頓 阿 の 歌 論
稲 田 繁 夫 嗣
頓阿の歌論を知ることのできるものは︑愚問賢註︑井蛙抄︑三十
番歌合頓阿蒙︑頓阿勝負付歌合一巻などであるが︑最後のものは判
のみで詞がない︒新拾遺和歌集も勅撰次第によると︑撰者藤原為明 が中途で他界した後︑甘煮がこれを完成し︑正徹物語によると﹁雑
説か恋篇より︑忍冬撰し﹂とあるので︑恋部からとすれば巻第十以
後︑雑記からとすれば巻十八以後の撰歌方針︑撰歌の価値基準など
を調査することによって︑彼の歌論をうかがうことができるであろ
う︒愚問賢注は奥書によると︑二条良器の問に頓阿が答えたものを
良基が記録して︑貞治二年頓阿に遣したとあるので︑この頃成立し
たものと思われる︒貞治二年は頓阿七十五才で︑本文冒頭の﹁頓公
すでに七十有余の遽算をたもち﹂と符合する︒
愚問賢註の第一段において︑良基は当時の歌壇における相対立す
る二つの詠歌態度のいずれをとるべきかについて頓阿の見解を求め
た︒つまり一説によると︑歌というのは本質的に存する自然の情で
あって︑﹁情中にうごき︑詞外にあらはる﹂もので︑﹁物にふれて
情性を吟詠する外に︑別のこと有るべからざる﹂ものである︒だか ら︑万葉集︑三代集以下の歌はすべて古人の糟粕である︒ただ︑
﹁風雲草木に対して︑眼前の風景をありのままに詠ずれば﹂よいの
であって︑徒らに古語にかかずらい︑古い典拠になずむべきではな
頓阿の歌論 ︵稲田︶ い︒万葉も軌範とするのにたらないし︑まして三代集以下の勅撰集 は実が少なく花が主となっているから学ぶべきではないとするもの
である︒これは当時二条派に対立する京極派の立場を要約したものであっ
へさて︑為兼卿和歌抄においては︑歌は自由な立場で詠むべきで︑﹁心 の起こるところのままに︑同学ふたたび言はるるをもはばかる﹂べ きではなく︑ ﹁歌詞ただのことば﹂の区別もとらわれずに︑ ﹁心の おこるに随ってほしきままに言い出﹂だすものであるといっている が︑二条良馬は二条派の立場に基づきながら反対説として挙げたよ うである︒これを難ずる他の説では︑心の﹁中に動く情をいひ出せ るにはあらず︒風情のゆく所有るべし﹂と︑心の中に思うこと感ず ることをすべて言い出だすのではなく︑風情のあるところに従って 詠ずのが歌である︒﹁天地をうこかし︑鬼神を感ぜしむるも︑文花 をかざり︑風情を求むる﹂ところにあるから︑万葉の古語や三代集 の艶言︑つまり古代の雅正なことばを広く学び︑俗言を去るべきで あり︑俗態を正すべきである︒三代集は盛時の高雅のことばである から︑この正雅を学んで島風の体を嫌わなければならない︒−という のであるが︑これは二条為世の和歌秘伝抄の第二段にあげた︑ ﹁詞 はふるきをしたふべき事﹂の︑ ﹁iかまへてやさしく優ならん言 をとらんとしたふべしとうけ給はり侍りし︒・1︵中略︶先達の教
へをそむくこと道をまもる神意にもたがひ侍るべし︒i︵中略︶
一
長崎大学教育学部人文科学研究報告 第一七号
日本紀万葉集の言どもよみて人もしらぬことしりたるよしするさ
ま︑朝野にみちみちて自受清楽とかやしたる道の魔障云々﹂の立場
に立つものである︒
この二つの説に対し歯面は﹁歌は思ふことを見るもの聞くものに
つけていひ出だせる外は異なること無﹂きもので︑ ﹁善悪邪正を弁
ふべからざる﹂ものであるが︑和歌盛んに起り︑六義十体定まりて
後︑猶淳朴の体ばかりを学ぶべしといへる︑却って辺見なるべきに
や﹂とするのである︒浜面式以下の歌詠が定まった今日︑これに従
わないのは誤りであるから︑前説を難ずる後者の説の心﹁もっとも 正義に叶へる﹂ものという立場である︒つまり歌の本質観において
