拡大再生産と生産諸関係の物象化
高倉泰夫
はじめに
『資本論』第3部第1稿は1865年に執筆され,あとは第1篇に関する部分 を除いて改稿されることはなかった。そして,それは理論的にも形式的にも 未完成の草稿として残されている。そのことは,現在の第3部草稿を到達点 とするのではなく,むしろそこに見られる方法を発展させることを必要とし ている。
本稿では物象化した生産諸関係の理論的総括が行われている第3部第7篇 の理論的な展開方向を,「23冊のノート」(1861〜63年)での生産諸関係の物 象化を総括する方法と対比することで明らかにしている。そして,資本制的 生産における社会的分業の総括である第3部第7篇での生産諸関係の物象化 の規定が拡大再生産に基いていることを明らかにすることは,マルクスが本 来意図していた方面での第3部第7篇からの新たな理論的な展開の基礎を見
l)
出すことになる。また,他方では資本の存在を規定する技術の構造とともに,
資本の運動の導因となる超過利潤が重視される必要がある。
〔註〕
1)この点については,たとえば,伊東光晴「もうひとつの比較経済学−マルクス経 済学再読−」『経済評論』42巻5号,1993年5月,も参照されたい。
1 2 3
冊のノー卜」での物象化した生産諸関係の理論的な総 括方法( i ) i C
諸収入とその諸源泉J J
(ノート1 5
冊)における方法i C
諸収入とその諸源泉J J
における一般的利潤率と一般的利子率の規定を みてみると以下に示す通りである。一般的利潤率は長期の諸利潤率の平均としてとらえられている。「これが 時間を必要とする平均化行為だということは別として,それぞれの特殊な部 面自体での平均利潤は,ただ,資本の性質に応じてたとえば
7
年等々の周期 をとる一循環のあいだに実現される諸利潤率の平均としてのみ現れる」(K r . C S . 8 9
7],S
.14 6 2 )
0 i一般的利潤率は,実際にはただ,それが現実の利 潤の評価に役だつかぎりで,理想的な平均数として存在するだけである。...ーしかしそれ〔一般的利潤率一引用者〕は現実には,さまざまな利潤率 の均等化の運動における規定的な傾向として存在するだけである
JC K r . C S . 8 9 6 J
,S
.14 6 1 J 。
これに対して,一般的利子率はここでは,金融市場での日々変動する貨幣 資本の価格としてとらえられている。「というのは,ここ〔金融市場一引 用者〕では,それ自身特殊な商品‑貨幣ーとして提供されており,した がってその価格の確定は,すべて他の商品の場合と同様に,市場価格の確定 だからである。だから,利子率はつねに一般的利子率として,これだけの貨 幣にたいしてはこれだけとして現れる
J( K r . C S . 8 9 8 J
,S . 1 4 6 3 ) o
i利子率(こ れは,すでに述べたように,つねに一般的な形態で確定されている)= 5%
(この一般的な率はつねに金融市場で貨幣の「価値
J
または「価格」として 定められている)J ( K r . C S . 9 0 3 J
,S . 1 4 7
1)。このように,ノート
1 5
冊では一般的利子率を貨幣資本の「市場価格」とし てとらえているために,三位一体的範式批判を,市場価格=市場価値=生産 価格とする方法によって行わざるを得なくなっていた。それは, i資本の量的限界の止揚」としての信用に対応する利子生み資本は一般的利子率に立脚 していることから,それは市場価格次元でとらえられることとなり,その結 果三位一体的範式批判を行うためには,市場価格と生産価格を同一平面上に おく必要があったためである。「利子率は確かに変動するが,しかいただ,
他の諸商品の市場価格と同様に,需要供給の関係に従って変動するだけであ る
J
(Kr.( S . 9 1 9 J . S . 1 4 9 7 ) 0 r
諸商品や労賃や資本の価格一一これらの諸要 素の市場価格一ーのように与えられた生産条件として現れるものは,すべて,商品のそのつどの市場価格に規定的に反作用する。そして,特殊な商品の現 実の費用価格〔生産価格‑引用者〕は,ただ市場価格の諸変動のなかでの み貫徹されるのであり,ただこれらの市場価格の自己平均にすぎないのであ って,ちょうど,すべてのいろいろな諸商品の費用価格の平均のなかでのみ,
諸商品の価値が貫徹されるのと同様である
J
(Kr.( S . 9 2 6 J . S . 1 5 0 7 ) 0 r
こうして,剰余価値の一部分,利子は,過程にはいって行く資本の市場価格とし て現れ, したがって剰余価値としてではなく生産条件として現れる
J
(Kr.( S . 9 2 6 J . S . 1 5 0 8 )
。この
r (
諸収入とその諸源泉J J
での三位一体的範式批判は,生産価格の次 元に,市場価格の世界が投影されるという方法によって行われている。この ような,市場価格=市場価値=生産価格という方法において,貨幣資本の市 場価格としての利子を前提に資本蓄積に対応する信用をとらえつつ,それを 現実資本の蓄積あるいは拡大再生産に関連させることは,そのような信用を 前提として資本蓄積あるいは拡大再生産の分析を行う際に,結局は市場価格 の世界での分析をもちこまざるをえなくなるという形で次元の混乱が生起し てくることになる。そして,その方法は物象化した生産諸関係と資本蓄積あ るいは拡大再生産との関連を不明確にすることになる。そしてそのことは,結局.
