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斎 藤 晃

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(1)

101

ここで問題とする湖沼干拓についても動力排水の可能となった以後とそれ以前とでは大きな差があり︑それ以前は

自然条件への直接的適応という形でしか可能でなかったものが︑排水機が出現するや人間による自然の支配が開始さ

れる︒従来自然条件の故に干拓の不可能とされていたところが︑どんどん新しい水田として︑そして新しい営農が展

開されていった︒本論文は枚数の制限から明治以後から戦前までの日本の湖沼干拓の概要を記し︑湖沼干拓史に占め

る位置ならびにその地域性︑干拓技術に見られる特殊性について検討を試みようとするものである︒ である︒もちろ〃事実ではあるが︒ 動力揚排水機はある地域にとっては︑その稲作史において︑また水田造成史において新紀元を画するものであった︒従来水の過剰に苦しんでいた地域︑あるいは水の必要な時期に水不足に悩んでいた地域にとって動力揚排水機ほどに歓迎されたものは少いであろう︒これまで旱天が打続いて稲田が植付不能あるいは切角植え付けた稲が枯死するたびに︑また豪雨︑霧雨によって水田が冠水し稲が腐敗するたびに︑ただ運命として諦めるほかなかった農民にとって︑これほど大きな救いの手はなかったのである︒これによって農耕の諸作業が容易となり︑収穫が安定し︑稲作期間も水に制約されることが少くなり︑これまで受動的であった水田農業が積極性をもって行ない得ることになったのである︒もちろんそこには地域によって導入率には大きな差があり︑そのこともまた重要な意味をもっていることも 本邦における湖沼干拓史の断片︵こ

はしがぎ

斎藤晃

士口

(2)

102

︵1︶動力排水機の出現は明治中期以前にさかのぼるが︑これが大々的に利用されるようになるのは太平洋戦争以後のこ

とであり︑とくに戦後の食糧増産という国家的要求は大規模な干拓計画を機械排水と結びつけることによって押し進

めたのである︒明治時代の動力揚排水機の出現から太平洋戦争後までの長い期間において湖沼干拓にそれが応用さ

れ︑干拓が行われたという実例は極めて少いが︑これは何故であろうか︒それは簡単にいえば︑江戸時代を通じて新

田政策が強行され︑低湿地の水田造成が極めて悪条件のところにまで進出したこと︑そして明治以降はこれらの劣悪

な水田の改良に重点が指向されることになり︑新規の開田事業へはなかなか手がまわらなかったことがその第一の理

由として数えられるであろう︒第二の理由としては湖沼干拓事業には莫大な費用がかかる︵条件のよいものはそれま

でに干拓されてしまっている︶のに対し国あるいは県の財政投資が少なかったことがあげられる︒もちろん地主制の

確立とともに企業的に干拓を行い水田を獲得しようという動きはなくはなかった︒しかし大勢は小作米の確保︑産米

の改良という方向をたどり︑したがって既成田の整備に専念することになるのであった︒動力排水機による湖沼干拓

がぼつぼつ見られるようになるのは大正時代以降であり︑明治期においてこれを試みたものは全国で数える程しかな

い︒ 第一節明治︑大正期の干拓

すでに触れた如く動力揚排水機の出現によってわが国の干拓事業は革命をもたらされたといって決して過言ではな

い︒これまでの伝統的な技術を背景とした干拓事業は︑いわば自然的排水l地形上の若干の勾配を利用して排水する

もので︑したがって海水面以下の部分はほとんど不可能であった︒海水面よりも標高の高い部分においても︑勾配が

あまりにも小さく︑集水と排水のバランスがくずされない限り湖沼の干拓は困難であった︒しかしこれは排水に動力

を利用することによって︑また干拓地へは動力揚水灌概が可能である︑ということによって状況は著るしく変ってく

るのである︒

(3)

103

明治期の湖沼干拓の例として北の方では宮城県登米郡上田村の中田沼開墾があげられる︒この沼は元来貯水池とし

て利用されていたのであるが︑水深が浅く十分の用水量を貯水することができなかったため︑その受益地区では毎年

のように旱害を蒙ったこと︑また当時郡制度が施かれており︑郡の基本財産造成の必要に迫られていたこともあっ

て︑中田沼を干拓して水田を造成し︑灌概用水は北上川から揚水する︒なおこれまでの同沼を用水源としていた古田

︵既成田のこと︶に対しても補給するという計画であった︒これは直接排水機によって沼の水を排除したのではな

く︑排水路を掘さくして排水し︑用水源を別途に求める︑それに動力揚水機を利用するという間接的に動力利用とい

う干拓事業であった︒こうして従来一︑一八五町歩余の水田の用水源であった中田沼は明治四十一年に完全に排水さ

︵2︶れ四六一町歩余の水田が造成された︒

同じく宮城県の宮城︑黒川︑志田の三郡にまたがる品井沼はすでに元禄年間に伝統的干拓技術をもって一部干拓工

事が行われ︑沼の周囲に数町歩の水田が造成されたが︑なお一︑三○○町歩に近い水面を残していた︒元禄期の干拓

工事以後残された水面に流入する諸河川の堆積作用が進み︑ちく年沼底が浅くなり︑また鳴瀬川の河床も次第に高く

なり︑水位の高いときには品井沼に逆流するようになった︒したがってかつての沿岸の水田約八○○町歩は例年のご

とく水害を蒙った︒そこで明治三十九年よりこの沼の排水工事に着手することになったが︑その計画の大要は次のよ

うである︒まず小川に水門を設けて鳴瀬川の逆流を防ぎ︑一方において松島湾に向って三本の燧道を掘り沼の水を排

除して沿岸の田地八○○町歩を洪水禍から救うと同時に︑沼の干拓によって新たに一︑○○○町歩余の耕地を得ると

いうものであった︒沼の干拓によって新たに獲得されるこの一︑○○○町歩余の新田の用水として鳴瀬川場江︵一三

○町を灌漉︶吉田川場江︵一五○町歩を灌概︶そのほか六カ所の溜池︵合せて八○町歩を灌概︶を作ったが︑これだ

けでは不足するので東西二カ所に各々三五馬力の電力揚水機︵西部のものは火力並用の装置︶を設置して灌概の便に

供することにした︒かくて干拓地には新旧五条の排水路が掘られたが︑なおかつ洪水時には吉田川その他の河川の全

(4)

