はじめに
1895年,日清戦争が終結した頃に,日本に敗 北した清国政府は日本の各分野を学び始めた。
そのような中で日本への留学生派遣の動きも盛 んとなり,1896年から大勢の清国留学生が日本 へと留学に訪れた。留学生数は最初の13名から 逐次増加して,1905年にはその最盛期を迎え,
1万人を越えるまでになった。その多数の留学 生はどのように教育を受けていたのだろうか。
この問題を解明するために,本稿で清国留学生 に関する教育機関を中心に論述したい。
先行研究について,実藤恵秀の『中国人日本 留学史』と阿部洋の『中国の近代教育と明治日 本』は,留学生教育の諸学校を挙げて説明した 箇所がある。しかしながら,教育機関の種類を 分けて各特長を述べた論文は見当たらない。そ のため,本稿で上記の問題を検討することを一 つの目的とする。さらに,早稲田大学清国留学 生部と法政大学法政速成科は,ともに私立大学 構内で設けられ,当時相当な規模の大きな留学 生教育機関(「表1 主な留学生教育機関と学 生数」を参照,学生数順に3位と1位)として,
大学所蔵資料の『早稲田学報』,大学史関係書
物の『早稲田大学百年史』と『法政大学百年史』
を利用し,その異同を比較して分析することも その目的である。
*早稲田大学大学院社会科学研究科 博士後期課程2年(指導教員 島 善髙)
論 文
清末留日学生の教育機関
― 早稲田大学と法政大学を中心に ―
孫 倩
*表1 主な留学生教育機関と学生数(1907,12)
学 校 名 学 生 数 法 政 大 学 1,125 宏 文 学 院 911 早 稲 田 大 学 820 経 緯 学 堂 542 明 治 大 学 454 東 斌 学 堂 321 振 武 学 校 386 東 京 警 監 学 校 213 東 亜 鉄 道 学 校 165 岩 倉 鉄 道 学 校 153 東 京 同 文 書 院 145 成 城 学 校 110 日 本 大 学 109 中 央 大 学 104 研 数 学 館 89 日本体育会体操学校 80 東 京 高 等 工 業 学 校 73 東 京 鉄 道 学 校 64 実 践 女 学 校 47 東 京 物 理 学 校 45 東 京 高 等 師 範 学 校 44 東 京 高 等 商 業 学 校 41 東 京 帝 国 大 学 35 同 仁 医 薬 学 校 35 第 一 高 等 学 校 31
(日本外務省記録3門-10類-5項「在本邦清 国留学生関係雑纂」より作成)
第1章 留学生教育の諸学校
当時,清国留学生を受け入れた諸学校につい て,「表2 留学生教育の21校」を参照しなが ら,述べてみたい。これは,留学生派遣開始の 1896年から,日本で留学生教育に当たった東京 の主な学校を年代順に挙げたものである。
1.1 教育機関の種類
留学生の教育機関は,その教育段階により,
二つに大別できる。すなわち予備教育機関と正 式な教育機関である。
来日の当初,多くの学生は基礎知識をまだ修 得していなかったため,清国留学生向けの特別 な教育機関が次々に創設された。それらは彼ら
表2 留学生教育の21校
学 校 名 創立年 所在地 創立者・関係者 入学・卒業生人数
予備教育機関
なし「塾」 1896 神田三崎町 創立者: 嘉納治五郎
主任: 本田増次郎 1899年,7名卒業 成城学校(成城高等学
校の前身) 1898 新宿区 校長: 川上操六 1899年,入学者30名。1900年,卒業生45名(初 回)。1903年までに,卒業生合計168名。
日華学堂 1898 本郷西片町 高楠順次郎 1898年,浙江省求是書院の学生4人入学
亦楽書院 1899 神田三崎町 創立者: 嘉納治五郎
主任: 三矢重松 1899年,入学者17名 高等大同学(東京大同
学校) 1899 牛込東五軒町 校長: 梁啓超
名誉校長: 犬養毅 最初の入学者18名
東京同文書院 1902 神田錦町 関係者: 近衛篤麿 学生は最初の13人(張之洞から委託された)。
1902年(開校)-1922年(閉鎖),卒業生は 874人で,そのうち,清末期は518人であった。
正式な教育機関
宏文学院 1902 牛込西五軒町 創立者: 嘉納治五郎 1902年の開校から1909年の閉鎖までの8年間 に,入学者は7,192人で,そのうち卒業生は 3,810人に達した。
振武学校 1903 牛込河田町 学 生 監 理 委 員 長: 福 島 安 正
(少将)学生監: 木村宣明(中佐)
最初,学生数は70人,1905-1906年には430 人を越えた(日露戦争の影響)。1904年5月 以降は,毎年ほぼ100人ずつ派遣するように なった(陸軍省の制限)。
卒業者は1904年49人,1905年121人,1906年202 人がいた。
東斌学堂 1903 芝公園 創立者: 寺尾亨(東京帝国大
学法科教授) 最 初, 学 生 数 は160人。1906年 夏,175人。
1907年12月,321人。
法政大学法政速成科 1904 法政大学構内 関係者: 梅謙次郎
学生数94名で発足。1905年6月,第一回の卒 業生67人。1906年9月まで,学生数は合計 1,868人。1908年までに卒業生が1,070人にも のぼった。
経緯学堂 1904 神田三崎町 立案者: 吉田義静
関係者: 樋口秀雄 1904年 9 月,200人 で 発 足。1905年,1,000人 を超えた。1906年,1,104人に達した。
実践女学校 1904 赤坂檜町 校長: 下田歌子 副校長: 青木文造 舎監: 坂寄美都子,松元晴子
1904年,入学者20人。1904-1905年,在籍者 50人をこえ,1909-1910年,に67名が卒業し てから在学者はほとんどいなく,留学生部は 自然に消えた。
東亜鉄道学校 1904 小石川区茗荷谷 校長: 笠井愛次郎 1904年,四川籍学生12人で発足 1907年,学生数165人 早稲田大学清国留学生
部 1905 早稲田大学本部構内 学監: 高田早苗
教務主任: 青柳篤恒 入学者: 1905年(初年)762名,1907年850名,
1908年394名,1909年242名。
高等警務学堂 1905 神田雉子町 堂長: 堪解由小路資承
学務顧問: 高橋作衛 1906年,学生数600余名に達し,
1907年,減少して200名となった。
東亜女学校 1905 神田雉子町 校長: 田中弘之 東洋大学日清高等教育
部 1906 主事: 安藤弘 第一期卒業生: 320人(理科30人,師範50人,
警務90人,法政150人)
東京警監学校 1906 谷中真島町 創設者: 寺尾亨 1907年12月,学生数213名 湖北鉄路学堂 1906 神田三崎町 経営者: 張之洞 学生数は湖北籍60名,他省20名 成女学校 1906 牛込区富久町 校長: 山根正次
学監: 宮田修 1907年12月,卒業生12名 志成学校 1907 築地の立教大学内 校長: 立教大学総理のジョー
ジ・タッカー 主事: 越石乙次郎
学生数90人で発足 1910年度の在学生44人
