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新古今和歌集隠岐本四季部の除棄歌について

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(1)Title. 新古今和歌集隠岐本四季部の除棄歌について. Author(s). 鈴木, 淳一. Citation. 北海道學藝大學紀要. 第一部, 5(2): 1-9. Issue Date. 1954-12. URL. http://s-ir.sap.hokkyodai.ac.jp/dspace/handle/123456789/3554. Rights. Hokkaido University of Education.

(2) . 第5穣 第2号. 北 海 道 学 璽 大 学 紀 要 (第一部). 昭和29年12月. 新古今和歌集隠岐本四季部の除棄歌について 鈴. 木. 淳. 一. 北海道学整大学旭川分校国女学研究室. ‘The Four 丁zt””: About the omi Juni t t chi st ed Poems in the Part of‘ ’ Seasons (Shikibu) of the ”okibo }Shinl ー {oki Wakをshu’. 1 . 新古今和歌集隠岐本の性格 八代集の最後に成立した新古今和歌集はその規模に於いて歴代勅撰集を総合統一 した立場を占め、且それ自体 で所謂新古今風という独自な歌風を確立している。. その成立は建仁元年十一月 三 日後鳥凋院庁和歌所の新進気. 鋭の歌人群、 源通具・藤原定家・藤原家陸・藤原有家・藤原雅経・沙禰寂蓮の六人に撰定の院宣が下り、 寂蓮 が翌二年七月に殺したので、 他の五人によって後 島郷院親裁のもとに撰定せられた。 撰定事業は数多の曲折を 経た後、 元久二年三月二十六日に一睡完 了し、 前例ない覚宴が催されて第一次新古今集が完成 したのである。 (註一). その後幾度かの切紙が行なわれて勅撰集としての体裁を一層整えて来たことは周知の事である。 切継は完成 以前にも頻繁に行なわれている。 藤原良経撰する所の新古今集仮名序に 「みづから定めてづからみがけるこ と は遠くもろこしの父の道を尋ぬれば浜千鳥跡ありといへ ども我が国 やまと言の葉の始まりて後、奥竹の世々にか かるためしなむなかりける」と上皇御自からの言として仰せられているのは、 歌集撰集の御沙汰から和歌の例拾 及び切継まで総べて院の御発意と御裁断によるものであり、 通具以下四人の 撰者達は院の 諮問の格に置かれて いた事を示し、 院が勅撰集の集成たろ新古今を歌集の規範とする姿に作り上げようとされた 若々し い 御 抱 負 を物語っているといえよう。 上皇のこの様な御叡慮は隠岐 に遷られて後、 最終の切継の形とも謂うべき御撰抄. を新古今成立後三十年を経た嘉頑年間初期に作られた。 これが所謂隠岐御撰抄本であって、 現在はその御震翰 本は博らないが、 その面目をかなり詳細に樽えた柳瀬本によってその概略の輪郭はつかめる様にな っている。 我々は隠岐御撰抄本を院の切継事業の結実と見倣してよい様である。 柳瀬氏本は武田篇吉博士の 解説によれば 憲二)、 後鳥懇院褒翰と称する本を以て二係家流の新古今集に校合した写本であり、 各歌の頭に (一) 撰者名の 頭女字を記し (二) 隠岐にて除かれた歌の歌頭と作者名の頭に朱圏を附して (三) 書名を新古今和歌抄と改め (四) 題詞本女で修正すべき所に朱で符号を附した上且 (五) 後鳥羽院窟作の版を載せているといわれる。 小 島吉雄博士の調査された結果では、 撰者名の記入された写本は全部で十六本あるとのことである 唖三) 。 更に同. 博士の御教示によると、 撰鞠r名書入本には古典文庫の小宮本の鎌刻、 谷山茂氏が人文研究四巻六号に報告され た詐本新古今和歌集が発見されておって、 今まで計十八本ある事になる。 これらは新古今所牧歌の全部若しく. は一部について撰者名が書入れてあり、 全部に書入れしてある本は柳瀬本と武田瀦吉博士蔵の近藤盛行本の二 種、 除業記号を全巻附しているのは前二本と大島離太郎氏蔵隠岐本の三種であって、 他は一部に除棄記号を欠 くか或は一部に附 してあるに過ぎない。 これらを検討され、 小島博士は隠岐本の面影を有する写本柳瀬氏本等 十一本から、 院が隠岐に於いて除棄せ しめられた歌数は三七三首と計算された。 (註四) ここで考えなければならぬ事は、 柳瀬本を始め隠岐御撰抄本の形態を保存している諸本が、 隠岐本そのまま の形態を模写したとは思われないことである。 隠岐に於ける御撰抄本には、 柳瀬本にあるような除棄記号を附し 筆を加えた形で残されるよ りは、 む しろ浄書した形で残されたものと考える方が順当 であろう。 この点は小島 博士も指摘せられる様に、 隠岐本の面目をうつす心覚えにこの様な誰号を附したものであって、 後 島鋼院御窟 翰本が出現せぬ限 り虞の面目は明瞭でなくなるのである。 柳瀬本から纏い得る隠岐本は、 「新古今和歌集第何」 - 1 -.