L 一 ‐ ‐ − −

104

水量を排出することができず︑干拓地は時には冠水することがあった︒そこで大垂一年古田の保護を目的として干拓

可能見込地と溜池の境界全線にわたって長大な築堤を施した︒その延長は一○︑二○○間あり︑今日地形図上でも認

めることができる︒堤内の干拓地は一︑○七五町歩余︑堤外遊水池として残された面積は五四一町歩余であり︑なお

干拓地一︑○七五町歩余のうち︑大正十二年現在で既墾地八九五町歩余︑未墾地および当分開墾不能地合せて一八九

︵3︶町歩余であった︒この品井沼の場合でも排水は自然流下式によっており︑かくして生じた干拓水田の灌概用水補給の

ために揚水機を利用しているのであって︑先の中田沼の場合と大同小異の干拓型式であったということができる︒す

なわち明治型の湖沼干拓とでも呼ぶことができよう︒

大正時代の干拓に関しては大正十四年に農商務省農務局から統計的調査結果が出されているので︑いまこれにょっ

︵4︶てその動向を見ることにする︒ただしこれは大正七一四年間のもので︑大正初期のものは不明である︒第一表が

それであるが︑統計は埋立干拓として一本にまとめてあるので︑そのうち干拓がどれだけを占めているかは正確なと

ころは知り難い︒この表の示すところは毎年若干の埋立干拓がおこなわれており︑大正十三年を例外とすれば一○○

町歩台あるいは二○○町歩台が年間の総決算であったということである︒

年次別地目別埋立干拓面積

27.9

183.3

93.5 273.2

177.4 293.4

111.8 181.1

146.4 283.2

27.7 160.2

607.9 62.2

279.1 32.2

また田︑畑の割合では全体的に田が多くなっており︑そのうち大

正九︑十︑十一の三カ年のみ畑の割合が多い︒とにかく埋立干拓地

において畑があるということは︑それが永久的に畑として利用され

るためではなく︑塩抜きなどの目的で数年間畑作物が栽培されるか

らであると考えられる︒このことは府県別の埋立干拓面積を見るこ

とによって明らかとなる︒第二表に示したように︑まず大正七年度

において埋立干拓に関係した二七道府県のうち一○町歩以上をもつ

(5)

純 … 鵜 期 j 蝉

105

海道︑あるいは同十一年度の福島

意味が明らかとなろう︒このこと

は別としてこの時代の大勢は干潟

地の干拓に重点を指向しており︑

面積の大なるものは大方干潟地の

干拓であったとしてもさしつかえ

なさそうである︒五○町歩以上の

ものをあげると大正八年の佐賀・

北海道︑同九年の岡山・長崎︑同

十年の北海道︵ただし四九町歩︶︑

同十一年の佐賀︑同十二年の宮城

県があり︑このうち宮城県を例外 あること︑またすでに述べたごとく塩抜き目的のための畑地利用であることが知られる︒大正十年度の東京および北

海道︑あるいは同十一年度の福島・静岡・佐賀などいずれも畑の比率が高いことについても︑干拓地の所在からその

第 1 表 大 正 時 代 の

155.4

789m

179.7 116.0 69.3 96.8 11

132.5 12

545.7

道 府 県 別 埋 立 干 拓 面 積 13

(10町歩以上)

第 2 表

2468 14

年次│府県別|田|畑 合は田畑の関係が極端に畑に偏しており︑明らかに干潟地の干拓で 佐賀・長崎・熊本となっている︒この年度の岡山・佐賀・長崎の場 城・佐賀・大分・北海道・同九年度では静岡・滋賀・鳥取・岡山・ いのは広島・佐賀の二県である︒大正八年度で一○町歩以上は茨 のうち畑の比率が比較的高いのは︑すなわち全体の平均値よりも高 のは茨城・福井・滋賀・広島・佐賀・北海道の七道県であった︒こ

135..0町QOO58

14.9 32.7 16.4 7.6 31.0 10.0

茨福滋広佐北 城井賀島賀道

大 正 7

茨 城 佐 賀 大 分 北 海 道

653●●●0004.8

28.2 85.5 10.7 26.1 8

静滋烏岡佐長熊 岡賀取山賀崎本

14.6 11.4 37.6

0 0.2 0.2 22.5

110586●●●●●●0005104645

9

東 京 島 根 熊 本 北 海 道

5730●●●●715924

10.0 17.6 10 11.4

福静佐

島岡賀

1.6 0 112.9

27.0 10.0 117.4 12

城賀

77.7 26.3

0 12.5

(6)

