「有島事件」と教育メディア 有島武郎像の生成と転回 出木 良輔
はじめに 本稿は、教科書や教師用教授参考書、教育雑誌といった教育メディアが描く作家像およびそれに附随する諸問題について考えるものである。具体的には、教育関係者が残した有島武郎関連の言説を追跡し、教育の言説空間において有島武郎という像 イメージがどのように生成・転回していったのか、その軌跡を捉えることを試みる。
山田俊治は、大正五~六年の有島武郎が『新潮』を始めとする文芸メディアにおいていかに語られていたのかを丹念に調査し、有島という作家のイメージが「印象の中でひとり歩きを始める」様相を捉えている
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(。ここで山田が例示する「社会的、経済的に恵まれた、学識ある紳士」といったイメージは、教育の言説空間において形作られる有島武郎像とどの程度重ね合わせることが可能なのだろうか。
周知のように、大正一〇年頃には多くの中学校・高等女学校向け教科書・および副読本が有島の作品を採録していた。【表】にその採録状況をまとめているが
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(、これらの教科書類や教授参考書、あるいは教育雑誌といった多様な教育メディ アにおいて有島がどのように語られ、有島武郎という記号にどのような意味内容が与えられてきたのかを検討することで、有島武郎という一人の作家が纏ったイメージの振幅を捉えることが本稿の目的である。 また有島武郎という作家像の歴史性について考える上では、波多野秋子との心中事件(「有島事件」)のインパクトも無視出来ない。この「事件」がとりわけ教育界に大きな衝撃を与えるものであったことにいち早く着目した高山亮二は、国語教科書というメディアが「人道主義思想を説く、国運伸長の一翼としての大正デモクラシーを代表する一作家」という有島イメージを形成していたと言い表す
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(。そしてそうしたイメージこそが「事件」の衝撃を際立たせ、彼の文章を教科書に採録し続けることの是非を問う議論(「教科書問題」)を招来したのだという。
ここで示唆されるように、有島武郎という作家のイメージが形成されてゆく上で、大正期後半の学校教育や教育メディア、そして教員たちが重要な役割を担っていたことは確かだ。しかしながら「有島事件」をめぐる教育関係者の言説はこれ
【表】有島武郎作品採録教科書及び採録作品一覧
種 別 編集者 書 名 出版社 発行年月 巻 作品名 表 題 備 考
中学校教科書
芳賀矢一 帝国読本 冨山房 大正一〇年一〇月 六 旅する心九 潮霧 羅馬の旧跡潮霧 三訂四版 藤村作 国文新読本 至文堂 大正一〇年一〇月 五 小さき者へ 小さき者よ
島津久基 六 凱旋 凱旋
吉田弥平 中学国文教科書 光風館 大正一〇年一〇月 五 潮霧 潮霧 修正一三版 佐々政一 新撰国語読本 明治書院 大正一〇年一〇月 五 生れ出づる悩み 不幸なる青
年画家 校訂版 開成館編輯所 新制中等国語読本 開成館 大正一〇年一一月 四 生れ出づる悩み 鰊の漁期
三矢重松 中等新国文 文学社 大正一一年一月 七 生れ出づる悩み 瞬間 訂正再版
保科孝一 大正国語読本 育英書院 大正一一年九月
二 春 雪消の頃
第二修正版 三 信濃日記 軽井沢の花
四 生れ出づる悩み 苦心 七 惜しみなく愛は奪ふ 四つの事 八 雑信一束 命尾先生 九 潮霧 潮霧 一〇 旅する心 ハーキュリ
スの巨像
広島高等師範 学校国語漢文
教授研究会 中等国文 六盟館 大正一二年八月
二 春 雪消の頃
検定不合格説
(注 2 武藤論)あり 三 信濃日記 軽井沢の花
四 生れ出づる悩み 苦心 七 惜しみなく愛は奪ふ 四つの事 八 雑信一束 命尾先生 九 潮霧 潮霧
中学校副読本
