労働価値説と人格的依存諸関係
高倉泰夫
はじめに
本稿では,マルクスが『資本論』で意図していた結論の導出方法について の問題点の考察のみに限定して叙述する。
マルクスにとっては,19世紀の自由競争資本制の彼方には「自由な諸個人 の連合」としての協同組合的社会の到来は必然的なものとして予見されてい た。彼の『哲学の貧困』以来の投下労働価値説に基く独自の経済理論構築の 努力は,労働をつうじて形成されている諸個人の生産諸関係が資本制的生産 においては物象化して現れていること,そしてその物象化した諸関係の再生 産機構を明らかにすることであった。マルクスは,そのような物象化した社 会的諸関係の総体の理論化は,いわゆる「否定の否定」を通じて,裸のまま の透明な社会的諸関係の社会への転化を論証することになると考えていた。
マルクスが世界史を三段階に分けて示した中では,「普遍的に発達した諸 個人」を生み出した物象的依存諸関係資本制社会の次には,社会的労働の生 産能力の発展を基礎として人格的依存諸関係がより高次の姿で復活すること
が考えられていた。そこでは投下労働量に基いて諸個人の諸関係は透明で裸 のまま現れることになる。この透明な人格的依存諸関係に基く未来社会の存 在を自明とすることが,マルクスの資本制的生産の批判的分析を支える,す
なわちその物象化構造の転倒性の分析を支える基盤となっていた。
しかし,マルクスの理論に則して考えてみた場合でも,実際にはそのよう
な未来社会像からの資本制的生産の照射は,逆にそのような未来社会への到
達可能性を同時に論証することにはなっていなかった。この資本制的生産を
投下労働価値説に基いて一つの総体として解明することが,物象的依存諸関 係に基く社会が否定されてより高次の人格的依存諸関係に基く社会へ至るこ とを論証したことにならない点が,マルクスにとっても明確に認識されてい なかった。それは,資本制的生産において,社会的分業の中での諸個人の社 会的諸関係が物象的依存諸関係として現れることが,単なる「資本制的な外 皮」としてのみとらえられる結果となり,社会的分業下での諸個人の存在様 式から物象的依存諸関係が出発していることの意義が軽視されることとなっ ている。あるいは, I 自由な諸個人の連合」としての未来社会を考える際に,
資本制的生産における物象化構造それ自体は,単なる否定では済まない点を 持っていたことが看過されることとなったのである。
〔註〕
1
)この点については,小著『生産諸関係論としての経済学の成立』九州大学出版会,
1989年,第 l章,を参照されたい。
なお,本稿で用いている物象化と物化の概念の相違については,同書,
171~172ページ,を参照されたい。
2 )世界史の第三段階としての,裸のままの投下労働量の計算に基くより高次の人格的 依存諸関係としての社会の存在可能性の検討については,小稿「物象的依存諸関係・
生産諸力・生産諸関係 J W 経営と経済
j(長崎大)
70巻
1号 ,
1990年
6月,を参照されたい。
また,他に,小稿「生産諸関係・諸階級・国家」同誌,
69巻3号 ,
1989年1
2月,も 参照されたい。
3) W
資本論』第
1部第
l篇第
l章で見ることのできる「自由な諸個人の連合」としての 社会は次のようなものである。
「ただ商品生産と対比してみるために,ここでは,各生産者の手にはいる生活手段 の分けまえは各自の労働時間によって規定されているものと仮定しよう。そうすれば,
労働時間は二重の役割を演ずることになるであろう。労働時間の社会的に計画的な配
分は,いろいろな欲望にたいするいろいろな労働機能の正しい割合を規制する。他面
では,労働時間は,同時に共同労働への生産者の個人的参加の尺度として役だち,し
たがってまた共同生産物中の個人的に消費されうる部分における生産者の個人的な分
けまえの尺度として役だっ。人々が彼らの労働や労働生産物にたいしてもつ社会的諸
関連は,ここでは生産においても分配においてもやはり透明で単純である J (K
I.S . 9 3 ) 。
1 . !r資本論』における生産諸関係の物象化と「否定の否定」
との関連
マルクスは『資本論』第 3 部の最終章である「第 5 2 章 諸 階 級 J ( 1 8 6 5 年 執筆)を,資本制的生産における諸階級の存在根拠を,物象化した生産諸関 係および分配諸関係に対応して存在している諸個人から出発して説明し始め たところで中断している。他方, 1 8 6 8 年 4 月 3 0 日付のマルクスからエンゲル ス宛の手紙で,その章について「一一結びとして,いっさいのごたごたの 運動と分解とが,そこに帰着するところの階級闘争。」と要約して述べてい る。この手紙での要約は『資本論』第 1 部「第 2 4 章 いわゆる本源的蓄積」
における「否定の否定 J の叙述とは整合的だと考えられる。)おそらく,この
「階級闘争」という要約は第 l 部の第 2 4 章のように資本制社会の変革の叙述 にまで至るものを考えていたことを示している。
しかし,前者における執筆の中断は,第 3 部の最終篇が資本制的生産の物 象化機構の総括を行っていることと, I 否定の否定」の論証というマルクス の経済学研究を導いてきた動因とが不整合であることから起ったと考えられ る。すなわち,ここで,もともとは資本制的生産における物象化構造の解明 と,より高次の人格的依存諸関係の社会の実現可能性の論証とは論理的に別 個のものであったものが,第
1部では資本関係の再生産機構の論証に重点が おかれ,物象化構造それ自体の解明はより副次的に扱われたことから,その 二つの論理を一体として処理したときには,その二つの論理はあたかも連続 するもののように見え,その聞の空隙は,存在しないかのように一応は表現 することが可能であった。
これに対して,第 3部では物象化構造の総括と「諸階級」の存在根拠の解
明とが結びつけられて執筆されることによって,そのことと「否定の否定 J
の叙述とが論理的に整合しないことが明らかとなって最終章の執筆が中断さ
れたと考えられる。すなわち,第 3 部の末尾で資本制的な物象化した生産諸
関係および分配諸関係の再生産構造に基いて,諸階級の存在根拠と存在様式
を明らかにしようとしているところへ,いきなり「生産手段の集中」と「労
