‑ I〔講演記録〕
留 学 生 教 育 に 思 う
‑ 日本 とのつ きあいをふ り返 って
ロベ ル ト
・H・E・オ エ ス ト
みなさん、 こんにちは。ただいまご紹介に与か りま し たオエス トです。今回、お招 きいただいて、 こういうふ うにお話 しす る機会を与えて くださったことを感謝 した いと思 います。
私 は、 ご紹介にあ りま したよ うに、 もうち ょうど
30年 前、昭和
37年
、1962年の
4月に日本に参 りま して、大学 に入 って日本文学 を勉強 した り、あるいは日本の社会の 中で生活 していろんな経験 を して きま した。今 日はまず 私がどのよ うに して日本 という国 と取 り組むようになっ たか というお話 を して、それか ら日本に来てか らどうい うよ うな体験 を して、今、どうい うような ことを希望す るか ということを、粗筋めいたことになるか とは思 いま すけれども、お聞 きいただければあ りがたいと思います
。1.日本 との出会 い
幼 い頃の記憶
私 は、生 まれはアルゼ ンチ ンという国でございまして、
アルゼ ンチ ンという国 は日本か ら見れば一番遠 い国の一 つです
。南米大陸にあ り、スペイ ン語 を使 って います。
スペイ ン語系 の人達 は日本語を学ぶ上で発音がたやす く 覚え られるとい うことがあ りますが、外国であるという
ことは、はかの外国人 と変わ りないと思 います。
私が、一番最初 にこのアジアという世界に触れ ること がで きたのは、おそ らく
5才の頃ですね。私の父方の祖
本稿 は、外国人留学生指導セ ンター主催により1992年11月24日 に長崎大学附属図書館視聴覚室 において 「留学生教育の質的充 実 に向けて日本 の大学 に求め られること‑ 留学生 として、教 師 としての体験か ら‑ 」 と題 して行 なわれた講演 の記録 に、
一部語句の修正 を加えていただ き掲載 しま した。
父が亡 くなって、家の中はた くさんのいろんな本で大洪 水で した。その中に大変お もしろい、私の注意を惹 いた 本があった。その本 は 『日露戦争の記録』 という膨大 な 資料の二冊本で した。古 いもので、スペイ ンで出版 され ていた 『ガセ タ ・エスパニ ョ‑ ラ』 という雑誌の別冊で した。そこにいろんな挿絵があ りま して、私 たちとはだ いぶ違 った顔色 とか習慣を持 っている民族がいるという ことで、非常 に深い印象を受 けま した。
東洋への憧れ
で、成長す る過程の中で、私 は、そ ういういろんな本 を読み漁 って、その中に、1
5、
6才の時に叔母か ら贈 ら れた一冊の本があ りま した。それは、いろいろと東洋の 思想、東洋の考え方、あるいは風俗 ・習慣 について書 い た一冊の本だ ったのですが、それを私 は読んで幼 い頃の 体験 を思 い出 しま した。それで、ああ、 こういう世界に ついて少 し勉強 したいなと、い う気を起 こしま した。
まあ、青年であ りま して、1
5、6才の頃に はいろんな 問題に取 り組みま した。私 にとって一番の問題 は、 ヨー ロッパのキ リス ト教的文化で した。私が育 ったのはキ リ ス ト教の国ではあるけれどもヨーロッパではな
い 。キ リ ス ト教道徳 とか、あるいはものの考え方、人間の捉え方、
生命、世界観 についていろいろ疑問を持 ちま して 、 で、
そ ういうきっかけで東洋 と取 り組むようにな りま した。
そこで、日本 という国、あるいは中国 という国、先 は ど申 し上 げま したその本 は主 に中国の話 を内容 としてい たま したけれど、その頃は中国 とか日本 とか と申 しま し て も、どこが違 うのか ということはよ くわか りませんで
した。そ ういうわけで、まずは中国語か日本語、まあそ
ういう地域 の言語を習得 したいと先生を探 したわけです。
2
日本語の先生を探す