(実藤恵秀『中国人日本留学史』くろしお出版 1970 P64-75,阿部洋『中国の近代教育と明治日本』福村出版株式会社 1990 P78-123,中村 義「成城学校と中国人留学生」・小林共明「振武学校と留日清国陸軍学生」(『中国近現代史論集』P251-275,277-309),『図録明治大学百年: 1881
-1981』明治大学 1980 P68-69,『早稲田大学百年史』第2巻 1981 P160-195,『立教学院百年史』立教学院 1974 P219-220,『法政大学 百年史』法政大学 1980 P166-180より作成)
が専門学校または大学に入るために設立された 過渡的教育の学校であった。その過渡的教育を 行う教育機関を,ここでは「予備教育機関」と 呼ぶこととする。その目的は各高等専門学校や 帝国大学に進学しようと考えている清国留学生 たちのために,予備教育や進学指導を行うとい うことであった。
表2の中にある嘉納治五郎が創立した「塾」,
成城学校,日華学堂,亦楽書院,高等大同学 校,東京同文書院という6つの学校は予備教育 を行った。
もう一つは,正式な教育機関である。それは 専門学校や大学に通って専門知識を勉強し,学 位取得が可能となる大学教育であった。正式な 教育機関は学校によって,その創立の歴史,規 模,設置科目,教育理念などそれぞれの特色が あった。
なお表2の内,6つの予備学校以外の15校は すべて正式な教育機関である。
1.2 創立形態
学校の創立形態について,独自に創立された 私立学校もあり,それは清国留学生を対象とし て特別に成立した学校が主となった。
このような学校は,嘉納の「塾」,成城学校,
日華学堂,亦楽書院,高等大同学校,東京同文 書院,宏文学院,東斌学堂,東亜鉄道学校,高 等警務学堂,東亜女学校,東京警監学校,湖北 鉄路学堂,成女学校の14校である。
既存の学校に附属した早稲田大学清国留学生 部のような形もあった。
このような学校としては,振武学校(参謀本 部),法政大学法政速成科(法政大学),経緯学 堂(明治大学),実践女学校清国留学生部(実
践女学校),早稲田大学清国留学生部(早稲田 大学),東洋大学日清高等教育部(東洋大学),
志成学校(立教大学)の7校である。
1.3 創立時期
創立時期からみれば,予備学校は正式な教育 機関より早い。嘉納の「塾」(1896)は最も早 い時期に成立した予備学校であり,正式な教育 機関としては宏文学院(1902)が最初のもので あった。
1.4 各学校の紹介
ここで表2に挙げた学校の順番に説明しよう
(校名の右は設立年)。
(1)嘉納の「塾」 1896
1896年,清朝政府が13人の留学生を官費で日 本に送ったのが初めてであった。当時の駐日公 使裕庚は,外務大臣で文部大臣も兼任していた 西園寺公望に,その13人の留学生の教育を依頼 し,西園寺は高等師範学校校長の嘉納治五郎を 彼らの先生として任命した。嘉納は13名の留学 生を3年間教えた。そして1899年,彼らに卒業 証明書を与えたが,全員が卒業できず,途中で 生活に適応できないため帰国した学生を抜い て,7人しか卒業しなかった。その7人の中で は,4人は帰国し,残った3人はさらに日本で 進学した。
教育の内容は,語学(日本語)と普通学(数 学,理科,体操など)を含んでいる。
(講道館『嘉納治五郎大系』第十一巻 P157-158)
(2)成城学校 1898
成城学校は陸軍士官学校の予備校であった。
1885年,文武講習館として発足,翌年成城学校 と改称した。1898年,4名清国留学生は入った。
彼らに陸軍士官学校に入るべき準備教育を施し た。1899年1月,つぎつぎ清国留学生は送られ た。
修学科目については,語学(日本語)と普通 学(地理,算術,代数,幾何初歩,平面幾何,
科学,図面,体操)を同時に教えていた。さら に,修業年限は一年半と設定された。
当校は軍人志望の学生を収容し,陸軍士官学 校や陸軍戸山学校への予備教育を行っていた。
卒業帰国後は大将・中将になったものが多かっ た。さらに,1898年から留学生教育が始まり,
1937年まで終了したのは留学生教育において歴 史的に最も長い学校であった。
(『成城学校創立五十周年記念』成城学校 1935)
(3)日華学堂 1898
1898年,当時の東京帝国大学教授であった高 楠順次郎博士に創設された。
授業内容は普通予備科と高等予備科が設置さ れた。普通予備科は日本語,英語,ドイツ語,
地理,数学,物理,化学を含んでいる。高等予 備科は法学,文学,工学,理学,農学などがあ る。
当校は徹底した個別指導を実施し,各高等専 門学校や帝国大学に進学を希望するものに予備 教育をおこなうことを目的として,修業年限1 年の普通予備科および同2年の高等予備科をお いた。在籍者25名程度,大半はここを経て帝国 大学や早稲田大学に進んでいる。彼らは,留学 中に留学界を指導し,帰国後も諸方面に活躍し た。
(実藤恵秀『中国人日本留学史稿』日華学会 P77-78)
(4)亦楽書院 1899
1896年,嘉納は13人の清国留学生を教えたこ とを始め,1899年,この「塾」を「亦楽書院」
と命名した。
(講道館『嘉納治五郎大系』第十一巻 P171)
(5)高等大同学校 1899
この学校の前身は1897年横浜の華僑が創設し た横浜大同学校であった。戊戍政変の後,康有 為,梁啓超は日本に亡命してから,これを東京 大同学校へと名を変えた。その学生は主として 亡命客であり,彼らを収容し,また横浜大同学 校の華僑学生の高等予備教育も行っていた。
(実藤恵秀『中国人日本留学史稿』日華学会 P82,
100)
(6)東京同文書院 1902
近衛篤麿は同文会を組織していたが,1898年 東亜会を合併して東亜同文会を組織した。その 会の教育事業として,中国に南京同文書院(の ちに上海の東亜同文書院)を設けるとともに,
この東京同文書院を設けて清韓留学生に日本語 および普通学を教え,専門学校に進む準備とす ることにした。
ここでは日本語,普通学,特別科,速成専門 学科などの科目が設置された。修業年限は2 年,後に3年に延長した。
当校は清韓留学生に日本語および普通学を教 え,さらに専門学に進む準備教育を行った。2 年修業年限で,卒業後なお学校で勉強し続けた い学生のために,特別科を設け,また速成専門 学科も設けていた。これは当時多くの留学生学 校が短期速成主義を実行したのに対し,あくま で本格的な予備教育を貫き,全寮制による生活 指導を実践した。その卒業生の中には早稲田大 学を卒業,のち駐日公使となり,五四運動の時 に親日的な姿勢のため,学生や世論の批判の対 象となった陸宗輿,東京高等師範学校を経て東 京帝国大学に学び,中山大学長などを歴任した
許崇清などがいた。
(工藤武重『近衛篤麿公』大日社 P141-146)
(7)宏(弘)文学院(1) 1902
