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唐代の玉門関と陽関(下) : 唐代西域文学・辺塞詩研究のための文献史料による歴史地理学的考察

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唐代の玉門関と陽関(下)

一唐代西域文学・辺塞詩研究のための文献史料による歴史地理学的考察一

戸 崎 哲 彦

V唐鋤沙州の陽関

 『漢書』96「西域伝」・28「地理志」によれば, 陽関は玉門関とともに前漢・武帝の時に置かれ た。爾来,陽関は玉門関と並んで西域へ通じるい わゆる“シルクロード”の重要な関門であった。 “陽関”という名の由来については,『通船』巻 エ74「沙州」に「陽悲話玉門回心南」といい,ま た『元和志』40「座州」に「以居玉門關之南,故 日陽關」,『沙州圖経』寿出血(P,5034)に「以在 玉門関南,号日陽関」という。これら唐車の文献 に拠れば,玉門関の南つまり陽に位置するから “陽関”とよばれた。今日,陽関は直焼市の西南

約70kmにある南湖郷の西南3∼4kmあたり

に広がる古伝灘にあったとされており1),「陽転 遺祉」碑が立てられているという。しかし現在の ところ,小方盤城に比定される玉門関遺跡の例の ように何らかの具体的な建造物等の趾が発見さ れたわけではなく,沙中に埋もれていている2)。 また,唐代の文献史料に記されている“陽関”の 位置については3),“玉門関”と同じく,起点か らの距離・方位等を異にするものが多く,“文献 の上での発掘”も今猶十分ではない。  A=沙州寿適適の西6里(3.4km)  (a1)『厚地志』4「沙州」:    玉門[陽]關:在沙州壽昌縣西六里。 『史記』123「大宛列伝」の「其江東流注盤澤」下 につけられた唐・張守節『正義』(開元二四年 736)に引く。賀鮎並『括地志輯校』(中華書局 1980年)は「按“玉門”二字彷,脱“陽”字。宋・ 欧陽悉『輿地略記』巻三十云“陽動在壽昌縣西六 里”,與『括地志』合,今糠改」(p228)とする が,以下に掲げるように,北宋『輿地廣記』より 早い『元和志』や『旧極書』等に見えるから,『輿 地廣記』を根拠とする必要はない。  (a2)『元和志」40「寿昌県」:    陽關:在縣西六里。以居玉門關之南,故    日陽關。本漢置也,謂之南道,西趣都善・    渉車。後前嘗於設置陽關縣,周魔。  (a3)『旧唐書』40「地理志」3「昌昌」:    陽転:在縣西六里。  B:沙潮紅昌昌の西10里(5.6km)  (b1)『沙州図面』(P.5034)五:    二古関:    陽関:東西廿歩,南北廿七歩。右在縣西    十里,識見破壊,基趾見存。西通石□[城]・    干聞等南路。以在玉門関南,号日陽関。 1)榎一雄「漢魏時代の敦煙」(『講座敦煙(2)敦燵 の歴史』前掲,p8),季羨林『敦燈学大辞典』(上 海辞書出版社1998年)「陽關」(p399),郡如林 『練綱之路古点心圖集』(三帰人民美術出版社1998 年)「陽關」(p254−26ユ)。 2)郡如林『綜縄之路古遺趾圖集』(p260)’D碑とそ の周辺の写真を載せている。 3)このほかに,ウルムチの西にあったとする説も あるが早くから否定されており,ここでは扱わな い。例えば清・高宗「陽關考」(『欽定皇輿西域圖 志』8)に「或拠『粛州新志』載“鳥魯木齊西境有 地名陽巴爾葛遜”,以爲陽關之奮者,殊不知“陽” 乃回語,蓋謂新,而“巴爾葛遜”則厄魯特語,蓋 謂城,亦非謂關也。況鳥魯木齊,地在天山之北,揆 其方位懸隔,雲蕾謬以千里計耶」という。

(2)

一48一 滋賀大学経済学部研究年報Vo 1.8  2001    陽関ロ 陽関□ 12:陽関の位置をめぐる諸説  (乙)      (丙)

  奮 奮

 (b2)唐・質耽「三里記/四夷路程/入四夷通道」4):    誌面州壽昌縣西十里至陽關故城。 この他,北宋初『太平簑無記』153「温州」には 「壽印西:……陽關,在縣西六十里,以居玉門晶 晶,故日陽關」という。「六十里」説は他の唐代 の文献には見当たらないものであり,「六十里」 は唐代の文献では「六里」あるいは「十里」に 作っているから,術字がある.であろう。今,『太 平簑鼠落』のこの前後の記載は『元和志」・『六 典』とよく似ており,『通典』が明記していない 陽関の位置を『元和志』に拠って補足したものの ようである。おそらく「六十1の「十」は六字で あろう。

 寿昌県西6里説と10里説

 陽関の位置について,起点・方位・距離の明確 なものには,沙州寿昌県の西6里(3.4km)と 西10里(5.6km)とする二説があり,いずれも 複数の史料に見える。そこで考え方としては次の 四つがある。(甲)陽関が二個所あった。つまり 移動した。(乙)陽関は一個所であり,距離・方 位の起点となっている県城が移動した。(丙)陽 関・県城はともに移動していない。つまり「十」 「六」はいずれかが誤りである。(丁)陽関・県城 はともに移動した。12「陽関の位置をめぐる諸 説」を参照。  伝説の中で6里説は『括地謡』をはじめ,『元 和志』・『旧唐書』など,いずれも全国志に載って おり,いっぽう10里説は地方志に見える。全国 志は地方志に基づいているはずであるから,「六」 は「十」の誤りと考えられる。しかし同様の違い はこれに限らず,次のように他の多くの地点間の 距離においても見られる。 4)逸文,『新唐書』43下「地理志」7下に引く。

       寿

       昌 陽        県

幣控

寿昌県∼陽 関: 寿昌県∼玉門関: 寿昌県∼敦焼畑: 敦焼県∼瓜 州: 敦註疎∼石城鎮:

敦煤県∼長安:

敦訴訟∼洛 陽: η ︵ 寿昌県城 寿昌県城[] 里 6 陽関 前関

『沙州』『元和志』

 10里

160里 ユ20里 319里 1580里 3759里

4609里

 6里

!17里 105里

300里

1500里 3700里

4560里

たとえば,先に見たように玉門関までの距離につ いては,『沙州図経』等が160里とするのに対し て『括地志』・『旧唐書』・『簑自記』が118里,『元 和志』が!17里としていた。また敦煙県と二四県 の問についても,『沙州図画』の他にも『沙州地 鼠』(S.788)・『沙州城土鏡』(P.2691)・『壽昌縣 地境』など郷土志はいずれも!20里とするが, いっぽう『元和志』は105里とし,『通典』では 115里(50+65)になる。ただし『簑賦払』で は「一百五十里」に作っており,これは明らかに 誤りであるが,これによって『元和志』の「一百 五里」には脱字があることが推測される。『元和 志』等の全国志はおそらく115里ではなかったろ うか。したがって寿昌県と陽関の間の距離に見ら れる6里説と10里説についても,『元和志』等が 拠っている資料と『一州図経」とが本来異なるで あって,「六」を「十」の誤字と考える必要はない。  そこで,(乙)・(丁)のように,6里と10里の 違いが起点である寿昌県城の移動に拠るもので あるならば,それにともなって敦単寧城から寿昌 県城までの距離も当然変化しているはずであり, 6里説では遠くならなければならないが,『量地 志』『元和志』等〈敦燵県一!05(115)里一寿昌 県一6里一陽関〉,『沙州図経』等く敦煙県一120 里一寿昌県一10里一陽関〉というように,逆に

(3)

