−− 一 一 一
乳9
まえがき
ゞ一七九二︵寛政四︶年から一七九九︵寛政二.︶年頃までの間
に︑蘭学者稲村三伯︵一七五八1一八二︶を中心として編成され
た我が国最初の闘日辞典﹃波留麻和解﹄に就ては︑勝俣錐吉郎氏が
嘗て異本の存在を指摘されて以来︑江戸版﹃江戸ハルマ﹄と京都2.版﹃江戸ハルマ﹄の存在が常識化され︑東大本と勝俣本︵各二十七
冊︶が前者に︑静嘉堂文庫大槻本︵五冊︶と佐倉第一高校本︵六
冊︶がそれぞれ後者に属するものと考えられて今日に至った︒勝俣
氏が論拠とされた記録は名古屋の蘭学者野村立栄の﹃免帽降乗録一
という写本の一節であって︑同氏はそれに基づいて﹁この記事に依
って稲村三伯の手に編成され且つ出版された江戸版﹃江戸ハルマ﹄
と中井厚沢の手で増補開板された京都版﹃江戸ハルマ﹄なるものが3あることが分明になった訳である﹂とし︑﹁筒これを立証すべきも
一 いわゆろ貢ルマ和解﹂の異本について ︽自恥田房圃冨跨︾乏固国圃詞固ご尉弓の弓○○記b岡三画○画肉と﹀
』
0
のが本其ものに歴然と顕はれてゐる︒即ち江戸版の最後の頁には ノ
号︒口凹ご母P冒胃.農登の呂の9m§ロ吋言の固の日闇口砕と明記
4してある﹂とも述べられ︑これを以て異本の問題は一応終止符を打
ったかに見えた︒
一九四九︵昭和二四︶年東大図書館所藏の﹃ハルマ字書﹄︵和装二
十七巻︑ここでは﹃東大本﹄と呼ぶ︶を詳しく調査する機会に恵ま
れて以来︑この異本の問題については今少し考えてゑなければなら
ない点があるような気がした︒筆者がこれまでに試ゑた二回にわた
6る研究報告も︑この問題を再検討しようという意図からであった︒
その後行方を探していた旧大槻本﹃波留麻和解員十三冊︑写本︶が
国会図書館の山崎武雄氏の御好意により早大図書館に収藏されてい
7ることが洋学展覧会の開催を機に判明し︑その後間もなく同展覧会
の目録を入手することが出来た︒然るに同目録には﹃写本ハルマ和
解﹄を﹃江戸ハルマ和解稿本﹄と記し︑次のような解題が付けてあ
斎藤
1
、
信
=
一
11
50
った︒
﹁この書は邦人の手による最初の欧日対訳辞書で︑寛政八年︵一
七九六︶江戸において出版された﹃波留麻和解﹄の稿本と認むくき
ものである︒︵中略︶本書刊行後三伯はその師大槻玄沢にこの稿本を
寄贈したものであることは︑その巻頭に貼付せる玄沢の自筆の識語
によって知られる︒また刊本には序も例言もないが︑稿本には巻首
に凡例があり︑それによってハルマの外にマーリン及びハンノット
等を参考にしたことが知られるo︵中略︶これを刊本と比較するに本
書の方が遙に多数の訳語を含んでいる︒それは刊本に訳語を記入す
る際︑稿本の訳語を適宜取捨した結果と思われる︒
なお稿本及び刊本の末尾に己の呂画吊宮印意胃ゞ賢一9号含ぬ
ぐ山口.罫$紗目閻目.︵寛政八年二月十八日︶とあるを以て︑寛政
八年に刊行されたものと見倣されているが︑これは稿本の完成した
日を示すものであろう︒八万余の原語に一を訳語を記入することで
あるから︑三十部を完成するには︑同年より始めて少なくとも一・
二年の歳月を要し︑逐次刊行されたものと思われる︒﹂
今春早大図書館でその﹁稿本﹂を拝見し︑その上岡村千曳先生の
御説をうかがうことが出来たのであるが︑その際上に掲げた解題が
実は先生御自身の御意見であることを知った︒即ち勝俣氏の京都版
説に対しては先生は否定的であり︑早大本が稿本︑大槻本及び佐倉
本が初版であり︑東大本及び勝俣本を以て再版だと考えておられ
る︒ここに至って勝俣︑岡村両氏の御意見は同一物を論じて正反対
の結論に立ち至ったわけである︒
この小論の目的とする所は︑第一に東大本︑大槻本︑早大本の三
ー
、
本をI佐倉本をも参考にしながらl比較検討し︑この異本の問
題に対して幾何かの参考意見を述べること︑第二に当時の記録から
この問題を考察すること等である︒以下の記述に際しては︑便宜上
東大本をA本︑勝俣本をⅣ本︑静嘉堂文庫大槻本をB本︑佐倉第一
高校本をH本︑早大写本をC本と呼ぶこととする︒
1訳語の比較と異本の新旧について
頁ルマ和解﹄という辞書は周知のように︑見出語を木活で印刷
し︑訳語は後から毛筆で書込んだものであるから︑当時の人々の語
学力から云っても︑その際に訳の出来ぬ言葉があったのは当然で︑
そういう箇所には正直に﹁未詳﹂と書いてある︒A本を調べてみる
と﹁未詳﹂の数が約八二四見出される︒卑四冒宣の函巴冒四の原本
屋君gagg禺号感z呂閂目房呂の呂溥目のsの弓目雨風.︵弓急I
①巴①己同匡〆ご$︶は關語を閑語と仏語とで︑例えば震z闇日目﹈︑
●︾予酌旨.固の冒言.ロの吋農再画巴塵ロ津ロ里.G負い叱潜蔓罵︒︽詩脆蔦悪ミミミミや
のように説明してあるが︑時々は蘭語がなくて︒農z画閏具旨侭冒叩噴.
