ゲイルヘルムiリーガーの私経済学
笠 原 俊 彦
】
Ⅰ序
19世紀末からの商科大学の設立を契機として始められたドイツの経営学的研 究は,静一次大戦後,その名称をはぼ経営経済学(B;triebswirtschaftslehre)
に凝−するとキも軋,そ・こにおいて,経営(Betrieb)ないし経営経済(B寧t−
riebswirtschaft)を対象としいわゆる経済性(Wirtsehaftlichkeit)を選択原理 とする諸学説を展開することになる。このような諸学説紅おける代表的人物は シュマーレ∵/バッハであり,かれを中心とする人々の見解ほりこの時代のドイツ 経営学界における支配的見解を形成したのである。リ−ガ−(Wilhelm Rieger,
1878−ユ971)ほ,その著「私感済学概論」(属よおノー房ゐタ・お乃g∠お滋♂タグ∠ぴαね,gγ才一
(1)
ぶCゐαノねゐゐγβ,NiiI−nbeI■g,1928)において,このような時代の流れ紅対し冷静 な眼を向けることこそが科学の課題であると主張する。かれは上記の支配的諸
学説をとくK・経営経済学とよび,これを科学(Wissenschaft)から区別すると ともにI,企業を対象としこれをその利潤追求(Gewinnstreben)の観点から考 察しながら,しかも金儲けの技術論(die Lehre von der Kunst,Wie man Gewinn macht)とほ別個の,科学ないし理論(Theorie)としての私経済学を
(2) 主張する。本稿においてわれわれは,主としてリーガ・−の「私経済学概論」を
取り上げることに・より,かれの私経済学の特質を明らかにし,併せてこれと技 術論との関係な明らかにしたい。
(1)以下,本稿の注においては,戯〝ノ拉ゐr〟〝g.と略記する。
(2)ワルプによれば,リ−ガ・−が「凝営経済学」の名において問題とする学説は,ほとん ど専らレ.ユマ・−レンバッハのそれであり,付加的にニックリッシュさらにはシュミッ
トの学説が問題とされているに過ぎない。Vgl,E.Walb, 点∠♂gβγ,かγ.Ⅳ∠才力♂J桝 タグ−♂ノ .〃.d.助〝dβJ・ざ・一助cカSC血流㌧Ⅳ肋乃∂♂′・g‥E∠鞘職勿Ⅶり㌻飯=滋gPわ∽痢最・fぷC・
haftSlehY e in ZfhF,22小Jahrg,11.Heft,1928,Su511.
ヴィルヘルム・一リ1・⊥・ガ−・の私経済学 嶋 27 −・
27
ⅠⅠ私経済学の対象としての企業とその目的との一L般的提示
り、−ガーがその「私経済学概論」に.おいて研究の対象とするものほ企業
(3)〈4)
(Unternehmung)である。かれほ企業者(Unternehmer)および企業を資本 主義の子(ein Kinddes Kapitalismus)と解し,その「私経済学概論」を企 業がその担.い手(TI・age‡)かつそれとともに・滅びるもの(Opfer)としてそ・の
うちに組み込まれている今日の経済(dieheutige Wir・tSChaft)としでの資本 主義経済の特質の解明から始める。
かれほ.この資本主義経済を,徹底した分業と交換とに・基づく,諸々の個別経 済主体(die einzelneWirtschaftssubjekte,die Einzelwir tSChafter)の結合 経済(verbundene Wirtschaft)ないし経済共同社会(Wirtschaftsgemein−
scbaft)として把挺する。国民的広がりに・おいては国民経済として−,世界的広 がりにおいては世界経済として現われるものがこれである。この結合経済に・お いては自己の消費のための財の生産ではなく,他人の消費のための大豊の財の 生産が行われるのであるが,このような生産の発展を可能としたものは機械制 工業(dieIndustrie)であり,資
る。ここに.おいて生産される無数の財は,貨幣に・よってはじめて交換可能とな る。貨幣は市場において無数の財を評価し,これを価格という客観的価値形態 を取る存在,計算可能な商品(rechenhafteWare)にするとともに,これと自 らとの交換を介して財相互間の交換を可能配する。このような経済においては・,
生産者は市場における貨幣との交換ないし販売を意図して財を生産する。その 際かれが如何なる財を生産しようとするかは,その財がもたらしうる貨幣利得
(Gelderwerb)ないし所得(Einkommen)の如何紅よって決定される。ここ では生産者にとって,生産物の個性(Individualitat)そのものは意味を有しな
(3)本節におけるり・−・ガ−の所論は次に・よる。Rieger,Einjilhrung,SS・1−・71・
(4)こ.のことは,リ」−ガ・−の私経済学の対象が企業のみに限定されることを意味するわ けではない。か叫は私経済に生産経済(Erwerbswirtschaften)と消費経済(Ver−
brauchswirtschaften)との2つを含める。この2つは,その性格を著しく異紅する ために別個に取り扱われるべきであるが,しかしともに私経済学の対象となりうるも のである。ただかれは,「私経済学概論」においては専ら前者のみを,しかもその中
でもかれのいう企業のみを研究しようとする。Vgl,Rieger,a.a.PO」,SS・14−151
第50巻 第1号
・−・2β・− 28
い。かれにとって,生産物は,貨幣利得という目的のための手段,魂のない商 品(seelensloseWare)である。まことに.このような貨幣計算(Geldr・eChnung)
なV、し貨幣理念(Geldidee)こそこの経済全体を覆う概念であり,今日の経済 は与の意味に・おいて,端的にI貨幣経済(Geldwirtschaft)をなす。
このような経済を担いかつこれとともに.滅びるものとしての企業を,リ−・ガ
−・は,まず,営利経済(Erwerbswirtschaft)として嘩質づける。これほ・,
幣利得のために.自らの計算と危険とに.おいて生産,販売またはこ.の補助業務を 行う経済単位(wir・tSChaftliche Einheit)である。そ・こで,例え.ば特定の政治 的主張の鱒進,芸術および科学の育成など何らかの理念的関心を貨幣的ないし 財務的成果に対する関心と並んでまたはこれ以上に・重視する限りでの新聞事 業,雑誌事業などの非営利諸経済(Nicht−Erwerbswirtschaften)ほ企業では ない。同様の理由から,公疲営(6ffentlicheBetriebe),混合経済的経営(ge−
mischtwirtschaftlicheBetriebe)およぴこれに類似の経営も「般に・企業に含ま
(5) れない。
さらに.リーガ−は,企業を,以上のような営利経済のうち,いまなお前資 本主義的実物経済(Naturalwirtschaft)の名残りを留める農業,手工業,小工 業などの諸経済から区別し,「貨幣経済および資本主義経済の担い手かつ代表 者」(Trager・und ExponentenderGeldwirtschaft unddes Kapitalismus)
として新しく出現した構成体として特質づける。この意味においては企業は,
例えば工業についていえば,巨額の資本を投下し,多数の人々の協働と彪大な 物的生産手段とに.よ.って大畠生産をなし,その生産物を市場紅おいて未知の消 費者紅大量に販売する点,そしてその際,そ・れに特有の貨幣的,財務的課題を 有する点に.おいて,手工業,小工業に・おける諸経済から区別されるのである。
以上を要するに,り一−ガ・−のV、う企業とほ.,大規模営利準済を意味すると解さ れる。
(5)ただり−ガ1−によれば,これらが端的に,営利思惟(der Gedanke des Erwerbs)
紅よって運営される場合には,これらを特に企業から区別する理由はない。この場合
には,国家に.よって担当される企業が成立するのである。(Vgl,,Rieger,a.a.0,
S.37.)
