著者 松本 久雄
雑誌名 金沢大学経済学部論集 = Economic Review of Kanazawa University
巻 11
号 2
ページ 33‑54
発行年 1991‑03‑28
URL http://hdl.handle.net/2297/24066
松本久雄
目次
はじめに
I.「価値法則の修正」とはどんな事態を指すのか
Ⅱ.「価値法則の修正」の意味
Ⅲ国際的価値と国民的価値の乖離の意味
Ⅳ、国際的価値と国民的価値とが一致するメカニズム V・生産力の不均等な発展と国際的価値移転
Ⅵ、むすびに代えて
はじめに
国際経済学や貿易論という分野を専攻しているわけでもない筆者が小稿を 思い立った動機は二つある。一つは当面の研究上の課題に取り組むための必 要からであるが,もう一つは半分ほど私情がからむ理由からである。
当面の研究課題とは,今日の変動為替相場の構造的な変動要因の一つとし て,国際間における生産力の不均等な発展を挙げることができるかどうか,
を確かめることである。この課題を果たすためには,いわゆる「国際価値論」
に含まれている諸論点を整理してみることが,不可欠の前提であると思われ たのである。これが第1の理由である。
もう一つの動機は次のことである。
第2次大戦直後の時期に「国際価値論」を学界に提起された名和統一氏の
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狙いの一つは,国際的な「不等労働量交換」が「不等価交換」であり「搾取」
であることを証明することにあった。名和氏はこの目的を達成するのに成功 したとは言い難いが,終生この目的を捨てることはなかった。ところが学界 の動向はますます名和氏の意図に反する方向に動いているように見える。地 下に眠る氏の無念さが思われる。
筆者は大学院時代から21年余,晩年の名和氏に師事してきた者である。師 の思いはまた筆者の思いでもある。だがこれは私情だけによるものではない。
名和氏の狙いが的を射たものであることを確信するに至ったことによる公憤 でもある。門外漢の筆がどこまで及びうるかは不明で自信もないが,とにか
く-度は書いておこうと思ったのである。これがもう一つの動機である。
名和氏の狙いに誤りはなかったが,それを論証する過程に誤りがあった。
しかも最大の誤りはその第一歩にあった。世界市場における「価値法則の修 正」の意味を,氏は正確に捉えきることができなかったのである。氏の主張 が十分な説得力をもちえなかった最大の理由がそこにあっただけでなく,そ の後の学界の動向が氏の意図に反する方向に進んだことの究極の原因も,そ こにあったのではないかと思われる。したがって,小稿ではこの「価値法則 の修正」の理解のために過半の紙数を割くことになった。
改めて,以下で考察する諸論点を列挙するならば,第1には,国際的適用 に際して価値法則が受ける修正とは何を指すか,また,なぜそれが「価値法 則の修正」を意味するのか,であり,第2には,「国際的価値」とは「価値」
なのか,「価値」ではないとすれば何なのか,であり,第3には,複合市場で ある世界市場では各国がそれぞれの国民的価値体系を維持しているはずだが,
にもかかわらず,一商品毎に単一の国際的市場価格がどうして成立しうるのか,
であり,第4には,国際間の不等労働堂交換は富国による貧国の搾取なのか,
つまり,国際交換において価値の移転は存在するのか,である。
なお,諸論点の整理のために参照させて頂いた先学の諸文献は余さず明記 するのが当然であるが,小稿の簡潔を期するために大部分を割愛した。予め 非礼をお詫びしておきたい。
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I.「価値法則の修正」とはどんな事態を指すのか
まず,価値法則の国際的適用についてのマルクスの叙述をみながら考察を 進めることにしよう。
引用文①-「剰余価値学説史」第20章から-
「セーは,コンスタンショによる仏訳のリカード「原理」への彼の注解の●●●●
なかで,ただ一つだけ対外貿易について正しし、発言をしている。利潤は,一 方が利益を得て他方が損をするという詐取によっても得ることができる。一 つの国の内部での損失と利得とは相殺される。違った国のあいだではそうし たことはない。そして,リカードの理論でさえも-セーは述べていないこ とだが-ある国の三労働日は他の国の-労働日と交換されうることを考察 している。この場合には価値の法則は本質的な修正を受ける。あるいは,一 国の内部で,熟練した複雑な労働が未熟練で簡単な労働に対するのと同様に,
異なる諸国の労働日が関係しあうことができる。このような場合には,より 富んでいる国が,より貧乏な国を搾取することになり,それは,たとえあと の方の国が交換によって利益を得るにしても,そうである。このことは,J・
St・ミルも彼の「経済学の未解決の諸問題に関する試論」のなかで説明してい るとおりである。」')
ここでマルクスは,貧国の3労働日の生産物が富国の1労働日の生産物と 交換されるぱあいについて,「この場合には価値の法則が本質的な修正を受け る」と言っており,また,この交換は,一国の内部において,より少量の複 雑労働がより多量の簡単労働と交換されるのと似ているが,富国の1労働日 が複雑労働の量で貧国の3労働日が簡単労働の量であるわけではないから,
「このような場合には,より富んでいる国が,より貧乏な国を搾取する」と 言っているのである。つまり,国際間において起こりうる1労働日と3労働 日の交換が「価値法則の修正」なのであり,富国による貧国の「搾取」なの
である。
しかし,ここではまだ,なぜ国際間で1労働日と3労働日の交換が起こり うるのか,についての説明はなされていない。
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引用文②-「資本論」第1巻第15章から-
