国信卿家歌合について
国信卿家歌合について
稲田繁夫
宰相中将源朝臣国信一家歌合は︑袋草子下巻および和歌三略目録によ
ると︑康和二年四月二十八日︑参議中将源国信の主宰によって催された
歌合で︑源三三が中心となって衆議判が行なわれている︒拾遺集︑後拾
遺集時代の遊戯本位の歌合の時代から︑金葉集以降新古今集に至る文学
的歌合に発展する歌合史上︑基俊︑一三︑顕季の鼎立した元永期の歌合
は一時期を画するものであるが︑その文学的歌合への転回の契機をなす
ものは︑実にこの国信国家歌合である︒それは︑この歌合が経信亡き後
の三年目︑通俊亡き翌年に彼等亡き後の歌壇を背負う俊頼︑基俊などの
新進歌人によって行なわれたということと︑これら新進歌人による自由
な衆議判によって︑歌合の文学性を追求論争したためである︒このよう
な衆議判の雨芽は︑既に永承五年四月二十六日の麗耳隠女御絵合に見る
ことができる︒また︑承暦二年四月二十八日の承暦内裏歌合は顕房判で
あるが︑その行事様式の盛大なこともさることながら︑真剣な文学的態
度を堅持した論難に主力が注がれているし︑重篤の中にも参加歌人たち
の主張や論難を明記した衆議判的傾向は︑平安後期の文学的歌合の隆昌 ②を約束しているのである︒これに次いで︑寛治八年八月十九日薄陽院七
首歌合がこの新しい交学評論意識を高めた︒類聚歌合廿巻本についてみ
ると︑八雲雌蕊で﹁天下の判者﹂と激賞された程の経信の判も︑歌合史
上最初の疎状様式として注目される﹁筑前の早目﹂となって反駁せられ 二二
た︒経信は︑歌合当日欠席して模様を正しく伝えられなかった筑前に対
し︑精しい好意的な批評や説明の返事を送り︑筑前は可なりの納得をし
ながらも更に第二回目の陳状を書いている︒このような歌合における評 ③論意識は︑経信の読後拾遺抄となって高まって行ったのである︒
国信三家歌合は︑このような文学的歌合が急激に盛り上る一契機をな
すものであって︑俊頼が判定の主導性をとりながらも︑亭主命︑縦錐無
判︑唯以衆議可被量定者︑循互忘左右之義︑各達所看而己︒というよう
に︑左右の方人というわくをはずして自由に各番の歌を批評討論した︒
こういう完全な衆議判による歌合の出現したのは︑前述したように︑こ
れまで高まって来た文学的歌合における評論意識の成長とともに︑こ︑
数年のうちに︑顕房︑経信︑通俊という代表的な判者を次汝と亡い︑直
ちにこれにとって代るほどの判者を持たなかった歌壇の状況によるので
あろう︒ ④ 俊頼もこの物すでに四十六才になり︑群書類従本所収歌合だけでもそ
れまでにいくつかの歌合に参加しており︑殊にこの年より六年前の高三
富七首歌合では︑後に定家の近代秀歌遣送本や為家の詠歌一体に﹁晴れ
の歌﹂と賞讃された︑
山ぎくら咲きそめしょりひさかたの
雲居に見ゆる滝の白糸
の詠があり︑俊頼の斡旋によって成ったと見るべき堀河百首は︑この後
二︑三年の康和四︑五年にその第一次的成立を見た程であるから︑外
信︑通俊亡き後の歌壇の代表的位置にあると認められていたであろう
が︑彼が名実共に判者となる四年後の︑長治元年五月二十六日の左近権
中将俊忠朝臣家歌合に至る過渡時代であったということができるであろ
う︒こういう歌壇の状勢下に︑高陽院七首歌合で発足した俊頼の和歌革 ⑤新の運動が︑この歌合の自由な衆議判の中で基俊︑隆源などに十二分κ
⑥﹁こづかれ﹂て成長していったのである︒
このようにみてくると︑前述永承五年の麗景殿女御絵合以来の衆議判
的傾向が︑同じ頃から文学的歌合としての評論意識の高揚と表裏し︑一
の頂点をなすのが国信卿家歌合であり︑これが煮つまって俊頼︑基俊な
どの二人判や三人判の元永期の歌合時代を迎えるのである︒俊成は最も
偉大な歌合判者として︑今日正確に判明しているだけでも︑二十度を越
える判者を独占したのであるが︑この経過は別の観点からすると︑経信
以後︑俊頼の新傾向と保守的な基俊との対立︑これを総合した俊成の幽
玄美の樹立という︑和歌史的︑歌論史的推移と軌を一にするものといえ
るであろう︒ 高陽院七首歌合において︑すでに発足した俊頼の革新的な歌風が︑前
掲﹁山桜咲きそめしょり﹂などの経信判では︑俊頼の革新的な試みに同
感しながらも︑我が子に私意を挾んではならないと警戒し︑また当時の歌壇ではこのような美的境地は︑十分に一座の共感を呼び得ないとして
持とせられた︒それから六年目の国信卿家歌合においては︑俊頼の革新
運動が︑それまでに成長して来た各歌人の活発な評論意識のもとで︑さ
らに経信のような支配的な判者を失って︑奔放になった討論の中で︑ど.