先生を探すのに、なかなか苦労 しま した。日本人の先 生 を探 していたときに、 こんなことがあ りま した。日本 大使館 に行 きま して、あの頃は文化部 というのはあ りま せんで、いろいろな書記官がいる中で、私 は経済担当の 方 に、是非 とも日本語を教えて くださる日本人の人を紹 介 して欲 しいと申 しま した。アルゼ ンチ ンには日本人学 校が ございま したのです けれども、まあ子供が相手 で、
アルゼ ンチ ン人を受 け入れるような態勢ではあ りません で した。
その大使館の人 は私を見て、「あなたはい ったい日本 語 を勉強 して何に使 うのか。何 になるのか。そんなこと はやめたはうがいいよ
。ドイツ語 とか英語 とか、あるい はフランス語を勉強 して ヨーロッパへ行 った方が得なん だ。 」 と言 いま した。私 はびっくりしま した
。自分の国 の ことを勉強 しようという人に対 して、よ くもやすやす と 「やめておけ」 と言えるもんだなあと、びっくりした んです
。この民族 は変わ った民族だ、研究す る価値があ ると決心 しま した。「これか ら頑張 るぞ」 と、何回 も何 回 も大使館 に足を運んで、やがて大使 の秘書が、「こう いう人がいるか ら、ち ょっと紹介 しま しょう」 と言 って
くれま した。
興村先生 との出会 い
その紹介 して くださったのは、アルゼ ンチ ンで もう長 年、戦前か らお られた興村禎吉 という先生で した。 もち ろんその興村禎吉 さんは日本語 の先生を していたわけで はな くて、アルゼ ンチ ンにいる数少ない日本人の知識人 の一人であったわけですね。
御存知 のようにアルゼ ンチ ンとかペルーとか中南米に 移民 した方 々は、だいたい農村出身で、日本語を教える となると、まあ方言 を教える
。だか ら惇 ったんですね
。「あた したちにはち ょっと教え られない」 と
。その当時 の私 は、そ ういうことがわか らな くて、なぜ日本語 を教 え られないのか と不思議に思 ったんですけど、やがて理 解で きま した。
ところで、興村 さんが、当時 は日本鉄鋼輸出組合 とい う組織が ございま して、アルゼ ンチ ンに窓 口を作 ってい たその事務所 に現地採用 されて駐在員の秘書 として働い
ていたわけなんです
。で、事務所に来いと言われました。
私 は約束の日にその事務所に赴 いて、 ベルを押 して、
女の人が出て きて 「しば らくお待 ち くだ さい」 とい う
。 10分か
15分後に部屋へ通されました。そこは、何か変わっ た部屋で、畳が
3枚で したかありま して、その畳 に正座 して座 っていたのが興村 さん とその駐在員なんです。碁 を打 ってるんですね。
「こんにちは」 といった ら 「こんにちは。ち ょっとお 待ち ください。どうぞ、お座 りください」 と言われま し た。 もちろん全部 スペイ ン語です。座 ったら、その二人 は、 もう私がいるかいないか っていうことは忘れて
、20分
、40分 と碁 を打 ち続 けた。私 は 「これは不思議な遊 び だな。何だろう
。非常 に神秘的なゲームだな。」 と思 い ま した。聞 こえるのは、たまに碁石がカチ ン、カチ ンと 碁盤 に当たる音だけ。それ以外には、言糞 もなければ何
もないんですね
。完全な沈黙。
40
分 もたったで しょうか。興村先生が、「あ、あなた、
紙 と鉛筆を持 って来 ま したか」 と聞かれま して、「はい、
持 って来 ま した。 」 と言 うと、「 書 いて ください。私 はこ れか らあなたにね、日本語の 『 てにをは
』を教えま しょ う。 」 と言 う 。 『 てにをは』 と言われて も分か りませんか ら、大事なことだろうと思 っています と、「鉛筆 を出 し てローマ字で書 いて ください」 と言 う。それで 「 一つの 文の中に 『てにをは
』が全部入 っているか ら、よ く気を つけて。それか ら、家へ帰 った ら辞書 をめ くって、意味 を調べなさい。 」たった一つの文章 を教えて くれま した。
