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ヒルファディングの流通経済論の検討

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(1)

ヒルファディングの流通経済論の検討

その他のタイトル Hilferding's Theory of Distribution

著者 加藤 義忠

雑誌名 關西大學商學論集

巻 24

号 2

ページ 146‑166

発行年 1979‑06‑25

URL http://hdl.handle.net/10112/00020945

(2)

[研究ノート]

ヒルファディングの流通経済論の検討

加 藤 義 忠

I

は じ め に

周知のようにルドルフ・ヒルファディングの経済理論としての『金融資本

( D a sF i n a n z k a p i t a l ,   D i e t z  V e r l a g ,  B e r l i n  1 9 5 5 .  

岡崎次郎訳『金融 資本論』岩波書店。以下,原書,邦訳はこれをもちいる)は,とくに独占資 本主義下の経済理論全般にかんする古典的な重要文献として多大の影響力を 発揮したし,いまなお発揮している。この影響力には肯定的なものと否定的 なものの両面があるが,このことはすでに各方面から指摘されているところ である。このようなヒルファディングの経済理論の影響はマルクス主義的流 通経済論の領域においても例外なく侵透しており,それはとくに独占資本主 義下の流通経済論に顕著である。しかも,この影響には肯定的なものと否定 的なものの両面があるのも他の領域と共通である。 しかし, この領域の場 合,肯定的な影響のほうが否定的なそれよりも強くあらわれている点に特徴 があるように思われる。

上述のようにマルクス主義的流通経済論の領域においても少なからぬ影 響力を発揮し,いまなおその力を保持しているヒルファディングの流通経済 論についてことさらに検討しようとする意図は,次の点にある。ヒルファデ ィングの流通経済論の検討を抜きにして独占資本主義下の流通経済論の基礎 理論的な構築は考えられず,それゆえにマルクス主義的立場から独占資本主

(3)

ヒルファディングの流通経済論の検討(加藤)

1 4 7 ) 6 9  

義下の流通経済論を構築しようとする論者はほぽ例外なく, ヒルファディン

グの流通経済論を肯定的にかあるいは否定的に理解することからはじめてい るが,多くの場合, ヒルファディングの流通経済論を断片的に取り上げるこ とはあっても,.それについて正面から全面的に批判的に検討したものはいま だかつてなかったといっても過言ではない。私もかつて部分的にヒルファデ

(1) 

ィングの流通経済論についてふれたことはあるが,全面的に問題にしたこと はなかった。そこで,私は上記のような理由から,ヒルファディングの流通 経済論としての『金融資本論』第

3

篇第

1 3

章資本主義的独占と商業を主要な 対象として,研究ノートというかたちでヒルファディングの流通経済論の骨 子を紹介しながら,全面的な検討をこころみようと思う。この場合,自由競 争下の流通経済論と独占資本主義下の流通経済論の二つに大別して検討する ことにしよう。

: r r

 

自由競争下の流通経済論の検討

周知のようにヒルファディングは『金融資本論』第

3

篇第

1 3

章において独 占資本主義下における商品流通あるいはその媒介形態としての商業資本の変 様について中心的に分析している。したがって,自由競争下の商品流通ある いはその基本的媒介形態としての商業資本についての分析は,上述の中心的 な分析に必要なかぎりにおいて,部分的にふれられているにすぎない。した がってまた,ここでは•ヒルファディングの自由競争下の流通経済論の中軸と しての商業経済論について体系的に検討することはできないので,ヒルファ ディングの限定的で断片的な主張を手がかりとしながら,若千の検討をくわ えるにとどめざるをえない。

(1)  商業と保管・遮送

ヒルファディングはカール・マルクスが『資本論』第3巻第4篇において

(1) 

加藤義忠「商業資本の排除の原理」「商学論集」第

2 1

巻第

1

号を参照願いたい。

(4)

展開している商業資本論に依拠しながら,それに自己流の解釈をくわえて論 を組み立てている。順をおって考察しよう。

ヒルファディングはまず商業をそれと現実具体的に結合している計量,分 割,運送の機能から区分したうえで,商業資本はもともと生産者自身によっ て遂行されていた「売買が一資本の独立の機能」

( S . 3 0 4

,邦訳『金融資本論』

5 8

ページ,以下,訳文の訳と一致しない場合がある)となったものである が,この独立化あるいは自立化によって「商業操作が価値生産的操作となる のではなく,商人が生産者となるのではない」

( E b e n d a .

同上)と規定するb かしながら,商業資本の自立化によって「売買の集中と保管費用ないしは保 存費用の節約などがもたらされる。したがって,商業はさもなければ必要な 流通費用の節減ならびに生産の空費の節減を意味する」

(Ebenda

.同上)とい う。商業資本の自立化によって売買が集中され,純粋流通費用の節減がもた らされるというヒルファディングの主張には問題はないが, しかし保管費用 ないしは保存費用が節約され,生産上の空費が節約されるという主張には問 題がある。結論から先にいえば,保管は純粋な固有の流通機能としての売買 とはことなり,広義の生産に属し,運送などと同一性格をもつものであり,

したがって保管費用の節約は純粋な商業資本の自立化の効果あるいは利益で あるということができないからである。もっとも,実際の具体的な商業資本 は売買という純粋な流通機能にくわえて,運送や保管などという純粋な流通 機能とは異質な広義の生産機能や場合によっては使用価値そのものを生産す るという狭義の本来的な生産機能までをも同時並行的におこなう複合休とし て存在し,しかもこれが通常よくみられる形態になっているけれども,純粋な 商業資本の本質と形態を理論的に分析しようとする場合には,本来的な生産

,,まいうにおよばず,運送や保管などの純粋流通とは異質的な広義の追加的生 産機能をはぎとった後にあらわれる純粋な流通機能に対象を限定して分析し なければならない。これは理論的分析の原則あるいはイロハである。このこ とはヒルファディングもじゅうじゅう承知のはずであり,彼自身も運送など は異質の機能として商業と区別している。これは上述のとおりであるが,問