(3) . 鈴. 木. 淳 一. とある「集」 の字を右肩に 「抄」 と朱書 して改めてあるのによれば、 題名が 「新 古今和歌抄」 となっていたの で あるが、 その後に記する御陵女 には次の様に記してある。 「むか しより集を抄する事は其跡なきにあらざればすべからく是を抄 しいだす べ しといえども 凝政太政大臣に )。 ○ C O O O O O O ハ 、 )O J り C or. 勅 して仮名の序をたてまつら しめたりき。 すなはちこの集の詮とす。 しかるをこれを抄せしめばもとの序をか 0 000 00 00 O COO O O O 0 0 0 0 00 0 0 0 0 0 0 o o o o o o o o o C O O O O O よは しもちゐるべきにあらず。 これによりてす べての葛ないし愚詠の数ばかりをあらためなをす。 しかのみな らずまきまきの葛のなかかさねて千葛むももちをえらびてはたまきとす」(圏点筆者) 。 この内容から見れば「新古今和歌抄」 という名称は御撰抄に附していなかったのであるが、 実際には新古今集 を精撰し千六百首 に整理された旨を語っている。 故に 「抄本」 というよりは 「精撰本」 を作 成されたという方が 正 しく、 それ故良経の序文もそのまま精撰本に充当出来たのである。 「抄」 というのは原本の抜葦 であり原本よ り遥かに歌数も少ないのが当然である。 隠岐御撰抄本のよ うに三七三首の削除歌があるのは「撰抄本」 というよ りむしろ「精撰本」たる性格 であ った。 故に削除歌数及び序文からすれば柳瀬本に見える 「抄」 の朱書は原本に そのまま 「抄」 としてあったか否かは俄かに断定出来な いことになるのである。 更に想像を加えるならば、 新古 今集の一本を 隠岐に持参せられ、 それに加筆訂正や除棄記号を加えられると共 に、 それをもととして浄書本も 残されたに違いない。 柳瀬本の面目は院が浄書遊ばされた院の精撰本を底本としているものと考えれば、 その 精撰本は 「新古今和歌抄」 でなく 「新古今和歌集」 となっていた筈であり、 叉上皇の加筆訂正された原本を底本 にしていると考えれば、 歌女の内容と「抄」 の朱書は矛盾する事になる。 この様に仔細に見れば御版女の示す隠. 岐本の名称(新古今和歌集)と柳瀬本が示す隠岐大の内容 (新古今和歌抄) とは喰違う面が生じて来る。 故に柳 瀬氏本はその内容が、 完全に隠岐御撰抄本の面目を樽えているとはいい難いのであって、 御農翰本の出現 しな い限り員の面目は窺い得ないであろう。 而 してその出現はほとんど希望が持てない現状である。. 併し乍ら隠岐御撰抄本が俵島鋼の新古今の精撰本であり、 新古今歌風なるものを一段と純粋につきつめて行 かれた結実である事は疑いない。 御撰抄本の中に推定される除棄歌については、 御蹟女に 「うたごとにいうな るにしもあらず。 そのうち自らが歌を入れたろ事三十首に余れり。 これによりてすべての歌ない し愚詠の数ば ます」 と明示されているのであって、 御撰抄の具体的方針は、 (一) 御自詠の数を減 じたことと、 かりを改めなそ (二) 傷ならざる歌を削除或は訂正遊ばすことの二点についてであった。 この二点にむかつて 御撰抄の連作が 進んだと見て差支えないであろう。 2 . 除葉歌 の性格について 隠岐本に於ける除棄歌総数は前連の如く三七三百であることは、 略々 実数に近いものと して 信じてよいと思. われる。 新古今和歌集流布本によると、 収載総歌数は一九八一首であり、 その除薬歌との比率は一三・七%であ る。 集中除棄歌多い作者を多い順に列挙すると次の如くになる。 全 歌 数 除薬歌数 作 者 読. 人. 後. し ら 島 湖. 西 慈. 行 円. 法 僧. ず 院 師. 二二百 一七首. 一一〇首. 一二首 一〇百. 三四首. 貫 紀 原 藤 俊 凡 河 内 躯 恒 右 徹 門 督 通 具 原 藤 定 家 泉 和 式 部・ , 夫 暦 御 門 (村上天皇) 明 惟 王 親. 九首 七百 六首. 九四首 九二首 三二首 七三首 一〇首. 六首 六首 六首. 一〇首 六首 一五首. 五百 五百. 一一首 一七首. 伊 源. 五百 五首. 四フ 首 二五首. 五百. 六百. 正 之 成. 勢 重. 之 春 宮権太夫公 継. ー 2 一. 除 棄 牽 二0. % 五0 % 一二・七% 一○・八% 二八・一% 九・五% 六○ % 五0 % 八三・三% 四五・四% コ五・二% 二四 % 八三・三%.