私 は真剣に紙をとって、鉛筆を握 って、先生の言 うこと を書 きま した。
その文 はこういう文で した。「 私 は、 日本 へ行 きま し て も、日本語を完全 に覚え ることが不可能 で しょう。」
そ こには 『 てにをは
』が完全に入 ってますね。私 は意 味が分か らない ものですか ら、「それで終 わ りですか。」
「そ うです。家へ帰 って、調べて、またい らっ しゃい。」
と言 う
。それで家へ帰 って、辞書 をめ くって
30分
、40分、
分か った時には 「こん畜生」 と恩 いま したね
。「じゃあ、
勉強 してやろうじゃないか」 と恩 いま した。
おそ らく、この興村先生 は大変な教育者で、まず私 に
やる気があるかどうか ということを試 した。おそ らく何
人かのアルゼ ンチ ン人が私 より前に教えて くださいと頼
んで来 たけれど、勉強 しなか ったり した もんですか ら、
やめるな ら早 くやめて もらいたいという気持 ちがあった ろうと思 います。
これが、まず、私の最初の日本 との出会いだ ったんで す。日本人 との出会 いだ ったと言 って もい
い 。私 たちか ら見れば、ち ょっと変わ っているなあ、変だなあという 反面、 この国 に対 して大変な好奇心を抱 くことに もな り
ま し
た 。ブエ ノスアイ レス港で本を待つ
しか し私 の時代には、日本の情報を手 に入れるのはと て も難 しいことで した。今 も難 しいけれども、あの頃に 比べれば もっともっと情報が手 に入 ることは確 かです。
あの当時はとて もじゃないけれども大変で した,私がア ルゼ ンチ ンで 日本語の書物を手 に入れよ うと思 った時に は、大使館 はもちろんだけれども、船の港、アルゼ ンチ ンの ブェノスアイ レス港、日本 の船が入 って くるたびに、
港へ行 ってその船員 と話 して、ち ょっとこの次にこうい う本があれば持 って きて くれ と頼んだ もので した。 日本 人 は非常 に親切だか ら、必ず持 って来 て くれ るんです
。半年後ですよ
。あの頃は行 きに
3カ月、帰 りに
3カ月か か った。それで半年後にその船が入 って くると、ブェノ スアイ レス港 に行 く
。そ うす ると、その船員がちゃん と 本を持 って きて くれ る
。それで独学で勉強 した りなんか
しま し
た 。浪花節で 日本語の勉強
それか ら、興村 さんの もう一つの特徴、あるいは側面 をご紹介 します と、彼 は教科書 を使わな
い 。教科書 はな か った。ただあったのは 「サイタ、サイタ、サクラガ サイタ」 という昔の日本の教科書だけで、それをち ょっ
と読んで、後 は レコー ドを使 いま した。その レコー ドは もちろん 「やさしい日本語」 とか何 とかの レコー ドじゃ ござません
。これは、変わ った レコー ドですね。浪花節。
それか ら邦楽の‑中節。皆 さん、御存知 ない方が多 いか と思 います けれども
。浪花節 というものは、興村 さんの 話 しでは、 こういうものを習えば日本人の庶民の心が分 か るだろう、とい うんですね。
結局、今の寅 さん と同 じですね
。柴又の寅 さん と
。そ ういう意味で浪花節を私 はアルゼ ンチ ンで習 いま した
。虎蔵の 「 森 の石松」の代参の巻 と船中の巻、 レコー ドの
裏表全部暗記 しちゃったんですね。 もちろん意味 は分か りません、全 く
。ただ捻 ってそのとお りに声 を出 して、
今か ら考え ると恥ずか しい ぐらいです。 しか し日本に来 てか ら私が 日本の社会の中に入 ってい く中で、結局その ような庶民文化、まあ浪花節 というのはち ょっともう古 くな りま したが、浪花節的 とい う言糞 は今で も使われる と思 いますが、まあ、そ うい う庶民 に接す る一つの手段 として、飲 み屋 とかでち ょっと酒飲んで話 して、そ して ち ょっと捻 ってあげると喜 こぼれます しね。余 り上手だ と嫌われますけど。
日本留学を志す
