『近代秀歌』における「近き世」の六歌人評--経信
・俊頼を中心に
著者
島村 佳代子
雑誌名
清心語文
号
3
ページ
28-40
発行年
2001-08
URL
http://id.nii.ac.jp/1560/00000347/
会 学 文 本 日 語 本 日 学 大 子 女 、し 一 圭目 、︶﹂ー ム ダ ル ト ー ノ 月
8
年 01 20 号3
第 文 語 、し 一 圭目 、︶﹂1﹃近代秀歌﹄における﹁近き世﹂
経信・俊頼を中心に
﹃近代秀歌﹄は、藤原定家が最初に著した歌論書である。本書は承 元三︵二一〇九︶年、当時四十八歳であった定家が、十八歳の実朝に 送る目的で書かれた。この年の四年前元久二一一二〇五︶年には﹃新 古今集﹄が詠進されている。同集の切り継ぎ作業の最後に当たるのが 承元末と言われることから、﹃近代秀歌﹄は、これとほぼ同時期に記さ れたと言える。 ﹃近代秀歌﹄は内容を大きく二つに分けることができる。 前半は、いわゆる歌論部分であり、まず和歌史を振りかえることか ら始めている。この部分は歌本来のあり方が理解されないまま展開し てきた、今までの和歌史に対する定家の批判意識が反映されたものと 言える。その和歌史の中で、伝統を受け継いで秀歌を詠じた歌人とし て﹁近き世﹂となってあらわれた歌人、経信・俊頼・顕輔・清輔・俊 成・基俊ら六人の存在を指摘する。和歌史を概観した後、本文は作歌の六歌人評
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技法として、本歌取について言及している。 後半は秀歌例を挙げている。初撰本と再撰本とがあり、まず、初撰 本においては、前半部分で名前の出た﹁近き世﹂の六歌人の作を挙げ る。再撰本は、成立時期は定かではないが、初撰本から数年の後に改 撰されたもので、八代集全体に範囲を広げての抄出となり、歌数も三 倍以上になった。全体の半分を担うこの秀歌例にも、前半部分と同様 に定家の歌道意識が反映されているものと考える。これは、秀歌例の 部分が、初撰本と再撰本とで大きく改撰がなされていることからもそ の位置付けが推測できる。 今回は、.﹁近き世﹂の六歌人が、定家にとってどのような存在であっ たかという点を前半の歌論本文を通じて考えたい。また特に六歌人の 中で初めに名前を挙げられた経信・俊頼にっいて、定家が彼らをどう 捉え、評価していたのかということを、後半の秀歌例一初撰本︶の部 分を通して考えていきたい。 ■ 28 ’二 初撰本秀歌例は、伝本によって若干の相違がある。考察するに際し、 まずこの点について触れておきたい。島津忠夫氏は、﹃近代秀歌﹄の伝 本の一つである﹁秘々抄﹂にみられる形態と流布本とを比較検討され、 ﹁秘々抄﹂本について﹁﹃近代秀歌﹄の最初の草稿本に発する本とも考 えられる﹂としている一注−一。それに従うと六歌人のうち、最後の二人 の順は、俊成、基俊となり、また俊頼の﹁とへかしな﹂、俊成の﹁難波 人﹂の二首を欠く二十五首のものが最初の形ということになる。俊成、 基俊の順序に関しては、島津氏も同論文で述べているが、前半の本文 中に﹁然れども、大紬言経信卿・俊頼朝臣・左京大夫顕輔卿.清輔朝 臣・近くは亡父卿、即ちこの道を習ひ侍りける基俊と申しける人⋮﹂ としていた六歌人の順序と一致しており、この本文自体には伝本間に 異同がないことから、この点の裏づけとなる。さらに、秀歌例の後に ある蹴文に、本歌取した歌について述べられている個所があるが、そ の順序も俊成詠にある﹁しぢのはしがき﹂の次に基俊詠の﹁伊勢の浜 荻﹂が挙げられており、このことも一っの証左となるだろう。以上の ことから順序に関しては﹁秘々抄﹂本の記述に基づいて進めることに する。 また、俊頼の﹁とへかしな﹂の歌については、他の歌が全て﹃新古 今集﹄までの勅撰集からの抄出であるのに対して、これのみが﹃続古 今集﹄に収められた歌である。この点については島津氏が同論文に ﹁恐らく始めはなかつたのであり、それが、二首ずつ並べて批評してい る形をととのえる為に追加し、更に歌数のバランスから俊成の歌をも 一首加えたのではなかろうか。﹂と、俊成の﹁難波人﹂の歌も含めた見 解を述べている。また藤平春男氏は、俊頼詠について﹁近代秀歌秀歌 例の出典とみられる﹃定家八尤抄﹄にない上に、この歌を欠く伝本の ほうがすぐれていると認められるので、後人の追加か、あるいは注付 けの術入かと思われる。﹂とし一注2一、定家の他の秀歌撰との関わりか らも考えている。