ブィルヘルム・リーガ−の私経済学
−29−・29
このような企業の特質づけに.関連して,リ−HL−は,企業危険(Unterneh−
mungsIisiken)を強謝する。かれ紅,よれば企業という言葉は冒険(Wagnis),
開拓(Beginnen),進歩(Fortschritt)の観念と不可分であり,したがってま た,これに結びついている危険の観念と不可分である。ここに.企業危険とほ,
技術的(technisch),物量的(leiblich)危険から区別される貨幣的危険,しか
(8) も出資者としての企業者の危険である。それは,企業者が利潤機会(die Ge−
Winhchancen)を活用するに際して貨幣的運命(geldlichesGeschick)のまっ たく不確実な巨額の投資をなさざるをえないことによって生じる。その際投下 された貨幣は,かれの懸命の努力紅.も拘らず失われうる。手ユ業者,さらに.は 営業的またほ技術的職員,労務者なども貨幣的危険を免れるわけではないが,
この危険ほ,かれらが上記のような巨額の投資をなすことがなく,また,少く とも働きさえすれば幾ばくかの報酬を得ることができる点で,企業者の危険か ら区別される。企業者の危険は,企業者以外の人々に・も生じ保険によって回避 されうる火災,盗難などに.よる危険に.尽くされるものでもない。それは,以 上の意味に.おいて,企業者に固有の危険(dasspezifischeRisikodesUnter・
nehmeIS)ないし固有の企業危険(das spezifische Unternehm11ngSrisiko)
をなすのである。
さてリーガ一によれば,かつて私経済学と呼ばれた学問は,いまや−・般に.経 営経済学と呼ばれるとともに,そこ紅おいてほ企業でほなく経営の経済(die WirtschaftdesBetriebes)が研究の対象として主張される把.至っている。こ
の経営経済学も実際には企業およびその諸問題のみを取り扱っているのである が,しかしこのこと碓,経営経済学軋とっては単なる偶然に過ぎない。経営経 済学紅とっては,企業をもそのうちに含み同−・の経済的課題(diegleiche
WirtschaftlicheAufgabe)を有するすべての経営が,その研究の対象でなけ ればならない。自らの研究の対象を企業に求めるり
(6)リ一升一によれほ,企業者とは,1.自己資本を抱供し,2.企業を介して利潤を追
求し,3.清算時紅最後紅弁済を受けるという意味での危険を負担するという3つの
標識を有する人をいう。Vgl,RiegeI・,a.、a.0,S.99.
−β0 −
第50巻 第1号
30めような見解紅対して反論を試みる。その際かれは,1つの統一朝な経営経済 学が成立′しうるため紅ほその対象とされる経営が1つの統一駒な経済単位とし
て存在しなければならないという観点から考察を進める。
かれ紅よれは,経営経済学を主張する人々の見解を見るとき,そ・こに経営の 経済という言葉で意味されてし、るものほ.,生産(Pr・Oduzier・en)ないし諸財お
よび諸力の生産的消費(derprOduktive Verzehr von Stoffen und Kraften)
である。例えばレユマ」−レ∵/バッハは生産それ自体を経済とみなし,これを経 済的(Wirtschaftlich)に・行うという課題を有する単位を経営と辞する。ここに 生産を経済的に・行うとほ,リーガーの理解によれば,そ・れを技術−・合理的
(technisch−rationell)に行うことに.等しい。しかしながらリーガLに.よれば,
シュマ−・レンバッハのこのような見解は誤りである。生産それ自体は経済では なく,それを合理的に・行う単位としての経営も決して経済単位でほない。生産 ほ技術的行為(dastechnischeTun)であり,この行為の単位としての経営は 純粋虹技術的な単位(rein technischeInstitution)である。そこでいま仮に すべての経営が例えば電力の生産といった同一・の技術的ないし生産的課題を有
し,この意味に・おいて統一・的単位であるとしても,これは経済学の対象で咋.あ
〈7) りえない。技術的単位としての経営は経済の主体ではなく客体であり,この上
位紅位置しこれに方向を与える1つの経済的理念(eine wirtschaftlicheIdee)
に組み込まれることによってほじめて経済的単位となる。ここにいわゆる経済 的理念とは,今日の分業経済ないし市場経済碇おいては,さまざまな経済単位 を結合し,そ・こに・行われている生産を総合経済紅組み入れることを可能とする 理念を意味する。この組み入れは貨幣紅よって行われるのであるから,経済的 理念は貨幣理念(Geldidee)としてのみ把握されうる。
経営経済学の対象とされる経営ほ,そのすべてが同一山の貨幣理念を有し,基 本的紅同−Lの財務的,貨幣的問題(diegleichengeldlichenundfihanzieilen
(7)リ一升一に・よれば,技術的単位としての諸経営は実際にほそれぞれその技術的課題
を異にし,技術学的観点(technologische Gesichtspunkte)から諸種に区別される
存在である。このような経営紅ついては,統一・的な技術的経営論(einheitliche
technische Betriebslehre)も成立しえない。Vgl,Riege∑I,a.aU O,S.38.