ー 魂 一 一 一 一 ・ 局 戸 一 ! !シ ¥

106

として他はすべて干潟地についてのものである︒しかしこの時代は一団地一○○町歩を越えるような埋立︑干拓はい

まだ見られない︒小型の動力排水機によって小範囲の干拓をおこなうものが一般的であり︑それは個人的投資あるい

は耕地整理組合などによる場合が多く︑その資金源が限定されていたからであり︑また行政区画による制約もあった

ためで︑国家的財政投資による巨大な干拓地が出現するのは戦後のことである︒

湖沼干拓史において一つの大きな転機を与えたのは昭和十六年に完成を見た京都府巨椋池干拓であるが︑その前景

には部分干拓であるが昭和十年完成の邑知潟干拓︵在石川県︶があり︑前者は国営でもって為され︑後者は県営であ

ったことからして︑昭和に入るとともに干拓事業の経営主体が国あるいは府県自体に移行しつつあることが知られ

る︒とくに規模の大きいものについてはそうである︒干拓のための自然条件の悪いものほど後に残されている訳であ

り︑規模が大になればより高度の技術と多額の資本を必要とし︑またいくつかの町村あるいは郡にまたがるので︑相

互に利害が必ずしも一致せず︑その間の調節が計られねばならないこと︑水面が公有水面であることが多いことなど

からして︑経営主体がより高い段階の地方自治体ないし国ということになるのである︒ここに昭和初期の干拓事例と

して石川県邑知潟の干拓事業をとりあげることにする︒

邑知潟の干拓事業はすでに触れたごとく昭和十年に完成し︑翌十一年から水稲の作付がおこなわれているが︑昭和

十九年豪雨氾濫の節水没し︑目下着工中の農林省直営の全面干拓とは別個のものである︒これが県営でおこなわれる

に至ったいきさつについては︑昭和初期のこの地域の状況から考えなければならない︒さてこの時期というのは土地

改良事業が主として地主的立場から押し進められていた時代である︒邑知潟を抱く邑知地溝帯︑とくにその南西部に

おいても︑その例に洩れず地主的耕地整理が各村に施行されはじめていた︒しかし潟の沿岸で水田の区画整理のみを

進めて見ても邑知潟が従前のままであると︑豪雨のたびに氾濫し︑耕地は冠水するという事態を繰返す︒それは稲作

の安定化をさまたげ︑収穫の増加を約束しない︒すなわち区画整理は台帳面積を増加させる以外に大したプラスの面

(7)

107

宇治川はかつては巨椋池に注いでいたのであるが︑桃山時代になって︑この池の北に新しい水路を開さくして池ど

分離したのである︒豊臣秀吉が文禄三年︵一五九四︶に伏見城の築城にとりかかったが︑その際宇治川の流路を転じ

て伏見の方に向わしめたのであり︑その時の堤防を宇治堤あるいはこの地方では一般に大閣堤と呼んでいる︒同じく

文禄三年には木津川も淀川に連結せしめられた︒こうして巨椋池は宇治川︑木津川と切断されたのであるが︑淀川の がでてこない︒したがって邑知潟沿岸耕地整理組合では区画整理事業を有効なものとするためには邑知潟の水位の調節以外には方法がないことを知り︑県を動かし︑ついに昭和四年に至って県営による逆水止樋門を羽咋川中流部︵邑知潟の排水河川︶に設けることに成功した︒かくて潟沿岸の水田は海水の逆流による塩害︑高潮による嵩水の被害はある程度避け得ることになった︒他方耕作反別の少ない零細な半農半漁をもって生計を立ててきた千路・鹿島路の諸部落では︑水門設置によって失うものの方が多いという結果を生じた︒そこで千路・鹿島路側と純農村側との間で紛争を生じ︑県でもその対策に苦しむこととなったが︑結局昭和七年に至り県営事業として一部水面の干拓工事を施行することになった︒すなわち千路部落の前面にほぼ四○町歩の干拓田ができたのは昭和十年である︒干拓田は干潟地とはことなり除塩の必要がなく︑排水直後から水稲が作付された︒さて干拓が完成すると配分に関してまた一紛争があったがへようやくにして越路野村三五町歩︑富永村五・八町歩で折合がついたのである︒

干拓田は翌十一年から水稲の収穫があり︑以来年々反当収量は周辺の既成田よりも多く︑他部落民から羨望された

のであるが︑昭和十九年七月の豪雨の際堤防の一部が破壊し︑干拓田は水没し︑その折羽咋川の樋門も倒壊して用を

為さなくなった︒後者の復旧工事は戦後の二十三年におこなわれたが︑水没した干拓田は︑それを復旧するよりも全

︵5︶面干拓をということになり︑農林省直営事業に採択され︑工事が開始されたのは昭和二十四年であった︒

第二節巨椋池の干拓

(8)

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である︒その間奥村氏︵当時奥村電気株式会社社長︶による︑向島部落と落合部落との唐で現在の匡道十五号線と奈

良電鉄とにはさまれた一画約三○ヘクタールの干拓の成功があり︑地元農民を大いに刺戟するところがあった︒した

がって当時の風潮であるところの耕地整理組合を結成して共同の力で干拓を実現しようという動きが生じてきたのも

また当然のなりゆきであった︒その場合に水面面積の約半分が周辺諸部落の共有地であったことも重要な役割をもっ

ていた︒ 洪水時における遊水池的作用を演ずることには変りはなく︑したがって巨椋池の沿岸の耕地は毎年のように洪水による災禍に悩んだのであった︒淀川との関係が完全に絶たれたのは明治四十年の淀川第一期改修工事竣功以来であり︑

︵6︶こうしてはじめて巨椋池は独立した一池沼となった訳である︒

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11 〆琵 )11

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一一︽文禄3¥前中老川文禄3然前中老川

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金川 緬狂

第 1 図 巨 椋 池 付 近 変 流 図

第一図は巨椋池付近の流路の変遷を示したものであるが︑巨

椋池の孤立化の過程がわかろう︒この池を干拓しようという考

えはすでに古く明治中期ごろにおこっている︒すなわち明治二

十九年に最初の計画がたてられたが︑種々の困難があって実現

しないままに終った︒とくに淀川の水位が高いために自然排水

が困難であり︑また当時の機械的能力をはるかにこえるもので

あったからである︒しかし明治四十年の淀川改修によって同川

の水位が低下し︑したがって巨椋池の水位も著るしく低下した

ので︑池の漁業的意義は大いに減少したと同時に︑水が濁って

マラリアの発生が著るしく増し︑また豪雨時には氾濫して沿岸

耕地に災害を与えるという︑全くの有害無益の存在と化したの

による︑向島部落と落合部落との間で現在の国道十五号線と奈

成功があり︑地元農民を大いに刺戟するところがあった︒した

(9)