(4) . 新古今和歌集隠岐本四季部の除棄歌について 以上は除棄歌五首までの歌人を挙げたに止まるが、 最も多いのは上皇御自身の御歌で、 全歌数三四首中一七 首を削除きれている。 これは隠岐御撰抄本を作成された主な目的が、 院御自身の御歌を削除されることにあっ た鴬この目的に合致する事であった。 新古今集仮名序に遊べる如く、 勅撰集に帝の御歌を三十首余りも入集し ている事は前例なき罵に先例に倣われ、 叉歌人として謙虚な御心構えが、 御自詠を削除せしめられたものと拝 察する。 院が新古今歌人としては特異な極めてすくれた御資質を有 しま したにかふわらず、 遜議な御態度を持 : ノ 「増鏡」 おどろが下の燐 せられたことは、 仮名 序のタ トに隠岐に於いて催された 「遠島御歌合」 の御剥辞や(註五 r 註 六 ) によっても拝察し得る所である。 に 惟明親王の全歌数六首の中、 その大半五百を除かれたことは目立っているが、 惟明親王は後鳥羽院の兄君に 当られる間柄であって、 院の遜議な御態度が御兄君をす ぐれた 新古今歌人の間に伍せしめるのを はばかられた のであろう。 右衛門督通具は新古今撰者の一人であるけれども、 除棄比率三五%の高さに昇っているのは父源 通親が院庁内に勢力があって後鳥羽院とは特別 の関係もあり、. その間の情実のせいで撰者の一人に加え、 新古 今にも比較的多数ス集 せしめられたのであった。 もともと通具は歌人として優れた素質を有し ていなかったよ うである(認七ノ 。 それを遠島に在って自由に歌を取捨せられ、 従来の行きが りを捨てさせ給うた院が、 隠岐御 撰抄本作成の際、 思い切って除棄されたもののように拝察するのである。 . 紀貫之・凡河内第恒・天暦御門・源重之・和泉式部等が何れも高率を示 してい 外に比率を見て感ずく事は、 るのである。 これ等歌人は春宮権太夫公継を除き何れも新古今時代歌人でなく して、 それ以前の古典歌人群で あった(誌八) 。 藤原俊成、 同定家を始めとし西行慈円等の現代歌人群の除棄比率は何れも古典歌人群に比 べて遥 かに少ないのである。 このことは院が新古今時代歌人群を重ぜられ、 御撰抄の際、 一層当代の歌詠を遺される ことに留意遊ばされた御意志が窺えるのである。 新古今集は序文に明示する様に、 万葉以来七代集にえらび残 された和歌の集成では あるが、 御撰抄に於いては更に現代歌人款を重んじ、 当代の華を後世に博えようとされ たのである。 個々の歌が具体的にどのような理由から除棄の対象となったかの問題は、 除棄歌全部については容易に定め がたいが必らず除かれた歌は次の如きものである。 (1) 贈 答歌の晴歌が除棄せられた場合は答歌も必ず除棄される。 【例】 「君がせぬ我が手枕は草なれや涙の露の夜な夜なぞ置く」(恋五). 光孝天皇御歌 (除棄歌). という賭歌が除棄されているので返歌の 「露ばかりをく らん袖はたのまれじなみだの川の滝津瀬なれば」 (恋五) よみ人 しらず (除棄歌) も除棄される。 文の歌があった場合には序女の趣旨に従って除棄する。 1 (2) 過去の勅撰集に俄」 【例】 「いづかたに行きかくれなん世中に身のあればこそ人もつらけれ」(恋五) よみ人 しらず (除棄歌) この歌は拾遺集恋五に見えることによって除棄せられる。 更に風絶 景次郎先生の御説に従えば(註九) (3) 新古今集の統一美--歌題の排列と新旧歌人群の排列の順序の整斉--に支障をきたすも の は 除 棄さ れ る。. 【例】 「春といへばかすみにけりなきのふまで波間に見えし淡路 しま山」 (春上) 俊悪法師. (除薬歌). この前後の 歌には用語上の同系の類推があるが、 この歌はその間に在って、 前後に関係うすく類推が 断絶する鷺に除棄する。. これは新古今集が連歌的構成を取って居り、 新古今の美意識が万葉のそれの様に一首一首独立して鑑賞され る対象というよりは、 むしろ大きくは一部立を全 部纏めて鑑賞 し、 小さくは一歌題のもとに構成された一群一 群を単位に鑑賞せねばならぬ性質を持ち、 或は一首一百に就いては、 一首 から次の一首に推移 して行く空間に 美が多く存在することを意味する。 連歌の女酋はその様な連続の美であり、 推移する墓間の気味に味わいが生 ずると謂われるが、 新古今集も多分にそのような構成を取っているのであって、 換言すれば連歌的集合美若し は連続美を離す歌は除棄される傾向にあったのである。 叉小島博士によれ ま健一0).