さて、そ うこうす る内に、日本 という国に行 く方法を 考えてみよ うと思 うようにな りま した。当時 は、今か ら
40年前の話ですか ら、日本に来 るということはなかなか 大変 なことで した。文化協定 もなければ、留学生 を受 け 入れる態勢 もほとんど皆無 に近か った。日本 にいた留学 生のほとん どはアメ リカ人で した。つまり、日本 に駐留 軍 としてや って きた人 とか、あるいはかの有名なライシャ
ワー大使、 ライシャワー教授 の弟子で、戦争が終わ って か ら来 た人 とか、それか らあち らの研究所で日本語 を学 んで、日本 にや って きて研修す る人、あるいはジャーナ リス ト、その程度で した。だか ら留学生 の数 は非常に少 なか った。アジアの学生 は多少お りま したね
。ベ トナム とかカ ンボ ジアとかあるいは韓国 とか。
で、なかなか日本に行 くすべがな くて、 ビザの問題 も ございま した。観光 という目的でなければ日本に行 くこ とは不可能だ ったんです。再度大使館 に足を運んで、日 本‑行 くすべを教えて欲 しいと頼んで も、なかなか こう しなさいと教えて くれない。 しまいに、私が再三相談 し ていた日本大使館の公使がいま したが、彼が こう言 いま した。「そんなに行 きたいな ら
、行 っちまえばいいんだ。
行 ってか らの ことは、後 は向 こうで考えなさい
。」「そう ですか。その通 りにいた しま しょう。 」
それで金を貯めて、航空券 を買 って、であの当時 は羽 田空港に降 りたわけです
。羽田空港に降 りる前に、私 は
5
、
6才の時に本の挿絵で見 たあの 日露戦争 の風景 を、
新 たにウェ‑ク島で確かめることがで きま した。飛行機
はあの当時 は長 い時間をかけて日本へ飛んで くる
。もう
途中で 2、 3泊 した りして、なかなか日本に来 られせん
4
で した。で、ウェ‑ク島に降 りると、真 っ白な浜辺 に、
旧日本軍 の船が沈んでいた。地先が浜辺 に乗 り上が った ままで、船 に日の丸が見えた。それが非常に印象的で し た。私 はち ょっとロマ ンテ ィス トでありま して、そ うい う風景に、小 さいと善本を通 して思 い浮かべたイメージ を交錯 させたので した。
2.
日本での留学体験東京外語大に入学
羽田に着 いたのは昭和
37年
4月
4日午後
7時
27分で し た。それで タクシーに乗 ったんです。タクシーに乗 って 私 の習 った日本語で タクシーの運転手 に話 しかけて見た ところ、分か って くれま した。 ところが行 く先の旅館 は 満員だ った。さあどうしよ うか って ことになって、それ でアルゼ ンチ ンにいた日本人の友人の父親を訪ねて、か ろうじて泊 まることがで きま した。
アルゼ ンチ ンの大使館の紹介で ビザの切替 えを して、
それか ら東京外国語大学 に入 る手続 きを教えていただ き ま した。外務省である人に会 って、
3カ月の滞在 ビザで はな くて半年の半長期滞在の ビザ、仕事 もで きるという 非常 に便利な どザをいただ きま した。あの当時はそれが 可能だ ったんですね。そ ういうふ うにあちこちで仕事 を しなが ら、結局、東京外語大へ通 うことにな りま した。
この外語大での体験 を申 します と、今 は非常に充実 し ていると思 いますが、あの当時 は先生 もやはりまちまち で、外国語 を学んだ先生で、結局 イ ン ドネシア語 とかあ るいはマ レー シア語 とか、あるいは中国語 を学んだ先生 で、今度 日本語教育に も携わ ったという先生たちで した。
だけれどもそ うい う言語学 の知識 とか、あるいは系統的 に日本語 を教えるためのちゃん とした教授法 とかの知識 を身 に付 けた先生 は少なか ったのです。まあ、やむを得 ないことだ ったろうと思 います。私 が一番感 じたの は、
何か日本人 は、あの当時、自分の言葉を学 ばれ るという ことに対 して抵抗があるん じゃないか と思 った。つまり、
