用範囲広い。

関所手形。

官吏の私用交通のための通行証。

全国的。

関津の通過のための通行証。

関・戍・守捉の通行証明。

私用交通で発給された。公験の一つ。

関津以外の通行にも用いられる。

関津の通過のための通行証。

発給官司の管轄外の交通を認可。片道用。

関津の通過のための通行証。

内藤湖南 1930

仁井田陞 1937 駒井義明 1957 瀧川政次郎 1958 小野勝年 1961

青山定雄 1963 曽我部静雄 1973 王仲葷 1975 小西高弘 1979 館野和己 1984 杉井正臣 1990

山岸健二 1996

荒川正晴 2000 程喜霖 2000 石田実洋 2000 中大輔 2005 孟彦弘 2007 桜田真梨絵 2011

― 3 ―

(5)

野勝年はこの二つの通行証の差異について,「過所」は関所の通過など広範な旅行に用いられる ことに対し,「公験」は行用範囲が狭いとした。また,「公験」に関して書式面から検討し,「公 験」と呼ばれる証明書には二種類あり,正式と略式があるとした。正式は,令の定める牒式に準 拠する。それに対して,略式は,当人の願書の末尾に「任為公験」などと大書し,それに年月と 責任者の押署をしただけの簡単なものである,と区別した。しかし,小野は,正式を「公験」と はみなしていない(8)

瀧川政次郎は,以前の考察にはなかった発給目的という視点を提示した。「過所」は官人の私 的交通の際に発給された通行証と定義した(9)。それに付随して,小西高弘も「過所」は私的交 通,「公験」は公的交通のために発給されたとする。また,「過所」と「公験」の差異について は,小野説(10)に従う(11)

また,駅伝制について多くの研究を行った青山定雄も,交通システムの一環として通行証につ いても述べている。青山定雄によると,「過所」は全国的に,それに対し「公験」は地方的に使 用され,関津の衰退という時代の変化にともない,「公験」が「過所」の役割を担っていったと いう(12)

曽我部静雄は正史の記述を引き,「公験」を旅行の際,旅行者の身分証明のために与えられる 公文書とした。「過所」については関所を通過するに際して用いられるパスポートであるとした。

二つの相違については,「過所」も「公憑」(つまり,「公験」である)の一種であると述べ,た だし,「過所」は関所にだけ用いられる特殊な公憑であったとする(13)

さらに,二つの通行証を巡る議論に新たな方向性を提示したのは,館野和己である。彼は,

「過所」は関津以外でも検閲されるという見解を発表した。令文では,関津の通過に際してのみ 必要と規定されているが,実際は,兵士が駐留防守する所を通過する際にも用いられるとした。

関津以外の場所では必ず確認されるわけではなく,不審な人物が通過しようとした際のみ,通行 証を取り調べたという。これは,「過所」は関津通過のための通行証であるという,内藤湖南以 来学界に定着していた認識に大きく変化をもたらした(14)

石田実洋は「過所」の宛先に着目し,分析を行った。「過所」は,これを所持して関所を越え ようとする発給対象者でなく,目的地までの路次にある勘過官司を宛先として発給されたとす (15)

荒川正晴もこの議論に補訂を加えている。荒川正晴は「公験」には二種類存在すると述べてい る。一つ目は官司が発出する牒であり(つまり,小野勝年が正式とするもの),二つ目は通行申 請者が官司に提出した辞や牒に官側の判辞を加えたかたちを取るもの(つまり,小野勝年が略式 とするもの)であると定めた。また,「公験」正式は,「公験」ではないと主張した小野説を否定 した。この分類を行った上で「過所」と「公験」の使い分けに関しては,発給官府の管轄を超え て移動することができるものを「過所」,管轄領域内と隣接する官府でのみ機能するものを「公 験」とした。さらに,「公験」略式は往復だが,「過所」は片道であるとする(16)

さらに,中国でも,同様にこの二つの通行証の異同についての研究が進められてきた。王仲葷 が「過所」を関・戍・守捉の通行証明とした研究にはじまり(17),程喜霖は「過所」と「公験」

― 4 ―

(6)

は機能面での違いはないと定義している。その理由として,三点提示している。まず,どちらも 関津を渡る通行証であること。次に,発給手続きが同じであること。最後に,書式が同一である ことである(18)。孟彦弘も程喜霖に同意し,二つの通行証には差異がないと示されている。ただ し,「過所」には所定の書式があり,「公験」は特定の書式がないとしている(19)

また,1999年に戴建国によって北宋天聖令(20)の存在が明らかとなり,その新史料の発見によ って,通行証を研究する可能性も広がった。孟彦弘は天聖令関市令(21)の唐1(22)について分析を行 い,「その副本を自分で作成し」という部分を「過所」を発給してもらう際に提出する証明書

(例えば,連れていく馬や奴婢などを合法的に購入したものだと証明するためのもの)の写しを 作成することであると指摘する。「副」とは控えをいい,「白」とは公文書に官府の印鑑が押され ていないことであるとしている(23)