(5)

ヒルファディングの流通経膝論の検討(加藤)

1 4 9 ) 7 1  

題はなぜこの異質の機能のなかに保管をふくめなかったかという点にある。

いうまでもなく,保管は自然状態下において時間的経過とともに生じる商品 の使用価値の質的悪化や量的減少を可能なかぎり防止するという有用的効果 を生産する。この保管によって生産される無形の有用的効果は,商品の空間 的な場所的移動という運送によって生産される有用的効果とは有用的効果の 種類あるいは質においてことなるけれども,本来的な生産によって生産され る有形の使用価値および生産された使用価値を前提として商業によって遂行 される使用価値の持ち手交替とくらべてみれば,保管と運送は基本的に同一•

のカテゴリーに属する機能であり, したがって本来的生産に準じて取り扱わ れなければならないものである。換言すれば,保管や運送などは有用的効果 を生産するという意味において広義の生産であり,したがってこれらによっ て価値および剰余価値も生産されるのである。ただ,保管や運送などと使用 価値を生産する本来的生産との違いは,前者は有用的効果を生産するけれど もこれは有形のものではないのにたいして,後者は有形の使用価値を生産す るという点にあるが,このように無形の有用的効果は生産するけれども有形 の使用価値を生産しないという意味において,生産された使用価値および価 値を前提として活動する商業とともに保管や運送なども本来的な生産にとっ ての空費といわれるのである。以上から明らかなように,保管や運送などは 本来的な生産と若干のちがいはあるとはいえ,商業と対比していえば両者と も基本的には同一の広義の生産の領域に属するものである。したがって, ルファディングのように保管と運送を差別して取り扱うことは正しくない。

両者とも純粋な商業とは異質な機能をはたしているものであり,商業の基礎 理論的な分析のレベルにおいては当然に純粋な商業から切り離されなければ ならないものである。したがってまた, ヒルファディングのように保管費用 の節約の効果を純粋な商業資本の自立化の効果のひとつとすることはできな い。上述のようにヒルファディングは保管機能を純粋な商業機能のひとつに かぞえているという誤りについての検討はこれくらいにして,彼の理論の展 開のあとをたどることにしよう。

(6)

巻 第

(2)  商業利潤と信用

商業活動を展開するためには商品購入用の貨幣が必要になるが,この「貨 幣は資本とならねばならず,したがって利潤をあげねばならない」

( E b e n d a .

同上)。しかし,この商業利潤は商業において形成されたものではなく,その 源泉は生産にあることは明らかであり, 「利潤は商業でただ取得されるにす ぎない」

( E b e n d a .

同上)のである。しかも,平均利潤の存在を前提すれば,

この商業利潤の大きさは商業「資本の大きさによって与えられている」

( S . 3 0 4 ‑ 5 ,

同上)。そして,この商業資本の大きさは年間の社会的生産物の価値

を商業資本の回転数で割り,その商にこの生産物が最終消費者にいたるまで に通過する中間段階の数を掛けたものに等しい。ここまでのヒルファディン グの主張には私も贅成である。だが,以下の主張には大きな問題がはらまれ ている。ヒルファディングいわく。「しかし, この資本はただ計算上でこの 大きさになるにすぎない。この資本の最大部分は,ただ信用として存在する にすぎない。実際,商人資本はただ商品流通にだけ役立つ。しかし,われわ れは商品流通の大部分は現実の貨幣の助力なしに遂行されうることをすでに 知っている。それは生産的資本家のあいだで相互に与えられて相殺される相 互信用である。現実の商人資本ははるかにより小さく,商人はただこれだけ から利潤を得る。産業資本家の利潤は総資本にかかっており,資本が産業資 本家のものであるか彼に貸されたものであるかには全くかかわりがない。そ れが生産資本だからである。商人の利潤は,現実に充用される資本だけにか かる。なぜならば,この資本は生産資本ではなく,貨幣資本およぴ商品資本 の機能を果たすだけだからである。信用はここでは単なる所有の区分したが ってまた利潤の分割を意味するのではなく,資本の絶対的減少を,したがっ てまた商人階級に割り当てられるべき,産業資本家からこれに支払われるべ き利潤の絶対的減少を意味する。ここで信用が直接に流通空費を減少させる ことは,場合によっては紙幣がそれをなすのと同様である」

( S . 3 0 9 ‑ 1 0 .   6 5  

ページ)。

(7)

ヒルファディングの流通経済論の検討(加藤)

1 5 1 ) 7 3  

この箇所は重要な問題をはらんでいるところなので,長きをいとわずヒル ファディングの叙述をそのまま引用したが,ここには次の点において納得で きないものがある。いうまでもないことであるが,商品流通の大部分はその 媒介を専業とする自立した商業資本によって遂行されているけれども,その 他の部分は産業資本相互間で直接無媒介に遂行されている。そしてまた,こ れらの商品流通に拘束される資本や純粋流通費用が商業信用か銀行信用によ って調達されるものとすれば,ーーヒルファディングのいうように信用とし て存在する部分がこの資本の最大部分かどうかは別にして_現実の貨幣と して存在する部分は当然その分だけ少なくてすみ,それだけ生産に充用され る資本がふえ,剰余価値の生産が大きくなることもいうまでもないことであ る。しかしながら, ヒルファディングのように現実の貨幣として存在する自 己資本としての商業資本にたいしてだけ商業利潤が分与されるということは

(2) 