近くなっている。  次に,今日では,南湖郷の西北4里(天工村の 北)に城培が残存しており(南湖破城,南湖破城 子とよばれている),これが「西漢から宋に至る」 寿昌城の油画であると考えられている5)。かりに そうだとするならば,(甲)か(丙)ということ になる。しかしこれに限らず『門地志』・『元和 志』等と『沙州図経』の同地点の距離はいずれも 前者は近く後者は遠くになっている,つまり比例 した変化である。したがってこれらの距離の相異 は資料の違いによるものであって移動によるも のではない。つまり(丙)「6里=10里」である 可能性が高いが,「六」「十」ともに誤字ではない。  C:沙捌敦円明の西  (c1)五代『激選録』残巻(S.5448)6):    州西有陽關,即故玉門關。因野州刺史陽    明早追拒命,奔出此關,後人呼為陽關。接    前生城,瞼阻,乏水草,不通入行。其關    後門伊東。 「州」とは沙州であり,「州西」とは州治を起点と しているはずである。雲州の治は敦爆県にあっ た。寿昌県は敦煙県の西南にあり,方位が異な る。しかし東西のいずれかで言えば西に当たるわ けであるから,精確ではないが大過ないとして も,「即ち故玉門関なり」というのは陽関と玉門 関を同一に考えるものであって問題がある7)。こ れによれば玉門関が陽明の出奔によって「陽関」 と呼ばれるようになったのであるから,野上に置 5)『敦健自大辞典』(1998年)「寿昌城遺趾」(p329)。 残存部分は東培が270m,北培が300層目。 6)また,『大正大蔵経』51「史伝部」3にも収める。 7)趙建龍「我封敦煙陽圧及同道的一鮎認識」(『西 北史地』1988−4)で,今日に至るまで陽関の遺跡 が見つからない点,史書に玉門・陽関と表記され るという点などから,陽関は玉門関の別名である という一関二名説を提示しているが,李正宇『敦 煙陣地新論』(新文様出版社公司1996年)「陽關古 墨著西陸,適業存殿論有無」でも反駁しているよ うに,成立しがたい。ただし李正宇が「唐代偉大 詩人岸参『勧君更進一杯酒,西出陽關無故人』的 詩句」(p243)という「雰参」は「王維」の誤り。 かれた陽関とは別に玉門関も陽関と呼ばれたこ とになる。  “陽関”の名の由来  “陽関”は“陽なる関”のことであるには違い ないが,その“陽”の解釈によって陽関の名の由 来について説が分かれる。  (1)磐代の文献史料では,「陽」は「南」の意 であるという理解に立ち,玉門関の南にあったこ とによって名付けられたとするものが多い。『元 和志』に「以居玉門關之南,故日陽關」といい, 『沙計図経』(P.5034)に「以在玉門関南,号日陽 関」というのがそれである。また,『通典』に「陽 關居玉門關之南」というのも名の由来を説明する ものと考えてよい。  (2a)この他に入名に由来するとする説があり,

しかも複数ある。先に掲げた『群群録』三門

(S.5448)に「因沙州刺史陽明町追拒命,奔出此 關,後人呼四目關」という。『予覚傳』定公(五 年∼九年)等に見える陽虎が出奔したことによっ て陽関と名づけられたという故事(春秋・魯)は 有名であり,それに倣った理由づけのようにも思 われる。王仲攣「『徽判型』残巻砂潜」8)に「玉 門e陽關,漢武今時出置,無改玉門押回早事,亦 無沙州刺史陽明奔出野牛,故一陽關事。玉門一州 東男有之,陽關亦無移關事」(p164)といい,こ のことは王永興「序言」(p4)でも言及されてい る。ただし,いずれもそのような事実が無いとい うだけで,陽明なる沙州刺史については検討され ていない。  唐以前の沙州刺史で「陽」という姓の人物は確 認できないが,「楊」はあり,さらに「楊」が「陽」 と書される場合がある。「元和志』40「沙州」に 「前涼張駿於四四沙門……以西胡校尉楊宣爲刺 史,後三年宣譲州,復讐響町二三」という,前涼 の楊宣が知られる。また『野州図経』3「七所渠」 の「陽開渠」に「拠『西[前?]涼録』:刺史楊 8)『敦燈石室地志残巻考繹』(上海古籍出版社1993 年)所収。

(4)

一50一一 滋賀大学経済学部研究年報Vo 1.8  2001 宣,移向上流,造五三斗門,堰水肥田,人頼其 利,.因以為号」とも見える。楊宣が開いた渠であ るために「陽開渠」とよばれたという。そうなら       しば「楊開渠」であるべきであるが,「楊」を「陽」 に作っている。そこで「陽明」も「楊明」の可能 性があり,さらに「明」は「宣」の誤りであるこ とも考えられる。そのほかに『通鑑』大暦元年等 によって唐の沙州刺史・三二明なるものがいたこ とが知られる。  (2b)人名由来説としては,興味深いことに『傲 煙録』残巻(S.5448)にいう「陽明」説に近い伝 承が別にあった。宋・三門『清波雑志』7「陽關 敷條」に次のようにいう。   陽關:去長安一萬里,漢二巴興敗走出此關,   因以旧名。……青門,……。郡郵,……。金   城郡,・…・・。望都,……。酒泉,……。此藪   條,皆因人有間,検示之,非特出也。 楊興の事跡は『漢書』36「元王伝」・64下「賞指 之伝」・98「元后伝」等に散見するが,陽関との 関係については記されていない。丁丁,字は君蘭 であり,陽明とは同一人物ではないが,先に挙げ たように楊宣が開いた渠を陽開渠と呼んだ例も ある。それに限らず,「楊」と「陽」は同音であ るために,書写の際にはしばしば混用される。た だ位置には問題がある。「去長安一萬里」は概数 ではあるが,長安から敦燈までの距離は先に見た ように4000里前後であるから,かなりの差があ る。ただし遠方であることを強調した表現として 許容されよう。『清波雑言』のいう“楊興”出奔 由栗説は『徽煙録』のいう所と極めてよく似てお り,本来は同じ伝承であったと思われる。楊興の 敗走によって「陽関」「楊弓」と呼ばれたのであ れば,すでにそれ以前から関があったことにな る。また正式の名があったはずであり,『漢書』 以来今日まで用いられていた「陽関」が俗称で あったということになる。漢代将三二興あるいは 沙州刺史楊宣の出奔は史実として信懸性を欠く が,早くから楊弓出奔の伝承による関名由来説が あったことは確かである。

 D=沙州・両流県の西

 (d1)五代晋・高居諺「使干醜行記」:

   西至瓜州・沙州Q……瓜[沙?]州南十

   里鳴引例。……又東南十里三門山,云三    面出道止也。其西面都面河,日陽關。沙    州西日仲雲。 『新五代史』74「四夷附録」に収める。陽関の位 置は明確ではなく,「其西渡都郷河」の存在によっ て示されている。そこで「都郷河」の位置を確認 しなければならない。沙州の西にあった「仲雲」 とは丁丁に月氏とよばれた部族の一つ9)。  都二河と陽関の位置関係  都郷河については敦燈文書(P.3560,通称「唐 代沙州敦煙県地方三田水利施行細則残巻」)10)に 次のように見える。   二三不勝渠口校多,三節用水,名為三大河   母。……都郷大河母,依次一陽開・神農了,   即放都郷東支渠・西二二・宋渠・仰渠・解   渠・胃渠・懸解渠・塚窓渠・李窓渠・索家   渠。右件已前渠水,都郷河下尾依次収用。 都郷河は,敦二二城周辺を灌回する三大用水路 (宜秋大河母・都郷大河母・北府大河母)の一つ であり,「都郷大河母」ともよばれた。「大河母」 というのは,そこから多くの小渠が分流する主流 であるからであり,したがって都丁丁は『伊州図 経』にしばしば見える都郷渠と同一のものを指す と考えてよい。その位置については『沙州図経』 三(P.2005)の「水」の項に次のようにいう。 9)「三雲」(Clmudas)は黄盛璋「混清文書中“南山” 與仲雲」(『西北民族研究』1989・1),町営「敦燵、 巻子中的Lho bal與南波」(北京図書館敦煙吐魯番 学史料中心・台北『南海』雑誌社『敦煙吐魯番学 研究論集』書目文献出版社ユ996)によれば,「南 山」(Namsas)あるいは「南波/南蛮」などと呼ば れる部族で,漢・晋の問の小月氏の後喬であると いう。 10)口恥利貞「唐代の墨田水利に関する規定に就き て」(『史学雑誌』54−1・2,1942),武藤ふみ子「唐 代敦燵の三田水利規定について」(『駿台史学』39, 1976)に詳しい。

(5)

  (甘泉水)円山閾下,水東上几下沙流山,……   其水干有石山,轡型草木。守門北流八十里,   百姓造大堰,号子馬寺口。……野水又東北   流導引,至境州城,分派灌概。北流者名門   府〔河水?〕,東流者名東河水,東南流者二   道,一名神農渠,一名陽開渠,州西北又分   一渠,北〔流者?〕名都郷貫,又従馬圏口   分一渠,蝉声西北流,名四警告。 甘泉水(今日の党河)は山守峰のある鳴男山の西 端(西千仏洞の西)で西北から東北に大きく屈折 し,その地点から80里のところに馬牛田堰があ り,そこからさらに40里下流に野州城=敦三塁 城がある。都郷渠は馬圏口堰から城にいたる40 里の問にあって甘泉水から分流して城の西南か