r
資本の量的限界の止揚」としての信用の理論 的意味,あるいは利子生み資本の規定を正確に与えることを困難にすること になる。また,そのことは,生産諸関係の物象化の総括,あるいは三位一体的範式批判の根拠が正確には与えられないこととなる。そのような情況を避 けるためには,資本蓄積に対応する信用あるいは利子生み資本の規定も,長 期的平均としての一般的利潤率の規定に対応しつつ与えられることが必要で あり,それは一般的利子率を日々変動する金融市場での貨幣の価格そのもの としてではなしその長期の平均として与えることが必要となる。すなわち}
一般的利子率も一般的利潤率と同様に「理想的平均」としての生産価格の世 界でとらえられるとき, I資本の量的限界の止揚」としての信用の理論的意 味も明らかにすることができるのである。
( i i ) I C
商業資本。貨幣取扱業に従事する資本J J
(ノート1 5
,17
,18
冊) における貨幣取扱資本と利子生み資本I C
諸収入とその諸源泉J J
に続いて書カ亙れたI C
商業資本。貨幣取扱業に 従事する資本J J
での貨幣取扱資本は「資本の量的限界の止揚」としての信 用をその重要な機能としており,その点でI C
諸収入とその諸源泉J J
におけ る,資本一利子という範式に対応する資本の機能として,その項の次に考察 される必要があった。ただし,貨幣取扱資本はその存立の第一の基礎を流通 費の節減に置くことから,同じく流通費の節減にその利潤の根拠をもっ商業 資本と同時にこの項で考察されることとなったのであろう。また,この項で流通費の節減に基礎をもっ商業資本と貨幣取扱資本とを同 時に考察しておくことは,次の項で社会的再生産における商品流通を貨幣流 通と対応させて考察する「資本制的再生産における貨幣の還流運動」での,
社会的再生産過程の均衡条件に影響を及ぼさない商業資本と貨幣取扱資本の 存在と対応している。すなわち,その項以前にここで,一般的利潤率の形成 機構の中で,流通費の節減という機能に対応して,利潤あるいは剰余価値の 一部が,商業資本および貨幣取扱資本にとっての平均利潤として均語される かを叙述しておく必要があったのである。
マルクスは,商業資本を一つの「継続的な一般的な生産関係
J
(Kr.C S .
1 0 7 6 J
,S . 1 7 6 3 )
としてとらえている。すなわち,それを社会的分業の中で 流通費の節減という合理的な存在根拠をもっ,派生的な生産諸関係のーっとして規定している。
「産業資本家が資本制的生産の担当者すなわち人格化された生産資本であ るように,商人は資本制的流通の担当者であり,事実上流通資本の人格化で ある
J(
Kr.[ S . 9 7 2 J
,S . 1 5 9 5 ) 0 r
生産資本にとっては流通費は空費として現 れる。商業資本にとっては流通費は自己の利潤の源泉として現れ,この利潤 は一一般的利潤率を前提すれば一流通費の大きさに比例するJ
(Kr. [S.1 0 3 5 J
,S . 1 6 9 7 )
。商業資本と同様に貨幣取扱資本も空費としての流通費の縮減に資本として の存在根拠をもっ。「貨幣取扱業に従事する資本は,商品取扱業に従事する 資本とともに,商業資本の一つの特殊な種類であって,一方は商品資本の発 展であって,他方は貨幣資本の発展である
J
(ib i d . )
0r
この運動のなかにある生産資本の一部分は,生産資本から分離して,単にこれらの操作一まず 第一に貨幣の保管,貨幣の払出し,貨幣の収納,差額の決済などは,これら の技術的操作を必要とする行為から分離するーにのみ携るのである。これ は貨幣取扱業として独立した生産資本である
J (K r . [ S . 1 0 3 6 " ‑ ' 3 7 J
,S . 1 6 9 9 )
。そして,同じノート
1 5
冊で貨幣取扱資本は利子生み資本へと移行するとし て,次のように述べている。「最後に,遊休している貨幣……いろいろな形 態(貸付け,手形割引など)で貨幣取扱業の特別の機能として現れるのであ るが,この貨幣取扱業は,商人が諸商品に相対するのと同じで,そんなふう に同時に貸付可能な資本に相対し,需要と供給とを貨幣資本によって調整し 集中する媒介者であるJ (K r . [ S . 9 6 2 J
,S
.15 7 8 ) 0 r
資本家は,貨幣を自分自 身の事業に投下することができないあいだは,この遊休貨幣資本を利子生み 資本として価値増殖し貸し付けようとする。こうしたことを貨幣取扱業者は その階級全体のために行うのであるJ(Kr. [S
.10 3
7] ,S . 1 6 9 9 " ‑ ' 1 7 0 0 )
。そして,
r
資本制的再生産における貨幣の還流運動Jに移るために中断することになった,ノート
1 7
冊のr [
商業資本。貨幣取扱業に従事する資本J J
の最後の部分では,貨幣取扱資本の利潤の最大部分は利子生み資本によって もたらされるとしている。「貨幣取扱業者の利潤中の他とは比較にならない 最大部分は,彼が資本を無償で借りているあいだのそれの貸出し利子から成 っているか,それとも彼によるそれの貸付け利子が彼によるそれの借出し利 子を越える超過分から成っているのである
J( K r . [ S
.10 3 8 J
,S . 1 7 0 0
。ここでは貨幣取扱資本は利子生み資本に即して規定されることになる。そ こでは,流通費の節減から始まって資本蓄積に対応した信用の包摂,および
「流通時間の止揚」としての信用から始まって資本蓄積に対応した信用の包 摂が,漸次行われうると考えられている。
しかし流通費の節減に対応する貨幣取扱資本は,蓄積率
=0
となる単純 再生産においても存在しうるのに対して,利子生み資本は資本蓄積に対応し て規定されるのであるから,蓄積率>0