為兼の立場に同感しながらも︑その後に発展して来た歌式や一病に
とらわれず︑奔放に自然人生を詠歎するという立場には立たなかっ
たのである︒ ﹁今の歌いつれの体を正路としてか模写すべきそや﹂
の問に対し︑和歌の変遷において︑ ﹁寛平延喜の比は血道の中興亀
と見えたり﹂と︑この時期の歌を標準としていて︑歴代の勅撰集に
ついては古今集といえども︑貫之はこれに満足せず︑新撰和歌集を
別撰した事情がある程だから︑各勅撰集そのままを﹁本様と用ひ難 し﹂というのである︒定家の近代秀歌は挙げるが︑新古今集などに
触れないところや︑ ﹁心を古風にそめ︑詞を先達にならはば︑誰人
か不詠と侍る︒尤為肝要者也﹂などからみると︑頓阿の平淡美の歌
風の拠り所が知られるのである︒
心詞の関係については︑第三段に﹁所詮前後あるべからざる﹂も
ので︑ ﹁心に風情を得ることもかたく︑風情を得て詞をなすことも
かたき也﹂といって︑その優劣前後の関係はなく︑ ﹁所詮人のいま
だ鋤彫風情を︑やすらかに艶なる詞にて続くべき﹂であるというの
は︑公任の新撰髄脳における南砂の調和論以来の誓詞論の継承で︑
二
それを更に発展させるものはないが︑詠歌において心詞を両立させ
るため︑ ﹁強いて案ずる﹂ということ︑ ﹁稽古﹂ということを強調
するのは︑生得の歌才を努力と精進によって︑錬りあげ造りあげた
歌人頓阿の言として迫力を感ずる︒心詞の関係は次の第四段に初心
者の学修論としても触れているが︑歌は﹁風雲草木の興に打ち向か
ひ﹂て︑自然の景象に触発せらるる感興を詠ずるのが第一義である
から︑ ﹁古歌の材木にて初めより歌を詠まむと﹂するような︑古歌
に歌われた詞をまず学んで詠吟しようとすれば︑ ﹁好心は出来﹂な
いものである︒けれども︑先人の詠歌態度や︑その姿詞を見習うた
めには古歌をもたずね見るべきであるとするのは︑詞の巧緻を主と
せず︑表現の平明を重視した二条派の特色がうかがえる︒
第五段で︑上代において長歌を詠むことが多いのは︑上代人は
﹁物を感ずる事深く︑その心切なるによりて︑三十一字に事つくさ
れず﹂長歌を詠んだので︑中古にも兼家が拾遺集で俊頼が千載集で
長歌を詠んだのは︑豊かな心が短歌に収まらなかったからであっ
て︑今世に長歌が少ないのは人々の数奇心︑風流な心がおろかにな
ったからであるとする︒
長歌が万葉集において完成したとともに︑万葉時代後期に既に衰
退に向かったのは︑その理由がいろいろに考えられるが︑記紀歌謡
以来の未定型式のものが万葉集に至って長歌形式が確立したが︑五
七音の連続という形態は単調を免れえなかった︒人麿の長歌が豊か
な修辞的技巧によって効果をあげ︑憶良や高橋傷心がその感動の強
さと︑特異な素材によって長歌を成功させたが︑形態の固定からく
る単調性と素材の発展を見なかった大伴家持以後の長歌が衰えてい
ったのは当然の成り行きであった︒立蔀が︑古代人の情趣情感が豊
かであったから長歌を詠んだとするのはうなずけないが︑長歌から
短歌へと和歌史的な変遷について︑一つの理由づけをしたこと自体
は︑また史的意義をもって見ることができる︒
地歌と有文の歌との関係については︑ ﹁常の人は一かど有る歌を
ば文と心得︑さして目に立つ所もなく︑やすらかなるをば地歌と心
得﹂ているようであるが︑ ﹁すなほにうるはしく明らかなるを好
歌﹂とすれば︑それがそのまま文ある歌ということができるのであ
って︑却って二かど一ふしあらんを地歌と申さしなければならな
いとするのは︑二条派の秀歌観をもっともよく述べているところで ある︒為家が︑ コ詞なだらかにいひくだし︑きよげなるはすがたの