保科孝一 大正副読本 育英書院 大正一一年五月 三 泉 泉 吉田弥平 現代文新鈔 光風館 大正一一年一〇月 四 動かぬ時計 動かぬ時計
五 小さき者へ 小さき者へ
星野書店編輯部 現代文学新選 星野書店 大正一一年一二月
雪 生れ出づる悩み 生れ出づる 悩み 月 小さき者へ 小さき者へ 花 春 雪国の春 岩城準太郎 新日本文学読本 博多成象堂 昭和二年二月
二 潮霧 潮霧 三 小さき者へ 小さき者へ 四 動かぬ時計 動かぬ時計
高等女学校 教科書
保科孝一 大正女子国文読本 育英書院 大正一二年一月
二 春 雪消の頃 三 迷路 自然の調和 修正再版 五 小さき者へ 小さき者へ
雑信一束 薬師堂 幸田成行 大正女子読本 啓成社 大正一二年一月 二 信濃日記 軽井沢の花
訂正一三版 六 小さき者へ 小さきものよ
岩城準太郎 女子国語読本 目黒書店 大正一四年一〇月 五 大道の歌(翻訳) 大道の歌
高等女学校 副読本
国語刷新会 現代文選趣味読本 金港堂 大正一一年六月 三 小さき者へ 小さき者へ 明治書院編輯部 女子現代文学読本 明治書院 大正一一年一〇月 中 小さき者へ 小さき者へ
下 惜しみなく愛は奪ふ 言葉
吉澤義則 女子現代文学新選 星野書店 大正一一年一二月
雪 生れ出づる悩み 生れ出づる 悩み 月 小さき者へ 小さき者へ
までの研究で殆ど顧みられておらず、大正期の教員たちによる有島受容の実態も未だ詳らかにされていない。埋もれてきた教育者の言説を視座に「有島事件」の社会的インパクトを捉え直し、有島武郎像の振幅を今一度測り直す必要があろう。
本稿前半部では、大正期の中等国語教科書に採録された有島作品が教育現場においてどのように読まれていたのかを考える。有島作品に限らず、戦前の国語教科書に掲載された作品が実際にどのように読まれ教えられていたかを示す資料は量的に乏しく、教室における読みの実態は不詳であるケースが多い。また、国語教科書の文学教材は「文字の読み書きと、難語句を覚えるための材料にすぎなかった」(井上敏夫)という証言も存在するのだが
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(、現場の教員たちや高等師範の教授たちは、そのように単純な学習に留まらない教育活動を有島の作品に期待し、実践を行ってもいたらしい。そうした事実を示す資料の分析を通して、有島作品が大正末期の教育現場においてどのように読まれ、またどのような作家像を生成していたのか考察してゆく。
また、先述した「有島事件」に対し、複数の教育雑誌が何らかの反応を見せている。そこにおいて特に白熱したのが、先述した「教科書問題」をめぐる教員たちの議論であった。大正一二年八月以降の改訂によって有島作品はことごとく教科書から削除されてゆくわけだが、当然ながらこのことは「教科書問題」の当事者とも言える教員たちが一様に教科 書からの削除を求めていたなどということを意味するものではない。そこで本稿後半部では、「有島事件」や「教科書問題」に関する教育雑誌掲載記事から教育関係者が教科書掲載の是非をどのように議論していたのかを追跡し、教育の言説空間における有島武郎像と「事件」の転回の軌跡を捉えてみたい。 「
関東大震災の報道にメディアの関心が移り、十分煮つめられないまま終息した」と説明されるように
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(、一般的に「有島事件」はスキャンダラスかつ一時的な消費に終わった現象として考えられてきた。しかし教育メディアの記述や教育関係者の発言といった、これまで殆ど顧みられてこなかった言説群を取り上げる本稿での作業は、必ずしも「有島事件」の一時的な消費者に留まらなかった読者(層)として教育関係者を捉えることにも繋がるはずである。
一、教科書のなかの有島武郎
時に「武郎には本格的な児童論・教育論はない」とも言われるが
