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斎藤

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(1)

31

まえがき

日本におけるz&の﹃含言︒言弓邑︵豐旦呈言爵呂︶の発達史を

考える場合︑その発端において職業としてこの外国語を習得しなけ

ればならなかった是崎の通例たちの問題から派をおこすのが本来で

はあるが︑本筋では敢えてふれず︑学術研究の目的でこの外岡冊を

学んだ多数の剛学粁のうちから︑符に鯛学密と輯づけることの川米

る蕃作とその執錐者とをえらんで︑その進歩発述の跡を辿ってみよ

うとするものである︒それは西欧科学の正しい摂取が︑輔確な外国

謡の知識なしでは果し得ぬものである︑という事実に基づく︒そし

てこの道を辿ることに依って︑彼らの語学力がどのような過程を経

どのような方法によって次第に商められて行ったかが明らかになる

糠である︒そこに現代の外陶舗毅育において忘れられがちな何もの

かを兄つけることが出来れば︑もつけの幸いである︒

﹃和剛学之一蛾︒球創於白石新井先生︒中興於昆陽青木先生︒体

初期の

l尚水蛇陽を中心としてI

オラン

ダ語学習

明於卿化前野先生︒隆盛於梢斎杉川先生︒Lとは大槻然水が司六物新

志し題言で述べた有名な言葉であるが︑白石は剛学者とは言い得て

も︑オランダ語の開拓者とは認め罐い︒十八世紀の中頃︑江戸にあ

って初めてオランダ語が学ばれ︑しかもその学統は︑この外国艦を

研究発進させて幕末に及んだ︒明治以降主として英・独・仏鮒を迦

じての本絡的西欧科学・文化の摂取が驚異的な成果を収めることが

川米たのも実は百二十余年にわたる先人の努力によって︑離礎が出

来ていたからである︒そしてその端緒を拓いた人物が︑木篇の主人

公︑青木敦書である︒従ってここでは彼のオランダ語に間する主な

等作を紹介し︑彼の業織を考察しようとするものである︒

一︑河水雌陽小伝

青木兇陽︵急麗l弓$︶岩教書︑通称文蔵︑号は兇陽といい︑江

1 斎藤

(2)

J 『 P I

I

32

蒋物御川述という役についた︒ 他川古宗の知るところとなって︑一七三九年︵元文四︶十人扶持御 騨考Lを著し︑与力加藤枝直がこれを大岡忠相にすすめたことから に傾聴すべき見解である︒二十七才の時江戸に儒家を立てた︒可悉 も考えられる﹂︵句青木昆陽伝補訂L︶と述べておられるのは︑洵 も︑直に淵源に遡って堺相実理を探りたいという学風から起ったと ︑昆陽が蘭学を学ぷに至ったのも︑慈雲が梵学を究むるに至ったの を賀び︑これを学んだ︒この來涯の学風については︑新村山博士が で︑当時端商い京都の伊臓束瀧の門に入り︑もっぱら実川経済の学 戸岡本橘小田凧町の魚間里の子として生れた︒彼は生来学問が好き

ここで兄逃すことの出来ないのは︑江戸参礼のオランダ人に対す

ゞ一七三九

一一七四○

一七四一一一七四二

一一七四三 西暦年

一七四六 一七四四一七四五 寛偲元抵享元 元文四

=含

三 二 一 ■

一一

はじめて間人の禰舎に赴く︒

間人の橘舎を跡う︒

間人の術侮を訪う︒

蘭人の宿舎を訪う︒ 昆陽御番物御用達十人扶持

オランダ諾の学習瀦命ぜられる︒

説,

る背宗の態皮が︑歴代将軍の彼らに対する態皮と較べて︑薪しく異

っていたことである︒従来は宙わばオランダ人を兄物するに過ぎな

かったものが︑背宗にあっては︑剛人からの新知撚の摂取とその利

用という懲図が明らかに感じられるのである︒この汽宗の進歩性と

昆陽の遡源的に実相実理へ向う学風とは︑昆陽の仕官によって接近

し︑やがてこの二つが結び付いて︑彼のオランダ語学習の端諸とな

るわけである︒医師野呂元丈と共にオランダ語の学習を命ぜられた

のは︑一七四○四一年︵元文五I寛保元年︶の頃と思われる︒

オランダの商鮒が出島につくられた一六四一︵寛永十八︶から約一

肚紀後のことである︒

以下兇賜の職雌と蒋作を年表の形式で承すこととする︒

罰和悶文字略考吟︵再修本︶引和間桜木一角説L 1和間貨附#し可和澗搦択山可和剛藷訳後集L

I I

l

(3)