ぐ.ロミミミの§このように仏語だけになっている場合もある︒国里I
目凹の﹁原本﹂で調べてみると︑A本の﹁未詳﹂約八二四のうちお
よそ半数の四二四の見出語に關語の墜解がなく︑フランス語の説明
だけになっていた︒これら八二四をl︶単一語︑2︶合成語ないし
は規定詞を伴う語︑3︶熟語叉は短文の三つに分類してゑると︑
1︶一六○︹四三︺︑2︶五○八︹二七九︺︑3︶一五六︹一○二︺とな
る︒︹︺内の数字は闘語の説明のないものを示す︒然るにA本にお
ける八二四の﹁未詳﹂は︑B本では約六八○となり︑一四四だけ減
『
I
砿の。−本I. 本本C
受ル器未詳
一一−
未一未
水
詳詳
【))ber画W$
一
−
=一口ロー基本力 ‑】X1Ut一、
(未詳)算術 一
ー(フ)(未詳)細雨
一一一一‑一一一−−−−−−−
市店商売スル処二言素 −一一一=未詳雷名
池未
詳同上')ノ画中ノ鄙人l−−i(フ)今日死スル事カー│竺壹‑重亘皇募溌桑元|未詳 一一ー−L■ー−ー−
未詳 今日死スル事ガ吾ニメクリ来レハ明日ハ又汝二来ル
−−
未詳
一一一一一一一一一一一 49)nKSDraKrC
−ー
「同上ノ」というのはC本のすぐ、上の訳語「闘牌」を指す。C本には見出語hedenmijnの後に、,morgendijnが補ってある。Halma原本には勿論書いてあるが、A本、B本ではその後半を書著したものである。 註1)2)
﹃ぬ
〜
F爾蕊諏諏諏両FT ‑戸幸ア =‑ーーー=‑言了了う一言 一〒r垂再かも
「
52
少している︒それら一四四の内訳は︑﹁未詳/訳﹂例えば国①笥旨邑胃言忌ロ未詳/風ノ変ル﹂の如ぎもの八一︑﹁完訳﹂例えば未詳の
文字がなく蚕弓里日の痔ゞN・ぐ.払郎察二産スル甘キ果ヲ煮テ作ル乳
汁﹂のようになっているもの五三︑その外見出語の見当らぬもの及び訳語の記入もれとなったもの約十である︒これらの事実から判断
しても︑A本はB本より多少とも古い時期に作られたものである︑
と言えそうに思う︒前に掲げた表は︑A本中の﹁未詳﹂の項八二四のうちから五六例を採り︑B本及びC本と対照させて比較の資料としたもののうちか
ら騨吋目9日に引出した十例であり︑見出語の前の番号は五六例
に対して便宜上つけたものである︒その番号が不揃いであるのは表示する際︑十例を七つの場合に整理したためである︒・
その表にあるA・B︒C本の訳語を比較して承ると︽十例につい
て次のようになる︒
即ちB本とC本とで共通なものが七割となる︒更に五六例全部につ
いて調べるとlllIIll
11 湯掛︒︑丹・○掛丙淋嵐S傷S湧卦︒国丹・○丹代参胖慰s録s・⁝⁝::⁝:⁝⁝:⁝:当室 露丹︒︑丹汽胖勵s↑s
湧丹・O丹胖鯏s〆s⁝⁝⁝:︒⁝・⁝:︒⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝自室 騨丹・団丹淋闘S湯S:.⁝⁝⁝・⁝⁝⁝⁝・⁝:⁝⁝⁝::凸室 ︑丹・○丹病胖勵S歩S::.⁝⁝・⁝︵片剖匡宰s蝋叩︶﹃童
渉
111
●●●
し 1
︵g・凶︶い室
│震
│巴
一
11 室 なことでもある︒ 釈されなければならないかが問題となり︑そしてこの点が最も重要 B本とC本とは内容的に相似たものであるという事実は︑如何に解 実︑換言すればA本とB本とは﹁訳語﹂の点で異なるものが多く︑ 三割となり︑B本並びにC本において共通のものが約七割という事 んど同じ結果となる︒以上に依ってA本とB本との共通のものが約 となり︑B本とC本の共通の例が約七割強となり︑十例の場合と殆