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(、児童の「本性」や「個性」の尊重と賛美を説く教育論を有島が複数残していることは事実だ。さらにそのうちのいくつかが教育雑誌に掲載され、初等・中等教員や師範学生を中心とする教育関係者を読者として獲得していたことも重要だろう。
その中でも例えば「個性の自由」を賛美し
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(、「師はえらく
弟子はえらくないという僻見
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(」を解消する必要性を説く有島の主張は、大正期の自由主義教育思想を象徴するものとして教育史研究においても評価されてきた
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(。有島は他にも、教育が政治や道徳の「走狗」となることへの危機感を語り、「国家の規範」や既成道徳から「独立した一つの存在として立つ」ことを教育に求めるなど
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(、革新的な教育思想を教育雑誌上で語ってもいた。同時代の教育のパラダイムと合致しつつも革新的な教育論を説く有島は、教育の言説空間の中で強い存在感を示していたように映る。
では同じ頃に複数の中等国語教科書に掲載されていた彼の作品はどのように読まれ、有島武郎という記号にいかなる意味内容を与え得たのだろうか。先の【表】を見る限り、有島の作品のうち特に多くの教科書に掲載されたのは「小さき者へ」と「生れ出づる悩み」であることが分かる。注目すべきはこの二作を始めとする複数の作品が、有島の身辺情報とも一致する物語内容を「私」という一人称で語っていることだ。「小さき者へ」が「人道の教師」(西宮藤朝
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()という有島イメージを生じさせていた事実からも明らかなように、これらの作品における一人称は有島武郎の作家像形成に一役買っていた。
」従大『で、者学語国たし事も女に策政語国の省部文は正孝一一妻の者作に「」人病の人た「こま」、たゐに道海北時の 「北国」に「作者の家族はっ科を国文読本』(育英書院)例保に取りながら」てみよう。編纂者の)に並置された語釈は、 「で科ほど寒かつた。私は一人の病人と頑是ないお前たちとを労は子女正大る『あつ一の書教るす録採を」へ者きさ小 のは、さ寒私国北「文(本ちた間四にい人は合なはでみ暖の た。女正大『しいて国導誘子へ文小者読さき収「」所』本の 有島を直結するような読みへと読者をである「私」と作者・ 物手り語の語の大さき者へこだが、『」正子国文読本』は女 深」さや教訓性を内包する教材として期待されてもいた「小 このように、難語句や形式面の学習に終始しない「内容の のはない」と、同作の教育的価値を強調する。 る要件がある。生徒もこれを読んでふかく感にうたれないも その内容について見ると、これからつかみ得る種々の重大な においても、別に説明を要するやうな難解のものはないが、 するのが「小さき者へ」だ。保科は「語句においても、行文 意識した教材選択が必要だと説く。その上で保科が高く評価 を一般に歓迎して居る」という認識を示し、そうした状況を ひ〳〵変つて来て、形式の美しいものよりも内容の深いもの 少てはおる文章を寄せいる。保科まず、「近来青年の趣味が に「語国がわ国』育教語科教す書改訂の根拠」とて、し題『 大正一二年二月、保科はこれらの教科書の修正版発行に際 った。 英書院から発行された教育雑誌『国語教育』の編集にも携わ 子国文読本』や『大正国語読本』の編纂、さらには同じく育
という解説を付し、「私」=「作者」という前提に基づく意味内容を与える(【図】)。この教科書において、語り手「私」を「作者」有島武郎と同一視させる読み方が半ば絶対化されていたことは明らかだ。