ちなみに﹃定家八代抄﹄以外の秀歌撰︵﹃秀歌体大 略﹄・﹃秀歌大体﹄・﹃百人秀歌﹄等︶にもこの﹁とへかしな﹂の歌 は見られない。また仮に評価していたならば、﹃新古今集﹄までの時点 で勅撰集歌となっていなかったこの歌を、定家がひとりで撰者を務め た﹃新勅撰集﹄に入集させることも可能だったはずである。俊成詠 ﹁難波人﹂については、島津氏の解釈の可能性も考えられ得るが、本来 存したかピうかを断定することはできないように思う。今回は、暫定 的にこの二首を除いた二十五首を対象として考えることにする。各歌 人の歌数はそれぞれ、経信三首、俊頼七首、顕輔三首、清輔四首、俊 成六首、基俊二首となる。 和歌史において実に重要な役割を果たした歌人として、本文中に記 載した﹁近き世﹂の六歌人の﹁高き世にも及びてや侍らん﹂と評した 歌に注目し、六歌人に限定した秀歌例をあらわした定家の意図とはど ういったものなのであろうか。 一 29 −
三 まず、前半の歌論本文での和歌史に関する記述を、六歌人に対する 定家の意識という点に注目して見ていくことにする。 昔、貫之、歌の心巧みに、たけ及び難く、詞強く、姿おもしろ きさまを好みて、余情妖艶の躰をよまず。それよりこのかた、そ の流を承くるともがら、ひとへにこの姿におもむく。ただし、世 下り人の心劣りて、たけも及ばず、詞も賎しくなりゆく。いはむ や近き世の人は、ただ思ひ得たる風情を三十字に言ひ続けむこと をさきとして、さらに姿詞の趣を知らず。これによりて、末の世 の歌は、田夫の花の陰を去り、商人の鮮衣を脱げるが如し。然れ ども、大納言経言卿・俊頼朝臣・左京大夫顕輔卿・清輔朝臣、近く は亡父卿、即ちこの道を習ひ侍りける基俊と申しける人、このと もがら、末の世の賎しき姿を離れて、つねに古き歌をこひねがへ り。この人々の思ひ入れて秀れたる歌は高き世にも及びてや侍ら む。今の世となりて、この賎しき姿を些か変へて、古き詞を慕へ る歌あまた出で来たりて、花山僧正・在原中将・素性・小町が後 絶えたる歌のさま、わづかに見え聞ゆる時侍るを、物の心さとり 知らぬ人は、新しき事出で来て歌の道変りにたりと申すも侍るべ し。ただし、この頃の後学末牛まことに歌とのみ思ひて、その さま知らぬにや侍らむ。ただ聞きにくきをこととして、易かるべ きことを違へ離れたることを続けて、似ぬ歌をまねぶと思へると もがらあまねくなりにて侍るにや。 まず、注意しておきたいのは、和歌史を述べるに当たって、定家は はっきりとした区切りを表明していない点である。例えば俊成は﹃古 来風躰抄﹄での和歌史に際し﹁上、万葉集よりはじめて、中古、古今 集・後撰・拾遺、下、後拾遺よりこなたざまの歌⋮﹂というように、 勅撰集ごとに時代区分した上で記述しているのである。このことは、 定家が、歌集ごとというよりも、歌人や歌自体を基準にしていたこと を示していると考えられる。 ﹃近代秀歌﹄の和歌史観は、貫之が余情妖艶の体を詠まなかったこ とについての指摘から始まっている。この﹁余情妖艶﹂とは、﹃古今 集﹄序での業平評と小町評の文言を合わせた表現であるから、本文で 後述される﹁花山僧正・在原中将・素性・小町﹂らはこの﹁余情妖艶﹂ の代表歌人生言える。つまりこの記述からは、貫之の様式と業平・小 町らによる様式とを、相対するものとして捉えているということだ言 えよう。. 時代が下り、貫之様式を受け継ぐ歌人が、歌の体裁ばかりにとらわ れて、歌の﹁姿﹂・﹁心﹂を理解しない亜流となり﹁賎しき﹂姿に堕 してしまっていたことを述べる。その後を受けるのが、六歌人につい ての指摘である。彼らは常に﹁古き歌﹂を庶幾し、﹁高き世﹂にも及ぶ かとも思われる秀歌を詠じたのである。この六歌人は、流派の別を越 えた、親子または師弟という関係にある。また、俊頼、顕輔、俊成が . 30 ■
それぞれ﹃金葉集﹄、﹃詞花集﹄、﹃千載集﹄の撰者を務めてはいるが、 この点は定家の撰歌意識に影響を与えていたようには思えない。これ は、定家が和歌史を概観する際に、勅撰集ごとといった歴史的な区分 によっていない態度と、共通していると言える。 さらに﹁今の世﹂となり、定家を含めた新風歌人によって﹁余情妖 艶﹂の歌風が少し現れてきたことを述べる。これに対し、それを﹁新 しき事出で来て歌の道変りにたり﹂とする﹁物の心さとり知らぬ人﹂ がいること、また、わさと聞きにくい歌を詠む﹁後学末生﹂がいるこ とに言及している。この部分には、定家の﹁今の世﹂への危機感の高 まりが表明されていると考えられる。 定家は、﹁近き世﹂の六歌人の評では、彼らの態度を﹁末の世の賎し き姿を離れて、つねに古き歌をこひねがへり﹂としていた。