この学校の前身は1899年に嘉納に創立された 亦楽書院であった。入学希望者の増加ととも に,校舎が狭くなったため,1902年,宏文学院 と名を変えた。
授業内容は普通科と速成科がある。普通科は 修身,日語,地理・歴史,算術,幾何学,代数 学,三角学,物理・化学,植物学,動物学,図 画,体操,英語を含んで,卒業者には文部直轄 学校への試験免除で入学できる資格を与えた。
修業年限は三年であった。速成科について,師 範科の例を挙げると,倫理学,日語,算術,地 理・歴史,博物学,物理・化学,図画,音楽,
体操,心理学,教育学,各科教授法,学校管理 法,日本教育制度,実施授業などがあり,教授 は通訳つきで行った。修業年限は一年であっ た。
学校設立の趣旨は以下の通りであり,「弘文 学院ハ清国学生ノタメニ日語及ビ普通教育を教 授シ,以テ培養スルを期スルモノナリ。」(2)とい うことである。「清国現在の情勢に鑑み」べつ に課程を設け,速成的方法により警務官および 師範人材の養成にあたるとし,普通科と速成科 とを並行して運営する方針であった。(3)日本語 教師は三矢重松,難波常雄,松下大三郎,小山 左文二,門馬常次,菊池金正,柿村重松,松本 亀次郎がいる。
当校は規模が当時に一番大きく,一番盛んな 時の1906年には西五軒町の本院のほか,大塚,
麴町,真島,猿楽町,巣鴨の五ヶ所に分校を増 設し,学生全員1
,
615人に達し,これを36クラ スに編成した「留学生教育の大本山」(4)といわれた。
この卒業生の中には,「中国近代文学の父」
ともいうべき魯迅,民国の初め蔡元培の後を受 けて教育総長に就任,後に北京師範大学の校長 などを歴任した范源廉,中国共産党創設者の一 人である陳独秀,孫文と並び辛亥革命に活躍し た黄興など有名人が少なくない。
(講道館『嘉納治五郎大系』第十一巻 P161-201,嘉 納先生伝記編纂会『嘉納治五郎』講道館 P165-189)
(8)振武学校 1903
1898年以来,軍人志望の清国留学生に予備教 育を行っていた成城学校が私費留学生の入学問 題をめぐる紛糾があった。1903年,そのかわり に,参謀本部は振武学校をつくり,成城学校の 武学生全員を振武に移した(5)。
その科目は日本語と普通学のほかには,教 練,軍事上の諸学科がある。修業年限は「1 年3ヵ月の速成教育→1年半→3年間(1906年 から)」という流れが変わっていった。
当校は軍事的人材を養うため,創立された。
学生は官費生に限られ,清国政府が革命派の軍 事学習得を防止するため,1903年私費生の軍事 学学習を禁止した。
卒業生の中には唐継堯,李烈鈞,閻錫山,や 蒋介石,張群などがいた。舒新城は『近代中国 留学史』の中で,「二十年来,中国の軍隊の重 要人物の名前のほとんど十中九が,振武学校を 出た学生である」(日本語訳文は筆者)(6)と書い たように,この学校が中国の軍政に大きな影響 を与えたことはわかるようになった。
(『振武学校規則』振武学校,実藤恵秀『中国人日本 留学史稿』日華学会 P102-104)
(9)東斌学堂 1903
寺尾亨教授は清政府が私費留学生の軍事学学
習を禁止したことに対し,反対意見を持ってい たため,1905年5月,私費生のため,個人的に 芝公園内にこの学校を四年間開いた。
その学制は予科,本科(兵学科)という二つ の段階を分けて,それぞれ1年半ずつ,全部で 3年間になる。
当校は私費生も軍事関係の知識を手に入れる よう特設された。換言すれば,私立の振武学校 のような学校であり,私費留学生に軍事教育を 行ったのである。
(実藤恵秀『中国人日本留学史稿』日華学会 P105)
(10)法政大学法政速成科 1904
法政大学総理梅謙次郎が范源廉や曹汝霖など の留学生の懇請にもとづいて,清国公使楊枢の 賛同を得て1904年5月,速成科を開設した。
清国当時の情勢は法政人材を養成することが 急務のため,速成教育はやむをえないことで あった。とにかく,「一時的必要に迫られた,
不完全なものであることを承知の上で」と梅謙 次郎は言った(7)。
(『法政大学百年史』法政大学 P166-180)
(11)経緯学堂 1904
1904年,明治大学の経営で発足し,六年間運 営された。校長は明治大学校長岸本辰雄が兼任 した。「明治大学にては清国留学生を収容教育す る為め特別教育部を設け東洋古来の学問に加へ て西洋の学術を教授し(中略)卒業の上は志望 に依り同大学本科に入学を許すべし此教育部は 同大学と全く独立せしめ之を経緯学堂と名くと いふ」(8)とは設立の計画も校名の由来であった。
科目の設置について,普通科(修業年限2年 間),高等科(修業年限1年間),速成科(修業 年限1年以内)がある。その中,速成科は日本 語,法学,警務,さらに刑律科,警務科,師範科,
商業科などが相次いで開設された。各科の修業 年限は最短10ヵ月,最長2ヵ年と決まった。
統計では,初期の三年間の入学者1
,
263人の うち,普通科233人(約18%)に対し速成科は 1,
030人と80%以上を占めていた。各種速成科 は1907年閉鎖されたまでに,卒業生1,
086人の うち,85%が速成科の修了者であった。また,警務速成科への入学者がもっとも多かった。
清国政府による速成学生派遣停止の措置に応 じて,1907年,速成科が廃止された。普通部と 専門部の二部に変えて,入学者の人数が減少す るにつれ,1910年4月,経緯学堂は閉鎖された。
その後,明治大学内に清国留学生部が開設され たが,それほど活発な活動は行われていなかっ た。
(『明治大学百年史』第1巻史料編Ⅰ P831-862)
(12)実践女学校 1904
1901年,初めて中国人留学生が実践女学校に きた。翌年にはさらに数名の入学希望者がい た。そのときから留学生の入学希望者が相次 ぎ,1904年,湖南省派遣の女学生20人に対する 教育を行った。1905年からその留学生教育は本 格的に始まった。1906年,清国留学生部を渋谷 常盤松の実践女学校本校内に移転し,1907年,
留学生寮「松柏寮」を建設した。1908年,速成 科を廃止した。
「本校ハ教場及ビ教員ヲ繰合出来ル限りニ於 テ清国女性ノ為メ速成科ヲ置テ別ニ教場ヲ設ケ ル事アルベシ」(9)という「清国女子速成科規定」
は制定された。
その専門科目の設置について,師範速成科
(修業年限2年または1年)と工芸速成科(修 業年限1年)がある。その中,師範速成科は修 身,教育,心理,理科,歴史,地理,算術,図
画,体操,唱歌,日語,漢文などの授業を含ん でいる。
革命のために生命を捧げた最初の中国女性 といわれた秋瑾(10)がいた。学校側の記録によ り,「大正三年までに二百余名を収容,卒業さ せた」(11)とあるが,これは中退者や聴講生を含 んだため,少なくとも100名程度と推定された。
実践女学校が中国の女子教育の発展に貢献した のはいうまでもない。
(『実践女子学園100年史』実践女子学園 P115-145)
(13)東亜鉄道学校 1904