?鍋

七 七 七 七 七 七 七 七 七 七 § 七 五 五 五 五 五 五 五 五 五 四 § 四 八 七 六 五 四 三 二 一 ○ 九 § 七

一七六二

一七六六

一七六七

申●■■●■早●︒の●■

一七六九 ●●●●■●●●●ゆ◆● 寛延二

一一一

宝暦元

一一

一一一

一︿

明和三

一︿ 間人の禰侮を肋う︒閲人の揃舎を肋う︒剛人の宿舎を肪う︒蘭人の宿舎を肪う︒蘭人泡舎蛙崎腿岐後の肪門 蘭人の宿舎を訪う︒間人の宿舎を訪う︒間人の宿舎を訪う︒剛人の禰舎を肪う︒ 呼定所勤役御儒者百五十俄前野蘭化入門昆陽死去︵享年七十二才︶ 一説に前野蘭化昆陽に師事︒書物奉行に補せられ︑別俸百石加賜

︵著作棚のうち︵︶を施した可和蘭文訳L一・二・四・五及び七菜は現存せず︑今ある三・六・八・九及び十梨の悪作年代から推定した年の棚に記入したものである︒︶

可 可 勺 へ ・ 可 へ へ 勺 へ へ

和 和 和 同 和 同 同 和 同 旬 間 蘭 間 間 間 和 文 文 文 文 文 蘭 訳 訳 択 択 沢 文 十 九 八 七 六 五 四 三 二 訳 築 築 築 築 築 築 築 築 莱 一

L L L ー L ー 曹 L

曹 L

司昆陽漫録L

(4)

I

雄一司闘学事始L上之巻に可これより此両人この学を心かけられたり

然れとも毎春一度つ上拝礼に来る阿剛陀人に付添ひ来る通詞ともよ

り僅の滞留中川給ふ耶殊に繋雑寸暇もなき間の小なれハしみノ︑学

ひ給ふへき棟もなし数年を砿ね給ひし邪なれども漸く﹁ソンL日

﹁マーンL月司ステルレL星司ヘーメルL天司アールド﹂地司メン

スL人﹁ダラーヵL艇﹁テヰゲルL虎﹁プロイムボームL棉司パム

プースL竹と云ふ位の名より彼二十五字を寄留ひ給へる耶のみなり

L︵八丁︶とあり︑また大通洞西替三郎の首として可中々江戸なと

に居うれて学んと忠ひ給ふハ不叶事なり夫故野呂寄木両君など御用

にて年々此客館へ相越され一かたならす御出箱なれともなかノ︑御

合点参らぬなり其元にも御無用の方然るくしL︵十二丁︶とあって︑ なお新村博士によれば︑一七三八年︵元文三︶の昆陽の司草股雑談L下巻のなかに可阿湖陀文字Lのことが記されているという︒然しながら未見のものであるから︑想像の城を出ないのであるが︑後に︑昆陽漫録Lの中にとり入れたものか︑或はとり入れたものの原になったのではあるまいか︒︒﹃昆陽漫録Lの序に

司敦害元文中昆陽漫録一巻を捌ふ︒其後鯉小冊を薯す︒いま再校

して或ハ去り或ハ鋤しすべて六巻とし昆陽漫録と名く︒宝暦十三年

二月十一日Lとある︒若しもこのうちの司阿剛陀文字﹂の部分が弔

草蝋雑談Lの中の再録であるとすれば︑昆陽は元文三年にすでにオ

ランダ文字に就て若干の知識を持っていたこととなる︒ 二︾

オランダ譜学習の希望を抱いて訪れた前野良沢・杉田玄白の両人に

諦めるようにすすめているのであるが︑この二ケ所に現われた青木

昆陽のオランダ譜理解の程度は甚だ幼稚の域を出ていないように見

えるのであるが︑幼稚であった邪は致し方ないとして︑彼はその範

朋において如何なる仕耶をし︑どんな苓作を後のために奴したか︒

一体外国語の学習ということは︑今日のように優れた辞典と行届

いた文法書ないしは自習沓などのある墹合でも︑決して容易である

とは言えない︒況んや二百二十年前初めてこれに志すことが如何に

困難であったかは想像にかたくない︒たとえ彼のオランダ語知織が︑

現在の中学一年生の英語の力より劣るとしても︑その故を以て彼の

業績を軽視するわけには行かない︒

青木昆陽のオランダ語学習の開始は一七三九︵元文四︶︑彼が御書

物御用として幕臣となってから間もない頃と考えられているが︑或

は元文三年頃には︑すでに﹁阿剛陀文字Lを覚え始めようとしてい

たとも考えられるのである︒

以下彼の語学関係蓉作中から

一司和曲文字略考L︑二句和淵括択L︑三可和閥文択Lの三和をえら

び︑彼の外国語の学習の棋槻を検討することとする︒なおこれらの

苓作のうち一は珍密同好会の複製本により︑二と三は岡立国金図書

館支部帥嘉堂文印大槻文服本を同図書雌の御好意により複写してい

ただいたものによる︒大槻文彦博士によれば可明治四十年青木先生

へ剛位があってお祭りがあった︒其時静岡に青木先生の子孫があっ

て︑其子孫の所から其番物が出て来た︒而も先生の直兼であるL

︵可日本文明の先駆者ら︶という︒しかし虫喰いもかなりひどく︑

(5)

