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源経信の歌論

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Academic year: 2021

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(1)

源経信の歌論

      一

       ︵1︶  中世歌論における源俊頼歌論の意義については︑すでに述べた︒

俊頼が金葉集の撰進と俊頼髄脳によって︑革新的な歌風と歌論を樹

立するにあたり︑父経信はどのような素地を作り︑どのような先駆

者的役割を果たしたかを見ていくことにする︒

 彼は公卿補任や中右記によると承徳元年閏正月六日大納言兼大宰

権帥として大宰府で八十二才で麗じた︒勅撰和歌集には後拾遺集以

下続詞花集に八十七首入部し︑帥記︵経信卿記または都記︶大納言

経王卿集などによってその伝記を見ることができる︒彼は公任箆後       ︵2︶ の歌壇において大江匡房と並び﹁此道之英才︑先達也﹂といわれ︑        ︵3︶ 歌合では﹁たゴ経信一人︑天下判者にてならびなし﹂と称せられる

ほどで︑当時の多くの歌合には判者として活動したと思われるが︑ 今日記録に残っている判者としての歌合は︑四条宮扇合︑寛治三年        ︵4︶ 十五番白三后宮扇合︑高陽院殿七番和歌合の少数だけにすぎない︒し

かし︑袋草紙遺編によると︑承暦二年四月二十八日の内裡歌合は判

者は六条右府︵皇后宮大夫源顕房︶であるが︑経信は左方撰者とし

て出席し︑経三三記を引いて批判を加えているから︑資料とするこ

とができるであろう︒応徳三年九月十六日白河院宣を奉じ︑藤原通

俊の撰進した後影星野を非難した難平拾遺抄は袋草紙の著者清輔は        ︵5︶ これを経信の口授を俊頼が執筆したと推考したが︑久松潜一博士は 同書の批評内容を吟味することにより経信作であることを推定され   ︵6︶ ている︑袋草紙遺編にある逸文後楽遣問答は問は経信卿︑答は通俊 卿と明記してあるので︑明らかに両者の問答と見てよいであろう︒       ︵7︶  なお︑難後拾遺抄が経信の歌論であることについては︑同書に︑  ﹁宇治前太政太臣の家の三十講の歌合に﹂ と赤染衛門の歌を挙げた次に︑  この歌合は右方にてはべりしかば︑そのほどのことはくはしうき  ︑たまへしなり︒故宮内卿経長は蔵人の弁に相方人にて︑その歌  どもを四条大納言の長谷にこもりゐられたる所にもてまうでて︑  とひあはせられけるに云汝          ︵8︶ とあるのは︑袋草紙上巻にある長元歌合時︑経信卿生馴十八也︒為 三河権守︒舎兄経長卿は為蔵論弁︒件歌合等ヲ為評定以経長四条大 納言長谷二遣之云云という記事の原拠となったものと思われるし︑ 長元歌合は袋草紙遺編の宇治殿十番三十講歌合で︑長元八年五月十 六日催されているから︑軽信二十才で十八才という袋草紙の年令 は誤である︒前述引用の叙述も︑和漢の違いはあるが︑同歌合に出 席した経信自身の回想としてうなずけるものであろう︒ 更に つ くし大山寺といふ所にて歌合し侍りけるによめる︒元慶法師 と詞 書のある歌の次の記述に︑  此歌はつくしにはべりしほど︑良遅といふそうの︑わがよみたる       ︵9︶  となんいふとき︑て︑云汝 と記してあることについて考えると︑受信が大納言兼大宰権帥とし て九州に下ったのは︑公卿補任によると嘉保二年七月で︑翌々承徳 元年蝿じているから︑﹁つくしにはべりしほど﹂という書き方をし ないであろう︒これはそれ以前の九州旅行を都で回想したものであ

り︑それは恐らく経信卿集の﹁昔道方卿にぐしてつくしにまかりて

23

一 一

(2)

