「販売主義」の理論的根拠について
著者 植野 郁太
雑誌名 關西大學商學論集
巻 創立七〇周年記念特輯
ページ 121‑142
発行年 1955‑11‑04
URL http://hdl.handle.net/10112/00022228
﹁販売主義﹂の理論的根拠について︵植野︶ 今日の期間狙益計卵にあっては﹁実現主義﹂の原則が中核をなしているというも過言ではない︒
内容︑さらに実現主義が特に採用されることの根本理由が何かということになると︑種々の疑間がでてきて︑
困難である︒常識的に明瞭なようで︑しかもそうでない点が多々ある︒
実現主義を検討するにあたつては︑それを期間損益計舘におけるプラスの嬰索としての収益と︑
損費ないし費用とについて別個にとりあげ︑さらにその両者をそれぞれ︑それらを企業の積極的な活動との直接的関係にお
いてみる場合と︑各種手元財貨の市場価格の変動との関連においてみる場^
1 1とにわけることができよう︒いなこれらは何か
と︑現実には相互に密接に関連しており︑かく区別することには疑義があるとしても︑少くともかかる区別をしてみること
が使利ではないかと思う︒しかして﹁販売主義﹂とは特に収益の計上を営業活動との関連においてみた場合
の実現主義のことであって︑それはまさに実現主義的処理法の中核をなしている︒本稿では︑この販売主義の内容を特に蚊
近しばしば問源とされる﹁生産主義﹂
(P ro du ct io n ba si s)
との比較において検討し︑今日なお敢えて販売主義が湿守されて
いるそもそもの理由がどこにあるかと反蜀してみたいと思う︒割当てられた紙面の制限のため︑行文は自ら簡略になり︑ま
た徒に肪手な解釈を羅列する結果となったかと思うが︑諸野の御批判を仰ぎ得れば幸いである︒
は
し
が
﹁販売主義﹂
き
(s al es b as is )
植
の 理 論 的 根 拠 に つ い
て
野
マイナスの要索としての しかしこの実現主義の 郁
早怠な断定は
太
121
皿
売上原価売上高 7,800 9,300
(売買総益)
1,500
そこに﹁売買総益﹂が算出されるのである︒このことは結局︑
販売主義は読んで字の如く︑
商
BIS 品
゜I
﹁損益計算杏には財貨の販売ないし用役の提供によって実現した牧益を示すべき である︑﹂とのことであり︑これを当該期間の売上原価ないし提供された用役の原価と比較することによって︑
一般の商工企業における仕入︑製造︑販売の三つ の基本的機能の遂行に伴う利益が︑販売の行われた時点の属する会計期間の損益として全一体的に︑集約的に表 示され︑上記三つの機能それぞれによって得られたであろう利益の機能的かつ期間的配分は問題とされないこと を意味している︒このことを極端に単純化された形で表示してみよう︒
販 売 価 格
九︑
三00円
九︑
五00
いま一定単位の商品の製造販売について︑その実際原価︑ 段階で決額が行われたとする︒ 必要材料の仕入及び労務費当該製品の製造に要した経費
(A
)
二︑
六00 円 五
︑ 二
00
円
(B
)‑
︑九
00
五 ︑
000
この場合販売主義によって整理をすれば︑財務諸表上の表示は次の如くなる︒
(A
) 第一期︵嬰造が終った政後の決算期︶第二期︵当該製品の販売された時点の属する決算期︶
s L B品
8 0 0
p
t 7 1 "
販売価格が次のようである二つの場合を考え︑しかも製造の終った
122
﹁販売主義﹂の理論的根拠について︵植野︶ 第一期
即ち第一期においては仕入︑製造が行われたにかかわらず︑利益の計上は全く見送られ︑ただ貸借対照表に製造された商品が その実際原価で計上されるに過ぎず︑第二期になってはじめて利益の計舘が行われ︑この商品の仕入︑製造︑販売の三者に基く 利益の全額が︑あたかもその期間だけのものであるかのように計上されているのである︒
さてこのように販売主義に基き整理された数字について︑まず第一に一見非常に不合理に思われる点は︑同一 製品について第一期の貸借対照表において︑
B
の場合の方が
A
の場合よりも低い価額で表示されていることであ る︒蓋し製造原価の引下げは結局製造がより有利に行われたことの証左であれ︑決して商品の価値の低いことを
︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑
意味してはいないから︒そこでこの批判に応ずるだけの修正を仕どこすとすれば︑それは第一期の決算において
B
の場合の原価引下げ分をすぐにその期の貸借対照表の商品の帳薄価額に加算することである︒そうすれば結局 それだけの額を第一期の利益として計上することになり︑