35

次に騨喜ご罠を仮名書で示しているが︑彼は可此二十五字を和蘭

人アペセデと云我国ニテハ阿閲陀伊呂波卜云﹂と説明している︒今

その表記法を示すに当って︑代表的なその他の例を併記して︑外国

語音の嚢記法の進歩の有様を11勿諭アルファペットという一つの

例に過ぎないがl示してみよう︒1司和曲文字略考塵︵一七四六

年︶とし︑2勺間学階梯膿︵一七八八年︶︑3句西音発微L︵一八二 巻頭に次のような序文がある︒

司敦書嘗テ和側文字略考三巻ヲ箸シ官へ上ル不幸ニシテ今春ノ火

二樅テ家二蔵ル副隈避トナルニョリテ故紙ヲヨピ騒記スル所ヲ以

テ集メテ三巻トナス官ニアル本卜同ジカラザルベジ廷享三年十一

月二十一日青木敦書識﹂とあるところから判断して︑すでにこれ

と相似た内容のものがあったことが知られる︒従って本書は昆陽

の剛語学習の過程における最も初期に脳するものの一つと言えよ

︾つ︒巻之一の目頭に次のように記されている︒

司教書和閥人二交ル日浅ケレバ和間文字ノ奇合委ク通ズルコトァ

タワズ共カタハシヲ記ス後J君子コノ裕二因テ詳カナルコトヲ得

パ教書ガ大幸ナランL

︵この﹁寄合Lについては後に説明することとする︒︶ 安心出来ぬ状態である︒

一︑﹃和蘭文字略汚﹄三番一冊︑四十三丁

阿閲陀伊呂波 二年︶︑4句和閥語四週間し︵一九三六年︶などの著作である︒

( 4 6 ) モ 云

蘭 学

2 . 階 梯 ア ペ セ デ エ エ フ ケ

1788

ゲ酢

プーfエe

デ此

ペ恥

音微の西発0

四 週

4 . 間 ア ー ペ 一 七 一 デ ー エ ー エ フ へ −

(1942)

(6)

ア云叫ハモートH︿

IIilJIjeIKIkel

1J︑モ皿マトU

rlソマ

恥ェ駐云−1

rlラト︷レLエルエ

NIen]

エンナレ エ ナ ト モ

2.アク、 エ ソ

イテ鵬

3.i;

力腫

エノレ

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エ ム C】、

ソ皿

4 ・ ハ ー イ ー イ ェ ー カ ー エ ル エ ム エ ヌ

刃 ⑧ I 仏

Vlvcl イク、,イ フ ト モ 云

W【uel

ド プ ル ト イ ハ , ド プ ル ト イ フ ト モ

XIIksl エ キ サ リ エ キ ス ト モ 云

Yli"n0n] Z[zet】

セ イ ダ ッ ト p セ ダ ッ ト

ト モ 云

1 エ イ

2 . ユ フ ド プ ル ド ユ フ エ ッ キ ス エ イ セ イ ト

3 フ ヘ V⑥

エ ク ス 唾 .

エ恥 七露

エ イ

4 . ヴ エ ー ウ 異 一 イックス イ ッ プ シ ロ ソ ゼ ッ ト

1の誼略考Lに見える表記法のうち

でも︑昆陽がLを可エヲエル陀云L

とし︑Rを可アラエラ歴エル圧云L

と記して︑その間の区別を示そうと

しているのがわかる︒彼は同寄の中

でこの二字を説明して﹃αは舌ヲア

ゲテ呼なりγは舌ヲ巻テ呼なりLと

云っている︒この点の説明も2の弔

階梯Lにおいて大槻玄沢は更に詳し

く︑﹁βハァニ似テ非ナリ2ハ舌頭

ヲ歯後上顎ニアテ︑呼フハルvナリ

γハ舌頭ヲ弄ジテ呼プ音ナリLと説

明している︒3の句発徽Lの著者大

槻玄幹︵玄沢の息︶は﹃閲学偲轆L

の附説の中で司彼呼音ヲ我国音ノ仮

字ヲ以テ正シク施シ難キ者アリLと

述べ︑また可発徹上の中でも︑例え

ばGを説明し﹁Gハ喉音州経中司ノ

濁音ナレ圧口授ニアラザレバ伝へカ

タシ姑クゲニ通用ジテ可也Lとし︑

またeを︹舌とし●罪を︹式︺とするなど非常に苦心しているのであ

ヂ︒︒

次に﹁和閣文字三体アリ﹂として

(7)