(5) . 鈴 木 淳 (4) 歌柄が新古今風に合わないもの及び後島郷院の御趣向に合わぬ歌を除薬する こ とと外に前述の、 (5) 後島須上皇の御作を多く除棄する. (6) 古代歌人群の作を多く除棄する となって大略を纏めると以上のような六項目に帰するのである。 この中(3)以 下は概然 的 樫質であり単独の和 )以 下の何れかの儀項に該当するために除棄 したと断定することは頗る困難である。 二項、 三項が 歌に対 し(3 重複して除棄対象となった歌も少なくないであろう。 しかしいく らかでも 確実な除棄理由を 推定出来る余地が あればその追究は怠る べきでない。 3 , 述懐的要素を有する歌 ここに更に考究しようと思うのは除棄理由 (3)、(4) に関 して である。 (3) の点に就ては歌題の排列の整斉は 御撰抄中特に四季の歌に関 して強く維持されていた跡が見えるのである。 例えば次の歌に就いて見よう 鰹--) 。. 述懐百首歌よみ侍りけるに若菜 (一五) 「沢に生ふる若菜ならねどいたづらに年をつむにも袖はぬれけり」 (春上) 皇太后宮大夫俊威 (隠岐 本 除 棄 歌). この歌は隠岐御撰抄本に除葉されている。 詞書に「述懐」 とあるから主観的感懐を詠もうとしたことは明 らか で、 歌題の 「若菜励ま歌題を生かす鴬に用いられているのではなくてこの場合は感懐を述 べる素材としての役割 を果している様に思われる。 この歌の前後を列挙 して見るに、 (一三) 「若葉 つむ袖 ぞと見ゆるかすが野の飛火の野 べの雪のむら消え」 (一四) 「ゆきてみぬ人 もしのべと春の野のかたみにつめる若 菜なりけり」 4 まのひ. (一六) 「さゞ波やしがの浜松老にけりたが世にひける子日なるらん」 の様な歌であって、 何れも歌題に即 した叙景的な歌が並 んでいる。 この中に在って独り (一五) の歌だけが主情 的感懐歌- ぐあることはこの附近に於いて不調和な感を免かれないであろう。 印象鮮明な 厭景をまなうらに浮 べ 乍らここま で読み進んで来た眼には、 ここでその印象が断絶するのを覚える。 この歌の次からは叉前のように 所象的な情景が展開されてゆくのである。 こう した前後関係における 不調和がこの歌を除かしめた一因となる ようである。 更に 「連 喪」の歌は四季の歌を通 じて新古今集には外に只一首あるのみでその歌は夏の部の 述懐によせて百首歌よみ侍りける時 (皇太后宮大夫俊成)(非除薬歌) (ニニー) 「けふは叉あやめの根さへかけそへてみだれぞまさる袖の しら玉」 であり 歌題はあやめであって 「 述懐によせた歌 」 という非除棄歌 であるが、 これは 、 前の (一五) の歌が 、 「述懐(若葉) 」 の関係とすれば、 之 は 「あやめ(述懐)」 の関係になっていることに気づくであろう。 そうすれ である。 故に厳密な意味合からは、 述懐歌は(一五)番を除いて新古 べ の るのが第一の眼目ではない歌 ば感懐を 今集四季部には存在しない事になる。 四季歌は四季の風物がその折々の歌 題となり、 風物の変化は歌排列の変 化と軌を等しく していることは周知の通りであるが、述懐歌がその意味から四季部に入るのはふさわしくなく、 寧ろ 「難の部」 に入るべき性質であった。 新古今難部には (一五) 番と同趣向のものがかなり 多く見受けられ る。. 自前述懐といへ る心をよめる ば槍おもひ出ょたも 渇こちぎる在明の月」 の関係で 「 述懐( 月) らかに 」 等は明 、 月に寄せた述懐であり、 詞書にも 「述懐」 と明示している。 次の歌は (一五) 番と全く同趣向、 同じ詞書である。 (一五--) 「うき身世にながら. 述懐百首歌の中に五月 雨を (一四九0) 「さみだれはまやの軒ばのあまそ. ぎあまりなるまでぬるる袖かな」. 述懐百首歌よみ侍りけるに (一六七一) 「いかにせんしづがそのふの奥の竹かきこもるとも世の中ぞかし」. 之と同様な述懐は難の部の一八一番、 一八〇三番、 一七五一番、 一七五五番、 一七六九番の歌等を数える事 一 4 -.

(6) . 新古今和歌集隠岐本四季部の除薬歌について が出来る。. 尤も速穣が主であるか、 四季歌題が主で述懐に寄せた歌であるかの弁別は新古今撰遮の折に明月記に示す様 に頼る困難を極めた仕事であったろう。 例えば、 さみだれの室はれて月 あかく侍けるに (一四八九) 「五月雨の峯だにすめる月かげになみだの雨は暗るるまもな し」 (難上). 赤染衛門. の歌は柳瀬本に「此五月雨帯夏部題不知同作者二入之始見之織可尋証本後鳥卿院慶筆者夏部裏被出之」と註記し てあり(註一二) 、 この歌は夏の部にも入っていたとも考えられ、 後 島額院はそれを夏の部に入れるのはふさわ し くないとして削られたと告げている。 この辺の消息は恐らくこの歌が、 「さみだれと月」 という歌題よりもそれ らをくくめての述懐的要素が極めて濃厚なために夏の部から切出す対象と 考えられたのではあるまいか。 現に この歌が切出歌となっていないのは雑部におさまることによってその地位を占めた鴬と思われる。 