「労働の強度がすべての産業部門で同時に同程度に高くなるとすれば,新 たなより高い強度が普通の社会的標準度になり,したがって外延量としては 数えられなくなるであろう。しかし,その場合にも労働の平均強度が国によっ て違うことに変わりはなく,したがってそれはいろいろに違った各国の労働 日への価値法則の適用を修正するだろう。強度のより大きい一国の-労働日 は,強度のより小さい他の国の-労働日に比べれば,より大きい貨幣表現に 表わされるのである。」2)
引用文③-「資本論」第1巻第20章から-
「どの国にも一定の中位の労働強度として認められているものがあって,
それよりも低い強度では労働は商品の生産にさいして社会的に必要な時間よ りも多くの時間を費やすことになり,したがって正常な質の労働には数えら れないことになる。与えられた一国では,労働時間の単なる長さによる価値 の度量に変更を加えるものは,ただ国民的平均よりも高い強度だけである。
個々の国々をその構成部分とする世界市場ではそうではない。労働の中位の 強度は国によって違っている。それは,この国ではより大きく,あの国では より小さい。これらの種々の国民的平均は一つの階段をなしており,その度 量単位は世界的労働の平均単位である。だから,強度のより大きい国民的労 働は,強度のより小さい国民的労働に比べれば,同じ時間により多くの価値 を生産するのであって,この価値はより多くの貨幣で表現されるのである。」3)
引用文②と③では,国際的適用において価値法則が修正される理由として,
労働の平均強度が国によって違うことが挙げられている。「強度のより大きい 国民的労働は,強度のより小さい国民的労働に比べれば,同じ時間により多 くの価値を生産する」(引用文③)のだから,「強度のより大きい一国の-労 働日は,強度のより小さい他の国の-労働日に比べれば,より大きい貨幣表 現に表わされる」(引用文②)のである。
しかし,一国内においても強度のより大きい労働は,強度のより小さい労 働に比べて,同じ時間により多くの価値を生産するはずある。労働の強度の 差異によって,同じ時間に生産される価値の量が違うのは,まさに価値法則
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の通りではないか。労働の平均強度の国民的差異の存在だけが,なぜ価値法 則を修正することになるのだろうか。
この疑問に対しては,引用文③の前半にある章句が回答の手掛りを与えて いるようである。つまり,-国内においては社会的標準としての中位の労働 強度というものがあり,それよりも低い強度の労働は「正常な質の労働には 数えられない」というのである。そして一国内では,「労働時間の単なる長さ による価値の度堂に変更を加えるものは,ただ国民的平均よりも高い強度だ けである」というのである。なぜ平均より低い強度の労働は,労働時間によ る価値の度量をマイナスの方向に変更するだけではないのだろうか。この問 題は次節において検討することにして先へ進もう。
国際的適用に当って価値法則が修正を受けるもう一つの原因をマルクスは 次のように言っている。
引用文④-「資本論」第1巻第20章から-
「しかし,価値法則は,それが国際的に適用される場合には,さらに次の ようなことによっても修正される。すなわち,世界市場では,より生産的な 国民的労働も,そのより生産的な国民が自分の商品の販売価格をその価値ま で引き下げることを競争によって強制されないかぎり,やはり強度のより大 きい国民的労働として数えられるということによって,である。」4)
上の文言は引用文③の直ぐ後に続けて言われているが,ここでは,「世界市 場では,より生産的な国民的労働も,やはり強度のより大きい国民的労働と して数えられるということ」が,価値法則を修正する要因として指摘されて いるわけである。ここにもいくつかの問題点が含まれている。
第1は,労働の強度のぱあいと同種の問題である。-国内でも同一商品を 生産する部門内に種々の生産条件が存在する。標準以下の生産条件の下では その商品を生産するのに社会的に必要な時間以上を要し,標準以上の生産条 件の下では社会的に必要な時間より少ない労働時間で商品を生産できる。労 働の熟練と強度が社会的平均のものであっても,労働が行なわれる生産条件 がそのように異なるならば,同一時間に生産される商品の量が異なり,した がって価値の量も異なるはずである。なぜ国際間における労働生産性の差異
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だけが価値法則の適用を修正するのだろうか。だがこの問題への回答は労働 強度のばあいと同様に次節に委ねることにする。
第2の問題は,「より生産的な国民的労働」が「強度のより大きい国民的労働」
として算えられる,といっても,両者は本質的に異なるものであることに関 連する。その-つとして,労働の強度については,それぞれの国に単一の国 民的平均ないし国民的標準の存在を想定することができるが,労働の生産性 についてはそれは不可能である,ということである。生産性とは,特定の使 用価値を生産するのにどれだけの労働時間または労働量を要するか,を示す もののはずだから,それは常に具体的有用労働の生産性を意味する。だから,
労働の生産性は同一の産業部門の内部でしか比較できないものであり,多く の産業部門に配分されている-国の労働を代表できる「国民的生産性」など はありえようはずがない。マルクスが「より生産的な国民的労働」というぱ あい,一体何を指しているのだろうか。これが第2の問題である。この問題 については次の引用文⑤に回答が見出せるはずである。
第3の問題は,労働の強度と生産性の差異に関連するもう一つの問題で,「強 度のより大きい国民的労働」は「同じ時間により多くの価値を生産する」こ
とは引用文③にも明らかであるが,「より生産的な国民的労働」についてはど うか,ということである。マルクスは,世界市場ではそれが「やはり強度の より大きい国民的労働として算えられる」と言っているだけで,「より多くの 価値を生産する」とは言っていない。「算えられる」というのは「見微される」