さらに,吉永匡史は,天聖令においての宋令と唐令を比較し,宋代に関わる諸規定は唐令をさ ほど改変していないとしている(24)。吉永匡史は宋1(25)の本注に「今日公憑。下皆准之」とあるこ とを指摘し,仁井田陞が,宋代では関の通過のために「過所」は用いられず,「公憑」という通 行証が使用されていたと指摘した(26)ことに触れながら,宋令制定の際に「過所」を宋代に使用 されていた「公憑」へと名称の変更をしなかったということは,宋令自体がそのまま唐令を継承 した可能性が高いのではないかと推測する。つまり,宋令においての「過所」についての記述 も,唐代の「過所」を検討するための一つの史料としてみなしてよいのではないかと示唆してい る。

近年,書式面という新たな側面から,これらの通行証に関する分析が行われた。桜田真理絵に よると,形式,書式,表現上の違いがみられないので,「過所」と「公験」は同一のものである という。結論は程喜霖の説(27)と同様である。しかし,二つの通行証を,官が新たに通行証を作 成した標準型と,通行者の申請書類に担当官が認可を行い,そのまま通行証として使用した簡易 型,という二つの形式に分類した。確かに,小野勝年が「公験」には正式と略式が存在すると指 摘し,他の研究者もそれについて同意していたが(28),その形式に着目し,その差異について具 体的な検討を行ったのは,桜田真理絵がはじめてである。そして,桜田真理絵は,標準型の対象 者を租庸調の納税の義務がある者と入京する者とし,簡易型を外国人とした(29)

以上,「過所」と「公験」の先行研究を確認した。多くの先行研究が存在する反面,いまだ

「過所」と「公験」について明確な定義は定められておらず,不明確な点も多い。

ここで,先行研究についての問題点を挙げる。それは,「公験」の定義が研究者によって大き く異なる点である。特に,混乱を招いているのが以下の二点であろう。第一に,「公験」という 名称が混合されて用いられていることである。「公験」という名称は,公的証明書全般を指す広 義での意味と,通行証を指す狭義での意味,二つを含む。研究者の多くは,「公験」という名称 を用いる際,広義または狭義どちらの意味で検討を行うのかを明らかにしなかったので,混乱が 生じたのではないか。例えば,小野勝年が「過所」は「公験」の一つであると示しているが,こ れは広義での「公験」つまり公的証明書全般を指しているのであろう。第二に,「公験」には二 つの形式が存在することを考慮せず,検討が進められたことである。小野勝年や桜田真梨絵が指

― 5 ―

(7)

摘するように(30),「公験」には正式と略式という二つの形式が存在し,それらを区別して議論す る必要がある。

第二節 「公験」

「過所」と「公験」の差異を明確にするために,まず,「公験」について考えてみたい。先述の ように,先行研究では,「公験」を検討する際に,正式と略式(31)という二つの形式が混合されて

1−1 「過所」・「公験」略図

― 6 ―

(8)

1−2 「過所」・「公験」略図

― 7 ―

(9)

↑赤木 2008, p.77 より転載。

2 唐代前半期の地方官府(西州)の公文書書式

― 8 ―

(10)

いる。これら二つは,一体どのように区別されていたのであろうか。桜田真梨絵は,これら二つ の使い分けの基準として,発給対象者を提示している(32)。すなわち,「公験」正式の対象者を租 庸調の納税の義務がある者と入京する者とし,「公験」略式を外国人とした(33)。しかし,「貞元 二十(804)年最澄明州牒」(表1−9)や「大中七(853)年円珍台州牒」(表1−16)のように,

外国人である日本人僧に対しても,入京が目的でもないにも関わらず「公験」正式が発給されて いる事例がある。したがって,この使い分けの基準は不適切といえる。また,単にそれぞれの発 給対象者に着目し,基準を設けることはできないのではないか。これら二つの形式を考えると,

「公験」正式は,初めて通行証が発給される場合と逓送が指示されている場合,略式は,それ以 前に発給された通行証が存在する場合に給付された。また,正式は州以上の発給に限定されるこ とに対して,略式は都督府から県まで幅広い官府が発給可能であった。さらに注目するべきこと は,略式には「印」という文字が記載されている。これは,「公験」略式にのみ見られる特徴で ある(図1 「過所」・「公験」略図 参照)。発給の手続きを簡略化しているので,それを補うた めに,押印場所を指定しているのではないか。略式は,それ以前に発給された通行証がある場合 に与えられること,幅広い官府から発給可能であったことからもわかるように,民衆の往来を柔 軟に支えたのではないかと推測する。「公験」正式は牒式Bという書式(図2 唐代前半期の地 方官府(西州)の公文書書式 参照)に則り作成され,牒によって逓送の指示が出されていた。

通行証そのものとして発給された訳ではない。先ほど指摘したように,「公験」という名称は,

公的証明書全般を指す広義での意味と,通行証を指す狭義での意味,二つを含む。狭義での「公 験」が,すなわち「公験」略式であろう。この「公験」略式の発給が,「過所」や「公験」正式 を発給するまでもない,近距離や日常的な往来をカバーしたのである。