働の社会化」を導入して,その物象化の再生産構造が完全に消失するという 叙述をもちこむことは,不整合だったと考えられる。もし,それをもちこむ ときには,物象化という視点の意義が次には完全に消されてしまうことにな る。あるいはむしろ,第 3 部の最終篇でははじめから物象化した生産諸関係 という視点をもたずに階級関係,あるいは階級闘争を前面に出し,物象化構 造は単なるそれらの隠蔽にすぎないとした方がよほどそれ自体としては整合 的となる。しかし,そのときにはそれまでの『資本論』の展開をうけた物象 化構造の分析と階級闘争あるいは「否定の否定」とは全く不整合なままの二 本立ての叙述に終るであろう。そのように執筆を中断せざるを得なかったこ とから判断して資本制的生産における物象的依存諸関係は,社会的分業の発 展の中での単なる「資本制的な外皮」としてとらえることとなってはならな いことが,マルクスにとって見えていたのではないかと考えられる。
しかしマルクスはその二つの論理の聞の間隙を明らかにする方向よりは,
『資本論』第 1部における「否定の否定」の叙述に見ることのできるように,
両者の間隙が小さく見える地点で物象的依存諸関係は資本制的生産のあとに 来る社会では完全に廃絶させうるとしてその間隙を跳び越えたのである。)そ れは理論家マルクスに対する革命家マルクスの優越ともいえるが,二つの視 点の聞の間隙を埋めていない点では理論家マルクスは正道にあったといえ る 。
ここで,より高次の人格的依存諸関係に基く社会吟発達した物象的依存諸 関係としての社会,という未来像から現在への照射は可能であり,それは資 本制的生産の理論的分析を領導できるが,逆にマルクスが前提としたように,
資本制的生産の理論的分析が,より高次の人格的依存諸関係の社会の存在の
必然性を論証することになるという,可逆的な関係にはなっていなかったの
である。初めから,可逆的な関係を前提とするときには,物象的依存諸関係
は社会的分業の中での諸個人の存在様式それ自体に基礎をおくことが看過さ
れて,結果としてそれは単に「資本制的な外皮」としてのみとらえられるこ
とになるのである。もし,可逆的な方向を考えるならば,この高次の人格的
依存諸関係の存在可能性を考えるためには,物象的依存諸関係としての資本
制的生産の理論的分析を基礎として,その次に単なる転倒としてではなく,
それに基いての人格的依存諸関係の存在可能性の根拠の検討がなされるべき だったといえる。
このようにマルクスは『資本論』第
1部の最終部分では資本関係の再生産 の論証がその結論であったことから, I 否定の否定」との連続性はあるもの として処理できたのに対して,第 3部の最終篇では物象化した生産諸関係の 再生産機構の総括が叙述の目的であることから,そこでは資本制的生産の
「最後の鐘」を鳴らすことができなかったのである。しかし,第 1部の叙述 を見るとき,そこでも第 2 4 章の「否定の否定」の叙述とそれまでの物象化し た生産(諸)関係としての資本関係の再生産機構の叙述との聞には,物象化 論の意義を考えるときには,間隙が存在しているのである。第 1部では,資 本関係の再生産についての理論を展開したあとに「否定の否定」をとくこと によって,物象化した生産(諸)関係の再生産機構が社会的分業の展開に即 して分析された成果が,所有の問題にのみ還元されてしまい,どのようにし て資本制的生産における社会的分業の中での諸個人の社会的諸関係の物象化 が変貌していきうるのかを連続する過程として分析する途が閉ざされること となっている。あるいは,初めから人格的依存諸関係の社会の存在が可逆的 に論証されたものとして扱われているために,可逆性自体を検証する途が封 じられることとなっている。しかし,この可逆性自体を仮定することこそが 問題だったのである。この可逆性を初めから前提とすることから,物象化し た生産諸関係の分析は「否定の否定」を強調するときにはその中に吸収され ることとなり,結果としてマルクスにおけるその不整合な二様の視点は,不 整合なまま一方的に「否定の否定」の中へ一本化されたようにうけとられる
こととなっている。
このような二つの視角の一本化によって,マルクス独自の生産諸関係概念
が,エンゲルスあるいはその後継者によって,単に資本制的生産の「資本制
的な外皮」としてのみとらえられ,また,それが「否定の否定」の対象とな
ることで,階級関係,あるいは資本・賃労働関係そのものに還元される途を
用意したものとなっていたといえる。)すなわち逆に「否定の否定」の方から
物象化した生産諸関係に接近していくときには,物象化の視角が失われ, [ " " 生 産手段の集中」と「労働の社会化」に対応して生産諸関係がとらえられるこ ととなり,結局はエンゲルスあるいはその後継者による生産諸関係の理解が 生み出されることとなるのである。それを避ける方向は, [""資本制的な外皮」
として物象化した生産諸関係がとらえられるのではない方向,すなわち, [ " " 自 由な諸個人の連合」としての社会も物象的依存諸関係と両立しうる可能性も 探るということであった。)すなわち,それは可逆性それ自体に検討の余地が あることを明らかにしておくことであった。
しかし,マルクスにおいても「生産手段の共同占有」と「協業と土地の共 同占有」にもとづく個人的所有の再建が行われる「自由な諸個人の連合」と しての未来社会の存在が,はじめから可逆的に論証されうるものとしたこと から,結果として社会的分業の中での物象的依存な諸関係の存在根拠は,個 人的所有の再建の過程そのものに吸収されて「資本制的な外皮」としてとら
えられる余地を残すことになったのである。
〔註〕
4 )ここで『資本論』第 l 部における資本制的生産から「自由な諸個人の連合 J として の社会への転化の論理を見ておく。マルクスは「第 2 4 章 いわゆる本源的蓄積」の末 尾近くで次のように述べている。
「この集中,すなわち少数の資本家による多数の資本家の収奪と手を携えて,ます ます大きくなる規模での労働過程の協業的形態,科学の意識的な技術的応用,土地の 計画的利用,共同的でしか使えない労働手段への労働手段の転化,結合的で社会的な 労働での生産手段としての使用によるすべての生産手段の節約,世界市場の網の目の なかへの世界各国民の組入れが発展し,したがってまた資本制体制の国際的性格が発 展する。……生産手段の集中も労働の社会化も,それが資本制的な外皮とは調和でき なくなる一点に到達する。そこで外皮は爆破される。資本制的私的所有の最期を告げ る鐘が鳴る。収奪者が収奪される。
/……しかし資本制的生産は,一つの自然過程の必然性をもって,それ自身の否定
を生み出す。それは否定の否定である。この否定は私的所有を再建しはしないが,資
本制時代の成果を基礎とする個人的所有を再建する。すなわち,協業と土地の共同占 有と労働そのものによって生産される生産手段の共同占有とを基礎とする個人的所有 を再建するのである。 J( K
I.S .
