「国民経済の計画性をもった、釣合いのとれた発展 の法則」論の検討
その他のタイトル On the Law of Planned, Proportioned Development of National Economy
著者 長砂 実
雑誌名 關西大學商學論集
巻 10
号 2
ページ 169‑204
発行年 1965‑06‑30
URL http://hdl.handle.net/10112/00021569
169
﹁国民経済の計画性をもった︑
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i主義経済学のなかで︑基本的経済法則についで重要な意義を
もつ経済法則とみなされている︒この法則は︑スクーリンの﹃ソ連邦における社会主義の経済的諸問題﹄のなかで︑
従来の誤った﹁社会主義的計画化
11
経済法則﹂論の克服を直接の目的としてはじめて登場したのだが︑現在︑一定
の構造をもったその通説的理解が形成されている︒だが︑同時に︑かなり以前から断片的に︑そして妓近において
はますます系統的に︑この通説的理解の妥当性にたいして重大な疑問がなげかけられている︒この法則の理解には︑
今︑重要な転機がおとづれている︒われわれもまた︑これまで︑折にふれて︑この法則の通説的理解に批判的なわ
れわれの態度を表明してきた︒
本稿の課題は︑この法則の通説的理解とそれにたいする異説的諸見解とを検討して︑この法則の真の内容と経済
諸法則の体系のなかでのこの法則の真の位既とにかんするわれわれの見解をあきらかにしようとすることにある︒
本稿での考察において利用されるおもな文献を一括してかかげよう︒以下での各種の注は︑簡単化のために︑主
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釣合いのとれた発展の法則 とれた発展の法則﹂
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七五
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(K. OcrpoBHTllHOB); No.3, 1964, cTp. 95100 (C. ,U3apacoa); No.7, 1964, crp. 113116 (M.AT』acn Jlp.); No.
7, 1964, cTp. 125 126 (H. XeccnH); No. 9, 1964, crp. 114116 (K. OcrpOBHTllHOB); No. 8, 1964 (JI. A6aJIKnH,
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迅芸縄Q器竣工」'『姿米溢迭滉祗』踪兵栄J踪回唸(1~-1く回・\)'\;:i-\(~\tjヰ(-•.~.如,{,yo
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〔臼〕E. M. BallleHueea. 3aKOH llJIBHOMepHoro, nponopuHOHBJJbHOro pa3HT皿COUHBJJHCTH'leCKOroHapOJl‑
HOro X03叫CTBa,l13八.BTilli H AOH npH UK KTICC, 1962.
〔コ〕TIOJIHT匹ecKaH9I{OHOMHH (yqeoHHK) , qeTBeproe, nepepa6or. H八OllOJI.H3Jl. 1962, rocnOJIHTH3., 1962,
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〔臼〕0. l1. XBHHrbH, HeKOTOpble npooJieMbl 38KOHa nnaHOMepHoro pa3BHT皿Hapo皿oroxo3雌cTBa.<:BecT‑
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〔臼〕B. 4epKOBeu, K peweHHIO BOnpoca 06 HCXO皿OHKaTeTOp皿IlOJIHTH'leCKOH9KOHOM皿COUHaJIH3Ma,
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172
この法則の客観的性格の承認は無条件に正しい︒だが︑この法則と計画化との関連の理解には問題が残されてい 文 ︶ ︒ まず︑この法則の理解をめぐる諸論点を整理して︑それらのなかで次節以下でくわしく検討されるべきものを摘
出することにしよう︒主要な諸論点は︑すでに﹁スクーリン論文﹂のなかに見いだすことができる︒