正しくない。その理由はこうである。商業資本が自己資本として存在しよう が信用に媒介されて他人資本として存在しようが,商業資本が商品資本の価 値実現機能すなわち商品資本の貨幣資本への形式的な姿態変換機能ー―—素材 的には商品の持ち手交替すなわち社会的な質料変換機能ーーという社会的に 客観的な機能をはたしているかぎり,資本の所有区分に関係なく,この社会 的に客観的な価値実硯機能を根拠として商業資本にたいしても平均利潤とし ての商業利潤が分与される。そして,これを前提として,この商業資本が他 人資本を含んでいる場合には,産業資本の他人資本の場合と同様に,この他 人資本にたいしても商業利澗のなかから一定の利子が支払われるのである。

このような関係は,基本的に産業資本がみずから直接無媒介に売買する場合

(2) 

Jレファディングのこのような主張について,森下二次也氏はすでに私とほぼ 同趣旨の批判をくわえられている。森下氏いわく。 「商業自己資本が利潤を生 産しないのに商業利潤を与えられるのとおなじように,商業他人資本も利潤は 生産しないが商業利洞の分配はうける。商業資本はその機能のゆえに,その機 能をつくすのに必要な分量に応じて,一般的利潤率の形成に参加し,平絢利澗 を分与されるのであって,それが自己資本であると他人資本であると問わない」

(「硯代商業経済論」[改訂版〕有斐閣'プックス,

1 7 1

ページ)。

(8)

にもあてはまる。私がこのようにいえば,上述の引用文にあるようにヒルフ ァディングは産業資本の場合にはそうはいえても,商業資本は生産資本では なく商品資本や貨幣資本の機能をはたすだけだから,商業資本の場合にはそ うはいえないと反論するであろう。もちろん,商業資本は生産資本ではない。

とはいえ,商業資本は資本の再生産過程の進行にとって不可欠である価値実 現機能をはたしているがゆえに,生産資本と同様に機能資本として剰余価値 の分配に平等に参加することができるのである。なぜ, ヒルファ・ディングは 商業資本の他人資本部分だけを差別的に取り扱おうとするのだろうか。私は まったく理解に苦しむ。商業資本は生産資本ではなく,価値実現機能を遂行 するにすぎないことは,商業資本の自己資本のみならず他人資本とてまった く同じである。だとすれば, ヒルファディングの論理を発展させて,商業資 本は自己資本か他人資本かの区別をとわず生産資本ではないので,いずれも 剰余価値の分配に参加しないというようにするほうが首尾一貰したものとな ろう。だが,いくらなんでもヒルファディングはこのような不合理な考え方 をするはずがないものと思われる。だとすれば, ヒルファディングは商業資 本の他人資本だけを差別的に取り扱うのではなく,これを商業資本の自己資 本と一括していずれも機能資本として把握したうえで,これにたいする利子 を問題にするというかたちで論理の整合性をはからなければならないであろ

それだけではない。もし, ヒルファディングの論理にしたがえば,商業資 本がすべて他人資本でまかなわれた場合,現実に充用される自己資本として の商業資本はまったく不用となり,したがって商業資本に分与される商業利 潤はゼロになろう。商業利潤ではなくて他人資本に支払うべき利子だけの獲 得をめざして活動する商業資本がこの世に存在するというまったく空想的な 理論が, ヒルファディングの立論の論理的な帰結として生ずることになる。

これはまたなんと不合理な結論であろうか。この点からも商業資本の他人資 本にかんするヒルファディングの考え方が正しくないことが明らかとなろ

(9)

ヒルファディングの流通経済論の検討(加藤)

1 5 3 ) 7 5  

. m  

独 占 資 本 主 義 下 の 流 通 経 済 論 の 検 討

さて,.次にヒルファディングの独占資本主義下の流通経済論の検討に論を すすめよう。彼の独占資本主義下の流通経済論は基本的には商業資本の集中

・大規模化の理論と独占的産業資本による自立的商業資本の存立の否定いわ ゆる商業資本の排除の理論の二つから構成されている。両者の理論的関連は

(3) 

あまりはっきり述べられていないけれども,そのなかで後者の理論が中心的

(4) 

位置にあることだけは確かである。しかしながら,彼の説明は商業資本の集 中・大規模化の問題から始められているので,ここでもそれにしたがって検 討をおこなおうと思う。

(1)  商業資本の集中・大規模化

ヒルファディングはこの点について次のように主張する。商業そのものの 発展は二つの契機によって規定されている。そのひとつの契機は「商業技術 的諸条件」

c s . 3 0 5 .   5 9

ページ)そのものである。商業は種々の生産者から商 品を収集・集中し,これを最終消費者に販売する活動をおこなっているが,

(3) 

山中豊国.鈴木武の両氏もすでに私とほぼ同様のことを述ぺられている。山中 氏いわく。「独占段階における流通過程は,ヒルファディングにおいては,一方 では産業独占による商業機能の包摂による商業排除と,他方では商業独占とい ぅ,いわば相対立する二つの側面が指摘されている。しかしながら.これら二 つの傾向は,必ずしも整合的に説かれているとは限らないのである」 (森下二 次也監修「商業の経済理論」ミネルヴァ書房. 208ページ)。鈴木氏いわく。

「ヒルファディングのこの命題は,独占段階における商業資本の存立様式につい ての古典的定式として,多くの論者によって評価をあたえられているものであ るが,商業独占と商業排除といういわば二律背反の現象についてのヒルファデ ィングの叙述は.必ずしも一義的理解を可能ならしめるほどに明快なものでは ない」(「商業独占化の論理」福岡大学「商学論叢」第2

1

巻第

2

,1

3 7

ページ)。

(4) 

鈴木氏も私と同様の解釈をされている。ヒルファディングにおいては「商業排 除が基本的な方向であるとみなされているようにおもわれる」(同上論文.

1 3 7

ページ)。

(10)

この最終消費者が分散していればいるほど,それだけこの販売は量的のみな らず時間的にも場所的にも分散したものとならざるをえない。 けだし, 終販売の性格は最終購買者の所得事情と彼らの場所的集中度にかかる」

( E b a n d a .

同上)からである。とはいえ,商業技術的な視点からみれば,「小 経営にたいする大経営の優越は明らかである」

( E ' b a n d a .