となる拡大再生産を前提としてのみ それは規定されるのである。また,本来の利子は拡大再生産に即してのみ規 定できるのである。しかし,ここで貨幣取扱資本そのものから利子生み資本 の管理を行う機能が自動的に導き出されるとすることは,単純再生産から拡 大再生産への移行が漸次行われるとすることになる。そのような漸次的移行 が論理的に可能だとするときには,現実資本の蓄積条件の理論的解明の重要 性が軽視され,また貨幣資本の蓄積と現実資本の蓄積とが混同されてとらえられることにもなるのである。
そのノート
1 7
冊では「拡大された規模での再生産J ( K r . [ S
.10 3
7] ,S . 1 6 9 9 )
における貨幣取扱業から利子生み資本の発生を言っている。しかし,貨幣取扱資本と利子生み資本とはそれぞれの存立の根拠が一方は 流通費の節減であるのに対して他方は現実資本の蓄積に対応する信用である こと,すなわち,それぞれの資本に対応する利潤の発生部面が一方では
W
‑G‑W
という流通そのものであるのに対して,他方はG . . . G '
全体の拡 大にかかっていることが,漸次的移行を可能とした場合には不分明となるのである。
このような貨幣取扱資本に利子生み資本を含み込ませるという方法が,次 の「資本制的再生産における貨幣の還流運動」においても見られる。しかし,
利子生み資本の規定を現実資本の蓄積あるいは社会的資本の拡大再生産に即 して与えないここでの方法は,また個別的資本としての貨幣取扱資本の機能 の展開として利子生み資本をその中に含み込むことになることで,結局それ は個別的資本あるいは個別銀行資本の視点にとどまることとなり,社会的資 本の視点から貨幣資本の蓄積機構をとらえることにはならないのである。す なわち,その方法によることは,個別的資本と社会的資本の次元の差も不明 確なままに止まることになる。
いずれにしても,貨幣取扱資本の機能はそのままとしながら,その理論的 背景を単純再生産から拡大再生産へと切り換えることで,次には利子生み資 本の規定が貨幣取扱資本につけ加わるとすることは,社会的資本の次元で貨 幣資本と現実資本の蓄積の関連を解明する際にはむしろ障害となるといえ
る。
( i i i )
1資本制的再生産における貨幣の還流運動J
(ノート1 7 " ‑ '1 8
冊)にお ける貨幣取扱資本と貨幣資本の蓄積前に述べたように(小著.
1 1 8
ページ).1 2 3
冊のノート」でのスミスのドグ マ批判(ノート6 " ‑ ' 9
冊)では,単純再生産表式の部門間均衡条件〔ここで はIc= 1 I (v+m)
Jの析出に際して,たとえば「資本と資本との交換」にお いて貨幣流通を捨象しながらも「諸資本相互のこうした補填が商人によって (したがって商人資本によって)媒介されているか,またはされていないか ということは,事態をなんら変えるものではない。J ( K r . C S . 3 9 0 J . S . 5 7 2 )
と述べていた。ここでは,貨幣流通を導入しつつ単純再生産表式での部門間.内流通が考察されている。
たとえば,資本と収入との交換の中での商業資本は,商品流通における価
値額を変化させるものではないことについて次のように述べている。「われ われは小売商人と製造業者と労働者とのあいだの同じ貨幣額の循環を考察し てきた。これは,実はーもしわれわれが小売商人の媒介を無視するならば,
製造業者と労働者とのあいだの同じ貨幣額の流通である
J ( K r . C S . 1 0 5
7J,S . 1 7 3 0 )
。また,I
ここで重要であるのはただ一つ,卸売商人の介入によって食 料雑貨商と生産者と労働者とのあいだの先に述べた循環はなんら変らない,ということだけである
J (K r . C S . 1 0 6 8 J
,S . 1 7 5 0 )
。他方,ここには先の項で の商業資本および貨幣取扱資本の一般的利潤率の形成への参加の様式の解明 が反映していると考えられる。他方で,単純再生産表式の中で金生産部門が区分されることで,単純再生 産であるにもかかわらず,貨幣商品金の蓄積として貨幣資本の蓄積に言及し ている。これは,先の項でみた貨幣取扱資本から利子生み資本への漸次的移 行という方法と対応していると見ることができょう。「したがって,金生産 者の年間生産物全体は,……剰余価値の現金化に帰着する
J o
Iし か し 社 会 全体に関して言えば,それ〔金生産者の総生産物一引用者〕は単に剰余価 値や剰余労働の化身であるJ ( K r . C S . 1 0 7 3 J
,S . 1 7 5 7 ) o
Iしたがって,補填の こうした形態が考察されるかぎり,金生産者としてその他の部類とのあいだ の交換は少しも新たな現象を示していない。しかし,それは,剰余価値の一 部分がここでは直接に貨幣材料に転化させられ,それと同時に単純な再生産 過程の要因として,商品の価値増殖が直接に金蓄積として,つまり潜在的な 貨幣資本の蓄積として現れることが維持されるかぎりでのことである」(K r . C S
.10 7 3 J , S . 1 7 5 8 )
。このように,単純再生産における貨幣商品金の蓄積としての貨幣資本の蓄 積に対応して,他方で現実資本の側では単純再生産の次に拡大再生産が考察 されることになるのであるが, I還流運動」での叙述は拡大再生産の叙述を 始めたばかりのところで中断し,再び
I C
商業資本。貨幣取扱業に従事する 資本J J
に戻っている。それは,貨幣取扱資本の規定の中に利子生み資本をも含ませ,また貨幣資本の蓄積と現実資本の蓄積とを混清させてしまったた めに,この時点では拡大再生産表式での均衡条件の検出が不可能となったた めである。
その拡大再生産の始点を見てみる。そこでは,拡大再生産は.