1904年,四川省留学生監督の依頼で留学生12 人を受け入れ,最初の時に鉄道予備学校と名を つけた。1906年9月,校名を東亜鉄道学校に変 えた。
当校も予科(修業年限1年)と本科(修業年 限3年)という二段階の学制が設定された。そ の中,予科の科目設置は日本語,普通学であり,
本科は鉄道学全般の学術,技能である。
(大里浩秋・孫安石『留学生派遣から見た近代日中関 係史』P96-100,阿部洋『中国の近代教育と明治日本』
P96-97)
(14)早稲田大学清国留学生部 1905 1905年春,学監の高田早苗と教務主任の青柳 篤恒と一緒に清国を訪問した際に,張百煕,袁 世凱,張之洞などの中央,地方の官員及び教育 界の要人と日本留学についての面談を行った。
長期,本格的な留学教育の重要性を力説した。
同年9月,早稲田大学が清国留学生部を開設し た。学生人数の減少とともに,1910年に閉鎖さ れた。
当時,速成教育を中心とした留学生教育の動 きの中で,初めて「速是能速,成是不能成」(速 はできるが,速によっては学業は成就できな
い)という主張を青柳篤恒は出した。長期的,
本格的な留学生教育が主張された。また,中国 留学生に対し,師範教育と実業教育を授けると いう目的があった。
(『早稲田大学百年史』第2巻 P160-195)
(15)高等警務学堂 1905
当校は警察および憲兵に関する学理と実際を 教える学校である。1905年9月,設立された。
1906年3月,警察普通科第一期学生が卒業して から,予科(1年)の上にの警察本科(1年)
及び憲兵本科(1年)と改組した。
(阿部洋『中国の近代教育と明治日本』P96)
(16)東亜女学校 1905
良妻賢母主義を教育方針として,女子留学教 育を行っていた東亜女学校は1905年3月,中国 女子留学生速成師範学堂を開設した。その課程 設定は本科(普通課程)2年,音楽専修科半年,
遊戯体操専修科半年となる。
(阿部洋『中国の近代教育と明治日本』P105)
(17)東洋大学日清高等教育部 1906 日清高等教育部は1906年7月に開設し,東洋 大学が経営していた。清朝政府が速成留学生の 派遣を中止する措置をとったため,短い一年間 だけを経て閉鎖された。
専門科目は理科,師範,警務,法政があり,
修業年限はそれぞれ8ヵ月である。
(『東洋大学百年史』資料編Ⅰ・上 P273-278)
(18)東京警監学校 1906
当校は1906年2月に,開設された。専門科目 は警察科と監獄科があり,それぞれ速成科1 年,本科2年,研究科1年となる。
(阿部洋『中国の近代教育と明治日本』P95-96)
(19)湖北鉄路学堂 1906
当校は湖北省の鉄道人材養成のため,1906年
6月,私立路鉱学堂として開設した。同年10 月,校名を私立湖北鉄路学堂に変えて,岩倉鉄 道学校理事榊原浩逸は校長を担当した。
鉄道関係の専門学校のため,鉄道科のみが設 置され,修業年限は1年半である。
(実藤恵秀『中国人日本留学史稿』日華学会 P107)
(20)成女学校 1906
1906年11月,創設された。その専門科目は師 範速成科(支那女学生部)が設置され,修業年 限は1年となる。
(『成女九十年』成女学園 P37)
(21)志成学校 1907
志成学校は「清国学生にキリスト教的感化を 与え,かつ日本で勉強するための予備教育を授 ける」(12)ということを目的として,1907年4月,
築地の立教大学内に開設された。のちに横浜に 移転し,1914-15年頃まで続いた。
(『立教学院百年史』立教学院 P219-220)
1.5 まとめ
以上のように,各学校の経緯,学制学科,教 育目的や成果などを紹介した。ここでは,上述 した21校をまとめてみよう。(表2参照)6校 の予備学校の理念を概観すると,すべては予備 教育を行ったが,成城学校は他校と比較する と,軍事についての予備教育を行ったという点 で大きな特徴を持つ。
その特色もそれぞれあるため,例として成城 学校,日華学堂,東京同文書院の3校を紹介す る。成城学校は,1898年創立,1937年に閉鎖し た留学生教育において一番歴史が長い学校で あった。日華学堂は徹底した個別指導を実施し た独特の教育方法で有名であった。東京同文書 院は,当時は短期速成主義が主流であったのに
対し,あくまで本格的な予備教育を貫き,全寮 制による生活指導を実践した。
正式な教育機関について,大別すると,一 般,軍事,警務,鉄道,女子などの分野の教育 を行った。それぞれに教育的な特色はあるが,
「速成教育」,「普通学」を施した学校が圧倒的 に多かった。留学生教育を行う正式な学校は総 じて「速成教育」を貫き,「専門学」ではなく,
「普通学」を設置する例が多かった。その目的 は,言うまでもなく最短の時間で,人材を育成 することであった。
1902年,呉汝綸(清末の文学者・教育家)が 教育を視察するために来日した時,日本政界の 多くの人々は清国にとって「速成教育」を行う 必要があると考えていた。その理由について,
以下のように述べていた(13)。
1,中国現在の新教育の程度は,日本より三十年 もおくれている。だから三十年以前,すなわ ち明治初年の日本をまねなければならない。
2,明治初年の日本においては,速成教育をし,
とくに教師の短期養成に努力した。
3,そのため,現在の清国の教育は速成を主とし,
その一方で正式のものを徐々に整備してゆく べきである。
その彼らの意見からみれば,確かに清国の教 育の状況に鑑みて,適切な案だといえる。清国 にとっても,人材育成は目下の急務だと主張し た人も少なくなかった。このような考えを背景 として,各学校は「速成教育」という教育理念 のもとで,「普通学」を留学生に教えた。その 修業年限も縮めて数ヶ月か一年間くらいのもの が多かった。留学生も皆早急に知識を得て,帰 国したいと考えている人も多かったため,多く の留学生は「速成科」を選んでいた。しかしな がら,やはりその弊害も起こってきた。当時の
早稲田大学教務主任であった青柳篤恒は『東京 朝日新聞』に「支那留学生問題」(14)を掲載した。
その中で青柳は,「速成教育」を以下のように 批判している。
「清国留学生多くは皆速成を主とし,外に在りて螢 雪の功を積むこと僅に一年半歳,其得る処幾何もな く,芽出度業成り卒業証書を握りて揚々帰郷の途に 就くとも,子弟教育は独り親から之に当るべくもあ らず,依然外国教師の力に是れ頼る,夫れ然り,所 謂学問の独立なるもの那辺に在る,清国国民教育な るもの何れの日にか之を求めむ」
と言ったように,ただ「速成教育」で清国人留 学生に教育を行うと,彼らは短期間で学問を しっかり勉強できずに帰国してしまう。彼らは 清国の教育にどれほどの役割を果たすことがで きるのか,このままの教育では,いわゆる,清 国の「学問の独立」は実現できないことになっ てしまうと青柳は心配したのである。
「速成教育」を通じて,留学生の数は増えて きたのは明らかであるが,その「速成教育」の 限界もまた指摘されるようになったのである。