ブィルヘルムしり∴舟・−の私経済学
・− βユ ーー31
PI・Obleme)を有する場合に.のみ,統⊥・的な経済単位といわれうるdだが,こ の条件ほ決し・て満たされえない。経営経済学の対象とされる経営ほ企業と並 んで公的経営を含むのであるが,この2つほ一般紅その貨幣理念および貨幣 的問題を異にする。企業は自らのカで貨幣を獲得し市場におけるそあ有用性
(Niitzlichkeit)を示すことに・よってのみ,総合経済において存続しうる。これ に対して公的経営は,−・般に.,自らの貨幣獲得によつででほなく,より上位の 機関から補助金を与えられること紅よ・bて,総合経済濫組み入れられるものだ からである。
リ、−ガーほ.,経営経済学の見解を以上のよう紅批判するとともに,経営を技術
(8)
的単位として把握レ,この環術的単位が貨幣理念の1つである利潤追求(Ge・
Winnstreben)という指導理念(dieleitendeIdee)紅組み入れられるとき営 利志向的経営(ein erwerbsorientierter Betrieb)としての具体的な企業が成 立すると解する。この具体的な企業に含まれる経営ほ,企業の利潤志向の意思
(auf Gewinn gerichteter Willen),企業理念(UnternehmungSidee)ない し企業思惟(UnternehmungSgedanke)を実現するために形成され,これを体
現するぺき具体的形成体(diekonkrete Gestalt)であり,企業の技術的基
(die technische Grundlage)をなすのである。
現実の企業においては,経営と企業理念とは,ひとがちょうど肉体と精神と を分離しえ.ないように・,分ち難く結びついている。だがり・−ガ一によれば,こ のような企業を企業として特質づけるものほ,技術的なものではなく貨幣的な ものである。かれは几、う。「『経営』は具体的形成体を指すのであるが,『企業』
はもともとほ1つの経済的理念である。経営ほ,人間が地上に存在する限り何 らかの形態で常に存在してきたし,おそらくこれからも存在するであろう。こ れに対して,企業の出現ほ時間的に周られている。企業ほ資本主義経済ととも 紅出現したその1つの遷要な代表者であり,資本主義経済が崩壊するときが来
(8)しかしながら,リーガ一においては,BetIiebという言染は,Lばしばこれ以外の 多様な志味に用いられている。例えば次を見よ。Vgl ,Rieger,a.a.0,SS.29,
70,102,155,156−7,170,174,209
第50巻 第1号
−β2一− 32
(9)
るとすれば,これと運命を
に.,企業は,その経営の数,所在地,生産物,生産技術などの重大な変更に・も 拘わらず,同・・・・・■の企業としての資格を保持するのであり,またその経営におい
て.多種多様な諸企業も1つの統一・的な経済学の対象となりうる。このような企 業紅.おいては,財の生産は貨幣役得(Geldbeschaffung)紅よって支配されて おり,貨幣問題の解決は周時にすべての技術一経済的課題(technisch−Wirt−
SChaftliche Aufgaben)の解決を意味する。.以上のような考えから,リ−ガー ほ,「私経済学概論」において−,企業を特に.その貨幣的一財務的問題に・関して 取り上げようとすること紅なる。
リ・−ガ−は企業の目的を利潤追求紅求める。これは企業者のための利潤追求 を意味する。なぜなら,企業は「自己の計算および危険において,経済生活に おいて自主的で危険に.満ちた活動を営む,資本主義的思惟,貨幣−および営利
(10)
理念の担い手」としての企業者に.よって,そ・の利潤追求のために.形成されるも のだからである。だが,このような見解は,経営経済学を主張する人々の激
しく反対する見解である。そ・の隙このような人々が利潤追求に代えて−主張す る企業の目的として:は.,まず,経済的欲望の満足(Befriedigung derwirt−
SChaftlichenBediirfnisse)への協力,市場への財の供給がある。リ−ガ・一に,よ れば企業はたしかに.市場に財を供給するが,しかしこれは企業がそのため紅設 立される目的でほ決してない。企業の目的は企業が市場に財を供給すること紅
よって達成しようとする目的であり,これは利潤追求以外の何ものでもないの である。
経営経済学に.おいて主張される企業の目的紅おいては,公共への奉仕(Dien・
stan der Allgemeinheit),共同体へ.の献身(Hingabeandie demein・
SChaf■t)の要求も重要な役割を演じている。例えばシェ−アは.企業者紅対し共 同体に.奉仕しつつそ・の使命を果すことを要求し,シュマ−レ∵/バッハは経済活
(9)Rieger,a.a.0,S.39.
(10)Rieger,a.a.0,S.46.
ブィルヘルム・リー・ガ⊥・の私経済学
ーー 3つ −33
動を任された総合経済的機関として企業者を見る0そ1ノて企業者ほり共同経済的 に.重要な給付をなすことに.よって利潤を得た場合に・のみ,その利潤に.対して真 の喜びを感じることが許されるのである。このような見解は,利己主義への反 対,より高次の原理に.よる利己主義の克服を主張するものに他ならない。しか
しながらこのような見解を採るひとほ,誰一人としてそこに.いう企業目的が具 体的に何を意味し,これを達成するため紅ひ・とは何をなすべきかを明らか紅す ることがない。リ−ガ一に・よれば,公共ないし共同体が何を意味し何がこれに 奉仕しうるかに.ついてのひとの見解は,かれの個人的願望および理想(peIS6n−
1icheW払nschen undIdeaien)によって異なるのであり,これ紅対する決定
(11) 的解答は.存在しないのである。
公共への奉仕の要求には,適正価格(gerechter・Preis)による適正利潤(an・
gemessener Gewinn)追求の要求が属する。このような主張をなす人々は,
企業者が自らの生存のため正利潤を追求せざるをえないことを認めるのである が,かれがその商品に.高い価格を付け過度に儲けることを拒否するのである。
だがその際,適正価格が如何に計算されるか,誰がこれを設定すべきか紅つい ては,かれらは明確な解答を与えず,ただ誠実な心(der r・edliche Sinn),信 頼(TI・e11)および信仰など乾その解決を委ねる。リ−ガ一に・よれば,この種の 浪漫的理念ほ暗黙のうちに.需給調節者としての価格の存在しない経済体制を前 提としている。けだし,市価の上昇時に市価より低い適正利潤だけを得ること ができる紅過ぎない価格の設定を企業に要求する以上,市価の下落時紅ほ社会 はこの適正価格を企業紅保障する義務を負うことに.ならざるをえず,かくして 価格は好,不況の如何に拘わらず常に企業紅対して−・定の適正利潤を与える高 さに.推持されなければならないだろうからである。このような理念は資本主義
(11)リ−ガ一によれば,公共の恵向ないし望みが何らかの客観性をもって把握されうる とすれば,それは市場によっでである。市場の要求を公共の要求と解するならば,こ の意味においては企業者は公共の要求に十分に従っている。なぜなら,かれの利己的
目的ほ,そうすることによってのみ実現可能だからである。だがこのように市場の要
求を公共の要求とみなすことは,公共への奉仕を主張する人々の認めるところではも
ちろんない。Vgl,Rieger,a.a.0.,SS。49−51。
・−− 3セ・−
算50巻 第1号
34体制笹率いてほ妥当性を有しない。「自由主義経済に‥おいてほ適正価格も適正利
(12)
潤も存在する余地がない。」このような理念を主張する人々は今日の経済体制の 本質をまったく誤解しているといわれざるをえ.ないのである。
経営経済学者達によって最近とりわけ強く主張されているのは経済性(WiIヤー SChaftlichkeit)である。すでに,述べたようにかれらほ研究の対象を経営一・般
にまで拡大したのであるが,経済性とはこのような経営が追求する目的とされ るものである。ここ紅いわゆる経済性ほ実は国民経済学に.おいですで紅長い間 重要な役割を演じてきている概念であるが,そ・れが何を意味するかはいまだ十 分に明らか隼・されていない。これと生産性(Pf Oduktivit翫)および利潤性
(Rentabilitat)との区別さえ曖昧なままである。リーガーは,経済性に∴短い て1、われていることを有意味な形に定式化すれば,所与の費消(Aufwand)で 最大の収益(Er・tr・ag)を追求するまたは所与の収益を最小の費消で達成するこ
ととなると解する。リ−ガ一によれば,ここ紅収益および費消とは,貨幣経済 に生きる企業紅とってほ,貨幣的収益と費消された資本とを意味する。そ・して 企業の行動は費消された資本の貨幣的収益(der geldliche Ertrag des auf−
gewandten Kapitals)をできる限り大とする場合にのみ経済的とL,、われう る。したがって企業者にとっては経済性原理(das6konomischePrinzip)
は,できる限り多く儲けできる限り速く豊かに.なること,すなわち営利原則
(dasErwerbsprinzip)を意味す一るのである。だがこれは経営経済学のとうて い容認しうるところでほない。経営経済学はあくまでも営利性と別個の,経営 の行為(Gebar・en)の尺度(MaBstab)としての経済性が存在すると主張する であろう。そしてそこにん、う経済性とは,人間が欲求する財を諸材および諸力 の最小の費消をもつて生産すべきことをその内容とする経営過程の合理性
(RationalitatdesBetriebsprozesses)であり,純粋K.技術的な概念である。
リ−サーは次の2つの理由から,この経済性を企業の目的とすることを拒否 する。廃1にこの経済性ほ貨幣経済に.まったく適さない。貨幣経済に.おいては
(12)Riege工,a.a・.0,S小52.