r
(蓄積と金 生産者)J ( K r . C S . I 0 6 9 J . S . 1 7 5
1)として考察されている。そして,そこで は部門を三つに分けている。「部類I
は,生活手段を生産する。部類E
は, その生活手段のための不変資本とこの不変資本のための不変資本とを生産す る。部類皿は,最初の二つの部類のあいだの運動をただ仲介するだけの商業 資本と貨幣資本( m o n i e dc a p i t a
l) J( K r . C S . I 0 7 3 J . S
.17 5 9 )
。ここでの貨幣資 本は貨幣取扱資本そして利子生み資本を指しているといえる。ここでは貨幣取扱資本のもとでの,あるいはそれが媒介する貨幣商品金の 形態での貨幣資本の蓄積が,他方での現実資本の蓄積に並行しまた作用する としている。ここでは,貨幣資本の蓄積を,貴金属の形態での貨幣資本の蓄 積としてとらえるという混乱があり,またそれは再生産表式における分析の 中での金生産部門の過大評価ともなっている。そしてマルクスがのちに第
2
部第8
稿で拡大再生産表式の部門聞の均衡条件を析出した際には,金生産部 門を陽表化することなしに行っている。この「還流運動」での貨幣取扱資本の内容は,その前の
r c
商業資本。貨 幣取扱業に従事する資本JJでの貨幣取扱資本と共通しているといえる。そ
れゆえ,欠陥も共通することになる。すなわち,利子生み資本と貨幣取扱資 本の理論上の種差を唆昧にし,また,現実資本の蓄積の理論的分析を困難と し,そして,個別銀行資本の視点から貨幣資本の蓄積をみることに帰着させ るということである。それはまた,資本一利子という範式の成立根拠の解明 を不十分なものとすることになる。なお,この「還流運動」では社会的資本の再生産過程を二部門に区分して いることから,利潤の分岐形態としての地代を両部門において設定すること
となり,地代を農業地代に限定していない。その点で,先の
i (
諸収入とそ の諸源泉J J
では地代を農業地代としてとらえていたのとは異っている。「還 流運動」では次のように述べている。「地代取得者が受け取る彼の貨幣は,一部は農業資本家によって支払われたものであり,一部は産業資本家によっ て支払われたものであり,……さらに労働者によって支払われたものである」
(Kr.
( S
.10 5 8 J
,S . 1 7 3
1)。これに対して,i (
諸収入とその諸源泉J J
では農 業地代として地代をとらえている。「また他方では,地代を生む資本はただ 農業資本としてのみ,ただ特殊な一部面における資本としてのみ,地代を生 み,この形態において現れ,したがってこの形態は,資本から,この資本を 産業資本一般から区別するところの要素に移される,ということから生ずる であろうJ
(Kr.( S . 9 3 I J
,S . 1 5 1 6 )
。ここでは,利潤率の均等化機構の中での 利潤の分岐を考察していることから,農業地代に限定されたと考えられる。「還流運動」で,地代の範囲が拡大されたことは資本制的生産における諸 階級の存在根拠を説明しうる範囲を拡大することになる。そして,このよう な二部門分割の視点から,両部門において地代を考察する方法は,マルクス の「経済表J(ノート 22冊)を経て,
w
資本論』第 3部第 7篇まで見られる。ただ,そのための十分な理論的な処理は行われていない。
〔註〕
2) MEGA編集者はノート 1 8
冊の第3
篇(部)計画案中の r9
)収入とその諸源泉(Revenue and i t s s o u r c e s ) J ( K r . ( 5 . 1 1 3 9 J
,5 . 1 8 6
1)を借りて,無題のこの部分の草稿 の表題にしている。そこでは「収入」は単数として表示されている。しかし本稿では,『資本論』第
3
部第7
章(篇)のもともとの表題である「諸収入(諸所得)とその諸 源泉(Revenuen(Einkommen) und i h r e Q u e l l e n J J
の方が分配諸関係との関連をも示し ていて正確だと考えられることから,それを複数の「諸収入」に訂正している。3
)ノート1 5
冊での「資本の量的限界の止揚」としての信用の規定を見ておく。「こうい うことは信用によって行われる。信用によってただこの均等化〔すなわち生産価格の 形成一一引用者〕が可能にされ,容易にされるだけではなく,資本の一部分が一一貨幣資本の形態で一この階級全体によって操作される共同社会的な材料として現れる」
(Kr. [
S . 9 3 0 J
,S . 1 5 1 5 ) 0 r
他方,貨幣資本(金融市場における資本)は,それが共同的 要素として,その特殊な充用には無関心に,種々の部面のあいだに,資本家階級のあ いだに,それぞれ特殊な部面の生産上の要求に応じて配分される姿を現実にもってい るJ
(Kr. [S . 8 9 8 J
,S . 1 4 6 3 )
。なお,この点に関しては小著『生産諸関係論としての経済学の成立』九州大学出版 会,