と同義だろうから,「擬制される」という意味に解される。「より生産的な国 民的労働」がより多くの価値を生産するものでないことは,それが「強度の より大きな国民的労働として算えられる」ための前提条件として,「そのより 生産的な国民が自分の商品の販売価格をその価値にまで引き下げることを競 争によって強制されないかぎり」とあることから明らかである。つまり,よ り生産的な国民が商品の「販売価格」をその「価値」以上に高めることを可 能にするのが,その生産性の比較優位なのである。だから,生産性の優位は 労働の生産する「価値」自体を高めるものではないのである。この「販売価 格」が次の引用文⑤にある「国際的価値」の貨幣表現であるか否かは,すぐ 後で問題とされることになるはずである。
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引用文⑤は引用文④のすぐ後に続く文章である。
引用文⑤-「資本論」第1巻第20章から-
「ある一国で資本主義的生産が発達していれば,それと同じ度合いでそこ では労働の国民的強度も生産性も国際的水準以上に出ている。だから,違っ た国々で同じ労働時間に生産される同種商品のいろいろに違った分量は不等 な国際的価値をもっており,これらの価値は,いろいろに違った価格で,す なわち国際的価値の相違に従って違う貨幣額で,表現されるのである。」5)
ここでは,労働の強度と生産性の国による差異が,共同して価値法則の国 際的適用を修正していることが述べられているわけだが,マルクスがこの箇 所で初めて,そしてこの箇所でだけ「国際的価値」という用語を用いている ので,この用語の意味もここで検討が必要となる。
まず,引用文④に関連して提起された第2の問題との関連で言えば,ここ でもマルクスは,「労働の強度も生産性も」と言って両者を同列に扱っている ように見えるが,国民的生産性の発達の度合いが労働の成果たる「国際的価 値」にどれだけ反映するかは,同一の産業部門についてしか言えないことを,
「違った国々で同じ労働時間に生産される同種商品のいろいろ違った分堂は 不等な国際的価値をもっており」という文言において,明確に示しているの である。
したがって,マルクスは,生産性の発達の度合いが異なる各国民労働は,
部門毎の生産性格差が異なるかぎり,部門毎に異なる量の国際的価値を同一 時間に生産するもの,と考えているのである。
次に,引用文④の中にある「販売価格」と上の「国際的価値」との関係を 明らかにしなければならない。これは,「国際的価値」とは「価値」であるの か,という問題でもある。
引用文④から,「より生産的な国民的労働」が「強度のより大きな国民的労 働」に擬制されるのは,「そのより生産的国民が自分の商品の販売価格をその 価値にまで引き下げることを競争によって強制されないかぎり」であること,
がわかった。つまり,「強度のより大きい国民的労働」は「同じ時間により多 くの価値を生産する」のだから,国民的労働のより高い生産性が作用するの
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}ま,「価値」を上回る「販売価格」としてであることは明らかである。これに 対して,同一時間に生産される「国際的価値」には,国民的労働の強度と生 産性の双方が反映されるわけだから,「価値」を上回る「国際的価値」,だけ が国民的労働の高い生産性の成果である。したがって,世界市場での「販売 価格」と「国際的価値」は同じカテゴリーに属するものである。問題として 残るのは「国際的価値」の貨幣表現が常に「販売価格」なのか,ということ だけである。
この問題に対する回答のヒントは次の引用文⑥の中に見出すことができる。
引用文⑥-「資本論」第3巻第14章から-
「貿易に投ぜられた資本が比較的高い利潤をあげることができるのは,こ こではまず第一に,生産条件の劣っている他の諸国が生産する商品との競争 が行われ,したがって先進国の方は自国の商品を競争相手の諸国より安く売っ てもなおその価値より高く売れるのだからである。この場合には先進国の労 働が比重の大きい労働として実現されるかぎりでは,利潤率は高くなる。と いうのは質的により高級な労働として支払われない労働がそのような労働と して売られるからである。……それは,ちょうど,新しい発明が普及する前 にそれを利用する工場主が,競争相手よりも安く売っていながらそれでも自 分の商品の個別的価値よりも高く売っているようなものである。すなわち,
この工場主は自分が充用する労働の特別に高い生産力を剰余労働として実現 し,こうして超過利潤を実現するのである。」6)
ここでは,先進国が「自国の商品を競争相手の諸国より安く売ってもなお その価値より高く売る」ことが,-国内のある産業部門で,「特別に高い生産 力」を利用する工場主が,「競争相手よりも安く売っていながらそれでも自分 の商品の個別価格よりも高く売っている」ことに警えられている。一国内で 特別に高い生産力をもつ工場主が,「競争相手より安く売る」とは,市場価格 以下の価格で売ることであろうが,それでもなおその価格は自分の商品の「個 別価値」よりも高いので,工場主が「超過利潤を実現する」のと同様に,国 際的水準よりも高い生産力をもつ国は,国際的市場価格で売る「競争相手の 諸国より安く売ってもなおその価値より高く売る」ことによって超過利潤を
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得る,と言っているのである。正常な状態を前提すれば,-国内での市場価 格は社会的価値の貨幣表現だろうから,国際的市場価格は「国際的価値」の 貨幣表現と解することができよう。しかし轡嚥はそれまでである。「国際的価 値」とは,世界市場での「販売価格」の上限である国際的市場価格から貨幣 形態を除いたものにすぎない。したがって,世界市場では商品は,国際的市 場価格=「国際的価値」の貨幣形態と「販売価格」と「価値」をもつのであ り,この「価値」とは「国民的価値」であり,これだけが実在する「価値」
