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後白河サロンの実態−『梁塵秘抄口伝集』巻十を中 心に−
著者 土橋 愛
雑誌名 奈良教育大学国文 : 研究と教育
巻 25
ページ 51‑60
発行年 2002‑03‑30
URL http://hdl.handle.net/10105/10748
後白河サロンの実態
i﹃梁塵秘抄口伝集﹄巻十を中心にー
土橋愛
はじめに
後白河院は源平の動乱の時代において︑背後から時代を左右した
帝王であると同時に︑今様の熱心な研究者であり名人級の歌い手で
もあった︒また︑当時の貴族たちも偲偏や遊女に混じって今様の修
練に暇がなかった︒そして︑後白河院とその周辺の人物は一つの集
団を形成し︑様々な場で活躍した︒彼らは今様だけでなく様々な芸
能に精通し︑政治とも無関係ではなかった︒
本稿では︑後白河院とその周辺の人物たちで形成された集団を﹁後
白河サロン﹂と呼び︑その実態を明らかにすることを目的としたい︒ 後白河サロンのメンバーを﹃梁塵秘抄口伝集﹄巻十(以下﹃口伝
集﹄という)を中心として考えると︑主なメンバーは次の三つに分
類することができる︒
①後白河院の弟子
②後白河院の弟子でなく︑今様を生業としない今様継承者
③今様を生業とする遊女・偲偏
中でも①は︑後白河院によって﹃ロ伝集﹄に彼らの今様上達度に
対する批評が書かれており︑いわば院直伝の弟子あるいは相弟子で
ある︒②は︑﹃口伝集﹄に名前が見え︑ここではとくに院の初期の
今様の師や︑今様に習熟しているものの院の流派とは違った流れを
引いている者たちである︒③の遊女・偲偶は︑﹃口伝集﹄に登場し
今様を謡う者とする︒
菅野扶美氏は①をA﹁年頃弟子にてもあり﹂という親王時代から
のいわば相弟子︑B﹁中比﹂からの弟子︑C近習クラスのABに対
して公卿クラスの三つに分けている(注1)︒菅野氏は﹃口伝集﹄
の弟子の列記の仕方に注目して①をこのように分類されたのである
が︑私はむしろサロンの本質を考える上では①のCと②を混ぜて︑
次の(表一)のように分類したい︒
(表一)
1源家郵曲の流れを汲む者H藤家郵曲の流れを汲む者皿成親一族
資賢 ︑通家(子) ︑資時(子)︑
雅賢(孫 ・
猶子
) 定
能 ︑ 季兼(叔父)成親 ︑実教(弟)
兼雅(義弟 ・甥)()は成親を基 準 とした関係
親信
水瀬家の祖 巳曾"師長両派を汲む"冨■
()は資
賢 を
基準とした
関係 ()は定能を基準とした
関係
この表から︑後白河サロンの公卿は三つに分類でき︑公卿に限っ
ていうと︑後白河サロンは非常に限られた人物だけが所属できたエ
リートの集団であったことがわかる︒
その他︑信西とその息子成範・静賢・澄憲・脩範や鹿谷謀議に参
画した蓮浄・俊寛・西光・資行などもサロンと関わりがあったこと も考えられるが︑本稿では触れずにおくこととする︒又︑清盛・宗
盛については︑﹃口伝集﹄の熊野参詣に名前が見えるものの︑サロ
ンのメンバーであったとは考えにくいため︑ここでは分類しない︒
以上をまとめると︑後白河サロンの全体像は次の(図一)のよう
になる︒
(図一)
後白河サロン
圓 卿公 ︑源家
鄙 曲
資賢
通家
資時 ノ︺藤家郵曲
︑ノ季兼
親信 成親一族︑ノ成親︑書 実教兼雅r
㌦
〆㌧
子
鵡 ︑ノ信忠
仲頼
負 清㌧ 広言康 ︑ノ︑
頼 ︑
清重
親盛 ︑ 為行 ・
為保 ︑r能盛 ︑知斥業房 ︑
箱 第
子中比の弟子㌧ 遊女・侃偶
乙前︑延寿︑大}進
小大進︑たれかは
初声︑神崎のかね︑
さはのあご丸︑