1 9 8 9
年,第8
章,を参照されたい。4
)ここで既に約l
年前の18 6 1
年12
月頃に執筆していた予備的考察としての「第3
章 資本と利潤」の草稿をr 2 3
聞のノート」中にノート1 6
冊として組み込んだのは,r [
諸 収入とその諸源泉JJ
(ノート1 5
冊)での三位一体的範式批判の中で「競争」から「信 用」への移行の契機となる「資本の量的限界の止揚」としての信用に対応する利子生 み資本の規定を行ったことで,平均利潤率および生産価格の展開がそれ自体として行 われる必要があったことと,同じノート1 5
冊で次に r[商業資本。貨幣取扱業に従事す る資本JJ
において平均利潤率の形成機構の中での商業資本および貨幣取扱資本の考察 を行っていることが,同じく平均利潤率および生産価格の理論的展開を必要としたた めであろう。なお,この草稿の本論への組み入れについては,前掲小著,1 4 2
ページも 参照されたい。5) r 2 3
冊のノート」のノート20
間以降,次第に貨幣資本の蓄積と区別して,現実資本の 蓄積それ自体に即して拡大再生産の部門間の均衡条件を明らかにするようになってい った経過については,前掲小著,2 1 0 ‑ ‑ ‑ ‑ 2 1 1
ページの註30 )
および,2 4 4 ‑ ‑ ‑ ‑ 2 4 5
ページの 註14 )
を参照されたい。6
)ノート1 8
冊中の「第3
篇 資本と利潤」の計画案では,平均利潤および生産価格,地代(農業地代),利潤率低下の法則,という項目を挙げたあとは,
r 8
)産業利潤と 利子とへの利潤の分割。商業資本。貨幣資本。9
)収入とその諸源泉。生産過程と分 配過程に関する問題もここで取りあげること。1 0 )
資本制的生産の総過程における貨 幣の還流運動0・…ーJ
(Kr.[ S . 1 1 3 9 J
,S . 1 8 6
1)という項目になっている。この計画案 のr 8)Jの内容を見ても貨幣取扱資本と利子生み資本の理論的次元の区別の重要性が
十分に意識されているとはし、えない。それゆえ,r 9 ) J
で行われうる三位一体的範式 批判あるいは物象化した生産諸関係の総括の理論的基盤はまだ不十分なままであったといえる。
2 W資本論』第3部における,資本一利子範式の存在根拠の 明確化
( i )
1第5
章(篇) 利子生み資本」の独立と,資本一利子範式 マルクスが『資本論』第3
部草稿に着手したときには,1 2 3
冊のノート」での
I C
商業資本。貨幣取扱業に従事する資本J J
あるいはノート1 8
冊の計画 案でのように,同じ章(篇)内で商業資本,貨幣取扱資本および利子生み資 本の展開を行うこととしていた。すなわち,1
第4
章 商 品 取 扱 資 本 お よ び 貨幣取扱資本。利子と産業利潤(企業利得)とへの利潤の分裂。利子生み資 本」というのが第4
章(篇)のもともとの表題であった。他方,マルクスは第
4
章の執筆にとりかかる前のおそらく第3
章のいずれ かの箇所で,第3
部第l
稿の執筆を中断して,第2
部第1
稿(全3
章)を執 筆している。その「第3
章 流通と再生産」で単純再生産とは別箇に「第5
節 蓄積,すなわち,拡大された規模での再生産」において拡大再生産表式 の部門聞の均衡条件を明らかにする試みに着手したことが,そのあと第3部 第l
稿に戻ったときに第4
章(篇)の構成に影響を与えたと考えられる。そ れは,1
資本の量的限界の止揚」としての信用に対応する利子生み資本の章 (篇)である第5
章の独立であり,そのことによって資本一利子範式が成立 する根拠が明確になったのである。この分割された二つの章(篇)の標題は次のとおりである。すなわち,
1
第4
章 商品資本および貨幣資本の商品取扱資本および貨幣取扱資本への,す なわち商人資本への転化」および「第5
章 利子と企業利得(産業利潤また は商業利潤)への利潤の分裂。利子生み資本」がそれである。ここでは,流通費の節減に対応した派生的な生産諸関係の成立とそこでの 利潤率の均等化が第
4
章(篇)で説かれ,第5
章(篇)では「資本の量的限 界の止揚」としての信用に対応する利潤率の均等化,すなわち資本蓄積を基 盤として成立する利潤率の均等化と信用との関連が理論的な展開の導入部分をなしている。ここでの信用制度は,信用の諸機能にその存在の根拠をもっ 新たな派生的な生産諸関係の成立であり,社会的分業の発展である。
このように,貨幣取扱資本が存在する次元と利子生み資本の存在する次元 とが,移行という方法をとらずに明確に区分されて叙述されることになった ことに対応して,第
4
章(篇)中のr 4 )貨幣取扱資本」では次のように述
べている。「貸借の機能や信用取引が貨幣取扱業のそのほかの機能と結びつ
いたとき,貨幣取扱業は完全に発展しているわけである0 ・…・・しかしこれ
についてはあとではじめて〔論じる〕。というのは,われわれは次章ではじ
めて利子生み資本を展開するのだからであるJ ( K i l l . C S . 2 7