くる︒即ち次の如し︒
(B
)
P/L 第一期
BIS ヽ 商 品
6,900
第二期
ひいて第二期の損益計算にもそれだけ影響を及ぽして
P/L 売上原価売上高
6,900 9,500
(売買総益)
2,600
第二期
商 B/S 品
゜
さてこの修正されたものをみれば︑先のものからの重大な飛躍が認められるのである︒即ちここでは当該仕入 製造︑販売を通じての売買総益二︑六
0 0円がある尺度によって機能別に計算され︑第一期に九
00
円︑第二期 に一︑七
00
円と期間的に分割︑配分されており︑先の場合の計卵法とこの修正された場合の計舘法とは︑第一 期末において商品がたまたま同額に表示され︑合理的になったようではあるが︑叶邸にあたっての観点は全く別 即ちいま後者の基礎となる理念を一般的に規定してみれば︑機械を中心とした大規模生産のもとにおいて企業
における製造機能の比重が非常に増大している今日︑販売にすぺてをかける利益卵出ではなく︑むしろ期間計卵 という厳重な枠の内においてもなお︑各基本的機能の遂行度合︑とりわけ製造機能の遂行度合に応じた利益笏出 を行うぺきだろうし︑
また大体企業の消費はいわゆる生産的泊費で︑硝費は同時に新たなる財貨用役の生産であ り︑消牝を伴わない生産は考え得ないわけだから︑販売を通じて利益を汁上するのではなく︑逆に生産的な消牲 を確認し︑それに応じて利益を計上するのがむしろ正しい方向であって︑このように販売時点を枯郎にして利益
を測定するのでない限り︑仕掛品︑製品についてもあえて実際原価で記録しておく必要はないというのである︒ ものであることに注意しなくてはならない︒
皿
仕入製造
利益900
B/S 商 品
6,900 900
P/L 売 上 原 価 売 上
7,800 9,500
(売買総益)
1,700
商 B/S 品
゜
124
﹁販売主義﹂の理論的根拠について︵植野︶
たとえ生産主義の理念が正しいとしても︑
そこに利益として計上すべき額が不確定
しかしてかかる理念︑ないしそれによる処理が大体﹁生産主義﹂と呼ばれているものであろう︒要約すれば︑生 産主義はただ単に製造活動の完了時において利益を計上するというのではなく︑企業の仕入︑製造︑販売の三大 機能の遂行の度合に応じて利益を期間的に配分するところにその本義があると思うのであって︑これと比較する ことによってはじめて︑我々は販売主義の特徴をよく把握し得るものといえよう︒
さて前項でも少しふれた如く︑生産主義の理念には相当の根拠があることを否定し得ないが︑それにもかかわ らず︑なお現実の会計はこれに強く反対し︑販売主義を固守している︒その理由はどこに求め得ようか︒以下便 宜上それを消極的な理由と積極的な理由にわけてみていくことにしよう︒
消極的な理由としては︑
(u nc ertainty)
であるが故に︑会計計節にとりあげ得ないというのである︒このことは単純に︑すでに旧くシュマ ーレンバッハが指摘した計算確実性の原則
(G n a ds at z d er Si c h er h e it der
Re ch nu ng ) 即ちたとえ計節の原理はいか に正しくともそれが確実に実施され得ないとの見通しがある限り︑理論的には多少難点はあっても確実に実施さ れ得る計算方法を採用すべしとの原則の適用だとしてすまされることが多い︒しかしここに確実性の要求を強く 採入れながら︱つの理論を展開しているものとして︑ペートン・リトルトンの﹁序説﹂の説明は特に注目すべき
注
( 1 )
ものであろう︒彼等の説はまた次項において販売主義採用の禎極的理由を探ねる場合の︱つの項要な足場ともな
いない﹂から︑そこに当然推察される如く︑ しうるものであるから︑以下少し堀り下げて紹介することにしよう︒
ペートン・リトルトンの見解をみるに当つてまず最初に注意すべきことは︑彼等が﹁証明力ある客観的証拠﹂
( v e r
i f i a
b l e ,
o b
j e c t
i v e
e v i d
e n c e
) ということを非常に重視していることである︒ここに﹁証明力ある証拠﹂とは﹁真実
を打立てるのに役立つような性格を備えた証拠であり︑﹂﹁客観的な証拠﹂とは﹁非個人的で︑その当事者の根拠
なき意見または希望とは対照的に︑最も関係の深い当事者にとつて外的な証拠である﹂と定義されており︑それ
は﹁会計上の重要な要素となり︑信頼しうる情報を提供するという会計の機能を正当に遂行するうえに必需の附
属物である﹂と︒しかも現実の﹁会計上の事実は必ずしも決定的に客観的ではなく︑また完全な証明力を備えて