である。これに対して「国際的価値」は「国際的市場価格」そのものだから,
国際的市場価格の運動を規制する「国際的社会的価値」ではありえないので ある。このことは吹節において再度確認される予定である。
Ⅱ.「価値法則の修正」の意味
本節の課題の第1は,前節において引用文③に関連して提起された,労働 の国民的強度の差異がなぜ価値法則を修正するのか,という問題,および,
引用文④に関連して提起された第1の問題一つまり,労働の生産性の国民 的差異がなぜ価値法則の国際的適用を修正するのか,という問題一に回答 を見出すことであり,課題の第2は,「国際的価値」が何らの「社会的価値」
でもないことを再確認することである。
本節でもマルスクからの引用文に依拠しながら考察を進めることにする。
(1)「価値法則」とは何か
「資本論」の第1巻第10章「相対的剰余価値の概念」の中にある次の章句 は,この疑問に端的に答えているように思われる。
「新たな生産様式が一般化され,したがってまた,より安く生産される商 品の個別価値とその商品の社会的価値との差がなくなってしまえば,あの特 別剰余価値もなくなる。労働時間による価値規定の法則,それは,新たな方 法を用いる資本家には,自分の商品をその社会的価値よりも安く売らざるを えないという形で感知されるようになるのであるが,この同じ法則が,競争 の強制法則として,彼の競争相手たちを新たな生産様式の採用に追いやるの
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である。」7)(引用文⑦)
ここでは,「労働時間による価値規定の法則」が,二つの方向で作用するこ とが説明されている。一つは,「新たなる方法を用いる資本家」に対しての作 用で,「自分の商品をその社会的価値よりも安く売らざるをえない」という形 で、その法則は「感知されるようになる」といわれ,もう一つは,新しい方 法をまだ採用していない同じ部門の資本家たちに対して,「新たな生産様式の 採用に追いやる」「競争の強制法則として」作用する,というのである。
この第1の方向で作用するのと同種のものが国際間にも存在することは,
前節の引用文④の中に,「より生産的な国民が自分の商品の販売価格をその価 値にまで引き下げることを競争によって強制されないかぎり」とあることか らも明らかである。しかし,第2の方向で作用する力は国際間には存在しな い。したがって国際間では,同一部門内においても種々異なった労働の国民 的生産性が,存続しうるのである。
だから,この「労働時間による価値規定の法則」が「価値法則」であると すれば,世界市場における「価値法則の修正」とか「価値法則の適用の修正」
といわれるものは,次の=つの内容であると解される。
一つは,「単なる労働時間による価値規定」が変更される,という意味であ る。前節の引用文①にあるように,「ある国の三労働日と他の国の-労働日と が交換されうること」これが「価値法則の本質的な修正」なのである。だが,
この内容だけでは,「それと同じことは国内にもあるではないか」と反論され かねない。そこでもう一つの内容が加わる。
そのもう一つの内容とは,価値法則は国際間では「競争の強制法則として」
労働の生産性を規定したり,労働の強度を規定したり,することはない,と いう意味である。つまり,国際間では価値法則は労働の強度と生産性にたし、
する規定的作用を失っている,ということである。
マルクスは「資本論」第1巻第5章の中で,「社会的に必要な労働時間」の もつ規定的作用を全面的に叙述しているので,次にそれを引用して,上のよ うな「修正」の理解が正しいかどうかを確認することにしよう。
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(2)「価値法則」の規定的作用について
「しかし,労働は,ただ,使用価値の生産に費された時間が社会的に必要 であるかぎりで数にはいるだけである。これにはいろいろなことが含まれて いる。労働力は正常な諸条件のもとで機能しなければならない。もし紡緬機 械が紡績業にとって社会的に支配的な労働手段であるならば,労働者の手に 紡ぎ車が渡されてはならない。労働者は,正常な品質の綿花の代わりに絶え ず切れる屑綿を与えられてはならない。どちらの場合にも,彼は1ポンドの 糸の生産に社会的に必要な労働時間よりも多くを費やすことになるであろう。
しかし,この余分な時間は価値または貨幣を形成しはしないであろう。とは いえ,労働の対象的諸要因の正常な性格は,労働者にではなく資本家に依存 している。もう一つの条件は,労働力そのものの正常な性格である。労働力 は,それが使用される部門で,支配的な平均程度の熟練と技能と敏速さをもっ ていなければならない。ところで,われわれの資本家が労働市場で買ったの は正常な品質の労働力である。この力は,普通の平均的な緊張度で,社会的 に普通の強度で,支出されなければならない。このことには,資本家は,労 働しないで時間を浪費することのないように気をつけるのと同じ細心さで注 意する。彼は盗まれることを欲しない。最後に-そしてこの点については この紳士は一つの独自な刑法典をもっているのだが-原料や労働手段の目 的に反した消費が行われてはならない。とういのは,浪費された材料や労働 手段は,対象化された労働の余分に支出された壁を表わしており,したがっ て数にはいらず,価値形成の生産物に加えられないからである。」8〕(引用文⑧)
i)労働の強度についての規定的作用
「資本家が労働市場で買ったのは正常な品質の労働力であり,この力は,
普通の平均的な緊張度で,社会的に普通の強度で支出されなければならない。」
したがって,社会的に平均的な強度以下での労働を許すことは,資本家にとっ ては,「自分のものをなくす」ことであり,「盗まれること」なのである。だ から,前節の引用文③に,標準的な強度以下の低い強度の労働は「正常な質 の労働には数えられない」とあるのは,資本家はそのように低い強度の労働 は許さない,という意味をもっているのである。つまり,「標準的な強度以下 の労働は存在が許されない」というのが,「社会的必要労働時間による価値規