のように鍛えられていくかを見ていくことは興味あることであろう︒
二
群書類従本その他の流布本系統の国信卿家歌合には判詞を欠いている ⑦が︑図書寮本には各番の詳細な判詞があり︑袋草子下巻や感想抄から僅
かに知り得た桑門隆源の陳状と︑基俊後記が付されており︑これが︑峯
岸義秋氏によって歌論歌合集に収録されているのは好都合である︒
本歌合は初恋︑後朝︑遇不逢恋︑夜恋︑歴年恋と︑恋のみの課題の歌
合で︑八人の歌人が二十番を番っている︒各課題名や︑これの部類分け
国信卿家歌合について ⑧は図書寮本と流布漆とでば異なっているが︑図書寮長の方が正しいと思 ⑨われる︒各歌人の中に今後対立していく基俊がいて俊頼と論争し︑さらに隆源が一枚加わっているのは︑判定にあたってのその場の白熱した様相が目に見えて興味深いものがある︒ 衆議判であることは前述した通り明らかであるが︑それは俊頼の主導性によるものであり︑判事は俊頼の手になることは︑基俊後記の﹁左京権大夫和歌判事︑右繕披閲之処︑愚心還有感云汝﹂の記述や︑各判型の内容から明らかである︒この歌合の一つの特長は︑五つの課題の題意の ⑯︶深刻な追求と︑題の心をあらわす詞の吟味に激論が交わされたところにある︒ 初恋二番左 俊 頼 朝 臣 風吹けばたちろく宿の板じとみ破れりけりなしのぶ心は 右 勝 基 俊 人知れぬ恋には負けじと思ふにもうつせびの世ぞ悲しがりけるを︑俊頼は﹁右歌は︑げに歌がらはをかしうもや侍らん︒はじめたる恋の心なん見え侍らず︒恋には負けじと思ふに︑年月をふとも心くらべには負けじと思ふに︑うつせみの世のはかなきなん恐ろしきとこそ貯めれ︒はじめたる心なからん恋の歌には︑をかしうもや侍らまし︒﹂と︑
﹁歌がら﹂つまり︑蒲想もおもしろく︑歌としての風姿や格調も整って
いても︑初恋という題の本意が十分に尽くされていなければ︑歌含の歌
としては不十分であると批判した︒歌合の歌は題意を十分尽くすことが
絶対的な条件であって︑題の心の追求どいうことが俊頼を中心とする歌
人たちによって︑この時ほど念ぜられたことは以前には無かったと思わ
れる︒長明の無名抄の第一に﹁魚心﹂を掲げ︑ ﹁歌は題の心をよく心得 ⑪るべきなり︒俊頼髄脳というものにそしるして侍るめる﹂と︑俊頼の言
をもって題心を説く原拠にしていることからもうかがわれる︒左の歌は
二一二
国信卿家歌含について
後述する歴年恋十八番とともに︑俊頼の新風樹立の意欲を盛った詠歌
で︑特に右方の基俊から﹁ぎれごと歌﹂と非難されたが︑俊頼は﹁歌の
品さまざまにあまた別かれてはべめれば︑かかる筋の罪なきにあらず︒
証歌をや申すべきと申せども︑証歌などたつぬべきほどにあらず﹂とつ
つばね︑こういう非難をするのを︑ ﹁ひとへにかかる詞の歌を︑好まず
知られぬとがなめりとそ心得られ侍る﹂と︑従来歌合に詠まないことに
なっていたざれごと歌を敢えて歌おうとした俊頼の意図に注目しなけれ
ばならない︒ことに︑ ﹁ひとへに云汝﹂には︑古い歌境から抜け切らな
い歌人たちへ︑一段高い所から見下している気概が見えるであろう︒し
かし︑基俊はあくまで証歌によって︑歌合という規範の中で勝負に執着
した︒ ﹁げにはじめたる心は︑よみ落し侍りにけり﹂と︑初恋という題
の本意は詠み落したことを認めながら︑ ﹁なほ勝たまほしげ﹂な基俊の