では「生れ出づる悩み」はどうか。教員向けの教授参考書である『新制中等国語読本教授参考書 巻四』(開成館、大正一二年八月)を見てみよう。この参考書は、「作者の筆には苦心の跡が見えてゐる。それは、一は自然描写の苦心で、一は人事の記述を醇化しようとする努力である」という観点から同作の教材観を示す。作品から「作者」の「苦心」や「努力」を見出すような読み、あるいは作品の背後に潜む「作者」の姿を思い描くような読みへと読者(教員と生徒) を導こうとする方向性がすでに透けて見える記述だが、同書末尾の「備考」の項は「作者」有島像をより具体的に描き出す。 ここには有島の学歴や札幌農科大学での教職歴に加え、「大正十一年の夏北海道の田地百数町歩全部を小作人に頒ち与へ、その他の財産を整理して母堂に捧げ、以後文筆で衣食することを断行した」ことが記される。複数の教科書が「生れ出づる悩み」に「苦心」という表題を与えていることからも伺えるように、教育メディアにおいては総体として「苦心」し「悩み」ながらも民衆に寄り添う芸術家・教育思想家としてのイメージが強調されている。
なお有島の作品を用いた教育実践記録としては、山本伊之助(福岡県立宗像中学校教諭)によるものが残っている。「忘れ得ぬ一日」・「忘れ得ぬ人々」の題を設けた作文を生徒に課した山本は、「忘れ得ぬ一日」の模範文として有島の文を用いたという
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(。この時期の中等国語科教員は様々な形で有島の作品を用い、「文字の読み書き」や「難語句」の学習に留まらない実践を行っていたようだ。
大正一〇年代の有島は、児童中心主義的な教育論に加え以上のような作品=教材を教育の場に送り出していたわけだが、その結果、教育の言説空間には過剰なまでに理想化され聖性を帯びた有島武郎像が描き出されていたと言って良い。以下ではそのような有島像が「有島事件」によってどのように変
【図】『大正女子国文読本』巻五、四一頁
容していったのか、当時の教育者たちの反応を教育雑誌から確認し、教育の言説空間における有島武郎像の転回の軌跡を捉えてゆく。
二、「有島武郎氏の事件を教育家は如何に批判するか」
今更繰り返すまでもないが、大正一二年六月九日の有島の情死は約一ヶ月後の七月八日に報じられた。多くの雑誌が有島追悼の特集号を組んでいるが、そこに寄せられた意見は有島に対する「追悼」と「批判」が入り混じった様相を呈している
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文芸誌や総合誌のみならず複数の教育雑誌も「事件」関連の論説掲載や読者アンケートを実施しており、中には小特集とも言えるような誌面編成を見せるものも存在する
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(。そのうち最も早く「有島事件」に言及したのは、管見によれば『教育時論』(開発社)だ。同誌主筆の原田実は、有島に「純潔な生の苦闘者として同情乃至敬意を寄せ」たいと述べつつも「褒めさへすれば礼にかなふとでも思つてゐるかのやうな世の盲ら千人」への「侮蔑」をも語るなど、一定しない評価を示している
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るてその結果を公開してい に「有島武郎氏の事件を教育家は如何に批判するか」と題し 論育評論』(内外教育評)社外は、大正一二年八月号教内『 「島事件」に関して教員読有者らのアンケートを募ったか