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定の法則」の命ずるところなのである。
ところが世界市場においては,「世界的労働の平均強度」は,それ以下の国 民的平均強度の存在を許さない,といった規定的意味はもっていない。だか ら,「世界市場においては事情が異なる」のである。「労働の強度の国民的平 均」は,それぞれの国内においては,労働の強度に対して規定的に作用する のだが,世界市場においては,世界中の労働の強度を規制するような「世界 的労働の平均強度」は存在しない。したがって,いろいろな「労働強度の国 民的平均」が階段状に存在するという状況が続き,これが単なる労働時間に よる価値規定を修正する,というのが,ここでの価値法則の修正の意味なの である。
ii)労働の生産性についての規定的作用
これについては先きの引用文⑦においてすでに十分に述べられているのだ が,ここで追加的に言うならば,社会的に正常な生産条件をもたない生産者 は,その部門から脱落するか,さもなければ,正常な生産条件を狸得するこ とを,競争によって強制されるのである。これが「価値の法則」であり,し たがって,「市場価値の法則」でもあるはずである。
ところが世界市場においては,各国の生産条件を規制するような「世界的 に正常な生産条件」なるものは存在しないのである。したがって,いろいろ な生産性水準をもつ国民的労働が世界市場においては並存するのであり,そ れが「労働時間による価値規定」の作用を修正するのである。
以上を要約すれば,世界市場においては,「社会的に必要な労働時間」によ る規定的作用は存在しないのであるが,その理由は,一つにはこの法則は各 国の国内でしか作用しないからであるが,もう一つには世界市場においては,
商品毎に単一の「社会的に必要な労働時間」なるものは存在しないからであ る。存在しないものは作用しようがないのである。したがって世界市場には,
単一の社会的価値も市場価値も存在しないのである。「国際的価値」が「価値」
でありえないことは今や明白であろう。
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Ⅲ、国際的価値と国民的価値の乖離の意味
第1節の引用文⑤から,各国の労働は,それらが所属する産業部門の国際 的な生産性の格差にしたがって,同一時間に異なる堂の「国際的価値」を生 産するものであることがわかった。したがって,一国の労働生産性の国際的 格差が産業部門毎に異なる状態のもとでは,国内において社会的に平均的な 同じ質の労働が,それが支出される産業部門の差異によって,同一時間に異 なる量の国際的価値を生産し,したがって,その生産物は異なる量の貨幣表 現を受けることになる。しかし,まさに国内においては,価値法則は修正な しに作用するはずである。同一労働時間の成果は同一量の国民的価値をもち,
同一量の貨幣表現を受けるはずである。つまり,この状態のもとでは,同一 の国民的労働量が生み出す国民的価値と国際的価値とが乖離するのである。
換言すれば,国際的価値通りの価格が実現されるならば,国民的価値通りの 価格は(大部分の産業において)実現されないことになる。例えば,全部門 における労働生産性が,国際的水準を超えている先進国のぱあいでも,他国 との生産性格差の大きい部門では,生産性格差の小さい部門に比べて,同一 労働時間により大きな国際的価値が生産されるわけだから,この状態の存続 は国民的価値体系一同一労働量は同一の価値に結実し,同一の価格表現を 受けるという-の存在を否定することになる。
このような状態,つまり,労働生産性の国際的格差が産業部門毎に異なる 状態は,裏返して言えば,国際間の比較生産費が商品によって異なる状態で あり,また商品間の生産費比率が国によって異なる状態でもある。このよう な国際間および商品間の比較生産費に格差が存在する状態を前提にして,そ れぞれの国で比較優位の商品が輸出され,比較劣位の商品が輸入される,と いう形で貿易の方向が決定される,というのがいわゆる「比較生産費説」の 示すところである。
ところが,労働価値説の立場から貿易問題を扱っているわが国の研究者の 大部分は,ごく少数の例外を除いて9),この比較生産費に格差の存在する状態
を永続化させて問題を考察されている。
そのことから,たとえば,次のような困難が生じている。国際間および商
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品間の比較生産費を,労働鐘のタームから貨幣量(価格)のタームに転換す るためには,各国における貨幣の国民的価値(単位貨幣量が表わす国民的労 働量)が与えられなければならないが,そのためには,一国内において部門 毎に異なる労働生産性の全体を代表する(あるいは総括する)単一の「国民 的労働の生産性」なるものが確定されなければならない。貨幣(金)部門の 生産性がそれと同一になることを想定するためである。そのために,諸先学 たちは種々の努力をされている。たとえば名和統一氏は,最も生産性格差の 大きい「基軸産業」の労働生産性が国民的労働の生産性を代表するとされて'0),
この方向での思考に先鞭をつけられたが,吉村正晴氏は,-国内で中位の国 際的生産性格差をもつ「基準産業」または「中枢的産業」なるものを想定し て,名和氏の「基軸産業」に代置されており'1),また,山本二三丸氏や木下 悦二氏ほか多数の研究者は,多少の変形はあるものの,部門毎に異なる労働 牛定性を平均されて,「国民的平均労働の生産性」'2)といった類の新概念'3》を 創出されている点では大同小異である,という具合である。