勝負に執した態度を見て︑俊頼は﹁つひの劣りまさりは︑世の人定めら
れなん︑こよひばかりは︑さらば右の勝ちにもゆるされて︑勝つ﹂と書 ⑫き入れたのであった︒温厚な人となりの俊頼は︑歌の価値は歌合の席の
判定だけで決定されるものではないという大乗的な観点から︑その場︑の
勝負に拘泥する基俊を大人げないとも思ったであろうことは︑右の判詞
の記述がよくその口吻まで示している︒本歌含後︑一箇月足らずの五月
十一日付の基俊のこの番の後記には︑ ﹁今人非所可三二︒一専可珍
重︒尤可秘蔵一︒今聞此説︑如披雲霧見青天而己︒﹂と俊頼の歌才の
非凡なのを認めている︒藤原実行︑長実が︑躬恒︑貫之の優劣を論じた ⑱時︑白河法皇は﹁この事事頼に糺すべし﹂と仰せられたり︑順徳上皇が
﹁基俊といふもの一俊頼に時野馳ふをりあり一そのこつ俊頼に及ぶ ⑭べからず︑天下に肩をならぶるものなくて︑俊頼数年を経たり﹂という
実力は︑すでに本歌合︑いや高趣院七首歌合からあらわれていたといえ
るであろう︒題の心の追求は本番だけではない︒後朝八番 二四
左 家 職
暮待つと照る日のかげを眺むれば入るべき山の端こそつらけれ 右 勝 兼 昌
別れぬるあしたの原のわすれ水ゆく方知らぬわが心かな
左の歌は﹁後朝の心にははべらで︑暮れ待つ心にこそあれ﹂という批評
であったので︑読響も﹁げにさること﹂と亭主に申し上げているし︑ま
た︑右歌も後朝の歌としては﹁わすれ水﹂という表現は﹁絶え絶え﹂の ⑭恋に使われるべき黒雲で︑後朝には不適当であるが︑ ﹁歌がらが勝つ﹂
ているので相対的に勝ちと認めたのである︒夜泊十五番 左 勝 隆 源
恋ひわびて片敷く袖はかへせどもいっかは妹が夢に見えぎる
右 仲 実 朝 臣 わが心時ぞともなく罷るれど日だに湿るれば恋ひそはりける
この左歌は勝になりながらも︑後に隆源が陳状で反駁した歌である︒
今︑反駁した語の表現の問題ではなく︑題の心の追求という観点から見
ると︑右歌は﹁日だに暮るれば﹂というだけを︑夜の意味を表わすとし
て詠んだのは﹁さもありなんや︑あながちの事にや﹂と︑疑問を投げか
け︑このような疑問を投げかけるのは無理だろうかと批判する人汝と︑
﹁日の暮るるほど﹂という表現であれば︑そういう非難もあるであろう
が︑ ﹁日だに選るれば﹂の表現は︑自然と﹁夜の心も侍りなんものを﹂
と︑判詞に特に記載されたように﹁おのおの争はる﹂程の論争が行なわ
れた︒しかし︑右歌は﹁恋ひそはりけり﹂という表現が﹁いと優にもあ
らぬ事﹂として︑長里の歌に﹁片敷く袖はかへす﹂という表現のおぼっ
かなさがあるにも拘らず︑隆源の勝にされたのである︒ ﹁優﹂という美
を歌合の判詞に取り上げたのは︑天徳内裡歌合にも見られるが︑これを ⑯明らかに美的理念として規定したのは俊頼で︑俊頼髄脳秀歌の条に
ひとへに優なる歌
よきふしに優なることぐしたる歌
などの詩歌や︑多く歌合直音の評語として使用されているが︑同十六番
判詞とともにすでに本歌合の判定における価値基準になっているのであ
る︒歴年恋十七番 左 勝 宰相中将
年をへて落つる涙をころもでにたまゆらかけぬ時の間ぞなき 右 顕 仲朝臣
思ふこといや年のはにつもるかなまたうちとくる人しなければ
右の歌は﹁またうちとくるといふ事﹂は﹁しばしおぼめかるる事﹂と︑漫