7J, S . 3 3 2
,大谷
訳による)。
( )長期的平均としての利潤率の均等化と利子生み資本ii
このように拡大再生産としての,そして長期の平均としての利潤率の均等 化において,利子生み資本の理論的な導入,すなわち資本一利子範式の根拠 づけが行われることが,理論的にもそして草稿の構成においても明らかにさ れた。このように第
5
章(篇)の展開方向が明確化されることで,第3
部の 最終章(篇)での三位一体的範式批判あるいは生産諸関係の物象化構造の総 括の方法もより正確なものとなる。第
3
部第5
章(篇)の官頭では次のように述べている。「一般的利潤率お よびそれに対応する平均利潤を最初に考察したときには(この部の第2
章で は),平均利潤率はまだ,その完成した姿態ではわれわれの前に現れていな かった。というのは《均等化は》さまざまの部面に投下された生産資本の均 等化として現れていただけだったからである。この点は前章で補足されたの であって,そこでは均等化への商業資本の参加が(同時に商業利潤について も)論究された。J ( K i l l . C S . 2 8 6 J
,S . 3 5 0
,大谷訳による)。そして,第5
章(篇) の基本的視角は以下の文章に示されている。「信用制度についてこれまで《わ れわれが》一般的に述べる機会をもったのは,次のことであった。1
)利潤率の均等化を媒介するために,すなわち全資本制的生産の基礎をなすこの均 等化の運動を媒介するために,信用制度が必然的に形成されること
J ( K I D .
C S . 3 2 6 J
,S . 4 5
1,ほぼ大谷訳による)。しかし,この第5
章(篇)での利潤率 の均等化は,第4
章とは異っており現実資本の蓄積に対応している。このように,利子生み資本あるいは資本一利子範式を成立させる現実資本 の基盤が明らかにされることと対応して,資本一利子範式で考えられる利子 率も
f 2 3
冊のノート」でのf C
諸収入とその諸源泉J J
でのように市場利子率 そのものではなく,ここでは長期的平均としての「中位の利子率」へと変更 されている。そのことはまた,三位一体的範式批判を展開する際の方法が,その
f C
諸収入とその諸源泉J J
での市場価格=市場価値=生産価格という方 法ではなくなり,長期的平均あるいは「理想的平均」としての生産価格の次 元において展開するという方法へ転換したことを示している。「中位の利子率は,どの国でも,かなり長い期間については,不変の大き さとして現れる。なぜならば,一般的利潤率は‑特殊な諸利潤率の不断の 変動にもかかわらず,といっても一部面での変動は他の部面での変動と相殺 されるのではあるがーただかなり長い期間に変動するだけだからである。
そして一般的利潤率の《相対的な》不変性がちょうど中位の利子率の《多少 とも》不変な性格に現れるのである
J( K I D . C S . 2 9 8 J
,S . 3 7 8
,大谷訳による)。この「中位の利子率」は金融市場における貸付可能な貨幣資本の需給によっ て定まるが,それは絶えず変動している「利子の市場率
J
(ib i d . )
すなわち市 場利子率の長期の平均として求められる。その点で,マルクス自身の展開の 中では『資本論』で初めて一般的利潤率と一般的利子率とが存在している平 面が同一になったことになる。すなわち,資本一利潤,および,資本一利子 の範式の相互の関連を方法的な無理を生じさせることなく分析することが可 能となった。なお,第
5
章(篇)の中では利子生み資本の規定の中に,次に「流通時間 の止揚」としての信用の機能が付加されて,信用の基本規定と信用制度との関連が明らかにされたあとでは,金融市場における市場利子率が考察の対象 となっている。
〔註〕
7)草稿の状況については大谷禎之介による。また,彼は草稿の中での言及を手がかり にして,第
3
部第1
稿での第4
章の分割が確定された地点を,第4
章の2 6 0 ‑ ‑ ‑ ‑ 2 7 7
草稿 ページの間,すなわち,商業資本における商業利潤の考察の後半部分から貨幣取扱資 本の叙述の半ばまでの間であると,推定している( f W
資本論』第3
部第l
稿について ーオリジナルの調査にもとづいて一一J
W経済志林~c
法政大],5 0
巻2
号,1 9 8 2
年1 0
月,1 2 3 ‑ ‑ ‑ ‑ 1 2 8
ページ)。なお,利潤率の均等化について述べておくと第
4
章(篇)での利潤率の均等化は流 通費の節減にかかわって説明されることから単純再生産でも成立するものであるのに 対して,第5
章(篇)のそれは,そこではまず第一に資本蓄積に対応する信用と利潤 率の均等化との関連において利子生み資本を規定していることから,拡大再生産のもとでの利潤率の均等化としてのみ成立している。
8
)利子生み資本と利潤率の均等化の関連については,小稿「信用制度と資本蓄積J W
信 用理論研究~8
号,1 9 9 1