これは単に億側の範囲を出ないにしても、 主題とするものを確実に見定め、 それを部類分けする事がなかな か容易でなかったことは、 この註記が物語っている。 新古今集家長本の奥書に 「部類のほどは楼鞘r達五人なか ら日ことに歌所にまいりて日めもす に候へばひわり こくたものなとを のをのめしよせ あげたてはくるるを 限り にて」 部類したとある係は部類分けのいかに難渋であったかを物語っているといえよう。 しかして部類別慶味なものを四季部に挿入されても歌柄 が「遮穣」 と銘うってあるのは排列上前後の美観に統 一性を失うために隠岐本では除棄の挙に出られた事が(五) 番の歌に就いて言い得るのである。 この事は詞書 に述懐とある歌のみならず、広く遮懐的要素を持った主観度の眠い歌に就いても除薬される傾向 にあったようである。 換言すれば、 四季部は四季の歌題を どこまでもすっきりと生か した歌によって統一せ し めようとする御意志が働いていたようである。 (四七0) 「露は袖に物思ふ頃はさ ぞな置く 必ず秋のならひならねど」 (秋下) (五四九) 「身にかえていざさは秋を惜しみみんさらでももろき露のいのちを」 (秋下). 守覚法親 王. (二三六) 「ほととぎす 雲井のよそに過ぎぬなりはれぬ思ひのさみだれの頃」 (夏). 大上天皇. (五七八) 「多をあさみまだき時雨と思ひしにたへざりけりな老の浜も」 「多」. 清原元輔. (五八三) 「世の中になほもふるかな時雨つつ雲まの月 のいでやと思へば」 (多) (六一四) 「多の夜のながきを送る袖ぬれぬあかつきがたの四方のあらしに」 (多). 大上天皇. 和泉式部 ′. 大上天皇. 等は遮懐的要素を多 分に含む歌であって、 これらは何れも隠岐本にて除かれているのである。 (二三六)番の大. 上天皇御作は承元二年二月内宮三十首中の御歌であり、 最初の新古今集完成後に切入れられた御歌であって、 上皇の御作を御自身で切入れられる事は、 余程の御自信あった歌と拝察するのであるが、 それをも御撰抄にて 除かれているのは、 御自身の作である事も理由の一つには違いない が、 ま して重要なのは、.述懐的要素を持ち、 前後の叙景的な歌に照態しなかったが篤であろうと思う。 新古今集尾張家包には、 承久の御述懐の作であると 明言巳して居り(註‐ョ) 、 新古今中の秀細にであって、 憂愁に閉された院の御心情が、 実感をもって迫る御作と拝す る(註一四)。. 同様な作で除葉された歌は、 六七六・ 六八九・ 七〇0、 七〇二、 七〇五番等がある。 多歌に多いのは雲の 「降 る」 が世を「経る」年 「経る」 の述懐的語句を聯想させるからであろう。 これらの歌は 「難」 の部の (一五三四) 「ふけにける我が身のかげをおも≦ 間にはるかに月のかたぷきにける」 (雑上). 西行法師 (非 除 薬 歌). の歌と述懐的要因において何ら変りはないのである。 かく して新古今集四季部に於て、歌題より述懐もしくは遮懐的要素が勝っている歌は雑部にあるのを至当とす る篤除棄される傾向にあった といい得るのである。 4 . 四季歌題の照合 こうした傾向は四季歌々題の照合に就いてもいえるのである。 例えば. 家の百首歌合に余寒の心を (二三) 「塞は槍かすみもやらず風さえて雪げにくもる春の夜の月」 (春上) 和歌所にて春山月といふ 心をよめる. 濡政大上大臣 (非除案歌).

(7) . 鈴. 木, 淳 一. 前 (除薬歌) 越 (二四) 「山ふかみなを彫さむ し春の月塞かきくもり雪は降りつつ」 (春上) 一群を鴬して 「 「 はこの後にも であり 二四 が 月 が 余寒 ( ) 春山月」 二三 ) の連続した二首 の中で、 歌題は( 」 、 、 いる。 そうすれば同 季節中歌題 が二重になって統一を乱す篤 「山ふかみ」 の歌は省かれて然るべきであろうo ,即 ち月という歌題がここにあっては歌題の統一を乱すことになる。 この後に続く歌題は 「萱」 である。 (除棄歌) (三二七) 「たなぼたは今やわかるる天河かは霧たちて千鳥なくなり」 (秋上) は歌題 「秋の七夕」 であるが素材に 「千 島」 を用いてある。 「千 島」 の歌題は、 (六四八) 「さ夜千鳥声こそ近くなるみ潟かたぷく月に汐 や満つらむ」 (多) (六四七) 「月ぞ澄む誰かはここにきの国や吹上の千鳥ひとり暗くな り」 (多) の如く多の歌題であって、 「七夕-千鳥」 の組合せの不自然さが除棄理由 であろう。 (四二六) 「風わたる山田のいほをもる月や穂なみにむすぶ氷なるらん」 (秋上). (除棄歌). これも「秋の月-氷」の関係で、 秋の歌題に多の歌題 が混入している。 篇家卿の 「詠歌一体」 に (註一丸 「春の題に秋のものをょみならヘ秋の題に春の景物を引ょすること更々要な し」 とあるのは季節の矛盾 した歌題を坂合せることを警めたのであって、 「春一秋」 という歌題の版合せは悪いと し ている。 しかし「春一夏」「秋一名」 というような季節の推移に従った取合せはさ して はばからない。 