然としていて題の心をあらわす適当な詞ではない︒歴年の恋というより
医官しのようにも取%るとして・勝たせるわけにはいかなかった・題
の心の追求について基俊と俊頼の番で論争されたのは︑遇不逢恋十番 左 俊頼 朝臣
恋しさに絶えず流るるわが袖の涙を人の心ともがな 右 勝 基 俊
たはれにし妹にやあふと道の辺に問ひし夕トぞ人だのめなる
基俊は︑﹁深きとがには侍らねども︑あひてあはずといふ心や︑すくな
く侍るらん﹂と批評したのに対し︑俊頼は﹁あひてあはぬ心は︑よもそ
り侍らじものを﹂と︑題意をそれ程逸れてはおりますまいと弁明し︑む
しろ題の本意という点においては︑ ﹁三夕にこそ題の心浮かれたるやう
にこそ蜜蝋ふれ﹂と反駁している︒﹁たはると申すことは︑手に従はず
と申す事﹂であって︑ ﹁手にもかからず﹂と同じく︑思うようにならな
い女に︑逢えるかというような詠みぶりは︑やはり遇不重三という題意 ⑯を尽くしているとは見られないと︑題意に妥当する歌であるか否かを深
く突っ込んで追究している︒
国信卿家歌合について
三
題の心の追求とともに本歌含では︑詞難の指摘が難陳の大部分を占め
歌詞の持つニユアγスにきびしい吟味が加えられているが︑そこに当代
歌人たちの新しい文芸的抱負が感じられ︑やがてそれは金葉集への道を ⑲開いて行っているのである︒夜恋十四番 左 勝 俊頼朝臣
夜とともに玉散る床のすが枕見せばや人に夜半のけしきを 右 基 俊
浪の寄る岩根に立てるそなれ松またれてのみぞ恋ひあかしつる
右回の四句は︑新千載集︑袋草子下巻︑類従本基俊家集上では﹁まだね
もいらで﹂となっており︑判詞もこれと同じであるから︑これらが正し
いと思われる︒判詞によると︑俊頼は右の歌に対し︑ ﹁ね﹂文字が二度
あることと︑ ﹁岩根の磯馴松﹂という根強いものが︑あだなるもの︑は ⑳かない恋に讐えられたことの詞の難を衝き︑また︑ ﹁ねもいらで﹂とい
う詞は﹁そなれる﹂という表現と矛盾すると批評した︒左歌にも丈字病
という点では︑ ﹁夜﹂という丈字が二箇所あり︑これは天徳四年内裡歌
合恋十八番三日
ことならば雲みの月となりななむ恋しき影や室に見ゆると
の判詞﹁霊歌の上下の句のかみに︑おなじ文字ぞあめる︒にくげにぞさぶらふべき﹂などの心病であるが︑高歌が三つの欠点で負けにされたの
は︑この場合単なる形式的な問題ではなく︑あくまで鋭い言語感覚によ
る歌意の追求がなされたのである︒
本歌合には︑俊頼︑基俊は五番を番っているが︑基俊の強引な勝負に
執着した食い下り方で︑基俊は勝三︑持一の好成績をあげているが︑本
番では前述したような俊頼の批判にあい︑基俊は﹁げにさもや﹂と納得
二五
国信卿家歌合について
し勝を譲った︒ ﹁基俊つねつね俊頼の下に立つことを欲せずして︑これ ⑳にさからひて︑歌を難ぜらる﹂ことの多かった基俊のことであったか
ら︑俊頼も﹁このたびこそ︑いかなる事にか︑さきぎきのやうにもなく
て︑負くとははべめれ﹂と︑あっさり負けてくれたことを意外だとした
口吻が明らかに見える︒基俊は後記の中で﹁此歌悉有干胸︑難聞事︑一︑
首尾還相得︑禁忌死所侵︑尤可為和歌之上科﹂と賞讃しているのは︑歌
合の立場を離れ︑秀歌への謙虚な讃嘆のことばと思うべきであろう︒