扱て編纂者たちの努力により︑﹁和解﹂の原稿が出来上ると︑さき
にも述べたように︑創意工夫して木活で見出語を組み︑罫で囲んで
各頁一段組十五行とし︑職人を使って印刷等のことに当らせ︑かく
して出来上った用紙に訳語を書入れて行ったものと思われる︒表示
したもののうち︵sず受ぐぃロ$用言員①旨︑︵ら︶ず閏廻員関︾
︵膿︶ロ︒①日の託の三例をみると︑これらはB本並びにC本とも原稿
の通りに先ず﹁未詳﹂の文字がほとんど同じ頃に書込まれたもので
あり︑その後恐らく校正などの際に︑新たに判明した訳語を更に書
き加えたものと思われる︒敢えて校正と云ったのは︑例えばA本のAの部の扉の見返しに﹁A校正済ム九拾七枚︑下谷可也にも可用者
力﹂という書込ゑがあり︑A本作製の折校正の行われたことが知ら
れるから︑従ってB本︑B本等の場合にも当然校正が行われたに相
違ない︒
次に︵圏︶目関寓の例について考えると︑最初原稿は﹁未詳﹂と
なっていた筈で︑A本はそれにならって﹁未詳﹂とした︒然るにそ llIl1lI ■94Ij9J■O91fll凸■■!Ⅱ19凸■8FⅡlPi0r1IIIdⅡ64■■g■016日早■■■■489196日日Ⅱ日日0︑凸■0■■日OJI■■1II1IlrI0l鴻丹・国丹・○丹庁缶獅が参e:⁝⁝・⁝⁝⁝.::.:⁝⁝ふ室国丹・○掛淋感s↑s:⁝⁝⁝⁝⁝⁝⁝︒:⁝・⁝:⁝⁝・⁝と童
、:"デマ
、
、
11
I
53
の後に至って訳が判り︑原稿にも﹁市店﹂と書き加えた︒B本及び
C本は原稿に﹁市店﹂の訳が書き加えられたあとで︑はじめて訳語
が書かれたから︑﹁未詳市店﹂|とはせずに︑ただ﹁市店﹂とだけ書い
たものと思われる︒
これに反して︵野︶星盲目堅僧の場合には︑原稿が﹁未詳﹂と
なっていたので︑B本も初めは﹁未詳﹂と記したが︑間もなく訳語
が判ったので﹁雷鳴﹂という訳を書き加えたのに対し︑C本は訳語
が判明してから奇雷鳴﹂という訳語だけを記入したものと思う︒
以上を総合すると︑A本が最も初期の不完全な原稿に基づいて作
られたものであり︑B本並びにC本は全体としてほぼ似通ったI
勿論A本よりも後のI時期に︑A本の場合に比して一層補足され
た原稿に基づいて作られたものと判断される︒
もっとも訳語記入等の仕事はある程度分業的に行われたであろう
から︑部分的には或はB本の訳が先に書き込まれ︑或は先にC本
に訳が記入されたというようないことが実際に起ったであろう︒B
本︑C本に共通な訳語約七割のうちに見受けられる多少の相違は︑
こういう際に起ったものと思われる︒なお︵eず異ぐ目のg①ざ具の言のC本における訳語中﹁飛泉ノ
水ウヶ﹂︑︵C巴鴇耳凹のC本中の訳語﹁点鼠﹂等は︑後の﹃道訳法
児馬﹄︵一八三三年︒天保四・写本︶ないしはその改訂版たる﹃和蘭
字彙﹄︵一八五八年・安政四刊︶と同様の訳語である所から考えて︑
確かに後年︵少なくとも天保以後︶の加筆である︒
次にB本に就いて一言することとするが︑さきにも﹁佐倉本をも
参考にしながら﹂と書いたように︑佐倉本即ちB本に就いては未だ
、
充分な調査が出来ていないので︑止むを得ず参考の程度にとどめ︑
結論は他日にゆずり︑たださきに掲げた表の中の十例について︑可
能な範囲でふれてみたい︒
その第一は︑B本においてはA本と共通の﹁未詳﹂が十例中三例