事実、「秋 のもみぢ-多の しぐれ」 等の取合せは集中に多く見える。 しか し乍らそれは概ね季節推移に則った取合せであ った。 「秋の七夕-多の千鳥」「秋の月-多の氷」 は 「秋→多」 の推移には従っていても、 これらは 「秋上」 か ら「多」 の景物につゞいているので、 唐突に過ぎる恨みがある。 こうした熟成せ ざる詩情からなる季節的に不自. 然な景物を取合せた歌が除薬されたのである。 (六一二) 「夏かりの萩のふるえはかれにけりむれゐ し 詠ま塞にや有らん」 (多). (除棄歌). という除棄歌もこの前後には「萩」 を詠んだものなく、 この周辺歌題は 「霜」 であるが、 その間にあって如何に もそぐわない感を奥えるが故に除かれたのであろう。 多少ともこう した傾向にある端棄てられた歌は 相当多く を数えるのである。 「さみだれの雲の絶え間を眺めつつ窓より西の月 を待つかな」 (五月雨中の月 が中心) (二三三) . (二二). 「いづれをか花とはわかむ故郷の春日の原にまだ消えぬ雪」 (梅花一首だけ独立). まととぎす中の なで しこが ′ (一九六) 「ほととぎすなきつついづる足引のやまとなでしこ嘆きにけら しも」 ” 中心) 等は歌題の 系列には属して居っても中 心は各々別になっている歌 で、 かような歌は概して除かれている ようで あ る。. 之を要するに四季歌題に忠実に即さない歌は歌集の整斉美の観点から、上皇は除かせられる御意志があったと 得るであろう。 かく して新古今集一巻が規範たるにふさわしい均整美を御撰抄に於いてとふのえ、 新古今 鑑賞の障害を飯除こうとされたのである。 い. 5 . 優艶 余情 に 鉄 ける歌 前述の整備的統一美の観点から除かれた歌のタ トに、個々の歌に難点があった篇省かれたものもかなりあった。 小島博士はそれを(一) 題意の生かされぬ歌、(二) 歌調や意味上妥当をならざる歌、(三) 本歌版拙き歌、(四) 趣味常套的 同趣向の歌、 (五) 歌調に暢達優艶味を歓く歌、 (フ) 余情美乃至聯想美をもたない歌、( 七) 修辞 華麗にすぎて感情のこもらない歌、 (八) 狭い意味で上皇の御趣味に合わぬ歌の八項に分類されている(誌-六) 。 この除棄歌傾向は概して云えば、 新古今風ならざる歌が除葉されたのであって、 院は余情優艶美なき歌を好 !の重要な美 ませられず、 趣向陳腐な歌を緋せられたことになるのである。 この 「優艶」 という批評語は中世歌壇 意識で あり、 上皇も後鳥鋼院口鱒に、 院の歌道の先達である俊成について、 「釈阿はやさ しくえんにこころもふ かくあはれなる所もありき」 と許せられ、 定家については「詞のやさ しくえんなる」様を称揚 しておられる。 叉 続歌仙落書には「定家は造ある家の庭の面に玉を磨ける心ちする」 との べてある。 優艶な歌風を持った定家につ いてのこの語は、 「やさしくえ んなる心」 の内容を端的に言いあらわ したものと云えよぅ。 「やさ しき心」 は平 安朝的もののあはれの詩情が、 最もやすらかに自然に形象 化された場合をいっているのであって、 その基本的 性質である 「もののあはれ」 の延長であり発展であった。 俊成の 「幽玄」 も多分に平安朝的もののあはれの精神 - 6 -.

(8) . 新古今和歌集隠岐本四季部の除棄歌について が含まれている。 その学統を受けさせられた後鳥鋼院にもその意が充分あったと考えられる。 故に 「歌ごとに いうなるにしもあらず」 として優ならざる歌を除葉されたの である。 例えば (四一二) 「たった山夜半に嵐の風吹けば雲にはぅとき峯の月かげ」 (秋 上) の様な歌はたけ高き調 べではあっても艶鹿 味に欠けるであろうし、 (八四). ● 「ふ しておもいおきてながむる春雨に花の下紐いかにとくらむ」 (春上) ●. は余情美なく、 単なる興味本位の歌であり、 (四二九) 「あくがれてねぬ夜のちりのっもるまで月にはらはぬ床のさむ しろ」 (秋上) はうるはしく見えず艶ならざる歌である。. (除棄歌) (除棄歌). 上塁は歌柄から許 りでなく、 新古今的優艶味をはばむ措辞上の難点がある場合、 やはり除葉の対象と考えら れた。 措辞上の立場 から全体を見渡して目立つことは、 同義語の反復が難点になって除棄されたものがかなり 大きな比重を作っている事である。 同義語の反復は歌柄の均整美を離 し、 ひいては優艶余情味を欠く ようし こな るのは明らかである。 例えば、 (一九七三) 「夢や夢うつつや夢とわかぬかないかなる世にかさめむとすらむ」 (釈数) (一入三0) 「いかがすべき世にあらばやはょをもすててあな夏の世やと更に 詠まむ」 (難下). (除棄歌). (除棄歌). これらは一見 して 「夢」 「世」 の同語の繰返 しが耳障 鋤こなっていることに気づくであろう。 或は (六八六) 「みかりすととだちの原をあさ りつふかた野の野辺にけふも暮しつ」 (多) でも 「原」「野辺」「野」 の同語若 しくは同義語の繰返しが鑑賞を妨害する。 このことは後 島鋼院の遠島御歌合 )上皇は明らかに難点とされていたのであった。 