790~79 1)。ここでは「生産手段の集中」と「労働の社会化」が「一つの自然、過程の必然性」と して「自由な諸個人の連合」としての社会をうみ出すことが言われている。ここでは,
物象化した生産諸関係として現れている資本関係の分析の成果が「否定の否定」の叙 述に吸収されてしまい,単に所有論の問題としてのみとりあげられることとなってい る。この所有論の中に物象化した生産諸関係の分析が吸収されれば,生産諸関係概念 はもっぱら生産手段をめぐる諸個人の諸関係としてのみとらえられることになる。そ こから階級関係として生産諸関係はとらえられることになる。個人的所有にしても,
それが再建されるとすれば資本制的な物象化した生産諸関係の分析から出発してどの ような生産諸関係あるいは分配諸関係の中で再建されるのかが問われることなく, r 否 定の否定」で全て解決されるという形で「弁証法的」にのみ説明されている。すなわ ち,物象化の視点の成果は単に否定の対象としてのみとらえられることになる。
また, w 資本論』で論証された投下労働価値説の世界が,次に「自由な諸個人の連合」
としての社会では,どのように投下労働量そのものにもとづく生産あるいは交換の世 界に変化しうるのかという過程の研究については,未来社会についての一つの予想が はじめから論証されたものとして示されることで,連続的な変化の過程の分析がその 予想を必ずしも支持しないかもしれないことの重要性は見過されることとなっている。
マルクスはこの「否定の否定
jの過程は比較的短期間で行われると考えていたよう である。「諸個人の自己労働にもとづく分散的な私的所有から資本制的私的所有への転 化は,もちろん,事実上すでに社会的生産経営に基いている資本制的所有から社会的 所有への転化に比べれば,比べものにならないほど長くて困難な過程である J (K
I.S . 7 9 1 ) 。
なお,
1865年以降の時点で第
1部から,最終篇(章)としての生産諸関係の再生産 を扱う「直接的生産過程の諸結果」がとり去られたことは,余計に第 1 部での「否定 の否定」の叙述をより際立たせることになったと考えられる。
5 )ジェルジ・ルカーチは,資本制的生産における合理的な計算可能性の発達によって,
個人あるいは労働者は「抽象的な呈に完全に還元された番号または機械化され合理化
された一つの部分的道具として」生産過程に組み込まれるのであるが,そのように抽 象化され部分化された労働者こそが,逆にまた総体性の回復をめざす主体として現れ るとしている
(GeorgLukacs, G e s c h i c h t e u n d K l a s s e n b e w u s t s e i n , [ 1
923J,
Luchterhand Literaturverlag : Darmstadt,
1970,
S. 29 1,城塚登・古田光訳『歴史と階級意識~c r ル
カーチ著作集~ 9 J
,白水社,
1968年 ,
299ページ)。
あるいはまた次のように述べている。「だが,ブルジョアジーにとってこの変化が階 級的に意味することは,新たに登りついた質的段階を,より広い合理的な計算可能性 という量化された水準へとたえず再転化することなのである。それとは反対に,この
「同じ」発展がプロレタリアートに対してもつ階級的意味は,個別化の止揚を完成し,
労働の社会的性格を意識し,社会的原理の現象形態のもつ抽象的一般性をますます具 体化し克服する傾向を示すことにあるのである
J(a. a.0 . ,
S. 299,邦訳,
307ページ)。
「このように,資本制のなかに生活するすべての人間にとっては物象化
(Verding‑ lichung)こそ必然的な直接的現実であるとすれば,この物象化を克服することは,具体 的に生じてくる発展全体の矛盾に具体的に関わり,この発展全体に対する矛盾の内在 的意味を意識化することによって,物象化された定在の構造を実践的に打破しようと する傾向を,たえずくり返し新たに再生産すること以外の形態ではありえないのであ る
J(a. a.0 . ,
S. 339'"'‑'340,邦訳,
349ページ。なお,周知のように,ルカーチが使っ ている
Verdinglichungは,マルクスにおける
Versachlichungにあたる。)。
ここでも資本制的生産から未来に投影された,諸個人の総体性が回復された社会の 存在との対比によって資本制的生産の特質が明らかにされている。そこでは,革命に よって形成される社会とともに革命運動においても諸個人あるいは労働者の総体性の 回復が行われることが言われている。
しかし,革命あるいは革命運動の存在が,物象化の廃絶された社会の存在および実 現可能性を保証しているわけではない。そこでは,どのようにして,物象化あるいは
「合理的な計算可能性」が廃絶されうるのか,あるいは変容しうるのかが,客観的な 諸条件に即して理論的に明らかにされることが必要であろう。
なお,マックス・ホルクハイマーによるルカーチの歴史の主体そしてまた客体とし
てのプロレタリアートの位置づけに対する批判については,マーティン・ジェイ(荒
川幾男訳) r 弁証法的想像力一フランクフルト学派と社会研究所の歴史ー』みすず
書房, 1 9 7 5 年 , 6 4 ‑ ‑ ‑ 6 5 ページ,を参照されたい。
なお,
w レーニン論~ (19 2 4 年)では,この物象化の視点が消失している(渡辺寛訳
『レーニン論』青木書庖〔文庫 J , 1 9 6 5 年 , 9 ページ,を参照)。その原因の一つはコ ミンテルンに対する