また﹁今 の世﹂になって現れた﹁余情妖艶﹂の体の背後にある新風の歌人の態 度として﹁この賎しき姿を些か変へて、古き詞を慕へる歌あまた出で 来たりて﹂と評し、両者に対し、非常によく似た表現を用いているの である。このような類似した表現で言い表すことによって、定家は自 分たちの和歌史上での位置を、﹁近き世﹂の六歌人に重ねようとしたの ではないだろうか。亜流があまねくなっている歌壇にあって、常に ﹁古き﹂歌に理想を求め、﹁高き世にも及びてや侍らむ﹂とする秀歌を 詠じた彼ら六歌人の態度を、今の自分たちの倣うべき姿勢として捉え たのではないだろうか。 また、定家ら新風歌人は、他から﹁新しき事﹂と捉えられていた。 このことに対しても、自分たちは、﹁近き世﹂の六歌人と同様に、伝統 の上に立つものであるという主張を、和歌史全体を概観することで如 実にあらわそうとしたのではないだろうか。自分たちを客観的に和歌 史の上から見直し、位置付けを行うことは、﹃新古今集﹄撰集直後の定 家にとっての関心事であったと考えられる。 ﹃近代秀歌﹄の本文は﹃古今集﹄序を意識して書かれたものであり、 それは﹁余情妖艶﹂という語が序における業平評と小町評に基づいて いることからも知られる。﹁近き世﹂の六歌人が、﹃古今集﹄序の六歌 仙になぞらえて挙げられたと考えるのは妥当であろう。しかしながら、 それ以上にこの六歌人を挙げる意味合いがあるように思われる。その 意味の最も大きなものは、前述のような﹁近き世﹂の六歌人の歌に対 する姿勢であったのではないだろうか。彼ら六人の﹁つねに古き歌を こひねがへり﹂という古典志向が、ひいては、定家自身の立場を表す 信条となっていたのである。 ﹃近代秀歌﹄は、実朝の問いに対する返答として書かれている。和 歌の初学者である実朝に示す答えとして、定家はどのような意図を持 って、この﹁近き世﹂の六歌人の歌を秀歌例としてあげたのだろうか。 歌の表現が平俗なものとなっていく中で、常に﹁古き歌﹂を理想とし て持ちつづけていた﹁近き世﹂の六歌人に、定家は、自分たちの歌風 を投影させていた。この意味では六歌人の秀歌を実例として登場させ るのは当然の流れかもしれない。しかし、その先達に重ね合わせて見 せた自分たちの秀歌を挙げてもよいはずである。 ’ 31 ■
﹃近代秀歌﹄を受け取った実朝は、﹁今の世﹂の歌には接する機会が 多くあったに違いない。一方、﹁近き世﹂の六歌人の歌にっいては、ど うであろうか。﹃近代秀歌﹄本文中には、彼ら六人が古典的な歌風を理 想としたということは記されているが、どのような方法でどう詠んだ か、というような具体的なことまでは言及されていない。その意味で、 六歌人の秀歌例が必要とされたと考えられる。また、﹁今の世﹂の歌人 と、﹁近き世﹂の六歌人とが共通に志向した﹁古き﹂歌をまとめるとい う秀歌撰も成り立ち得たであろう。事実、再撰本では、八代集全体か らの抄出に改められているのである。しかしながら、この初撰本の段 階での定家は、﹁古き﹂ものの範囲を示すよりも先に、白分たちがどの ような流れを受けているか、ということを明確にする方を優先させ、 敢えて六歌人の詠による秀歌例にしたのではないだろうか。 ﹁近き世﹂の六歌人は、いずれも名を後代までとどめる歌人である こと宮言うまでもない。では、この六歌人を、定家はどのように見て いたのだろうか。﹃近代秀歌﹄本文では貫之様式と業平・小町様式とが 対立的に捉えられていることは先に触れた。この二者と﹁近き世﹂の 六歌人とはどのような関係にあるのだろうか。福田雄作氏は﹁経信以 こい茅 下の近代の名家の翼うたのは、貫之の風ではなくて余情妖艶の体であ った。﹂と述べている一注3一。このように、彼らをどちらかの様式に当 てはめて考えることが、果たして可能なのであろうか。 歌論本文において、六歌人を挙げた後に﹁このともがら、末の世の 賎しき姿を離れて、つねに古き歌をこひねがへり。﹂という言い方をし ている。この﹁末の世の賎しき姿﹂とは、貫之の亜流を指すことは明 らかである。それらから離れて﹁古き歌﹂を庶幾したというのであるα ではこの﹁古き歌﹂とは何を指すのだろうか。貫之様式の亜流を否定 しているのであるから、﹁近き世﹂の六歌人は、業平・小町様式を受け 継ごうとしたと取るのが自然であろう。また一方では、続く﹁今の世﹂ についての部分で次のように言っている。 