これは単に新古今歌許り の御割辞にて拝察出来るように(註一じ ~ ) 新撰龍脳の遮女に見える様に、 歌 でなく、 和歌の本質に惇るものであり、 平安時代の享子院歌合判詞や(註-ノ 「 の病として嫌っていた事であった 註一九) =抄等に 。 鎌倉時代にも同様で、 同語の二重使用を注意すべき事を十副 教訓的に述べている(註二0) 。 この様な同語、 同義語を一首の中に重複 して用い、 而もさしたる寄せなき歌は省かれたよう であって 之等 、 を除棄歌中に算すると二九百になり、 除棄歌全体の約一割強を占めるのである。 集中最も入撰歌多い西行を例 に取れば、 (一二九七) 「疎くなる人をなにとて恨むらむ知られず知らぬ折もありしに」 (恋四) (一八三0) 「いかがすべき世にあらばやは世をもすててあな憂の世やと更に恩はむ」 (雑下) (八三一) 「いっ嘆きいっ思ふ べ きことなれば後の世知らで人の過く らむ」 (哀傷) (一〇九九) 「遥かなるいはのはざまにひとりゐて人目おもはでものおもはばや」 (恋二)(以上除棄歌) の如く同諸類似語の反復するもの で棄てられているのが四首見える。 西行の除棄歌一二首中 除棄理由確実な一 首(註二一) を除いた一一首に対しその四首がこのような歌で占められている事実は、 逆に同語同義語の問題が西 行歌の除棄に大 きな理由となったと見て差支えないであろう。 後 島湖跨が 西行を 「おもしろくて心も殊にふか くあはれなる、 ありがたく出来 しがたきかたもともに相乗てみ見ゆ。 生得の歌人とおばゆ」唖ニニ)とまで嘘仰せ られたが、 除棄歌の撰に対してその拠り所に用語上の難点を挙げられ、 その難点の最たるものに、 同語同義語 の重複即ち喜撰式に謂う 「同心の病」 を挙げられたのである。 これは上皇が尊敬する西行の歌と錐も和歌の規範 に照すときは許さる べき事 でなかった。 この場合、 除棄の対象が西行である所に、 後 島瑚院が歌道のあるべ き 姿を適確に見究 めておられた深い御慧 眼を拝察し得るのである。 前雄の除棄理由 (一)(二)(三) は客観点欠陥に基くもので問題はないが(四)(五)(六)(七)(八) は後鳥 捌院の主観的御判断によるのであって、 改めて院の御撰抄の基準となった尺度を考えてみる必要があろう。 俊成の「古来風体抄」 を見るに、 下代歌集を批評している最も重要な批評語は 「たけ」 であって、 「はざまの地の歌のすこ しさ きざきの楼集みあはすにはたけのたちくだりにけるなるべ し」(註ニヨ) とあり、 或は詞花集は後拾遺の歌よりも 「たけある歌」 が多いとしていることなどが見える。 後島鋼院口節には、 「寂運な まざりならず歌よみ しものなり あまり案じくだきし程にたけなどぞいたくたかく はなかりしかど 、 もいざたけ有歌よまむとてたったの奥に かかる白雲と詠みたりしおそるしかりし」 - 7 -.

(9) . 鈴 木 淳 「 とか、 定家を評し給いて は、 「たけもあり心もめづらかに見ゆ」 と仰せ られ、 雅経卿は たけある歌」 多くはな ヒのように諸歌人 「 もたげ有 と賞されている 」 身の程より 対 しては 。 以‐ いが手練者であると許 し、 秀能の歌に 、 も重要な秀歌の要素となっ にたけあるや否やを以て尺度とされたことは明瞭であり、 院には「たけある歌」が最 ていた事がわかるのである。 叉隠岐の遠島御歌合 ではその勝負の判定から推せば、 「たけある歌コ「をかしくあ はれなる歌」 が最秀粥歌で「よろしき歌」 「えんなる歌」「やさしき歌」「ことはり深き歌」 「優なる歌」「をかしき 歌」 がょき歌 であるとされている。 これからすると後成の系譜を受けられた院は 「たけある歌」 「をかく しあは れなる歌」 を最も理想とされていたのである。 「たけたかき姿」 は 「清らかな品位を保った歌」 であり(註二四)、 {註二五) である。 つまりつづめて云えば、 率直壮大な感覚 「たけ高き心」 は 「おほらかなゆたかな実在の感じ」 (註二六) であろう。 院は蓋 しこの様な歌を好ませられたのである。 このことは院が歌人と して秀でた御才能を有 しておられたのみならず、 院の万機を統 べさせ給 う 「帝」 としての御性 格が、 御作歌におのずから惨み出たも のと拝察する。 院の御生涯が示す様な英湛な御気象から詠ぜられる歌は、 悠揚として迫らぬ御歌調を 本意とせ られたのであ って、 いわゆる至尊風(註二t) であり、 おほらかな広さと大きさを感じさ せる帝王体とも謂うべき御歌風であっ しの 二八) た(誌: 。 新古今中の後鳥孤院歌を拝するにも 「後鳥湖院御集」 を拝するにも、 帝としての御一人の風格が であって の歌と凡そ背馳するの をことと し繊麗巧撤な定家等 ら観れば 精巧な修辞 、 ばれるのである。 この点か 、 上皇は西行、 葱円、 秀能の系列に回せられる新古今歌人であらせられた。 故に、 感情の寵らぬもの、 修辞の遊 戯にのみ終始 しているもの、 歌調に暢達ならざるものら前述 (四)-(八) までの歌は院の御歌風と性格相反する ものでなくてはならぬ。 