に過ぎなかったものが︑B本にあってはA本と共通の﹁未詳﹂例
が五例となっていること︑従ってB本よりH本の方が多くの﹁未
詳﹂例を持っているであろうことo第二は︑︵︒巴隠寓P︵造︶g宮司
H①将国がB本ではそれぞれ﹁算術﹂︑﹁細雨﹂となっているのに対
し︑日本では﹁︵未詳︶算術﹂︑﹁︵未詳︶細雨﹂となっていて︑B
本よりH本の方が幾らか早い時期に訳語が記入されたと思われる
節があること︒第三は︑︵e冨弄ぐ目のgのぎ具の言.︵5︶ず閏叩
急呉9︽︵隈︶冒○の日胃等の訳語の判明した時期は︑Ⅳ本の完成後
であった思われる等々である︒
これらの事実からして︑Ⅳ本は勿論B本と同じ版のものではあ
るが︑前者の方が後者より幾らか早い時期に出来上り︑編成者の手
を離れたものと判断される︒
またB本︑H本︑C本が相似しているということに就いては︑
単に訳語の点からだけでなく︑次のような点からも言い得るのであ
る︒即ちC本の凡例中に︵さ︑︵己︵乙︑︵○︵ラ︶︑︵乙︑︵イ︶
等の圏符︵実際には︵︶でなくて○で囲んである︶のある略語が
あって︑次のように説明してある︒﹁︵マ×マーリンノ字書ヲ以テ補
ス︵マ︶︵フ×マーリンノ払郎私注ナリ︵c︵ラ×ハンノットノ羅甸
註ヲ襲用ス︵フ×本書ノ払郎察註ナリ︵イ︶ハ石井氏崎陽ノ訳流ノ家
説ナルヲ以テ正不正ヲ論ゼズ記ス故二誤り多シト知ルベシ唯其旧ヲ
11︲︲︲︲︲︲︲︲II
辰 表 号 〒 一 裳 壽 − : ‐ = 両 − − − 一 ' ・ 一 − − 一 一 ・ 一 一 ー 一一 一 一 一 一 一 一 ‑ 一 一 一 − − − − − 一 一 一 一 一 乏 司 一 一 一
士........合・
〆 ‑ . ‑ . . . 亀 .
変
54
2C本は稿本かどうか?
C本が果して稿本であるかどうかの疑問であるが︑結論を先に述
べることが許されるならば︑C本は稿本ではないと思っている︒然
し稿本ではないにせよ︑最終段階における稿本に最も近い内容を持
ったものであると思われる︒そしてそれは次に挙げるような二︑三
の理由によるのである︒
側C本を﹁稿本﹂であるとし︑B本︑H本︑A本等は﹁稿本﹂の
訳語を駆捨して記入したものであるとする考え方を満足させるた 存スル而己然しドモ其間二甚ダ捷径ナル良訳アリ又關客ノ語気直二開ク所ノ事物ヲ詳ニスル事アリ⁝⁝﹂この凡例に見える圏符の略語はA本には見受けられず︑B本︑H本並びにC本にのゑあるのであって︑これを以ってしてもこれらの三本が如何に密接な関係を持っているかの一つの証拠ともなろう︒
以上述べてきたように︑A本が刊本として最も早い時期の版であ
ることは一応間違いないとして︑それよりも新沁いB本︑H本並び
にC本の内容が殆んど一致している事実が明らかになって承ると︑
B本及びB本を以て関西版であるとする説は︑C本が編集者稲村三
伯から直接恩師大槻磐水に贈られたものである限り︑且つまた江戸
と関西との遠い距離にも拘らず︑何故B本とC本とが殆んど同じ内
容を持ち得たか︑という疑問を解決し得ない限り︑にわかに信じる
わけには行かない︒それ故野村立栄の記録を信頼し︑嘗て関西版な
るものが存在したとしても︑それはB本叉はB本以外のものであっ
て︑我為が未見のものである︑とふるより仕方がない︒
I
めには︑少なくとも﹁稿本﹂の訳語の中にA本におけると同様に約
八二四の﹁未詳﹂の項がなければならない筈である︒前表に掲げ
たもののうちから例を示すと︑C本の︵6︶﹁︵未詳︶揚水ヲ受ル