ら城の西北に向かって流れていた。また同書

(P.2005)「七所渠」の項には次のようにいう。   千秋渠:長廿里。右源在営西南廿五里,引   甘泉水。両岸修堰十里。……孟開渠:……   井開西南〔一〕十八里,於甘泉〔水〕都郷   斗棚上,開渠灌概。……都野州:長廿里。右   源尾州西南一一十八里,甘泉水馬圏〔口〕堰   下流追回,呼水七里,高八尺,闊四尺。諸   郷共造,因号都郷渠。北暗渠:長吟五里。右   源準則東三里甘泉〔水〕上。 これによれば,都郷寺側は甘泉水の宜秋渠口より 下流,城の西南!8里にあり,都郷渠はそこから 城の西北に向かって20里ほど流れ,その間,東 西に分流した多くの小渠によって城西の農地を 灌概していた。都郷渠は馬圏口堰の下流に堰を 造って「平水七里」であったといい,この距離は 孟授渠口の都肝胆斗門から毎秋四二までの距離 (25−18=7)に当たるから,「早言」はこの早 秋渠口から都郷渠魁=三際軒口までの問であろ う11)。なお,「水」の項では「東北流八十里,百 姓造幣堰,号下馬門口。其堰南北一百五十歩,闊 廿歩,高二丈,惣開同門,分水以灌田園。……其

水又東北流冊里,至沙門城,分派潤既北流者

名北府,東流者名東河水……」とあり,馬圏口堰 は城の西南40里の地点に造られたというが,「堰」 の項では「馬圏口堰:右在州西南廿五里」とあ り,位置が合わない。一説に「斜里」を「計里」 の誤字であるとするが12),そうだとしてもなお 「廿五里」と合わない。「論議堰」「馬鯉口堰」と 「百姓造大堰,号為馬圏口」は異なるのであろう か,あるいは州の西南25里の第二口堰は宜秋渠 口の位置と符合するが,ここから15里(40−25) の地点が馬圏口大堰なのであろうか。馬圏口の大 堰の規模は「其段南北一百五十歩,闊廿歩,高二 丈」とあるが,「闊廿里」は大堰の幅であって河 幅に対応するものであるから,「南北一百五十歩」 は長さであろう。ちなみに宜秋渠については「爾 岸修堰十里,高一丈,下闊一壷五尺」,北府渠に ついては「其斗門壁石作,長冊歩,闊三丈,高 三丈」,弓丈渠については「向東平堰,穿渠一十 三里。其節,闊三碧,因以閉門」という。馬三口 の大堰の長さが150歩であったとしても,それは 半里にも達しないから,15里(あるいは5里)に 合わないが,宜判子が「修堰十里」であるのに対 して大堰が「一百五十歩」であるのは短すぎる。 あるいは誤字脱字があるのであろうか。疑問が残 る。今これらの史料によって位置関係を示せば, 13「甘泉水と都郷渠」のような概念図になる。  このように,都郷河と都郷大河母・都郷渠とは 11)李正宇『古本敦焼郷土志八種箋謹』(回文豊出版 公司!998年)の『濠州都督府圖経巻第三』の注 (43)では「引堤至西南十一里虞」(p51)とし,ま た同書「圖二:唐宋時期敦煙一当渠系示意圖」「圖 三:都郷擁水七里升平圖」でも聖訓渠口と宜秋興 口の約半分を「擁水」と考えている。「西南十一里 庭」とは城から都郷渠口の位置18里から出水7里 を引いて求められたものであろう。しかし孟授渠 口の位置も城から18里であるから,李氏のいう呪 水と孟授渠口の位置は正しくない。 12)画趣宇『敦煙歴史地理導論』(新文豊出版公司 1997年)「敦煙緑門的灌壷網路」には「其水又東北 流州里,至三州城」(p235, p 236)として「冊」 ではなく「州」に作り,「余疑『州里』當爲『計里』 之誤」という(p236)。残巻の「其水野東北流冊里, 至元素城」部分は字体が明確であり,「流」の下の 字は「至沙州城」の「州」とは異なっており,明 らかに「冊」である。

(6)

一52一 滋賀大学経済学部研究年報Vol。8  2001

13甘泉水と都船渠

宜秋渠 20里 都郷渠 20里 孟授渠 20里 ,[劃哩 45里 北府下 東河 馬圏口大堰〔as里→城〕

饗.

7里 ︹18里←城︺ ︹−o里←城︺ 陽開渠 15里 同じものであり,それは高州城の西南18里の地 点で甘泉水(今日の一河)から引かれて城西地域 を南北に流れる北野用水路であった。そこで「其 早渡都郷河,日陽關」とは,野州城の西に行って 都郷渠を渡ったところが陽関であるという意味 になる。  先に見た陽関の位置についての西6里/10里の 両説はいずれも寿昌県を起点にしており,敦煙県 を起点にすれば『沙州図経』では130里(120+ 10),『元和志』では1!!里(105+6)であるか ら,いずれにしても早旦県城の西18里以内にあ る都郷河を渡った地点とはかなりの開きがある。 大雑把にはそのような範囲指定も許容されない こともないが,一般的にいって120里(67km)

前後離れて存在する物を18里(10km)の地点

の向こうにあるという表現は不自然である。ある いは敦燵県の西にある都郷河はその西南にある 本流の甘泉水(今日の党河)を指しており,当時 は都郷河で呼ばれていたのであろうか13)。しか し都郷渠の西には馬圏口堰から分流する,都一三 よりも規模の大きい宜秋渠=宜秋大河母があっ た。それにも関わらず,なぜ都郷河の西という表 現をとっているのか。たとえば長浜で京都の位置 をいうのに,彦根の西あるいは芹川の西であると いって大津の西あるいは琵琶湖の西であるとは いわないようなものである。  馬圏と陽関の位置関係  また,唐・供名「冬出敦[巌?]煙郡入退渾國 朝獲馬圏之作」(P.2555,「敦煙唐人詩集残巻」) はこのあたりの光景を詠んだものとして貴重で あり,次のようにいう。

  01西行過馬蝉

  02 四望近陽關   03 廻国見城郭   04 賠然林樹間 13)大島立子「考古学上よりみた敦焼(下)」(『講座 敦煙、(2)敦燵の歴史』大東出版社!980)は,向達 「西征小記」(『唐代長安与西域文明』前掲)に「今 佛爺廟一帯遺趾,疑即為唐・宋時代之沙州也。唐・ 宋時代之沙州已在党河東岸」(p352)という説を 説明して,高居講の「其西関都郷河日陽関」に拠っ て「唐禾時代には,平河を渡ってから陽関を経て 西域へと進むと見たからである。即り唐代以降既 に敦焼の県城は党河の東に移っていたとするので ある」(p474)という。この都郷河は党河ではな く,また向達「西征小記」も「王静安先生以都郷 河為即党河,恐有未諦。唐・宋時代之沙州固已在 党河東岸,然唐名才器日甘水,都郷河則都郷渠之 別名也」(p352)というように都郷河を党河とす る王国維の説を否定している。なお,唐沙州城に ついては向達「両関雑考」(p389注6)にも「唐 絵沙州城在今敦煙城東南約十五里之佛爺廟」とい うが,『沙州図経』(P.2005)「七所渠」に「北府渠: 長冊五里。右源在州東三里甘泉〔水〕上」とある。

(7)

  06 野火因瞑ホ二塁壷

  07初日惨寒山

これは玉壷寿昌県がまだ吐蕃によって陥落して いない建中二年(781)以前   「沙州」といわ ずに「敦鳩郡」というのが古雅の称として用いら れた表現でなければ,下着元年(742)から乾元 元年(758)の間のある年の冬,さらにいえば天 宝末(756)から吐蕃の進出は始まっているから, 天宝末から乾元元年の間,ただし「敦」は火偏を 加えた「徽」字が用いられたから疑問が残る14)        ト ヨクコノ   に「退渾鼻つまり吐谷渾国へ向かった時の 作である15)。作者は使者として吐谷渾に入った 後に吐蕃に抑留される16)。詩題および01句に見 える「馬圏」とは,馬壷口堰あるいは馬歯山のこ 14)徐俊『当日詩集残高輯考』(中華三局2000年)は 「徽煙」に作る(p705)。漢・武帝の元鼎六年(111) に敦煙郡が置かれ,後に階代にも敦燵郡とよばれ ていたが,武代に入って武徳二年(619)に三州, 五年には西八州,さらに貞観七年(633)には「西」 字を取って八州とよばれ,天宝元年(742)には漢 以来の敦煙の「敦」に火偏を加えて徴焼郡とよび, 乾元元年(758)にはまた山州に復した。『元和志』 40「沙州」に「皇朝以古諺爲徽煙」という。 15)『旧唐書』198「西戎列伝」の「吐谷渾伝」に「今 田多謂三巴渾,蓋語急而然」といい,また三四文 書(S.4276)に「帰義軍節度使左脚押衙銀青光禄 大夫検校国子祭酒兼御史大夫安稽恩並州県僧俗官 吏兼二州六皆具老□[]□退陣十部落三軍蕃漢百姓 一萬人上表」として見える十部落を率いていた。そ の他,『新封書』222上「南蛮伝」南詔に「往退渾 王為吐蕃自害」などと見える。なお,御嵩『敦煙 唐人詩集二二二三』(寧夏人民出版社)は詩題を 「冬出町煙肝入退渾,國朝獲馬圏」と句読したらし く,「國朝野馬圏」について「似為唐朝(唐人称 “三朝”)亀虫地放馬匹之地」(p2)とするのはど うであろうか。「國朝」ではなく「……入退渾國, 朝登……」と読むべきであり,また「馬圏」も敦 焼城南の地名である。 16)陳尚君『全唐詩補編(上〉』(中華龍田1992)所 収の王重民「『補全唐詩』拾遺」に作者について 「吐蕃の拘禁に遭いし敦煙の使臣」(p75),時期に ついて「代宗の大暦元年(765)涼州が吐蕃に陥落 してから徳宗の門中二年(781)に敦煤が陥落する までの間」であろうという。 とであろう。『沙一図経』(P. 2005)に「馬野口 堰:品詞州西南廿五里。天元鼎六年造,依馬圏山 回,因LI」画名焉。其山周廻五十歩,自由涼已後, 甘〔泉〕水濡激,無川瀬山」という。Ol句は早 朝に出発し,敦上県城西南の馬一口を過ぎて甘泉 水(今の党河)に沿って南に進んだことをいうが, 02句がもし馬副口あたりから「遠望」したので あれば,陽関は夕煙県城西南の馬圏口よりも北に 位置することになるから,「其西穿下呼声,日陽 関」の位置に合う。しかし,郡城から遠退いて行 くのに馬圏口あたりで陽関が「近」くなるという のであるから,おそらく02は時圏口からさらに 南下した道中での表現であろう。具体的な地点と しては,時間の上からみても馬圏口からあまり遠 くまで進んでいないはずであり,陽関から数里の 地点,甘泉水が大きく屈折する鳴沙山西端=山門 峰よりも南で今の党河南山に向かって次第に高 くなっていく地点で,西北に陽関を眺望し,さら に北東に首を廻らして冬の薄暗い陽光の中に浮 かぶ敦煙郡下と周辺のオアシス地帯を目にした のであろう。先に見たように轍焼郡の南250里に ある南口峰が平谷渾との界であった。「敦煙唐人 詩集一巻」は当時の敦燵の周辺と歴史を知る,史 地学上貴重な資料である17)。 17)中野美代子『敦焼物語』(集英社1987)にこの詩 の前二句を挙げて「捕虜として難訓から連行され たのだが,まず引したところでおそらく軍用馬を 囲って放してある牧場を通った。そこから北を見 やると陽関だという。……胡に捕らえられた漢入 の悲哀は深い」(p180)というが,そのようには 解釈できないであろう。また,「敦燵唐人詩集口巻」 (『文物資料叢i刊』1,1977)を発表した紆学氏が 「歴史的には貴重な紀行詩であり,この時期の歴史 を研究すべく有用な参考資料でもある」(p178)と するのを批判して「正直なところ『歴史的には貴 重な紀行詩』ともいいがたい」(pユ79)といって 立場の違いを示しているが,たしかに有用な資料 であることは,この詩を見ても明らかである。た だし敦煙では有名な「馬圏」を「軍用馬を囲って 放してある牧場」などと解したのでは「歴史的に は貴重な紀行詩」であることが分からない。

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一54一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.8  2001

 E=沙州・寿昌県の西5里

 (e1)『寿昌県地境』:    西壽山城:縣西北五里。漢・武八日計置。 子達は「『寿昌県地境』又今町西寿昌城,在寿昌 城西五里」18)(p374)といい,先の県西6里説 と関係づけて西寿昌城を陽関の遺跡であるとす る。向達によれば,このあたりは古董灘(今の敦 煙県城から西南に約7kmの紅山口,東経94。,北 緯40。の南湖西北岸)とよばれる地であり,ここ からは漢から唐・宋の間の版築・陶器・玉器・古 銭などが出土しており,これより西あるいは西北 には遺跡らしいものはないとして,古董灘を西寿 昌城に比定し,さらにその地を陽関故城に比定す る(p375)。向町は割り注の形で補足説明を加 え,本来その城は魏の置いた陽関町城であるが, 後に廃されて久しく名を聞くことがなかったた めに,新しく置かれた寿一城に対して「西寿昌 城」とよばれたとする。  西寿昌城と寿昌古城  子達の説は考古学的実地調査に立った説であ るだけに説得力がある。それによれば漢・陽関= 魏・陽関県城=唐・西門昌(故)城ということに なるが,果たしてそうであろうか。この説には文 献解釈学上,修正・補足すべき点がある。(1)ま ず,『寿昌県地境』には「四二昌城:縣西北五里。 漢・武八年上置」とあり,「西北五里」であって 「西五里」ではない。(2)また,向達は「残『沙 平地志』亦著録西壽四三,惟謂在縣西二十五里, 今古下灘西或西北既無明城町趾,則縣西二十五里 者或二丁西北五里之四三耳」(p375)というが, これも正確ではない。『沙州地志』(S,788)に「壽 昌縣:……城,縣三寸五里,武徳八年置」,また 『志州城土鏡』(P.2691)にも「西壽昌城:縣西廿 五里」と見え,これら「西廿五里」の「廿」字を 「北」字の誤であると考えることもできるが,そ うであるにしても「西北五里」であって「西五 18)向達「両関雑考」(前掲『唐代長安与西域文明』 所収)。 里」ではない。つまり,向達のいう寿昌城「西五 里」には根拠はなく,記録としてあるのは「西北 五里」と「西廿五里」である。字体については先 の「玉門関」の項で見たように,『寿昌貸地鏡』 が作る「西北五里」の「北」が「廿」の誤りであ る可能性が高い。(3)『沙州野地』五「寿下県」 (P. 2005)に「石門澗:闊七十三歩,崖深一丈五 尺,水深三尺。右源出縣東南三里,於縣城南五 歩,向西出平石門谷,吃水合流,可行計里。百姓 平水,用概田。因山為号。無歯澗:闊五十歩,焼 豚[深]一六五尺,水闊八尺,深三下[尺]。右 源中古陽関城西南,至縣西南十里,北流至石門峰 西,正西入壽昌古城界,可廿里。……陽関:東西 廿歩……」という。これによれば,無歯澗の流域 について「縣城」つまり寿昌県城と「壽昌古城」 さらに「古一二城」とが明らかに区別されてい る。「西子午城」は当時の「縣城」=寿昌県城に 対してその西にある城をいう呼び名であるから, 「壽昌古城」であるとまず考えてよかろう。しか し『沙州図経』では寿昌古城と古陽関城とが区別 されている。つまり寿昌古城=西暦昌城ではあっ ても,西寿昌城=陽関故城にはならない。今,『沙 州図経』の「無歯澗」の記載によれば,石門峰の 西から正当に20里の地点が寿昌古城の界である といい,これは「二二廿五里」にあるという西寿 昌城の近くに当たる。そうならば,名称・距離・ 方位の点からか寿昌古城=西寿山城であり,それ は「縣西廿五里」にあるのであって「縣西北五 里」は誤りであり,「縣西五里」と同じに考える ことはできない。したがって向達のいう陽関故城 =西寿州庁=寿昌県西5里説は成立し難い。  陽関と古陽関城の関係とその位置  むしろ注意したいのは先に挙げた唐・賞耽「道 下記/四夷路程/入四夷通道」に「自沙門門出縣 西十里至剛關故城」という“陽関故城”の存在と その表現である。また,『沙州図経』(P.5034)五 「壽昌縣」にも次のようにあり,陽関の他に「古 平関城」が見える。   石門澗:闊七十三歩,崖深一丈五尺,水深

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  三尺。右源出縣東南三里19),於縣城南五歩   向西,出入石門谷,衆水合流,可行計里。百   姓堰水,用概田。因山(石門山)等号。   無歯澗:闊五十歩,崖□[深]一州五尺,水   闊八尺,深三島[尺]。右源出古言関城西南,   至縣西南十里,北流至石門峰西,正西入壽   昌古城界,可廿里。 これによれば,無歯澗という小川が古陽関城の西 南から流れていた。おそらくこの水源があること によってその近くに城が置かれたのであろう。無 下着は寿昌県城の西南十里に至った地点で流れ を北に変えて石門峰の西に至る。石門山・石門峰 は今日の南湖郷の北にある轍」敦山およびその山 頂に残っている峰台に早くから比定されている。 沙漢にある山であり,しかも石の門を為すという 特徴があることによって比定は比較的容易であ る。しかし「右生出古陽関城西南,至縣西南十 里」という一文は解りにくい。いっぽう別の記載 もあり,『野州伊州志』(S367)に「無歯澗,国 歩西南十里」という。そこで「至縣西南十里」を 「自縣西南十里」の誤りであるとする説がある20)。 たしかに「至」は「自」の音に近く,誤字である 可能性もあるが,誤字説で考えれば,「至」は 「在」の誤字であり,さらに本来この部分は注で あったことも考えられる。また,古陽関城は県西 南十里にある無歯澗の東北に位置するわけであ るから,県十里以内にして西南よりもやや北にあ ることになる。すると,古陽関城は方位・距離と もに「縣西六里」説に近くなる。そうならば,県

西10里のものが陽関であり,県西6里のものが

19)『沙州伊州地志』(S.367)にも「石門澗二源□ [出]縣南三里」という。 20)李正宇『敦島守地新論』(1996年,p261)・李正 宇『古本敦焼郷土志八種箋証』(1998年,p173) はS367に「無丁丁:源縣西南十里」に作ること によって「至」を「自」の誤りとする。ただし『敦 煙面面辞典』(1998年〉「無歯澗」(訂正宇)では 「這出陽関城西南,北流至寿昌城西南十里。・・…・至 寿昌城西南十二里処,始有泉眼滲出」(p324)と 解説されている。 古陽関城であることも考えられる。しかし先に述 べたように県西6里にするものは『括地志』・『元 和志』・『旧唐書』等の全国志であり,県西10里 にするものは『沙門図経』等の郷土志であって, ほんらい資料を異にしていると考えられる。ま た,費耽『入四夷通道』では「一州故城」に作 り,「引引十里」という。  そこで考えられるのが錯簡の可能性である。 『野州図経』(P,5034)五「壽昌縣」には「無歯 澗:……帯出古陽関城西南」とあるが,『沙州伊 州志』(S367)には「無歯澗,源縣西南十里」と いい,さらに『寿同県地帯』には「無歯学,源出 隅西南十里也」という。これらは本来同じ資料に よるものであるから,『沙州伊州志』には脱字が あり,「無四則,源〔出〕縣西南十里」に作るべ きであり,また「沙州図経』には前後に顛倒があ ると考えられる。つまり,次のように考えること ができる。  (1)「至」の下にある「縣西南十里」を「出」 の下に置けば「右特出縣西南十里」となって三者 は同じになり,同時に「出」の下にある「古陽関 城西南」を「至」の下に入れ替えば,「至」を「自」 の誤りとする必要はない。つまり「右源出門陽関 城西南,至縣西南十里,北流至石門峰西」は,ほ んらい「右源今古陽関城西南,自力西南十里,北 流至石門峰西」(李正宇説)ではなくて「右門出 〔縣西南十里〕,至〔古陽関城西南〕,北流至石門 胆力」であったのではなかろうか。f縣西南十里」 と「古陽関城西南」を入れ替えれば,前半は他の 史料の記載と一致し,また後半の文意も通る。  (2)「右貸出古学関城西南,予予西南十里,北 流至石門峰西」であれば,古陽関城は県の西南 10里以外の地にあることになり,頁耽「道里記」 の「自沙州壽目測西十里至陽關故城」や『沙州図 経』の「陽関……在縣西十里」に距離・方位とも に矛盾する。しかし「右源出〔縣西南十里〕,至 〔古陽関城西南〕,北流至石門峰西」であるなら ば,無歯学の水源は県西南10里にあり,古陽関 城の西南から北に流れて石門峰の手前で西に流

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一56一 滋賀大学経済学部研究年報Vol.8  2001 れを変える。つまり,古陽関城は県西南10里の 水源のやや北に位置するわけであるから,「縣西 南十里」よりも「縣西十里」に近くなる。  そこで「一陽関城」と「陽関故城」(頁耽「道 里心」)・「陽関」(『沙州図経』)の三者の起点=県’ 城からの距離・方位はほぼ同じになり,同一のも のを指していると考えられる。今日の調査によれ ば,無歯澗は“西土溝”に比定されており,その 源泉の東北約300mのところに当地で俗に“石棺 材”とよばれている人工的に繋製された岩(長さ 2m余,旧約O.・6m)があるという21)。西土溝の水 源とその東北にある石棺材の位置関係はまさに 「右源出〔縣西南十里〕,至〔古陽関城西南〕,北 流至石門峰西」に一致する。したがって“石棺 材”のあるあたりが「古物関城」趾である可能性 が高い。しかし「古物関城」・「陽関故城」・「陽 関」の三者が同一物を指しているかどうかは,な お検討すべき問題である22)。  (1)「陽関故城」と「古陽関城」は古代の陽関 の城の意で同じものを指すであろうが,「∼関」 と「∼城」とは建造物として異なるものである。 そこで,建造物を意味する語の重複表現に注目す れば,「陽関」そのものではなく,陽下県城の趾 のこととではないかと考えることができる。先に 挙げた『元和志』40「寿昌県」に「陽關:在縣西 六里。以居玉門關之南,故日陽關。本漢置也,謂 野南道,西趣都善・歩車。二等増勢此置陽關縣, 周回」という。これによれば陽関のあった地域に 陽関門が置かれた。また,『晋書』14「地理志」 に「敦焼干:漢置。巴町十二,戸六千三百。昌 21)李正宇『敦煙硝地新論』(p266)・『古本敦煙郷 土志八種箋証』(p173)。 22)李正宇『敦煙史地新論』(p266)・『古本敦煤郷 土志八種三三』(p239, p 363)は石棺材を陽関城 の遺物であり,古陽関はここにあったと推測して いる。また,氏は「右歩出古陽関城西南,至[自] 縣西南十里,北流至石門峰西」という理解に立っ て推測しているが,古陽関城をこの地に比定する ならば「右源出〔縣西南十里〕,至〔古陽関城西 南〕,北流至石門峰西」と考えるべきであろう。 蒲・甲唄・龍勒・陽關・敷穀・廣至・宜禾・即 興・三芳・伊吾・新郷・乾齊」というのによれ ば,晋代に三吉県と陽関県が置かれていた。龍勒 県は前漢に置かれたもので,この両県が唐代の丁 田県に当たる。ただし,龍門三二が唐の寿昌丁丁 (今の南湖郷西北の南湖破城)の位置に置かれた とすれば,陽関県城との距離は10里であり,わ ずか10里の問に二県の城が置かれているのは近 すぎるように思われる。しかしこの点は向達の説 とは逆に唐寿昌県西25里にあった二巴昌城=寿 昌古城を陽関県古城と考えてみることができる。 本来の名が忘れられたため,唐の寿一二城(漢の 龍勒県城)の西にあった古城であることによって 「西寿町城」「寿昌古城」と通称されたのではなか ろうか。あるいは龍門二丁が「西寿山城」「寿昌 古城」なのであろうか。いずれにしても「西下昌 城」「寿昌古城」と唐寿昌県城の問は25里あって 距離の点では10里より適当であるにしても,「古 町関城」=“石棺材”一帯の地は両者の中間に あっていずれの県城とも離れている。そうならば 「陽関故城」「古陽関城」は県城とは無関係なので はなかろうか。  (2)『沙州図経』(P.5034>では「無歯澗」の後 に「二古関」の項を載せて「陽関!と「玉門関」 を挙げ,「陽関:東西廿歩(約31m),南北廿七 歩(約42m)」というから,陽関は周回94歩(約 146m)の極めで小規模な建造物であり,県城と は明らかに異なる。ちなみに『二二図経』(P,2005) 「古効二丁」の条によれば沙州東北40里に置かれ ていた漢代の効穀二二は「七七五百歩」あり,ま た『沙州門経』(P. 5034)によれば,弓場県城内 にあった北周以前に置かれた寺(永安寺?)は「東 西計歩」(南北は不明)あり,北魏に置かれた二代 の廃寺も「東西計歩」あり,また西の都善廃城 は「周廻一千六百冊,高二丈」,蒲桃故城(二所) でも「周廻二百五十歩,高五尺已下」「周回一百 冊歩,高五尺已下」あった。したがって陽関と 古陽関門城とは同一の建造物ではない。しかし 『沙州図経』(P. 2005)には「古阿[河]倉城:周

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廻一百八十歩。……俗号阿[河]倉城,莫知時 代。其筈別殿,其[基]野営存」というから,比 較的小規模の建造物で軍需品の倉庫の類(肥代の 昌安倉?)も俗に「城」と呼ばれていた。「古陽 関城」とは,あるいは今若ではなく,陽関の趾の 俗称なのではなかろうか。  (3)『沙州図経』(P.5034)は「二古関」の後に 劉の項目を立てており,それに次のように見え る。

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   □□□□□□口□□□□□□武帝後元年,置都□    □□□□生心□□□□□□府,以居玉門之南,因以    □□□□□ロロロロロロロ暖。至随大業五年,大將    □□□□□□□□□□帽子此路西出,已後更無人行。   口二段□  □□□□□歩  高i丈    □□□□目口〔コロロロ徳六年置、今見破壊。

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   [コロロロロロロロロロ。漢破差将軍辛武賢占卜戎    〔=]母船□□□二目日量□莞亭。

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   〔コロ一助ロロロロロロ覗見西域傳日誌長安六千一一百    □□□[コロロロロロロロロ柳胡桐白草,人随畜牧逐    □□□二二口〔〕[〕□〔コロロ一通大宛,使者四望於道 一説によれば23),この部分は「四所古城」の項 であり,第一行は「置都〔尉〕……〔陽関都尉〕 府,以居玉門之南,因以」とあることによって 「陽關都尉城」であり,第二条は「西壽昌城」,第 三条は「破莞亭」,第四条は「石城鎮」であると する。第一条は,「居玉門野南,因以」の直後に 「名陽関」「号日陽関」というような文字が入るで あろうから,陽関に関係する条であることは確か である。しかしこの条が「陽關都尉城」であるな らば,『寿昌県地鏡』に「玉門関:縣北一百六十 里,喉骨下元鼎九年置,斜陽都尉!というよう に,漢代の玉門関には玉門都尉も置かれていたか ら,「玉門都尉城」なる古城もあったはずである が,「玉門関」の他にそれに相当する条が見られ ない。いっぽう西下下城は「壽昌古城」ともよば れており,第二条が「壽昌古城」であるならば, 『沙門門経』で古城とよばれているものには他に 23)李正宇『古本敦煙郷土志八種箋証』(p142・ p 182)o 「古陽関城」があるから,第一条は「玉門都尉城」 ではなく,「古陽関城」と考えるべきであろう。 しかし「二古関」の項に「陽関」が見えるから, 重複することになり,断定はできない。ただし, これは「陽關都尉城」であっても同様である。「陽 關都尉城」か「一陽関城」かでいえば,すでに名 が見えている「古陽関城」の方が適当である。「古 平関城」を都尉府城であるとすれば,それは関そ のものではないから,関の近くにあったのであろ う。  なお,今日の説では24),部分的に残っている 内容から「〔一所古町〕:〔古塞〕……。〔四所古 城〕:〔陽関都尉城〕……。〔西壽昌城〕……。〔破 完亭〕……。〔石城鎮〕……Q〔石城南山〕……。 〔 ? 〕……。〔屯城〕……。〔新城〕……Q〔蒲 平城〕……。〔薩毘城〕……。〔寧彌城〕……。」が 記載されていたと推測されているが,『沙州図経』 (P.5034)の記載項目は『寿昌県門鏡』や「沙州 伊州志』(S.367)の記載とよく対応している。表 14「敦煙郷±志の記載項9の対応」を参照。  通説で「古筆」とする条の末文「利下二年慶, 基町見存」と「陽関都尉城」(〔古平関城〕)の条 の「武帝後元年……」の問には三・四期分が残平 しているから,「四所古城」の項があったと考え るのであろうが,〔古町関城〕の条が長文であっ たとも考えられ,また別の条があったことも考え られる。通説のように「陽関都尉城」の条の上に 「四所古城」の項があったとするならば,その第 三条を「破莞亭」,第四条を「石城鎮」に復原す るは問題である。第三条にはたしかに二半亭の事 が記されてはいるが,城ではない。三斜亭は『通 典』(破若亭)では敦煙県の西50里にあり,『沙 門地胆』(S.788)『沙野土鏡』(P.2691)「丁丁縣」・ 「壽昌縣地境』では寿昌県の東65里にあって県境 に当たった。また,第四条は「石城鎮」ではな 24)池田温「沙州図経略考」(『榎博士還暦記念東洋 史論叢』山川出版社1975年),李正宇『古本敦煙 郷土志八種箋証』(ユ998年)「沙州圖経巻第五」。

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一58一 滋賀大学経済学部研究年報Vo 1.8  200! 14:敦煙郷土志の記載項目の対応 『沙州図画』 『寿昌画地鏡』 『沙州伊州志』 四所山 目鼻山 黒三山 〔銚〕群山 眺閲山 〔龍勒〕山 龍勒山 西子三山 西漸亭山 二所澤 大澤 大澤 曲面 曲澤 (以上残鉄) 二所由 面面泉 龍勒泉 〔面諭泉〕 面面泉 龍堆泉 〔漏壷泉〕 一海水 壽昌海 壽昌海 壽昌海 二所渠 大奥  \ 大渠 大渠 長幽幽 長〔支〕渠 〔二〕所澗 石門澗 石門澗 石門澗 無歯澗 無歯澗 無歯澗 二古関 陽関 玉門関 玉門関 〔 ? 〕 〔古肩幅〕 〔 ? 〕 〔古豪関城〕 〔古壽昌城〕 〔破莞亭〕 〔破莞〕亭 〔石城〕 石城 石城鎮 〔屯城〕 屯城 屯城 〔新城〕 新城 新城 〔蒲油壷〕 蒲漏壷 蒲桃城 〔歯並城〕 蒔[薩]毘城 薩毘城 〔寧彌城〕 善都城 部品城 故屯城 幡仙鎮 西壽昌城 古屯城 画仙鎮 く,「石城」でよかろう。今,『寿昌県地鏡』や 『追訴伊州志』では項は立てていないが,各条は 『羽州読経』(P.5034)とよく対応している。ちな みに『志州図経』(P.2005)には敦心頭の「四所 古城」の項がほぼ完全な形で残っており,その下 には「古河倉城」「古効穀城」「古長城」「古塞城」 があり,いずれも城であるだけでなく,「古∼城」 という表現をとっている。したがってこの部分に 「一所古塞」と「四所古城」の二つの項を復原す る根拠を欠く。また「一所古塞」下の条も「二 三」ではなく,「古畳城」がよかろう。  今日知られる文献史料を整合させれば,少なく とも唐代に“陽関”の趾と考えられていた地は唐 の寿昌二二(南湖破城)の西10里にあり,また 二代で「陽関故城」=「古陽関城」と呼ばれてい た趾があって,それも県城西10里にあった。城 と関は本来同一のものではないが,記録の上では 「陽関故城」「古陽関城」と「陽関」趾は極めて近 い位置であり,両者の位置と名称からは陽関の近 くに陽関都尉府城が置かれた,あるいは陽関の近 くに陽下県城が置かれたと考えることもできる。 しかし古陽関城を晋の陽関県城趾,龍勒三山を唐 の寿昌県城(今の破城)と考えるならば,距離の 上では適当ではない。晋の二三県城・陽関三三の あった地点,また西寿一城との関係など,問題を 残す。今後の考古学上の調査・研究を待って再度 考えなければならない。今,考察してきた所を 15「陽関とその周辺」としてまとめておく。

VI二代二二の西関と玉門関・陽関の関係

 この他に,唐代の沙州には“西関”とよばれる 関があった。最近の研究を集大成した二三林主編 『敦二三大辞典』(上海辞書出版社1998年)「西山 鎮」(p397>の項には次のようにいう。   二上名。二二。二二州城西北漢玉門關附近。   玉門關在二代已東二二瓜州,三三趾二二爲   西關,苑控敦三二去道路,由沙州西往石城   鎮北路経由此鎮(P.5034)。…… これによれば,西関は二代の玉門関あたりに置か れたといい,また玉門関の蛙地を“西関”と呼ん だという。いっぽう同書付録の「唐代前期瓜・三 二三二意圖」(p925)には,玉門故旧の遥か南, 陽関のやや西南に「西關鎮」が記されている。鎮 の所管範囲は相当広かったと思われるが,鎮の中