Jレカーチの配慮の可能性もありえよう。この時期のルカーチとコ ミンテルンとの聞の関係については, Ar p a d K a d a r k a y , G e o r g L u k a c s . L
約T h o u g h t , a n d P o l i t i c s , B a s i 1
Bla c k w e l l : O x f o r d , 1 9 9
1.p p . 2 6 8 ‑ ‑ ‑ 2 9 5 ,を参照されたい。
6)
ちなみに,過度に単純明快なスターリンは次のように述べている。「あきらかに生産 過程は社会的・集団主義的性格をおびてきた。領有の私的性格は生産の社会的性格に 照応しないのであるから,また現代の集団主義的労働は不可避的に集団的所有にみち びくのであるから,社会主義制度が,夜のあとに昼がつづくのと同じく不可避的に,
資本主義のあとにつづいてくるであろうことは自明のことである。/歴史は,マルク スのプロレタリア社会主義の不可避性をこのように証明している J (イ・ヴェ・スター リン「無政府主義か社会主義か? J
(19 0 6 ‑ ‑ ‑ 1 9 0 7 年 J ,[石堂清倫訳 JW 弁証法的唯物論 と史的唯物論』大月書庖〔国民文庫 J , 1 9 5 4 年,所収, 5 9 ページ)。ここでは,可逆性 の存在に対する視点もなく,単に発展段階があり社会主義は必然だという信念が表明 されている。このような単純な見方は,スターリンの場合,終生変っていない。
7)高須賀義博「経済的「三位一体範式」の解剖 J
(W経済研究~[一橋大 J 3 8 巻 1 号 , 1 9 8 7 年 1月)では資本制的生産における「人格的依存諸関係」の内容を「価値,搾取関係,
理念世界」としている(同誌, 7 3 ページ)。高須賀は「彼〔マルクス一一引用者〕に とっては,
I物象的依存関係」の背後に「人格的依存関係 J ,つまり,搾取関係がある ことを論証することが重要であるために価値概念が必要である。すなわち,価値概念 は,この「物象的依存関係」を「人格的依存関係」に転換する理論的媒介項なのであ る 。
J(向上)と述べている。このように,資本制的生産における人格的依存諸関係の 想定は搾取の論証のために必要であったと述べられている。
そこでは価値次元の世界としての資本制的生産において人格的依存諸関係の想定を
することは,資本制的生産を越えて広がりうる物象的依存諸関係とどのようにかかわ
りうるかという方向では考えられていない。むしろ, J ・ガベ
lレの『虚偽意識』を利用
しながら,資本制的生産における「三位一体範式」的思考のもつ「病的合理主義」批
判へと叙述は進められている ( I W 資本論』における時間と空間」同誌, 4 1 巻 4 号 , 1 9 9 0 年 1 0
月 ,
315"'316ページ,を参照)。
8
)エンゲルスはマルクスとともに『ドイツ・イデオロギー』では物象化視点を前面に おし出していたにもかかわらず,それ以降,物象化した生産諸関係の総体として資本 制的生産をとらえる視点をほぼ消失させてしまっている。それは,マルクスにとって は二様の視角として不整合のまま『資本論』に見ることができた視角が,エンゲルス の場合初めから資本制的生産の変革に重点を置いたことから,資本制的生産の変革の 論理の中に,物象的依存諸関係が世界史上にもつ独自の意味が吸収されてしまったた めだと考えられる。エンゲルスにとってはマルクスに見た二つの視点のうち, r 否定の 否定」が一方的に強調されることによって,初めから「生産手段の集中」と「労働の 社会化」に基く資本関係の廃絶によって,同時に物象的依存諸関係そのものも廃絶さ れると考えていたことから,物象的依存諸関係が社会的分業の構造と相即して現れて いることを重視するよりは,結局はそれを単に「資本制的な外皮」そのものととらえ ることとなり『資本論』におけるような二様の視点は消失することとなった。
エンゲルスは『経済学批判』への「書評」で次のように述べている。「経済学は諸物
(Din g e ) を取り扱うのではなく,諸人格 ( P e r s o n e n ) と諸人格との諸関係,究極におい ては諸階級と諸階級との諸関係を取り扱うのである。しかしこれらの諸関係は,つね に諸物に結びつけられており,諸物として現れる J
(MEGA, l I ‑
2,
S. 253)。ここでは
「諸階級と諸階級との諸関係」が「諸物の諸関係」として現れることが述べられてい る。この両者の聞の関連を考えることが,社会的分業の中での物象的依存諸関係の存 立の根拠を問うこととなる。
なお,森田桐郎はこの文章が生産諸関係を階級関係に偏って解釈しており,このエ ンゲルスの生産諸関係の理解がスターリンの階級関係としての生産諸関係理解の淵源 となったと述べているが,この文章を見る限りでは少々強引だといえる。(森田桐郎・
望月清司『社会認識と歴史理論』日本評論社,
1974年 ,
99"'100ページ)。
エンゲルスは『空想から科学へ~
( 1
880年)で次のように述べている。「そして,こ
れまでのすべての歴史が,原始状態を例外として,階級闘争の歴史であったこと,社
会のなかのごれらの相互に闘争する諸階級はつねに,その時代の生産諸関係および交
通諸関係の,一言でいえば経済的諸関係の産物であること
J(F r i e d r i c h E n g e l s ,
Die Entwicklung des Sozialismus von der UtoPie zur Wissenschaft,
Die t z V e r l a g : B e r l i n ,
1 9 6 6 , S .