37

﹁ドルクレットルL﹁メルクレットルL可テレッキレットル︑Lすな

わち感辱旨貝.ど盲月目署及び辰冒冨冒冒胃砕胃凰冨目蚤電の三

和の番体でアルファベットを示している︒

一億一

次準識埼と子音とを一軍以上組合わせて音節を作ることを︑昆陽は﹁寄合せ﹂と呼んでいた︒蘭謡でいう呈寿号呂のことで︑これ剖入F入︽入が巻之一の中心となっていて︑号.号↓ご︾号︾号・⁝:のような判Bヘ竃哩鷺乳乳迅例を一○頁に一八五挙げている︒アルファペットを覚えることは︑

当時にあってもいろはや五十音と同様で大して困難であったとも思

われないが︑この奇合せを理解することはl昆陽自身司委ク通ズ

ルコトァタワズ其カタハシヲ記スLと言っている位で︑非術にむず

かしかった槻子である︒彼の説明の一例を示すと次の通りである︒

﹁帝合セ川ル字を芥合サズー宇川ル時ハ奇合セ川ル青二銃ナリ僻

ばアペの二字ヲ奇合せてアップと醜ユヘにぺの一宇を川る時はプ

と碗ガ如シL

巻之一の説明の終りに﹁ニノ巻三ノ巻ハ長崎辞バアリ考へ読ベ

ジLといっているところがある︒この一節によって昆陽の長崎留学

を証明するものである︑とみるむきもあるが︑彼の長崎留学は新村

博士の﹁脅木昆陽伝補訂Lによって︑今日.では行われなかったとみる

のが適当である︒彼のオランダ謡の学習がオランダ人に附添って来

た通詞を介して行われた以上︑﹃長崎辞パLが彼の著作に現われる

のも当然ではあるまいか︒またさきに勺側学砺始塵から西善三郎の

首として引いた一節も︑やはり毘陽が畏崎へは行っていないことを

示しているものである︒

可和間文字略考Lの二巻及び三巻は一巻とは逆に巻尾から始まっ

ている︒これはオランダの本にならったものである︒巻之二は三六

○語︑巻之三は三六九語合計七二九語を含み︑それが大体次のよう

に分類されている︒勿論はっきりと部門を分けているわけではな

いが︒そして実際にはすべて言目①﹈の例のように︑単語の発音と

一字毎の読み方とを上下に記してあるのだが︑ここでは一例を示す

にとどめ︑その他の単語には昆陽の施した発音だけを記すにとどめ

ておく︒次に示す部門の分け方は手元にあった繁作院甫の勺改正増補蛮語

宝し︵一八四八年・弼永元年︶の分類によったものであるが︑可文

字略考凸が殆どそれに近いものであることは驚くべきことである︒

巻之二︵四三二九丁︶三六○鮒

︵分賦︶︵砺数︶↓Lや4岨で電哩天文釦淵胃目呂亜目隠冒劃吋損胃︐胸F旧い唖軍︑でK申守K︸や半︑手

時令弱發旨昌①徐君冒関烏冒唱入寺免q令費脚地理E厚撹巽電偶襲彦窟呂 魂可

(8)

I

砂屯で岨︑︑︑ぐ寺

一壷﹃一

鮖獣沌浄自魁目芹事穴8穴吊汽潜型醗巨電︑クヰへ今や屯当隠畦ぞAr魚介諏叫ご旨鷺尋蕊骨島目陥旨局胃聞馴むく靴︽やuも七

一一

虫蕊.冷画盲畠醗凰男繍島偶逮も弧uや乳干で屯一一草木醜怪の玩届汁滞︵皆目叫坤F農の湛巡弧守魍﹃︑申や乳や民ぞ

人倫釦ン日昌駕言冨園号具曾錨謹国胃巨昌

巻之三︵二八一三丁︶三六九語装守那占喧︾岨I電岨身体躯お冒届ロ日︒且函潰自弧︾しj尋凹唖子3尋で唖当︑︽令疾病弱圏剰号日買翼ぐ︒鳥︒巳整雲邑宮島腿蔦u回1手ulL岨曾咄申岨言砺加汁臼8︻来冒目目隅凶胃冒

︵鯲榔調・助副︶迅官8︾電u一︑申で冬別

■○飲食咽︑︽無国日昌萄需丙8言①qゅuq子ややjやu1人?金風晦吟壱且逸②牙関強冒冨﹃ご渓叱Iや︑v入や駒pq守宮室鳩薄志届§一報冨日爾一隔日目目司︑岨噌令迅代冬や