日本語 というのは日本人の言葉であって、外国人はあん まり上手 になるって ことは必要 ないという意識を感 じま
した。
そ こで、私 はびっくりしま して、そ ういう意味で多少 苦労があったんですけれども、外語大で 2 、 3 人の徹底
した厳 しい先生がお られたお蔭で、私 たちは無事に日本 語を勉強 して、上達す ることがで きたとい うことは間違 いないと思 います。
運良 く下宿か見つかる
宿舎の問題 もあ りま した。今 もそういう問題が結構 あ るか と思 いますが、外国人がアパー トとか下宿を探 しま す と断 られることが非常に多 い。 あの当時 も外国人がや はり恐 いという人 も結構 いま して、戦後の駐留軍が何か いろいろと悪 いことを しでか したということで、そ うい う特別の地域では外国人を嫌 っていた。私 はそ ういうこ とを詳 しくは知 りませんで したけれども、アパー トを探 したときに、そういうような経験 を しま した
。けれども外語大のす ぐ近 くのアパー トに行 きましたら、
大家 さんが気持 ちよ く私 に部屋を貸 して くださいました。
その人 は戦前 は北京 とか大連で大工をしていた人で した。
ですか ら外国の滞在の体験 を持 った人で、私 に対す る理 解が普通の日本人よりもあったのではないかと思います。
その家庭に入 って私 は
10年間 ぐらい無事安泰にそこで生 活がで きた。そのお蔭で、勉強 と生活を支障な く送 るこ
とができたと今で も感謝 してお ります。
3.
日本社会の特異性さて、御存知 のように日本の社会 は、日本人 自身が言 うように特異な社会、特別な事情のある社会であると思 います。日本の社会の特異性 ということは、最近あんま り主張す ると何か具合が悪いんだ ということを日本人 自 身 も気が付 くよ うになったんですけれども、特殊性 とい うものを外国人が理解で きない場合 は、やはり日本の社 会に住む上で大変不都合なこともあるし、あるいは誤解
ということも生 まれると思 うんです。
2点間の最短距離は曲線 ?
例えば日本では、 ものを直接 に言 うよ りも娩曲に言 っ たほうが いい。 そのほうが効果的です。 日本 に来 て
2、
3
年 たった頃、長期滞在を してお りま したあるスペイ ン
人に会 いま した。その人 はもう大正時代に来ていたんで
すね。大正時代 に彼 は、日本に着 いた翌朝、明け方 に変
な音が聞 こえる。「 何だろう、土砂降 りか な」 と思 って
窓 を開 けた ら、下駄 の音だったというんですね。そんな 時代。みんなカラカラと下駄で歩いて い くものだか ら、
何か土砂降 りのような感 じだ ったんですね。
そ ういう人が私 に こう言 いま した。「ロベル トさん、
点 と点 との間の最短距離 は何 ですか。」私 は 「直線 だ」
と言 ったんです 。 「そ うですね
。どこで もそ う
。で も日 本 は逆だよ。日本 は曲線です。 」点 と点 との間 の最短距 離 は直線ではな くて曲線なんです。日本の場合 はそ うで す。私、その当時 はそ うだ と分か らなか ったんですけれ ども、後で分か るようになりま した。
最近 は日本人 も海外旅行 もす るし文化その もの も多様 にな りま した
。社会そのものも地域的な狭い社会か らもっ と複雑な社会 に変わ って きている
。昔 は日本人同士 ツー カーで分か った。けれども狭 い村 とか、狭 い社会の中で はそ うい うことができたんですが、大きな都会に行けば、
いろんな外国人 とか、いろんな海外へ行 って帰 って来 た 日本人 も多 くて、だんだん社会が変化 してい って いる
。しか し、やはり依然 と して以前か らの日本社会の特徴が 残 っていることは確かだ と思 います。
島国 ・ムラ社会 ・恥の文化
日本社会の特徴 となっているこの閉鎖性、 これは 「島 国」 という言葉で昔か ら説明 されているんですけれども、