同上)。 なぜなら 「一つの売買の費用やそれにかんする簿記は, 取引される価値額の大き さにつれてはなはだしく増大するものではない」

( E b a n d a .

同上)からであ る。したがって,ここに商業の「集中への傾向」

( S .  3 0 5 ‑ 6 .

同上)が生ま れるのである。ところで,商業発展のもうひとつの契機は「消費者に接近す ればするほど,それだけ販売が場所的にも時間的にも分散するという商業の 性格のなかにある」

( S . 3 0 6 .   59 60

ページ)。したがって,消費への接近に 応じて商業経営の大きさに一定の限界が画されてくるが,しかしこの限界は きわめて弾力的であって,その国の発展につれて拡張される傾向にある。,と はいえ, このような傾向によって, 消費への接近の程度に応じて画され,

「営業の種々に異なる大きさを制約する」

( E b e n d a . 6 0

ページ)ところの限界 そのものが解消されてしまうということはできない。そこで,このような限 界のなかで大規模商業資本は二様の対応形態をとる。すなわち,大規模商業 資本は,第一に消費の場所的分散にたいしては,多数の支店を設置すること によって対応し,第二に消費の都市への集中にたいしては大規模百貨店を設 置することによって対応する。「場所的分散の必然性はまったく同一の大規 模商店の支店設置によって克服される。他面,人々の都市への集中は小売商 業をも大規模百貨店に集中することを許す」

(Fbanda

.同上)。だが,第二の対 応形態としての大規模百貨店の設置は「集中の第一段階にすぎず」

( E b a n d a .

同上), さらに商業技術的な要求から大規模百貨店は相互間で結合したり,

金融的な要求から銀行と緊密な関係をとりむすぶにいたるのである。「商業 技術的な必要から,百貨店そのものは結合して大規模な購買組織をつくり,

この組織は百貨店の大集団を結成して多かれ少なかれこの大集団を金融的に 支配するが,他面大規模百貨店の巨大な金融的な必要から,大規模百貨店は

(11)

ヒルファディングの流通経済論の検討(加藤)

1 5 5 ) 7 7  

さらに銀行との緊密な陳係につきすすむのである」

(Ebenda

.同上)。ちなみ に,大規模な商業資本は相互に結合したり銀行と緊密になるだけではなく,

自らの強大な資本力を基礎として資本力の弱い生産者を支配する。「…•••ま だカルテル形成能力のない産業における小製造業者の資本力の強い商人への 依存であるが,この依存は信用供与によってその度が高められるときにはと

くに圧迫的なものとなる」

( S . 3 2 3 ‑ 4 . 8 2

ページ)。

上記のようなヒルファディングの主張について若千の疑義の呈示やコメン トをこころみよう。第一に,いうまでもなく商業の発展は技術的な販売力的 視点からみれば, ヒルファディングの指摘するように生産と消費の状況とり わけ前者によって基本的に規定されている。しかし,この商業の発展は流通 関係的視点からみれば,商品生産社会とりわけ資本主義社会においては,

一定の生産と消費の状況を前提として商業資本の売買競争に媒介された売 買と資本の集積と集中の過程を通して, あるいはこのような推進力ないし は契機に媒介されておこなわれる。 そして, このような商業の発展そのも のは, 逆に前提としての生産と消費の状況にも一定の反作用をおよぽし,

生産と消費の状況そのものを一定程度変化せしめるのである。第二に,最 終的な個人的消費者への販売の性格は, ヒルファディングの述べるように 最終購買者の所得状況と彼らの場所的集中度,換言すれば場所的分布状況に 規定されていることはもちろんであり,とりわけ所得状況によって第一義的 に規定されている。だが,規定要因はこれらだけではないであろう。これら の他の要因には一般的な生活の質すなわち社会的な生活様式やこれらの枠内 においての個々人の個性的な生活様式の差がある。そして,これらの要因が 複合して個人的消費の小規模性や個別性や分散性=地域性が形成され,これ を基礎として最終販売の性格が規定づけられているのである。第三に,ヒル ファディングの主張においては,大規模商業資本が商業そのものの展開のな かから形成され,これが独占的商業資本に転化する基礎となる点の指摘は文 言としてはともかく実質的にはなされているけれども,さらにそれを基礎と して独占的商業資本が形成される必然性やその独占的支配の内容や形態を深

(12)

(5) 

く分析するまでにはいたっていない。第四に, ヒルファディングは商業技術 的な要求から相互に結合するものは百貨店だけであるかのようにあるいは百 貨店に典型的にみられるかのように解釈される表硯をおこなっている。しか し,相互に結合して大規模商業資本となり,これを基礎として独占的商業資 本に発展するものとしては,百貨店のほかに彼がすぐ前の箇所で言及してい るチェーンストアもあげられよう。したがって,このようなヒルファディン グの取り扱い方には不十分性があるといわざるをえない。第五に, ヒルファ ディングは百貨店の金融的要求から百貨店と銀行資本の緊密な関係が生まれ ると指摘するが,実際にはこれだけではない。つまり,商業の同一段階内で の水平的な側面ならびに段階をこえた垂直的な側面における百貨店と他の商 業経営形態との閲係はいうまでもなく,大規模な産業資本との関係も緊密な ものとなるのである。この点は,彼がすぐ後の注で引用しているレーの主張

( S .  3 0 7 ‑ 8 .   61 3

ページ)にも述べられている。

ところで,上述の大規模商業資本から発展した独占的商業資本は独占的産 業資本や独占的銀行資本と合体して,三位一体者としての金融資本を必然的 に構築するにいたるのであるが,この点についてヒルファディングは下記の ように独自の把握を示している。「産業資本は父なる神であり, それが商業 資本と銀行資本を子なる神として放ったのであり,貨幣資本は聖霊である。