109

やがて大正十二年に池沼中の公有水面および国有地の耕地整理地区編入の認可をうけ︑同十四年十一月耕地整理組

合設立認可申請書の提出にまでこぎつけた︒しかし湖沼干拓の一般の例に洩れず︑巨椋池でも漁業を営む人々の︑す

なわち漁業権の補償についての折合いがなかなかつかず︑干拓事業はいきずまりの状態となった︒漁業権に対する補

償の問題が円満解決したのはようやく昭和七年に至ってからであった︒この年十月に巨椋池耕地整理組合設立の認可

があり︑十二月池中央部の公有水面埋立は名義上は京都府︑そしてその経費は地元耕地整理組合が負担し︵借入金に

よる︶︑完成の暁には干拓田は府から無償で譲渡されることに決まった︒かくして昭和八年一月京都府巨椋池干拓事

務所が開設され︑同年六月工事に着手した︒工事中に昭和十︑十三︑十六年の三回にわたって大水害があり︑また池

沼にしばしば見られる軟弱地盤の存在などの障害があったが︑工事を継続し︑昭和十六年ついに干拓事業が完成し

た︒なお巨椋池干拓事業が注目されるゆえんは︑国営事業として最初のものであったこと︑排水はまったく機械力に

依存したという点であろう︒すなわち干拓に必要な主要工事は農林省の直轄事業として施行し︑爾余のすなわち沿岸

ならびに古川両岸にわたる耕地改良に必要な基本的設備は京都府の直轄工事としたのである︒耕地整理組合自身のお

こなった事業といえば︑農林省︑京都府両者のおこなわなかった干拓地内部の工事︵主として整地︶ならびに既耕地

︵7︶改良に必要な小導水路および区画整理に関する事業などであった︒

さて干拓前の巨椋池は︵すでにその一部は干拓されていることは既述の通りである︶東西約四キロ︑南北三キロ︑

周囲約一六キロあり︑水面面積は八○○ヘクタール︑そのうち四○○ヘクタール余が公有水面︑残余は民有であつ

︵3︶た︒その区分については第二図に示した通りである︒池底の標高は局部的な変化を無視すればだいたいにおいて大阪

湾中等潮位上一○・○ないし一一・六メートルの間にあり︑池内の水位は最高一三・六メートル︑最低一○・七一メ

ートルの範囲に変化し︑平水位は一一・四二メートルであり︑したがって平水位を基準にとれば水深は大部分が○・

九メートル以下となる︒このような浅い沼であったので湖畔には葭やマコモが繁茂し︑天然の蓮根の産地としても古

(10)

一 一 ー = − F = 望 一 一 ワ ー ロ ー マ ー ヨ I J F = 一 一

110

くから知られていた︒蓮根は沿岸の部落民によって採取され︑自家用にも伏見・京都あたりへも出荷され副業的収入

源となっていた︒

大閣堤によって区画された東北端の一画は二の丸池と呼ばれ︑中

央の大水面が大池あるいは巨椋池といわれ︑その大部分が公有水面

であった︒中堤を境界としてこれより西南の部分が中内池︑西南端

の一画は大内池と呼ばれた︒このうち二の丸池は大正時代に干拓さ

れたことは既に触れた︒ここはもと共有地であったが奥村氏が買収

して周囲に堤防を築き︑干拓地内の悪水は落合部落側に悪水溜を設

けこれを排水機で巨椋池︵大池︶に排水するという計画のもとに約

三○ヘクタールの水田が造成された︒これを第一期の巨椋池干拓事

業とするならば本節で扱っているのは第二期の干拓事業というべき

かも知れない︒

さて国営で巨椋池が全面干拓されるとき︑その周辺の既耕地を含

めた全部で一︑八三九ヘクタールが耕地整理地区となった︒これは単に区画を整理するという意味からではなく︑巨

椋池の干拓と合せて従来の耕作上の悪条件を改善しようという目的をもっていたのである︒池の周辺の耕地は水位の

低下につれて徐々に前進したもので︑かつ池の周囲には堤防がなく極めて緩い勾配でもって耕地から水面へと漸移す

るという状況であったので︑僅かの水位上昇にも浸水するという︑すなわち常習的浸水地域であった︒と同時に新し

く開かれた水田であるので確実な用水源をもたない︑いわゆる天水田が大部分であった︒この水面に最も近い水田は

別としても︑一般に用水不足がちで︑とくに甚だしいのは北東の部分であった︒これについて可知貫一は﹁巨椋池の

二回禿 二回禿

)11 )11

窪 r 増 =

信山共噸 倉材共有

(11)

111

北東部は主として宇治川を水源とし︑樋門に依りて自然灌概を行ないつつありしも︑近年砂利採取その他の原因に依

り同川水位の低下したるため︑引水困難となり︑揚水機を設備し灌概を行うに至りその結果︑宇治川左岸堤塘に沿い

揚水機十箇所を設け︑その合計灌概面積約六五○町歩に及ぶ︒尚不足水量に対しては多数の水揚水車︑踏車等を利用

︵9︶し灌概しつつあるも︑葭島新田を除き一般に用水不足なり︒..⁝・﹂と述べている︒

干拓地の排水については︑旧水面をふくめた耕地整理地区一︑八三九ヘクタールだけを排水すればよいのではな

参二管 ー 写 = 、 ≦

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第 3 図 巨 椋 池 干 拓 計 画 図

く︑宇治川および木津川の流域にはさまれた中間の

山地地域の排水をもあわせておこなわねばならず︑

その合計面積は五二平方キロに及んでおり︑これを

淀川の高水位時には排水機によって排出しようとい

うのであるから︑極めて大規模な排水機場が必要だ

ったのである︒排水方法は三段階にわかれ︑そのう

ちこれまで池に注いでいた古川を運河と称するこれ

までの巨椋池の淀川への排水路に導き︑常時は自然

排水させる︒これを上段排水といい︑また池の外周

に承水溝を設け高地部の水を集めてこれもまた上段

排水と合して淀川へ自然排水する︒これを中段排水

という︒下段排水のみは平常といえども機械力によ

らねばならない︒干拓当初は上段に四台︑中段に二

台︑下段に四台の排水機を設置︵その後三台増設さ

(12)