今の世となりて、この賎しき姿を些か変へて、古き詞を慕へる歌 あまた出で来たりて、花山僧正・在原中将・素性・小町が後絶え たる歌のさま、わづかに見え聞こゆる時侍るを一後略一 ﹁今の世﹂の歌人たちは、﹁賎しき姿﹂をやや変化させ﹁古き詞﹂を尊 重した歌を詠んだとする。ここでも﹁賎しき姿﹂とは貫之亜流と考え て問題ないであろう。その結果、歌風は業平・小町らの様式を受け継 ぐ詠みぶりとなったのだが、それは﹁花山僧正・在原中将・素性・小 町が後絶えたる歌のさま﹂と表現されている。傍線部に注目すると、 花山僧正らの後、彼らの歌風は絶えており、﹁今の世﹂となり﹁わづか に見え聞∴﹂ゆる﹂までの問には、業平・小町の様式は見られなかった と解釈することもできる。こう取るのであれば、﹁近き世﹂の六歌人の 位置付けは先の理解と矛盾してくることになる。 従って、本文を読む限りでは、六歌人がどちらの流れを受けている かということは、はっきりと決めがたいと思われる。つまり、六歌人 が貫之様式、業平・小町らの様式のどちらを受け継いでいるのかとい う問題は、ここでの定家の主張に沿ったものとは思えないのである。 ’ 32 ■
それよりも、﹁古き﹂歌に対する六歌人の姿勢自体を評価しており、定 家を含めた﹁今の世﹂の歌人が取るべき態度を彼らに見たのではない だろうか。六歌人は、ただ形式を整えるばかりの亜流になるのではな く、いつも﹁古き﹂歌を理想とし、それを作歌に活かしてきた生言え る。彼らこそ、倣うべき偉大な先達であるとして、ここに名前を挙げ たのだと考えられる。 次に、六歌人の初めに名前を挙げている経信・俊頼にっいて、定家 がどのように捉えていたか、後半の秀歌例に抄出された歌を通して検 討していきたい。 まず、筆頭に挙げられた経信の歌から見る。次の三首が撰入されて いる。 ①夕されば門田の稲葉おとづれて葦のまろ屋に秋風ぞ吹く ︵金葉集・秋・一七三︶ ②君が世はっきじとぞ思ふ神風やみもすそ川の澄まむ限りは ︵後拾遺集・賀・四五〇一 ③沖つ風吹きにけらしな住吉の松のしづえを洗ふ白波 ︵後拾遺集・雑四・一〇六三︶ この三首は、定家が経信の代表作とした歌であるζ言える。しかし、 定家より早くこれらの歌を見出し、高く評価していたのは俊成であっ た。俊成は﹃古来風躰抄﹄の秀歌例に経信の歌を三首撰入しているが、 定家はそれをそのまま受け継いで﹃近代秀歌﹄に挙げているのである。 定家は、俊成の経信に対する見方を踏襲し、同様の立場を取っている と一言える。では、俊成は、経信をどのように捉えていたのだろうか。 ﹃古来風躰抄﹄の﹃後拾遺集﹄についての評にそれを見ることができ る。まず﹃古来風躰抄﹄の記述にそって﹃後拾遺集﹄における経信の 立場を確認しておこう。 げにまことにおもしろく、聞き近く、物に心得たる様の歌どもに て、おもしろくは見ゆるを、撰者の好む筋や、ひとへにをかしき ふうたい 風躰なりけん、ことに良き歌どもはさて置きて、挟間の地の歌の、 少し前々の撰集に見合するには、たけなども立ち下りにけるなる べし。また、その御時、大塑言経信卿今少し先達なるを置きて、 中檀言通俊卿参議の時、勅撰を承る生言へること、少しはおぼつ かなきことなり。さればにや、難後拾遺といふ物ありけるとかや。 少し先追であるにも関わらず政治的な要因から、経信は、勅撰集の撰 者という大役を通俊に奪われることになった。通俊を撰者とした﹃後 拾遺集﹄自体は、秀歌も見られるが新奇な表現の歌をも撰んでおり、 平凡な地の歌は、前々の撰集と比べ﹁たけなど立ち下りにける﹂もの になってしまっていた。このことを受けて経信は、後々まで影響を与 える﹃難後拾遺﹄を著した。これらの状況を踏まえて俊成は、次のよ うに言っている。 すがた 彼の大檀言の歌の風躰は、またことに歌のたけを好み、古き姿を . 33 一
のみ好める人と見えたれば、後拾遺の風躰を如何ばかり相違して 見え侍りけんかし。 経信は、﹁たけを好み、古き姿をのみ好める﹂人であるとし、それ故 に、先に見たような﹃後拾遺集﹄の歌風はどれほど自分との間に違和 感を抱かせるものだったであろう、と捉えているのである。経信は、 伝統的な﹁たけ﹂を重んじていた。このことは北村杏子氏が﹁源経信 の歌と古今集﹂の中で、経信詠が﹃古今集﹄を規範としていることを 実例によって示し、経信について﹁やはり伝統的なものの延長線上に あるということが指摘できよう﹂としている一注4一。新奇な表現の歌を 多く撰んだ﹃後拾遺集﹄と異なる立場であったことは明らかであろう。 この立場は、そのまま定家にも重ね合わせられるように思われる。こ の立場の相似こそ、経信を﹁近き世﹂の六歌人の筆頭に置いた一因と なったのではなかろうか。