ヽ第一の論点は︑この法則と計画および計画化との区別である︒これは︑この法則の客観的性格の問題と︑法則と
計画化との関連の問題とをふくむ︒﹁われわれの⁝⁝計画と︑国民経済が計画性をもった︑つりあいのとれた発展
をするという客観的な経済法則とを︑混同してはならない﹂︵︹1︺邦訳一三ページ︶︑のである︒この法則は︑﹁社 会的生産をただしく計画する可能性を⁝⁝あたえる﹂が︑﹁可能性を現実性と混同してはならない﹂のであって︑
諸計画は﹁この経済法則の諸要求を完全に反映しているとはいえないのである﹂︵︹1︺邦訳一四ページ︑傍点ー原 1
法 則 理 解 の 諸 論 点 の 摘 出
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七八
173
第三の論点は︑この法則が︑﹁資本主義のもとでの競争および生産の無政府性という法則に対立するものとして﹂︑
その﹁法則が効力をうしなったのちに︑生産諸手段の社会化にもとづいて発生した﹂︵︹1
︺邦
訳一
三ー
一四
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ジ︶
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法則
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の検
討︵
長砂
︶
言ではない︒ 則の﹁諸要求﹂の内容の理解にかかわっている︒
七九
る︒スクーリソは︑諸法則のうち︑この法則︵と基本的経済法則︶だけを国民経済計画化とむすびつけた(T1N邦
訳一四︑五一ページ︶︒だが︑のちにみるように︑事態はより複雑である︒この問題の理解は︑もっばら︑この法
第二の論点は︑﹁計画性﹂
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ンは︑この法則を﹁国民経済の計画性をもった︑.釣合いのとれた発展の法則3貝
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﹂とよび︑あきらかに︑﹁計画性﹂と﹁均衡性﹂とを︑両者の相互関係
を問わないままでともに同一法則の主要な内容をしめす範晦とみなしている︒同時に︑彼は︑この法則を単に﹁国
民経済の計画性をもった発展の法則﹂とよび︑また︑﹁均衡性﹂あるいは種々の釣合いにとくに言及しないことに
よって︑この法則を﹁計画性﹂に重点を置いて理解した︑とみなすこともできる︒そして︑通説は︑のちにみるよ
︑︑
︑
うに︑レーニンの有名な命題に誤って依拠しつつ︑﹁計画性﹂
11
﹁たえまない︑意識的に維持される均衡性﹂とみな
している︒だが︑﹁計画性﹂と﹁均衡性﹂との区別と関連の理解の現状には︑まだ多くの疑問点がある︒さしあた
って重要なことは︑両者を明確に区別することである︒通説的理解におけるこの法則ほ︑われわれの意見では︑﹁国
民経済の計画性をもった発展の法則﹂あるいは簡単に﹁生産の計画性の法則﹂と︑経済的諸釣合いーーその総体
が﹁均衡性﹂であるーにかんする諸法則という︑複数の法則に分割されるぺき︑あまりに多くの﹁諸要求﹂を背
負わされている︒この第二の論点をいかに解決するかに︑他のすべての論点の理解がかかっている︑といっても過
174
﹁国
民経
済の
計画
性を
もっ
た︑
釣合
いの
とれ
た発
展の
法則
﹂論
の検
討︵
長砂
︶
社会主義の特有経済法則である︑ということである︒この論点は︑通説的理解においても堅持されている︒だが︑
この理解は︑この法則をもっぱら﹁計画性﹂において︑すなわち﹁国民経済の計画性をもった発展の法則﹂として
とらえる場合にのみ正しい︑といわなければならない︒この論点は︑資本主義に特有な外的強制法則の直接的否定
物としての︑社会・共産主義に特有な外的法則をいかに理解するか︑ということである︒
︑︑
︑︑
第四の論点は︑この法則と価値法則との関連にかかわる︒スクーリソは︑この法則の作用は︑﹁価値法則の作用
する範囲と価値法則が生産に影密をあたえる程度とを︑制限せずにはおかない﹂のであって︑したがって︑﹁価値
法則は︑われわれの制度のもとでは生産の規制者の役割を演じることができない﹂︹1
︺︑
邦訳
二九
ー三
三ペ
ージ
︶︑
とのべた︒通説的理解では︑より積極的に︑この法則が社会主義﹁生産の規制者﹂である︑とされている︒
︑︑
︑
ここ
では
︑一
九一
︱‑ 0
年代の︑価値法則と計画との絶対的相互排除論とは異なって︑価値法則とこの法則との同時
的共存が肯定されながらも︑なお︑﹁生産の規制者﹂的役割においては︑両者が相互排除の関係においてとらえら