これに対して,第3章では早稲田大学清国留 学生部のユニークな「長期教育」について述べ たい。
上記した諸学校は当時,清国留学生を受け入 れた東京に置かれる主な教育機関であるため,
他に存在した留学生教育機関も多量にあったの であろう。本稿では省略する。
第2章 早稲田大学清国留学生部 前章で,早稲田大学清国留学生部には簡単に 触れたが,本章では留学生受け入れに関与した 人物と清国留学生部との2点からより詳しく考 察してみよう。
2.1 早稲田側の推進者
2.1.1 大隈重信の中国論と清国留学生への 期待
大隈重信は早稲田大学を創設し,後に(1907 年)初代の総長となり,また日本の総理大臣に 任ぜられた人物である。彼は中国及び清国留学 生に対して,どのような考えを持っていたのだ ろうか。
大隈の論文「清国事情研究の急務」(15)による と,彼は国際法,交通,財政などの側面から,
中国を研究すべきだと主張した。彼の中国論は
「支那保全」論と「東西文明調和」論という二 本の柱から成っている。
「支那保全」は,日本にとって経済的な利益 であるばかりでなく,中国の「文明」を進める ことになり,それは相互の利益に関連している というのである。
「東西文明調和」は,日本は西洋文明を受け 入れることによって真先に近代化したのだか ら,おなじく東洋文明に立つ中国にそれを「紹 介」しなければならない,それをスムーズにお こなうために中国を「保全」する必要があると いうのである。
したがって,「支那保全」論と「東西文明調 和」論は一体化しているものといえる(16)。 このような主張を持っていた大隈は清国留学 生に対して,どのような期待をしたのだろう か。
大隈の論説「清国留学生の覚悟」(17)では,以 下のように述べている。
「諸君,今日は我早稲田なる清国留学生諸君,殊に 将来の支那帝国の運命を以て任ずる将来有望なる諸 君に向つて,目下東洋の形勢に関する拙者の考を告 げ諸君の覚悟を促すを最も必要なりと信じまして,
御目に掛つた譯であります。(中略)日々欧米より来 る新聞を見ますると,清国の排外的運動或は清国に 於ける欧米人との衝突甚しきに至ては人を殺し家を 焼く,茲に於て列国は餘程用心をして支那に對して 壓迫を加へんとすると云ふが如き有様であるのは,
諸君は能く御承知であらうと信ずるのである。(中 略)初め欧米の人は東洋の人を視ること殆んど土塊 の如く,欧羅巴を除く其外に国なし,欧羅巴を除く の外に文明なし,欧羅巴以外に勢力なし,其以外の 世界の人類と国家とは殆んど人類とも国家とも見な い,世界多数の人類は欧羅巴人に服従すべき運命を 持つて居るのである。」
このように演説した大隈は,清国留学生に大 きな期待を抱いていた。東洋文明の保全のため に,日本はもちろん,中国も努力しなければな らない。特に,留学生たちにこのような世界情 勢を伝え,西洋文明とは対抗できるような東洋 文明の振興に資す人材を育成したいという大隈 の構想があった。
2.1.2 高田早苗と青柳篤恒の努力
大隈の他に清国留学生教育に取り組んでいた 人物としては,学監の高田早苗と教授の青柳篤 恒が挙げられる。1905年(明治38)4月に,そ の二人は中国へ行って,各有力者と教育につい て話し合った。中国の教育についての視察とい うよりも,むしろ早稲田で留学生部を開くとの 考え方を中国側に伝えるという意図もあったの だろう。約100日間に,中国を視察し,留学生 部創設の準備もした。6月に帰国し,同年9月 に清国留学生部を開設した。
以上のように,総長大隈重信,学監高田早苗,
教授青柳篤恒などの推進者の努力により,歴史 的な早稲田大学清国留学生部は創設された。
清国留学生部から卒業した留学生は,帰国後 に教育界で活躍した人が多かった。それ以外に
も,李大釗,彭湃などの著名な中国革命運動を 指導した人物を輩出している。大隈重信総長,
高田早苗学監,青柳篤恒主任をはじめ,早稲田 大学清国留学生部に力を尽くした関係者は清国 の「学問の独立」の実現のために,独特の「長 期教育」で中国近代の人材育成に大いに貢献し たのである。
2.2 清国留学生部
2.2.1 清国留学生部始業式
早稲田大学清国留学生部は1905年9月に,正 式に開設された。
『早稲田大学学報』(18)によると,清国留学生 部始業式は9月11日午後本校大講堂で挙行され た。
高田早苗は演説を下記のように行った。
「先づ,支那留学生部を開くに至りました理由を簡 単に申し置きたいと思ひますが,清国目下の有様を 見ますと変法自強と云ふ名の下に諸種の改革に着手 して居られるのである,此改革をなすには根本の手 段を取らなければならぬ,其根□欠字的の手段と云ふは 如何なる事であるかと云ふと,新教育の普及,新学 の普及と云ふことである,新学の普及に先づ着手し て其効果が挙がると云ふ時になって諸種の改革が始 めて緒に就く,斯様な順序になって居るのである,
そこで新学の普及を図るが為に私も先頃清国を旅行 して其一部を見て来たが,諸種の学校が清国内に開 かれて居る,併ながら尚ほ夫れで足れりとしないで,
我日本までも数多の学生を送られて而して新学の研 究に従事せしめると云ふことになって居る」(19)
その内容を通じて,新学の普及のために,清 国から日本へ留学する学生が増加し,彼らに教 育を行うために,早稲田にも留学生向けの清国 留学生部が創設されたという清国留学生部を開 設した理由がわかる。
高田の演説全体を見てみると,主に清国留学
生を創設する理由,日本への留学のメリット,
教育方針,日本語の習得などの内容が窺われ る。彼は清国留学生の知識修得に深い期待を寄 せたのである。
2.2.2 清国留学生部の教師陣
清国留学生部の特設を提唱した青柳篤恒は,
教務主任の重責を担った。そのほかに,日本語 講師は,西村粂蔵,富田才次,大宮貫三,金井 保三,津田左右吉,波岡茂輝,中村仲,須藤求 馬の8名がいた。通訳の授業を担当した講師 は,渡俊治,楢崎一良,皆川秀孝,関菊麿,4 人であった。理科講師は,石川成章,河村深造,
滝本鐙三,草野俊助,4人であった。英語講師 は,中村小次郎であった。(20)(ほかの科目を担 当した先生の名前を略す)
以上のように,当時早稲田大学の教員も留学 生教育を兼務していたのである。
2.2.3 清国留学生部教育理念
清国留学生部の教育理念は,前章で説明した ように,当時盛んであった速成教育の是正とい うことである。本章前節に書いた通り,高田,
青柳が清国へ教育視察に行った時に,清国留学 生部の教育方針が確定された。高田は「清国の 教育事情から,先づ教員を養成すると云ふこと が最も急務であると云ふ所から依頼を受けまし たので,夫れが為めに清国留学生部と云ふもの を開く」(21)というように,清国留学生部の教育 目的を説明した。
2.2.4 清国留学生部の閉鎖
清国留学生部は1905年に開設され,1910年 9月に,閉鎖された。入学者は1905年762名,