計咄

耶舟昊乏邑需目悪の︒冨己愛罵淫

乱電剋$Iや判hKtlぞ器財迩恥百コ星画胃恥儀胃目ぃ量

この本について岩崎克己氏はその著可前野間化Lの中で

﹁艇後に問題となるのは︑之れが果して青木昆陽の細纂であった

か否かと云ふことであるが︑私自身勿論彼の著作でつたとは考へて

ゐない︒の中略︶価って恩ふに︑之れは長崎の和閲通詞の間に行は

れてゐた書物を︑その侭転写したものではなかったか﹂と︑もちろ

ん﹁第一巻に於いて︑彼自身の発明も多少混じてゐるかは知らない

が﹂︵二六頁︶と言っておられる︒

勿識私とても岩崎氏の御意見に反対するものではない︒しかし単

語の綴り方︑発音及び訳などを通詞から学んだのは当然であるが︑

通洞の間で行われていた﹁原本Lと見なされるものが発見されぬ限

り︑それらの素材を用いて寄物を辞典的に栂成する能力が︑学者た

る苛木昆陽になかったとは断曾出来ないと思う︒

兎に角︑背木毘賜の初期のこの藩作が︑勿識搦紫は非術に少ない

けれども︑一応﹁日剛辞典Lに近い内容を示していたことは︑注目

に位することである︒辞典の飛要性を教えた昆賜のこの業紙は︑や

がて大槻玄沢が司湖学階梯しの中で︑翻訳を主な目的とする第二の

語学学習法として強鯛し︑遂には稲村三伯らによって品初の闘日辞

典である可ハルマ和解Lの完成を促進するきっかけの一つとなった 今入や鞄口ご卿寺唖子武器鳩津ヨ且陞皿国負頃廻目烏鼻唄I守岨叫己9用1や吟や坐岨服鯨嘘醐零蕨丙g州謬鍵吟日電且亜剰員①冒

拠冴岨︑叫軍P︑︾秘1や寺1︐雑加需臘琴目号鮨舗3喧冒§g昂

(9)
(10)