それらは三つであるが,しかし金融資本において一つである」

c s . 3 2 9 .   8 9

ージ)。 ヒルファディングの規定する金融資本は「硯実には産業資本に転化 されている銀行資本,したがって貨幣形態にある資本」

( S .3 5 3 .   9 7

ページ)

であるが,このような金融資本のなかにあって,商業資本は一代理人に転化 せしめられる。「金融資本の発展は商業を絶対的にも相対的にもおしもどし,

かつてはあのように傲慢だった商人を金融資本によって独占化された産業の 一代理人に転化する」

c s . 3 3 7 .   9 9

ページ)。

(5) 

鈴木氏ももすでに私と基本的に同様の解釈を示されている。 「商業独占の形成 を客観的に必然的ならしめる基礎過程•••……の論理がまった<欠落している」。

(同上論文,

1 3 9

ページ)。

(13)

ヒルファディングの流通経済論の検討(加藤)

1 5 7 ) 7 9  

このようなヒルファディングの規定においては,三位一体者として全能の 力を発揮する金融資本に構成者として参加する商業資本はたんなる大規模商 業資本ではなくて,それを基礎として売買両面で独占的な支配力をふるう独 占的商業資本であるという認識にまで十分到達していないように思われる。

それはともかく,三者が一体となって金融資本を構築し,これが現実に最高 の支配力を有する資本になっているというヒルファディングの直感的な把握 そのものには正しいものがある。だが,その把握をさらに深め理論化する過

(6) 

程において, レーニンも指摘しているような若干の弱点が生まれるにいたる のは周知のとおりである。ところで, ヒルファディングは金融資本なる概念 を現実に産業資本に転化されている銀行資本と規定しているが,金融資本は 理論的にいえば,レーニンの規定にもあるような独占的産業資本と独占的銀

(7) 

行資本とさらには独占的商業資本の対等なる融合体であって,独占資本の最 高の発展形態である。したがって,金融資本はヒルファディングのように独 占的銀行資本を中軸にした三つの独占資本の融合体であるということはでき ない。もっとも,現実においては三つの独占資本のうちいずれか一つが金融 資本を統轄している場合があるが,これはそれぞれの機能を異にするけれど も力関係では対等なる三つの独占資本の上部に位置する金融資本の統轄組織

(8) 

の機能を代行しているにすぎないのである。この点の認識は重要である。

以上はヒルファディングの商業資本の集中・大規模化の理論の検討をお こなったものであるが, 次に彼の商業資本の排除の理論の検討にたちむか おう;

(6) 

レーニンいわく。ヒルファディングの金融資本の定義は「そのなかにもっとも 重要な契機の一つーーすなわち,生産と資本の集積は.それが独占に導きつつ あり,またすでに導いたほどいちじるしく進展したということ一ーの指摘がな いかぎりで,不完全である」(副島種典訳「帝国主義論」大月書店,6

1

ページ)。

(7) 

レーニンいわく。 「生産の集積,それから成長してくる独占体,銀行と産業と の融合あるいは癒着ー一これが金融資本の発生史であり,金融資本の概念の内 容である」 (同上訳,

6 1

ページ)。

(8)

森下二次也,前掲書,

261 2

ページ。

(14)

(2)  商業資本の排除

ヒルファディングは上述のような商業の集中と同時に,他面「小売商業に おいてもまた,消費手段産業の生産者たちがみずから自己の生産物の販売を 遂行することによって,小売商業の自立性の除去の傾向が進行する」

( S .3 0 7 .   6 0

ページ)と述べて,商業資本の排除という新しい事実を前提としたうえで,

独占的産業資本による商業資本の排除の理由などについて分析のメスをあて ている。しばらく彼の主張をできるかぎり忠実に紹介することにしよう。産 業における集中は商業にたいして二様の作用,すなわち商業の集中と商業の 排除という作用をおよぽす。「産業経営が集中すればするほど, その生産は 大きく,この生産物を販売する商人たちの資本力も大きくなければならない。

他方,集中の展開によって産業経営の数が減少すればするほど,一般的に商 人はますます余計なものとなり,集中された大規模な生産場所が自立した商 人の介在なしに相互に直接関係することが,ますます簡単なこととして現わ れざるをえない。産業における集中が商業を集中させるだけではなく,商業 を余計なものとするのである。個々の取引が大きくなるので取引回数は少な くなり,これらの取引において自立した資本家の介在が排除されていること がますます多くなる。しかしそれとともに,商業にある資本の一部分もまた 余計なものとなり,流通部門から姿を消すであろう」

( S . 3 0 9 . 6 4

ページ)。

このように産業の集中は商業の集中と商業の縮小・縮減あるいは排除・除 去という二様の作用を及ぽすとしたうえで, ヒルファディングは商業の縮小 についてよりたちいった考察をおこなっている。例にしたがって彼の主張の 要点を紹介しよう。垂直的あるいは水乎的な側面における産業の部分的な結 合・統合が商業を減少させる。「部分的な産業の結合はなによりもまず商業 を減少させる。生産の統合は商業操作一般を余計なものにすることによって 直接的に。 同種的な統合は産業における集中一般と同じように作用する」

( S .   3 1 1 .   6 6

ページ)。ヒルファディングは上述のように垂直的統合によって ひきおこされる商品流通と売買操作の部分的な消滅ならびに水平的統合によ

(15)

ヒルファディングの流通経済論の検討(加藤)

(159)8~

ってひきおこされる売買操作の部分的な節減を基礎とする商業資本の縮小を 説いた後で, これらとは性質のことなる商業資本の縮小すなわち商業資本 の存立の基礎的条件を前提としたうえでの独占的産業資本による商業資本の 排除について次のように述べている。「独占的な諸結合は商業の自立性を完 全に排除する傾向をもっている」