1907年850名,1908年394名であった。卒業生は 1906年327名,1907年381名,1908年182名,1909 年176名となっている(22)。
清国留学生部は清国政府の教育改革との歩調 を合わせる暫定特設機関として出発したもので あるため,清国政府の教育改革が期待された成 果をあげるのに伴って,清国留学生部の使命も 果たされた結果となった。清国留学生部は明治 42年に,青柳を清国に派遣し,清国政府の要人 に,その教育方針と清国留学生部の存在などに ついての意見を打診した。その結果を青柳は次 のように報告している。
「私は北京に参り,学部の張之洞閣下を始めとして 主もなる人に接して細に御意見を伺った結果,清国 に於ては師範学堂・中学堂・小学堂の設備も追々出 来たことであるから,特別の機関を設けて教育され ると云ふことは,之れから以後は必ずしも必要はな い,日本の学生と同じ様に教育を施して貰ひたいと 云ふことで,之れを総長・学長に復命した。」(23)
早稲田大学側は清国側の意見に従い,
「清国過度時代に適応すべき非速成を標榜して五年 前に特設せる清国留学生部は次第に其必要を減じ本 邦学生と共に大学部各科専門部各科等に在りて高等 専門の学を修せる者漸く盛んならんとするは清国学 界の為め慶賀せざるべからず本大学の清国人教育は 時代の必要と共に推移して愈々益々向上せんことを 期す」(24)
という決定を下した。
清国留学生部の閉鎖は「清国学生の教育を早 稲田大学が全然今後やらぬと云ふことになつた 訳ではありませぬ」ということで,さらに「日 本の学生と同じ制度の下に同じ級にあつて」(25)
とあるように,新しい留学生教育は日本人学生 の教育と同じ,平等に行われる時代が来たとい
岡田朝太郎(同前/刑法),小川滋次郎(司法 省監獄局監獄課長/監獄学),中村進午(東京 高等商業教授/国際公法)などの人物がいる。
3.2 法政速成科と清国留学生部の比較 当時,留学生教育でもっとも隆盛をきわめた のは法政速成科であった。早稲田大学と同じ私 立大学として,法政速成科は早大清国留学生部 より1年半早く開設された。この二つの私立大 学に付属した清国留学生教育機関の間にどのよ うな異同があるのか。次の四つの観点を中心と して整理する。
3.2.1 教育方針
⑴ 速成教育(法政大学)
当時の「清国留学生法政速成科設置趣意書」(28)
を見てみると,下記のように書いてある。
「今や清國鋭意長ヲ外ニ採ル必要ヲ認メ盛ニ留学生 ヲ我邦ニ派遣セリ而モ法律,政治等ノ学ニ従事スル 者未タ甚タ多カラス(中略)清國留学生ニシテ斯学 ヲ修メントスル者ハ先ツ三四年ヲ費シテ邦語ヲ修習 シ然ル後専門ノ学校ニ入リ更ニ三四年ヲ費ササルコ トヲ得ス是カタメ志アル者モ動モスレハ逡巡シテ遂 ニ其志ヲ果ササル者蓋シ尠カラサルヘキカ然レトモ 今清國他ノ文明国ト衡ヲ争ハント欲セハ必ス立法,
行政ノ釐革ヲ行ハサルヘカラス随テ之ニ関スル学術 ヲ講究スルハ実ニ今日ノ急務ナリ(中略)本大学茲 見ル所アリ清國留学生ノ有志者ト謀リ又清國公使ノ 賛成ヲ得テ清國留学生ノタメニ特ニ法政速成科ナル モノヲ設ケ一年ヲ期シテ法律政治ニ関スル須要ノ学 術ヲ修得セシメント欲ス殊ニ邦語ニ通セサル者モ亦 之ニ入ルコトヲ得ルタメ各講義皆清語ノ通訳ヲ附ス ルコトトセリ顧フニ多数ノ新人物ヲ養成スルニハ自 ラ此便法ナカルヘカラス」
とあるように,上述した范源廉らの主張も趣意 書に反映した。まず,法律,政治を学ぶ留学生 える。
次章においては,さらに清国留学生部を知る ために,当時もう一つ盛んであった法政大学速 成科との比較を通して,その特徴を明らかにし たい。
第3章 法政大学清国留学生法政速成科 3.1 法政速成科
法政速成科は法政大学に1904年5月付設さ れ,法律,政治,経済分野の人材養成を目的と した。
『法政大学八十年史』によると,以下のよう に述べている。法政大学が清国留学生のための 法政速成科を設置したのは,「梅総理が清国人 留学生范源廉(26)の懇願を容れ,楊枢清国公使 の賛同を得て明治三七年(一九〇四)五月七日 に開始された」(27)といわれている。
范源廉らは以下のように主張した。清国の改 革に必要な人材の中では,日本で軍事や教育な どの速成教育を受けた留学生は少なくない。こ れに対し,国政改革に不可欠な法律・政治分野 の人材養成はまだほとんど行われていない。し かしながら,正式にその分野の人材を養成する ためには少なくとも6年か7年はかかる。した がって,范らは問題解決の方法として1年程度 の速成教育で法律・政治分野の人材養成を和仏 法律学校初代総理である梅謙次郎に要請したの である。
梅自身も清国当時の急務に応えるには速成教 育もやむをえないと考え,不完全なものである ことを承知の上で協力することにしたという。
その教授陣には梅謙次郎(東京帝大教授/法 学通論,民法),松浦鎮次郎(文部省参事官/
行政法),美濃部達吉(東京帝大教授/憲法),
そうして,繁簡よろしきを得て時間をむだに費すこ となく,あまり長くもない,力をむだ使いすること もなくして,しかも効果は倍になるという方法を考 えたのである。(後略)」(29)(下線は筆者)
前章で説明したように,当時多くの学校が速 成教育を主とした教育方針を実施していたのに 対して,引用した趣意書の下線部にあるよう に,適切な教育(速成教育とは違い,長期教育 を基準とした清国留学生教育)を実施しようと いうのが特殊な教育方針であった。
さらに,当時盛んであった「普通学」に対 し,早稲田大学は師範科,政法理財科,商科と いう「専門学科」を設置し,修業年限も予科一 年,本科二年の三学年制を施した。その教育の 規範性,長期性からいえば,唯一の本格的教育 機関といえる。
法政速成科の速成教育といい,早稲田大学清 国留学生部の長期教育といい,両方は,ともに 時代的なニーズに応じたものとして,清国人留 学生教育に役割を果たしたものといえる。
3.2.2 設置科目
⑴ 法政速成科
法政速成科は修業年限1ヶ年(2学期)で,
通訳つきで法学通論,民法,商法,国法学,行 政学,刑法,国際公法,国際私法,裁判所構成法,
経済学,財政学,監獄学などを教授していた。
⑵ 清国留学生部
清国留学生部の修業年限は予科1年,本科2 年の3年制で,本科は師範科,政法理財科,商 科の3科から構成した。予科の科目は日本語,
歴史,地理,理科,数学,英語,唱歌,図画,
体操などの普通学である。
設置科目から見れば,法政速成科は法律
·
政 が少ないという事情に着眼し,法政速成科は清国改革に必要な法律・政治分野の人材養成を目 的とする理由がわかる。次に,専門科目を勉強 する前に,日本語を勉強するのはかなり時間が かかる。3,4年間で語学が合格したあと,さ らに3,4年間で専門学を学ぶのは大変なこと になったため,最後まで頑張っている学生が少 ないであろう。しかも,清国の急務は立法,行 政の改革をすぐに行わなければならないという 緊迫した情勢のもとで,短時間で人材養成を果 たすのは目の前に迫っている。そのため,一年 間を通じて,通訳で直接に専門学から学ばせて,