76~77,水田洋訳『空想から科学へ一一社会主義の発展一一』講談社〔文庫J ,1 9 7 4 年 , 8 7 ページ。)また,生産諸力と生産諸関係について次のように述べている。「ブ ルジョアジーの指導のもとにっくり出された生産諸関係は,蒸気とあたらしい工作機 械がふるい工場制手工業を大工業に転換して以来,前代未聞の速度と前代未聞の程度 で発展した。……あたらしい生産諸力は,その利用の市民的形態を,すでにのりこえ るまでに成長した。そして,生産諸力と生産諸関係〔←一生産様式 ( W 反デューリング
論~)J とのこの衝突…… J ( a . a . 0 . , S . 8 0 ,邦訳, 9 1 ページ)。
そして,彼は 1 9 世紀の周期的恐慌を生産諸力の発展と生産様式あるいは生産諸関係 の衝突としてとらえる。「恐慌においては,社会的生産と資本制的領有とのあいだの矛 盾が暴力的に爆発する。……生産様式は交換様式に反逆し,生産諸力は,生産様式を こえて成長してしまい,この生産様式に反逆する
J( F . E n g e l s ,
Herm Eugen Duhrings Umwalzung der Wissenschajt, D i e t z Ve
r1a g , 1 9 6 9 , S . 2 5 8 ' " " ' 2 5 9 ,村田陽一訳『反デュー リング論』大月書庖〔国民文庫 J , 1 9 6 0 年 ,
479~480ページ)。ここでは生産様式は生産諸関係を含みうる。エンゲルスのように,恐慌を生産諸力の発展と生産諸関係の衝 突ととらえるとき,それは宇野弘蔵の恐慌の規定と同じになる。宇野の生産力と生産 関係の定義はエンゲルスと同じであって,マルクスのそれとは異っている
(W恐慌論』
[ W 宇野弘蔵著作集』第 5
巻J ,岩波書庖, 1 9 7 4 年 , 1 7 6 ページ,を参照)。
このような恐慌にみられるように, r 資本制的な生産および交換の諸形態は生産その ものにとってますますたえられない姪措になってゆくということ,これらの諸形態が 必然的にもたらす分配様式は,日ましにたえられなくなる階級聞の情勢をうみ出した ということ J ( a . a . 0 . , S . 1 3 9 ,邦訳, 3 0 2 ページ)である。ここで「生産手段の膨脹力 は,資本制的生産様式がそれにはめたかせを爆破する J ( a . a . 0 . , S . 2 6 3 ,邦訳, 4 8 8 ペー ジ)。そして, r 社会が生産手段を掌握するとともに,商品生産はとりのぞかれ,生産 者にたいする生産物の支配がとりのぞかれる。社会的生産の内部の無政府状態にかわ って,計画的,意識的な組織があらわれる J ( a . a . 0 . , S . 2 6 4 ,邦訳, 4 9 0 ページ)。
このように,エンゲルスにとっても,大工業に対する労働者階級の支配の確立は,
諸個人自身が彼らの社会的諸関係を統制することを可能とし,同時にそれが物象化し た諸関係の廃絶をもたらすことが自明のこととされていた。
エンゲルスにとっては最初から「否定の否定」の経過の叙述が主要な関心事である
ことから,社会的分業が物象化した生産諸関係として現れる構造自体が生産手段をめ ぐる支配・被支配に還元され,そのように生産諸関係は生産手段に対する支配・被支 配に還元される中で論理的に結局は階級関係と同一になっている。すなわち,むしろ 単純化された物化そのものに生産諸関係が縮減されていることから,そのような物化 は生産手段に対する労働者の支配の確立によって廃絶させられることが可能となって いる。この生産諸関係が生産手段に対する支配・被支配の関係あるいは物化に帰着さ せてしまうのは,マルクスに起源をもっとはいえ,エンゲルス独自の方法である。
あるいはまた,エンゲ
lレスは次のように述べている。「だが,すでにいくども見たよ うに,今日の市民社会では,人間は,あたかも一つの外的な権力 ( M a c h t J によるかの ように,彼ら自身がっくり出した経済的諸関係によって,彼ら自身が生産手段によっ て,支配されている J ( a . a . 0 . . S . 2 9 5 . 邦訳. 5 3 7 ページ)。しかし,社会が生産手段 に対する支配と計画的な統制を行うようになったとき. r これまで歴史を支配してきた 客観的で外的な諸権力 ( M a c h t e J は,人間自身の統制に服する J( a . a . 0 . . S . 2 6 4 . 邦 訳. 4 9 0 ページ)。
このように,生産諸関係の物象化構造が,生産手段に支する支配・被支配に縮減さ れるとき,資本制社会において諸個人が自由かつ平等な主体として現れている諸条件 は単なる「資本制的な外皮」としてのみとらえられることとなる。また,その時には
『資本論』はある意味で「資本制的な外皮」の研究に過ぎないこととなる。しかし,
人間の自然に対する働きかけが物象的依存諸関係として現れる過程は,それを単なる
「資本制的な外皮」とすることのできない根本的な人間の存在様式に根ざしていると 考えられる。
エンゲルスはマルクスのニつの視点を最初から一本化することで,物象化した生産 諸関係を物化そして生産手段に即した物神崇拝に帰着させてしまい,同時に生産諸関 係を生産手段をめぐる諸個人の諸関係としてとらえられた階級関係に,結果的に帰着 させることとなった。マルクスの場合の二様の視点の聞の間隙がエンゲルスによって
「否定の否定」の方から生産諸関係に接近することで埋められ,同時に結局は物象化 した生産諸関係をみる視点が蒸発してしまうこととなった。
なお,スターリンもエンゲルスと同様,初めから生産諸関係を階級関係と規定して
いるわけではない。彼がエンゲルスの定式化をより明瞭にした分,その論理的帰結が
明白になっているのである。すなわち,生産手段の所有・非所有に即して生産諸関係 を規定することによって,生産諸関係が階級関係に還元されてしまっているのである。
「生産のもう一つの側面,生産様式のもう一つの側面をなすものは,生産過程にお ける人間相互の関係,すなわち人間の生産〔諸〕関係である J (イ・ヴヱ・スターリン
『弁証法的唯物論と史的唯物論~,
1 2 2 ページ)。ここでは物象化視点は初めから完全に 消失したままである。
そして,スターリンは恐慌についてエンゲルスを踏襲しながら次のように述べてい る。「このことは,資本制的生産〔諸〕関係が,社会の生産〔諸〕力の状態に照応しな くなり,それと和解しがたい矛盾におちいったことを意味する。/このことは,資本 制が,生産手段にたいする現在の資本制的所有を社会主義的所有によってとりかえる ことを使命とする,革命をはらんでいることを意味する J (向上, 1 3 2 ページ)。ここで は生産手段に対する所有に即して生産諸関係がとらえられることで,物象化の視点は 消失し,階級関係とほぼ等しくなっている。