器﹂のように必ず﹁未詳﹂の文字がなければならない︒今C本を
稿本と仮定した場合︑C本からB本へ訳を書き込む際に︑C本の
通り﹁︵未詳︶揚水ヲ受ル器﹂と全く機械的に写すようなことが
仮りにあったとしてもl筆者はそういうことはないと思ってい
る1A本を作るに当って︑いくら﹁取捨﹂した結果とは言え︑
C本の訳語﹁揚水ヲ受ル器﹂の方を採らずに︑﹁︵未詳︶﹂の方だけ
を︑然も︵︶をはずして書き込むというようなことは︑この仕
事に当った人が﹁未詳﹂という語の意味を解し得る限り︑考えら
れないではないか︒|
②C本︵脳︶の﹁市店﹂︑︵S︶﹁雷鳴﹂︑︵圏︶﹁同上ノ画中ノ鄙
人﹂などの例を考えて象ると︑B本︑H本︑A本の訳を以て︑
﹁稿本の訳語を適宜取捨した結果﹂であるとする考え方は︑全く
成立しないこととなる︒何故ならば︵ご︶のC本﹁雷鳴﹂がB︑
Ⅳ本の﹁未詳雷鳴﹂を経て︑最後にA本の﹁未詳﹂へと推移して
行く理由を説明することは︑全く不可能だからである︒
③次は想像に過ぎないのであるが︑﹁稿本﹂というようなものは︑
度々の使用によって相当破損もし︑︑汚れもしたであろうから︑
そうしたものを恩師に贈呈するということは︑非礼ではなかった
ろうか︒むしろ可能な限り正しい内容の一本を別に作って︑これ
を贈ったと考えたいのである︒さきに﹁最終段階における﹂とい
う言葉を用いたのは︑このような意味である︒更にまた当時の人
0
岬︾
一
、
一
、
今
Vp
−
55
3.記録について
﹃ハルマ和解﹄に関する当時の記録のうちから︑本書の成立並び↑
に異本の問題に関係のある部分を挙げて比較検討し︑記録の面から
異本の問題を考えてみたい・
先ず﹃早大本﹄の巻頭に貼付してある大槻磐水自筆の﹁識語﹂で
あるが︑これはコルマ和解﹄完成直後の記録であり︑本書の成立
を知るためには最も重要なものであるから︑やや長い嫌いはある
が︑その主要な箇所を引用する︒
︹記録I︺﹁︵前略︶因州医官稲村三伯ハ学ヲ好テ斯業ニ篤シ七
八年前東遊シ余二就テ西学ヲ受クシカルニ生其君ヨリ請う所ノ
8年限アリ此翻訳ノ業其日月ヲ以テ卒業スヘカラサル事ヲ暁リ彼
言辞書ノ訳語ヲ受テ帰郷セントス︵中略︶三伯余ヲ礁渥スル事
再三二及上余云々ヲ以テ固辞シ且談次彼石井力己テニコノ素志
9有ニル至ル三伯喜テコノ事ヲ以テ石井二謀ン事ヲ乞う余為ニ石
井一三レヲ懇語シ遂二三伯ヲシテ其門二出入セシム三伯就テ其
釈辞ヲ受ヶ且亦余ガ門二往来スル所ノ宇田川玄随岡田甫説ヲ認
ヒテ共二教ヲ受ン事ヲ乞う石井諾スコレニ由テニ︑三輩相謀リ
時を其塾二往還シ訳語ヲ受テ筆記ス時二年ナラスシテ石井其侯
二陪シテ白川二到ル三伯余ガヌルマ﹂ノ原本ヲ乞テ石井二託
︷ス石井コレヲ携テ其国二到り遂二功ヲ竣テ翌歳帰邸シテ三伯等
二授ク諸子コレヲ集成ス後三伯安岡玄真曇認Ⅷ抵噌シ︶等ト彼 々が﹁写本﹂を﹁刊本﹂以上に貴重なものと視ていた︑というようなことはなかつたろうか︒ 此校響シ年ヲ債テ全本成リヌ此後三伯新意ヲ以テ先バルマノ総原語ヲ活版刷印シ今聞ク所ノ訳語ヲ傍釈シ遂二此数巻ヲ成セリ其全編成ルノ後余二此一部ヲ贈ルコレ其本ク所ヲ忘ストノ誠意トイフ余コレヲ得テ書筐二藏メ姑ク前關後和東西韻会ト題名訳文シ検閲二供へ且従溝徒弟二授テ学者ノ老索二便スソノ本クル所ヲ鐸マレハ茂質關化先生ノ余教ヲ蒙リ石井氏ト交リヲ結上初メタル良縁アリシニ因しり寛政十一年己未夏榔蔭磐水子録0従漁芝關塾謄写全本諸子名姓﹂とあって︑香月文礼ほか六人の氏名が記されている︒