鏡山のあこ丸︑姫牛
いち︑千手︑さ\波
めほそ︑蔵人禅師
墨俣の式部
仲介季時
二
サロンは今様に関して︑大きく分けて三つの機能を果たしていた
と考えられる︒今様の習得・伝授・伝授の認定が後白河サロンで行
われたのである︒
後白河院は日々︑法住寺殿において﹁今様の談義﹂や﹁今様の会﹂
を頻繁に催していた︒この﹁今様の会﹂は︑サロンが中心となって
行われていたと考えられる︒この会の影響力は︑実教について述べ
られている部分で︑﹁未だまだしかど︑歌の会に入りにしかば揮り
無し﹂と﹃口伝集﹄に書かれていることから︑この会に参加してい
るだけで価値があったことが分かる︒
また︑﹃異本口伝集﹄巻十四に︑兼雅が出席した﹁今様の会﹂で
資賢が﹁家流の説秘蔵のこと﹂を語り︑兼雅は﹁穴かしこ人に語ら
じ﹂といったと記録されている(注2)︒これは︑おそらく資賢ら
家の流派を持つものたちが互いに自分の流の秘蔵についても語るこ
とがあったことを表しており︑学習会の一面が強いことを表してい
るといえよう︒
また︑後白河院は明らかにサロンに集まる人物を﹁院の流派﹂と
いう基準で差別していた︒院はサロンに集う人物であっても︑成親 のように以前に院以外から今様を学び︑その謡い方を受け継いでい
る者は弟子とは認めていない︒ここにサロンが伝授の場と習得の場
の両方の側面を持っていたことが分かる︒
サロンの中で今様の学習会や討論会を通じて今様を習得すること
は自由にできた︒しかし︑院の流派の伝授はそう簡単にはなされて
いない︒青墓の偲偶であった延寿は足柄の秘曲の伝授を院の﹁独り
在らん時に︑さらば教へむ﹂という言葉に応じて︑﹁今様の会﹂の
後に残って教授を受けている︒これは︑明らかにほかの者を排除し
ようとしたのであり︑﹁今様の会﹂に参加した者であっても︑簡単
には伝授が許されなかった証である︒
また︑資時への伝授は奥書によると︑﹁治承二年三月廿三日︑滝
尻宿より始めて︑二年が間に﹂行われたとされている︒この治承二
年の熊野参詣は﹃玉葉﹄(注3)によると︑資賢や兼雅などが同行
している︒院は熊野参詣にサロンのメンバーを同行させるのが常で
あった︒この熊野参詣の道筋での伝授も︑サロンの中で行われたと
考えて良い︒
さらに︑院が正統な流派を継いだと承認されたのも熊野権現の示
現によってであり︑やはりサロンが同行した熊野参詣の最中であっ
た︒院が今様を完成し︑認定を受けた場もサロンの中であったと見
ることができる︒
また︑﹃口伝集﹄の奥書に︑資時・師長の正統を承認する記事が
書かれ︑次のような言葉が添えられている︒
これ二人が様ぞ振いと違はぬにてあるべき︒これに同じからむ
をばよく習へりと思ひ︑違はむをは疑ひをなすべし︒
(﹃口伝集﹄)
院は今様が﹁こゑわざ﹂であるがために︑正統に伝えられないこ
とを嘆き︑﹁当時だに我が様とて諸くの僻振を言ふ﹂とあるよう
に院の流派を騙る者が相次いでいることに対する手段として︑この
二人の﹁振﹂を基準とすることを書き残した︒院は正統を見分ける
基準として師長・資時の二人の名前を挙げたのであろうが︑一方で
二人への伝授が完成したという承認をし︑院の流派の継承者として
認める役割をも果たすことになったのである︒この﹃口伝集﹄の奥
書による承認は︑いわばそのままサロン内での承認に繋がっていた
ということができる︒
三
後白河サロンの特質として︑サロンが移動するということが考え られる︒後白河サロンについて考える場合︑後白河院が熊野参詣な
どで管絃を奉納する︑あるいは私的な参詣で近臣たちを伴うといつ