あるいは,次のようにも述べている。「生産諸関係は生産諸力の性格にかならず照応 するという経済法則は,資本制諸国ではもうずっと以前から前面に押し出ょうとして いる J ( 1 1 . B . C T a A H , 1 3 K o M H 4 e c K H e n p 0 6 J I e M b l C O U H a J I H 3 M a
BCCCP , 1 9 5 2 , C o
可H H e H H H , T O M 3 , The H o o v e r I n s t i t u t i o n , S t a n f o n d U n i v e r s i t y : C a l i f o r n i a , 1 9 6 7 , c r p . 1 9 5 ,民 主主義科学者協会訳・編『ソ同盟における社会主義の理論的諸問題』青木書庖〔文庫],
1 9 5 3 年 , 2 0 ページ)
0I ソウ.ェト権力は,生産諸関係は生産諸力の性格にかならず照応 するという経済法則にもとづいて,生産手段を社会化し,これを全人民の所有にする
ことによって搾取制度を廃絶し,社会主義的経済諸形態を創出した J( T a M
)f{e , C
叩. 1 9 4 , 邦訳, 2 0 ページ)。
このような単純かつ平板そのものの社会的労働の生産諸力と,生産諸関係について の理解はマルクスのそれとは当然一致していない。また,プハーリンもその生産諸力 および生産諸関係の理解についてはスターリンのそれと大きな差はない(佐野勝隆・
石川晃弘訳『史的唯物論~
0921 年],青木書庖, 1 9 7 4 年 , 3 2 2 ‑ ‑ ‑ ‑ 3 5 2 ページ,を参照)。
しかし,このような誤解は,マルクスある
L、はとくにエンゲルスにおいて, r 否定の否 定」の展開の中で物象化した生産諸関係の総体として資本制経済における社会的分業 をとらえる見方が副次化され吸収されていったことの一つの帰結であった。
なお,ルカーチによる,物象化視点を消失してしまっているプハーリンに対する批
判も参照されたい ( 1 プハーリン『史的唯物論の理論 . u [ 1
925年],池田浩士編訳『論 争・歴史と階級意識』河出書房新社,
1977年,所収,
387ページ)。この書評は,
1925年に公表されているが,
1923~24年の執筆の可能性が高いようである(同書, 465ペー ジ参照)。
なお,マクレランはエンゲルスについて次のように述べている。「もちろんマルクス は彼自身,自分の著者を科学的と呼んだが(ヘーゲルが自分の著作をそう呼んだよう に),その著作の中では,その用語は自然科学的な原理体系の意味をそれほどにはもた されていない。エンゲルスとその後継者が「科学的社会主義 J の概念を狭め,次々に 骨抜きにしていったのである
J(David McLeUan,
Friedrich Engels,
Penguin Books,
1977,
p. 103)。しかし,それを狭め骨故きにしていく契機はマルクスにもあったので ある。
9 )ここで,単数の生産関係と複数の生産諸関係の区別についてふれておく。西欧ある いはロシアのマルクスの思想を継承する著作家は,
W経済学批判』の「序言」から出発 していることから,生産諸関係という複数の用語法のみで終始している。そこでは単 数と複数の区別が物象化した社会的分業の構造とかかわっていることへの認識は全く 見られない。最近,エルネスト・マンデルが単数と複数の区別を行っているが,
1経済 学批判」体系とのかかわりまでは考えられていない
(ErnestMandel,
How to Make No Sence 01 Marx",
in Robert Ware and Kai Nielsen ed.,
Analyzing Marxism,
Canadian Journal of Philosophy,
Supplementary Volume 15,
1989,
The University of Calgary Press : Alberta, pp. 109~ 111 ) 。
逆に,日本ではこれ迄数多くのマルクスの思想の研究者は同じく単数と複数の区別 をしないまま,単数の生産関係を一般的に用いてきた。たとえば,宇野弘蔵や置塩信
雄 (W再生産の理論』創文社,
1957年,第
2篇第
2章)も同様である。そして,翻訳者 もまた,たとえば,マルクスの著作の翻訳に際しても,複数を単数に訳すばかりでは なく(たとえば『共産党宣言・共産主義の原理』大月書庖〔国民文庫],
1952年 ,
56ペー ジ),レーニンの著作 ( W I 人民の友」とはなにか』大月書庖〔国民文庫],
1956年 ,
116~119ページ)の翻訳でも,原文は複数であるにもかかわらず単数として訳している (8.
11. Jle
H f 1 H ,
TOM 1,
CTp. 220 ‑222, を参照)。
いずれにしても,ヨーロッパでも日本でも方向は逆であっても,単数および複数の
生産(諸)関係の区別のもつ重要性を看過している点では同じであった。
ただ,近年,平田清明,望月清司,森田桐郎によっても単数と複数の区別の重要性 が強調されている。ただ,その場合でもマルクスの理論体系との関連づけは不十分で ある。また,物象化視点、を強調する贋松渉も単数と複数の区別を行っているが,その 内容は与えられていない(たとえば『唯物史観の原像ーーその発想と射程一一』三一 書房〔新書], 1 9 7 1 年 , 9 6 ページ)占またその他に,その区別を行う数少い例外として,
古くは河上肇がいるが,物象化視点はない。ただその生産諸関係の理解はエンゲルス
よりはマルクスのそれに近い (Wマルクス主義経済学の基礎理論~,1 9 2 9 年 , [ W 河上肇 全集』第 1 7 巻,岩波書庖, 1 9 8 2 年,所収],
313~341 ページ,を参照)。なお,平田,望月あるいは森田にしても,マルクスが想定した,全ての個人の投下 労働量と社会的総労働量とが完全に計算される,すなわち個人と社会との関連あるい は,諸個人の社会的諸関係が透明なものとして現れる「自由な諸個人の連合」として の未来社会の現実的な存在可能性をそのまま無批判的に受容したために,物象的依存 諸関係としての資本制的社会の理論的分析の成果は所有論,とくに個人的所有の再建 の検討の中に結果として吸収されてしまうことになっている(たとえば,平田清明『新 しい歴史形成への模索』新地書房, 1 9 8 4 年 , IV ,を参照)。その結果として,彼らにお いても物象的依存諸関係はマルクスと同様に,結果として「資本制的な外皮」のまま に止まることになっている。
2 . 宇野弘蔵の原理論について
宇 野 弘 蔵 の 場 合 も , マ ル ク ス と 同 じ で は な い が , 原 理 論 と そ の 対 極 に , 原 理 論 の 前 提 す る 自 由 競 争 資 本 制 の 諸 前 提 が 消 失 し , そ れ と 同 時 に 商 品 経 済 が 廃 絶 さ れ た 未 来 社 会 が 考 え ら れ て い る と い う , 二 つ の 視 点 が や は り あ り , 原 理論の世界からその対極の世界への転化は必然、的なものと考えられている。