れていることが注目される︒この論点の理解は︑だが︑社会主義のもとでの商品生産と価値法則にかんする諸論者
の見解が異なるにしたがって異なりうる︒さらに︑われわれの見解によれば︑この法則の﹁生産の規制者﹂的性格
は︑この法則の本質を﹁均衡性﹂に︑しかも︑この﹁均衡性﹂を構成する種々の﹁国民経済的釣合い﹂のなかでも
社会内分業の釣合いに︑もっばらかからわせるときにのみ正しくとらえることができる︒そうしてはじめて︑この ︑ ︑
︑︑
︑
第五の論点は︑他の特有経済諸法則にたいするこの法則の独自性にかんするものである︒スクーリソは︑
経済の計画性をもった発展は︑⁝⁝どのような任務のために国民経済の計画的発展がおこなわれるかわかっていな︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑かった⁝⁝ならば︑それ自体ではなに一っうみだすことはできない︵傍点ー引用者︶﹂︵︹1
︺邦
訳五
OI
五一
ペー
ジ︶
︑
法則と価値法則との関連が正しく論じられるのである︒
八〇
﹁国
民
175
ヽ0︑とのべた︒ここでは︑基本的経済法則にたいするその従属的意義の強調のかげに︑この法則の独自的存在の意義が
軽視されているように思われる︒だが︑いうまでもなく︑ある法則を法則として承認するからには︑それがいかな︑︑︑︑︑︑︑る生産関係表現の法則であるかがあきらかにされていることが必要である︒われわれの見解では︑この法則の独自
的な意義と︑経済諸法則の体系のなかでのその独自な位置は︑けっして一義的に論じることはできず︑﹁計画性﹂
と﹁均衡性﹂とでは︑けっして同一ではありえない︒
以上が︑この法則の理解をめぐる主要論点である︒みられるように︑この法則の正しい理解ほ︑ほとんどすぺて︑
﹁計画性﹂と﹁均衡性﹂の相互関係をいかに理解するかにかかっている︒したがって︑われわれは︑次節において︑
一般的に︑主として方法論的に論じ︑つづく諸節で︑計画性をもった発展の法則と均衡
性にかかわる諸法則とのそれぞれについて︑より具体的な考察をおこなわなければならない︒
﹁計画性﹂と﹁均衡性﹂
八
﹁国民経済の計画性をもった︑釣合いのとれた発展の法則﹂の内容の理解が問題とされる時に︑
のが
︑
レーニソの有名な言葉ー﹁たえまない︑意識的に維持される均衡性は︑真に︑計画性を意味するであろう
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﹂ーである︒この法則の通説的理解がこの命題に強く依拠していることは︑この法則の﹁内容﹂︑﹁諸要
求﹂︑﹁基本的特徴﹂︑あるいはこの法則が表現する﹁必然性﹂について︑つぎのようにいわれることからあきらか
である︒いくつか代表例をあげよう︒
この﹁法則ほ︑社会主義的な社会的生産の発展におけるたえまない均衡性が社会によってたえず維持されること︑
﹁国
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展の
法則
﹂論
の検
討︵
長砂
︶
2 まず両者の区別と関連を︑
つねに登場する
176
1 2 1
この法則の﹁要求﹂の枠をさらに拡大して理解しようとするある論者を例外として︑通説的諸見解が一致して︑
﹁計
画性
﹂
11
﹁たえまない︑意識的に維持される均衡性﹂にこの法則の本質的特徴をもとめていることはあきらかであ
︑ ︑
る︒このことは︑つぎの命題に集約的に表現されている'
̲
̲ ﹁経済の計画性ーーこれは︑社会によってたえまなく
︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑意識的に維持される︑国民経済のなかの均衡性である︵傍点ー原文︶﹂︵︹7︺
CT p. 220 H
CM . CT p. 4
) ︒
ここでは︑﹁たえまない︑意識的に維持される均衡性﹂
11
﹁計画性﹂というレーニンの命題が︑﹁計画性﹂
11
﹁た
えま
ない︑意識的に維持される均衡性﹂という命題に転化させられている︒だが︑この二つの命題はかならずしもおな
じではない︒それは鉄
11
金属という等式からただちに金属
11
鉄という等式をひきだせないのとおなじである︒この
法則の通説的理解に批判的な論者たちは︑一致して︑この論理的矛盾をついている︒
なによりもまず︑﹁たえまない︑意識的に維持される均衡性﹂
11
﹁計画性﹂というレー・ニソの命題を︑通説的諸見
解がいかにとらえているかを具体的に検討しなければならない︒すでにこの検討のなかに︑多くの疑点が摘出され
る ︒
を要
求す
る﹂
︵︹
2
︺⑮ CT p. 2 3,
g
CT p. 9 ,
︹1 9
︺CTP・
14 1.