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(。ここには五〇以上の意見が掲載 されているが、記事の末尾に付された編集者の記述によれば、締切や紙幅の関係で未掲載となった原稿が二〇以上存在しているとのことだ。「教育家」たちの熱の入りようを伝えるこうした記述からも、有島の死が教育界に与えた衝撃の大きさを垣間見ることが出来るだろう。 いくつかの意見に目を向けてみよう。この記事には有島と親密な関係を有していた白樺派教員の反応なども含め、全国各地から様々な感想文が寄せられており、他のメディアと同様に惜別と落胆、同情と批判が入り交じる教育者たちの感想を見ることが出来る。のみならず、先に見たように既成道徳の打破を教育雑誌上でも繰り返し説いていた有島が、例えば「詩とか文芸といふ方面から見れば美と云へませうが道徳的方面から見れば多少の批難は免れぬ」(山梨 果人生)、「厳粛なる道徳的見地から眺めた時、有島氏の死に対しては、厳粛なる批判が下されねばならぬ」(東京 野村生)などと「道徳」的観点から裁断されてゆくという皮肉な様相も見出される。 AとBという登場人物を設定し、二人の対話形式で「事件」の感想を綴るユニークなものも存在する(山形 小関貞次)。「人倫上赦されない出来事」として「事件」を評するAは、「若し之が我々小学教員」だったとしたら「社会は挙つて人道の破壊者、極悪者、教育界の面穢しと無遠慮な痛烈残忍の鞭を死屍に加へることでせう」と、自分たち教員と有
島を重ね合わせながら批判し、それにBも同意を示す。「人道の教師」(西宮藤朝)という有島評価を筆者が念頭に置いていたかは定かでないが、「人道の教師」から「人道の破壊者」へと転落してゆく有島武郎像の軌跡をここに見ることは容易い。
同時に注意しておきたいのは、「有島事件」をめぐる教育者たちの議論そのものを対象化するような意見もこの記事からいくつか見出されることだ。例えばある大学生は、現今の議論のありようを以下のように言い表す
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(。「平素氏の作物を盲目的に崇拝してゐる人々は氏の死をも無批判的に肯定しやうとするでせうし、氏の思想や作品に接し味ふ事の少いと思はれる所謂教育者達は、世間にざらにある情死事件と同様に取扱はうとする傾があります」。彼が批判するのは、有島を単純に切り捨てる「教育者達」の振る舞いだ。
他に「徒らにコンベンシヨナルな道徳観の上から是非の判断を下すの早計を避けて、氏の死を厳粛に考察したい」(愛知 樅山倭文世)という意見もあるように、教育関係者による議論や有島バッシングそれ自体を反省的に捉える視点が情死発覚から一ヶ月足らずで提出され始めていたこととなるだろう。
そして冒頭でも述べたように、「有島事件」は有島作品の教科書掲載の是非を問う「教科書問題」へと発展してゆく。以下ではその様相についても確認しておく。 三、国語科教員と「教科書問題」 最も早く「教科書問題」を提起したのは大正一二年七月一八日付の『東京日日新聞』掲載記事、「有島氏の作品を教科書から除け 悪影響を怖れて 教育界の問題」だ。高山亮二が言うように、この記事を含む当時の資料からは文部省の寛容な態度を見て取ることができるのだが、「有島事件」を糾弾する世論が高まっていった結果、大正一三年度以降の教科書改訂に際して有島作品は「文部省の内意をうけ意図的に自然消滅させられた」のだという
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(。高山は有島作品が削除に至った経緯をこのように整理しつつ、F・W・ブラウン「有島氏の道徳的黙示 氏の文章は教科書中より削除せらるべきか」(『文化生活』大正一二年九月)を唯一の有島作品擁護説として評価する。
確認したい。 育関係者が「教科書問題」とどのように向き合っていたのか が教科書から削除された後の教育界の動きに焦点を当て、教 ある。ゆえに以下では大正一二年八月以降すなわち有島作品 詳らかにされてはおらず、右のような結論にも再考の余地が 問題をどのように語っていたのかということについては未だ 書問題」の当事者でもあった初等・中等教育関係者が一連の え今なお唯一とも言だ。る論考論しかし、「教科は山高て、 「島事件」が教育界に及ぼ有し影響を考究したものとした
菊小 校時奈良女子高等師範学で」教鞭を執っていた池田当件「事 「言科書問題」に関する発教をした教育者の例として、残