(Ebenda

.同上)。そして,商業資本の自立 性が排除される理由は,独占的産業資本の設定する独占価格を市場で維持す るためには, 商業資本の自立的な諸操作が障害になる点にある。「実際の市 場統制は商品が一つの中央組織から販売される場合にはじめて可能となる。

しかし,この中央組織はその産業部門における生産を規制できるためには,

その時々の販売量を判断できなければならない。さらに,消費量は常に価格 の尚さに依存する。したがって,価格設定は最終段階まで独占的結合によっ てなされねばならず,これから独立した諸要因に任されてはならない。しか し,この独立の要因はなによりもまず商人である。価格設定もこれに属する であろう特殊な商業諸操作が商人に任されるならば,市況の利用というカル テルの主要利点はその大部分を商人の手にひきわたすことになろう。………

したがって,独占的結合は商人の自立性を排除する傾向を追求するであろう。

その場合にのみ,カルテルは価格設定への影響力を十分に利用することがで きるであろう」

( S .3 1 1 ‑ 2 .   66 7

ページ)。 この独占的協定としてのカルテ )レ結成によって商業資本が排除され,商業資本に代わって独占的産業資本が みずから直接販売したり,既存の商業資本を系列化したりするにいたる。「通 カルテルはより大きな力を発揮する。その場合に,カルテルは商業にそ の法則を強制するであろう。しかし,その法則の内容は商業から自立性を奪 ぃ,価格設定を取り上げるということであろう。したがって,カルテル結成 は資本の投下部門としての商業を排除するであろう。カルテル結成は商業操 作を制限し,その一部分を除去し,残りの部分をカルテル自身の賃金労働者 すなわちその販売代理人によって遂行する。その場合,既存の商人の一部分 がこのような販売代理人にされることはよくありうることである。そうなれ カルテルは彼らに購入価格と販売価格を厳密に指示し,その差額がこれ

(16)

24 2

らの『商人』の手数料となる。しかし,この手数料の高さはもはや平均利潤 の高さによって規定されているのではなく,この手数料はカルテルによって 確定される一つの賃金である」

c s . 3 1 2 .   67 8

ページ)。このように商人の自 立性をうばい,「カルテルが形のうえで商業を保存するのは,カルテル自身の 利益のためである」

c s . 3 1 9 .   76

ページ)。なぜ商業資本を系列化する場合が あるのかといえば,独占的産業資本の直接販売には自己の販売装置やその管 理費用などの純粋流通費用が大量に必要となるが,このために直接販売の利 益が失なわれることになりかねないからである。そして,この系列化された 商人の自立性は擬制的なものであるが,この擬制的な自立性のゆえに,独占 的産業資本は純粋流通費用を節減することが可能となる。それだけではない。

このような商人にあっては,必要な資本は異常に縮減されている。けだし,

カルテル価格の安定性と小売市場の地域的独占性のゆえに,市場危険が軽減 されているからである。「実際には, それはもはや商人ではなく,シンジケ ートの代理人であり,その自立性は……擬制的である。……固定給を支払わ れる代理人であるかあるいは『自立的』商人であるかは経済的には遮いはな い。この商人も硯実には手数料を定められており,この手数料の変動は販売 範囲の地域的区画とシンジケートによって統制されている価格差の確定のた めにきわめて小さいので,結局商人の所得は代理人のそれとほとんど同じだ からである。しかし,報酬の支払方式の遮い…••によって形成される自立性の 擬制は,シンジケートにとって監督費用あるいは管理支出の節約をもたらす。

…•••なお,このような商業においては必要な資本は異常に節減されている。

したがって,商人の自己資本はわずかでことたりる。なぜならば,カルテル 価格の安定と地域的独占性があらゆる危険を軽減するからである。したがっ て,この取引は主として信用で決済されうる。というのは,商人は支払いの ための貨幣を大部分は信用によって調達しうるからである。そして,・資本の この部分には利子が支払われるだけである。シンジケートが関心をもつのは,

商人の数を減少させ,それによってシンジケートの販売を簡単化することと 手数料を事実上は熟練度を高く評価される商人的活動にたいする労働賃金に

(17)

ヒルファディングの流通経済論の検討(加藤)

1 6 1 ) 8 3  

接近させることだけである。この場合,この自立性の擬制がどこまで維持さ れるかということは, 経済的にはどうでもよいことである」

( S .3 1 9 ‑ 2 0 .   7 7  

8

ページ)。それだけではない。商業の独占的産業資本への従属は国外での 競争の阻止をも容易にする。「商業のシンジケートヘの従属は, 国内での製 造以上に商業の媒介に規定されるところの大きい国外での競争の阻止をも容 易にする」

c s . 3 2 3 .   8 2

ページ)。

上記のように主張した後で, ヒルファディングは次のように結論づけてい る。「独占的結合は自立的商業の排除をひきおこす。 それは商業操作の一部 分をまった<余計なものとし,残余の部分の空費を縮減する」

( S . 3 1 4 .7 0

ージ)。 そして, この空費の縮減と同方向に作用するものとして,独占形成 そのものによってもたらされる競争的流通費用の縮減をヒルファディング特 有の組織された資本主義観に立脚しながら説し、ている。「これと同方向に作 用するものには,特定企業の生産物のために他の諸企業の販売を犠牲にして 消費者を獲得するために支出される流通費用の縮減もある。この目的に役立 つものは,なかんずく出張店員のための支出,すなわち個々の企業への生産 の分散によってその出張店員数が条件づけられている限りでの支出と広告の ための支出である。 これらの支出は流通空費をなす。個々の企業家にとっ ては,これらの支出によって,それなくして可能な程度以上に彼の取引を増 加させることに成功する限りでは,これらの支出は利潤をもたらす。しかし,

この利潤は彼が自己の取引を培大したために犠牲となった他の企業家たちの 損失である。生産部門にとっては,これらの支出はそうでなければ生産部門 におちるはずの利潤からの控除をなす。カルテル形成はこれらの費用をまっ た<極端に節減し,広告をたんなる公示に制限し,そしていっそう節減され 簡単化され加速化された商業操作の運動に必要な数に出張店員を制限する」

( E b e n d a .