)
゜
︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑̀︑︑富ヽヽヽ畜ヽ●ヽヽ`ヽ
この﹁法則の本質的な特徴をなしているのは︑均衡性︑すなわち︑社会的生産の体系のなかでの︑社会的分業に
︑︑︑︑︑︑︑︑︒︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑畜ヽ︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑富畜・︑︑︑︑︑︑︑.
よって条件づけられた一定の照応︑および︑社会の側からするこの均衡性のたえまない︑意識的な設定と維持の必
然性である(傍点—原文)」〔8〕C
Tp . 19 0)
︒
、、、、、、、、、、、、、‘`•ヽ・、畜ヽ、、、、、、、、、、、・、・、、、。`ヽ・、この﹁法則ほ︑社会主義的拡大再生産の過程で均衡性がたえまなく意識的に保障される客観的必然性と可能性を
表現する︵傍点ー原文︶﹂︵︹ ︑ ︑
1 3
︺C
Tp .
1 4
)︒ すなわちその全部門の規模での経済の計画的運営︑
︹3︺
CT p. 1 2,
︹9︺
﹁国
民経
済の
計画
性を
もっ
た︑
釣合
いの
とれ
た発
展の
法則
﹂論
の検
討︵
長砂
︶
八
177
うるものではなく︑
﹁国
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計画
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もっ
た︑
釣合
いの
とれ
た発
股の
法則
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の検
討︵
長砂
︶
とするという﹂ 均
衡性
﹂︑
ぎの︑周知の命題である︒
こま
︑
¥ 9
一
般に
︑
八 ある論者は︑こ
つ
﹁均衡性﹂が種々の﹁国民経済的釣合い﹂の総体を意 この二つの規定のうち︑より広義な前者の規定の方が︑通説的理解の大勢にそったものといえるし︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑畜ヽヽ︑︑︑︑︑︑われわれもこれに同意する︒﹁⁝⁝国民経済のなかでの計画性あるいは理性的に設定される均衡性は︑多数の部分︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑的な経済的釣合いから形成される︵傍点ー原文︶﹂︵︹
1 3
︺C T p .
2 1 )
といわれるのだが︑この﹁国民経済的釣合い
CT p. 1 88
) ︒
(H ap O. ZI .H OX
0 3
HH CT Be HH hl e rr po rr Op l.
¥H H)
﹂物質的生産諸部門問の社会内分業上の釣合いのほかに︑
③ およそ﹁釣合い﹂が問題とされうるうぺての連関が数えられるのである︒だから︑
上の釣合いに還元するのは誤りであろう︒また︑こうして︑ ﹁均衡性﹂をたんに社会内分業
味するとすれば︑個々の釣合いの正しい理解がなければ︑均衡性も正しく理解されない︒このことは︑
されているのだが︑すぐあとでみるように︑方法論的に重要な意義をもっている︒
︑︑
︑
ところで︑このような﹁均衡性﹂そのものは共通経済法則に表現されるが︑﹁たえまない︑意識的に維持される
したがって﹁計画性﹂は社会・共産主義の経済法則である︑と一般にいわれる︒論拠とされるのは︑ 一般に軽視
﹁種々の欲望批に対応する生産物批が社会的総労働の種々の最的に規定された掘を必要
﹁一定の割合での社会的労働の分割の必要は︑けっして社会的生産の特定の形態によってなくされ
ただその現象様式﹂︑﹁貫かれる形態﹂﹁を変えうるだけだ・⁝
. .