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(に注目してみたい。池田は著書『私の教育記録』(東洋図書、大正一四年七月)において、有島の教材を単に削除し忘却するのではなく、彼らが起こした問題を「そのまゝ、生きた教材として、たしかな批判と、有力な指導」を行うこと、それこそが教師の責務だと述べる。有島の作品と「事件」を安易に忘却せず批判的に乗り越えるべきだと説く池田だが、「教科書問題」の渦中にあった教育関係者とりわけ中等国語科教員たちは実際に従来の教育活動を再考し、新たな文学教育のパラダイムを形成しようと試みてもいた。
その様相を最も顕著に伝えてくれるのが、育英書院発行の雑誌『国語教育』(大正五年一月~昭和一六年三月)だ。同誌は主に中等以上の学校で国語教育に携わる教員を対象とした教育雑誌で、先述の通り保科孝一が編集を務めた。
同誌に掲載された古田拡(愛媛県立西条中学校教諭)「有島氏事件と教科書問題」(大正一二年一一月、執筆は八月二〇日)は、一万字を超える長編の論文だ。有島教材を教科書から除くことにのみ熱を上げる人々を強く批判し、この「削除問題」を「事実あり得べからざることだ」と結論づける古田はさらに、「教科書問題」を文部当局と現場の教員の権力関係の問題へと敷衍して捉える視点や、その改善の必要性を提示する。 また、現代文学の動向や教科書採録作品、試験問題といった様々な観点から中等国語科教育における現代文教授について論じる中野伝一(和歌山県箕島商業学校助教諭)も「教科書問題」を批判的に振り返りながら、教育者と現代作家の連帯の可能性を模索している
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国語教育や公教育全般の改善の必要性を論じるこれらの記述は、自らの論拠として「有島事件」や「教科書問題」に言及する点で共通している。言うなれば、単に有島を神聖化するわけでも「人道の破壊者」などと裁断するわけでもなく、一連の「事件」を契機として教育のあり方を模索し始める教員たちの声が『国語教育』には寄せられていたことになる。池田の言葉を借りるなら、そこからはまさに「有島事件」を「生きた教材」として批判的に乗り越えようと模索する教員たちの姿を見出すことも出来るかもしれない。
そうした状況の中でも特に重要と思われるのは、「有島事件」と「教科書問題」を文学教育あるいは読書をめぐる思考の更新に繋げようとするような試みが同時期に見出されることだ。「有島事件」以後、すなわち現代文教授の方法論について模索が続けられたとされる大正末期から昭和初期
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(には、文学の表現と作者の関係性を問い直そうとする文学教育論が複数提出されてもいる。「作者等への換言的説明」に終始する文学教育を批判し表現活動の重要性を説く西尾実『国語国文の教育』(古今書院、昭和四年一一月)はその最たるもの
だが、同じような傾向を有する教育論は『国語教育』にもしばしば寄せられている。
一例として興味深いのが、黒田金五郎(埼玉県北葛飾郡視学)「文章の作者吟味」(大正一四年一〇月)だ。黒田はやはり「教科書問題」に触れ、これを「作者吟味を中心に置いて作者を読まうとする誤解」によって生じたものだと説明する。創作物を通して作者像や「作者の心境」を思い描くことは可能だが、畢竟それは読者の勝手な空想に過ぎず、「真に作者の心境を掴むこと」には繋がり得ない。「作者吟味」と称するこのような読書のあり方を否定する黒田は、読書を通じて自己を見つめ直し、自らの「人生観」を構築することこそが肝要だと説く。ここでは「作者吟味」という「誤」った読書法により生じた悲劇として「教科書問題」が位置づけられ、読書と文学教育のあり方を問い直す議論の契機として用いられていることになる。