次は同じく磐水の﹃關訳繊航﹄︵一八一六年詞文化一三︶の一節で
ある︒
︹記録I︺﹁前後通シテ一三年ニシテ其功ヲ竣フ爾後生等コレ
ヲ重校編輯シテ活版十三冊一部トナシタル者ヲ同志二頒与セ
リ此時其一部ヲ以テ翁ニモ贈レリコレ其本二報ユルトテナリコ
レョリシテ亦大二初学ノ斯業二入ルノ捷径ヲ得タルナリ翁ヵ
塾二在ル四方負笈ノ諸生徒ノ斯編ヲ再写セルモノ数人二一及べ
羽ソ﹂
︹記録Ⅲ︺﹁彼﹁ハルごといふ人著せる言辞の害を石井恒右衛
門に依りて訳を受け十三巻といふ和語解訳の書を編せり其始め︑ママ︐︑石井へ介をなし原書も借し与えたりと﹂︵﹃蘭学事始﹄一八一五
年︑文化一二︶︒
︹記録Ⅲ︺編者稲村三伯が後年海上随鴎と名乗って京阪の地で蘭
学を教授していた頃の門人藤林淳道︵一七八一一八三六︶の﹃關
学窪﹄には︑
|壷
、
、
(
秘
{
イ
56
︑﹁遠西ハルマナル人ノ墓輯セル釈詞ノ書ヲ自写シ︒対訳ヲ石井
先生二親受シ・其功半成二至テ︒宇槐園・及上岡甫説ノー子︒
椅桷シ扶ヶ︒襄葛再上更へ・約スルニ三万許ノ辞ヲ得テ︒退テ
義弟湊斎宇子ト倶二︒之ヲ灯下二校拡シ︒且是正シ︒一年ノ
間︒毎夕必ス鶏鳴ヲ期ス︒照勉ノ甚キ︒歯牙之力為二脱尽スル
ニ及デ︒漸ク遂一二部八万余辞ヲ完翻シ︒寛政八年︒始テ活板
ト為シ︒三十余部ヲ社友二配与毫字ヲ植へ匠ヲ使う︒榛斎子
特二労勤セリ﹂︵一八一○年︑文化七︶
と見えている︒
︹記録V︺名古屋の蘭学者野村立栄の随筆には
﹁ヲ︑ルデンブクマリン板真紙片表十五行二千百八十壱枚在之
巻数廿七巻三十部出来大坂ノ升平ト云人弐部求十二両程シ︑也
ママ此人大坂橋本宗吉江壱部借今度中井開板増補シテ銀十枚宛ノ由
十三巻二仕立候筈﹂︵﹃免帽降乗録﹄年代未詳︑但シ文中二﹁文化
二年云々﹂とあるからそれ以後︶
と記されている︒
︹記録Ⅵ︺﹁和蘭字書にハルマといふ書あり︑大部分のものの由
きけり︑去る年宇田川氏活字にして百部印行して︑門人へ分ち
いといえり︑其比水戸侯にて御買入なりしは︑十二両金なり﹂
︵山崎美成﹃海録﹄一八二○年︑文政三以後︶︒
以上の六つの記録を書いた人々のうち︑稲村三伯と最も関係が深
く︑﹃ハルマ和解﹄成立の次第を最も良く知っていたと思われるの
は︑大槻磐水である︒その記録Iも年代から云って﹃和解﹄完成直
後のもので︑全面的に信頼出来ると思う︒記録Iも同じ人のもので
、ノ
あり︑年代は多少離れてはいるが︑冊数を明記している点など特に
重要である︒記録Ⅲの杉田玄白も﹃蘭学事始﹄等の文面から察する
と︑三伯とは面識ある人物らしく思われるが︑この部分の記録は直接に聞いたことか︑或いは磐水からの伝聞きであったかは明らかで
ない︒記録皿の﹃開学逵﹄の作者藤林淳道は︑更ルマ和解﹄の8国凰陥
巴笠目としての第二の辞典﹃雪の§黄曼詳いき自醒鈩伊圭裂溝﹄の編
者で︑その﹁凡例﹂として作った別冊付録を︑後に単行本として﹃蘭
学淫﹄と題したのである︒当時藤林は海上随鴎︵稲村三伯︶の門下
にあり︑師の許しを得て﹃和解﹄の﹁剛ソ繁正v誤・補〃脱訂v次﹂の
ことにあたり︑随鴎ゑずから駁を記している程であるから︑藤林は
恩師から﹃和解﹄編纂の回想的苦心談をつぶさに聞いていた筈であ
る︒従って彼の記す所も亦正しいものと考えてよかろう︒
記録Vは名古屋の野村立栄がいわゆる京都版﹃江戸ハルマ﹄の複
刻者中井厚沢と文化二年二月十一日夜来︑京都において面談した