﹂︵
マル
クス
︶︒
一定の︑社会的生産のたえまない発展の観点からみて正しい︑相互関係︶である﹂︵︹2︺⑱
C T p .
6, 8 C T P ・
、、、、、、、、、、畜pヽヽ、、、、、、、、、、。~、、、、、、、、、、
2 1
︒また別の論者によれば︑﹁物質的生産の各部面および部門が︑たえまない再生産過程を保障するような娯的お)
︑
︑
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︒
︑
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︑
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︑
よび質的相互関係において生産物を生産する︑そのような発展︑と均衡性を理解すべきである︵傍点ー原文︶﹂︵︹8︺
︑ま
︑
し
' v
ように︑社会的生産の諸部分︑諸要素のあいだ︑経済諸部門のあいだ︑再生産の諸部面のあいだの﹃照応﹄︵ある
︑ ︑
第一に︑﹁均衡性﹂そのものの概念を明確にする必要がある︒ある論者によれば︑云均衡性とはレーニソがのべた
178
﹁国
民経
済の
計画
性を
もっ
た︑
釣合
いの
とれ
た発
展の
法則
﹂論
の検
討︵
長砂
︶
の命題が︑社会主義のもとでは︑﹁一定の比率で社会的労働を配分する必然性を表現する共通法則と︑社会主義の
もとでの国民経済の計画性をもった発展の特有法則との相互関係の問題﹂として妥当する︑と主張している︵︹3︺
C T J >
1 1 . 1 2 )
︒
だが、われわれは、「均衡性」11共通法則—↓「たえまない、意識的に維持される均衡性」11特有法則、という図式
に同意できない。なぜなら、第一に、「均衡性」は、特定の社会形態のもとでは、特有な社会的性格•本質をもっ
︑
︑
︑
︑
た均衡性としてしか実在せず︑均衡性一般ほ抽象としてしか存在しないからである︒このことは︑一定の均衡性を
構成する一定の経済的釣合いの総体を念頭におけば︑容易に理解される︒個々の経済的釣合い︑たとえば生産と消
費︑消費と蓄積︑生産手段生産と消費物資生産などの照応的連関は︑たしかに︑抽象的諸契機・連関としては共通
︑︑
︑
法則であるが︑具体的には︑つねに︑特定の生産諸関係の一定の本質的側面を表現する特有︵内在的︶諸法則とし
てしか実在しない︒これらの具体的な︑特有な経済的釣合いの総体である均衡性が︑抽象的な共通的存在としてと
どまりえないことはあきらかである︒社会・共産主義のもとでの均衡性は︑こうして︑一連の社会・共産主義の特
︑︑
︑︑
1 6
有︵内在的︶経済諸法則に表現される︑一つの経済的合法則性である︑といえよう︒第二に同意できないのは︑以
上のことと関連して︑﹁たえまない︑意識的に維持される均衡性﹂の特有法則的性格が︑単に︑﹁たえまない︑意識
・・
︑︑
的に維持される﹂という︑均衡性1共通法則としてとらえたーーの特有な実現様式にのみもとめられている︑と
いうことである︒実は︑社会主義のもとでの﹁均衡性﹂それ自体が︑社会・共産主義に特有な内在的経済諸法則に
表現されるような経済的合法則性として実在するからこそ︑そのような特有な現象・貫徹形態が存在するのである︒
そして︑ここから︑重要な論点がみちびかれる︒すなわち︑﹁たえまない︑意識的に維持されるという特質﹂ほ︑
けっして均衡性︵あるいはそれを構成する個々の経済的釣合い︶についてのみ妥当することではなく︑特有な内在
八四
179
このようなわれわれの立場から︑つぎに︑この法則の通説的理解に批判的な論者たちが︑﹁計画性﹂と﹁均衡性﹂
の区別と関述を方法論的にどのように把握しているか︑を検討しよう︒
ア・パシコフ︵︹4︺
CT p.