以上のことから、定家が経信に対してどう いう捉え方をしていたかという一端を見ることができると思う。 では改めて、撰入された歌について見ることにする。経信の三首の うち②、③はいずれも﹃後拾遺集﹄入集歌である。経信の﹃後拾遺集﹄ 入集歌について、安田純生氏は﹁経信の和歌の新しさとして常に問題 となる、田園風物に取材した清新な叙景歌は、一首も撰入されていな い﹂ことを指摘している一注5一。但し安田氏は、この二首に関して、﹁両 首において、経信は、祝意をこめながら、晴の場にふさわしいポポの ある力強い詠みぶりを示しているが、それが一般的に高い評価をかち えた一因であろう﹂と述べる。つまり、秀歌例抄出に際して﹁晴の歌 人﹂とされた経信らしい歌が撰ばれているということが言えよう。 ②の歌は、﹃袋草紙﹄上において取り上げられ、次のように記されて いる一注6一。 是は承暦二年殿上歌合也。其後或人夢二唐装束女共隻居て詠吟此 歌。各感嘆して云、依此歌、帝王御賓算可塘長云々。遂七十七崩 御云々。 この歌により、天皇の宝算が増長した、とするものであり、この一首 が名歌として誉れ高いものであったことを窺える逸話である。 また、③の歌は、同じく﹃袋草紙﹄上の記述により、 住の江の松を秋風吹くからにこゑうちそふるおきつ白浪 ︵古今集・賀・三六〇、拾遺集・雑秋・一一一二・みつね一 を踏まえて詠じた経信の自讃歌であったことが知られる。この歌に関 して久保田淳氏は﹁それ一躬恒の歌・引用者注一には見出されなかっ た明確な構図と鮮明な色彩感︿中略﹀で一首の世界を構成することに よって、新しい叙景歌の典型を打ち出したものであることは確か﹂一注 7一と評する。首肯すべきであろう。これらのことからも、この二首が 秀歌撰に撰ばれるべき評価を得ていた歌であることは窺える。 では、①の歌はどうであろうか。この歌のみ﹃金葉集﹄からの抄出 である。定家は後にこの歌を﹃百人秀歌﹄に撰入しており、三首の中 で最も高く評価したと見なし得る。どのような点が、他の二首との差 となったのだろうか。 夕されば門田の稲葉おとづれて葦のまろ屋に秋風ぞ吹く − 34 ’
一金葉集・秋・一八三一 この歌は﹃金葉集﹄において﹁師賢朝臣の梅津に人人まかりて田家 秋風といへることをよめる﹂という詞書が付けられている。﹃後拾遺 集﹄に入集している源頼家の 師賢朝臣梅津の山庄にて田家秋風といふこころをよめる やどちかき山だのひたにてもかけでふく秋風にまかせてぞみる ︵後拾遺集・秋・三六九︶ は、詞書から同じ歌会に詠まれたものといえるが、経信の歌の方は、 撰者である通俊に撰ばれなかったのである。その後、﹃金葉集﹄におい て勅撰集歌となったのであるが、この経信詠を見出して撰入したのは 息子である撰者俊頼であった。 ﹁夕されば﹂という詞からは、時間の推移を見ることができる。題 として与えられた﹁秋風﹂は、稲葉を揺らしながら音を立てて吹き過 ぎ、﹁あしのまろや﹂まで吹いてくる。その様子は、視覚、聴覚によっ て感じることができ、田舎家にまで吹いてきた風は、触感としても捉 えられる。この歌は、秋の一光景を感覚的に詠むことで、その結果、 ﹁田家秋風﹂を見事に描きだした歌となったと言えよう。一首の中に は、心情を表す言葉は詠みこまれていない。石田吉貞氏は、この歌の 秋風を﹁さびしさや悲しさを感じさせるよりは、むしろ爽涼を感じさ せる秋風である。﹂と評している一注8一。確かに秋風の冷たさ、切なさ などを言い表しておらず、石田氏のように爽やかさを感じることもで きよう。しかし、この歌にはしみじみとした秋の物寂しさが表われて いるように思う。 次に、歌語という面から見てみたい。初句の﹁夕されば﹂は、﹃万葉 集﹄において約六十の用例を数えることができ、古くから歌に詠まれ てきた詞である。﹃古今集﹄から用例を挙げると、 ゆふされば衣手さむしみよしののよしのの山にみ雪ふるらし ︵古今集・冬・三一七・読人しらず︶ ゆふされば蛍よりけにもゆれどもひかり見ねばや人のっれなき ︵同・恋二・五六二・紀とものり︶ などのように詠まれ、夕暮れという時問の寂しさを感じさせる。ここ に挙げた例では﹁さむし﹂、﹁っれなき﹂という語と共に用いられ、そ の寂しさがより増すように思われる。﹁門田の稲葉﹂・﹁葦のまろ屋﹂ は、経信のこの歌以前にはあまり歌われておらず、これ以降に、歌語 として使われるようになった。また﹁風﹂が﹁おとづれて﹂と詠むも のも、この歌以前の例は少ない。経信詠は、﹁門田﹂、﹁稲葉﹂、﹁秋風﹂ など古くからの詞を用いながらも、新しい独自の続け方によって詠ま れており、そしてそれは、後の歌人に影響を与えることにもなったの である。 安田純生氏は、経信の歌の中で﹁さびし﹂または﹁さびしき﹂が詠 まれたものを検討し、それを通して﹁経信が寂蓼の世界をかなり意識 的に志向している﹂として、さらに﹁一方では伝統的発想の範囲にと どまりながらも、他方ではそれを乗り越えて、寂しさの美を和歌の領 域に取り入れようと腐心している経信の作歌姿勢が看取される﹂と述 ’ 35 ■