グイルヘルム・リ−ガ−の私経済学
− ∂5 − 35諸材および諸力の最小の費消をもってこでほ.なく,貨幣の最/j\費消すなわち最小 費用(Kosten)をもって生産がなされるからである。この意味紅おいて,経営 の経済性も企業の経営に.おいてほ.物豊概念では.なく,貨幣概念として把捜され なければならない。経営給付のための費用の低減がこれである。この場合われ われは,リーガ−・がこの意味払おける経済性をも技術的合理性(technische
(13)
Rationalitat)とよぶことに注意しておかなければならない。簿2にこの経済 性は,ひとが如何なる財を生産するかという重要問題に解答を与えることがで
きない。経営は.,上位の力(Macht)に.よってその生産すべき財を定められる こと紅よってはじめて,その経済性を証明することができる。・それは何を生産 するかではなくて,単に・如何に生産するかを問題としうるに・過ぎないのであ る。経営の上位の力とは,企業においては企業者である。企業者はできる限り 大きな利潤を得ようとし,この観点から見で有望と思われる財の生産を経営紅 課する。そ・の際,利潤が市場匿おける収益と経営に.おける費用との差額として 得られることから,かれはこの2つをともに.考慮する。これに対して経営の経 済性ほ.,それが貨幣的紅把握される場合に・も,生産されるペき給付の種類およ び鼠が所与の場合払おける費用低減またほ.費用一定の場合における与えられた 種類の給付の鼠的増大を意味しうるに.過ぎず,企業者の考慮すべき条件の1つ をなすに・過ぎないのである。
ⅠⅠⅠ私経済学と技術論
リ・−ガー
(14) ほ私鱒済学を経営経済学紅対立するものとして意識する。経営経済
学者達ほ,その研究の対象を企業に.ではなくこれを含む経営に.,ここ紅おいて 追求される目的を利潤性と別個のより高次のものあるい特高尚化された(vef一 申elt)利潤性紅求めるのであるが,リー・ガ叩によればかれらがこのような見解 を採るのは,かれらが金儲け論(PI OfitlehI?)という非難からその学問を解放
したいとする強い願望をもっているためである。かれらにおいては,その学問
(13)Vgl。,Rieger,a.a.0.,SS.63L64.
(14)本筋におけるり・−ガ・−の所論は,主として次による。Vgl,Rieger,a.a.0,SS.
44,55,56,60,72−82.
第50巻 第1号
ー 36 − 36
は生酒(Leben)ないし実践(Praxis)に.対する何らかの提言をなし,これ紅 直接に関与するものでなければならない。利潤を追求する企業をこのような立 場から研究する者は,利潤追求の奨励者という汚名を免れることができない。
そこでかれらは研究の対象を企業を含む経営一般に.拡大するとともに.,ここで 追求される目的として利潤性と別個のものあるいは高尚化された利潤性を措定 する。ここ紅経営の目的として措定されるものの内容は各人の個人的願望およ び理想に依存する。そ・れは各人が経営経済学紅おいて如何なる願望および理想 をもって経済の改良を意図するかに.よって決定されるのである。
学問の内部に個人的願望および理想を持ち込むこのような行き方は,リーガ
−の容認しうるものではない。かれ紅よれば,思惟(Denken)は個人的頼望お よび理想から独立である場合にのみ科学的思惟(Wissenschaftliches Denken)
たりうる。あるがま虔の事実(Zustande)をこれがわれわれにとって好ましい か否かに.拘りなくできる限り先入見なく研究し厳しい即事性(Sachlichkeit)
をもって記述することこそ,科学の務めでなければならない。このような観点 からするとき経済科学(Wirtschaftswissenschaften)は今日の経済にとって極 めて重要な要因である企業の利潤追求を拒否することができない。
このようにしてリーガ・−は,経営経済学の主張者達の行き方を排し,そ・の私 経済学笹おいて利潤を追求する企業を考察しようとする。だがこ甲ような行き 方に対しては,とりわけ経営経済学の主張者遠からそれは金儲け論,如何紅し て利潤を得るかの技術論(die Lehre,die die Kunst des Gewinnmachens vermittelt)であるという非難がなされることになる。かれらは,そ・の学問が
実践紅直接紅関与するものでなければならないとする強い信念を持っ七いるが ゆえに,私経済学もまた実践的目的を宿するという偏見を拭い去ることができ ない。そして私経済学が企業の利潤追求を経済全体にとって著しく重要な要由 として認めることからそれを金儲けの技術論と解することに.なるのである。
このような非難紅対して,リ」−ガ−は次のように考える。私経済学は企業と は何かそこにおいて何が行われているかを明らかに.しようとするのであるが,
このように私経済学が企業に興味を持つのほ,企業が利潤追求をなすからでほ
ゲィルヘルムtリーガーーの私経済学 − β7・−
37
なく企業が資本主義経済の最も重要かつ特徴的な肢体だからである。資本主義 経済に∴おいて企業はこれ紅関する1つの特別の研究(ein占besondereEet r・aChtung)を必要ならしめる程に重要な存在をなすのである。その際,企業に おいて利潤が追求されているため,私経済学はこのことを問題とせざるをえな い。さもなければ私経済学は,企業が利潤のために設立されこれを追求せざる をえないという企業にとって基本的な事実を無視することになるのである。
このように企業の利潤追求を取り上げる場合,私経済学はこのような実践的 行為のための手引き(Anleitung)ないし処方箋(Rezepte)を与えることま たほ.経済管理者(Wirtschaftsftihrer)ないし企業者を養成することを意図する わけではもちろんない。それほわれわれが経済と呼ぶものに・関する知識を与え
ることのみを意図する。そ・れほ今日の経済体制における重要な諸現象を,ひと がこれを容認すると否とに拘らず,素直(Harmlosigkeit)かつ公平(Unbe一 缶ngenbeit)紅記述し,このこと隼よってすべての科学の最高原則である亮理