法律
·
政治関係の知識を身につけさせるのは法 政大学の留学生に関する教育方針であり,これ も当時にはやっている「速成教育」でもある。⑵ 長期教育(早稲田大学)
初めて「速成教育」に対し,「長期教育」を 提出したのは早稲田大学清国留学生部である。
当時の青柳篤恒教務主任は,「速是能速,成是 不能成」(速はできるが,速によっては学業は 成就できない)と主張し,長期的,本格的な留 学生教育を行った。
清国留学生部の趣意書には,以下のようにあ る。
「(前略)速成でちょっとやればいいというような 考えを持っておる。それかといって,最上まできわ めようというには非常な歳月を費して,これでは国 家の急に応じられない。つまり,短かすぎたり,長 すぎたりで適当なものがない。わが大学はここに考 えるところがあり,特に清国留学生部を設けていろ いろと長短を考え合わせ,そして中国の国状をも考 え合わせ,難易遅速ということのうちで,そのどち らへも偏しない中間をとって,そうして,順序に従っ て進めることにした。いま火急な場合に中国から学 びにきた者は,普通学から進んで専門学をおさめて,
学科はすべて何が足らぬということがないようにし,
家で『民報』の論説委員として健筆をふるった 宋教仁,高等予科が卒業できずに明治大学法科 に転学,『清国人日本留学日記』を残した教育家 黄尊三などもいた。彼らは近代中国の教育振興,
社会変革,政治改良などの各領域で活躍した。
法政速成科と清国留学生部は,ともに中国の 人材養成に取り組んだ。法政速成科は主に法律・
政治関係の専門家を養うことを目的として経営 したのに対し,清国留学生部は師範教育を主と して多分野にわたった人材養成を目的とした。
3.2.4 入学者・卒業生人数
法政速成科と清国留学生部の入学者・卒業生 の人数について,ここで表3-1を使い説明を 加えよう。
以上の表のように,法政速成科は1904年5月 に創設されたあと,入学者は第1回94名,第2 回273名,第3回518名,第4回388名,第5回 844名,合計で2
,
117名であった。卒業生は第1 回67名,第2回230名,第3回66名,第4回238 名,第5回385名,合計で986名となっている。卒業生は入学者全員の46
.
6%を占めた。1905年,清国の要請による文部省からの「留学生取締規 則」に関する事件が起こった。当時,留学生は 治分野の専門人材を養成するために創設された
ことがわかる。これに対し,清国留学生部は師 範教育と実業教育を授けるというのを目的とし て創設された。
3.2.3 人材養成
⑴ 法政速成科
法政速成科で勉強した学生の中では,中国の 古い教育を受けた人たちで,挙人,進士の学位 を有するものが多い。汪兆銘は法政速成科の卒 業生であった。そのほか,胡漢民(政治家,孫 文の側近として辛亥革命に活躍),沈鈞儒(政 治家,1930年代に人権擁護・抗日民族統一戦線 結成に活躍。1949年の人民共和国建国後は最高 人民法院長)など中国近代史上の著名な人物が 少なくない。革命派の論客で,留学生取締規則 事件の時に,抗議のため自殺した革命者の陳天 華も法政速成科の学生であった。
法政速成科に留学した学生は当時法学分野で 有名であった梅謙次郎などの著作を中国語に訳 し,近代中国の法律整備などに役割を果たした。
⑵ 清国留学生部
清国留学生部出身者は,帰国後教育界で活躍 した人が多い。また,法律,革命,政治経済な どの分野に従事した人も少なくない。
北洋師範学堂校長の李士偉や同教務長の梁志 宸,京師法政学堂教務長の江庸,北京法律学堂 教習の張孝移,北洋法政学堂教務長の籍忠寅,
北京宗室覚羅八旗高等学堂学監の学永元,広東 高等工業学堂校長の王邁常,浙江全浙師範学堂 教務長の朱宗呂などの教育者の代表である。
そのほか,名著『自修適用 日語漢訳読本』
の著者の葛祖蘭,北京大学歴史系主任で中国史 研究者として知られる朱希祖,清末民初の革命
表3-1 法政速成科入学者・卒業生統計表
在学期間 入学者
(人)
卒業生
(人)
1期生(1904. 5-1905. 6) 94 67 2期生(1904. 10-1906. 6) 273 230 3期生(1905. 5-1906. 11) 518 66 4期生(1905. 10-1907. 5) 388 238 5期生(1906. 10/11-1908. 4) 844 385 合 計 2,117 986 卒業生の比率 46.60%
(『法政大学百年史』法政大学P173. 179. 180より作成)
高い点は注目される。この理由は,法政速成科 は速成教育であったために,短期間で大量の学 習内容を修得しなければならなかったことにな り,学生への過重な負担感があったのかもしれ ない。ただし,この点は推測の域を出ず,今後 の検討課題である。
上述した早稲田大学清国留学生部と法政大学 清国留学生法政速成科は,ともに清国の国情に 応え,適切な清国人留学生教育機関として,そ れぞれの特徴を持つ上に,清国人留学生の教育 に関して,この2校は相互補完的役割も果たし ていた。
おわりに
本稿では,清末留日学生の教育機関を追究し て,留学生による知識習得の「場」は明らかに なった。その教育環境を通じて,留学生たちは どのような知識を獲得したのかも多少理解でき るようになった。
また,早稲田大学と法政大学は留学生を受け 入れた正式的な教育機関として,清国の改革の ために,各分野の専門人材を養った。その規模 は当時においては,相当大きく,影響力も強 かった。「長期教育」と「速成教育」とのそれ ぞれの教育方針により,各自の特色がある教育 目標を立て,留学生教育に多大な貢献した2校 であることも比較の手段を通じてわかる。
今後は本稿で述べた各留学生教育機関で学習 した留学生個人に焦点を当てて研究を続けたい と思う。
〔投稿受理日2012. 5. 26 /掲載決定日2012. 6. 21〕
注
⑴ 宏文学院=弘文学院。最初は「弘」の字を使っ たが,この字は乾隆帝の諱が「弘暦」であるため,
この規則に抗議して帰国する者が少なくなかっ た。さらに,清政府も日本での留学生の革命活 動を禁止しようと考えたため,1906年,梅謙次 郎は清政府と交渉したあと,法政速成科を廃止 した。法政速成科は多数の法律・政治関係の人 材を養い,近代中国の法制完備などに貢献した。
次に,表3-2のように,清国留学生部につ いて整理してみる。
1905年9月に創設されてから,入学者は1905 年762名,1906年不明,1907年850名,1908年394 名,1909年不明,合計で2
,
006名となっている。卒業生は1906年327名,1907年381名,1908年182 名,1909年176名,合計で1
,
066名である。調査 できた範囲では,卒業生は入学者全員の53.