際︑中井から聞いたことを書綴ったものである︒巻数を二十七巻と
している点︑叉京都版を予告している点などが重要である︒なお中
井厚沢は寛政十年穀水の門に入った人であるから︑その当時︑少く
とも入門の翌年には十三冊本を見ていたとも考えられ︑彼が後に京
都版を十三冊に﹁仕立﹂ようとしたことと︑幾何かの関係がありそ
うである︒︑兎も角野村立栄の記録は間接的なまた聞きでI︑I︑冊
の記録に比して多少とも不確かのようにも思われる︒記録Ⅵは全く
関係のない山崎美成のものであるから︑どの程度まで信頼出来るか
は明らかではない︒
扱て上に掲げた六つの記録から︑種々の問題を考慮に入れてI
:!、『診:,J,軍,,、.,"・;,,,*,.〒一雨一一マーーーーー 、一一. ー ‐−
j・j〃
・・I〃|
rJ.
J・IJf.︲
』 ̲〆
〜
57
然も一応事実と思われる点を拳げると︑
一︑稲村三伯の外に少なくとも宇田川槐園︑岡田甫説及び安岡玄
真らが協力した︒然も後半において︑木活字を植え職人を使っ
てこの仕事を仕上げるのに︑安岡玄真が最も力をつくしたこ
と︒︵C本の凡例に月池すなわち桂川甫周の名があげられている
が前掲諸記録のうちにその名が象えていない所から判断して︑
少なくとも全面的な協力者ではなかったであろう︒︶
二︑寛政八年は一般に考えられているように辞典の完成した年で
はなく︑原稿が一応出来上りいよいよ印刷にかかろうとした時
期を示すものと考えられる︒
三︑部数は全部で三十部余り作ったものと思われる︒︵二十七冊
本︑十三冊本を合わせて三十部というのは︑余り少な過ぎると
考えられないでもないが︑製作過職の煩雑さから云っても︑ま
た三伯からの直接の伝え聞きと思われる藤林の︹記録Ⅵ︺から
判断しても︑更に叉今日に残されたわずかな部数から想像して
も︑決して六十部も或は一○○部も作ったとは思われない︒
四︑冊数は二十七冊のものと十三冊のものと二種類あったと思わ
れる︒︵と言っても必ずしも二十七冊本が初版で︑十三冊本が再
版という形で︑その間に幾何かの時日をおいて出されたものと
は限らない︒寛政八年から印刷関係の仕事が始められ︑最初の
或る期間に何冊かの二十七冊本が作られ︑それと並行して行わ
れた筈の原稿の補足訂正と共に︑後半に入って十三冊本へと移
行し︑寛政十一年の夏唾でに完了した︒その間用紙の不足︑木
・活の摩滅︑破損等の事情もあって︑途中から用紙も薄葉雁皮紙
/
あとがき
日本における震z巴閏合房g①門間宅発達の歴史を辿って承よう
とする私の試象が︑﹁辞典﹂の章の発端において殆んど前進をはばま
れた形となってから︑早くも何年かたってしまった︒﹃波留麻和解﹄
を取囲む門号胃冨夢に這入りこんでしまって︑出ることが出来な
かったからである︒勿論二︑三の道しるべがないではなかったが︑
それが必ずしも正しい方向を示していなかったので︑その為に却っ
て迷ったとも言える︒然し今度はどうやら正しい道が判って︑出口
もすぐ近くにある︑と自分では思っているのだが︑矢張りすっかり
抜出してしまわなければ何とも言えない︒その上肝心の貝ルマ﹄
は遠く離れた関東の地にあって︑簡単には見られない︒今この箇所
を調べて承ることが出来たら︑と思うことが何度あったことか︒
それにも拘らず漸くにして出口の間近に辿り着くことが出来たと
思われるのは︑多くの方をからの御援助や御協力のお蔭である︒そ