−ー一P一一̲マーーーーー一

112

れ現在は七台︶︑非常の場合には上段排水のため一○台とも使用できることになっている︒しかし昭和二十八年の十

三号台風の折には宇治川の向島大黒地点で堤防約六○○メートルが決潰し︑干拓地は完全に水びたしとなった折︵九

月二十五日︶排水機モーターも水没し︑排水機能が完全に失なわれたのである︒

干拓地の灌概用水は大部分宇治川下流部から取入れ︑西南部の一部では古川に佐古堰を新設して取入れている︒揚

水機ははじめ葭島︑二の丸︑東一口︑西池に各一基ずつ設置したが︑その後水不足を生じてきたので︑昭和二十六年

から宇治に一基を作り自然取入の補充をすることになった︒そのほか補給水のため五地点に小型の揚水機五台を設置

した︒したがって干拓田では用水不足を見ることは皆無だといってさしつかえないが︑しかし極めて複雑な用排水系

統ができ上った訳で︑その維持管理の費用ならびに労力は相当の負担となっている︒

こうして干拓事業が完全に終了したのは昭和十七年一月であり︑造成された干拓田は室一西ヘクタール︑既成田の

改良面積は一︑二六○ヘクタールであった︒先にも触れたように旧池の所有関係は国有と民有とがほぼ相半ばしてい

たが︑そのうち民有についてはそれぞれの部落に割り当てられ︑国有の部分については耕地整理組合において数種の

方法で各組合員に払下処分した︒第一次の払下げは昭和十年におこなわれたが︑旧漁業者の転業および自作農創設を

︵︑︶目的としており︑昭和十二年におこなわれた第二次の払下げは組合の収入目的で一般入札をおこない︑第三次は飛行

場被買収者への見返り払下げで昭和十六年におこなわれ︑第四次は戦後の昭和二十三年に自作農創設を目的としてい

る︒第一次から第四次までの払下げをうけた戸数については第三表に示した通りである︒これからわかるように巨椋

池干拓は純粋に地元増反用に充てられており︑入植するものがなかったが︑これは干拓地の地形的条件から止むを得

なかったこともあるが︑その後の国営干拓事業において︑干拓により造成された耕地が大部分地元増反用に振り向け

られるという一般的傾向を生み出すための大きな役割を演じていることは否定できないであろう︒

干拓によって新たに造成された水田は六三四ヘクタールで︑そのうち民有地陸一六七ヘクタール︑残余の旧国有地

(13)

113

とのため干拓地内にあえて住居を移転しようというものが無かったのである︒事実昭和二十八年の大洪水の際には干

拓田の浸水は最深部で五・五メートルに達しているのである︒もちろんこのときの浸水は︑干拓地のみにとどまら

ず︑木津川・宇治川で囲まれ︑奈良電鉄以西の部分はほとんど全域に及んだのであり︑久御山町の各部落などは完全

に水中に浮ぶ島状になったのである︒ただし久御山町は巨椋池の干拓地とくらべ︑やや高い台地状で︑低い部分が水 ら耕作に通っており︑移住してここに居を構えようというものは一戸もなかった︒戦時中農村の労働力不足から︑関係諸部落では部落の周辺の既成田を耕作するかたわら部落からはるかにへだたった干拓田の管理をもしなければならないという煩に堪えかねて︑これを手放すものがかなりあっ分j処刈

た︒また既成田でも干拓田でもともに部落に近いところはよく管理がいき椰順とどいたのであるが︑遠方のところはどうしても手を抜くようになり︑しの覧

︾︾︾︷雷叶坐痒函吐釧路州舛悔︾御許罪嘩蒔圭学蹄斗非やT岬一一︾鋤峠

まで続いている︒

右に述べた事情のほかに︑この干拓田では浸水の危険があること︑その郷

場合に一個の平皿のような形状であるので全面的に水浸しとなるというこ の部分が払下げられた訳であるが︑いま民有地は別として旧国有地の分のみをとりあげても優に二○○戸以上の入植が可能であったであろう︒旧国有地は池の中央部の大部分を占め︵前掲第二図参照のこと︶周辺の部落からかなりへだたっており︑ここに一部落が出現して然るべきであると思われるが︑今に至るまで非常な不便を忍んで周囲の部落か

I平均価格1反歩当

ha 247 59 17 44 367

400

376

91 10 213 690 昭 和

10.5 12.4 16.3 23.12

1234計

486 651 520

(14)

114

田に高い部分が畑および宅地として︑いわゆる島畑状になっており︑浸水も北部で四メートル前後︑南部では三二

メートルくらいで済んでいる︒また南部では浸水後四日目で水がひき︑北部でも大部分は十五日目くらいには完全に

水がひいている︒それから工日後に排水機の応急運転がおこなわれ干拓田の部分が排水されはじめ︑排水の完了した

のは浸水してから実に二十六日目であった︒

ここでオランダのヤンセン教授の巨椋池干拓地に関する所見を記すことは決して無駄ではなかろう︒彼は次のよう

に述べている︒﹁比較的小さな干拓地に対してか様に大きなポンプ場が設置されたことに対して私共は驚いた︒︵モ

ーターの総馬力数は二︑九八○馬力l筆者註︶不測の事情が起る場合には︑隣接地城からの排水は干拓地を通じて

排水せねばならないので︑この様に計画されたことは明らかである︒こうした考え方は例外的の条件の下においての

み︑受け入れられ得ることを指摘したい︒周辺の地域から流下する水は低位部に導かれ︑そこから河の水位にまで揚

水せねばならないからである︒一般には排水費も高価となるのである︒﹂

﹁なお流域内に非常な豪雨が起った場合には︑この干拓地域は遊水池としての役目を果さなければならぬことが判

った︒これはポンプの大きさと承水路沿いの築堤高の両者を制限するためである︒﹂

﹁私共の意見ではこの様な解決策は水田の収穫が殆んど被害を受けない場合でも理想案とはいえない︒何故ならば

︵u︶か様な状態の下では︑干拓地内に定住することは殆んどできないことである︒﹂

問題はそれだけではないことを指摘しておく必要がある︒これは土地改良区の運営の方法にも関係することである

が︑この干拓地の維持管理のために毎年少なからぬ費用がかかる︒昭和三十三年度の支出合計は五︑四一六・六万円

であり︑これは土地改良区内の耕地一反歩当り三︑五二○円の負担がかかることを意味する︒この中には借入金償還

元利も含まれている訳であるが︑とにかく干拓地を維持していくための負担は直接そこを耕作している農民の肩にか

かるのであり︑土地改良区内に住居をもつ非耕作者にはかからない︒しかし非耕作者といえども生活のためには水が

(15)