俊頼髄脳によると︑馬歯の庶幾しだ秀歌は﹁優なる心﹂に胚胎し︑
﹁珍らしきふし﹂なる意匠なり趣向や構想を経て︑優なる詞が﹁なだら
か﹂ ﹁すべらか﹂に詠出されていかなければならない︑これは公任の新 ⑳撰髄脳以来の歌における調べの重要性の自覚である︒だから前述︑遇不
逢恋十番で︑基俊との間に勝負の決まらない時︑主宰者国信が︑ ﹁たが
ひの難においては︑ともかうも申しがたし︒左歌は︑絶えず流るるわが
袖の︵涙を︶﹂とつづきたり︑きと耳とまり侍る﹂と意見をのべたのに
素直に従っている︒また︑このことが春歌の方を﹁歌がらのいますこし
をかしうよまれたるやうに﹂見られたのである︒つまり︑左右はちょっ
と耳に障るところがあり︑文子続きがすべらかに下らないというのであ
って︑歌合の和歌は︑講師によって詠吟して披露され︑耳に訴えて鑑賞
し評価されたので︑声調の優雅さが重視されたのは当然である︒俊頼自
身も︑初恋一番右記仲朝臣の歌を﹁文字つづきも︑すべらかにもくだら
ぬやうに聞ゆる﹂と言ったり︑一番宰相中将の歌を﹁しつむれば﹂など
という五文字の続け方を︑調べの上から﹁いかがと見給ふる﹂と難じて
いる︒また︑後朝七番右即実朝臣の歌の中で﹁今朝の沖﹂というのは︑
﹁何事か︑心得がたき事ぞ﹂と︑歌詞として未熟生硬で︑言うべきこと
がいいおおせていないといっている︒こういう難点が﹁歌がら﹂のよし
あしを決定する要件になるというのである︒歴年恋十九番 二六
左 勝 隆 源
年をへて恋に朽ちぬるわが身こそ深山がくれのふし木なりけれ 右 仲実朝臣
つれなきを負けじとしのぶ心かなわが黒髪に霜のおくまで
﹁歴年の恋﹂という題意から考えると︑一般的に︑ ﹁胸をこがし︑心を
やく﹂年月を経ていく姿であるから︑ ﹁恋に身をくだされる﹂といアり言
え方は︑恋の心を十分に表わしているとは言えないというのが俊頼の意 ⑳見で︑これに対し︑隆源は︑永承六年後冷泉院根合相模の
うらみわびほさぬ袖だにある物を恋に朽ちなん名こそおしけれ
を証歌として︑自分の歌は﹁とがにはあらず﹂︑自分の身が恋にくださ
れて︑深山がくれの伏木になるというのではなく︑恋に朽ちた身と深山
がくれの伏木とが︑﹁いたづらに世を過す﹂と︑二つのものを並べて馨
えているのだと反駁したが︑俊頼は相模の歌を証歌とするのを認めなか
った︒俊頼は︑相模の歌は同じような意味に見えても︑この証歌ではな
い︒彼は﹁乾さぬ袖だにたへて︑朽ちざりけるに︑我が身のこの事にた ㊧一li−一 −へずして︑朽ちうせなん事を嘆く﹂のであるが隔これは︑﹁恋に朽ちぬ
るわが身こそという二丈子にひかへられて﹂やはり恋にくだされた伏木
と聞えると︑さらに反論した︒隆源は陳状の中で︑ ﹁いきどほり﹂に思
い︑ ﹁げに一丈字にも歌心かはる事はあれども︑このこ文子には︑さも
聞えずなん侍る﹂と︑不平やる方ない程であった︒両者とも席上︑随分
激した論争を交わしたようであり︑隆源の陳状にまで発展したが︑ ﹁こ
そ﹂という二文字が︑ことに歌合席上の詠吟の句切りなどによって︑ど
んなに歌の意味をかえていくか︑一品子︑二文字のニュアγスの違いが
歌意をかえていくことに対し︑俊頼を中心として随分掘り下げていった
ことがよく理解される︒
四
このような優なる詞の連続の上にかもし出される﹁すべらか﹂ ﹁なだ