この日本人社会が持 っているそ ういうエ トスですね。外 か らの干渉や圧力があって も、直接 に日本人の持 ってい るエ トスを変えるということはなかった。日本 はそ うい うエ トスをず っと持 ち続 けて きた社会ではないか と思 い ます。
あるいは、最近、テ レビなどで日本のムラ社会 という ことが話題 になりま して、いろんな先生が日本のムラ社 会 とは何だ ということを説明 しています。ムラ社会 とは なんだ ということになるとまた話 しが長 くな りますが、
そ ういう閉鎖的な性格がある
。ルース ・ベネデ ィク トというアメ リカ人がおりまして、
『 菊 と刀』 という題の立派な本を書 いたんですが 、 その
『 菊 と刀』の中で、日本人が持 って いるのは恥 の文化で ある、と言 っています。恥 の文化 として日本の社会が紹 介 されてお りますけれども、ではその恥 とはいったい何 だろうか。恥の文化の中ではどうや ってその恥が機能す るのか。その恥 という言葉 は、普遍的な道徳あるいはモ
ラルというものではな くて、一つの狭い社会の中で、で しゃば らない、あるいは他の人 と違 ったことをや らない、
そ ういうよ うな意味で恥の働 きがあるのではないか、 と 私 は思 います
。それか ら、私の体験か ら申 します と、日本人は概 して、
一般的に
wel1‑Orientedmindですね
。邪気が ない。非 常 にナイーブな面を持 っています。けれども、外交的で はないですね。あるいは自分の悩みとか自分の問題 とか 他人に全部 ば らす ことは しないんです。我慢す る
。中南 米の人 はもうちょっと情熱的ですか ら、自分の悩みを全 部話すんです。 しか し、そ うすれば日本人が逃 げて しま う
。そんなこと聞 きた くもな
い。ですか ら日本人 とっ さ 合 うということを考える場合には、そ ういう心得が必要 ではないか と思 います。
やはり私 たち外国人 は、日本人 とのつ き合い方、ある いはつ き合 いの限界、どこまでつ き合えるか、どういう 方法、どういうようなっ き合 い方を心得ていなければな らないかを考える必要があると思 いますね
。そ してそれ を勉強 して心得てい く問に、それはごく当たり前の こと になって しま うものだと思います
。中国文化の持つ合理性
そういうことを考えなが ら、中国 とかあるいは他のア ジアに行 ってみます と、日本社会のよ うな閉鎖性 とかそ ういうことは全 くと言 っていい ぐらい ございません し、
非常 に合理的な ものの考え方を しています。日本 は東洋 という地域の国の一つではあ りますけれども、束洋ある いはアジア、極東 アジアといって も、同 じ漢字文化圏の 中で も、中国、韓国、日本 は全然違 う社会を形成 してい る国だということを私 は最近、身を もって体験す ること がで きま した。
私 は1
992年に、中国の洛陽にある大学か らお招 きを受 けて、半年間向 こうで生活 して教えていたんですけれど も、中国人 は西洋人 に近 いですね。 ものの考え方 とか 、 あるいは人 との対応 とか、全 く違和感というものがない。
これはやはり合理主義 というものに基づいていて、彼 ら がやはり平等 というものを信 じているか らだと思います。
どうしてそうなのか、 これは革命以前の中国で もそう
であったのかどうか、私 には分か りませんけれども、お
そ らく革命以前の中国は、やはり封建的で日本 に似通 っ
6
たよ うな社会構造ですか ら、あるいは人間のそ ういう上 下関係があったか と思 うんです けれども、解放後、ある いは社会主義 の平等思想の教育のお蔭で こうなったので はないか と思 います
。しか し、合理主義的な面を以前か ら中国文化が持 っていることは間違 いない。 こういうふ うに東洋の中で もそれぞれの社会 によってだいぶ性格が 違 うということを、私 は自分の体験を通 して認識で きま
し
た 。4.