115

その一般的誘引としていわれていることは︑第二次世界大戦の激化とともにわが国の食糧の絶対的不足が戦力にも

影響するところ大となり︑農地造成と食糧増産とが積極的に押し進められることになり︑その一環として琵琶湖沿岸

︵狸︶に数多く存在する内湖の干拓に目が向けられたのである︑ということである︒

しかしながらこれらの内湖が突如として干拓の対象となった︑という風に単純に理解されてはならないだろう︒そ

こにはやはり干拓せらるべき客観的条件︵自然的社会的に︶が醸成されつつあったことを認めねばならない︒いいか

えるならば内湖ならびに内湖をめぐる沿岸の村々に︑いわゆる生態的な変化が生じつつあったことが注意されるので

ある︒この生態的変化というのは﹁㈲漁業を主とする磯部落︵入江内湖沿岸の一部落I筆者註︶の場合︑耕地面積

が極めて零細で災害に対する抵抗力がないこと︑昭和初期の大旱砿が遠因となって︑内湖の水質が汚濁し︑このため

魚族の減少︑肥料用泥藻の減少を来し︑漁業︑農業両部門共に打撃を受けたこと︒ロ米原町の場合︑鉄道関係による

︵蝿︶農地の潰廃が行なわれたこと﹂などである︒

かくして琵琶湖内湖の一つである入江内湖の干拓が実行されることになるのであるが︑右に述べた内湖水産資源の 必要であり︑その戸数が増加すればその下水の量も馬鹿にならない︒それは別としても改良区内に住居をもつ場合に︑一応生命財産は改良区の設備によって守られていることになる︒近年は非耕作者の増加は︑とくに宇治川の沿岸では顕著なものがある︒ここに解決を迫られている問題の一つがある︒いま一つはヤンセン教授も指摘しているごとく︑干拓地の排水機は場合によっては地区内のみならず︑その上流の全流域五一平方キロもの排水を引受けなければならず︑そのためには常時全排水機を稼動できる状態にしておく必要がある︒すなわち地区外の排水のために干拓地におけるより以上の設備を維持しなければならないということである︒

第三節琵琶湖内湖の干拓

(16)

116

︵皿︶言われている︒﹂という︒ 減少を詳しくいえば︑昭和初期の大旱舷の際に琵琶湖の水位が約三尺低下したことがあり︑これまで外湖︵琵琶湖の本体のこと︶と内湖を連絡していた朝妻︑磯および松原内湖の間門を閉ぢて内湖の水位を維持した︒その後外湖の水位が回復したが松原内湖との間の間門は閉鎖したままとなっていたことから︑入江内湖の流れが鈍くなり湖水が汚濁するようになった︒内湖の汚濁から水藻の繁殖が衰え︑これに棲息する稚魚もまた減少し︑漁民の生活に大きな打撃を与えることになった︒また水藻が少くなったので内湖の自給肥料供給源としての価値も低下した︒したがって沿岸漁民の金肥依存度がより高くなり農業経営を圧迫することになったのである︒

従来おこなわれてきた泥藻の利用については﹁採泥藻は湖内全般に行なわれ︑採取期は春四へ五月と夏から秋へか

け八︑九︑十月が盛んである︒春の藻は堆積されて夏作用︑秋のものは同じく秋冬作用︵秋蔬菜用︶の主要な有機質

肥料であった︒同時に泥藻として泥も一緒に堆積して客土するために︑土地はよく肥え︑農家は春及び夏の早朝は泥

藻の採集を競ったものである︒泥藻は舟一艘に三○○〆運搬できるので︑水田一反には六艘分一︑八○○〆を投入す

る︒但し堆積乾燥さすために干したものはその半量九○○〆になる︒尚舟一○○艘の泥で水田は二寸の客土になると

右のように内湖の水産資源が減少し︑その経済的価値が低下したこと︑また米原駅の拡張のため︑同町の耕地面積

の減少が甚だしいことなどからして︑入江内湖の干拓に対し︑地元では反対するどころか︑これを強く希望する段階

に来ていたのである︒こうして昭和十八年に入江内湖以下十地区の内湖干拓が実施されることになり︑そのうち松原

内湖︑水茎内湖および入江内湖の三内湖は農地開発営団直営で︑また小中の湖︑野田湖︑繁昌池︑大郷内湖︑塩津内

湖︑四津川内湖の七内湖は県の委託工事として干拓がおこなわれたのである︒しかし戦争はいよいよまびしくなっ

て︑労力不足︑資材不足が甚だしく工事は捗らず︑結局戦後にもちこされたのである︒かくて昭和二十二年に松原内

湖の干拓が完成し︑その他の計画地区も昭和二十六年度迄に完成し︑七六一へクタrルの水田と一○七・八ヘクター

(17)

117

干拓地周辺の既成田地域の封建的

な水利慣行であった︒とくに湖沼そのものが用水源として利用されていた場合には厄介であった︒入江内湖の場合は

これまで内湖の水を揚水灌概していたのは第五表に示されているように五部落で︑合計三七の揚水場によって二三

︵躯︶町歩の水田が灌概されていた︒右表中の下多良中多良と上多良の︑いわゆる三多良はかつては天野川の上流から︵岩

脇部落の辺り︶引水していたが︑天野川の水路が変化したこと︑河床が次第に低下して灌概が不十分となったことに

より約二十年前から中多良および下多良では内湖から揚水することになった︒そしてはじめ小型移動式および蛇車な

瀞 i圓間

玉上評蕾ロ玉王王こ 匡勵

ヒヒ

《きう

《きう

あう

〃 干 拓 地

第 4 図 内 湖 干 拓 地 の 分 布

ルの畑が造成され増反戸数二︑一

五六戸入植戸数二八六戸を数えた

のである︒各内湖干拓地の概要に

ついては第四表に示した通りであ

︵遁︶る︒最大の面積をもつのは小中の

湖干拓地で三四二・二ヘクタール

あり︑最小は貫川干拓地の一二・

五ヘクタールであった︒干拓地に

対する耕地面積比は八二・三パー

セントである︒

漁業者の積極的な反対がないと

しても︑干拓の場合に経費につい

で問題となるのは用水源であり︑

(18)