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15=陽関とその周辺 西寿昌城 寿昌古城  B.= 無函澗20里 (敬亀山) 石門(紅山口) (=1=)(==)(龍頭山)  石門峰 25里  、、一_

亀.イ種

     寿昌県城

     (南湖自己)

     /“

/睡郷、蔀

讐聾

    10里\

  1廼 寿昌海=渥二水 (黄水埋水庫) 心機関が置かれていたのは一個所であり,また 「西關鎮」に関が置かれていたならば,西関その ものは極めて狭い地域に限定されるはずである。  南路・北路と西関  『勢州月経』(P。5034)の「六所道路」の項には 次のようにいう。   一 道順路。其□□口吻屯城一百八十里25),   従屯城取磧路,由西関向沙州一千四百里。惣   有泉七所,更無水草。其鎮去沙州一千五百   八十里26)。   一 道南路27)。従鎮東去沙州一千五百里。其   路由古陽関向沙州,多縁険隆,泉有八所,皆   有草。道瞼,不得夜行。春秋二時雪深,道   閉不通。   一 道,従鎮西去新城二百冊里;翁面城西   出,取傍河路,向播仙鎮六百一十里;舗石   城至播仙八百五十里,有水草;従新城西南 25)李正宇『古本敦焼郷土志八種引証』(p145)は 「其路垂目□□城……」として鉄字を「東北去屯」 に作るが,「路」は残巻影印(p429)では判読で きない。むしろ「屯」は判読可能である。 26)李正宇『古本敦煙郷土志八種箋証』(p145)は 「其鎮東去沙州……」に作るが,「東」は誤り,国字。 27)李正宇『古本敦煙郷土志八種箋証』(p145)は 「一所南路」に作るが,「所」は「道」の誤り。   向蒲桃城二百冊里,中間三野有水草,毎所   相去七十鯨里;従蒲桃城西北去播仙鎮四百   鯨里,並邪路,不通。   一 道,南導出八十里。已南山瞼,即是吐   谷渾及吐蕃境。   一 道,北開回書一千六百里。有水草,路   綿羊昌海西,度計戊河。   一 道,東南去薩毘城四百八十里。 これによれば,ある「鎮」を起点として六つの ルート=二路四道があり,東の濃州の治=敦燵県 に向かうのに,「西關」を経由する1580里(180 +1400)の「回路」と「古陽關」を経由する1500 里の「南路」の二つのルートがあった。他の四道 は鎮から西・南・北・東南に向かう「道」であっ て,いずれも沙州に向かうものではない。そこで 「□路」は西関を経由して沙州に至るルートであ り,また陽関の「南路」と対比されていることに よって「北路」であると推測される。起点である 鎮については,180里の屯城を経由すること,東 の沙州まで1500里であること,また『沙州図経』 (P.5034)五「寿昌県」に「陽関:……右在縣西 十里。……西通石□[城]・干閲等南路」という ことによって唐の「石城鎮」であると考えられ る。『沙州伊州地志』(S. 367)にはやや詳しく,

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一60一 滋賀大学経済学部研究年報Vo 1.8  200! 次のように見える。    石城鎮:七去沙州一千五百八十里,丘上   都六千一百里。本項縷蘭國。……岬町郡善   鎮。草筆,出城遂慶。貞観中(627−649),康   國大首領康艶典東來居此城,胡人随之,因   成聚落,翌日典合城。四面並是丁丁。上元   二年(675),二三石城鎮,隷沙州。屯城:西   去石城鎮一百八十里。    寿昌海(ロブノール):在石城鎮東北三百   里廿里,其海国学四百里。、 『寿昌県土鏡』にもほぼ同じく,「石城:本門櫻二 野。・…・・随(陪)置〔都〕善鎮。随(階)簡し其 城乃空。自貞観中,康國大首領野錨典東居此城, 胡人随之,三門聚落,名其城日興谷[典合]城。 四面並是沙歯。上元二年,改為石城鎮,属沙州。 東下沙州一千五百入十里。屯城:西門石城一百八 十里。……國中有伊循城。……郵〔善〕大城,遂 名為小都善,今名屯城」「蒲昌海:在石城鎮東北 三百廿里,其海圓廣四百里1という。つまり屯城 の西180里に石城鎮がある。そこは漢では楼蘭 国,階では都善鎮であったが,唐代では石城鎮 とよばれ,沙州に属していた28)。したがって唐 代の沙州史料には吐蕃の支配下に入る以前の記 録として「石城鎮」として見えるわけである。  このようにく石城鎮∼沙州〉の間に「陽関」経 由と「西関」経由の南北二路があった。今,『肥 州図経』(P.5034)によれば,〈石城鎮∼西関∼沙 州〉の北路は1580里であり,〈石城鎮∼陽関∼沙 州〉の南路は1500里である。他の史料にいう〈石 城鎮∼沙州〉の距離を示せば次のようになる。   『沙州城土鏡』(P.2691)  =1580里   『一州伊州地引』(S. 5034) =1580里   『寿両県地鏡』      =1580里 28)楼蘭古城については新子楼蘭考古隊「楼蘭古城 量調査与試掘辻車」(『文物』!988−7,文物出版社) が図版を付録して詳しく,それによれは位置は東 経89。55/22”,北緯40。29’55”,今の孔雀河 (後述)の乾河床から南に16km,羅布泊(ロブ ノール)西岸から東に28kmの地点であるという。   『元和郡県図志』     =!5GO里   『太平特写記』      =1500里 いずれも『沙子図経』のいう南北二路の里数と一 致する。これは先の陽関経由=1580里と西関経 由=1500里の二路の違いを反映しているのでは なかろうか。史料には具体的な経路が明記されて いないが,『沙州城土鏡』系統の地方志は西関経 由の距離,『元和志』系統は陽関経由の距離であ ろう。ただし『元和志』には「八到:……思至石 城鎮一千五百里。丁丁吐蕃界三百里,北至伊州七 百里」とあり,その「五百里。西至」の「西」は 恐らく「南」の誤りであるから,その上の「五百 里」も「八十」を脱していることが考えられなく もない。  また,別の里数もあった。唐・頁耽「道里記/ 四夷路程/入四夷通道」には次のようにいう。   又一路自沙州壽昌三三十里至陽關故城。又   西至蒲昌海南岸千里,自蒲昌海南岸,西経   七屯城,漢・伊修[循]城也。三門〔一二〕   八十里至石城鎮,漢・縷蘭國也,亦旧都善,   在蒲昌海南三百里,康艶典爲鎮二二通西域   者。 ここには陽関経由のルートがやや具体的に示さ れている。これによれば,〈沙州∼石城鎮〉の距 離は,〈陽関∼蒲昌海南岸〉=1000里,〈蒲昌海 南∼石城鎮〉=300里,さらに〈陽関∼二二県∼ 沙州〉=10里+120里(105里/150里)を加え れば,1430里(1415里/1460里)になる。これ は1500里に近い。頁耽の示しているのはもとよ り概数であり,〈蒲昌海∼石城鎮〉=300里を『沙 州図経』系郷土志のいう320里にすればさらに 1500里に近くなる。では,このような陽関経由 の南路に対する北路の経由:地点である西関とは どこにあったのか,玉門関・陽関とはいかなる関 係になるのか。  陽関を経由する1500里の南路に対して西関を 経由する1580カ日路は北路と考えられるが,じ つは北路とは玉門関を経由するルートの呼称で もあった。先に見たように『元和志』に「陽關:

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丁丁西六里。以居玉門關之南,故山“陽關”。本 四二丁,謂之“求道”,西趣都善・三二。……玉 門故關:在縣西北一百一十七里,謂之“北道”, 西牛車師前庭二丁勒」というように,沙州から西 へのルートとして玉門関経由の「北道」と陽関経 由の「二道」の二つがあった。この「二道」は陽 関を経由するものであり,また同書には「三州」 からの「八二」に「二二石城鎮一千五百里」とい うから,『沙丁丁経』のいうく二二∼陽関∼石城 鎮〉=1500里の「南路」と一致する。そこで「南 路」に対する〈沙州∼西関∼石城鎮〉=1580里 の方は,『元和志』のいう玉門関経由の「北道」 に当たることになり,「西関」は「玉門故関」と 同じ経由点であると考えられる。  しかしこの「北道」と「北路」のルートは必ず しも同じではない。『沙州図経』系の史料では西 関経由=「北路」と陽関経由=「南路」はいずれ もく志州∼石城鎮〉であったが,『元和志』にい う玉門関経由の「北道」はく沙州∼旧師前庭・疏 勒〉,つまり敦豊西北の車回前王庭=西州;高昌 国(トルファン)を経由してタリム盆地の北を三 弦(クチャ)・疏勒(カシュガル)へと向かうルー トであり,いっぽう陽関経由の「下道」はく野州 ∼都善・下車〉,つまり石城鎮を経由しタリム盆 地の南を子聞(ホータン)・疹車(ヤルカンド)へ と向かうルートである。『元和志』のいう南北両 道はおそらく漢代以来のものであろう。「元和志』 の地点・呼称・表現は『漢書』96上「西域伝」に 「自玉門・陽關出西域有三道。湯冷善宇南山北, 二河西行至渉車,爲“二道”。弓道西門葱嶺,則 出大月氏・安息。自丁丁前王廷随北山,波河西行 至疏勒,爲“北道”。北道西喩葱嶺,言出大野・ 康居・奄察焉」というのに符合しており,これを ダイジェストしたもののようである。ただし,『漢 書』96上「西域伝」には「部善国……去二二千 六百里」というから,〈沙州∼陽関∼都善〉は /700里以上になり,『元和志』が1500里という 距離は漢代のものではなく,二代のものに拠って いると思われる。当時,西関は陽関と並ぶ西域へ の門戸であったと推測されるが,しかし漢代から 西域への門戸として陽関とともに併称されて来 たのは玉門関であり,玉門関経由を北道,陽関経 由を南道として区別して来た。すると,玉門関が 東に移ってからも,その±thは関として機能してお り,「西關」とよばれたのであろうか。しかし『元 和志』のいう漢以来の「北道」とは『予州図経』 系史料の「北路」とはちがって丁丁=石城鎮を 経由しない。つまり「北道」は沙州から玉門関を 経て西北へ向かい,「北路」は沙州から西関を経 て真西に向かう。  そもそも西域へのルートは時代によって変化 している。では,唐子の西域交通路はどうであっ たのか。一か月はおよそ五つあったとされてい る。今,厳耕望の説に基づいて修正(?)されて いる菊池英夫の説によってまとめれば29),次の 通りである。  (1)三州陽関から西へ,ロブノール南辺∼楼蘭   ∼干聞∼疏勒∼=南道  (2)沙門玉門関から西へ,ロブノール北辺∼楼   蘭∼焉書∼亀藪∼=大三道30>  (3)沙門玉門関から西北へ,白龍堆∼大沙海∼   西州高昌県∼=大海道3ユ)  (4)三州玉門関から北へ,戯丁丁∼猜竿戊∼   伊州伊吾県∼=梢下道  (5)瓜州新井駅から北へ,第五駅∼伊州柔遠県   ∼=第五道 「漢書』・『元和志』のいう「北道」が(2),「南 道」が(ユ)である。『沙州図経』のいう「南路」 が(1)に当たるから,「北路」は(2)と途中ま で同じく,白龍堆・ロブノール北辺を通るが,南 下して石城鎮に至るものであると考えられる。西 関経由の「北路」は「回路を取」って「泉門所, 更無水草」といい,それに対して陽関経由の「南 路」は「多縁下険」「三八所,皆下草」という地 29)菊池英夫「階・唐王朝支配下の河西と敦煙」(『敦 淫講座(2)立文の歴史』大東出版社1980,p172 ∼175)。厳耕望の説は『唐代交通図考』(前掲)「漢 階間通西域諸道及其与唐道之関係」(p479)。

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一一

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滋賀大学経済学部研究年報Vo 1.8  2001 理環境であった。「南路」は蒲昌海の南岸にある 金下山の麓に沿って通るために「険隆」な個所が あるが,水草に恵まれており,いっぽう西関経由 の「北路」は大磧路を通るために水草が皆無なの である。  では,西関と玉門関とはどのような関係になる のか。『沙州図経』系史料に「玉門関」の条があ るが,そこには「西関ともいう」というような記 述は見えない。当時,西関という関が沖州の西に 存在したことは確かであるが,なぜ「西関」の項 が『沙州図経』等の地温に見えないのか。それは 今日見られるものが残髄であることが考えられ る。しかし「玉門関」の項は残っており,かりに 今日の通説にいうように玉門関が廃止されて東 に移ったためにその趾に置かれたものが「西関」 と呼ばれたのであるならば,当然そのことが記さ 30)菊池英夫「階・唐王朝支配期の河西と南庭」に 「沙州から臨書への最短路であったらしいが行程 は厳耕望氏の博引傍捜を以てしても不詳である。 恐らく羅布装の北から庫穆河,孔雀河に沿うて」 (p173)というが,先に引用した『沙州図経』六 所道路によってかなり補足することができる。「羅 布泊の北から庫穆河,孔雀河」に沿うというのは 厳耕望の説(p479)に見えるが,『沙州図経』に は「北二二誉一千六百里。有水草,路当蒲昌海,西 度計四国」とあり,蒲昌海つまり羅布引(ロブノー ル)から西へは職封河を渡っており,これが孔雀 河の唐名であった。計量(ケイジュ)と孔雀(ク ジャク〉コンチェ,KoncheDarya)は音が変化した もの,あるいは方言による違いを反映するもので あろう。また,石城鎮から焉書まで1600個口いう。 また,沙州∼焉書の距離は,石城鎮∼沙州は1580 里であり,「蒲昌海:右在石城鎮東北三百廿里」と いうから,2860里(1580−320+1600)になる。 31)菊池英夫「陪・唐王朝支配期の河西と敦煙」に は「玉門故山より西北行し,白竜堆,大剛海を突っ 切ってトルファン盆地の柳中県に出て」(p174)と いうが,このルートは玉門関から西行する大藩道 が白龍堆を通するものであるためにそれを回避す べく設けられたものである。つまり白龍堆を通ら ないのはこのルートの特徴である。詳しくは後述。 王去非「関於大海道」(『中国歴史博物館館刊』5, 1983)は,大沙海を経由したために大海道とよば れたというのが正しいであろう。 れているはずであるし,逆に当時の名称である 「西関」の項を立ててその中で玉門三関であると いう説明がなされるべきであろう。これらの点か ら考えれば,玉門関と西関は同じではないように 思われる。  西関と西関鎮  二代の文献史料で,西関の他に西関鎮という名 称も知られる。先に掲げた『敦煙学大辞典』には 「西關鎮」の項を設けて西関が玉門関趾に置かれ ていたとして「吐魯二二斯塔那503号墓出有開元 二十六年“沙州故西關鎮將張□感”墓誌」を挙げ る。また,『三州二二』(S.788)に次のようにいう。   壽昌縣:……右回二二縣。(北魏)正光六年   (525),改為壽昌郡。(唐)武徳二年,為壽昌   縣。永徽六[元?]年,慶。乾封二年,復   二三壽昌置。建中初,陥吐蕃。大中二年,張   議潮収復。三一,永安。鎮一,龍勒。墨三   [二],西壽昌・西関。戌三,大水・西子亭・   □[紫]金。峰計四。柵二。鎮三。城:……。   破完亭:……。玉門関:翁忌一百六十里。   『地里志』云“漢武帝後元康中置”。『西域傳』   云“東山二二,〔阻〕以玉門陽関”是也。里   [黒]鼻山:……。 寿昌県には龍勒鎮と西寿昌昌・西関墨が置かれて いた。ただし「鎮三」ともあり,「墨」は「鎮」 になったものと思われる。『寿昌県地境』に次の ようにv、うQ   寺一,永安。鎮西,龍勒・西関。 龍勒鎮は寿昌山城に置かれていたと思われる。二 二県はかつての龍勒県である。寿自県城の他にそ の西25回目地に西寿昌城とよばれる古城があり, そこに二二が置かれていたであろう。西関鎮はこ れらと重ならない地域にあったはずであるから, 県北部であった可能性が高い。ただし『沙尺地 志』(S.788)・『三一県地境』ともにその後に「玉 門関」の条を設けているから,西関と玉門関とは 区別されており,別の関であるように思われる。  なお,張守旧『史記正義』(123「大宛列伝」の 「安息」)に「『地理志』云:“安息國,京西萬一千

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