40

可コノ春ハ阿蘭陀人道二留滞シテ来ルコト運ケレハシパジバ間尋

スルコトヲ得ズ只聞トコロノ四条ヲ録シ一条ヲ附ジテ和間括択後

築卜名ツク延享改元之年春三月十一日青木教書害L

第一話

イキヘッピエークエワソゲ﹈﹈1トゲシーントクトイ共洪イソリlブ可弄胃壱毘乏雷一目号昌騨喝ゆ誌目号醜再厨固昌毎房﹃

ダプトノクゲソソトセイ卜居一回晶需8具巴夛イキハ私也ヘッピハ助踊也ユーウエハ砿惣ナル共元也ラン

ゲハ久久也ニートハ無也ゲジインハ見也ドクトハ思上又ハ存スルト云珈二用ル也イスハ将ノ気味也メィンハ私也リー

フダットノクハ瓢也ゲソントセイトハ息才也

コレハ久久御目二懸ラザレドモ御思才ニテ大慶イタスト云うコト

ナリ

号腎︾芦.ハ冒拝卜云字ヲ番・ヘキヲ略ジテ律ノ字胤ヲ打・舜卜洸共

毒興ノ気味也L

オランダ調は中惟以降十八世紀までは一定した正寄法がなかったの

で︑今日のそれと異るところがあるのは致し方ないが︑なかには写

し通いではないかと思われるものもある︒例えば目管は所有代名

詞であるが︑ここではむしろ人称代名詞の凰一︵拝の与格及び目

的格の語形︶と考える方が良いのではないか︒すなわち︑芦旨且︶

﹈菖は8冒日時一員人私は賭しいvという意味である︒従って

可ドクトLと一語のように見立てているのは不適当で︑号眠︵今日

では﹄9sは接続詞である︒同樺に可リーフダットノクハ望也L

と云っているのもよくない︒含舜は接続詞昔協に当り︑冒畠︾邑息言

は号冒号の昌呂彦で次の需圏具Ⅱ碩閏︶且僑隠目らにかかるの

である︒このようにみて行くと︑単語さえも必ずしも正確に掴んで

いるとは云えない︒更に硯困冒は今日では顕風自と綴り骨胃令骨目︶

の過去分調︑言与曾と結んで現在完了を︑厨は塁巨の漉説法現在

を︑の善︵今日では普通且@は接続法の現在を川いてあって︑文法

的には必しも簡単なものではないのである︒然るに昆陽は文法の領

域には関心を示さず︑直ちに窓味の把握に努めているように見受け

られるのであるが︑これは当時にあっては止むを得ないことであっ

た︒何故なら昆陽の師ともいうべき通測家たちさえ︑当時まだ文法邸二肱三を知らなかった︒馬墹佐十郎は可和閥調法解Lに文化十二年︵一八

一五︶八月二五日付オランダ謡の序文を寄せ︑彼の師中野柳川が文化元年にl昆陽がこの著作を妃した時から約六十年後l初めて

文法の領域を開拓したことを︑次のように序べている︒

瞳...⁝々8号君琶さ司臣長一目喚嘱目愚嗅副畠巳⑮旨鼠瀞冒目宮凰︐

天§ぬ目︒攪冨冒昌電9.琴醗毒目目卓邑号昌宕g冒胃扇︒胃等︒目

鳥冒言↓く39首顕&画目.再冒月目ざ具号・具号罵冒頭割自号

︒宮︒輿目昌鳥目目号名昌鼻冒目鼻.﹄g・冒呂乱琶篇目目昼︒

且$ぬ胃z昌一目︒旨毒島智胃辱月鼻曽固胤冨.碗&画目.昌冨号

邑昌翼目望昌冨邑︾島G匡角自号胃弓曾三侵呂良呂邑乱己電3邑曾︑

顕2︒唇芹目萬日自言目堅s8旨障嘗鼠冨胃員.⁝⁝:透

大意︵文法の正しい規則が知られていなかったので︑我々は瞥く

にも訳すにも誤りを犯した︒然し文法を発見して以来︑それは有

名な我々の師中野柳圃により文化元年になされたのであるが︑其

処此処をとざしていた暗雲はとりはらわれた︒従って我々は彼に

(11)

41

対して術に敬怠を払わずにはいられない︒︶

ここに掲げたオラング錨の文潔は︑日本人の書いたものとしては

比岐的¥い時川に瓜するものの一つで︑それ自身涜料として興味あ

るものである︒

またその前年の文化十一年に同じく則場の著作で司和間文純摘要L

︵が水上・下二進︶というのがあり︑その序文の一節に

﹁︵前略︶時二郷中二柳圃先生ナル人アリ︒是し故ノ訳宵多湘ニ

ジテ糊テ共職ヲ謝シ退隠ノ後専ラ斯学二耽ルト云う︒一日或人余ヲ

介ジテ先生二謁セシム︒爾後典門二入テロ夜往来シ共疑う処ヲ問フ

ニ毎雅其審ノ辞ナラズト云フコトナシ︒共示セル所ハー言双語トィ

ヘドモ共解ヲ間クトキハ砧年数多ノ疑惑ヲ解スルコト少カラズ︒今

ヤ典響ピ知ルペジ︒唯時至ラズシテ先生二面調スルコトノ逆キヲ憾

ムノミ︒一日耽テ問う︒先生嘗テ此文式ノ要領ヲ僻タルノ巾ヲⅢク値ウエル二審テ曰︒余側テ和川人洲物協卜云ヘル人群スル所ノ﹁ガラマチー

カL卜云ブ淵ヲ閲シ日夜研究シ後脚力郷ル処アリ︒今余将子輔二授

ル所泄レナリ︒余モ推卜戦二此替二側テ戟疑ヲ解キ此学ノ大綱ヲ郷

タリ︒︵後略︶Lとあって︑燗文法と中野柳刷の関係が明らかとな

るほか︑大槻文巌博士・同如喧翁以来﹁志筑忠雄柳Ⅲ自力の発明も

て剛文に絡格荊品ある邪を覚り記之翻訳の州に側ふと云ふLという

謬説が行われていたので︑ここに掲げる次第である︒

三︑﹃和蘭文訳﹄写本二○丁全一冊

全部で十姫あったと想像されるが︑現存するものは︑そのうち三

楽・六熊・八染・九集及び十兆で︑約三○○余の申謡が集録されて いる︒司和剛文字略考﹂の二巻・三巻と異り︑アルファ・ヘート順にしかも叩鞭崎から次第に多綴踏へと進んでいる︒第三雌の妓初の︑ヘージを掲げたから︑御参照いただき皮い︒但し頭字だけで分緬し︑現今の辞典のように二字川以後の縦宇を間幽にしていない︒