(Wahrheit)紅仕えようとするのみである。このような私経済学を,これが人 間の利己的行為を取り扱うからといって非難してほ.ならない。非難されるぺき ものほせいぜい人間の利己的行為それ自体であって−,この行為を解明する科学 に対してはこれが真であるか否かのみが問題とされるぺきである。このよう紅
リーガー
はその私経済学を純粋理論ないし純粋科学として特質づけ,このこと に.よってそれが金儲け論ないし金儲けの技術論と無縁であると主張する。
ところでり−ガ一によれば,経営経済学者は私経済学を金儲けの技術論と非 難する際そこ紅いう金儲けの技術論の成立紅ついて疑問を持たないのである が,リ−ガ一によれば,経営経済学者のいう金儲けの技術論なるものはそもそ も成立しえない。.リ√一ガ′−は,この金儲けの技術論が成立しうるために′は,3 つの条件が満たされなければならないと考える。1つの「客観的な」利潤形成 の術(Kunst)が存在すること,この術を修得している学者が存在すること,
およびこの術は教授されえかつ学習されうるものであること,がこれである。
かれによれば第1の条件ほ.満たされえない。なぜなら経済の領域に.おいては技
術(Technik)の領域に・おけると異なり自然あるいぼ.物質に対する戦いのみで
第50巻 第1号
− ββ − 38
なく,まさに人間相互間の,相手の犠牲紅おいて自らの利益を図る戦いが問題 紅なるのであり,ここに.おいては,ちょうど敵,味方の両者濫.勝利を保証する 戦略またはチェスの仕方が存在しないように.,すべてのひとに成功を約束する 術は存在しないからである。第2の条件も容易にほ満たされえ.ない。そ・もそも 研究ないし認識活動と実践活動とほまrらたく別個の領域に属することがらであ
り,前者の儀域において一生きる学者が後者の領域においても優れているという ことは一般にはないことである。いま利潤形成の術に.おいて完全な学者が仮 にいたとしても第3の条件ほ.満たされえない。利潤形成の術ほ知識(Wissen)
でほない。それは芸術と同じく基本的にほ各個人の天分(Veranlagung),生得 的な性格および気賀(angeborener Charakter und Temperament)に.依存す
るのであり,したがってひとはそれを教えることも習うこともできない。経済 的事象に.関する知識ないし理論も,資本主義経済諸関係が複雑になればなる 程,企業者に・とってたしか紅意義を有しうる。だが理論は.,主として一事象の形 式的秩序(formale Ordnungder Dinge)に携わる知性(Intellekt)に,関係し
うるに過ぎない。これに.対して企業者の固有の行為は知性よりも深い源泉から 生じる。それほ真紅,創造的であり,したがって必然的に.直観(Intuition)とし て生まれるのである。
以上の理由によってり−ガーほ,金儲けの技術論が成立しえないと解すろの
であるが,かれの以上の論述についてわれわれが特紅注意すべきことほ,そこ
にいう金儲けの「術」の意味である。それは.第1に自然あるいは物質に対する
技術(Technik)から区別される経済的な術を意味すると同時に,さらに.第2
に,個別具体的情況に.おける企業者の行為のあり方を意味する。第2の意味に
おいて,それはまさに.実践(PfaXis)そのものである。・そして金儲けの技術論
とは,このような術すなわち実践を教えようとする学問を意味する。かれに‥お
いてはこの意味に∴おける金儲けの技術論こそ,経営経済学者が私経済学と等置
したものに他ならない。このような理解からり・−ガ−は,私経済学を金儲けの
技術論と解する経営経済学者に対して,学問ないし理論と実践ないし生活と翠
ゲイルヘルム・リ−・ガーの私経済学
ーー 39 − 39(15) 区別し,理論が実践を教えうるものでほ′ないことを強調するのである。かれ紅
よれほ理論はある時点における経験的現実紅ついてさえ・そのすべてを把えうる も甲ではなく,ましてや経験的現実の将来における変動を予測することができ
(1の ない。理論は生酒に‥おいて特定の行為を客観性をもうて推めることができず,
したがって生活に.対する直接的関与を控えざるをえない。理論としての私経済 学は実践を教えうるものでも教え.ようとするものでもなく,したがっでをれは 経営経済学者のいうような金儲けの技術論では決してないのである。
リ−ガ一に.おいてほ以上のことは理論が生活に.役立らうることを否定するも のではない。理論はしばしば長い廻り道を通っででほあるが生活に.利用されう るような知識を形成することがある。ただこの場合に.おいても,垣論自体は自 らが何時,如何紅生活に役立つかの判断をなすわけではない。このような判断 は,生活の場で行為すべき宿命を持つその学徒達によって−なされる。かれらほ その教師の学説を無数の諸動機のうちの1つの動機として利用する。かれら は,現実に.関して知性の把えうる限りの1断片を与えるに過ぎない学説と知性 紅よらてほ把えられえない生活の非合理性(dieIrrationalitaten)とを綜合す ること紅よって,生活の填で行為するのである。
ⅠⅤ 私経済学の諸問題
以上のような考え方紅基づいて−リ−・ガ−は企兼の経済を解明しようとする。
(17)
その際かれはまず,いくつかの予備的諸問題を論述する。最初にかれほ企業を
商業企業(Unternehmung des Handels),lエ業企業(Unternehmung der Industrie),補助企業(Unternehmungder Hilfsgewer・be)の3つ紅分類し,
(15)Vgl.auch,Rieger,a巾a.0,SS.24−26.
(16)リ」−ガ−は次のように述べている。「生活は,絶えるこ.となく新しい情況および変
化を生み出す。そして行為する人間は,常に新しくかつ困難な課題および決定に直面
する。このような課題および決定に対して予め直接の準備をしておくことは,絶対に 不可能である。教科書と生活との隔りほ,われわれの学問紅おいても,この研究者の
大多数が希望するよ■り遥かに広くかつ深い。」(Rieger,a.a.0.,SS.80M81.)Vgl.
auch,Rieger,S.25,129
(17)この予備的問題に関するり−ガ・−の所論ほ,次による。Vgl,RiegeI,a.a.0.,
SS小 83−151.