﹁何らかの会計上の事実があいまいな決定に左右され︑また証明が
ある程度不完全であったりするが︑これらについては改善していく必要がある︒かかる改善への第一歩は︑客観
的な決定を行いうる程度が非常に多様であることを明瞭に認識することで︑かかる認識を基礎にして︑最も客観
的な事実はますます重く用い︑他方客観性の最もうすいものはより客観的なものとするように努力することがで
きる﹂と述べ︑このように客観性をたかめていくことを︑彼等は会計の研究の最重要な目標としているようである︒
さて以上の如き理念に裏附けられて会計の理論的説明をするにあたつて︑彼等は﹁会計が貨幣価格を利用する
のはただそれが各種の対象物やサービスを同質的に表現するに便利な共通の公分母であり︑また取引交換を示す
共通の型だからである︒重要なのは貨幣でもなければ︑価格でもない︒会計の背後にある重要な要素はサービス
即ち交換された時にもなお企業に他のポテンティアル・サービスをもたらすサービス・ポテンティアリティーで
126
﹁販
売主
義﹂
の理
論的
根拠
につ
いて
︵植
野︶
その販売は﹁サービスの流れ﹂として登場することになるが︑ ある﹂ということを繰返し強調している︒ここにいわゆるサービスとは欲望充足に贅する力とでも云うべき︑ご
( 2 )
<宏義の一般的な概念とみるべきもので︑このことにつきバックーは次の如く述べている︒﹁サービスないしポ 済状態に対して示す反作用
( r g g
on
) ということが包蔵されてあり︑従ってあるものの炊用はそれに立向う人の 如何によって全く異りえよう︒またエコノミック・サービスは﹃価値﹄﹃価格﹄﹃原価﹄と混同すべきではない︒
これらの術語はサービスなる概念の派生物であって︑いま期待している︱つのサービスの転換︵器
mi88
n v e r
s i o n
) を当該サービスについて考えうるそれ以外の転換と種々に比較評量する場合に利用されるものである︒
値︑価格ないし原価はポテンティアル・サービスを評量し︑また測定するために用いられようが︑しかしサービ スなる概念の派生物であり︑
( u t i l i t y ) それと同一ではない﹂と︒
(Pュ
8,
a g g r
e ga t
e ) ないし﹁測定された
かくして︑彼等においては企業における生産に必要な各種の財貨その他の調達︑その結合による製造︑さらに
﹁企業の活動は大部分他の企業との交換によって 成立つているもの﹂として︑それらは特に﹁取得されたサービス﹂︵器
2i ga
8巨
・ e d )
と﹁提供されたサービス﹂︵器?
v i c e
r e
n d e r
e d )
として把握される︒しかして︑かかるサービスの流れの数量的表現︑
ーピスの流れに裏附けられた会計計算について︑彼等は特に﹁価格総計﹂
対価
﹂
(8
gs
日e
d
8 n s
i d e r
a 苦
n)
さらに﹁原価の凝着性﹂
テンティアル・サービスは﹃炊用﹄
より正確に云えば︑かかるサ
( 8
s t
a t t a
c h )
なる特有な用語による特有の概念を持出 している︒しかもこれらの理解がとりもなおさず彼等の説の理解の中核をなすものといえよう︒ここに﹁価格総
即ち価
と混同してはならない︒炊用なる概念にはある人がある特定の経
朴﹂なる用語は﹁﹃原価﹄なる用語が交換の︵凪的ー策者註︶表現としてただ一方的に︵即ち交換においてそれを取得
する側からー筆者註︶カバーするだけで︑交換を両方の側から︵即ち取得する側と提供する側のそれぞれからーー筆者註︶
カバーする術語が必要となる﹂ことに対処し︑同時に﹁種々の取引を同質的に表わすための最上の手段﹂として 用いられているのである︒こうして﹁取得された労仇サービスの価格総計は﹃原価﹄︑設備の取引の価格総計は
﹃資産﹄︑提供されたサービスないし販売された製品の価格総計は﹃牧益﹄︑借入金契約の価格総計は﹃負債﹄︑残余財 産権に関する契約の価格総計は﹃資本金﹄と呼び得ることになる﹂と︒さて一般の場合の如く交換にあたつて当事 者間の自由な交換によって打出された価格総計はその時点における価値を示すものと考えることができるが︑現 下の複雑な状況の下では種々の経済外的考砒も加わる等のことから︑そうはいかないことも多々ある︒ここに交 換時において︑とりわけサービスの取得について︑正当な価格総計を客観的に決定するとの厄介な問題が生じて くることになる︒次に上記の如き﹁価格総計﹂に対し﹁測定された対価﹂なる概念はいかなる内容をもち︑
いか