ここから読み取られるべきは、一連の「事件」が作品と作者の人格や心境を直結する読書のパラダイムそのものの問い直しにまで繋げられてゆく様相である。このように文学作品を通して学習者に自らの生活や「人生観」について考えさせる、あるいは学習者の「心性の陶冶
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(」を重視するなど、文学の表現を作者ではなく読者=学習者の側に結びつけて読ませようとするような文学教育論がこの時期の『国語教育』には複数寄せられていた。「有島事件」と「教科書問題」だけ をそうした動きの引き金として見ることはできないとしても、『国語教育』に寄せられた教育論から一連の「事件」の影響の痕跡が確かに見出されることの重要性は指摘しておく必要がある。おわりに 教育雑誌や教科書に掲載されることで多くの教育関係者をも読者として獲得していった有島のテクスト群だが、とりわけ中等国語科教材「小さき者へ」や「生れ出づる悩み」は、作品の表現から「作者」の人格を思い描いてゆくような読書のパラダイムの下で享受され、半ば過剰に神聖化された有島武郎像を形成していた可能性が高い。 それゆえにこそ教育関係者にとって「有島事件」のインパクトは大きく、「教科書問題」も無視できないものとなっていったわけだが、教育雑誌に掲載された「事件」関連の言説からは、教科書掲載の是非よりむしろ同時代の議論の非生産的なありようそのものを批判的に表象するような表現が複数見出された。池田小菊は有島と「事件」を「生きた教材」として批判的に乗り越える必要性を説いていたが、教育関係者たちは実際に一連の「事件」を一つの契機として、文学と教育の関係性や教育の改善を模索しつつあったのだ。 とりわけ『国語教育』を始めとする教育雑誌に寄せられた教育関係者たちの言説は、「有島事件」と「教科書問題」を
足がかりにしつつ文学の読み方や文芸観そのものを再編成しようとする試みと見ることが出来る。作者の私生活や人格・性格を反映したものとして作品を読むという素朴・安直な解釈のパラダイム
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(は結局この後も日本近代文学批評の常套として存続してゆくわけだが、国語教育の文脈からそれを問い直そうとした教員たちの議論には一定の意義を認めることが出来るのではなかろうか。
既に石川巧が詳細に論じているように、大正一二年以後の改訂によって教科書から削除されていった有島の作品は戦後に国語教材として「復活」を遂げてゆく
(11
(。しかし以上見てきたように、削除後も国語教育の改良を模索する教員たちに顧みられ続け、言及され続けるのが有島武郎と「有島事件」だったことの意味は小さくない。教育の言説空間において極端な振幅を抱えることとなった有島武郎像は、それゆえにこそ強固に教員たちの意識に留まり続け、教育の変革のなかでささやかな役割を果たしてゆくこととなったと言える。少なくとも教育界において「有島事件」が単なるスキャンダルとして一時的に消費されたわけではなかったことは強調しておかなければならない。
大正期に種々の教育メディアに描出された有島武郎像とその転回は、従来の「有島事件」イメージや有島武郎という一人の作家像の振幅を問い直す上でも重要な現象だった。そのことは、教育関係者という読者層や学校教育の場、そして教 育メディアが日本近代文学受容の歴史の中で果たしてきた働きと共に注視されるべきだろう。
注(
1)『有島武郎 〈作家〉の生成』
(小沢書店、平成一〇年九月)(
( 。(溪水社、平成二三年二月)「国語」教科書』 之一年九月)、藤清吾『芥川龍武介近代日本文芸読本』と編『 (『有島武郎研究』平成二石川巧「教育言説のなかの有島武郎」 として昭和四九年三月)」(『北海道高等学校教育研究会紀要』 け月)、高山亮二「教科書にお殺る自有面側の一のそ郎武島 索セ引』(教科書研究五ンター、昭和九年二内容書科教科語国 り。る。ま参考文献は以の通た田制坂学等中校旧文編『下穂 に館東書庫に大変お世話文っなた。記して御礼申し上げ図書 2)書は、の表の作成にあたって東科京書籍株式会社附設教こ 3)注