貨50巻 第1号
− 40 − 40
それぞれについてそれが利潤を得るために.経済において展開する技術的行為と しての経営的行為(das betriebliche Tun)を腐単に記述する。かれによれば 私経済学はこのような経営的行為の貨幣的結果(geldliche Auswirkungen)
として現われるすべての企業に共通の諸問題すなわち財務および計算の諸問題
(die Probleme der Finanzierung undder Rechnungsfiihr ung)を述べる ぺきものであるが,しかしそれほ.経営的行為についても少くともその極めて簡 単な概略はこれを示さざるをえない。ただ経営的行為は各業種の特性紅応じて 無限の多様性を有するがゆえ紅,その詳細な論述は諸種の経営技術学(die
(18)
Betriebstechniken)紅,委ねられなければならない。次にかれは企業の法形態
を企業の担い手(TI笥ger・)としての企業者の組み合せ(Unternehmerkombi−
nationen)の問題として理解し,これ軋ついて個人企業,合名会社,合資会社,
有限会社,株式会社,株式合資会社,匿名組合,共同持分鉱業会社(Gewerk−
schaft)を説明し,また共通の利害紅基づく諸企業の多様な結合としての諸々 の利益共同体(Interessengemeinschaften)を説明する。さらにかれは企業が
その営利理念(ErWerbsidee)実現のため紅必要とす一る技術的設備および施設
(dietechnischeEinrichtungenundVeranstaltungen)としての経営の立地 の問題を業種別に.検討する。以上の諸問題は,概ね,ひとが企業を設立しよう
とする際に.まず当面する諸問題をなすと解される。このような予備的論述に・続
いてり」−ガ・−は企業の構成から利潤の獲得および処分に・至る貨幣的諸問題を論
(19) じることに.なる。
第1に.,、かれは企業を構成することおよびそ・のための資本を調達することを 企業者の課題と解し,前者紅関して商業企業および工業企業を例に・取りこれを
活動させるための必要資本ないし資本需要(Kapitalbedarf)の静定を問題と
し,後者についてこのような資本が如何なる形態に・おいて調達されるかを問題 とする。この場合,企業の経営的諸前嘩(betriebliche Vorausetzungen)お
(18)Ⅴれaucb,Rieget■,a.a.0・,S・155
(19)以下6つの問題に.関するり一−ガ−の論述ほ,偵次,主としてかれの「私経済学漑論」
の第2部の各章による。
グィルヘルム・リーガーの私経済学
−1‖ − 41よび経済における経営的行為は企業の資本需要の決定要因であり,したがって それをここで考慮することは.不可欠である。しかしながらここに.おいて,それ
らはそれ自体の意義に・おいて取り上げられるのではなく,企業の財務的ないし 貨幣的問題紅作用する限りで問題とされるに過ぎない。
第2に,かれは企業の経営過程(betriebliche Vorgange)の貨幣的把握を 問題とする。企業者は,より多くの貨幣を得ることを意図して貨幣を貨幣なら ざる形態に.転化させ,企業を構成する。このように.して形成された企業の経営 過程は,とりわけ工業企業に.おいてほしばしば,機械と人間との作業(Arbeit)
としてのみ意識されるのであるが,それほ投入された貨幣がより多くの貨幣に なるという確固不動の目的をもって諸々の経営部署(B6triebsstationen)を通 っていわば嬬動的に.前進する過程,貨幣転換過程(Geldumsetzungsprozeβ,
GeldumwandlungsprozeB)をなすことが注意されなけれほならない。この過 程は価格という数蛍的紅確定されうる客観的価値形態を取る喪消(Aufwen−
dungen)と収益(Ertrage)として現われることによって貨幣的にr把握されう る。この貨幣的把握を自らの課題とするものほ簿記である。このような考えか ら,かれは,簿記とりわけ複式簿記の勘定機構の説明を介して企業の貨幣転換 過程の概略を示すのである。
第3に.,かれは,利潤を得るために/設立され運営される企業紅ついてその年 次利潤(Jahresgewinn)の計算ないし年次決算(JahresabschluB,Jahres−
bilanZen)を問題とする。そ・の隙かれは,われわれが生活している明白な貨幣経 済に.おいてほ,企業の終結時に確定した貨幣収支のみを用いて精確紅計算され
うる,企業の設立から清算に至る一・生を通しての利潤すなわち全体利潤(Totaト gewinn)の計算ないし全体計算(T?talrechnung,GesamtIeChn11ng)のみが 理論的紅iE.しくかつ真に.決算(Abrechnung,AbschluB)の名K.催すると解し,
これに.対して企業活動の途中匿おけるいわゆる部分−ないし中間決算(Teiト Oder Zwischenabrechnung)としての年次決算が虚構(Fiktion)であり,せ
いぜい1つの蕎然性計昇(eine Wahrscheinlichkeitsrechnung)でしかありえ
ないと主張する。ただこの場合,かれは継続事業体(einI)auerbetr・ieb)とし
ー 42・−
算50巻 算1号
42ての企業紅おいてほ年次決算が実践上不可避であると解すると同時紅,実践払 おいて行われているその手続きを,かれの利潤計算に.関する理論の正しさを認 めこれ紅近づこうとする努力の産物として理解する。
舞4に・,かれは貨幣価値変動を問題とする。貨幣計算ほ貨幣価値不変の前提 の上紅成り立つのであるが,この前提の現実的妥当性は第一次大戦ととも紅ド イツを襲った激しいインフレーションの経験を経て否定されるに至った。そし
てその際経営経済学者によって形成さ
(Veredelung)に・よってインフL/・−ション時のみ.ならず平常時に∴掩いても精
確な計算を可能ならしめようとする実質維持論ないし再調達価格論(dieLehre
VOnderSubstanzerhaltungund vom Wiederbeschaffungspreis)である。
これに・対してかれは,1923年紅貨幣価値が安定す畠や否や企業が再調達理論お よぴこれに・類似の理念を一・掃し,インフレー・ジョン中の諸年次との関連を断っ てまったく新た紅再び貨幣を唯一・の価値尺度(WeItmaβstab)とする計算を開 始したという事実から,次のような教訓を導く。すなわち,貨幣計算とは実は
貨幣価値を不変とみなしてなされるべき計算一起こりうる貨幣価値変動を故意 に無視し貨幣価値を永久紅同一一・とみなすことを至上命令かつ不可欠の前提とす
る計算であると。たしかに貨幣価値は実際に・は−・定でない。しかし今日の経済 に・おいては貨幣以上に確実な計算単位ほ存在せず,ひとほ.この単位の価値を不 変とみなして生活せざるをえない。貨幣計算が妥当しえない異常事態がもしも 生じた場合に・は,ひとほ貨幣計算を締め,これと別個の計算をなすがよい。だ がこの計算は貨幣計算の改.良を決して意味しない。上記の支配的見解はこのこ とを弁えることなく,結局ほ物晃一ないし財計算(diらmengen−Oder≦沖ter−