日本の留学生受 け入れに思 う留学生教育は何を目指すべきか
そ こで日本の外国人留学生の受入れ方 と、中国の留学 生の受入れ方 とを比較 してみます と、どんなことが言え
るか。
今、日本にはた くさん外国人がやって きています。中 曽根元首相が
、10万人の留学生を受 け入れたいというこ とをおっしゃってテ レビなどで発表 しま した。だけれど もそれだけの人々を受 け入れるとい うことを考 えれば、
いろんな準備を して行かなければな らないんですね
。受 け入れることは結構だけれども、どういうような受 け入 れ方、どうい うような世話をす るかということを考えず にやれば、 これは大変な逆効果、マイナス効果があると 思います。住 まいの問題 とか、あるいは生活上 の問題 も 確かにあ ります し、教育その ものの問題 もあります
。聞 くところによ ります と、大学院の場合 は日本語の能 力があま りな くて もよいという先生 もお られる。確かに そ ういう方法 もあるか もしれませんけれども、国際化 と かあるいは日本 と世界 とのつ きあいということがよ く言 われ る今 日では、やはりせ っか く来て くれた学生が、単 なるそういう狭 い学問的な知識だけではな くて、日本 と いう社会、あるいは日本 という国への理解、あるいは結 果 はどうであろうと、その人が好 きになるか嫌 いになる かということとは別に して も、日本人の社会で生 きてい ける、日本人に接す ることがで きるような日本語能力を 身につけさせ る、そういうような世話をす ることが大変 重要 なことではないか と思 います。
理系の学生の場合、実験だけや っていれば自分の研究 目的 は達せ られるという考え方 もあるで しょうが、日本 で学んだ とい う事実があれば、やがて国へ帰 った後、日
本 という国への理解がどれだけあるのか、あるいは日本 という国 とのつ きあいがどれ ぐらい円滑にで きるか、と いうことがや っぱ り問題 になるのではないだろうか と思 います。
参考 になる中国のや り方
私 は言葉に関心を持 っているものですか ら、言葉 を徹 底 して勉強 しよ うと努力 しま した
。確かに文学 とかそう いうこと以外で言語 その ものをた くさん勉強 しな くて も いいような分野 の研究をやろ うという人 は、場合によっ ては理論的な研究の妨 げになるということもあるか も知 れません。 したが って日本語 を教授す る場合、教え方や 時間のとり方が大事 になって くるわけですね。
そ こで中国の場合を考えてみます と、中国ではこの人 は何人だ とか、差別 しないのです
。みんな同 じように扱 うんです。で、中国語を教える。一つ悪 いところは、中 国の北京大学などに行 きます と、留学生 はみんな特別な 別棟 になっているんですね。それは向 こうの国の事情で 外国人 と中国人 との接触の制限 とか、あるいは管理の面、
食事その他の面でそ うなっているのか もしれません
。例えば、留学生の宿舎のあるところに、ちゃん とした 大 きな食堂があ ります。そこには外国人だけではな くて 中国人 も入 って、お金を払えば食べ られます
。けれども そこで出る食事 は、一般の中国人の食堂で出ているもの とはだいぶ違 います。質 も違 うし、量 も違 うし、バ ラエ ティーも違 います。中国の経済事情 ということもあって、
そういうことがある
。あるいは政治的な配慮 もあってそ うや って きたんで しょう
。けれども、一番大事 なことは 彼 らが誰であろうと、白人であろうと黒人 であ ろ うと、
外国人をみんな同 じように扱 うということです。
「友好
」
を目標 と した中国の留学生受け入れで、中国の場合には目標を持 っています。非常 に簡単 明瞭な目標ですが、「友好 のため」 とい う目標 です ね
。中国 はやはり外国 とのつ き合いの上で、友好 ということ を非常に強調 します
。友情を育み、友好的な関係を発展 させ る
。人間 と人間のつ きあいだけではな くて、国 と国 とのそういう意識があるわけです。 これは私 はたとえ建 前だ として も非常にいいことだと思 います。