らか﹂という文子続きに伴なう調べの問題は︑何も俊頼によって始めて
取り上げられたものではなく︑新撰髄脳以来の発展であるが︑年長髄脳
に規定された秀歌の重要な要件である﹁珍らしきふし﹂についての俊頼
の詠歌の実際は︑すでに高陽院七首歌合︑月七番︑桜七番などで明らか
である︒それとともに︑この歌合の判詞で︑彼の歌論として明らかに確
立されているのを見ることができる︒初恋三番左︑隆源 いはでただ思ひやるにて知らせばや人知れずのみ恋ふる心を
を︑ ﹁めづらしからぬ筋﹂の歌であるとして︑ ﹁逐字つづきなどよみ知
りてはべめり﹂と︑隆源の詠歌に年功を積んだ実力は認めているが︑俊
頼の﹁めづらしさ﹂を求める心からは遠いものと考えているようであ
る︒後朝六番 左 持 一町 朝 臣
契りありて渡りぞめなば角田川かへらぬ水の心ともがな 右 基 俊
月草にすれるころもの朝露にかへる今朝さへ恋しきやなぞ
を︑俊頼は﹁右の歌は︑ふる歌にはべめれば﹂といい︑古今革巻四秋上
月草に衣はすらむ朝つゆにぬれての後はうつろひぬとも
の歌などのように︑着想︑表現ともに詠み古した歌であると批評した
が︑基俊は得意の証歌の引用によって︑同憶病についての非難を反駁し
た︒しかし俊頼は﹁このとがは免れさせ給へども︑残りの難はさりがたし﹂と応酬したが︑基俊自身が持に判定するという強引さであった︒し
かし︑基俊もこの歌の新しさには︑十分感銘を受けたらしく︑基俊後記
では﹁1就中腰椎非古歌︒康和時勢粧也︒足驚心︒自慰以庶幾而己︒﹂
といい︑歌合では︑意識的に︑古歌をふまえ︑ノ優にして歌がらよろしき
国信卿家歌合について 歌を作った基俊も︑一個の芸術家として時流にのぞむとき︑この俊頼の歌を﹁康和の時勢粧﹂ ︵現代の新風︶として認めざるを得なかったので ㊧ある︒ 依頼が和歌の革新をめざし︑詠み古した﹁ふる歌﹂を陳腐であると退けたことは︑右の例によってもうかがわれるが︑夜恋十三番 左 勝 宰 相中将 思ひあまり凋むる室もかきくもり月さへわれをいとひけるかな 右 顕 仲 朝 臣 あらし吹く夜寒の里のねぎめにはいとど人こそ恋しがりけれを︑左右とも﹁をかしう﹂詠まれているから持にしょうと思ったが︑左の歌は﹁いますこし心すぐれたり﹂として︑左の勝となった︒ここでいわれている﹁をかし﹂とは︑ ﹃趣向︵着想︶と︑その表現効果としての興趣についていっていて︑左歌の﹁思ひあまり﹂というのも現実としての想の深さを示しているが︑ ﹁月さへわれをいとふ﹂という感動の深さが姿うるわしく表現されている︒こういう深い感動を詩的に表象した構想を︑ ﹁心すぐれだり﹂と評したのである︒ ﹁心﹂は公任以来いろいろな意味に使われているが︑この場合は定家の有心思想とつながりを持つ ⑳ような傾向がある︒﹄といわれる峯岸義秋氏の説は同感せられるであろ.つ︒ 俊頼がこの歌合において︑最も新風樹立の意欲をもって臨んだのは歴年恋十八番であったと思われる︒ 左 俊頼朝臣 君恋ふと鳴海の浦の浜ひさぎしほれてのみも年をふるかな 右 勝 基 俊 ひとごころ何をたのみて水無瀬川せきの古代朽ちはてぬらん基俊は例の通り︑証歌の有無によって俊頼を撃破しようとし︑ ﹁なみし
二七
国信卿家歌合について