maBigeRechnung)へ逆戻りしようとするのである。リ−ガ−紅よれば,そも そも貨幣価値変動の調整は国民経済的および世界経済的問題を扱うぺき機関の 課題であって企業の課題ではなく,したがって,経営経済学者の扱いうる問題 ではない。
第5に・,かれほ.,企業の貨幣転換過程と極めて密接な関係にある流動性の問
題を考察する。これは企業を構成し活動させるために必要な資本の算定および
ゲイルヘルム・リー・ガ−の私経済学 −J3 一一 43
調達に接続し,その後に.おいて企業活動が不規則性(Unregelm盆Bigkeiten)
さら陀.は混乱(St6rungen)を伴って経過することから生じる企業の支払い準 備(ZahlungSbeI・eitschaft)の問題に個ならない。ここでかれは商業企業,工 業企業および銀行企業を例に取り,貸借対照表諸項目を将来の収支時点の相違 紅よって分類しかつ貸借対照表に表示されない将来の収支項目(現金販売に・よ
る収入,賃金,給料,広告費,光熱費に・よる支出など)を補うことに・よって,
ある時点に.おいて資産が負債より大であるか否かという絶対的または静的支払 い能力(dieabsolute oder statische Zahlungsfahigkeit)を示しうるに過ぎ ない貸借対照表に.代え,将来の一山定期間にわたり支払いが必要な時にこれを賄 いうるだけの貨幣が存在するか否かという相対的または動的支払い能力(血s
(20〉
relativeoderdynamische Zahlungsverm8gen)すなわち支払い準備を示す特 殊な流動性貸借対照表(eine spezie11e Liquiditatsbilanz)を示し,このこと を介して企業の流動性に.影響する諸要因を明らかにする 。そして利潤性が長期 的には流動性の前提であるととも私流動性よりも高次の目的であること,企業
の利潤追求活動紅とって不足なくしかも遊休のない貨幣状態を維持することが
(21)
流動性に関する企業政策の最高の課題であることを確認するのである。
第6に.かれは資本金(Grund−bzw.Stammkapital)に対する付加的資本
(Zusatzkapital)としての企業の積立金(Reserven)に・ついて利潤からの積 立金と株式発行プレミアムからの積立金とを説明する。利潤からの積立金ほ年 次利潤の計算に.関して生じるものであり,表示された利潤の1部から設定され 貸借対席表上に表示される公開積立金と資産を低評価しこれに相当する金額を 利潤として表示しないことによって設定される秘密積立金と紅区別されるが,
これらはいずれも企業財産の1部を少くとも一一噂的紅分配から守る機能を有す る。秘密積立金の設定に関しては.,安定配当に必要な限りでの利滴のみを表示
(20)リ・−ガーーは
,このように相対的または動的支払い能力を支払い準備と呼ぶことに対
応して−,絶対的またほ静的支払い能力を単に支私い能力(Zablungsf姐igkeit)と呼 i:。(Vgl。,Rieger,a.a.0 S.272,303・)
(21)Vgl.,auCh,Rieger,a.a.・Ol,S・330・
第50巻 寛1号
44ー・尋4 −
するために資産を低く評価することがしばしば行われる。リーガーは,偶発利 潤(Zufallsgewinn)は偶発損失(Zufa11sverlust)に・よって解消されうるとV、う 認識解基づき,このような手続きがとりわけ浮動株主(Gelegenheitsaktionar)
の激しい利潤分配要求軋対して偶発利潤を隠匿するところに・そ・の意味を見い出
す。株式発行プレミ.アムからの積立金は,これから形式的に区別される資本金 と,出資者の払い込んだ資本という内容に・おいて異なるところがなく,したがっ
(22) てこの積立金が維持されない場合になされる「利潤」の分配は,実は資本の払
い戻し以外の何ものでもない。企業の積立金に・ついてはさらに・,そ・れが特定の 資産とりわけ現金,預金の積立てではなく,単紅,利潤性の見地から全体とし
て運用される企業財産の不特定の1部分に相当する金額を意味する紅過ぎない
ため,その大きさと流動性の程度とは比例するものでないことが指摘される。
以上の諸問題のうち年次利潤計算の問題を扱ったり一升ーの論述は,かれに
おける企業目的としての利潤の意味およぴかれの私経済学の学問的特質を知る うえで極めて重要な論点を含むよう軋思われる。そこでわれわれは,以下に・お
いて年次利潤計算に.関するかれの論述をより詳しく説明しておかなければなら ない。
Ⅴ 企業利潤の概念と私経済理論
リーガ一によれは,今日の貨幣経済においては,すべての事業(Geschaft,
geSChaftliche TIanSaktion)が貨幣の費消(Aufwendung)に始まり貨幣の
(23) 収入(Einnahme)鱒終る。この事業の成果(Erfolg)は,収入と支出(Ausgabe)
との差額セある。このような成果についての確定的な成果計算すなわち決算は,
費消された貨幣のすべてが最終的に貨幣状態(Geldzustand)にp達する事業終
結時紅,はじめて可能となる。このことは企業の決算についても妥当する。
企業ほその一・生において1つの事業を形成するのであり,企業の決算ほ,企 業がそ・の業務のすべてを終結したときに・はじめて問題となりうる。全体計算
(22)ここでリーガ−は,当時のドイツ商法第262条の規定を念頭においている。
(23)本筋におけるり−ガ−の所論は,主として次による。Vgl,Rieger,a・a小0 ,SS・
203−243.
グイルヘルム・リ−ガーの私経済学
ー 45・−45
(Totalrechnung,Gesamtrechnung)がこれである。
このような全体計算は,継続事業体(ein Dauerbetrieb)として数10年さら には数100年も存続する企業に.とっては蘭とんどまたほまったく実践的意義
(die praktischeBedeutung)を有しない。だが,かれに・よれば,理論ほこのこ とを考慮する必要はない。・すべての貨幣費消が完全(Ⅰ・eStlos)かつ最終的
(definitiv)に貨幣状態紅蓮すること,そしてこの時点で成果封算をなすこと ほ,貨幣計算に基づく今日の経済体制に由来する(entspringen)のであり,こ のことこそ理論の考慮するところでなければならない。そ・こでかれはいう。「全 体計算が何らかの実践的意義を有するか否か;そ・れが用いられているか否か は,われわれに.とってまったくどうでも良いことである。夷の決算の概念した がって正しい利潤の概念は,これが果して検証(verifizieren)されうるか否か によって決定されてほならない。われわれの見解を否定しようとするものは,
この見解の実践における実行不可能性を指し示すこと紅よっでではなく,論理
(餌)(25)
的議論(logische Argumente)によってのみこれをなすことができる。」
(24)Rieger,a.a.0・,SS.207−208.