これらの試みはいずれも,部門毎に異なる労働生産性の国際的格差が存続 することを前提にして,つまり,-国内における同一労働量の成果が部門毎 に異なる貨幣表現を受ける状態の中で,貨幣の単一の国民的価値を求めるた めの努力なのである。しかし,同一の貨幣堂が,産業部門毎に異なる労働壁 を表現している状態の中で,どのようにすれば貨幣は単一の国民的価値を代 表することができるのだろうか。
どのようにこみ入った手続きや理論が工夫されようとも-そのことによっ て,若手研究者がこの問題を敬遠するようになる効果はあったかもしれない が-本質的に不可能なことが可能になることはありえないのである。
また,これらの試みは,同一労働量の成果は同一の貨幣型で表現されると いう国民的価値法則の作用が事実上否定されている状態を前提として,行わ れているのだから,これに「国際的価値」の重視が加われば,その帰結が,
1商品=1世界市場価値という,国民的価値体系の公然たる否定に向かわざ るをえないのは,論理の必然というものであろう。
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Ⅳ、国際的価値と国民的価値とが一致するメカニズム
ところで,国際的価値と国民的価値とが一致する可能性はないものだろう か。それは存在する。両者は常に一致するわけではないが,絶えず乖離して もまた絶えず一致する方向に作用する力が存在する。この力が他ならぬ国民 的価値体系の存在であり,-国内における価値法則の作用である。この法則 は次のような仕方で作用する。
比較生産費に格差が存在する状態のもとでは,各国の比較優位の産業部門 においては,価値を上回る価格での輸出によって超過利潤がもたらされ,反 対に比較劣位の部門では,外国から輸入される安い商品に圧迫されて価値以 下に価格が下落して,マイナスの超過利潤がもたらされることになる。だが,
-国内において,ある部門では超過利潤が生まれ,他の部門ではマイナスの 超過利潤がもたらされる,というような状態が永続しうるはずはない。マイ ナスの超過利潤をもたらす部門からは資本が引き上げられて生産が減少し,超 過利潤を生む部門には資本が流入して生産が増加するのであり,この運動は プラス・マイナスの超過利潤が消滅するまで続くはずである。これが価値法
則の命ずるところである。
超過利潤が消滅する状態とは,輸送費の存在を捨象するならば,国際商品
(輸出入可能な商品)を生産する部門においては,生産費比率の格差が解消 している状態である。国際的な生産力の不均等な発展は解消されるわけでは ないから,各国間における絶対的な生産性の格差は残るが,どの部門をとっ てもその国際的な生産性の格差は均一となっている状態である。
念のために言えば,このような状態になっても貿易は行われている。貿易 の結果としてそのような状態が実現したのだからである。しかし,貿易によ る超過利潤は存在しない。輸出される商品を生産する部門も,輸入されるの と同じ商品を生産している部門も,国内商品(輸出入されない商品)を生産 する部門と同一の利潤率を実現している状態である。
また,国際商品を生産している全部門の国際的な生産費比率(生産性格差)
は均一となっているのだから,最も国際的な商品である貨幣商品=金を生産 する部門の国際的な生産性格差もこれらと同一である。したがって,各国に
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おける金の国民的価値は,その国の国際商品部門全体に共通な労働生産性の 格差に反比例し,生産性の高い国ほどその価値は小さく,生産性の低い国ほ
どその価値は大きいことになる。
しかし,各国における国際商品の国民的価値は金の価値に比例しているの であるから,国際商品の価格は世界中どこでも同一であるし,それは同時に 国民的価値通りの価格(=価値価格)でもある。つまり,国際的価値と国民 的価値との乖離はここでは消滅している。
実はこのような状態が,貿易の問題を考察する出発点である'4)。このよう な状態の中で,ある国の国際商品を生産する(製造業の)一部門において,
新技術が採用されて生産性の増進が起こるならば,その時には,生産費比率 の新しい不均等が生じ,新しい貿易が開始されるのである。
いわゆる「比較生産費説」とこれに追随する研究者たちは,この不均等な 状態から出発して貿易を説明したために,国際的価値と国民的価値の関係が 不明確となり,またそのことによって,貿易による国際的価値移転の問題も アイマイなものにされることになった。
以下では,その間の事情を明らかにするためにも,国際商品を生産する全 部門における生産費比率の均一な状態から出発して,生産力の国際的に不均 等な発展が,どのようにして貿易を通ずる国際的な価値移転をもたらすのか,
を説明することにしたい。
V・生産力の不均等な発展と国際的価値移転 設例1
A国;綿糸1単位=金209,小麦1単位=金409 B国;綿糸1単位=金309,小麦1単位=金209
上に掲げる設例1は木下悦二箸「資本主義と外国貿易」(有斐閣,1963年刊)
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綿糸 小麦 金19の代表 する国民的価値
A国 20 40 1
B国 90 60 3
167頁に掲載のものである。これは,木下氏だけではなく,「国際価値論」の 研究者たちが好んで用いる設例の代表として掲げたのであるが,この設例で は初めからA・B両国間で綿糸部門と小麦部門とで生産費比率が異なってお り(綿糸の1:4.5に対し小麦は1:2),そして,貨幣(金)の価値比率は,
これら両部門の生産費比率をほほ平均した水準(1:3)であること,が想 定されている。これまでに説明したように,このような設例を考察の出発点 とすることはできない。そこで,ここでは木下氏の設例を下記のように修正 する。
設例2
A国;綿糸1単位=金459,小麦1単位=金309 B国;綿糸1単位=金459,小麦1単位=金309