年7
月,で要点を述べている。9
)利子生み資本と信用貨幣との関連については,それが社会的資本の再生産過程に基 いて理論化されていない限り,それは現実資本の蓄積との対応が捨象された個別銀行 資本次元からの考察に止まることになる。たとえば,飯田繁は,信用貨幣が「擬制的 利子っき資本」として機能することを述べているが,その場合には信用貨幣が免換銀 行券として流通しているか,それとも不換銀行券として流通しているかの区分のみが とりあげられており,現実資本の蓄積との関連は視野の外におかれている。この方法 では利子生み資本が社会的再生産過程で果たしているその機能は捨象されてしまい,結局,個別銀行資本の視点のままにとどまることになる(たとえば,
W
不換銀行券・物 価の論争問題』千倉吉房,1 9 8 3
年,第4
章)。また,飯田とは異った立論をしている論 者(たとえば岡橋保)にしても現実資本の蓄積との関連が欠落し,結局個別銀行資本 の次元でのみ利子生み資本をとらえることとなっている点では,同じ難点を共有して いる。なお,この旧来の貨幣・信用論が共通にもっていた問題点に関連しては,小稿「独 占価格と貨幣理論
J
W経営と経済~ (長崎大)6 7
巻4
号,1 9 8 8
年3
月,も参照されたい。3
拡大再生産に基く「理想的平均」と生産諸関係の物象化以上のような,
r 2 3
冊のノート」でのr c
諸収入とその諸源泉J J
から『資 本論』第3
部第5
章(篇)への方法上の変化に対応して,第3
部の「第7
章 諸収入(諸所得)とその諸源泉」のr
1 )三位一体的範式」ではこの章(篇) での生産諸関係の物象化構造の総括は「理想的平均J
としての,すなわち長 期的平均としての生産価格の世界でとらえられた資本制的生産において行わ れることを述べている。「生産諸関係の物象化の叙述や生産当事者たちにた いする生産諸関係の独立化の叙述では,われわれは,もろもろの諸連関(Zusammenhange)
が世界市場,その景気変動,市場価格の運動,信用の期 間,産業や商業の循環,繁栄と恐慌との交替をつうじて生産当事者たちにた いして,圧倒的な,彼らを無意志的に支配する自然法則として現れ,彼らに 対立して盲目的な必然性として力をふるう仕方には立ち入らない。なぜ立ち 入らないかと言えば,競争の現実の運動はわれわれの計画の範囲外にあるも のであって,われわれはただ資本制的生産様式の内的編制を,いわばその理 想的平均において,示しさえすればよいのだからであるJ ( K I I I . S . 8 3 9 )
。そ して,たとえばr 2
)生産過程の分析のために」では単純再生産表式(K 皿.
S . 8 4 6 )
に依りながら,剰余価値の利潤(企業利得と利子)および地代への 分岐について述べているが,それはこの第3部第 1稿執筆時点での第 2部草 稿の完成度の低さによるものであり,そこでも,そして第7
章(篇)を通じ て単純再生産に限定された形で三位一体的範式批判あるいは生産諸関係の物 象化構造の総括が行われるという叙述にはなっていない。それは資本一利子 範式の総括を含んで拡大再生産に適用されうる構造になっている。たとえば,
r
4 )生産諸関係と分配諸関係」はそのような拡大再生産に基 く叙述として理解されるような構造になっている。そこでは,生産諸関係と 分配諸関係の相互規定的な関連が論じられている。この相互の共役的関連を 見ることは資本制的生産の物質的諸条件が人間労働を媒介として物象化した姿で,つねに再生産されていることを見ることである。「他方,資本制的生 産様式が生産諸条件のこの特定の社会的な姿を前提するとすれば,この生産 様式は,ただ物質的諸生産物を生産するだけではなく,物質的諸生産物がそ のなかで生産されるところの生産諸関係を絶えず再生産し, したがってまた これに対応する分配諸関係をも絶えず再生産するのである
J ( K i l l . S . 8 8 6 )
。 この項はr 5
)諸階級」に至る前に,第7
章(篇)のそれまでの叙述を総括 することで,r
諸階級」での展開の基本視角を与えている。ここにおいて言 われている再生産は単純再生産ではなく,拡大再生産としての資本制的生産 である。その拡大再生産としてとらえられた資本制的生産のもとで,諸個人は社会 的分業のそれぞれの分肢の中での位置に応じて,分配諸関係としての諸所得 の一定部分を取得している。すなわち,資本制的生産では,諸個人は社会的 労働の生産諸力の担い手の一員である限りにおいて,分配諸関係の一部を社 会的分業の中でのその特定の位置で手にすることができるのである。「だか ら,いわゆる分配諸関係は,生産過程の,そして人聞が彼らの人間的生活の 再生産過程で互いに取り結ぶ諸関係の,歴史的に規定された独自に社会的な 諸形態に対応するのであり,またこれらの諸形態から生ずるのである。この 分配諸関係の歴史的性格は生産諸関係の歴史的性格で、あって,分配諸関係は 生産諸関係の一面を表している