この比級的後年に偶する可和川文択しは一肌の辞薪ともいうべき

もので︑現存しないものの分を加えれば︑総数五・六百語はあった

に相通ない︒それに可文字略考鴎の七二九僻︑可活訳@の合計百余

りを加えると︑青木昆陽の築錬した曜譜の数は千四・五両語はあっ

た筈である︒勿諭その全部を暗記していたというわけではなく︑ま

たこれらの著作中には重複している譜も四○余り見受けられるが︑

必要次第では一応千数百語の意味を知り排るだけの準備をし︑更に

簡単な文軍ならばlもちろん彼が雌鉢し抑た樋鮒においてである

がlどうにか理解することが出来たと思われること︑更にその全

知職を門人前野剛化にほえ︑この学の柿ける通をつけた点に︑彼の

功餓があるのである︒

そこでが木脇陽の約墓十年にわたるオランダ綴への努力が︑その

年″の災さに較べてわずかの収狐しかもたらさなかったことを︑戎

は物足りなく感じるかも知れないのであるが︑側本舗以外の曾謡に

接する織会が殆どなく︑その学習方法も判らず︑指導者とも一年に

一度しか会うことの出来なかった︑その当時の状況を思い超してみ

るならば︑彼の業議は決して過少評価されてはならないものである

ことが判るであろう︒

昆陽の残後二十年︑天明八年︵一七八八︶に刊行をみた︽蘭学階

梯L可修学Lの章において︑大槻玄沢は

(12)

42

﹁彼方ニテ小児二教ル害二﹁アペプック﹂可レッテルコンストし

等ノ書アリ大抵此等ノ教へ方ナリ長崎ノ択家︑業ヲ受クルノ初メ

侍先シ此ノ文字ノ読法番法並二綴リョウ焼ヨウヲ合点シテ後ハ︑

サーメンスプラーカLトテ平常ノ峻括ヲ災ダル書アリテコレヲ云

上習ハズナリ晶其通弁ヲ習うノ始メニ択家ノ先務トスル所ナリ処

ヲ理会シテ後ハ﹁ヲツプステルレンLトテ共文軍ヲ香キ習上先飛

二間上朋友二索メ或ハ和間人ニモ正シ共功ヲ砿テ合点スルトキハ

自在二通択モナルナリ右ノ附級を朧テ学フハ本式ノ教ヘョウナレ

トモ災崎ニアラスシテハ成り錐キコトナリLと櫛っている︒

﹃アペブック﹂︵澄号gEは初姉鮠本であり︑﹁レッテルコンストL

は冨胃宮屋︽と解すれば文典である︒兇陽が通刈蕊から入手した

戦材が可和剛砿択陶にみられるように︑閻日自省目鼻︵対柵縛︶か

ら採ったと思われるものであったことは︑砿術なる糾学の学蒋とい

う態帷から芯えれば︑彼のためには不適当であった︒そのことが迩

湖家の懇愈から出たものであるかどうかは明らかではないが︑もし

彼に彦辱月天が与えられ︑譜学的な愈味で易から難へと噸を逐っ

て進むことが出来たとしたら︑兄陽のオランダ譜に対する烈解も今

少しは深まっていたのではあるまいか︒何故ならば外国語の入門に

当って妓も必要なことは︑文法上の規則を暗制するよりも︑文法的

に配瀧された基本的な文型を反ぷく練習して︑それを完全に理解す

ることに他ならないからである︒

前野良沢︵名は巌︑字は子悦︑号は楽山また間化ともいう︶が背

木昆陽についてオランダ語の教えを受けたのは︑普通明和六年︵一

七七○︶と考えられている︒昆陽はこの年の十月六日に残したから

彼が苦心の業餓は辛じて良沢に伝えられた︒そして良沢はその翌年

本格的にオランダ謡を学ぼうとして︑艮崎に向った︒蘭化の寛政三

註同年︵一七九一︶頃の手紙の一節﹁大言ヲナスノ仰二似タリトイヘド

モ︑擬四十八ヨリコレヲ学デ今鰻犬蝿ノ齢六十九︑共間独学問賊困

求苦心メル鞭凡二十年ニシテ尚止鞭ヲ郷ズ云云﹂によって︑彼の剛

譜学習の決愈が確間たるものとなったこと知ることが出来る︒しか

しながら彼の及崎における学堺の状況は明らかではなく︑吉雄︑楢

林はじめ二・三の通糾宗に醜いて学んだと思われること︑またその

滞在日数も︾・剛学邪姶・﹄に司而川斗り・﹄とある位で︑それが疋しい

数字であるかどうかも判らない︒肢も服饗な学習の内容耐について

も剛じことが商える︒

剛剛学賠梯︐|は︑択人︑吉雄横林淳二父リ鬼塒子険フル所ヲ期哉

セラレシカトモハカパカシキ楽モ遂スシテ東都二紬リ又此鞭ヲ勉励

セラレシカバ新クニ六七面蒜ヲ哨鵡セリサレドモ章句ヲ解シテ雌成

説ヲ識択スルニ至リテハ米夕企テ及ハス云々L︵巻上︑立成・九丁

︶と述べ﹁剛学聯始.﹄は司百川斗りも逗留し昼夜籾一に朗語を習ひ

先に断水先生より学びし瀬舗と題せる沓の締言を本として復習汀進

しなほこれに足し補ひて値に七両余言を習ひ得彼国の字体文章等の

珈等も荒増し側害して持撤りし事ありたりL︵上之巻十五丁︶と言

っている︒この二つを比較すると︑可六七百言Lに対し︑七百余百L

と殆ど一致しているが︑さきにもふれたように︑可和間文略考Lだ

けでも七二九の語奨をふくみ︑その他の著書を含めれば千四・五百

(13)