日本の青年たちは、みんながそ うで はないに して も、
あまりにも外国のことに対 して理解が少な
い。外国の社 会、それ も豊かな国だけを消費の対象 としてだけ見 るの ではな くて、やはり豊かでない社会に対す る配慮、ある いは関心、あるいは同情、あるいは正義感をもっと持っ べ きで しょう
。もっとも、今の戟後の社会環境ではその ような意識を持てるようにす ることは難 しくなったとい えるか も知れません
。合理 的 な留 学 生教 育
さて、そういう中国が とっている外国人留学生に対す る一つのプロジェク ト、プラン、これは非常に参考にな るのではないかと思 います。中国は日本 と違 っていち早 く中国語の教科書あるいは参考文献、辞書その他を作 っ て、百数十の言葉で解説をっけて世界中にば らまいてき た。 これは確かに政治的な配慮 もあったで しょうけれど も、政治的な側面のない国はないで しょう
。そ して、一旦中国に入 ってみます とみんな同 じように 中国語を使 って教育を受ける。で、上達が早
い。カリキュ ラムは非常にびっちりとしていて、朝か ら晩まで勉強 し ています。半年あるいは場合によっては一年たちます と 学部の講義を受ける能力を持っようになっています。今 の中国の大学の内容は、日本ほどこういうふうにメニュー が多様的なものではないか もしれません。心理学 とかそ ういうような科 目は少ないですけれども、非常に合理的、
能率的な方法で大学の留学生 に対応 しているということ は事実なんです。
日本の場合は昔に比べて、いろいろと努力 してきた方 がいらっしゃったおかげで充実 して きま したけれ ども、
何か、どこかそういう統一感 とかあるいは認識の焦点 と かがはっきりしないところがあるんですね。文部省が決 めて くれれば一律にで きるけれども、そこは難 しい問題 です。大学によって特徴があるということは、それは避 け られないことで しょうが、一応 日本語教育 という面で 最低の線 といいますか、やはり最低の目処というのがあっ て、どこでで も勉強できるような方法が一番望 ま しいわ けです。
海外での 日本紹介 ・日本語教育の拡充を
私が留学生生活を体験 したのは大変な時代で、本 とか その他日本のことは日本語で読 まなければ分か らないよ うな時代だったものですか ら、大変な努力を しなければ なりませんで した。最近 はいろんな言語で書かれた日本 のこと、日本のことと申 しま して も必ず しも文化 とか文 学 とかではな くて日本の社会あるいは日本の技術がいろ んな言語で書かれてお りますが、こういったものを補助 的な知識を得 るための材料 として、留学生 も大いに活用 すべきではないかと思います。
一般的に共通語 として使われている言語 は英語 です。
ただ英語の全 く分か らない留学生 もいて、それが問題で すけど。英語で書かれた資料や日本に対す る理解に役立 つような書物を併用 して、英語力のある人には読 ませる ということも必要ではないか と思 います。
スペイ ン語圏ではまだまだ日本に対す る著作 は非常に 少な
い。日本語の教科書でさえメキシコを除いて、大学 の中でちゃん とした一冊の教科書を使 っている大学 はほ とんどないんです
。今、実験の段階です。でメキ シコの エル ・コレヒオ ・デ ・メヒコとい う大学 とあ とは
UNA Mという自治大学 とい う二つの大学では自分たちで作っ た教科書を使 っていますけれども、他にはなかなかそう いうような例 はまれです。
そうすると、一つの大学の力では足 りないものですか ら、やはり日本文化セ ンターとかあるいは日本大使館だ けではな くて、そういう日本の事情あるいは教育その他 の情報を提供する機関、日本語の教育をする機関、これ は日本政府が海外において もっと大々的に作 って くれれ ば、向 こうで学生が日本語を習得 してか ら日本に入 って きます と、非常に学校 として もや りやすいのではないか と思 います。
(RobertoH.E.Oest: