• 検索結果がありません。

永井玲衣

N/A
N/A
Protected

Academic year: 2021

シェア "永井玲衣"

Copied!
1
0
0

読み込み中.... (全文を見る)

全文

(1)

219

河野哲也著

『人は語り続けるとき、考えていない : 対話と思考の哲学』

岩波書店 2019 年 238 頁 四六版 2300(税抜)

永井玲衣(上智大学)

 本書は、近年教育現場を中心として多くの場で 必要性を叫ばれている「対話」について、哲学対 話の実践を数多く重ねている筆者が、本格的にそ の解明に取り組んだ哲学書である。哲学的な対話 というのは、主に「子どもの哲学(Philosophy for children, P4C)」のことを指しており、アメリ カの哲学者マシュー・リップマンが、大学生の論 理的思考力の低さを憂い、初等教育から思考力の 育成を試みたことから端を発している。そこでは、

子どもたちが互いの前提を明らかにしながら、意 見を出し合い、考えを深める対話型の授業が行わ れる。この試みは様々な国で展開され、日本にも 独自の教育現場や文化と絡み合いながら、今現 在も発展を続けている。この現象は、フランスの 喫茶店でスタートした、カフェで市民らが哲学的 な問いについて語り合うという「哲学カフェ」と 合流し、合わせて「哲学対話」と呼ぶのが一般 的となりつつある。筆者は哲学者でありながら、

こうした「哲学対話」の日本有数の実践家である。

だが、本書はそうした哲学対話の実践例に終始す るのではなく、そうした哲学的な思考と、対話の 関わりから、思考と感情の関係、合理性と非合理 性の切り分け、対話する身体についてなど、これ までに哲学対話の実践者が積極的に語ってこな かった「対話」の哲学的考察となっている。対話 の教育的意義や、対話のファシリテーション技法 について、そして実践の報告なども、実践家にとっ て大きな助けとなるが、本書のように対話とはそ もそも何なのか、何が目指され、思考とどのよう な関係があるのか、という哲学的な考察が無けれ ば、その実践は真に「哲学的」とは言えないだろう。

本書を通して見えてくるのは、筆者の哲学に対す

る一貫した姿勢である。それは「哲学的とは、自 己反省的、自己修復的、自己変革的ということ」

p.186.)という文章に集約されるだろう。昨今の「問

題解決」「合意形成」といったキーワードの重要 性を認めながらも、筆者は繰り返し、常に自己が 問いに対峙しつづけることを言う。安易にそして 性急に態度決定するのではなく、「他者と自分自 身に相対すること」(p.104.)を強調するのだ。だ がそれは単なる決定の保留ではないし、解決への 逃避ではない。副題にあるように本書は「対話と 思考の哲学」がテーマであるが、対話と思考が行 われることによって、自己が変容していくその様 を筆者は丁寧に描き出している。異質な他者との 議論を通し、自己は変容し、修正され、変革され ていくのである。こうした既存の前提への疑いや 自己修正への姿勢は、「無知の知」で知られるソ クラテスが対話を街中で行っていたという哲学史 的な事実に目を移すとするならば、当然のことと 言えよう。「対話」というとコミュニケーション論 に考えが及びがちであるが、筆者の考察は「自己 論」へと触手を伸ばしていると言える。

 また、特徴的かつ刺激的である点として、筆者 の「感情・情念」や「身体」への言及である。「情 念は思考を動機づける」(p.71.)と述べられてい るが、「感情」について意欲的に取り組んだマーサ・

ヌスバウムの翻訳も手がけている筆者だからこそ の記述だろう。リップマンもヌスバウムの影響を 受け、思考に感情的側面を入れ込んだというのは、

特筆すべき事実である。さらに「言葉を話すこと が、表情や身振り手振りと同じような身体的なも

の」(p.125.)というように、思考能力だけでなく

身体性にまで議論を深めている部分も興味深い。

近代的合理主義の文脈に未だある人にとって、対 話という身体を伴った他者との合同行為における 思考という視点をもつことによって、さらに「身 体性」といった重要な側面に気づかされる。

これまでにない「哲学対話」の理論書でありなが ら、本格的な「対話論」の哲学書である本書は、

哲学対話の実践家・研究者や、教育者にとっても、

新たな古典となっていくことだろう。

参照

関連したドキュメント

「聞こえません」は 聞こえない という意味で,問題状況が否定的に述べら れる。ところが,その状況の解決への試みは,当該の表現では提示されてい ない。ドイツ語の対応表現

従って、こ こでは「嬉 しい」と「 楽しい」の 間にも差が あると考え られる。こ のような差 は語を区別 するために 決しておざ

児童について一緒に考えることが解決への糸口 になるのではないか。④保護者への対応も難し

共通点が多い 2 。そのようなことを考えあわせ ると、リードの因果論は結局、・ヒュームの因果

エッジワースの単純化は次のよう な仮定だった。すなわち「すべて の人間は快楽機械である」という

「欲求とはけっしてある特定のモノへの欲求で はなくて、差異への欲求(社会的な意味への 欲望)であることを認めるなら、完全な満足な どというものは存在しない

   遠くに住んでいる、家に入られることに抵抗感があるなどの 療養中の子どもへの直接支援の難しさを、 IT という手段を使えば

の繰返しになるのでここでは省略する︒ 列記されている