べている雇9一。この﹁夕されば﹂の歌においては、古歌からの直接の 影響を見ることはできないが、古くから云統的に詠じられてきた詞を、 それ以前には見られない組み合わせにして、歌に詠みこんでいたこと は確認できた。この歌は、主観的な詞を使うことなく、読む側に、秋 風を感じさせ、安田氏の言う﹁寂蓼の世界﹂を感じさせる一首である と言えよう。 経信によって歌われたこの寂蓼感は、後に歌われた俊成の 夕されば野べのあきかぜ身にしみてうづら鳴くなりふか草のさと ︵千載集・秋上・二五九・皇太后宮大夫俊成︶ に受け継がれている。この俊成詠は﹃千載集﹄の新しい歌風を代表す る秀歌として知られるが、経信の歌に描かれた世界と共通するものを 感じることができる。経信が目指した﹁寂しさの美﹂は、俊成、さら には定家ら中世の歌人へ継承されていく美であるζ言えよう。 定家は、﹁晴の歌人﹂経信の代表作とされる②、③の二首を秀歌であ ると充分認め、注目しているだろう。経信は﹁たけ﹂の高い歌を詠み、 その意味で、貫之の歌風を正統に受け継いだ歌人と言い得る。しかし、 定家は﹁夕されば﹂の歌のような叙景歌にこそ経信の真価が発揮され たと見なしたのではないか。そして、経信のその姿勢は、定家自身が 目指す方向でもあったと考えられる。それは﹃近代秀歌﹄本文中の ﹁詞は古きを慕ひ、心は新しきを求め﹂という個所から確かめることが できる。﹁近き世﹂の六歌人の初めに経信を配した理由はこういう点に もあるのではないだろうか。 続いて、二番目に挙げられた俊頼について見ていきたい。 経信の息子である俊頼の歌は、七首が撰ばれている。この歌数は、 六歌人の中で最も多い。そして大きな特徴として、俊頼詠のみに定家 による次のような評語が織り込まれている。 1 これは、晴の歌の躰と申すべきにや。 n これは、幽玄に面影かすかにさびしきさまなり。 皿 これは、面白く見所あり、上手のしごととみゆ。 w これは、心深く、詞心に任せて、まなぶとも言ひ続け難く、ま ことに及ぶまじき姿なり。 それぞれ、二首ないし一首に対して述べられている一注10一。このように 評語を加えているところから定家が、俊頼の歌にさまざまな詠みぶり があると理解していたことが認められる。まず、この評語のみを見て 気づくこ1とは、1は評価すべき歌の姿の指摘にとどまっているが、後 になるに従い、評語は歌人の技量にも及び、Wでは、﹁心﹂・﹁詞﹂に まで言及しており、その歌が﹁及ぶまじき姿﹂であるとして絶賛して いる。定家が、このwに該当する歌を最も高く評価していることは明 らかである。その歌は、 憂かりける人をはつせの山おろしよ烈しかれとは祈らぬものを であり、定家が最終的に﹃百人一首﹄において撰んだ歌であった一注u一。 ■ 36 一
この歌については後で見ていくことにする。 1の﹁晴の歌の躰と申すべき﹂歌とされたのは次の二首である。 ④山桜咲き初めしよりひさかたの雲ゐに見ゆる滝の白糸 ︵金葉集・春・五〇︶ ⑤落ちたぎっ八十宇治川の早き瀬に岩こす波は千世の数かも 一千載集・賀・六一五︶ ④は、﹃近代秀歌﹄再撰本・﹃秀歌体大略﹄・﹃百人秀歌﹄にも撰ん でいることから定家が好んだ歌であることが窺われる。春になり咲き 始めた山桜を遠方より眺め、滝の白糸に見たてることで、春の生き生 きとした美しさを巧みに表現している。また⑤は、流れ落ちる急流の 川で、岩を越してゆく水の幾重もの波を、君の長寿になぞらえており、 一首は躍動感に溢れている。両首に描かれたのは﹁晴の歌の躰﹂と呼 ぶにふさわしい情景である生言えよう。 n﹁幽玄に面影かすかにさびしきさま﹂と評されているのは、次の 二首である。 ⑥うづら鳴くまのの入江の浜風に尾花波寄る秋の夕暮 一金葉集・秋・二三九︶ ⑦ふるさとは散るもみじ葉に埋もれて軒のしのぶに秋風ぞ吹く 一新古今集・秋上・五三三︶ ⑥は、鶉が鳴く真野の入江に、風が吹き、薄がなびいている秋の夕 暮を詠んでおり、⑦は散りゆくもみじに埋もれ、家の軒のしのぶ草に 秋風が吹いている寂しげな古里の光景を表現している。