ほる﹂という証歌が無ければ﹁すこぶる荒涼なり﹂といい︑また︑ ⑳ なみまよりみゆるこじまの浜ひさぎ久しく成りぬ君にあはずして
などの証歌からか︑ ﹁浜ひさぎ←ひさし﹂と続けなければならないと難
じた︒しかし︑俊頼は﹁この御難はからざるほかの事にこそ填めれ︑実
に毛を吹いてきずを求め給ふなり﹂と俊頼の発想の根本的なものを把え
ることをせずに︑見当違いの所に拘わっていると反駁した︒また︑﹁浜
ひさぎひさし﹂と続けなければならないと決めてかかるのは︑ ﹁ひとへ
のふる歌﹂になってしまう︑と反論した︒この時両者の論争が激しいも
のであったろうことは︑忌詞の文面でも十分感ずることができるほどで︑
両者の﹁かちまけ定むる人もなければ﹂というほどであったので︑俊頼
も︑いつものように基俊に勝をゆずって﹁例の右勝たせ給へと申しつ﹂
ということにしたのである︒俊頼が基俊の非難した事柄を知らないはず ⑳はなく︑散木奇歌集によると﹁金葉集の奥に御らんじあはれとおぼしく
てかきつけてはべりける﹂ なく塞にみちぬる汐の浜ひさぎ久しくもよにむもれぬるかなの詠があるほどであることからも知ることができる︒そういうことよりも︑古歌から飛躍した発想︑表現にこそ俊頼の新しい試みがあったので ⑳あり︑基俊の批評はいささかこじつけた観がある︒だから基俊後記に︑
﹁此歌義理分明︑卓牢古歌︒i各汝相闘︒両汝讐害井蛙浅智︑争知海
踏之深心云汝﹂といって︑自己の歌才を卑下し︑俊頼の歌人としてのすぐれた天分を賞讃している言葉は︑基俊の本心であったであろう︒
以上︑国信卿家歌合を俊頼を中心として見てきたが︑本歌合における
俊頼は︑十訓抄のいうように︑基後︑隆源などに︑単にごずかれたので
はなく︑従来発達してきた自由な衆議判の中で︑十分に交学評論的歌合
が花を咲かせたのであって︑そういう中で︑俊頼の新しい歌風が可なり
の意欲をもって︑古き歌振りを圧えつつあったと見るべきであろう︒
︵三七・七・三〇︶ 註① ② ③
④
⑤
⑥
⑦
⑧
⑩ ⑨
⑪
⑫
⑬⑭⑮
⑯
⑱ ⑰
⑲
⑳ ⑳
⑳
@
⑳
㊧
⑭
⑳
⑳
㊥ 二八
群書類従本その他の流布本系統の諸本は物恥相中将家歌合となっている日本古典全書歌合集解説三三頁
難後拾遣抄が経信作であることについては︑長崎大学学芸学部人文科学研究報告第十一号拙稿﹁源経学の歌論﹂参照
国語と国文学昭和十四年六月号︑宇佐美喜三八︑戸隠頼伝︑天喜三年出生説による高帰院七首歌合における三一︐の新傾向の胎動については③を参照
国史大系十五巻︑十訓抄第一︑六四三頁
大日本史料第三編の五︑八六〇1八六二頁
峯岸義秋氏著︑歌論歌合集七七頁頭註
各歌人の閲歴については︑書陵部紀要三号に橋本不美男氏の﹁歌合変異の⁝モメント﹂にくわしいと⑧の頭註にあるが参照しなかった
⑧の七七頁解説による
日本歌学大系第三巻二七七頁
有朋堂文庫墨入一首一夕話巻六︑四八五頁
同︑四八四頁
八雲御抄︑日本歌学大系巻六︑八六頁⑧の頭註による
長崎大学学芸学部人文科学研究報告第五号拙稿︑源俊頼の雪輪における美意識について参照
⑧の九一頁頭註による
③の八六頁頭註による
③の八九頁頭註による
同⑫の四九八頁
⑯の拙稿参照
群書類従八輯︑=一二〇頁
傍線筆者③の九七頁頭註による
⑧の八八頁頭註による万葉集巻=︑二七五三の歌
群書類従九輯八〇四頁
⑧の九二頁頭註による