宇 野 が 示 し た , 原 理 論 , 段 階 論 , 現 状 分 析 と い う 三 段 階 の 資 本 制 経 済 の 研
究方法のうち, 1 9 世 紀 の 自 由 競 争 資 本 制 段 階 の イ ギ リ ス 資 本 制 に お け る 純 粋
化 傾 向 を と ら え て 理 論 化 し た も の が 原 理 論 で あ る 。 す な わ ち , 投 下 労 働 価 値
説 の 論 証 が 行 わ れ て い る 原 理 論 と 現 実 に 対 応 し て い る の は 1 9 世 紀 の イ ギ リ ス
資本制である。
この原理論について宇野は次のように述べている。「それは積極的に,他 の社会形態への転化を説きうるものではない。あたかも永久に繰り返す運動 法則であるかの如くに, しかしそれと同時に,もはや新しく体系化を必要と するような発展を賓らすものとしてではなく,完全に体系化されるものとし て説かれる点に始めがあり,終りのある歴史的過程の科学的な原理的把握と しての特殊の意義がある。それは資本主義が一定の発達段階では,すでにし ばしば繰り返し述べてきたように,原理的体系を実際に実現する方向に進み つつあったということ,そしごてそれがまたそうはならずに逆転したというこ とと対応したものといってよい。資本主義のそういう歴史的事実は明らかに,
一方で原理的体系を完成せしめる根拠を与えると同先に,他方でその歴史的 限界を示すものにほかならない。このことがまた三段階の方法を採らざるを 得ない所以である J (W演習経済原論~ C W 宇野弘蔵著作集』第 2 巻,岩波書 庖 , 1 9 7 3 年,所収 J , 4 6 2 ページ)。
この「永久に繰り返す運動法則」であるかのように体系化された原理論の 完成は,宇野にとっては社会主義の存在の必然性の論証をすることでもあっ た。「もちろん唯物史観となればマルクスの歴史的知識を基礎として社会主 義的立場がその基準となっている歴史観である。それはまだ科学的なものと はいえない。いわばイデオロギー的仮説といってもよい。だからこそマルク スは幾年間も経済学の研究をつづけ, W 資本論』によって経済学の原理論を 展開してこの仮説を科学的に論証しようとしたのである。そこにマルクスの 偉大さがある。・….. w 資本論』の理論を段階論と区別した原理論として確立 してこそマルクスの意図した唯物史観の科学的論証も,したがってまた科学 的社会主義としてのマルクス主義もその科学的基礎を一般的に与えられるも
のと考えるのである」)(『経済政策論~ C W 著作集』第 7 巻 , 1 9 7 4 年 J , 4 6 ペー
ジ)。このようにマルクスのように直接に「否定の否定」を導入するのとは
違って,宇野の場合は,原理論の体系化が行われることは,資本制経済の発
展をみるとき,同時にその歴史的限界を示すものとしても現れ,社会主義へ
の転化の論証を基礎づける, としている己「資本主義社会の運動法則を明ら
かにすることによって,その成立の特殊の根拠を他の社会と区別して歴史的
に明らかにしそれによって社会主義的主張を根拠づけることになるのであ って,いわゆる科学的社会主義を成立せしめるわけである J ( W 経済学方法論』
( W 著作集』第 9 巻 , 1 9 7 4 年 ] , 5 6 ページ)。
しかし原理論の成立が資本制的生産が「発生・発展・没落」の過程を辿 っていることを示す論拠となるというのは,自由競争資本制下での景気循環 機構に対応して労働力の商品化が再生産されていることに対応して,原理論 が,資本制的生産としての物象的依存諸関係の再生産機構を自律的運動とし て体系化しており,それはまた物象的依存諸関係そのものを純粋に抽出して 示しているものととらえられることで,原理論の前提する世界から資本制的 生産が歴史とともに離れていくことは,そのまま資本制的な物象的依存諸関 係からも離れていくことであり,そのことは同時に全ての諸個人の社会的諸 関係が透明なものとして現れる「社会主義社会」へ転化する諸条件が次第に 整ってきていることであるという理解によるものといえる。この,物象的依 存諸関係の社会や今原理論,という前提が,他方で資本制的生産の「発生・
発展・消滅」を区分する基準としても現れるのである。
すなわち, i 経済学の原理は,唯物史観にいう歴史的諸社会はもちろんの こと,資本主義自身の発生・発展・消滅の歴史的過程をも,いわばその背後 に留保しつつ,資本主義社会の「経済的運動法則」を明らかにするのである
0・…・資本主義が一定の時期に旧社会から発生し,他の時期に他の社会に転化 するという歴史的過程は,従来の諸社会が資本主義社会に発展して終に社会 主義社会を実現するという歴史的過程とともに,完結した体系的社会として の純粋の資本主義の原理的把握の内に,いわば凝縮されるのである J (向上,
1 4 0 " ‑ ' 1 4 1 ページ)。
物象的依存諸関係の自律的な再生産の体系としての原理論については次の
ように述べている。「資本はそれ自身に利子を生み,土地は地代を生み,労
働は賃銀を生むという形で,資本主義は,その社会的関係を物化する。 J i 資
本の商品化は,その内に土地の商品化を完成するものとして,労働力の商品
化を基礎とする資本主義的商品経済を完成するものに外ならない。それはま
た同時に資本主義自身の物神崇拝的性格を完成するのである J ( W 経済原論』
C Ii著作集』第 l 巻 , 1 9 7 3 年 ) , 5 1 5 ページ)。
「生産物の商品形態をもって始めたわれわれの経済原論が,資本自身の商 品化をもって終るのは,資本主義がー歴史社会として存立する物質的基礎を 商品経済の法則によって完全に支配されていることを明らかにするものに外 ならない J (向上, 5 2 2 ページ) 0 r ¥ 、い換えれば資本主義は,商品経済に特有 な盲目的な価格の運動に自らをまかせることによって,人間の社会的関係を も物の社会的関係として処理するのである。それは全く近代的社会における 物神崇拝の最後の残存物といえるのである J (向上, 5 1 7 ページ)。
これに対して,宇野は社会主義について次のように述べている。「これに 反して自らの社会的関係に対する支配は,商品経済の除去とともに完成せら れることを主張するのが社会主義であり,経済学はその可能性を明らかにし ているのである。……〔その除去とは‑引用者〕経済学の対象となる,商 品形態をもってする経済の仕方の除去を意味するものである J (Ii著作集』第 9 巻 , 1 1 6 ページ) 0 r c 社会主義はー引用者〕そういう法則性の根元をなす 商品形態を廃棄して,経済原則そのものを自主的に実行 L ょうというもので あって,社会主義にとっては, C 原理論の意義はー引用者〕かかる廃棄が いかなる線を基軸として行なわなければならぬかを示されるという点に帰着 する。そういう変革自身も, したがって商品経済の法則そのものによって展 開されるわけではない J (Ii著作集』第 1 0 巻 , 3 5 6 ページ)。ここで経済原則と は「人間の物質的生活資料の生産・再生産の過程としての経済生活一般 J ( I i 著 作集』第 9 巻 8 ページ)を規制するものをいう。