二首ともに、 秋の寂箕とした世界を描き、そこに新しさを見出しているのではない だろうか。 定家がnの評語に用いた﹁幽玄﹂について藤平春男氏は、﹁﹁幽玄﹂ は俊成の場合、白然の超俗感や孤独の寂蓼感が繊細な気分としてあら われているのを指し、遥かな美しいものへの憧憶が導き出す美感であ る。定家の場合もそれとほぽ同様とみられる﹂としている一注12一。俊成 がこのような歌を重んじていたことは、特に⑥の歌について、﹃後鳥羽 院御口伝﹄の記述に、﹁故土御門内府亭にて影供ありし時、釈阿は、こ れ程の寄たやすくいできがたしと申しき。﹂一注13一とあることからも窺 うことができ、それは、定家にも共通する認識と言えよう。 1の﹁晴の歌の躰と申すべき﹂歌、ーの﹁幽玄に面影かすかにさび しきさま﹂を詠んだ歌という評には、前に見た経信の歌も当てはまる と考えられる。つまり具体的には、1には﹁晴の歌人﹂経信の代表歌 とされる②﹁君が世は﹂、③﹁沖つ風﹂が、nには秋の物寂しい情景を 表現した①﹁夕されば﹂が相当すると言えるのではないか。俊頼の歌 を分類した評語の中に、経信詠を当てはめて捉えることができるとす るならば、定家が、俊頼の歌に、父である経信の歌風と共通する点を 見出しているといえる。そこからさらに皿、wの特徴を挙げるという ことは、俊頼の歌風に、経信の歌風の枠におさまらないものを認めて いたとは考えられないだろうか。 皿﹁面白く見所あり。上手のしごととみゆ﹂とされたのは、次の二 首である。 − 37 ■
⑧明日も来む野路の玉川萩一﹂えて色なる波に月やどりけり 一千載集・秋上・二八一︶ ⑨思ひ草葉末に結ぶ白露のたまたまきては手にもたまらず 一金葉集・恋上・四一六一 ⑧﹁明日も来む﹂の歌は、玉川の波が花によって色づき、そこに月 光が映った美しい光景を描いている。⑨﹁思ひ草﹂の方は、思い草の 葉末に白露がふとかかってもすぐにこぼれてしまうことに警えて、つ れない恋人を詠んだ恋歌である。歌の眼目は、二首共に、目の前に広 がる景色全体というよりも、一節のおもしろさ、めずらしさにあると いえる。そういう意味で、定家の﹁面白く見所あ﹂る歌という評にあ てはまるのではないだろうか。 では定家が、﹁心深く、詞心に任せて、まなぶとも言ひ続け難く、ま ことに及ぶまじき姿なり。﹂と評し、最も秀歌であるとした歌について 見てみたい。 ⑪憂かりける人をはつせの山おろしよ烈しかれとは祈らぬものを ︵千載集・恋二・七〇八︶ 出典は﹃千載集﹄であり、俊頼自身が撰者であった﹃金葉集﹄に入集 していないことから、この歌は自讃歌として捉えられてはいなかった ようだ。また同時に、﹃千載集﹄撰者である俊成によって見出された歌 と言い得るであろう。﹃千載集﹄には﹁権中植言俊忠家に恋十首歌よみ 侍りける時、いのれどもあはざる恋といへる心をよめる﹂という詞書 が付されており、一首は題意をよくとらえた歌となっている。 ﹁憂かりける人を﹂は、意味としては下の﹁烈しかれとは祈らぬも のを﹂にかかる。一方では、﹁憂かりける/人をはつせの﹂として、祈 りをささげたのが初瀬観音であったことを思わせる。また、﹁はっせの 山おろしよ﹂が続く﹁烈しかれ﹂という詞と一つとなって、冬枯れの 山から吹く風の激しさが表わされている。その激しい風の無情さはつ れない人の心と重なり心情表現ともなっている。このように、挿入さ れた﹁はっせの山おろしよ﹂によって、それぞれの詞が互いに響きあ い、一首の意味を重層化しているといえる。 ﹃後鳥羽院御口伝﹄では、俊頼について次のように評されている。 俊頼堪能の者なり。寄の姿二様によめり。うるはしくやさしき様 も殊に多く見ゆ。又、もみくと人はえ詠みおほせぬようなる 姿もあり。この一様、すなはち定家卿が庶幾する姿なり。︵傍線は 引用者による。一 俊頼が詠む二つの歌風について述べているうちの後者︵傍線部︶の例 として﹁憂かりける﹂の歌を挙げている一注14一。﹁定家卿が庶幾する姿﹂ とされたこの歌は、﹁人はえ詠みおほせぬようなる姿﹂であるとされ る。ただし、定家はただ詞が複雑に機能しあっていて、他の歌人には 詠じ難いことのみをもって、この歌を評価したわけではないだろう。 錦仁氏がこの歌を﹁新古今期の歌の鑑賞法を適用しても、十分に耐え うるだけの新しさと深さをもった歌﹂一注15一としている。幾つかのイメ ージが重層化する世界をもつという、定家が好む﹁今の世﹂の歌風に 通じる面を、この歌に認めて、w﹁心深く、詞心に任せて、まなぶと − 38 ■