2高山論
(
( 和五六年四月)第一編第二章「概説」 ()巻上昭版、出令法京東』(敏夫第井料資史育教語国編『二
( 典』勉誠出版、平成二二年一二月) ()輝研内事郎武島有編『会究郎雄「池島有」(道報と殺自武 6)大田正紀「教育・子ども観」
(前掲『有島武郎事典』)(
7)「一人の人の為めに」
(『芸術自由教育』大正一〇年三月)(
( 育時論』大正九年一月) 8)「代者時教『」(葉言るふ与に育の教新後今きべず任に育教の 9)堀尾輝久「自由主義教育思想
二」(『天皇制国家と教育 近代日本教育思想史研究 』青木書店、昭和六二年六月)など参
照。(
10)「其の独自性を発揮せよ」
(『小学校』大正一一年五月)(
11)「久世山の下から(一)
」(『読売新聞』大正七年二月一六日付朝刊)・「四月の創作界所感」(『太陽』大正七年五月)(
( いることがその根拠である。 人々」が、第五巻には姉崎嘲風「忘れ難き一日」が採録されて 第が挙られる。この教科書のげ三歩「巻ぬれ忘得独田木国に 語さ読本』第五巻に採録くれた「惜しみな愛は奪ふ」撰国新 のかは示されていないものの、可能性としては佐々政一『訂校 郎月)。山本が模範とした「武一一文」が具体的に何を指すの 12)「年い文「忘れ得ぬ人」等に就て〇」(『国語教育』大正一作 13)「有島氏の追悼」
(『種蒔く人』)、「有島武郎氏の死(追憶と批判)」(『早稲田文学』)、「有島武郎氏情死事件批判」(『婦人公論』)、「有島武郎追想号」(『女性改造』)、「有島事件 追憶と批判」(『趣味之婦人』)など。三田憲子「有島武郎 参考文献目録」(前掲『有島武郎事典』)参照。(
1()有島と同じく中等教育の中で読者を獲得していた作家である
漱石や鴎外、芥川などの死に対して教育雑誌は管見の限り殆ど反応を見せていない。こうした点からも、当時の公教育と有島の結びつきがいかに強いものだったのかが窺えよう。(
( 五日) 1()「武論島二月七年二一正大』時郎育有『」(てい就に死の氏教
( 育評論』大正一二年八月) 16)「武批島教外内『」(かるす判に郎何有は家育教を件事の氏如 17)筆者は京都帝国大学在籍中の益田道三。彼は後に英文学者・
比較文学者として名を知られることとなる。 (
18)注
2高山論
(
( れる。 「奈良」(昭和一三年)が第八回芥川賞候補となったことで知ら 19)年の正一五説小く描を流交とか彼大事師に哉直賀志らし、
20)「現代文教授の種々相」
(大正一四年九月)(
( 会社、昭和五六年四月)第二編第二章「概説」 21)家』(地式株版出令法京東巻編『一野潤料資史育教語国第
( 尾実と方向性を同じくしている。 の「心性の陶冶」を文学教育の目的とする点で黒田金五郎や西 品としての面白さを鑑賞させること」の重要性を説く。学習者 的解説」に終始する文学教育を批判し、作品自体を精読し「作 )。育』大正一四年九月は、玉井語語句・事物の「辞書教国(『 22)井幸助(東京高等師範学校玉教)「現代文教授の着眼点」授
( う。 捉える考えが一定の歴史性を持つものだったことは明らかだろ に他ならず、作者の私生活や人格と不可分なものとして作品を の言う「作者吟味」もこのような「読書法」のバリエーション むような読書法」は明治後期にはすでに形成されていた。黒田 が指摘するように、作者の「性向とその作品とを照応させて読 学史』翰林書房、平成一四年五月)自分を書く小説の登場 23)習慣比嘉高「メディアと読書文のの〉象表己日『〈」(容変自 2()注
2石川論
*引用に際して旧漢字は現行のものに改め、傍点・ルビは適宜省略した。本稿は日本文学協会第
で発学)での口頭表潟に基づくもの大新日、二月七年九於・ 37回表究発研大会(平成二
ある。発表に際して多くのご教示を賜った方々に御礼申し上げる。本稿はJSPS科研費(特別研究員奨励費・課題番号18J00021)による成果の一部である。(でき・りょうすけ/日本学術振興会特別研究員)