蕊識蕊識群.■■■■■.■.■■■.h:■■

43

に述したと思われる譜紫を附化は兇陽から瀧けついでいた符である

から︑数ヶ月艮崎に滞在し﹁昼夜輔一に削舗を習Lつた澗化の収捜

が七○○の単語位で︑文章を解する力も大しては身につけなかった

とする前二苔の見解は信ずることが出来ない︒長崎から品つた翌年

の明和八年︵一七七一︶三月丘日から開始された可ターヘル・アナ

トミァLの翻択がこの伽野良沢の鵬学力によったものであること︑

就恥更に二五○瓦の本がわずか二年たらずで訳了されたという鞭火の方

が︑はるかに雄弁に間化の実力を物語っていると思う︒しかもその

亜六識択が相当正確なものであったことを︑岩崎克己氏は証明された︒

なお剛化の語学関係の蒋作中に現存するものは司閥舗随燕︐﹈︵不洋

側し初期のもの︶︑司仁撤私脱﹄︵天明三・一七八三以前︶可宇挙小

成鴎︵天明工・一七八五以舸︶愁和剛択筌し︵天明工二七八通︶で

あって︑旧大槻家本で現在静勲堂文叩にあるほか︑岩崎氏が耕書

﹃前野側化.﹄の附録に集録された︒これらのうち可蘭化随繁Lは執

縦年代が明らかでないが︑安永二年以前と考えられる︒註五でふれ

た杉川玄白の掘学に閃する一般的知繊が︑これに負うところが多い

と思われるからである︒

ここでは前氾の剛化の蒋作にふれることは紙数の関係で排されな

い︒然しながら昆陽の箸作の大部分が単語根ないしは小辞典的なも

のであったのに対し蘭化の業績は可解体新書鴎が証明するように︑

文章の解釈ないし礎訳を行っただけでなく︑オランダ謡を学問的に

必衆しようとする態腿が充分うかがえる雑色を持つ︒徹木昆賜の蛙

年にわたるオランダ研学習も︑州化に継承されたことによってその

窓溌を期し︑後に大槻玄沢が珂朏学階梯Lを著し︑刊行することが出 来たのも︑剛化の紺将作を充分にⅧ咽し︑要領よくまとめ上げたものにほかならないのである︒しかしながら昆陽・間化の諸薯作が皆写本として特定の小数の人々にだけ伝えられたのに対し︑玄沢が刊本として枇に示したことに新たな懲義を見出すのである︒すなわちこの新しい外側綴がその対象とじて可脱しを拾てて﹁多しをとるに至ったことである︒三二・一○I

詮一司此両人﹂とは野呂元丈と滞木姥鴎をさす︒一一鰐場佐十鄭︑登崎の通詞で中野柳綱の門人中鹸も傑出した人物である︒文化五年江戸に召され︑訳官として群沸和解御川︵洋祢畷賦脇︶で踊祇輔柴にたずさわった︒ゴロウニソの遭厄に際し松前に川級して粥淵を習いⅢっ油択に当った︒当代随一の細学力をなし︑翻択のかたわら江戸においてオランダ紙を鱗じた︒オランダ雛の入門に際し︑文法を教える方法は彼によってはじめて行われた︒野時この方法を新法と呼んだ︒文政滋年︵一八二二︶三十六才で笈した︒三句和蘭濡法解﹄三巻︑蒋老は藤林藩山︵一七八一一八三六︶といい︑海上随悶︵旧塙稲村三伯︶の高弟で︑随協と共に氷阪地方間齢界における鋪一人糊の一人である︒司和鮒舗法解Lは文化九年の序文をもも︑川十二年に刊行された我が脚姫初のオランダ術文法沖である︒ほかに貝ルマ和解Lのコンチイス・エデイシ画ンとしての剛側辞典対沢鯉L︵文化七年刊︶があり︑広く間学生に利川された︒四岩崎克己署﹃前野蘭化L一五七瓦五杉田玄白が安永二年︑奥州一関の建部清庵の面義に答えた稗簡の一節に﹁解体祈誓と巾湖五冊出来いたし候いまだ校合相成不y巾候故上木不y申候近なに川来可v小候云ゐLと云っている︒この二人の桝簡は述部洲唯の子で杉田玄向の蒋干となった杉川勤によって可和剛隆琳川梼Lと題し刊行された︒六咄崎克己群可前野間化L︵一九七頁から三三一頁︶

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