宇野の場合もこのような計画経済に代表される「社会主義社会」は,諸個 人の聞の裸のままの透明な社会的諸関係としての社会,すなわち人格的依存 諸関係の社会としてとらえられている。この計画経済をもっ「社会主義社会」
は,物象的依存諸関係の自律的な再生産機構としての原理論体系における自
由競争資本制に関する諸前提と対立するものであっても,物象的依存諸関係
と両立しうると仮定できたときには,宇野のように物象的依存諸関係の社会
の理解を原理論に限定することは不可能となる。このように,原理論に示さ
れている労働力商品の再生産機構のみが物象的依存諸関係を純粋かつ完全な
姿で表現していると考えられていて,原理論に示される諸前提が変化した「社 会主義社会」で行われている労働力の再生産機構は,本来の物象化機構とし て示される原理論の諸前提とは対極にあるものと考えられている。
宇野の場合,商品経済の自律的な永久運動の体系として示される原理論の 諸前提がとり去られることは,そのまま物象的依存諸関係が廃絶されていく
ことにつながると考えられている。しかしそれは,物象的依存諸関係の社 会宇功原理論体系,という仮定をおいたために,そう言わざるを得なくなっ ているのであって, 1 9 世紀末からの帝国主義段階の物象的依存諸関係の社会 は本来の物象的依存諸関係の姿より逸脱したものであり,むしろ人格的依存 諸関係の社会に一歩近付きつつあるものだとするならば,それは,マルクス と同様の未来社会に対する予断をもつことで可能となっているのであり,そ の予断が原理論体系の中に物象的依存諸関係の社会全てをおしこむことにな っているのである。宇野の場合には, r 否定の否定」ではないものの,原理 論体系が前提とする自由競争機構の存在条件が完全に否定された社会として
「社会主義社会」があり,原理論の想定する自由競争資本制の前提が否定さ れることは同時に透明な社会的諸関係の社会の実現でもあるのである。
しかしそのような原理論に物象的依存諸関係の全てを代表させることを 止めるとき, 1 9 世紀の資本制経済像に対応した労働力商品の再生産機構とは 異った, 2 0 世紀の労働力商品の再生産機構も存在しているのであり,他方で また労働力の再生産機構の物象化はたとえば計画経済とも両立しうるものと しても考えられることにもなる。すなわち,宇野説の場合もまた物象的依存 諸関係は「社会主義社会」から逆に照射するとき,それは「社会主義社会」
では全く存在しえないものとして,単なる「資本制的な外皮」に帰着してし
まっている。しかし労働力商品の再生産機構を自由競争資本制に限定して
考えるのでなく,また原理論体系が物象的依存諸関係の社会を全ておおうと
いう前提から歩み出て,あらためて「経済原則」の中での諸個人の存在様式
から出発して物象的依存諸関係の存在根拠を問うことが必要であろう。それ
は三段階という方法自体の修正ということにも帰着する。そして,物象的依
存諸関係の社会は1 9 世紀の自由競争資本制のみを典型とすることに止まらな
いとするときには,物象化という視角を保持する限り,労働価値説による説 明もまた必要となってくる。すなわち,そのときには,宇野とは異なって労 働価値説による資本制経済そのものの説明は 1 9 世紀のそれに止まるものとは いえないことになる。
〔註〕
10)
山口重克は,宇野がその原理論の完成は資本制社会の歴史性を明らかにすることで,
社会主義運動を科学的に基礎づけるとしていることを,宇野における原理論、の社会 主義的イデオロギーの混入だとして批判している。「このように原理論の体系的完結性 による資本主義の完全な認識とそれによる社会主義の根拠づけという考え方一一おそ らく宇野の社会主義的イデオロギーによるものであろうーーが残存していることが,
原理論の中に歴史的発展,転化の一般的規定が凝縮されているかのような理解を生み 出し両者の関連と原理論の分析基準としての使い方とを不明確にした大きな原因と なったといってよいように思われるのである J (U'資本論の読み方一一宇野弘蔵に学ぶ
-~有斐閣,
1 9 8 3 年 , 2 1 7 ページ)。
山口は,原理論について宇野がし、うようには「かくして,全体系がいわゆる円環を なし,資本主義社会は,永久にその発展を続けうるかのごとくに,その運動機構が明 らかにされる J (U'著作集』第 2 巻 , 1 8 8 ページ)ことが,資本制社会が労働力の非商品 イヒへ向うことを「科学的に主張しうること J (向上, 1 6 4 ページ)にはならないこと,
そこには論理の飛躍があることについて明確に批判している。
他方,山口は原理論の内容を運動機構に限定し,物象化批判をそこから除去するこ とを主張する。「したがってまた,このような「分配論」の展開に物神性論が交錯して,
競争論ないし機構論的展開が阻害されているということは,この宇野『原論』の独自 の三篇構成の提起の意義そのものを台無しにすることである J (前掲書,
109ページ)。
また,物神性論の存在によって「競争論的・機構論的観点が消極化してしまっている のであり,この点に,原理論と段階論との関連ないし原論の分析基準としての具体的 な使い方の研究を困難にしている大きな原因があるように考えられるのであるが,ど うであろうか。 J (向上, 8 6 ページ)と述べている。
そして,その著書『経済原論講義~
(東京大学出版会, 1 9 8 5 年)では,マルクスの方
法を「資本一般 J =機構分析,
I諸資本の競争 J =動態分析,として理解し,動態分析
に重点を置いて構成している。そこでは,物神性への言及は,流通論におけるそれ(向 上 , 3 1 ページ)を除いて消失している。
山口の場合,投下労働価値説に基いて体系化された原理論は,分析基準としての出 来・不出来が問題になるだけとなる。また,そこでは宇野にあった社会主義イデオロ ギーと原理論の直結という難点はなくなったものの,他方で原理論でなぜ投下労働価 値説をとるのかということがそれ自体の中では問われないこととなっている。投下労 働価値説に立つことの意義は,原理論の外部から与えられることになっている。その 場合,労働価値説からみた物象的依存諸関係と人格的依存諸関係との関連づけはどの
ように原理論と対応させうるのか,という問題は残る。
なお,ここで原理論について一言しておくと,流通論を見てもわかる通り,原理論 は 1 9 世紀の金本位制に対応した理論である。それが分析基準としての意味を 2 0 世紀で ももっとするとき,貨幣概念をとってもそれはマルクスと同じであってその射程は現 代にまで及んでおらず不十分だといえる。
11)宇野の三段階論を越えて,資本制的生産の段階規定の革新をはかっているのが,加