よきなりしとか︑ ﹁すべてすぐれたる歌はおもしろき所なきよし申
すめり﹂または︑ ﹁はじめはなにとしもなけれど︑よくよくみれば よき歌あり︒めざめせぬやうによむべし﹂などと述べており︑為世
も﹁歌のおもてはさしたる曲節も見えねども︑詠出せるさまさすが
に哀れも深く淋しさもまさりて感情ある歌﹂が秀歌に多いといって
いるのを受けついでいて︑前述した常の人とは︑一般世人とともに
為秀など冷泉派などの歌人を含めていっているように思われる︒ 本歌取りについては毎月抄にふれているが︑二宮が作例によって
説明を求めたので︑具体的に述べている︒本歌取は万葉の歌を古今
集に取ることもあったが︑正治︑建仁の頃から盛んに成ったもの
で︑ ﹁本歌の心を取りて風情をかへ﹂るとか︑ ﹁本歌に贈答したる
体に取る﹂とか︑ ﹁本歌の心になりかへりて︑しかも本歌をへっら
はずして︑あたらしき心を詠む﹂取り方を分析している︒本歌取り
は二条派では余り好まなかった技法で︑良基も問の中で﹁本歌を取 ⑧ 事︑さのみ不可好﹂といっているし︑為家も詠歌一体で﹁常に古歌
をとらんとたしなむはわろき也︒いかにもわが物とみゆる事なし︒﹂ ⑨ と言い︑為世も和歌秘伝抄で﹁あながち本歌とる事は宜しからぬ事
頓阿の歌論 ︵稲田︶ 也しとりわけ﹁近代の人の歌取るべからず冥加なき事なり﹂とまで 言っているのは︑当時新古今以来本歌取りが濫用された為であろ う︒だから頓阿も﹁本歌は後拾遺などまでの歌也︒﹂と本歌取りを 積極的に支持していない︒ ところが草庵集では本歌取りが多い︑だから今川了俊も﹁頓阿が 面様を見得へば︑十首に七︑八首は古歌を多分は用ひよみて候間︑ 淫心の輩はげにも新藷読むらん詞をば︑ただ言と可申候やらん云 々﹂と評している程であるが︑本歌を好んで取るということは彼の 本旨ではなかったと思われる︒ 未練の人︑初心の人の詠歌法として︑良基は﹁いかほども案じ﹂
﹁沈思﹂して歌数少なく磨きあげて詠むべきであるか︑または︑
﹁口をかろく﹂詠むべきであるかの問に答えて︑頓阿は﹁歌よみに
二のやう候ふべし﹂と歌の﹁道の佳境にいたり︑絶妙の秀歌﹂をも
よまんと思ひたらん人は︑三昧に入るごとくに︑心と面影のかすか
なる所にとどめて︑人の古さぬ所を案ずしべきであり︑一般の人は
﹁歌出来がたければ不可不沈思﹂るもので︑いずれにしても練達者
も初心者も﹁沈思﹂することが不可欠の条件でなければならないの
である︒この立場は定家以来の歌道修練のきびしさを継承したもの
であって︑定家は﹁案じ﹂ ﹁沈思﹂して︑ ﹁まつ心をすますは︑一
の習ひにて侍る也﹂と︑一文字をもおろさかにしない彫心立山の詠
歌態度であったが︑ ﹁初心の程はあながちに案ずまじきにて候﹂と
初心者が強いて間断なく案ずると︑性もほれ︑却りてしりぞく心が
生じて来るから︑ ﹁口なれんためにはやはらかに詠み習は﹂ねばな
らないと教えたのに対し︑頓阿は︑三十六歌仙たちといえども︑そ
の残っている歌が百首に及ぶものは少ない︒花山僧正︑斎宮女御︑
本院中納言︑公忠弁などの集の歌は僅かに過ぎない︒殿富門院大韓
三
長崎大学教育学部人文科学研究報告 第一七号
は歌数が多いので︑千首大輔といって有名なほどであるが︑今日は
千首以上の作歌のある人はざらである︒というのは︑詠歌の調子が
早くなっているが︑これは良い歌人が出ない為であろうというので
ある︒頓阿自身も草庵和歌集正続二千余首という大部のものを残し
ておるが︑彼の態度としては一首﹂首に沈思して乱作しないという
気持ちが強く働いていたものゼ思おれる︒
表現の平淡さを重んじ虎のが二条派の特徴であるが︑頓阿は歌論 として積極的に﹁淡さ﹂を主張してはいない︒良基が︑歌の風体は
﹁たけを好む人︑或はこまかに幽玄なるを執する人﹂といろいろあ
るが︑頓阿はどのような風体を特に取りあげられるか︑と尋ねたの
に対し︑ ﹁別して愚意にそむる体なく候︒古人秀歌と申し候は︑い
つれも心腋に銘し候﹂といっている︒井蛙抄第一︑風体事には幅広
く各抄に挙げられた風体を取りあげているところがらみると︑了俊
が︑ ﹁かの法師︵頓阿︶も只一節読みえたる姿のほかをば︑つやつ やよみ侍らず﹂というのは︑反対派である冷泉派の立場からの非難
も加わっていて︑歌論的には噸阿は一体に遺することはなかったと
いわなければならないであろう︒
二条派では制禁の詞をやかましく論じたが︑頓阿は必ずしもそう
ではなく︑良基が﹁歌合にはいつれの病を近来はさるにや︑四病八
病をさのみ去るべきにはあらず︑当時きらふ病の与しるし申さるべ し︒当座の歌も近日いつれのやまひをさるそや︑くはしく申さるべ
し︒﹂と問うたのに対し︑極めて簡単に︑ ﹁近来はさのみ病沙汰な
く候﹂といって︑わずかに﹁同心病斗を去り候︒同事二道也﹂とい っているのみである︒このことは良基の近来風体抄でも同様で︑
﹁歌の病は同心の病と︑第三第四の終の字とを嫌ふべし︒其外は細
々の歌にはくるしからざるよし頓阿申しき﹂と述べているのでもう
四
かがえる︑ただ︑歌合はその特殊性から︑ ﹁但歌合に猶先達嫌たる 病ども侍る﹂のである︒三十番歌合においても︑嵐吹寒草二十一番 左勝 大律
あらし吹くかれのの薄しもさえて秋みし色は面影もなし 右 三 法
すゑかろき枯れのの尾花秋よりも靡きやすしと吹くあらしかな
において︑﹁濡歌︑第一旬︑不庶幾︑ふくあらしかなと先達よむべ
からざるよし申さるる﹂と批評しているところで触れているぐらい
である︒
読歌を勝にしたのは歌合の歌としての相互比較からで︑ ﹁枯れの
のすすき︑秋のおもかげも︑殊に思ひ出でられぬべくこそ侍るを︑
面かげをなじといへるぞ︑おぼつかなく聞ゆれど︑せめて霜がれは
てぬるよしにや︑思ひなされ侍れば︑すこし勝侍るべし﹂という程
度で勝にしたのであった︒
歌合の歌の在り方について書籍が問うたのに対しては︑ ﹁題の心
正しく︑養うるはしく長有りて清げなる﹂歌を詠むことが勝つこと
になると述べている︒そして︑このように説明する頓阿の拠り所と なっているものは後鳥羽院御口伝であって︑同口伝に﹁歌合の歌を
ば︑いたくおもふままによまれずとこそ︑言前︑漏壷などは申せし
か云々﹂が引用されている︒歌合の歌は凡て題詠であるから︑歌一
般にわたる秀歌に比べて歌合の秀歌はある制約をうけるので︑ ﹁題
の心正しく﹂あらねばならないのは当然であるが︑ ﹁体うるはしく
長有りて揺げなる﹂はやはり二条派の秀歌の条件をうけついだもの
であろう︒前述五段に︑ ﹁すなほにうるはしく明らかなるを好歌﹂
といっているところとも呼応し︑またそれは︑ ﹁詞なだらかにいひ
ナビぐでくででノピノ ゆ
くだし︑きよげなるは姿のよきなり﹂を継承するものである︒
愚問賢注にはそのほか︑ ﹁ぬしある詞﹂︑題詞などについて問答
があるが︑いずれも八雲手抄︑新撰髄脳などの諸抄を拠り所とする
もので︑彼独自の創見というものはあまり見られない︒しかし︑冒
頭にのべたように︑愚問賢注が頓阿七十五才の頃成ったとすると︑
それより前︑七十才を過ぎた時︑白楽天の﹁余年七十一不事訳導
出﹂から︑
今はわれ心もよせじななぞぢに越えぬる後の和歌の町なみ
の感慨をもちながら︑それ以後の和歌精進は一段ときびしいものと
なり︑愚問賢台もそのような精進の一環とし︑ての良基とのいわば土ハ
同研究の産物であったのである︒制辞はこの共同研究の成果をまと めて近来風体抄を著わしている︑近来風体抄は古語深秘抄本による
と嘉慶元年十一月十二日の日付があるから︑愚問賢注の成った年を
貞治二年として二十四年後であるが︑ ﹁詠歌のことはすべて立ちい
らざる道にて侍れども﹂ということからだけでなく︑頓阿の教えが
正しく納得されて受けつがれているのである︒
二
頓阿判の歌合が文献として残っているものは少なく類従本の三十
番歌合と続類従の頓阿勝負付歌合一巻だけで︑後者は判のみで詞が
ない︒だから歌合判詞から彼の歌論を見ていくことは十分にはでき
ない︒三十番歌合は開催年月は不明で︑左右六人各十首を三十番に
調ったもので︑霞隔遠樹以下十題の当座題であった︒
頓阿の批評における美的価値基準の一つは﹁面影ある﹂というこ
とであった︒一番霞隔撮影
左 勝 右衛門督法印
あさみどり色こそみえねをしほ山小まつかはらは面こめつつ
頓阿の歌論 ︵稲田︶ 右 三位法 印 花さかぬ梢はよそにみえわかず霞むやいっこかつらぎの山 ⑯ 左歌を﹁ふるき面影も立ちそひて優に聞ゆる﹂といっており︑この ことは前述した愚問墨黒の﹁心を面影のかすかなる所にとどめて︑ 人の古さぬ所を案ずべし﹂とか︑和歌秘伝抄の第一段﹁心はあたら しきをもとむべきこと﹂などに基づく批評である︒雨後郭公十一番 左勝 上︵隠名︶ 冷しさは秋をもまたず夏衣日もゆふぐれのまつの下風 右 尊 熊 夕つく日いりぬるかたの松が根にあと吹き送る風ぞ涼しき 左︒詞やすらかにつづきて聞ゆれば︑日もゆふ風の夏衣︑ひとへに 勝と申すべししと評しているのは︑為家以来の表現の平淡さを重ん ずる立場からの批評である︒ 歌合の歌は︑その特殊性からの制約があることについての頓阿の 見解は︑前述したところであるが︑二十二番雪似白雲 左 勝 上 朝ぼらけ空ゆく雲のひとつにて山よりたかくつもる白雪 を︑ ﹁左歌︑すがた高く︑詞艶に侍るにや﹂と言い︑あるいは︑湖 上暁霧 左 勝 上 ながむれば霧たちこめて嶋の海や波のいつくに有明の月 に対し︑景気浮眼︑風情銘肝︑尤為勝と評しているのは︑為家︑為 世などの二条家の平明︑平淡な美意識よりも︑さらに定家などに潮 るものである︒特に二十五番遇不逢恋の大蔵卿律師の左歌 うきものといとひし鳥の声までもいまはかたみの有明の空 に対し︑ ﹁今はかたみの有明の空︑心妖艶にして︑詞花麗に侍れば
五
長崎大学教育学部人文科学研究報告 第一七号
返々勝たるべししと言っており︑これは定家のいわゆる有心体の歌 ⑰ であるとしたのであって︑井蛙抄第一に心ある歌というのは﹁よく
よく心をすまして︑其一境に入りふしてこそまれにもよまるる事に
侍れ云々﹂と定家の毎月抄を引用し︑さらに︑ ﹁私云﹂として﹁思
ひ入りたるを心あるとは申す也云々﹂と強調しているところがらみ
ると︑二条家の平淡の美よりも定家の有心体の歌をやはり理想にし
ていたことがうかがわれるのである︒
︵四二︑八︑二八︶
註
①
②
③
④⑤
⑥
⑦
⑧
⑨
⑩
⑪
⑫
⑬
⑭
⑮
⑯
⑰
岩波文庫中世歌論集二八六頁
愚問賢注︑続類従第十六輯下︑七四八頁以下
①の二三四頁
①の二四七一二四八頁
詠歌一体①の二〇四頁
和歌秘伝抄①の二五〇頁
毎月抄①の一七九頁
⑤の二一四頁
⑥の二五二頁
今川了俊和歌所へ不審条々︒群従第十輯八○八頁
落書露顕︒⑩の八二四頁 三十番歌合︑類従八輯九五三頁
後鳥羽院御口伝︑①の二二〇頁
⑤参照 近来風体抄︑①の二六二頁
三十番歌合︑類従本八輯九五〇首では﹁右歌﹂とあるが左歌の誤りで
ある︒
井蛙抄︑続類従十六輯下八六八頁
六