2528)によれば︑﹁均衡性は発展の計画性の基本的内容をなすとはいえ︑﹃計画性を
もった発展﹄の概念は﹃釣合いのとれた発展﹄の概念よりもはるかに広い﹂︑と主張する︒しかし︑この論者のよ
うに︑計画性と均衡性とをおなじ次元の概念とみなして︑爪なるその広狭を問題にするのは不正確であろう︒事態
を︑外的法則としての概念の広さと︑内在的諸法則の一定の総体としての概念の相対的な狭さ︑においてとらえね
とでの﹁経済の自然成長的な︑無政府的な発展の法則﹂と対立させて理解しているのは正しいが︑資本主義のもと
での﹁国民経済の発展の不均衡性﹂にとってかわる︑﹁国民経済の釣合いのとれた発展の法則﹂の独自的存在を主
﹁国
民経
済の
計画
性を
もっ
た︑
釣合
いの
とれ
た発
展の
法則
﹂論
の検
討︵
長砂
︶
ばならない︒また︑このことと関連して︑この論者が︑ といわねばならない︒
八五
的経済法則に表現される︑社会・共産主義のすべての生産関係的連関について妥当する︑と考えるべきである︒そ
︑︑
︑
して︑この特有な実現・現象・貫徹様式
11
形態こそ︑まさに︑﹁計画性﹂の概念内容をなすのである︒社会・共産
主義の内在的経済諸法則はすべて︑この︑﹁国民経済の計画性をもった発展の法則﹂という特有な外的法則に媒介
されて貫徹する︑とみなさねばならない︒通説的理解における﹁国民経済の計画性をもった︑釣合いのとれた発展
の法則﹂のなかで︑このような外的法則の側面と︑均衡性にかかわる一連の内在的諸法則の側面とが︑つまり︑ニ
種類の︑次元を異にする経済諸法則が混在させられていることが︑こうしてあきらかとなる︒﹁計画性﹂
11
﹁た
えま
ない︑意識的に維持される均衡性﹂という命題は︑レーニンの命題を誤って転倒させたものであり︑また︑﹁この
︑︑
︑
ような均衡性は⁝⁝計画性の基本的な内容である﹂︵︹
1 4
︺
CT p. 4 53
)︑という表現もきわめて不正確なものである︑
﹁国民経済の計画性をもった発展の法則﹂を狩本主義のも
180
﹁国
民経
済の
計画
性を
もっ
た︑
釣合
いの
とれ
た発
展の
法則
﹂論
の検
討︵
長砂
︶
張しているのは︑われわれの疑念をよびおこす︒社会主義のもとでの特有な均衡性の経済的合法則性ぱ︑
済法則によっては表現しつくされないからである︒
この論者のもう︱つの重要な論点ぱ︑﹁国民経済の釣合いのとれた発展の法則﹂は徹頭徹尾﹁共産主義構成体の
特有経済法則﹂であって︑若干の論者が主張しているように︑﹁釣合いのとれた発展の法則﹂という﹁普追的経済
法則﹂の﹁作用の特有な現象にすぎない﹂のではない︑ということである︒彼によれば︑﹁経済法則の概念は必然
︑︑
︑
性だけでなく可能性も含む︵傍点ー原文︶﹂のであって︑マルクスによる例の﹁自然法則﹂への言及は︑もともと︑
ヽ~ヽそのような共通法則の存在の肯定を意味していない︒そして︑釣合いのとれた発展の﹁可能性﹂が社会・共産主義
にのみ固有であることが︑これを特有経済法則とみなす根拠とされる︒だが︑この主張には同怠できない︒まず︑
法則概念にとって﹁可能性﹂が不可欠の標識である︑ということは論証されていない︒さらに︑いわゆる﹁非実現
奮による均衡性の実現﹂である不均衡性も︑﹁たえまない︑意識的に維持される均衡性﹂と同様に︑抽象的な均衡性
一般の必然的存在
11
共通法則の存在と相互排除関係にはないからである︒この論者は︑共通法則の存在の抽象的性
格を無視している︒重要なことは︑共通法則の存在を否定することによって︑﹁釣合いのとれた発展の法則﹂を特
有法則として主張することではない︒重要なことは︑その総体において一定の均衡性を形成する︑個々の︑照応的
な生産関係的述関をそれぞれ独自な特有諸法則としてとらえ︑それらの一定の抽象として諸述関の均衡性の共通法
則の存在を確認することであろう︒
また
︑
オ・フヴィンギア︵︹
1 5
︺
CT p.