安楽寺に参りて見侍りける醐の梅のまがま︑に参りて見れば︑木の

姿はおなじさまにて花の老木になりて所汝咲きたるを見てしとある

時のことであろう︒これは大宰権帥になってからのもので︑ ﹁昔﹂

といい﹁老木﹂という感懐はもっともである︒父道方は尊卑分脈に

よると︑長久五年九月二十五日七十七才で麗じ︑この年音信は二十

九才であるから︑経町が難後拾遺抄で﹁つくしにはべりしほど云汝﹂

と記したのは︑この年より前のことである︒

 難後拾遺抄では後拾遺集に元慶法師を作者とするのは﹁そらご と﹂であるとし︑﹁若し元慶法師が良逞が歌を書きて出だしたりけ

るにやあらん﹂と述べ︑この歌の作者について後拾遺集の撰者通俊

に尋ねなどしている点は︑やはりこの間の事情に精しい配信でなけ

れば述べ得ないところであろう︒前述した久松博士の研究とこの私

見とにより難場拾遺抄は経学の歌論であることは動かせないところ

であろう︒たとえ経信の口授を俊頼が筆記したとしても︒経信が難後

拾遺抄を著わしたのはもっともな事情があった︒後陣置集はその序

によると︑通俊一人で﹁承保之比奉之︑応徳三年九月十六日奏之︑

其間及十有年﹂成ったもので︑承保の頃︵元一三︶は書信五十九才か

ら六十一才︑通俊は二十九才から三十一才︑通俊が勅撰汝者の年

令﹂して若すぎるのに対し︑経信は年令的にふさわしく︑殊に承保       ︵10︶ 三年大井川三般の御遊には︑権中納言経信は所謂三船の才を表わす

ほどの実力と名声を持っていた︒それほどの名声を持っていた経信

や匡房に院宣が下らなかったのは︑通俊が白河院の﹁御気色を取っ ︵11︶       ︵12︶ て﹂のことであろう︒後拾遺集は撰進後︑世人の非難多く︑この非       ︵13︶ 難は永続した︒八雲御手では︑ ﹁親身卿をおきながら︑通俊これを

うけたまはる︑これ末代の不審なり﹂と仰せられ︑これは白河上皇の

御意志から発せられたのではなく︑通俊が強いて請願したのである と述べられている︒このような事情から経信自身も大いに不平を感 じ︑難後拾遺抄を著わしたと思われる︒その成立はもちろん後拾遺 集撰進後であるが︑通俊は前信里諺二年目の康和二年八月十六日麗        ︵14︶ じ︑袋草紙によると彼は難後拾遺抄を見たと云っているので︑この 頃既に流布していたようである︒俊頼の子俊恵が見つけたのは回信 口授の草稿と思われる︒以上を資料として彼の歌論を見ていくこと とする︒

 三代集の歌風に対する革新的な美意識が好忠︑経信︑俊頼の系列       ︵15︶ において発展してきたことはすでに述べた︒郵信はこの系列発展の

上でどのような過程的位置を持つか︒

 俊頼の秀歌の条件は︑俊頼髄脳によると﹁優なる心を先とし︑珍

らしきふしを求め︑詞をかざる﹂ところにあり︑そのような秀歌の

一つの美的内容として挙げるものは﹁けだかく遠白き﹂美であっ

た︒経信も﹁めづらし﹂を重んじていた︒         ︵16︶  高陽院殿七番和歌合  桜二番

       左持      筑   前 くれなみのうす花ざくら匂はずばみな白雲と見てや過ぎまし        右中納言匡抄 しら雲と見ゆるにしるしみ吉野の吉野の山の花ざかりかも

に対し︑経営は﹁左の歌は︑めづらしきようによまれたれど野馳﹂

といい︑この判は結局﹁持﹂になったが︑その歌合の席に出なかっ

た筑前が︑この判に納得せず反駁した陳状に答えた経信は︑﹁くれ

24 一

(3)

なみの桜といふ事はおぼろげの人はえ得らじと侍りける︑いといは

れたる事に侍り︒しといって︑筑前の歌の知的な構案︑趣向につい

て同感し︑これは当代における凡人にはその良さは了解できないで

あろう︑いかにももっともなことだと思われると述べている︒そし

て︑その良さというのは︑﹁遠くて雲と三つれども︑近く過ぐれば

あさくれなみの花なりけりと侍るは︑いとをかしく思ひよられて侍

めり﹂と︑今までの歌には見られない清新な情景に魅力を.感じ︑こ れを﹁めづらし﹂と評価しているのである︒たゴし︑左の歌を経信

は全面的に支持したのでなく︑﹁おなじくは︑雲のあなたに山などと

いふ遠き心の侍らましかば﹂といい︑なんとなく山などがあったら

と一段の情景構成を希望している︒なお序でながら︑右の歌は孫の

俊恵が﹁これこそはよき歌の本とはおぼえ侍れ︑させる秀句もなく

かぎれる詞もなけれど︑姿うるはしく清げにいひくだして︑たけ高      ︵17︶ く遠白きなり﹂と絶讃し︑いわゆる遠書体の代表的な歌であるが︑     ︵18︶ 経信自身後世﹁大納言経信殊にたけもあり﹂と賞讃されながら︑た ゴ﹁めづらしげなけれど︑別の難なければ﹂と︑持にしてしまって

この歌の﹁たけ高く遠白き﹂美を押し出すまでに至らなかたのであ

る︒いずれにしても歌における知的な要素としての﹁めづらしげ﹂

ということが強く意識され︑これが歌合の判の重要な評価基準にな っていたことを知るのである︒しかしすべての美的価値が﹁めづら

し﹂を優位において決定されるのではなく︑同歌合郭公六番の

        左勝       信   漫

 ほととぎす雲居の声は聞く人の心さへこそそらになりけれ

        右      頼綱朝臣

 ほととぎす今ぞ鳴くなる隣にも吹きつる笛の音をもとどめて

を﹁左の︑めづらしからねどまさりたりとこそは申さめ︒﹂と﹁め づらしげしがなくとも勝と直しているのでも知られる︒ ﹁めづらし げ﹂ということは必ずしも経信だけの創始ではなく︑後拾三献の編       ︵9一︶ 集において和歌の評価基準の再検討が始まっていた︒後拾遺集撰者 の通俊の判者であった若狭守通宗朝臣女子達歌合は応徳三年三月十       ︵20︶ 九日七条亭で催されたものであるが︑二番桜の歌に対し         左持  さくら咲く春の山べは雪消えぬこしのしらねのこ︑ちこそすれ         右  山さくらちらぬかぎりはしら雪のはれせぬ峯とみえわたるかな に対し︑左歌右のうた﹁ともにめづらしきふしなけれど云汝﹂と ﹁めづらしきふし﹂の有無が評価条件として重要な要素をなしてい て︑わずか十番の歌合判適中に三個所も取り上げられている︒また 高熱院殿七首歌合の記録者は︑﹁桜の二番の歌︑持にはせらる︒なほ 左回めづらしきにやあらん︒殿︵藤原師実︶より筑前の君につかは す︒﹂と主催者関白師実が筑前の歌に同情的であったのを記してい るのを見ても︑当時一般的に清新で新奇な着想の歌を求めていたの がうかがわれる︒  しかし︑難後拾遺抄や高陽刻殿七首歌合判詞で︑経信が積極的に ﹁めづらし﹂と評価したものは︑前述した桜二番の﹁くれなみのう す花ざくら﹂という筑前の歌だけで︑他はすべて﹁めづらしからね ど﹂とか︑ ﹁めづらしき事も見えねど﹂というように述べているの で︑ ﹁めづらし﹂という内容は明らかでない︒この歌に対してはむ しろ関白師実などの方がめづらしさを強く.感じていたもののようで ある︒だから︑同歌合雪七番の         左勝       摂津の君

 ふる雪に杉の青葉も埋もれてしるしも見えず三輪の山もと

25

(4)

       右      俊 ふる雪に谷のかけ橋埋もれてこずゑぞ冬の山路なりける

を﹁左の歌︑いとをかしく縮めり︒勝とすべし︒﹂として︑楕が山

路となったという誇張が俊頼のいわる﹁新しきふし﹂であったので

あるが︑こういう新奇な趣向を経信を始めとする当代の人汝は十分

な興味を持たなかったものと思われる︒また俊頼自身も独自のよさ        ︵21︶ を発揮できなかった時代であったであろう︒

 経信の判詞には﹁めづらし﹂よりも︑﹁をかし﹂の方が遙かに多

い︒ ﹁をかし﹂は﹁すさまじ﹂に対立し︑おもしろみや興味を感ず

るという概念で︑和歌においては︑素材の装え方︑構案に対する魅

力であるから︑ ﹁めづらし﹂と本質的に異なるものではない︒だか

ら︑同歌合雪一番

       左持      中納言霜

磐代の結べる松にふる雪は春も解けずやあらんとすらん

       右      通 俊

おしなべて山の白雪積れどもしるきは越の高嶺なりけり

を︑ ﹁左の歌︑いとをかしうよまれて治めり︒右の歌︑うるはしく

よまれたれば︑持にも侍らん︒﹂と︑万葉集巻二有馬皇子の史的悲

劇を象徴するむすびの松に降る雪に対し︑ ﹁春も解けずやあらんと

すらん﹂と続けた趣向の面白さを﹁をかし﹂と評しているところが

らも知ることができる︒しかし︑筑前が陳状で﹁さはれをかしきぞ

歌はもととて云汝﹂つまり︑歌は﹁をかしき﹂を基とする︒歌そら        ︵22︶ ごとや︑誇張した趣向があってもいいという主張に対し︑ ﹁いはれ

たる﹂歌でなければならないと説得している︒ ﹁いはれたる﹂は難

後拾遺抄にしばしば用いられた語で︑落陽院殿七番和歌合にも国詞 には見えないが︑筑前陳状への返答には二個所も用いている︒それ は歌の内容がいかにももっともであるという意味で︑古今序以来の ﹁たゴごと歌﹂定家の時評然様に通ずるもので︑歌は現実性や論理 性を重んじなければならないとする態度で︑ ここに﹁めづらし﹂

﹁をかし﹂の内容に限界をおいている経信のことわりを重視をする

行き方が了解されるであろう︒通俊の﹁おしなべて﹂の歌は︑歌合      ︵23︶ の制約のため︑ ﹁持﹂にされているうえ︑前述したように︑経信自

身︑ ﹁たけあり﹂とか︑俊頼に至って具体化する﹁遠白し﹂とかの

評語をとっていないから︑この歌に対し評価を与えているか十分で

はないが︑ ﹁うるはしく詠まれたれば﹂といっているところがらす

ると︑経町としては後拾遺撰者通俊という経緯を超えて︑経史を満

足させた歌であったと思われる︒御裳濯河歌合三番左の西行の歌

おしなべて花の盛りになりにけり山の端ごとにかかる白雲

を俊成は﹁うるはしくたけ高く見ゆる︒−事もなくうるはし︒勝

とや申すべからん﹂と絶讃しているが︑詠歌一体でも為家は﹁近代

よき歌と申しあひたる歌ども﹂の筆頭においていることからする

と︑通俊の歌はこれと通ずるものであるから︑これを﹁うるはし﹂

と評したのである︒﹁うるはし﹂は端正にして堂汝たる美をいう︒

それは﹁たけ高し﹂という姿がすらりとして格調が高い風格の歌姿

に通ずる︒経回が前記歌合で﹁うるはし﹂と評した歌は︑桜一番左

中納言君

山ざくら匂ふあたりの春がすみ風をぼよそに立ちへだてなむ

の一首だけで︑

しく言い了え︑

ると思われる︒ その内容を十分究明できないが︑十分にことわり正 歌心が言いつくされ︑悠揚せまらぬ耳垂を指してい

このような歌が経界の庶幾した歌であったであろ

26 一

(5)

う︒桜七番の

       左持       摂津 君

散りつもる庭をぞ見ましさくら花風よりさきにたつねざりせば

       右      薬頼朝臣

山ざくら咲き初めしょりひさかたの雲居に見ゆる瀧の白糸

子俊頼の歌を ﹁きららかによまれたるように見﹂ えるからと︑持

にしたのは︑歌合という相対な評価によるものであって︑左の歌が

﹁いと心ばへをかしう侍る﹂にも拘らず︑俊頼の歌を﹁きららか﹂

という長所において称揚しているのである︒ ﹁きららか﹂というの

は︑絢燗というにはやや堅実であるが︑優艶な風情をたけ高く︑し        ︵24︶ かもがっちりと詠んでいるのをさす︒我が子の歌に私意を挾んでは

ならないと警戒して負けにしたのであろうが︑この歌ははたして左        ︵25︶ 歌に劣るであろうか︒﹁きららか﹂と言ったのは語の表面的意味と しては︑﹁きらびやか﹂とか﹁派手﹂とかと難じる表現になってい

るが︑実質は俊頼の革新的な試みに同感しながら︑一座の共感を呼

び得ないと考えたのであろう︒この歌は俊成の古来風体抄の金葉集

の秀歌として︑定家の近代秀歌の第二番目に︑さらに為家の詠歌一

体には︑ ﹁たけもあり物にもうつまじからむ姿﹂で﹁晴れの歌﹂と

して挙げているのである︒

 同歌合祝七番は

        左持       摂津 君

千代経べき君をまもれば春日山神の心ものどけかるらん

        右

 落ちたぎつ八十宇治川の早き瀬に岩越す浪は千代の数かも

には判詞がない︒祝の歌は藤原氏の氏神春日神社から三笠山︑春日 山を特に選び祝うならわしがあり︑これが勝となるのが例である︒ それにも拘らずこれを持としたのは︑摂津碧にとっては不満であっ たらく︑この歌合に欠席していた筑前君にその夜の模様を語り伝え た伝え方に問題があり︑これが筑前の陳状となった︒その返答の中 で経信は︑ ﹁岩越すもめづらしき事には侍らねど︑まもるとあるよ りは歌とこそ覚え侍れ﹂と︑摂津の君の歌に比較すれば︑俊頼の歌 の方が詩的であるといい︑﹁なほのたまふ事侍らば︑みつからなど こそは申し侍らめ︒ひとひの歌の事のたまひけん人に︑忍びで見せ 給へ﹂と︑かげ口をきいて筑前を刺激した摂津の君に書見と確信を 持ってたしなめているのである︒この歌は後の歌学書に引例されて はいないが万葉調の歌で︑もし判詞が記録されていたら﹁山ぎくら 咲きそめしょり﹂と同様な評価が示されたであろうと思われる︒月 七番の右勝とした俊頼の歌

山の端に雲のころもを脱ぎ捨ててひとりも月の立ちのぼるかな

を︑ ﹁右の歌︑まさりて侍めり﹂と簡単にしるしているが︑これは

万葉集の求人三子登場を背景として︑擬人的に表現した壮大な感銘

を与える歌である︒これも経信の満足した歌であろう︒この歌を筑        ︵26︶ 前は﹁なでふさることのあらむ︒﹂と難じているが︑筑前を含めた

当時の歌人には︑知的な趣向の﹁めづらしきふし﹂を求めようとす

る動きは広がっていたが︑その﹁ふし﹂が万葉的な格調をもった経

信の﹁うるはしさ﹂には追いつけなかったものと考えるべきであろ

う︒経信の自作が﹁たけ高き﹂歌として後世賞美されただけでなく

このような短歌美が格調的に﹁うるはし﹂として把握され︑俊頼︑

俊恵後色調的に﹁遠白き﹂美として充実されていくところに︑経信

の歌論史的位置を見るべきであろう︒

 経信の﹁うるはし﹂と満足する歌を詠ずるには︑ ﹁思ひ入れ︑﹂

27 一

(6)

      ︵27︶ つまり想のめぐらし方の深さが要求される︒それが﹁よみ知りた

る﹂あるいは﹁いはれたる﹂というように論理的に妥当性があり︑

風情のある短歌内容が形象化されてこなければならないとする︒こ        ︵28︶ れの欠けるところに﹁おぼつかなき﹂非⁝難が生まれてくる︒用語の        ︵29︶ 配列は﹁すべらか﹂でなければならない︒廷臣︑野駈父子の歌が悠        ︵30︶ 揚とした格調に富んでいるのは︑島流の始祖としての琵琶の大家経

信の音楽的素養によることが大である︒

 経信はその歌論を体系的に述べていないが︑以上︑午後拾遺抄お

よび高揚院七首歌合判詞によって彼の歌論を見て来た︒経学︑俊

頼︑俊恵の系列における経信歌論の意義を認め得るであろう︒

      三五︑八︑一

︵i︶

︵2︶︵3︶

︵4︶

︵5︶

︵6︶︵7︶

︵8︶︵9︶

︵10︶

︵11︶

︵12︶

   註 長崎大学学芸学部人文科学研究報告第五号拙稿 日本歌学大系本第二巻九四頁袋草紙上巻 同一三巻九一頁八雲御回巻第六用意部

︵2︶の袋草紙下巻︵袋草紙遺編︶による

︵2︶の六八頁および六一頁

日本文学評論史古代中世篇二三七源経信の歌論

続群書類従一六下︑難後拾遺抄六三四頁

︵2︶

︵7︶

︵2︶

︵2︶

︵2︶

の七五頁 の六三三頁︑傍線筆者 の九四頁 の六一頁

の六七頁︑一雑談︑彼時有種4誹訪云々

︵13︶︵14︶︵15︶︵16︶︵17︶︵18︶︵19︶︵20︶︵21︶︵22︶︵23︶︵24︶︵25︶︵26︶︵27︶︵28︶︵29︶︵30︶

︵3︶の九一頁 ︵2︶の六一頁 ︵1︶参照

峰岸義秋著 歌論歌合集︑急症院殿七首 歌合五一頁

歌学大系本 無名抄 三=二頁

︵3︶の二頁︑後鳥羽天皇御口伝

日本教育大学協会編︑日本文学概説二二頁

群書類従第八輯五七頁

日本古典全書歌合集一九二頁︑峰岸義秋氏頭註

同一九七頭註

歌合の性質上︑同一歌人の歌が凡て負で終ることも不都合なこと

であったであろうし︑高陽院七首歌合は女性が優勢であった︒こ

の女性優勢の傾向はすでに後拾遺の撰歌に見えている︒

︵21︶の一八○頁頭註

同 八雲御抄︑巻第六用意部︵3︶の七五頁

︵16︶の五八頁郭公七番判詞

︵7︶の六三五頁上︑下欄その他に多い︒

︵7︶の六三五頁上欄その他に多い︒

伏見宮御記録︑其他記録︑大日本史料第三編之四︑六五七頁以下

28 一

参照

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