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早@ 評 鎌倉孝夫著『経済学方法論序説』(弘文堂刊)

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      71

早@    評

鎌倉孝夫著『経済学方法論序説』(弘文堂刊)

武  井  邦  夫

宇野氏が外国貿易の捨象の根拠を純化傾向の延長 1       といった安易な方法に求めていないことは明らか 本書は近年,とみに旺盛な著作活動を示してい  であるから,宇野理論の「正統派」的解説者を以 る鎌倉氏の経済学方法論に関する諸論文の集大成  て自ら任じているかに見える氏にとって・それを である。全体は3篇に分れている。まず,第1篇  どのように行なうかを明らかにすることは必要不

「方法一その特質」は,第1章「経済学方法論  可欠と思われる。

の根本問題」第2章「原理論の射程」第3章「段   また純化傾向というばあい・傾向という語の内 階論の方法」第4章「現状分析への一接近」の4 容を氏がどのようにつかんでいるかも気になると 章より成る。ここでは,経済学の方法論上の問題  ころである。利潤率に低落傾向があるからといっ 点が総論的に検討されている。その中,第3章は  て,その傾向を観念的に延長して利潤率ゼロの資 力作で,もっとも読みごたえがある。しかし・そ  本主義が想定できないのと同様に,純化傾向を観 れに比べると,第1章は著者の従来の主張をくり 念的に延長しても「純粋資本主義」には到達でき 返しただけで,研究の深化のあとがうかがえない  ないのである。純化をもたらす力が同時に不純化

のは淋しい。      をもたらすから,全体として純化傾向になるのだ 第1章第2節「宇野理論の方法的前提」で・同  という理解が氏には欠落しているように思える。

氏は「純粋資本主義」想定の根拠に関して,次の      2

ように述べている。

「純粋化の傾向はもちながら,純化しきれない   次に,第2篇「方法一一その基礎」は,第1章 限界があるということが,純粋資本主義の想定を  「資本の生成論理」第2章「資本の極限形態」第 可能にするとともに必然にしている。」(P.8)こ  3章「資本主義の物神性」の3章より成る。本書 れが果して「現実存在からの主観的,恣意的抽象  の「あとがき」によると,「本書は原理論におい による観念像の形成もまた無意味である。現実に  ては主に資本主義の歴史的転化を論理的に反映し 存在する対象に即して抽象化がなされねばならな  ている決定的箇所  『貨幣の資本への転化』お い」 (P.8)という氏自身の方法論的立言と両立  よび『株式資本の論理』  の再検討と,その論 するであろうか。「純化しきれぬ限界がある」か  理の性格・特徴を考慮しつつ・その論理が,資本 らその傾向を延長しても「純粋資本主義」の想定  主義の歴史性論証に対していかに決定的意義をも は不可能だというのなら,話は簡単であるが,逆  っているかを明らかにしようとしたものである」

に可能だというのであるから,こんぐらかってく  が,このような著者の意図からすれば・「貨幣の る。さらにまた,傾向の延長という方法で外国貿  資本への転化」を論じた第1章と・株式資本を論 易の捨象ができるかどうか,氏がこの点について  じた第2章とが・本書のもっとも核心的部分であ なんらふれていないのは物足りない。少なくとも  ることは明らかである・次に,まず・第1章を検

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72      茨城大学政経学会雑誌  第33号

討しよう。      ものとならざるをえないのである,と。

まず,氏は「貨幣の資本への転化論」は,「本   以上に対する疑問は,第一に,一体,「商人資 源的蓄積過程における商品経済的関係のもつ意義  本的形式」の資本と「金貸資本」的形式の資本と を,論理的に明らかにするものとならなければな  は,何を 模写 してえられたものかということ らない」という課題をもっているとし,次に『要  である。氏は一方では歴史的に実在する商人資本 綱』や『資本論』の叙述に簡単な検討を加えたあ  や金貸資本を 模写 したものではないといい,

と,宇野氏のこの点に関する問題提起を次のよう 他方では,そういう資本によって「その運動形式 に総括している。       を展開せざるをえない」(P。171)という。この辺

「問題は,〈商品と貨幣〉が,その形態あるい  に「中央派」と称せられる氏の理論的あいまいさ は機能としては資本主義に先き立つ社会にも共通  が見られる。第二に,もし,資本について,それ なものとして現われながら,むしろ資本主義確立  を流通形態として規定するためには歴史的・具体 の上でこそ,その規定が与えられるのに対して,  的な資本によって,その運動形式を展開せざるを

〈流通形態〉としての資本においては,むしろ逆  えないとしたら,商品や貨幣についてもそうでな に,資本主義に先き立つ歴史的に具体的なく商人  ければ,論理として一貫しないだろう。大体,資 資本〉や〈金貨資本〉によって,その規定が与え  本主義的商品・貨幣が前期的な資本に転化するこ

られなければならない,ということである。」   となどはありえないからである。

(P.169)       3この宇野氏の難解な問題提起を氏は次のように

解説している。      最後に,第2篇第2章における株式資本論を検

「ところで,このことは,〈流通形態〉として  討しよう。これもまた難解である。

のく資本〉の理論的な規定をなす資本のく商人資   まず,第一節で,宇野氏の「資本の株式資本と 本的形式〉とく金貸資本的形式〉の規定が歴史的  しての売買をとかないでその商品化を説く」とい に具体的なく商人資本〉とく金貸資本〉の運動を  う難解な間題提起を是認する姿勢を示し・次に第

〃反映11あるいは 模写.して規定されるものだ  2節で「資金所有→利子」の関係を「資本所有→

ということを意味するものではけっしてない」   利子」の関係にすりかえている大内力・日高晋両

(Rl69)       氏を批判する。この批判は免当であるが,2番煎 もし,そう理解すると,宇野氏の「純粋資本主  じの感を免れない。次に,第3節では,商業資本 義の想定は否定される」ばかりでなく,これら二  の運動を価値増殖根拠とすると,「資金所有→利 つの形式が「産業資本自体の一面の性格を示すも  子」が「資本所有→利子」の関係になるという。

のである」という点がわからなくなるし,また,  その理由としては,商業活動が全面的に商業労働 一種の「商品経済史観」になる,と氏は警告を発  者によって遂行されるようになり,彼等の企業者 している。       としての活働が商業利潤形成の根拠となるからだ このように,「商人資本的形式」や「金貸資本的  という。そして,そうなると,「資金所有は直接 形式」の前期的陸格を否定したあと,今度は一転  に資本所有であるとされることになる」(P・245)

してその前期的性格をもつ両形式の資本規定の必  という。そして,この関係は自己資本についても 要性を次のように強調する。もし,両形式の資本  成立するという(P・245)。

を産業資本形式の中に吸収してしまうと,「資本   ここで,氏は商業労働者の労働が商業利潤(企 の本来的性格たる『流通形態』としての規定性が  業者利得)形成の根拠であるとされるというが,

見失われざるをえない」し,〈商品と貨幣〉に対  商業労働者の受けとるものが賃金であって・商業 する〈資本〉の論理的関連が明らかにされえない  利潤・またはそれから利子を控除した企業者利得

(3)

武 井:書    評       73

ではない以上,そのような観念は形成されない。  ればならない。

商業労働者の労賃は,その労働力の修業費の高さ   こうして,大内。日高両氏の資本と資金の混同 を反映して,一般より高いのが普通であるが,労  の批判から出発した氏がたどりついたのは・両氏 賃であることには変りない。利潤,または企業者  と同じ混同であり,しかも,「現実に成立」して 利得はそっくり,資本家のポケットに入るのであ  いるものを「現実に成立していない」と思いこむ

る。一体,氏の論理の内で,資本家はどこへ消え  錯乱状況がこれに輪をかけているのである。

失せたのか,不可解というしかない。たとえば,   このような混同と錯乱によって氏の観念の中で ある商業資本が資金を全額借入れて活動したとし  成立した「それ自体に利子を生むものとしての資 よう。氏の論理では,利子は銀行に,残りは企業  本」が自己を現実化するために,擬制資本として 利得として商業労働者に支払われて了うのだか  現われなければならないといわれても,誰一人そ

ら,資本家は完全に蒸発してしまう。      の必然性を理解しえないであろう。

このように,商業利潤について,利子と企業者   いまや,宇野門下広しといえども,師の「理念 利得との「質的分割」を論証した(と思いこんだ) としての株式資本」論に疑問を投じていないの 氏は,今度は第4節で「それ自身に利子を生むも  は,鎌倉氏一一人であるが,氏の師に対する尊崇の のとしての資本」は「それ自体としては現実に成  気持ちはわからないでもないが,こうなれば「あ 立するものではない」(P.252)という。しかし, ばたもえくぼ」の感じがなくもない。いずれにし

「資金所有→利子」が「資本所有→利子」の関係  ても,本書によって問題点はより明確になったの にそのまま転化する以上,銀行の貸付資本がその  であるから,これを機会に徹底的な討論が行なわ まま「資本それ自体」に転化することになるのだ  れることを熱望する。第3篇は学説史的批判で,

から,それは「現実に成立」しているといわなけ  それなりに面白い。

藤田晴著『日本財政論』勤草書房刊

河  野  惟  隆

本書の筆者によれば,日本の財政々策は,現在  善を必要とする主要な問題点を明らかにしようと 重大な転換期にさしかかっている,ということで  している。

ある。つまり,戦後長期にわたって推進されてき   第1章 「経済変動と財政政策」では,中央・

た生産第一主義・輸出第一主義の財政々策は,対  地方の一般政府と公企業を含む全政府部門の財政 内的には公害問題や都市問題を深刻化させ,対外  運営を,経済安定政策の観点から分析している・

的には,不況下における円の大幅切上げと国際通  経済成長率の変動の緩和,自生的民間需要の変動 貨危機の激化をもたらした。そこで,いまこそ,  によるかくらん効果の相殺,需給ギャップ比率と これまでの財政運営態度を根本的に改め,日本経  物価変動率の緩和という各種の基準を使用し・わ 済の巨大化した生産力を,国民福祉のために動員  が国の全政府部門の財政の安定化効果は,基本的 するような財政運営を取るべきだ,という。そし  には,それほど高く評価できるものではなかっ て本書では,このような問題意識のうえにたって  た,という。そして低くではあれ認められる安定 戦後復興段階を終って以後のわが国財政々策を実  化効果は,裁量的財政々策ではなく・ほとんどす 証的に検討し,現代財政運営の基本的諸目的に照  ぺてビルト・イン・スタビライザーによってもた 合して,これまでの財政活動の成果を評価し,改  らされた・という・尚,本章では経済成長に対す

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