1%を占めた。1910年9月に,清国留学生部は閉鎖 された。
入学者・卒業生の人数からみれば,2校はと もに数多くの留学生を受け入れ,清国の各分野 の人材養成にそれぞれ努力をしたといえる。し かし,2校の状況を見ると,清国留学生部のほ うが入学者・卒業者数ともに多いことがわか る。注目されることは,卒業生の入学者に対す る割合である。修業年限が長いにも関わらず,
清国留学生部のほうが法政速成科よりも6
.
5%表3-2 清国留学生部入学者・卒業生統計表 入学年 入学者(人) 卒業生(人)
1905 762 無
1906 不明 327
1907 850 381 1908 394 182
1909 不明 176
合計 2,006 1,066 卒業生の比率 53.10%
(『早稲田大学学報』明治42年8月第174号P10-11より 作成)
� 『早稲田大学学報』明治42年第174号 P15
� 『早稲田大学学報』明治43年8月 第186号 P2
� 範源濂(1875-1927),湖南湘陰人,近代教育者。
戊戌変法後,日本に亡命,東京高等師範学校に入 学。1905年,帰国。北京師範大学校長,南開大学 代表取締役,北京図書館代理館長を歴任。
� 『法政大学八十年史』法政大学 1961 P227
� 法学志林協会『法学志林』法政大学 60号 1904. 9. 10
� 『清国留学生関係書類』明治38年 早稲田大学大 学史資料センター所蔵
参考文献
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成文堂 2002
阿 部 洋『中 国 の 近 代 教 育 と 明 治 日 本 』 福 村 出 版 1990
大里浩秋・孫安石『留学生派遣から見た近代日中関 係史』御茶の水書房 2009
嘉納先生伝記編纂会『嘉納治五郎』講道館 1964 工藤武重『近衛篤麿公』大日社 1938
講道館『嘉納治五郎大系』第十一巻 本の友社 1988 呉汝綸『東游叢録』三省堂書店 1902
実藤恵秀『中国人日本留学史稿』日華学会 1939 実藤恵秀『中国人日本留学史』くろしお出版 1960 辛亥革命研究会『中国近現代史論集』汲古書院 1985 舒新城『近代中国留学史』上海書店出版社 2011
『実践女子学園100年史』実践女子学園 2001
『早稲田大学百年史』早稲田大学出版部 1997
『成女九十年』成女学園 1989
『東洋大学百年史』資料編Ⅰ・上 東洋大学 1988
『明治大学百年史』第1巻史料編Ⅰ 明治大学 1986
『図録明治大学百年: 1881-1981』明治大学 1980
『法政大学百年史』法政大学 1980
『立教学院百年史』立教学院 1974
『法政大学八十年史』法政大学 1961
『成城学校創立五十周年記念』成城学校 1935 早稲田学会『早稲田学報』1897,3-1912,12
『振武学校規則』振武学校
『弘文学院章程要覧』講道館所蔵
『清国留学生関係書類』明治38年 早稲田大学大学史 資料センター所蔵
「在本邦清国留学生関係雑纂」日本外務省記録3門-
10類-5項 留学生の中にはこれを使用するのを好まぬものが
あった。故に後「宏文学院」と書くに至った。
便宜上本論では「宏文学院」に統一する。
⑵ 『弘文学院章程要覧』講道館所蔵
⑶ 同上
⑷ 講道館『嘉納治五郎大系』第十一巻 本の友社 P152
⑸ 1902年,私費留学生が成城学校に入ろうとした 時,清国公使がその保証を拒んだため成城学校に 入れず,紛争が起こった。東亜同文会が斡旋した 結果,日本政府と清国公使との間に協定ができ,
参謀本部において,1903年7月,振武学校を作り,
成城学校の留学生を残らずこの学校に移した。
⑹ 舒新城『近代中国留学史』上海書店出版社 2011 P42
⑺ 『法政大学百年史』法政大学 1980 P166
⑻ 『朝日新聞』明治三十七年六月五日
⑼ 『実践女子学園100年史』実践女子学園 2001 P118
⑽ 秋瑾(1875-1907): 清朝末期の女性革命家。詩 人。浙江紹興の人。日本留学中反清革命運動に参 加,男女平等を鼓吹。帰国後挙兵計画に失敗,紹 興で処刑。
⑾ 『実践女子学園100年史』実践女子学園 2001 P143
⑿ 『立教学院百年史』立教学院 1974 P219
⒀ 呉汝綸『東游叢録』三省堂書店 1902「東游叢 録 二・摘鈔日記」P46-54,59-60「東游叢録三・
函札筆談」P1-2,5-8,18-19
⒁ 『東京朝日新聞』1905年7月17日版
⒂ 早稲田大学出版部『早稲田講演』の臨時増刊「支 那革命号」1911,11 P318
⒃ 安藤彦太郎『未来にかける橋-早稲田大学と中 国-』成文堂 2002 P30-31
⒄ 早稲田学会『早稲田学報』明治39年第133号 論 説一 P1-10
⒅ 早稲田学会『早稲田学報』明治38年第124号 P61- 64
⒆ 早稲田学会『早稲田学報』明治38年第124号 P62
⒇ 『第二十四回早稲田大学報告』P27-28
『早稲田大学学報』明治43年8月 第186号 P2 『早稲田大学学報』明治42年8月 第174号 P10-
11
� 『早稲田大学学報』明治42年8月 第174号 P11