5
1 2 )
は︑﹁計画性と均衡性とは同意語ではない⁝⁝︒前者は社会主義的
・
︑
︑
︑
︑
︑
︑
︑
生産諸関係の質的側面を表現し︑後者は批的側面を表現する︵傍点
1 1 1
川者︶﹂︑という立場から︑﹁特有な買的概
念である﹃計画性﹄が︑﹃均衡性﹄の祉的指傑と同l視されており︑法則の本質が︑生産諸関係の飛的側面にのみ 八六
︑︒
︑
︱つ
の経
181
帰せられている﹂︑と通説的理解を批判する︒この批判も︑充分なものとはいえない︒なさせなら︑第一に︑ュ計画性﹂
︑︑
︑
はたしかに社会主義的生産関係の一定の特質を表現するのであるが︑その質的な特有性が︑内在的諸法則とは区別
される外的法則としてのそれであることが明確にされていないし︑第二に︑﹁均衡性﹂が一述の特有内在諸法則に
ヽ.ヽヽ表現される質的に特有な経済的釣合い
11
連関の総体であることが無視され︑結局は︑
︱つ
の︑
義的生産諸関係の質的特質を表現しない︑
関係﹂に帰着させているからである︒
八七
﹁均衡性﹂の概念を︑社会主
一定の祉的相互
なお︑この論者は︑﹁計画性をもった発展の法則を分業の共通法則の現象形態と考えている﹂﹁一連の著者たち﹂
を批判して︑そのような現象形態は︑この法則ではなくて︑﹁計画化﹂である︑と主張している︒この﹁計画化﹂
は︑分業の共通法則にたいする関係においては︑資本主義のもとでの﹁交換価値﹂にとってかわるものとみなされ
畜 ヽ ヽ ヽ
ている︒このような談論には問題がある︒この論者は︑本質と現象とを峻別して︑法則は本質にかかわるが現象と
は絶対かかわりはないという論拠をもちだしている︒これは正しくない︒たとえば︑生産価格法則は価値法則の
﹁現象形態﹂ではあるがやはり独自な法則であり︑独自な本質を表現する︒さらに︑もし分業の共通法則が本質で
あり交換価値がその現象であるということにこだわるならば︑交換価値の本質をなす価値法則とこの分業の共通法
均衡性の共通法則は︑社会・共産主義に特有な経済諸法則として実在するからこそ︑ 則とが同一物である︑という背理をも承認せざるをえなくなるであろう︒﹁分業の共通法則﹂
11
社会の分業の一定の
﹁計画化﹂という﹁社会的現
象﹂を通してあらわれることができる︑といわねばならない︒
最後に︑計画性の意義をもっとも重視するモスクワ大学の論者たち1ニヌ・ツァゴーロフおよびヴェ・チェル
︑︑
︑︑
︑︑
︑
コヴェツを代表者とする—ー(〔17〕
CT p. 1 22 1 23 )
によれば︑﹁意識的に維持される均衡性は︑計画性をもった
﹁国
民経
済の
計画
性を
もっ
た︑
釣合
いの
とれ
た発
展の
法則
﹂論
の検
討︵
長砂
︶
﹁労働と生産手段が種々の部門に分配される︑