第三節 「過所」と「公験」の差異

それでは,「過所」と「公験」はどのように異なっているのか。この二つは全く別物であると 筆者は考える。この二つの通行証の差異について,四点提示する。

第一に,関所の通過に関わるか否かである。唐代の通行証において,関所が重視されたこと は,『唐律疏議』の記述から明らかである。『唐律疏議』巻8衛禁律,p.385には

ひそかに関所を通過する場合には懲役一年の刑にせよ。関所の門でないところを通過しよ うとする場合にはさらに一年を追加すること。疏議には以下のように記載されている。水陸 などの関所は,両方にそれぞれ門禁がある。移動する者は往来するために全員公的証明書を 持つこと。駅使は符券を審査され,伝送は逓牒により,軍防・丁夫は総暦を持つこと。それ 以外は過所を申請しそして通過せよ(34)

とあり,関所を不法に通過した場合の罰則を明記し,また,移動する者の立場や目的によって,

必要とされる通行証を定めた。唐では移動の際には関所の通過が不可避であった。多くの研究者 が指摘するように,「過所」は関所を通過するための通行証である。確かに,「開元二十(732)

― 9 ―

(11)

年瓜州都督府給石染典過所」(表1−1, 8)では,守捉において「過所」を確認される様子が見ら れ,関所以外の場所においても「過所」が確認され,それによって通過が許可されたようであ る。つまり,「過所」によって守捉なども通過することは可能だったであろう。しかし,関所の 通過のためには,「過所」が不可欠だったのである。通行証には,「恐所在○○,不練行由」とい う定型句が記載されている。「道中の○○にて,移動の理由をご理解頂けないことを恐れる。(し たがって,通行証を申請する)」という意味である。この○○が「過所」と「公験」で異なるの である(表3 「過所」・「公験」の定型句一覧 参照)。「過所」には,ここに必ず「関津」とい う文言が入っているが(35),「公験」にはそれがない。また,それぞれの「過所」と「公験」を所

3 「過所」・「公験」の定型句一覧

対 象 者

発 給 年 月 日

西 暦 分 類

定 型 句 1 石 染 典 開 元 二 十 年 三 月 十 四 日 七 三 三 過 所 標 準 過 所 式 路 由 鉄 門 関

︑ 不 練 行 由

︒ 請 改 給 者

︒ 2 不 明 天 宝 七 年 四 月 十

□ 日 七 四 九 過 所 標 準 過 所 式

﹇ 欠 損

﹈ 請 改 給

﹇ 欠 損

﹈ 3 年 某 不 明

不 明 過 所 標 準 過 所 式 路 由 関 津

︑ 不 練

︒ 謹 連

﹇ 欠 損

﹈ 前 請 改 給 過 所 者

︒ 4 円 珍 大 中 九 年 三 月 十 九 日 八 五 五 過 所 標 準 過 所 式 恐 所 在

寺 不 練 行 由

︑ 伏 乞 給 往 還 過 所

︒ 5 円 珍 大 中 九 年 十 一 月 二 五 日 八 五 五 過 所 標 準 過 所 式 恐 所 在

捉 不 練 行 由

︑ 請 給 過 所 者

︒ 6 米 巡 職 貞 観 二 十 二 年

六 四 九 公 験 簡 易 辞 式 恐 所 在

不 練 行 由

︑ 請 乞 公 験

︒ 7 某 人 調 露 二 年

六 八

〇 公 験 標 準 不 明 不 明 8 石 染 典 開 元 二 十 年 三 月 十 四 日 七 三 三 公 験 簡 易 牒 式 B 路 由 恐 所

︑ 不 練 行 由

︒ 謹 連 来 文 如 前

︑ 請 乞 判 命

︒ ﹂ 9 最 澄 貞 元 二 十 年 九 月 十 二 日 八

〇 五 公 験 標 準 牒 式 B 記 載 な し 10

最 澄 貞 元 二 一 年 三 月 一 日 八

〇 六 公 験 簡 易 牒 式 B 恐 在

不 練 行 由

︑ 伏 乞 公 験

︒ 11

円 珍 大 中 七 年 九 月 十 四 日 八 五 三 公 験 簡 易 牒 式 B 恐 所 在

不 練 行 由

︑ 伏 乞 公 験

︒ 以 為 憑 据

︒ 12

円 珍 大 中 七 年 十 月 二 六 日 八 五 三 公 験 簡 易 状 式 恐 所 在

不 練 行 由

︑ 伏 乞 公 験

︒ 以 為 憑 据

︒ 13

円 珍 大 中 七 年 十 月 二 九 日 八 五 三 公 験 簡 易 状 式 恐 所 在

不 練 行 由

︑ 伏 乞 公 験

︒ 以 為 憑 据

︒ 14

円 珍 大 中 七 年 十 一 月 六 日 八 五 三 公 験 簡 易 状 式 恐 所 在

不 練 行 由

︑ 伏 乞 公 験

︒ 以 為 憑 据

︒ 15

円 珍 大 中 七 年 十 一 月 二 三 日 八 五 三 公 験 簡 易 状 式 恐 所 在

不 練 行 由

︑ 伏 乞 公 験

︒ 以 為 憑 据

︒ 16

円 珍 大 中 七 年 十 二 月 三 日 八 五 三 公 験 標 準 牒 式 B 記 載 な し 17

円 珍 大 中 七 年 一 二 月 六 日 八 五 三 公 験 簡 易 状 式 恐 所 在

不 練 行 由

︑ 伏 乞 公 験

︒ 以 為 憑 据

― 10 ―

(12)

持し,通行者が移動した範囲を検討すると,「過所」は関所を通過しているが(36),「公験」は通 過していないのである。「過所」は関津の通過のために必要な通行証であった。

第二に,書式の違いである(図1 「過所」・「公験」略図 参照)。第二節で検討したように,

「公験」には正式と略式が存在するが,「過所」は過所式に基づき作成されているので,正式な形 のみとなる。「公験」の正式と「過所」は,官が一から通行証を発給するという点に関しては同 じだが,その性質は異なる。「過所」は過所式に基づき,通行証として発給されるが,「公験」正 式は,牒式Bに則り作成されており,通行証として発給された訳ではない。また,「公験」の略 式と「過所」は,発給過程が異なる。「過所」が煩雑な手続きを経て発給される反面(37),「公験」

の略式は申請書類に担当官が認可の印を書き込み,そのまま通行証として使用されるという簡易 な手続きにて発給される。

第三に,発給官府の違いである。「過所」は都では尚書省司門,地方では州と定められてい (38)が,「公験」は京兆府からも州からも県からも発給されており,幅広い官府より発給可能で あったことがわかる。

第四に,発給官府の管轄を超えるか否かである。荒川正晴が指摘するように,「過所」は発給 官府の管轄を超えて移動することができ,「公験」は管轄領域内と隣接する官府でのみ移動でき (39)としている。

先行研究で確認したように,程喜霖氏は「過所」と「公験」が同一のものである理由として,

どちらも関津を渡る通行証であること,書式が同一であること,発給手続きが同じであること,

という三点を提示した(40)。しかし,それらはすべて異なっていることが,以上の検討により明 らかとなったのではないか。

第二章 北宋天聖令からみる唐代の通行証

第一節 北宋天聖令の発見と研究の新段階

編纂史料において,唐代の通行証に関する記述はあまり存在しない。したがって,従来の研究 では,吐魯番出土文書や入唐僧将来の伝世文書を史料とした実態面からの分析が主であったよう に思われる。一方,制度面からのアプローチは史料的制約からこれまであまり検討されてなかっ た。しかし,今回の北宋天聖令の発見によって通行証を研究するにおいての可能性が広がった。

唐代の令は散逸しており,仁井田陞によって逸文の集成が精力的に行われたが,令制の全貌を 明らかにすることはできていなかった。それを補うため,日本の史料も唐の令制研究の史料とし て使用されてきた。日本の令である大宝律令と養老律令は散逸してしまっているが,平安時代に 書かれた『令義解』や『令集解』などの注釈書からその一部を知ることができる。これら日本令 は永徽令(41)を範として編纂されているので,唐の規定より大きく影響を受けている。特に,日 本のものではあるものの,『令義解』には「過所」に関する規定がいくつか存在し,研究の一助 となっている。

しかし,1999年に戴建国が,寧波の天一閣博物館の所蔵する明鈔本『官品令』残巻10巻は,

― 11 ―

(13)

宋代の天聖令の後半部の10巻であることを指摘した(42)。北宋天聖令とは,宋の天聖年間(1023

〜1032年)に制定された令,つまり行政法である。北宋天聖令の発見により,復元唐令にも日 本令にも存在しない令文が見つかり,唐宋時代の令制研究は新たな段階を迎えた。現存する天聖 令は,田令巻第21,賦役令巻第22,倉庫令巻第23,厩牧令巻第24,関市令巻第25(捕亡令 附),医疾令巻第26(仮寧令附),獄官令巻第27,営繕令巻第28,喪葬令巻第29(喪服年月附),

雑令巻第30(第30巻未完),合わせて12篇の令である。各篇目の条文は北宋時代に唐令を基に して作られた天聖令本文と,天聖令で採用されなかった「不行唐令」が併記されていた。不行唐 令は開元二十五(737)年令であると戴建国が示した(43)。その中でも,天聖令関市令が,通行証 の研究に有用な史料となる。関市令は関所と市場に関する規定であり,宋令18条と唐令9条が 記載されている。

先行研究では一部検討されているが,天聖令関市令には「過所」や関所の通過に関する細則が 記載されている。そして,今までほとんど検討されてこなかった「行牒」という通行証について の記述が存在する。また,「往還牒」という通行証が存在したことが初めて確認された。北宋天 聖令は,律令体制においての通行証とそれによる関所の通過を検討するために,非常に有益な史 料である。

第二節 「行牒」と「往還牒」に関する先行研究

それでは,北宋天聖令に登場する「行牒」と「往還牒」は先行研究においてはどのように位置 づけられているのだろうか。「往還牒」は,北宋天聖令によってはじめて存在が確認された通行 証であるので,先行研究は存在しない。「行牒」も,いまだ十分な検討が行われていない通行証 の一つである。通行証の実物は存在せず,編纂史料のなかにも「行牒」についての記述はない。

吐魯番出土文書「開元二十一(733)年西州都督府案巻為勘給過所事」(73 TAM 509 : 8/21(a)

之 一,73 TAM 509 : 8/15a)之 一〈録〉『文 書』9(44)pp.61−62, pp.65−67,荒 川2000, pp.298−

304;程喜霖2000, pp.67−70;〈写〉『図文』4, pp.291, 294−295)に以下のような「行牒」の記述 が存在するのみである。

(前略)

牒蒋化明為往北庭給行牒事。

(前略)

北庭に往くにあたり行牒を給付したことを蒋化明に牒した件。

以上のような案巻の最後には,「〜件」という形で,その要旨が記載される。この文書から「行 牒」という通行証が発給されたとわかる。

「行牒」についての先行研究は,荒川正晴によるもののみであり,「行牒」・「逓牒」・「公験」は 同一のものであると定義し,それらを発給官司の管轄領域において(隣接州県も含む)機能する

― 12 ―

(14)

通行証であるとしている。また,「行牒」は公務に準ずるものとして官では処理されており,そ のルートも規定の公道に沿うことが求められていたと推測する。また,「公験」と同質のもので あるということから,県以上の幅広い官府から発出し得ると指摘した(45)。しかし,史料的な制 約から,「行牒」についてその機能や性質など,いまだ明らかとなっていないことが多くある。

第三節 北宋天聖令からみた「行牒」と「往還牒」

天聖令には,今まで編纂史料には確認されなかった「行牒」と「往還牒」についての記述が存 在する。本節では,それらの「行牒」と「往還牒」という通行証について検討する。

関市令の不行唐令5には,以下のような通行証に関する記述がある。

もし隣接する県で関所を隔てている状態で,百姓が市場での交易や柴刈りをしたいと申請 すれば,県司は往還牒を給付し,三十日以内であれば往還することを許可し,期限を過ぎた ときは式によってさらに牒を改給せよ。興州の人が梁州に至り市易し,そして鳳州人が梁州 や岐州に至り市易をするときには,隣り合う州といえども,また行牒を使用することを許可 せよ(46)

史料から,以下のことが明らかとなる。隣接する県の移動(関所を跨ぐ場合)には「往還牒」が 県司によって発給される。30日以内ならばその通行証のみで往復可能である。ただし,30日と いう期限を過ぎた場合には,式によって改めて通行証を発給される。隣接する州の場合には「行 牒」が発給される。

もっとも注目すべきは,関所が重視されている点である。「往還牒」に関しては,「関所を隔て ている状態」でと限定されている。「行牒」に関しても,発給する場合について,具体的な地名

ほう

を挙げている点から関所の有無が重視されていると判断できる。規定では,興州から梁州へ,鳳

しゅう

州から梁州へ,鳳州から岐州への通行に「行牒」が用いられるとある。実際に地図で確認してみ ると,それぞれの州は隣接している。そして,それぞれの路次には関所が存在している。興州か ら梁州(興元府)(47)の間に,興城関・百牢関が存在し,鳳州から梁州(興元府)の間に,斜谷

だいさんかん

関・甘亭関が存在し,鳳州から岐州(鳳翔府)(48)の間には,大散関が存在する。しかし,言及さ れていない興州から鳳州の間そして鳳州から興州の間においては,関所が存在しないのである

(図3 岐州・鳳州・興州・梁州付近 参照)。このことから,今回言及されている「行牒」の発 給には,関所の存在が重視されていることがわかる。つまり,関所が存在するか否かによって,

「行牒」が発給される否かが決まるということである。

それでは,「行牒」によって関所の通過が認められていたのか。おそらく,天聖令で言及され ている「行牒」は,通常とは異なる性質を持っていたのではないかと考える。その理由は,律令 の条文に具体的な地名が登場することは極めて稀であるからである。したがって,唐全土で通用 する規定ではなく,地域限定であろうと筆者は考える。天聖令に言及される地域は,都長安の付 近であり,ヒトやモノの往来が激しい。したがって,その移動の度に発給手続きが煩雑である

― 13 ―

(15)

「過所」を発給するのは困難であるので,その代替措置として「行牒」によって関所を通過でき るようにしたのではないか。

さらに,上記のことを裏付ける証拠として,吐魯番出土文書「開元二十一(733)年西州都督 府案巻為勘給過所事」(73 TAM 509 : 8/21(a)之一,73 TAM 509 : 8/15(a)之一)を挙げる。こ

↑厳耕望 1987,図 14 より転載、加筆。

3 岐州・鳳州・興州・梁州付近

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(16)

の文書では,「行牒」によって西州から北庭(庭州)までの通行が許可されている。しかし,西 州から北庭(庭州)までの道程に関所は存在しない。つまり,「行牒」で関所を通過することが できたのは,岐州・鳳州・興州・梁州付近のみの地域限定の規定であったのである。

以上の検討により,通行証の発給には関所の存在が重視されていたことが明らかとなった。そ

↑厳耕望 1987,図 9 より転載、加筆。

4 西州付近

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(17)

のことは「過所」の規定からも伺える。『太平御覧』巻598,文部,過所門,p.2695には,

(通行者が)関所を通過するとき,及び船や筏に乗り往復し津を通過するときには,みな

かん り

過所を持つ。一通つくり関吏に付す(49)

とある。

また,関所での通過記録が通行証に記載された事例を以下に掲げておく。

「大中九(855)年越州都督府給円珍過所」(表1−4)

(〈録〉内藤1930, pp.1330−1331;礪波1993, p.695;『園城寺文書』1, pp.98−99;〈写〉内藤1930, pp.1330−1331;礪波1993, p.695;『園城寺文書』1, pp.98−99。)

越州都督府

日本国内供奉 勅賜紫衣僧円珎 年肆拾参 行者 丁満 年伍拾 驢両頭,!随身経書・衣鉢等 上都巳来路次,検案内,人弐・驢両頭,!経書・衣鉢等,

得状称,仁寿三年七月十六日,離本国,大中七年九月十四日,

到唐国福州。至八年九月廿日,到越州開元寺,住聴習。今欲 略往両京及五臺山等,巡礼求法,却来此聴読,恐

所在州県鎮鋪関津堰寺,不練行由,伏乞給往,

還過所,勘得開元寺三綱僧長泰等状同事,

須給過所者,准給者,此巳給訖,幸依勘過

大中玖年参月拾玖日給 府葉「新」

功曹参軍「参」

「潼関 五月十五日勘入

丞「息」」

越州都督府

日本国内供奉 勅賜紫衣の僧円珎年43 行者丁満年15 2頭,そして経書・衣鉢等を 所持している。

上都(長安)まで(の各州県・関防責任者宛て)。通知によると,(連れている)人間は2 人,驢は2頭であり,そして経書・衣鉢等(を所持している。)

(円珍の)状を得たところ,「仁寿三年七月十六日,本国(日本)を出発し,大中七年九月十

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(18)

四日,唐の福州に到着した。八年九月廿日に,越州開元寺に到着し,(開元寺に)住みて講 義を受けて学んだ。今,両京そして五臺山などを巡り,(聖地を)巡礼求法し,戻って来て 聞き理解したいと願っているけれども,所在の州県鎮鋪関津堰寺にて,往来の理由をご理解 いただけないことを思い,謹んで往還の過所を発給されることを願いでます。」と言ってい ます。開元寺の三綱僧長泰等の状を取り調べると,その内容は同じであった。過所を発給す るべきである。と。従って発給する。と。この件はすでに発給し終わった。どうか,取り調 べた上,通過することをお認め頂きたい。

大中九年三月十九日発給す。

府葉「新」

功曹参軍「参」

「潼関 五月十五日取り調べて入らせた。

丞「息」」

この「過所」の末尾には,円珍が潼関という関所に入る際の通過記録が記載されている。律令上 の規定だけでなく,実際に「過所」が関所で取り調べられていたことがわかる。関所を通過する には「過所」が必要とされていたことは,第一章で確認した通りである。しかし,「行牒」と

「往還牒」によって関所を通過していたことがわかる。今回の天聖令の条文は,「過所」がなけれ ば本来通過できない関所を通過できる特例であった。

この条文が天聖令に規定された理由は,「過所」の特性にあると考える。先行研究で確認した 通り,「過所」は発給官府の管轄を超えて移動することができ,狭義の「公験」は管轄領域内と 隣接する官府でのみ移動できる(50)。しかし,「過所」は遠距離を移動できる分,発給過程も煩雑 で,発給可能な官府も限定されているため,近距離の移動は「公験」の発給により補っていたと 考えられる。しかし,近距離であっても,関所を通過しなければ,移動できない場合もあったは ずである。「公験」では関所を通過することができないので,関所を通過するための特例として 上記のような規定が定められたのではないか。

「過所」以外で,関所を通過することができる特例として定められているという点では,「往還 牒」と今回言及されている「行牒」は同じである。それでは,どのような点が異なっているので あろうか。今回言及されているこれらの差異を二点挙げる。

まず,発給官府である。「往還牒」は「県司」つまり県によって発給されると規定があるが,

「行牒」は発給官府について言及されていない。「行牒」は,州から発給されたのではないかと推 測される。令文の中で,「比県」「比州」と対応していることから判断できる。隣接する県の移動 には「往還牒」が用いられ,それは県司から発給されている。したがって,隣接する州の移動に は「行牒」が発給され,州の担当官司から発給されたのではないか。吐魯番出土文書「開元二十 一(733)年西州都督府案巻為勘給過所事」(73 TAM 509 : 8/21(a)之一,73 TAM 509 : 8/15(a)

― 17 ―

(19)

之一)で「行牒」が西州より発給されていることもそれを裏付ける一つの証拠である。

次に,往還が許可されるかという点である。「往還牒」は,「三十日以内であれば往還すること を許可し,期限を過ぎたときは式によってさらに牒を改給せよ」とある。「行牒」については,

往復なのか片道なのかといった具体的な規定はない。おそらく「行牒」は片道であると推察す る。

お わ り に

以上,「過所」と「公験」の差異について,また,「行牒」と「往還牒」について検討してき た。

「公験」の書式の区別について,「公験」正式は,初めて通行証が発給される場合と逓送が指示 されている場合,略式は,それ以前に発給された通行証が存在する場合に給付されたことを指摘 した。また,正式は州以上の発給に限定される一方で,略式は都督府から県まで幅広い官府が発 給可能であった。これらが意味することは,「公験」略式は,「過所」や「公験」正式を発給する までもない,近距離や日常的な往来を支えたということである。

また,関所を通過するためには「過所」が不可欠であり,「公験」では関所を通過することが できなかった。「過所」と「公験」の差異としては,書式の違い,発給官府の違い,発給官府の 管轄を超えるか否かという点が挙げられるが,決定的な違いは関所を通過可能かという点であろ う。

天聖令の発見によってはじめてその存在が確認された「往還牒」は,隣接する県の移動で関所 を通過する場合に,県から給付される。30日以内ならばその通行証のみで往復可能である。た だし,30日という期限を過ぎた場合には,式によって改めて通行証を発給される。「行牒」は,

岐州・鳳州・興州・梁州付近という地域で用いられる場合でのみ,隣接する州の移動において関 所を通過することができた。それ以外の地域では,隣接する州の移動は可能であったが,関所を 通過することはできなかった。

これらの最も重要な特徴は,関所を通過できるという点にある。本来ならば,関所の通過には

「過所」が不可欠だったはずである。しかし,「過所」は遠距離を移動できる分,発給過程も煩雑 で,発給可能な官府も限定されているため,近距離の移動は「公験」の発給により補っていた。

しかし,近距離であっても,関所を通過しなければ,移動できない場合も存在した。「公験」で は関所を通過することができないので,関所を通過するための特別な通行証として「往還牒」が 発給されたのではないか。また,岐州・鳳州・興州・梁州付近という地域においては,都長安の 付近であり,ヒトやモノの往来が激しいため,「行牒」によって関所の通過を可能とした。それ らの移動の度に,「過所」を発給するのは困難であるので,その代替措置として,「行牒」によっ て関所を通過できるようにしたのではないか。

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(20)

【謝辞】

本論文に関して,終始ご指導ご鞭撻を頂きました指導教員の森部豊教授に心より感謝いたします。ま た,大阪大学大学院文学研究科の荒川正晴教授や赤木崇敏氏にも,ご多忙のなか,本論文をご精読頂き,

非常に有用なコメントを頂きました。心より感謝申し上げます。

⑴ 【原文】諸私度関者,徒一年。越度者,加一等。疏議曰,水陸等関,両処各有門禁。行人来往皆有公 文。謂駅使験符券,伝送拠逓牒,軍防・丁夫有総暦。自各余請過所而度。(『唐律疏議』巻 8 衛禁律,

p.385)

⑵ 唐代通行証に関する先行研究については,礪波 1993, pp.663−673;荒川 2000, pp.294−295 を参照のこ と。また,礪波護 1993 には,「過所」と「公験」のすべての写真と録文が掲載されている。

⑶ 内藤 1930, pp.1325−1343。

⑷ 仁井田 1937, pp.843−856。

⑸ 駒井 1957, pp.106−110。

⑹ 杉井 1990, pp.159−189。

⑺ 中 2005。

⑻ 小野 1961, pp.174−196。

⑼ 瀧川 1958, pp.20−28 ; 119, pp.84−89 ; 120, pp.14−23。

⑽ 小野 1961, pp.174−196。

⑾ 小西 1979, pp.227−242。

⑿ 青山 1963, pp.51−85。

⒀ 曽我部 1973, pp.1−11。

⒁ 館野 1984, pp.115−142。

⒂ 石田 1998, pp.91−99。

⒃ 荒川 2000, pp.294−311。

⒄ 王仲葷 1975, pp.35−42。

⒅ 程喜霖 2000, pp.182−185。

⒆ 孟彦弘 2007, pp.1−19。

⒇ 北宋天聖令については,池田 2000,大津 2007,三上 2007,服部 2010 を参照のこと。また,天聖令関 市令については,凍国棟 2006 を参照。

以下,天聖令関市令の条文番号については,参定宋令を宋 1,不行唐令を唐 1 のように表記する。

【原文】諸請過所,並令自録副白,官司勘同,即依署給。其輸送官物者,検鈔実,付之。

孟彦弘 2009, p.10。

吉永 2009, p.65。

【原文】諸欲度関者,皆経当處官司請過所,具注姓名・年紀及馬牛騾驢牝牡,毛色,齒歳判給。還者,

連来文申牒勘給。若於来文外更須附者,験実聴之。日別緫連為案。若已得過所,有故不去者,連旧過 所申納。若在路有故者,経随近官司申牒改具状牒関。若船筏経関過,亦請過所。

仁井田 1937, pp.854−855。

程喜霖 2000, pp.182−185。

小野 1961, p.185;山岸 1996, p.35;石田 1998, p.98;荒川 2000, p.297。

桜田 2011, pp.191−208。

小野 1961, pp.174−196;荒川 2000, pp.294−311。

桜田真梨絵は,「公験」の書式を「標準型」と「簡易型」としているが,本稿では小野勝年が用いた

「正式」と「略式」という表現を採用する。以下,「公験」正式,「公験」略式と表現する。

桜田真梨絵は「過所」にも正式と略式が存在すると指摘するが,「過所」は正式のみである。

― 19 ―

(21)