上の設例2では,A・B両国間の国民的労働の生産性格差(=商品1単位 の生産費比率の逆数)はどの部門でも2:1である。つまり,綿糸も小麦も ともに国民的価値通りの価格をもっていると同時に,両国で同一の国際的価 値価格をもっている。この状態では新しい国際分業は生じないが,これが考
察の出発点である。
今,A国の綿糸部門に生産性の増大が生じ,その1単位の社会的必要労働 が45から20に減少したと想定しよう。するとこの時点では設例3の状態が出
現する。
設例3
A国;綿糸1単位=金209,小麦1単位=金309 B国;綿糸1単位=金459,小麦1単位=金309
今やA国の綿糸1単位の価値価格は金459から金209に低下する。そこで 新しい輸出市場が開けてくる。B国では綿糸は依然として金459の価値価格
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綿糸 '1,麦 金19 A国 45 30 1 B国 90 60 2
綿糸 小麦 金19 A国 20 30 1 B国 90 60 2
をもち,それが国際的価値価格=国際的市場価格でもあるのだが,A国は競 争者を打ち負かして自己の市場を拡大するために,この国際的市場価格を下 回る,たとえば,金409で綿糸を売っても,国民的価値価格の2倍の価格を 実現しうるのであり,しかもB国の市場をそれによって席巻することができ る。このばあい,B国からA国への価値の移転が生ずることは明らかである。
A国からB国へ輸出される綿糸1単位は,国民的価値価格を超えること金20 9が代表するB国の価値だけ,多くの価値をもつB国の生産物と交換される のである。さしあたり,1単位当り金309の価値価格をもつB国の小麦の4/
3単位がA国の綿糸1単位と交換される。しかしA国内では,1単位当り金 209の価値価格しかもたないはずの綿糸が金409の価格で売れるのだから,
この部門では超過利潤が生ずる。すると,小麦部門から綿糸部門に資本が移 動して,A国の小麦の生産が減少する。需要の方は変化がないのだから,A 国産小麦の価格は騰貴するが,そこへB国から小麦が輸入されるからA国に おいて小麦の供給が不足することはなくなる。
他方B国では,安い綿糸がA国から輸入されるのに応じて,価格の低落に 耐ええない劣位の生産条件をもつ資本から綿糸部門を脱落するので,同部門 の生産性は上昇する。B国の小麦部門はA国への輸出需要があるので,綿糸 部門から脱落する資本を受け入れて生産を拡大するが,今までは採算不能だっ た農地も耕作されるようになることによって,その国民的価値は増大する。
その結果,B国の綿糸部門の社会的必要労働は1単位当り90から,たとえば,
60に減少し,小麦部門のそれは60から67.5に増大したとしよう。
またA国の小麦部門では,綿糸部門への資本移動と,B国からの輸入に押 されて,生産が減少し,耕地が優良地だけに限定されることで,その生産性 は増大するはずだから,社会的必要労働が30から22.5に減少したとしよう。
以上の結果は次のように,設例4によって示されよう。
みられるように設例4では,A・B両国間の国民的労働の生産性比率は,
綿糸部門も小麦部門もともに3:1と同一であり,同様に,貨幣(金)の代 表する価値の比率もこれの逆数である1:3である。また,A・B両国間の 国民的労働の生産性比率は,それらの労働が同一時間に生産する国際的価値 の比率であるはずだから,綿糸1単位の価格も,小麦1単位の価格も,今や
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股例4
A国;綿糸1単位=金409,小麦1単位=金459 B国;綿糸1単位=金409,小麦1単位=金459
国際的価値通りの価格であり(20x3=60×1,22.5×3=67.5×1),しか も同時に,国民的価値通りの価格である(つまり,各国内の投下労働堂に比 例した価格をもっている)。だから,国民的価値と国際的価値の乖離は解消し ており,これが,A国の綿糸部門の生産性上昇によって起こった,国際分業 の再調整過程が終了したことを示している。
そこで,なお考察すべき問題が三つある。
第1は,貨幣の国民的価値がなぜ上記のように変化するのか,である。
第2は,以上の調整過程で,両国間に貿易収支の不均衡は生じないのか,
である。
第3は,調整過程の終了後も,B国からA国への価値移転は続いているの か,である。
しかし,第2の問題は小稿の範囲を越える問題なので,今後の課題とする ことにしたい。また,第3の問題は,それに答えることで小稿のむすびに代 えることにして,ここでは第1の問題,つまり,A・B両国における貨幣の 国民的価値がなぜ上記のように変化するかという問題だけを,以下において 考察することにする。
20の国民的価値しか含まないA国の綿糸1単位が金409の価格をもつのだ から,綿糸部門では金19の代表する国民的労働量は0.5に低下している。A 国内に価値法則が作用しているかぎり,A国産の小麦の価格も,小麦1単位 を生産するに必要な労働量が変化しないかぎり,やがては1単位=金609に 上昇するはずである。ところが,B国から小麦が1単位=金459の価格で輸 入されるとすれば,その国内での価値価格も金459となるように,耕作範囲 の縮小によって小麦部門の生産性が上昇し,A国の小麦1単位の価値は30か ら22.5に低下する。B国では耕地面積の拡大で国民的価値が67.5まで増大し
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綿糸 小麦 金19 A国 20 22.5 0.5
B国 60 67.5 1.5
た小麦が1単位=金459の価格で売れるので,金19の代表する国民的価値 は1.5に低下する。こんどはB国での価値法則の作用で,A国からの綿糸の輸 入価格(1単位=金409)と金の価値の変化に規定されて,B国での綿糸の 国民的価値は1単位当り60にまで減少する。
以上で両国における貨幣の価値変化は一応説明されたが,こんどは,B国 からA国への価値移転を確かめる視点から,もう一度遡って変化の過程をみ てみよう.