故に (除棄歌) (八四) 「ふ しておもひおきてながむる春雨に花の下総いかに とく らむ」 (春上) (除棄歌) (ー一二) 「風かょふねざめの袖の花の香にかをる枕の春の夜の夢」 (春下) べ ので て除かれた している歌はす 後鳥孤院風と相反 的優艶さと余情少なく 等の奇智的修辞 のみに縫って新古今 、 あろうと思われる。 以上を要するに、 四季部除棄歌に於ては歌集の整斉美を歌題に則 して意図せ られていたという事と、 個々の 除棄歌は客観的欠 陥と後鳥捌院御主観によるものがあり、 院の御主観は所謂帝王体に近き、 興趣深く しておお らかな巧まざる誠心の披遜されたものは秀歌とされた篇、 単なる修辞的技巧に終始 したものや、 時代的な趣向 である優艶余情味の乏 しきものは概ね除かれる傾向に在ったとい 得る。 その具体例に「連酸」 の歌及び 「歌題 排列」 に無理ある歌、 「同心」 の歌を取り上げて考察 した。 ま院が和歌所を再興 し、 新古今編纂を企図せられて異常なま での歌道への御執心は、 御境遇の然らしむ 癒えも るものとは云え、 卓抜の御才能と勇猛の志なくては能わぬものであった。 極めて御謙遜 の御態度を持せられた 院が隠岐御撰抄本を完成されたのは、 歌道に対する絶対の御自信があった鴬と拝察する。 ここに我々は忌埋な. く当代諸歌人を批評遊ばされた御口節が成立した地盤 を見出すのである。 本稿を鴬ずに当り、 北海道大学教授風巻景次郎先生並びに大阪市立大学教授小島吉雄先生から多大の御指導 を賜わりました ことを厚く御凧申 し上げます。 (誌 一) 岩波講座日本女学、 徳本正俊氏 「家長本新古今集の形態」 (謙 二) 武田蔵青博士 「新古今和歌集 の成立とその諸伝 本」 六七頁 (隠岐本新古今和歌集武田・折口校所載) (謙 三) 小島吉雄氏 「新古今和歌集の研究」 二二頁 (融 四) 同氏 「同書」 -三二頁 ・ 洋書類従第百九十九) 九番の歌合に女房(後鳥羽院) の歌を御自身 「世にま じらぷ 1 (註 五) 「遠島御 歌合」( ま云云」 と仰せられた、 御列詞が見える 歌にて もなげれも (謡 六) 増鏡 「おどるが下」 の像に後鳥羽院が 「なほ このなみには立ち及びがた しと卑下させ給 ひて例の詞 (千五百番歌合) をばしるされず云云」 とある。 (証 七) 小島吉雄氏 「新古今和歌集の研究篇」 六頁 (註 八) 風巻景次郎氏者 「新古今時代」 -一三頁 (話 ミ 九) 同氏著 「同書」 二二九頁 「新吉和歌集の研究続篇」 -一七頁 (謙一○) 小島吉雄氏, (謙一-) 和歌番号は国歌大観の番号によった。 (註一二) 武田・折口氏核 「隠岐本新古今和歌集」 三二 .五頁 (註一三) 窪田空糠 氏 「新古今和歌集評釈上」 -八一頁に石原正明の 「新古今和歌集尾張家包」 の説を引用 し て あ る。. (謙一四) 塩井正男 「新古今和歌集詳解」 二〇〇頁.

(10) . 新古今和歌集隠岐本四季部の除棄歌について 善一博士 「中世歌論集」 中の 「詠歌一体」 -一九頁 (註一五) 久松? (註一六) 小島吉雄博士 「新古今和歌集の研究続篇」 -0九頁より一一八頁まで。 (誌一七) 群書類従第一九九 「遠島御歌合」 の六-番 右 「年をへてひげどょはらぬ梓弓さてやゆづるのかけはなれけん下野」 の 御列詞に 「上旬に梓弓といひて下旬にゆづるとよめるは、 もし同 じ事にや。 しかれば左柳可し縛し腺」 と あ る。. (註一八) 日本古典全書 (朝日新聞滝刊)「歌合集、 享子院歌合 「二番左 「咲かざらむものとはなしに襖花面影にのみまだき見ゆらむ」 左はらむ二つあり。 右は山襖といふこと負くとて特になりぬ」 とある。 (謙一九) 続群書類従第四五六、 新撰髄勝 (註二○). 「み 山 に は あ ら れ ふ る ら しと山 な る ま き き の か づ ら 色 づ き に け り ooo 是 を や ま ひ と しる す、 山 と山 と な り」. ”折第一 「可し定ニ心操振舞」 事 十司 「あふまでとせめて命のを しければ恋に そ人の命なりけれ これは長元八年三十講の歌合のうたなり。 同 じ詞の病なれども歌がらのよくなりぬれば聞きとがめ ざ る に や」. 新古今集巻二○釈教の (註二二) (註二三) た二四) (言 (謙二五) (証二六) (註二七) (註二八). 「立ち入 らで雲間を分けし月影は持たぬけしきや空に見えけむ」 は待賢門院堀川の歌 (除棄歌) に 対する返歌。 「後鳥羽御口伝」 (岩波文庫中世歌論集) 二二二頁 「古来風体抄」 (同上) 二五頁 釘本久春氏 「中世歌論の性格」 八九頁 同氏 「同書」 「○九頁 ミー博士 「日本文学評論史古代中世篇」 三一二頁 久松縦 折口信夫博士「新古今集及び隠岐本の文学史的価値」 -○四頁(武田・折口校隠岐本新古今和歌集所 風巻景 次郎氏著 「中世の女学伝統」 -一五頁. - 9 -.

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