同上)。以上をまとめて, ヒルファディングは下記のように述べて いる。全過程の結果は商業資本を縮減し,商業利潤を減少させ,したがって 流通空費をも縮減する。すなわち, 「全過程の結果は商業資本の縮減であ しかし, 資本が減らされれば, それに割り当てられる利潤も減らされ

(18)

る。そして,この利潤はわれわれの知っているように産業利潤の一控除であ る。このような商業資本の縮減は空費の縮減である。……流通空費は利潤の 一控除をなしたが,この費用の縮減は,産業利潤すなわち企業者利得が商業 費用の縮減によって遊離した額だけ増加するということを意味する」

( S . 3 1 5 ‑ 8 .  ・  7 4

ページ)。それだけではない。独占形成によってひきおこされる商 業操作の縮減は商業資本の一定の遊離を生みだすが,この遊離した資本は新 たな投下部門を求め,場合によっては資本輸出への衝動を強めることにもな る。「商業操作の縮減はまたこれまで商業部門で活動していた資本の遊離を 意味するが,この資本は今や新たな価値培殖を追求することになる。事情に よっては,これが資本輸出にたいする衝動を強めることにもなろう」

c s . 3 1 8 .   76

ページ)。

以上において紹介したヒルファディングの商業資本の排除の理論につい て,私なりに若干のコメントないしは疑義を呈示することにしよう。

第ーに, ヒルファディングが商業資本の縮減・減少・縮小あるいは排除・

除去という場合,そのなかには独占形成そのものによって引き起こされる商 品流通や純粋流通費用の消滅・死減ないしは縮減を基礎とするいわば自生的 な商業資本の消滅・死滅と商品流通や純粋流通費用の存在する領域で独占的 産業資本によって商業資本の活動が一般的に制約されつつも,独占的産業資 本の大規模生産を媒介するのに必要な条件をそなえた大規模商業資本の存立 がなお可能であるにもかかわらず,独占的産業資本の独占価格維持のために おこなういわば他生的な商業資本の排除が包含されている。比重からみれ

(9) 

ば,前者の商業資本の消滅がより大きく問題とされている。ヒルファディン

(9) 

この点に関連して鈴木氏は, ヒルファディングにあっては「商業資本のいわば

自生的収縮が問題とされているのであり, したがって••……•本来的意味におけ る商業排除の論理が展開されているのではない」(前掲論文,

1 3 8

ページ)と述 ぺられている。もちろん, ヒルファディングにあっては商業資本の自生的消滅 についての分析により大きな比重がかけられている。このことは確かなことで あるけれども,このことからヒルファディングにあっては商業資本の他生的な 排除についての分析がまった<欠落しているとまでいいきるとすれば,それは いいすぎというにとどまらず, ヒルファディング解釈としては誤りに転化する おそれがあるように思われる。

(19)

ヒルファディングの流通経済論の検討(加藤)

1 6 3 ) 8 5  

グも前者の商業資本の消滅と後者の商業資本の排除は内容的には相遮するも のとして区別して取り扱っているけれども,概念的あるいは形式的には様々 な表現を用いており,統一されていない。私の場合,後者に限って商業資本 の排除という概念を用い,前者はそれと区別するために商業資本の消滅ない

(10) 

し・は死減という概念で表現している。内容的に性格の異なるものであれば,

私のように別々の概念を用いるほうが適切であろうが,より重要なことは内 容的に区別して理解しているかどうかである。この点では, ヒルファディン グにも問題はない。しかし,両者が区別されているといっても, ヒルファデ ィングにおいてはすでに指摘しておいたように前者に比重がかけられてい る。これは彼特有の組織された資本主義観の反映であろうが,このような一 面的な見方は三番目に批判するような誤りのなか端的に硯われている。

第二に,垂直的かつ水平的な関係において形成される独占的統合はヒルフ ァディングの指摘するように商業操作すなわち空費としての純粋流通費用を 不要にしたり,あるいはもし必要な場合でもそれを縮減する方向に作用する ことは確かなことである。だが,他方において見落してはならないことは,

彼自身も内容的に理解している独占的産業資本による他生的な商業資本の排 除とこの結果としてもたらされる流通時間と純粋流通費用すなわち空費の増

( 1 1 )  

大である。ヒルファディングの主張にもあるように独占の存在のもとでは独 占的生産者が相互に直接無媒介に取引することがますます簡単になったり,

また個々の取引量が大きくなるので,取引回数が少なくなったりして商業資 本の活動の余地がせばめられるようになるにしても, そ の 制 限 さ れ た な か で,ヒルファディングも指摘しているような独占的生産者の大規模生産にふ

( 1 0 )  

加藤義忠,前掲論文,

33 4

ページ。

( 1 1 )  

この点については,森下,風呂の両氏によってもすでに批判されている。 下二次也,前掲書,

239 45

ページ, 風呂勉「独占段階の資本主義商業とその 理論(‑)」森下二次也絹「商業経済論体系」文人書房

196 7

ページおよび

211 3

ページ。)両氏のヒルファディング批判は基本的には正しいものである が,しかし必ずしも十分なものではないように思われる。この点について,私 はすでに前掘論文

(36 8

ページ)において検討しているので,参照願いたい。

(20)

さわしい能力を有する大規模商業資本が存立し,そのことによって社会的に 流通時間と純粋流通費用を節減する可能性がなお存在するにもかかわらず,

独占的産業資本の独占価格の維持と主要にはそれにもとづく独占利潤の追求 のために独占資本の論理によって外部から強制的に商業資本の存立が否定さ れるのであるから,その必然的帰結は社会的な流通時間と空費としての純 粋流通費用の培大である。ヒルファディングにおいては,このような空費の 増大については言及していないが,これは商品流通や純粋流通費用の消減な いしは縮減を基礎とする商業資本の消滅をより大きく問題とするヒルファデ ィングの論理の反映かも知れないが,これはまた独占資本の一側面を過大に 強調する彼特有の独占資本美化論ともいえる組織された資本主義観に強く影 響されていることも確かであろう。