ヨ ー ー ー ー 三 一 戸 一 面 一 五 一 マ ー ー マ ニ − 一 一 一 〒 志

118

ども使用されていたが︑干拓直前には一般に一

一○馬力の動力による固定ポンプ揚水によって灌

概されていた︒磯部落では矢倉川および小野川か

らこれまで引水していたが︑その不足分は大正

三︑四年頃耕地整理事業をおこない︑内湖より堀

割を引き︑それ以来二○馬力のポンプで揚水灌概

︵︶していた︒

内湖が干拓されると用水源を別途に見出さねば

ならないが︑この問題は巨椋池干拓の先例に習

い︑承水溝の水を利用することで解決された︒こ

れまで内湖に流入していた河川で主なものは矢倉

川であり︑これは流域面積は一○・七平方キロあ

る︒ついで小野川の六・八平方キロ︑これを合せ

て一七・五平方キロの流域面積がある︒これは巨

椋池干拓地に流入していた諸河川合計の流域面積

五二平方キロの約三分の一である︒入江内湖干拓

地の承水溝にはその内側に十二個の水門を設け︑

これより小用水路および用排水兼用水路に取入れ

て灌概することになっている︒

第 4 表 琵 琶 湖 干 拓 地 の 概 要

入 植 増 反 耕 地

面 積

耕 地 内 訳 着 工 工事費 年 月

地 区 名 総面積 I ‐

(ha)(ha) (千円)

ha 305.2

ha 249.9

戸肥一詔蛆1一一−2 〆0頁︑﹀Q

9ワ2頁

戸WFDり

入 江 松 原 小 中 の 湖 水 莫 塩 津 四 津 川

20.59 19.9 42,906 73.7 62.8 204 57.85 4.82 ″″″・″″″″″″〃 6,258

342.2 298.0 464 250.80 47620 29,123

278.0 153.7 346 121.20 32.45 87,461

16.9 12.5 60 12.33 0.14 3,693

19.7 15.8 116 15.80 一一 3,433

貫 川 大 郷 繁 昌 野 田 沼

9.0 63

12.5 9.00 5,244

10.6 85

14.1 10.54 0.10 5,351

23.7 164

28.2 21.20 2.50 8,427

42.8 33.0 147 33.00 5,571

1,056.6 8$.0 286 2,156 761.07 107.80 199,468

(19)

119

来内湖において漁業を営みたる者の中臥等の定置漁業に従事

せる者に対しては三反︑前号に同じく普通漁業に従事せる者

については一反五畝︑という割合で干拓田を与えるという形

でおこなわれたのである︒そして完全に純農業に転換するも

のに対しては九反歩が与えられることになった︒しかし漁業

者にして純農業に転換しようとするものが少く︑半農半漁と

いう生活型態を維持しようとする傾向が強く︑したがって純

農業に転換したものはわずかに一戸であったという︒このこ

とは大いに興味のある問題である︒ただし結果から見れば半

農半漁といっても内湖漁業者は農業に主として生活の中心を

. C

第5表入江内湖沿岸の揚水 灌概面積

場 、 水

部 落 名 受 益 面 積 馬 力 合 計箇所数

|肌師

32.2800 梅 ケ 原 6111

5.5000

下多良 3.5

20.0000

中多良 10.0

11.3900

筑 摩

27.0 62.4212

18 42.0

131.1912 108.0 37

干拓によって最も大きな生態的変化を余儀なくさせられるのは漁業

者である︒漁業権の補償の問題はその現われの一つであり︑補償によ

って新しい生活を切り開いていこうとする︒入江干拓地の場合︑内湖

がすでに漁場としての価値を半減していたので︑漁業者の自分からの

新しい適応への歩みがあった訳で︑海外への出稼ぎ︵米国の太平洋岸

が多い︶あるいは移民したものが少くなかった︒昭和二十年の終戦当

時抑留されたものが漁業者のもっとも多い磯部落で二○○人に及び︑

留守宅も五十戸に近いといわれた︒残ったものは半農半漁的な形で生

活を営んでいたものが多いが︑彼等の漁業権の補償については︑的従

農 農

Q C Q C

徽 怠

n︾

第 5 図 干 拓 前 の 入 江 内 湖

(20)

120

に二つの小砂丘があるが︑この砂層は大して厚いものではなく︑ほぼ三○センチであり︑かつその上に三○六○セ

ンチの厚さの腐蝕質を混じた軟泥がのっている︒砂層の下は粘土質である七湖心に相当する部分には固くしまった粘

土質のところがあるが︑ここでは干拓後田植えの際指がささらず︑棒で穴を穿って苗を挿したといわれる︒

小中の湖の底質についてもこれとよく似た事情が見られる︒第七図がそれであるが︑安土泥炭土とあるのが先の入

江内湖において﹁スクモ﹂と呼ばれたものに相当し︑ここでも同じく﹁スクモ﹂と呼んでいる︒そして小中の湖では

﹁スクモ﹂の分布範囲はさらに広く︑その面積比は高い︒耕地としては﹁スクモ﹂は湛水すれば胸や腰まで没するほ

どにドロドロとなり︑硫化水素ガスが発生して水稲の根腐れの原因となり︑胡麻葉枯病を誘発し︑また水田とした場

合に次第に乾燥分解するとともに耕土の収縮を来し︑耕地低下となりまた水分保持力が強く乾田化は容易ではない︒ おくという形に変ったのであり︑外湖漁業関係者は干拓田の耕作によって一応生活を安定させ︑外湖の漁業に力を注ぐことができるようになった訳である︒

干拓前の入江内湖は南北に長い三角形をなし︑長さ二・五キロ︑最深部は米原港ロおよび磯部落の付近であり︑烏

井川量水標の零点︵東京湾中等潮位上八四︑五六九メートル︶を基準にとれば︑最深部は一・八○メートルである︒

深度と面積については︑第六表の通りである︒

第 6 表 入 江 内 湖 の 深 度 と 面 積

33.3620 0 〜 3

3 〜 4 41.4620 4 〜 5

66.9000 5 〜 6 123.9000 6以下

18.2000 283.8310

内湖の社質については第六図に示したように︑予想外に不均一である

ことが注意される︒図で﹁スクモ﹂とあるのは内湖特有のいわゆるヘド

ロ類似のものであって︑泥藻やその他の有機物の半腐蝕物の混った土壌

で海綿状を呈し︑乾燥すると水より軽く︑この耕地の植物の生長は極め

て不良であるが︑粘土質との境界はがえって有機物に富み︑植物の生育

が良好である︒内湖の北部には砂質の部分がありこの中に図示したよう

(21)

121

また無視できない要素であった︒一般に干拓地ではいわゆる

もっとも理想に近い形で住居と経営耕地との配置関係︵労働

能率という点に関して︶いいかえると住居の周囲に経営耕地

を集団化し︑労力を節約し経済的に高度の土地利用が進めら

れ得る筈であったが︑農民相互間の耕地の交換の結果耕地の

分散を来し︑既耕地において見られるのと全く同様の形態を

生じているのである︒それというのも零細経営︵入植者一戸

当り九反歩の割当て︶であるところから地力の高下というこ 哨斗蚊馴江纈哨斗蚊馴江纈

静 静

Ei,,

0 1 K W し

退,,L

0 1 K W し

第 6 図 入 江 内 湖 の 底 質

また水に浮いて耕土の流亡やへ排水路を埋没せしめるというこ

︵焔︶ともおこすのである︒

このような底質の不均一さ︑それは耕作の難易︑地力の差を

作るもので︑したがって干拓地の土地配分の場合に問題となる

ものである︒実際入江干拓地においては一応配分された後で耕

地の交換がおこなわれているのであって︑その理由には距離の

遠近な

どもあるが︑

耕土の良否も

8

鑿悪

ヂ●

■■の

一一○

.●亀ゅ.●

昆 蓉 学

側西の湖

第 7 図 小 中 の 湖 の 底 質

シww 雛泥炭土

wv﹀

"泥炭植土

"砂壌土

4■●﹄一口■①

早口も①●︑争壷

甲Q●●●・竜一ゆ●●●●■●●cp−

"植壌上

(22)

' ' 一 F 一 − − − ' 富 ' 帝

122

以上記してきたところは明治以降から太平洋戦争終了までの︑いわば戦前の日

本の湖沼干拓を極めて大ざっぱに概観したものである︒この期間はどちらかとい

えば︑江戸時代に干拓し残された部分について機械力を駆使しての近代的干拓事

業がおこされる迄の瀬ぶみの段階であるということができる︒そして水田稲作を

基調とする日本農業においては湖沼はやがては干拓せらるべき部分でありながら

も︑その湖沼をめぐる土地にとってはまた決定的な役割を演じてきたということ

は吾々に多くの問題を提起するであろう︒また別の観点からするならば︑湖沼と

いう一つの自然︑地理学的な立場からは自然景観と呼ぶべきであるが︑これが単

純に考えるところの自然とは余程縁の遠いものであること︑自然と人間の力との

結合の上に現在の姿を示しているものであることを知るであろう︒なお最近の湖

沼干拓については稿を改めて発表する予定である︒ とが決定的に重要視されたからである︒

この入江内湖干拓地において土地配分後におこった農民相互間の交換による耕

地の分散は︑今後の干拓予定地においても十分予想されるところであり︑深い配

慮をもって為されなければ︑折角の理想的なプランも骨抜きとなるおそれがある

黒ノ○

むすび

第7表入江干拓地耕地配分状況(19)

分 譲 面 積

│ ; , 晶 │ 鴬

104

4981,363.1 6022,156.6

9.4

9872 反〃

入植

増 反 地 元 増 反

地元出身の営 団 の も の も ふ

くむ 7.4

20.2 63.0 100.0

(23)

﹃﹂

123

︹註︺

︵1︶農林省農務局﹁明治年間灌溌排水事業資料L一九二九年︑一六頁に事業概表がのっているが︑一般に排水機が利用され始

めるのは明治三十年代である︒なお新潟県亀田郷地域では明治二十年代に利用が始まっている︒亀田郷については︑烏谷郭

仁﹁亀田郷用排水統一についてL新潟大学教育学部紀要一の一人文社会科学編四九五二頁に詳細な報告がある︒

︵2︶前掲書による︒

へ へ

3 2

ー ン へ へ へ

191817

ー シ シ

前 前 前 掲 掲 掲 書 書 書

へ へ へ

法 注 注

141214

曾 曹 一

命︶樺島多賀助司巨椋池干拓地の自作農創設﹂耕地一五の九によれば干拓当時巨椋池を職場として生計を営んでいた漁業者にし

て︑少しも土地を所有して居ない者が九三名もいたという︒

︵u︶ヤンセン可日本の干拓に関する所見L農林省農地局一九五四年︒

金︶滋賀県立農業短期大学農学部﹁大中の湖干拓地の営農類型に関する研究L一九六一年︑五一頁︒

倉︶経済安定本部資源調査会﹁琵琶湖開発に関する報告Ll附属資料集1一九五二年︑二三頁︒

n︶滋賀県立農業短期大学農学部﹁琵琶湖干拓地の農業経営に関する研究L一九五○年︑二一頁︒

︵妬︶琵琶湖干拓地災害対策調査報告書一九六○年︑三頁︒

︵妬︶琵琶湖干拓入江地区実施計画書︒ ︵8︶可知貫一望︵9︶同右による︒︵︑︶樺島多賀助 ︵4︶農林省農務局﹁耕地の拡張及び潰廃に関する調査﹂第一次一九二五年︒︵5︶拙稿﹁ラグーンの人文地理l能登邑知潟の例からlL人文地理一○の五・六合併号五一五四頁︒︵6︶明治以前日本土木史︑土木学会一九三六年︑一○八頁︒︵7︶巨椋池土地改良区﹁巨椋池干拓要覧L一九五九年︑ならびに﹁巨椋池開墾並びに沿岸既耕地改良事業要覧﹂同﹁事業計画図﹂ 同右による︒

可京都巨椋池干拓と其の沿岸耕地改良事業L農業土木研究四巻︑

五四頁︒

二四頁︒ 三四一頁︒

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