(25)リ一升−ほ企業において追求きれる利潤を企業の固有の担い手である企業者の追求 する利潤と考えたのであるが,ここに企業者とは株式会社企業紅おいては株主であ
る。ところで企業の,したかって企業者の利潤として全体利潤の姦を考えるとき,継 続事業体としての株式会社企業の企染着は,個々の具体的株主ではありえない。なぜ
なら,このような企業の株主紅ほ企業の一座の間紅死亡や株式の売却によって移動が 見られるのであり,このような株主が,その株主である期間をしばしば遠かに.超える 企業の一座匿わたる利潤の魂を利潤として認め,またこの利潤の計算のみを決算とし
て認めると解することは不可能だからである。そこで,企業の利潤ないし企業者の利 潤として全体利潤のみを理解するとき,継続事業体としての株式会社企業における企 業者として,個々の具体的株主と別個のものを考えることが必要となる。
このような・企業者となりうるものほ,リーガ−のいわゆる株主団体(dieAktion計−
schaft)である。リ−ガ−によれぼ,資本会社(Kapital盲ese11schaft)の完成形態と しての株式会社においては企業者としての個人(PeI・sOn)は療在しない。そこにお いでは個々の具体的な企発着(einzehe physische Unternehm甲)の代り紅,いわ ば1つの無名の団体(eineanムnymeGemeinschaft),株主の全体(die Gesamtheit deI・AktionaI・e)としての株主団体が現われる。これほその運命および勒械を異紅す
る多数の株主から構成されるのであるが,このような株主の個別的な運命および動機 と拘りなく存続し,株式会社の存続を可能ならしめる。まさ紅この非人間化(Ent−
peI・S6nlicbung),何らかの個人の変転する速命および動機からの独立こそ,株式会社
企業の著しい特質をなす。ここにおいては,個々の株主は共同体としての企業者の単
− 46 −− 舞50巻 第ヱ号 46
このように考えるリーガーにとっては,企業の生存中に.ほ真の正しい決算
(eine wahreundr・ichtige Abrechnung)は絶対に,存在しない。「企業ほ開始
(Anfang)と終了(Ende)とを意味するGおよびG′の2点に.よって区切られ た貨幣計算紅よって時間的に.不可分の統一・体(eineunteilbareEinheitinder Zeit)となっており,したがってその生存中に.それを計算的紅個々の断片に.分
(26)
解することは不可能である。」レかしながら理論とほ別個に・,生活ないし実践自 体は企業の生存の途中に・おける利潤計算を必要とする。けだし,企業者はその 企業から自らの所得を得ようとし,そのため紅.企業の生存の途中において利潤
(27)
の計算を要求し,課税者も課税対象として:の利潤の計算を要求する。その際計 算の期間として選ばれる期間は通常1年であり,ことに年次決算として知られ
る年次中間−ないし部分決算(jahrliche Zwischen−Od.Teila毎echnung)が 生じる。リーガ・一軋よれば全体計算の概念ほ,まさ紅この年次決算の諸制約お
なる部分紅過ぎ■ず,それ自体でほ決して企業者ではない。(Vgま..,Riegef,a.a.0..,
SS.109−25小)
ただ,このような企業者概念の規定は,リーガーにおいて一・賞して保持されている わけではない。リーガーは他方に・おいて,株主を大株主(G工0飴ktion畠Ⅰ・e)と小株主
(Kleinaktionare)と粧分け,前者において企業の経過に関心を持ち企業の管理に 対し強い影智力(Einfl叩)を行使する株主を,後者紅おいて企業の経過に関心を持 たずまたこの管理に対する影響力を持たない株主を理解する。かれはまた,株主を持
続的株主(daue;ndeAktionare)と投機的株主(spekulierendeAktion批e)とに 分けるのであるが,この2つは,それぞれはは大株主と小株主とに対応するものと解
されているように思われる。リーガ−ほ,このような株主のうち大株主の利益におい て企業が遵営されていることを認めている。こ.の1例としてわれわれは,秘密積立金 紅関するか叫の論述を想起サーるべきであろう。かれは,秘密横立金がとりわけ浮動株 主ないし投機株主の激しい利潤分配要求から偶発的利潤を守るという点にその意味
を認めたのであるが,この場合,浮動株主紅対するこの秘密積立金政策の主体として
暗然のうちに前提されているものは持続的株主としての大株主紅他ならない。ここで は,企業の政策が妹主団の1部を構成する紅過ぎない大株主の利益においてなされる こ・とが認められているのである。同様のことをわれわれは,防衛株,貯蔵株紅関する
かれの論述(ⅤれRieger,a.a.0い,S.317.)にも看取することができる。こ.のよ うなり一−・ガ−の論述は,かれの株主団体としての企業者の概念規定と整合しない。
な鱒,リ・−ガ一における企業者については次を・も参照せよ。田島仕事柄,「リニガ
−私経済学紅おける企業」,『七■ジネス・レビュ・−』11巻2号。
(26)RiegeI,a…aい0,.,S。220.
(27)但し,課税対象としての利潤の計算ほ,り一−ガー・に.おいては重要な意味を持たな
い。かれは年次利潤に・おいて,専ら,出資者紅分配されうる利潤の魂を考えている。
グィルヘルム・リ−・ガ−の私経済学 一一J7 一 47
よび問題性を明らかに.し,これに.対する正しい態度をわれわれに与える点にそ 甲意義を有する○年次決静のこのような諸制約および問題性を明らかk・するた めに.,かれほ.,実践払おいて回避されえないこの部分決静がそもそ・も決算たら なければならないとすればこれ紅対して理論は如何なる要求をなさなければな らないか,あるいぼこの部分決算において討静される年次利潤が正しいといわ れうるため紅は少くとも如何なる条件が満たされなければならないかを問題と する。
リー・ガ・−に.よれば,企業ほ収益(.Ertr畠ge)を得るために費消(阜ufwen−
dungen)をなすものであり,その計算ほ純攣の収支計算(einereineEinnah−
men−undAusgabenrechnung)以外の何ものでもありえないから,年次決算 も収支計算として考えられざるをえない。ところで当該年次に・関わる収支ほそ のすべてが当該年次末までに実現され確定するわけではない。期末に..おいて↓、
まだ収支とならざる諸項冒の存在ほ部分決算に必然的に伴う事態である。この ような諸項目は,そ・の貨幣的運命の先取り(eineAntizipationdesgeldlichen Schicksals)すなわちその将来に・おける貨幣的結末(das spatere geldliche Ende)を予測しそ七に得られる金額を決算日の価値紅割り引き換算すること紅
(28) よって年次決算紅取り入れられざるをえない。ここにり−ガ−ほ,年次決算紅
関してなされる何らかの貨幣的結束の予測計算を評価(Bewertung)とよび,こ れが決算日の価値への割り引き換算を伴うとき,これを現在価値(der heutige Wert)による評価と称する。これがいわゆる時価(Tageswert)紅よる評価と 異なることほいうまでもないであろう。いずれ紅せよ,∴リ一升ー紅よれば,年 次利潤が正しいといわれうるためには,上記諸項巴の貨幣的運命が精確に予測 されえなければならない。
だがそ・れのみではない。リ一−ガ一によれば,年次利潤が正しいといわれうる ために.は,さらに企業がその業務のすべてを終結した時点で払込み資本伍as
(28)リ・−ガ・一によれは,これは−・種の擬制的全体計算(einefingierteTotalrechnung)
を恵味する。これは,企業が実際にほ縫続することを前提としながらも,計算上は,
次年度以降に新たに始まる業務を度外視し,当該年次のみの兼務紅関する収支を考慮
するのである。(Vgl.,Riege:,a。a。0…,SS.211−2.)
第50巻 寛1号
ーJ∂ −− 48