も言ひ続け難く、まことに及ぶまじき姿なり。﹂として評して高く評価 したのだろうと考えられる。 このような歌を秀歌例として取り上げることは、定家ら自分たち新 風の歌風の立場を確かめる為に効果的だと言える。しかし、それと共 に、時代を越えて新しさを感じさせる歌を詠じた俊頼を、定家は尊敬 の意をもって捉えていたようだ。それは﹁近き世﹂の六歌人の中で、 俊頼詠を最も多く撰んだところに表われているのではなかろうか。 では、定家自身は俊頼の歌から何を学んでいたのだろうか。ここで は、その一例として、俊頼の﹁憂かりける﹂の歌が参考になっている と見られる定家の歌を一首挙げておきたい。 としもへぬいのるちぎりははっせ山をのへのかねのよそのゆふぐれ 一新古今集・恋二・一一四二・定家朝臣︶ この歌は﹃六百番歌合﹄において詠じられた。判者俊成は﹁心にこめ て詞たしかならぬにや﹂一注16一とこの歌を評した。心情が詞に表われて いないというのであるが、これは一首が持つ内容の複雑さに原因があ ると思われる。﹁はつせ山﹂に﹁果つ﹂をかけ、幾年を経て祈りつづけ たけれど、それもむなしく叶わずに終わった恋を嘆いている。その上、 どこかの恋人たちの逢瀬を告げる鐘の音が聞えてくることで、その嘆 きは、なおさら増すのである。嘆く姿と他の男女の姿が、同時進行的 に描かれており、一首は濃い物語性を有している生言える。 俊頼詠も定家詠も、はっきりとした区切れを有しない点で共通してい る。つまり両首ともに、各句が断絶しつつも、全体として響きあってい るのである。俊頼の歌での、冬の初瀬山のきびしさ、恋の悲しさといっ た重層的なイメージに加えて、定家は﹁よそのゆふぐれ﹂として、さら に他の恋人の様子をも重ね合わせているのである。俊頼の歌の世界を受 け継ぎっっ、より一層の寂しさを表現し得ていると思われる。 定家が﹁古き﹂を踏まえて、どのような﹁新しき﹂世界を描いたか については、稿を改めてさらに考えていきたい。 ※なお、﹃近代秀歌﹄・﹃古来風躰抄﹄からの本文、秀歌例の引用は、 日本古典文学全集50﹃歌論集﹄一昭和五〇年四月・小学館︶所収のも のによる。但し、歌番号、ならびに秀歌例以外の歌は﹃新編国歌大観﹄ を使用した。 注1
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﹃袋草紙﹄の引用は﹃日本歌学大系﹄第二巻︵昭和三一年七月 昭和五一年三月︶ 安田純生﹁源経信の和歌﹂一﹃大阪樟蔭女子大学論集﹄第十三号、 北村杏子﹁源経信の歌と古今集﹂︵﹃解釈﹄昭和五七年十一月号︶ 第二章皿﹁近代秀歌論考﹂一二六頁。 福田雄作﹃定家歌論とその周辺﹄︵昭和四七年七月・笠問書院︶ 所収︶の頭注による。四八六頁。 藤平春男校注・訳﹃近代秀歌﹄︵日本古典文学全集50﹃歌論集﹄ と国文学﹄昭和三九年二月号一。 島津忠夫﹁定家歌論の一考察−近代秀歌をめぐってー﹂︵﹃国語 ■ 39 ■初版、平成二年六月六版・風問書房一による。以下同じ。 7 久保田淳﹁源経信の和歌﹂︵﹃中世和歌史の研究﹄平成五年六 月・明治書院所収︶一四九頁。 8 石田吉貞﹃百人一首評解﹄一昭和三一年四月初版、昭和五九年十 月二四刷・有精堂︶一九八頁。 9 注5に同じ。 10 それぞれの評語がどの歌を指しているかにっいて、検討が必要 ではあるが、本論文では藤平春男氏一﹃新古今歌風の形成﹄第二章 n二﹁定家八代抄﹂と﹁近代秀歌﹂二〇七頁一、錦仁氏一﹃中世和 歌の研究﹄第一篇第二章2俊頼の表現観一二九頁一などの先行研 究に従い、各々の評語は俊頼詠の二首または一首を指すものとし て考えることにする。 u 島津忠夫氏が﹃新版百人一首﹄︵平成十一年十一月新版初版発 行・角川書店︶の中で、﹁﹁うかりける﹂の﹁小倉色紙﹂が存在す ることから﹃百人一首﹄の形が、定家の手に成ることを示すとさ れる﹂と述べるのに従う。 12 注2に同じ。 13 ﹃後鳥羽院御口伝﹄の引用は、日本古典文学大系65﹃歌論集能 楽論集﹄︵昭和三六年九月初版・岩波書店︶による。 14 二様のうちの前者﹁うるはしくやさしき様﹂の例は、nの﹁幽玄 に面影かすかにさびしきさま﹂としていた﹁うづら鳴くまのの入江 の浜風に尾花波寄る秋の夕暮﹂︵金葉集・秋・二一二九一である。 15 錦仁﹃中世和歌の研究﹄一平成三年十月・桜風社一第一篇第二 章2俊頼の表現観一三四頁。 16 ﹃六百番歌合﹄の引用は、新日本古典文学大系38﹃六百番歌合﹄ ︵平成十年十二月・岩波書店︶による。 ︵しまむら かよこ/博士後期課程一年在籍一 ■ 40 ■