A国で綿糸部門の生産性が上昇し,綿糸1単位の価値が45から20に下落し たので,その価値価格は金459から金209に減少したのだが,なお1単位=
金459の国際的価値価格が支配しているB国市場に対しては,金409の価格 で輸出することは容易であるから,それによって綿糸1単位当り金209の超 過利潤が穫得される。A国内部においては,同一労働堂の成果は同一の価値 価格に実現されようとする力(=価値法則)が作用するから,A国の小麦部 門からは資本が流出して(あるいは,生産者が離脱して),小麦の供給が減少 し,小麦の価格が上昇して,(さしあたり生産性を不変とすれば)1単位=金 609に達すれば,綿糸部門の超過利潤は消滅する。この段階でA国における貨 幣(金)19の国民的価値は0.5に下落する。
ところで,この変化の出発となったのは,A国の綿糸が価値価格の倍の価 格でB国に輸出され,B国の小麦と交換されたことである。つまり,A国か ら輸出される綿糸の価値価格の倍の価格をもつ40/30単位の小麦が,綿糸1単 位と交換にA国に輸入されたことである。この小麦はA国では40の価値をも ち,A国での金の価値が0.5に下落すれば,A国では金809の価値価格をもつ が,それをたとえば金609で売るとするならば,(綿糸1単位はB国で金409 で売られたのだから)なお金209の輸入利潤を得ることができる。つまり,
A国での小麦の価格を,4/3単位当り金809から金609に(1単位当り609か ら459に)に下げることができたのは,そしてなお,輸入の超過利潤(それ はB国からみれば輸出の超過利潤)として,小麦4/3単位当り金209(1単位 当り159)が得られたのは,A国の綿糸が価値価格の倍の価格でB国へ輸出 され,そのことによって,A国の貨幣価値を半減させるとともに,綿糸がA 国でもつ価値の倍の価値相当分をB国から小麦の形態で移転させたからであ
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る。
以上の価値移転の考察からわかったことは次の三点である。すなわち,① A国の貨幣の価値が低下するのは,A国の綿糸が価値以上の価格でB国へ売 れること,つまり,B国からの価値移転があること,によって実現されるこ と。②にもかかわらず,A国で貨幣価値が下ったのに比例するところまで小 麦の価格が上昇しないのは,B国からの価値移転が小麦の形態で行われてい るからであること。③また,小麦の輸入に伴う超過利潤も,B国からの価値 移転の-形態(一部)であること,である。もしこの輸入の超過利潤がB国 の輸出業者の手中に入るならば,それはB国からの価値移転分からのB国へ の還元と見倣すことができよう。
Ⅵ,むすびに代えて
前説でも述べたように,ここでは,貿易による超過利潤が消滅して後もB 国からA国への価値移転は継続するかを考察して,むすびに代えることにし たい。
綿糸産業での生産性の上昇があったことに起因するA国での貨幣価値の低 落が,価値を越える価格での綿糸輸出による,相手国からの価値の移転を意 味することはすでに明らかとなった。同様に,超過利潤消滅後も,両国間の 貨幣価値の開きがr2から1:3に拡大していることは,B国からA国へ の価値移転が継続していることを意味する。つまり,A国の1労働日とB国 の3労働日が交換されること(=同一の貨幣量表現を受けること)自体が,
両国の労働の平均的熟練度と強度にそれだけの差異がないかぎり,B国から A国へ価値が移転されていること,すなわち,「富国が貧国を搾取しているこ と」を意味するのである。このばあいには,価値の移転は超過利潤の形態で は行われないが,全体の利潤の水準を高めるという形態で行なわれている。
けだし,強められた労働としては支払われない労働の生産物が,労働の高い 生産性のために,強められた労働の成果として売られるのだからである。
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〔注〕
1)ノM2癒一E"9Fノ3Wb戒⑧Bd、26.3,s、101,邦訳「マルクス・エンゲルス全集」26 111,131-3頁。但し訳文は必ずしもこれに依らない。
2)Wで液e,23,s、548,「全集」23b,680-1頁。
3)CDC"。z,S583-4,同上訳書,728頁。
4)CD“〔わ,S、584,同上訳書,728頁。
5)CDG"、z,S584,同上訳書,728頁。
6)Wb液a25,s、247-8,「全集」25a,298頁。
7)晩γ蛇23,s337-8,「全集」23a,419頁。
8)Che"ぬ,S210,同上訳書,256-7頁。
9〉このごく少数の例外の一人が本学経済学部の同僚柴田固弘氏であり,小稿は同氏の業 絞と同氏との討論に多くを負っている。特に示唆を受けた同氏の論文を挙げるならば,
「貿易の超過利潤と特別剰余価値」「金沢大学経済論集」第16号,1979年3月,「貿易の 超過利潤の源泉について」同上誌,第18号,1981年3月,「価値法則の国際的適用(そ の1)」「金沢大学経済学部論築」第2巻第1号,1981年10月,「価値法則の国際的適用
(その2)」同上誌,第2巻第2号,1982年3月,などである。
10)名和統一「国際価値鵠研究」日本評論新社,1949年刊,164頁。
11)吉村正晴「国際的価値に関する若干の基本的問題(1)」「産業労働研究所報」第20号,
1960年2月,6-7頁。
12)山本二三九「等価交換論一価値法則論を中心として-」「立教大学経済学研究」
第4巻第2号,1951年五月,64頁。
13)「国民的平均労働の生産性」を新しい概念とするのは次の理由からである。「国民的 平均労働」とは,「国民的な簡単な平均労働」の意味と思われるが,「簡単な平均労働」
とは価値を形成する「抽象的人間労働」の大きさを規定するための度壁単位であり,し たがって,それ自体が「抽象的人間労働」のはずである。ところが「生産性」とは,特 定の使用価値を生産する具体的有用労動に関わる概念であって!「抽象的人間労働」と は無縁のものである。だから,「国民的平均労働の生産性」とは,「国民的価値を形成す る抽象的人間労働の生産性」ということであって,それはまさにマルクスにはない概念 であるという意味で新しいのである。
14)錐者は,旧稿「貨幣価値の国民的相違について」(桃山学院大学「経済経営論集」第 16巻第2.3合併号所収,1974年11月。後に拙番「金問題と貨幣・信用論」金沢大学経 済学部,1990年刊の第4章に収録)において,この状態を貿易の到達点としたのに対し,
柴田固弘氏はこれを貿易の考察の出発点とされており,到達点は同時に次の出発点でも あるわけだから,罐者の見解は柴田氏によって補足されて,はじめて一貫性を得ること になったのである。
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