れらの方々は早稲田大学図書館︑佐倉第一高校図書館の各位︑国会
図書館の山崎武雄氏︑同支部静嘉堂文庫の丸山季夫氏である︒特に
岡村千曳先生からは御懇切な御教示を賜り︑また早大英文科学生桜
田北斗君は面倒な調査の一部を引受けて呉れた︒紙上を以て甚だ非
礼ながら︑ここに記して御礼申上げる次第である︒l昭和二十九︑八I ︲リーを使い︑活字も新しいものに入換えて行ったため︑活字の大きさにも多少の変化が起ったのではあるまいか︒
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58
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謹
仙﹃波留麻和解﹄という書名は藤林普山著﹃蘭学狸矢文化七刊︶
の駁に海上随鴎︵稲村三伯は晩年に姓名を改めた︶が自身で﹁未
行束修之初︒早己得予之所曾刻︒波留麻和解者︒其喜勝於獲楚
撲︒﹂と云っているのが恐らく最初であったろう︒実際は小論の表
題として掲げた原語の書名が表紙に印刷されてあって︑日本名は
ついていない︒後に函①ロ骨涛ご○臥冷が編纂した﹃道訳法児馬﹄
を俗に﹃長崎ハルマ﹄と呼び︑本書を﹃江戸ハルマ﹄と言うよう
になった︒
②﹃江戸ハルマに就いて﹄勝俣錘吉郎︑﹃新旧時代﹄第二年第二巻
所収の論文︒その中ではじめて﹃江戸ハルマ﹄に京都版があるこ
とを発表された︒その後﹁関西版﹂叉は﹁泉州版﹂という言い方
もしておられる︒
③︑例同右論文︒
⑤更ルマ字書﹄︑﹃波留麻和解﹄即ち﹃江戸ハルマ﹄のことであ
る︒
⑥﹃研究報告﹄第二巻︵昭和二七︑三︑三○︶及び第三巻︵昭和
二七︑一二︑二五︶鳥取大学学芸学部発行︒
例洋学展覧会︑開国百年並びに当時の館長岡村千曳教授の古稀祝
賀をかねて︑昭和二十八年一月十四日から十七日まで早稲田大学
で行われた︒⑧その期間は三年である︒池田家の﹃控帳﹄寛政三年十二月七日
の条に亘稲村三伯儀家業為修行江戸表へ罷越田中順昌手前へ致
︑︑ 逗留当年より来る寅年迄全三年之御暇奉願趣達御耳候処願之通被仰付旨被仰出其段御用人を以申渡こと﹂とあり︑同年十二月二十七日の条に﹁持病相勝不申に付致保養来春出足致度旨﹂と出発延期の理由がゑえ︑更に翌四年に出立したことが記されている︒
⑨石井恒右衛門︑庄助ともいう︑白河楽翁の臣︒もと馬田清吉と
いって長崎で通詞をしていた︒嘗て西善三郎が冨胃言の辞書の
.翻訳に志し︑初めの部分に手をつけたまま未完になっていたの
を︑石井はその志を継いで辞典を作ってゑたいと考えていた︒
側香月文礼ほか六名とは︑永井文郁︑田村雲沢︑進村文碩︑内村
玄覚︑桑嶋貞伯及び長谷川宗仙である︒
この早大本買ルマ和解﹄については︑前二回の報告中︵註六
参照︶︑寛政十一年以後前記七名の協力によって︑その写本が作ら
︲れたように考えたのは筆者の誤解であって︑この点岡村先生から
御指摘をいただいた︒これらの人食は芝關堂に従溝の際に︑各自
前記写本の全編を謄写したものであるから︑ここに訂正する︒
⑪﹁生等﹂とは稲村三伯︑安岡玄真らを指す︒
⑫A本︑Ⅳ本及びB本︑B本とは単に紙質が異っているばかりで
なく︑木型並びに木活の大きさにも多少の相違が認められる︒今
試象にA本︵東大本︶及びH本︵佐倉高校本︶について輪廓の罫
の大きさを示す皇次の通りである︒墹︵謙︶︵露︶︵院引e載雪︶
揖丹曽平く圏○日目×己留日日届.?︲忌日目︑︑丹凶○日目蚤ち日日履H目日
、