J ( K i l l . S . 8 9 0 )
。このように見てくると,
r
理想的平均」としてあらわされた資本制的生産 は一方で,本源的な生産諸関係が派生的な生産諸関係を生み出してし、く基本 的機構を明らかにしたものといえる。他方でそれは社会的労働の生産諸力の 発展が新たな社会的分業の発展として現れてくる,資本制的生産の新たな展 開を分析する規準としての役割を果たしうるものとなる。それはまた,生産 諸関係の物象化構造の存立諸条件の歴史的変化を見ることにもなる。なお,この第
7
章(篇)での地代も,r 2 3
冊のノート」の「資本制的再生産における貨幣の還流運動」におけるそれと同様に,農業地代に限定されて はいない。これは同様に,再生産表式では農業部門を特定化せずに二部門分 割を行い,両部門での土地所有の存在を前提としているからである。この土 地所有には,農業地以外の工業地等が含まれている。以下は 13) 競争の外 観」での叙述である。「利子は,それぞれの瞬間には,またそれぞれの資本 家にとっては,与えられた一つの大きさであって,それが個別の資本家にと っては自分の生産する商品の費用価格にはいるのである。農業資本家にとっ ては契約で定められた形での借地料がやはりそうであり,また他の企業家た ちにとっては営業場所での賃貸料の形での地代がそうである J (K
Ill.S . 8 7 8 ) 。 このような第 7 章(篇)で述べられている諸種の土地所有と対応して,第 6
章(篇)では農業地を中心としながらも「第 4 6 章 建 築 地 地 代 。 鉱 山 地 代 。 土地価格 J (エンゲルスによる標題)では,農業地以外の土地所有にふれてい る 。
しかし,このような拡大再生産過程での,いくつかの利潤の分岐形態を含 みうる生産諸関係の物象化構造の総括に対応した 15) 諸階級」はその項の 展開方法を叙述し始めたところで途絶している。
〔註〕
1 0 ) この点については,小稿「生産諸力の発展と市民社会の総括 J
~マルクス・エンゲル ス・マルクス主義研究~1 3
号.1 9 9 1
年6 月,を参照されたい。
1 1 ) 平田清明は「市民経済学の批判」の集約点として,第 3 部第 7 篇の生産諸関係の物
象化あるいは三位一体的範式批判を重視している(~経済学批判への方法叙説』岩波書 庖.
1 9 8 2
年.IV 物象化と三位一体範式一自由の王国と必然の王国一」を参照)。
しかし,その批判は世界史の三段階理解と結びつけられており,市民社会を構成する
諸個人は.I 個体的所有」が再建された,そして物象化の廃絶された社会,すなわち「社
会化された人間 J I 連合した生産者たち」によって形成された社会との対比に焦点があ
てられている。
しかし,物象化の廃絶された社会あるいは貨幣の存在しない社会を想定することの 非現実性の根拠については先に述べている (r物象的依存諸関係・生産諸力・生産諸関 係
J
W経営と経済~7 0
巻l号.1 9 9 0
年6
月)。マルクスの三位一体的範式批判がその持 つ理論的意義を示しうるのは.r
自由の主国」に関してではなく,むしろ現実の資本制 的生産の存在諸条件の解析を通じてであろう。それを「自由の王国J
との直接の対比 に利用する時には,そこではかえって資本蓄積の意味も見失われ単純再生産と拡大再 生産の区別は不必要となる。しかし,それでは第3
部第7
篇までの理論的展開を十分 に生かすことにはならず,そこには断絶が生じることになる。1 2 )
なお,小稿「生産諸関係・諸階級・国家J
W経営と経済~6 9
巻 3号.1 9 8 9
年1 2
月.6 7
~69ページ,を参照されたい。
む す び
『資本論』第
3
部第7
章(篇)は,労働‑労賃の範式と並んで,利潤の分 岐形態における物象化した生産諸関係および分配諸関係の再生産構造をみて いる。それは,セーやワルラスにおけるそのものとしての利潤範時の消失や,あるいはまたさらに利潤率と利子率の区別がなされない方向とは異った政治 経済学の総括としての第
7
章(篇)の理論的特質を示している。そして,第7
篇ではそれまで展開してきた幾層もの「市場」についての展開の最終的な 総括が行われている。他方で,生産過程における技術あるいは資本制的生産様式を出発点とし,
産み出される剰余が疎外された共同存在としての産業資本そしていくつかの 派生的な生産諸関係を経由して,労賃と並んで,利潤あるいは企業利得,利 子,地代という分配諸関係の諸範時として現れることで,生産手段と労働力 の全社会的配分をもたらすことになる。「それら〔分配諸関係‑引用者〕
は,生産諸条件そのものにも,その代表者たちにも特殊な社会的性質を与え る。それらは生産の全性格と全運動とを規定するのである
J (K
llI.S.886)0
そして,派生的な生産諸関係までを含んで資本制的生産をとらえるとき,社会的分業を理論的に構成することに対応して価値を規定することができる。
「価値規定は,すでにはじめから彼の背後で彼からは独立な諸関係の力