たことにより︑サロンが移動することになる︒
後白河院は六話の今様示現諄を﹃口伝集﹄中に記している︒①〜
③は熊野参詣での記事であり︑④は賀茂︑⑤は厳島︑⑥は石清水八
幡である︒これらの参詣に同行した人物を﹃口伝集﹄から取り上げ
てみると︑次の(表二)のようになる︒
(表二)文字囲は公卿︑()はサロン外の人物
①熊野②熊野③熊野④賀茂⑤厳島⑥石清水
者
行
同 為保禽團)
資賢
圏 ・
通家 國畢圏囲
業房・能盛
康頼 ・親盛
資行 圏 ・圏甲
國圖 ・禽圃)
團 ・國圃 (圏)圏 親盛
この六話の今様示現諄は馬場光子氏によって︑前四話と後二話に
分かれ︑後二話は}旦﹃口伝集﹄が成立した後に︑院自身によって
二度にわたって加筆されたものであることが指摘されている(注
4)︒
しかし︑その場に居合わせたサロンのメンバーをみると︑熊野に
おける三話と賀茂・厳島における二話︑石清水の一話と分けること
ができる︒
一連の熊野参詣は︑同行したサロンのメンバーには身分の低いも
のも多く︑一つの示現諄群として見るべきであろう︒清盛も①の熊
野参詣では大弐であり︑資賢はまだ公卿に名前を連ねていない︒そ
れに対して︑④の賀茂︑⑤の厳島は公卿のみの同行である︒これは︑
④は出家の暇乞いに︑⑤は建春門院が同行したときの非常に公式な
場であったからである︒④厳島参詣の様子は﹃源平盛衰記﹄巻三コ
院女院厳島御幸事﹂に詳しく描写されている︒それによると︑﹁法
皇も女院も︑入道の心に遵はせ給はんとての御為にや︑遙々と御参
詣有﹂ったのであり︑清盛への体裁を整えるためにも公卿を中心に
随行させたのであろう︒
伊藤高広氏(注5)によって︑①では熊野権現が今様を好むこと
が語られ︑②では後白河院の今様が熊野権現によって保証され︑完
成したと見ることができると指摘されている︒
それでは︑神によつて今様の完成を認められた院が︑なぜ︑この
後四つもの示現諄を書き記す必要があったのであろうか︒
この一連の示現諄群の中でも︑特に③は現実的で強力なインパク
トがある︒このとき︑院は初めて自らが示現の場に居合わせたので
ある︒成親や親信︑業房︑康頼らこのとき同行した者たちも院のそ
ばに寝合っており︑この示現を同じように体験した︒そのとき︑も っとも大きな示現がしめされたということに注目したい︒
熊野権現は院にとって今様の正統性を示す基準になっていた︒も
ちろん︑院は示現が示されることを期待して熊野に参っているので
あり︑院はメンバーの前で示現が示され︑その正統性が明らかにな
ることを望んでいたのではないだろうか︒院の正統を示すとともに︑
それは今様のカをも証明することに他ならないからである︒またそ
れは︑身分に分け隔てなく示されることによって︑遊女どわぐ8の
説話に代表されるように︑今様はどんな身分のものであっても効力
を持ち得たことをも証明している︒
また︑サロンの移動は今様の秘伝との関係が非常に濃く表れてい
る︒﹃ロ伝集﹄には︑資時への伝授が熊野への参詣の道筋︑滝尻宿
からはじめられ︑二年に及んだことが書かれている︒﹃文机談﹄で
も資賢が師長への伝授の際︑同じく熊野参詣の道筋︑近露宿で行わ
れたことが書かれている(注6)︒又︑﹃とはずがたり﹄の後深草
院も今様の秘事伝授の際︑御殿を変えているのである(注7)︒さ
らに﹃古今著聞集﹄の頼清は︑秘事を授ける前に起請状を出させて
いる(注8)︒
もし︑院が秘伝を伝える前に資時に起請をさせていたとすれば︑
それは院の信仰の厚かった熊野権現に対してに違いない︒滝尻宿や
近露宿には王子社があり︑熊野九十九王子の中でも重要な王子であ