第三に, ヒ)レファディングは彼特有の組織された資本主義観に立脚しなが ら,独占資本の形成そのものによって競争が制限され,資本主義の組織化が すすむがゆえに,競争的な性格をもつ純粋流通費用が異常に縮減されると主

( 1 2 )  

張するが,はたしてそうであろうか。いうまでもなく,独占資本の出硯によ って競争一般が止揚されるものではなくて,競争の形態が変わっただけであ る。しかも,独占資本の出現によって資本主義の組織化・計画化が独占資本を 中軸にして国家機構をも動員しながら一定程度進むことは確かであるが,そ れにもかかわらず資本主義の無政府性が依然として中心的で主要な側面であ る。このような独占資本主義下において,独占資本は相互に協調しながらも,

他面では独占資本は相互に激しい競争を展開している。この独占資本間競争 は,一般的には主として価格以外の側面において展開されているが,価格面 での競争が制限されているがゆえに,この競争はいっそう激しい様相を呈し

( 1 2 )  

森下氏もすでに下記のように批判されている。このようなヒルファディングの 主張は「大きな間遮いである。独占体内部の諸資本相互間でも激しい競争がお こなわれるし,特に他の独占体,非独占資本との競争がいよいよ激しさを加え ることを考慮すれば,その理論的な間遮いはすぐわかるし,何よりも現実にお ける誇大広告の盛行,セールスマンによる売込戦の激化が,その誤りを雄弁に 物語っている」 (前掲書,

244

ページ)。

(21)

ヒルファディングの流通経論済の検討(加藤)

1 6 5 ) 8 7  

ている。したがって,独占資本の市場獲得支配に要するマーケティング費用 としての純粋流通費用は,ヒルファディングの理解とは逆に,商品流通に規 定されて最低必要となる量よりもはるかに膨大なものとなるのである。そし て,これは独占資本主義の不朽性の一表現であるが,独占資本主義を組織さ れた資本主義として一面的に強論して独占資本を擁膜ないし美化する側面を もあわせもつヒルファディングの理論の視界にははいりこまない問題なので あろう。

第四に,全過程の結果は商業資本の縮減であり,したがって商業利潤と空 費としての純粋流通費用は節減され, その結果産業利潤がそれだけ増加す

( 1 3 )  

るとヒルファディングは主張する。もちろん,商業資本の自生的縮減すなわ ち商業資本の消減においては商業利潤と純粋流通費用が節減され,それだけ 利潤として分配される剰余価値が増大する。だが,商業資本の他生的縮減す なわち商業資本の排除においては,第二のコメントにおいて述ぺたように流 通時間と純粋流通費用は節減されるどころかむしろ増大化する。それだけで はない。この場合においては,商業資本に代わって形式的にはともかく実質 的には独占的産業資本が価値の形式的な姿態変換機能すなわち価値実現機能 を遂行するようになるのである。すなわち,価値実現そのものの遂行の形態 が変わり,それが独占的産業資本のところに復帰したということができる。

だとすれば,価値実硯機能の遂行を根拠として分与される流通利潤ー一これ が商業資本においては商業利潤という形態をとる一は当然のこととして,

この機能を遂行するようになった独占的産業資本の手中に入ることになろ

第五に, ヒルファディングはここでも彼特有の組織された資本主義観に立

( 1 3 )  

この点に関連して,鈴木氏は次のように述べられている。ヒルファディングは

「商業排除傾向が独占利潤の追求をめざす独占資本の論理から必然化するとい う正しい認識に依拠しながら,独占資本と商業資本との関係を平板な利害対立 の関係であるとみなすことによって,独占資本の獲得する利潤の増大を商業排 除にもとづく流通費用の節約という視点からとらえるという誤謬におちいって

しまった」(「商業と市場の基礎理論」ミネルヴァ書房,

1 0 7

ページ)。

(22)

脚しながら、系列化された商人においては、カルテル価格すなわち独占価格の 安定性と小売市場の地域的独占性のゆえに市場危険が軽減されているので,

必要な資本は異常に縮減されていると主張する。しかし,私は彼の主張に全 面的に同意することはできない。その理由はこうである。カルテル価格すな わち独占価格の相対的な安定性と小売市場の地域的独占性の存在を前提した としても,完全に組織された資本主義社会ではなく基本的には無政府性が支 配し,独占資本間競争がなされている状況下においては,市場危険は軽減さ れる側面を含みながらも,基本的には生産と消費の矛盾のいっそうの激化を 反映して軽減されるどころか, 場合によっては拡大化の傾向すら示してい る。しかも,このように拡大化の傾向をも有する市場危険は主要には系列化 された商人に転嫁され,彼らによって負担されている。逆にいえば,独占的

( 1 4 )  

産業資本は彼らを市場危険の緩衝帯としても利用しているのである。したが って,ヒルファディングのように系列化された商人の必要な資本は異常に縮 減されているということはできない。

第六に,ここでもまたヒルファディングは自己の組織された資本主義観に 立脚しながら,シンジケートが商業を支配しているので,国外での競争の阻 止が筒単になったという趣旨の主張をおこなっている。だが,国内的にはい うにおよばず国際的領域においても独占資本相互間に完全な協力関係が形成 され,世界的に組織された資本主義社会にでもならない限り,ヒルファディ ングの主張は現実化されえない夢想に終ろう。このような彼の非現実的で空 想的な主張についての批判のためには,これ以上の言及を要しないであろ

( 1 4 )  

風呂勉

r

マーケティング・チャネル行動論」千倉書房,

142 3

ページ。

参照

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