桜田 2011, p.205。

【原文】諸私度関者,徒一年。越度者,加一等。疏議曰,水陸等関,両処各有門禁。行人来往皆有公 文。謂駅使験符券,伝送拠逓牒,軍防・丁夫有総暦。自各余請過所而度。

ただし,「開元二十(732)年瓜州都督府給石染典過所」(表 1−1, 8)には,「関津」という文言は登場 しないが,通過する関所として鉄門関が指定されている。

「開元二十(732)年瓜州都督府給石染典過所」(表 1−1, 8)では鉄門関を通過するよう指定されてい る。また,「大中九(855)越州都督府給円珍過所」(表 1−4)では潼関,「大中九(855)年尚書省司門 給円珍過所(表 1−5)」では,蒲関を通過した様子が記録されている。

「過所」の発給過程に関しては,

【原文】諸度関者,先経本部・本司,請過所。在京則省給之。在外州給之。雖非所部,有来文者,所 在給之。(『唐令拾遺』関市令,第 26, p.713)

【日本語訳】関所を通過するときは,まず本部・本司を経て,過所を請求せよ。都長安では尚書省が 給付し,都以外では州がこれを給付すること。所属する官府でなくても,来文があれば,近隣の官府 が過所を給付すること。

荒川 2000, pp.309−310。

「過所」の発給過程に関しては,荒川 1997, pp.4−18 を参照頂きたい。

永徽二(651)年に頒行された令。

戴建国 1999, p.71。

戴建国 1999, p.71。

吐魯番文書については,『吐魯番出土文書』という同名の資料集が 2 種類存在する。それらを区別す るために,文書の釈文のみのものを『文書』,写真と釈文が併記されているものを『図文』とする。

荒川 2000, pp.309−310。

【原文】若比県隔関,百姓欲往市易及樵采者,県司給往還牒,限三十日内聴往還,過限者依式更翻牒。

其興州人至梁州及鳳州人至梁州・岐州市易者,雖則比州,亦聴用行牒。

興元府は梁州のこと。

【原文】梁州興元府[中略]二十年,又為梁州。天宝元年改為漢中郡,仍為都督府。(『旧唐書』巻 39,

志 19,地理 2, p.1528)

【日本語訳】梁州興元府 [中略](開元)二十(732)年,また梁州と為る。天宝元(742)年改めて 漢中郡とし,すなわち都督府とした。[中略]興元元(784)年六月,昇格して興元府となった。

【原文】興元府漢中郡,赤。本梁州漢川郡。[中略]二十年復曰梁州,天宝元年更郡名,興元元年為 府。(『新唐書』巻 40,志 30,地理 4, p.1034)

【日本語訳】興元府漢中郡,赤。もともとは梁州漢川郡である。[中略](開元)二十(732)年再び梁 州というようになり,天宝元(742)年さらに郡名と改めて,興元元(784)年府とする。

以上の記述より,令が制定された開元二十五(737)年時点では,梁州であったとわかる。

鳳翔府は岐州のこと。

【原文】鳳翔府。隋扶風郡。武徳元年,改為岐州,領雍・陳倉・ ! ・ " ・岐山・鳳泉等六県。(『旧唐 書』巻 38,志 18,地理 1, p.1403)

【日本語訳】鳳翔府。隋扶風郡。武徳元(618)年,改めて岐州とし,雍・陳倉・!・"・岐山・鳳泉 の六県を治める。[中略](至徳二(756)年)十二月,鳳翔府を置く。

【原文】鳳翔府扶風郡。本岐州,至徳元年更郡曰鳳翔,二年復郡故名,号西京,為府。(『新唐書』巻 37,志 27,地理 1, p.966)

【日本語訳】鳳翔府扶風郡。もともとは岐州であり,至徳元(756)年さらに郡とし鳳翔といい,(至 徳)二(757)年郡の古い名前に戻し,西京と号し府とした。

以上の記述より,令が制定された開元二十五(737)年時点では,岐州であったとわかる。

【原文】諸関渡,及乗船筏上下経津者,皆有過所。為一通付関吏。

― 20 ―

(22)

荒川 2000, pp.309−310。

引用史料(漢籍)典拠

(後晋)『旧唐書』,劉 ! 等撰,中華書局,1975。

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引用文献目録

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中華書局,2006。

『唐令拾遺』,仁井田陞,東方文化学院,1933(復刊:東京大学出版会,1964)。

『吐魯番出土文書』全 4 巻,唐長孺(主編)・中国文物研究所・新疆維吾爾自治区博物館・武漢大学歴史系

(編),文物出版社,1992−1996。

『吐魯番出土文書』全 10 巻,国家文物局古文献研究室・新疆維吾爾自治区博物館・武漢大学歴史系(編),

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参考文献目録

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−242。

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図 2 唐代前半期の地方官府(西州)の公文書書式
図 3 岐州・鳳州・興州・梁州付近

参照

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