なる関係にあるか︒この点︑明瞭な説明はみられないようだが︑行文中から推察するに﹁価格総計﹂はごく一般 的に各種の交換における金額表示者としての内容をもつが︑具体的にこれが会計計算に採上げられるときは︑各 種交換の公正妥当な分類と︑交換時における金額とについてそれが正当にして客観的なものか否かの判断が要求
されることになり︑
かかる考嵐を経過した価格総計が﹁測定された対価﹂と呼ばれているのだろう︒こうして行 われた価格総計の記録は﹁その瞬間において価値の記録と看倣され得る︒交換の瞬間以後価値は変るかもしれな いが︑しかし︑記録された価格総計は変ることはないのである﹂と︒最後に﹁原価の凝眉性﹂であるが︑これに
12a
﹁販
売主
奉﹂
の珊
論的
根拠
につ
いて
︵植
野︶
﹁生産活動が材料や種々のサービスを用いるに対し︑会朴は対象物やサービスの表 示に交換取引における価格総計を用いる︒生産活動が人間労仇と機械力の消費によって材料の形における変化を 齋らす時︑それと歩調を合せて︑会計はそれに充当されただけの材料費︑労務費︑機械関係牲用を分類し︑集計 して︑それらが一緒になって製品の原価となるようにしていく︒換言すれば︑原価は真実の意味をもった新しい グループに組入れられうるということが会計の基礎的概念である︒原価は︑それらが花当に関係付けられている に新たなサービスを附加しようとしてなされた努力を跡付んためであり﹂︑
利な販売を窮すためになされた部分を示している﹂と︒この﹁原価の凝着性﹂なる概念は︑彼等の理論の構成上
﹁測定された対価﹂からの派生物であり︑第二次的なものと云えようが︑実際原価の計算をその まま是認する説明としてここにわざわざ﹁原価の凝着性﹂などということを持出さなくてはならないところに何 か彼等の理論に無理があることが暗示されているかの印象を与えられる︒
以上ペートン・リトルトンの理論の最も基本的な部分につき若千ふれたのであるが︑そこで中核をなしている のはやはり﹁価格総計﹂ないし﹁測定された対価﹂なる概念であろう︒この概念を説明する前提として︑彼等は
﹁サービス﹂なる概念を持出し︑
これによって会計を価値計算として把握すべき必要なきことを強く指摘してい る︒しかしこの考え方を貫くのであれば︑他方において﹁サービス﹂と﹁価格総計﹂
計算とも必然的な結びつきはないと云えよう︒しかもあえてこれを主張するのであれば︑かつてパッソーがジモ 限り︑恰も凝集力を持つているかのようだ﹂というのである︒
﹁測定された対価﹂による
はu
﹁価
格総
計﹂
﹁経営全体の努力のうちで商後の有
﹁かかる再集計の目的は材料及びその他の構成物
ついて次の如く述べている︒
に上記のところに一応でている︒個々の見地からみれば利益は
zu m E rw e r bs p r ei s e )
牧益は営業過 ンの説を評して云った﹁ジモンの使用価値から取得価額への命懸の飛躍﹂
(S苗
on
s a s l t o m or t a le v
on
e G
br
au
ch
sw
er
t
( 3 )
なる用語と厄ぼ同様の言葉でそれを批判することができよう︒
﹁命懸けの飛躍﹂を支えているものは﹁証明力ある客観的証拠﹂に基いて行われるべき﹁計算の客観性ないし確
実性﹂に対する要請である︒しかしてこの関係は︑以下述べるところにも明かな如く︑販光主義の擁護に関する
彼等の説明にも当然そのまま持込まれてくるのである︒
さて本稿で問題にしている生産主義に対比して︑特に販売主義が採用される理由についての彼等の説明はすで
要約すると︑﹁成果を生み出さんとする努力
( e f f o r t ) と生み出された成果(agm
pl
is
hm
en
t o r r e s u l t
) の比較﹂として行われることになるが︑それは会計上は︑
努力は﹁取得されたサービス﹂の流れ︑成果は﹁提供されたサービス﹂として︑もっと端的には﹁取得価格総計﹂
﹁提供価格総計﹂として把握され︑両者の期間的対応によって︑期間利益が決定されるというのである︒しかし
ここで彼等は生産において新しいサービスが生れる︑また価値が創造されるとの考え方に強く影響されたものか︑
牧益について次の如き説明を加えているのである︒即ち﹁生産物が完成されたうえで販売されるかまたは販売契
約の下におかれるまでは牧益は全く稼得
( g g )
されない﹂との見解に対して︑
﹁あ
る意
味で
は︑
程全体を通じて稼得され︑しかもかかる過程は生産物に割当てうる原価の集計のうちに反映せしめられていると
推論し得る﹂のであって︑この見解は﹁あらゆる部面の技術的製造とともに配給をも含めた意味でのすべての必
要活動はそれらの活動のそれぞれの挫用額と比例してその最後的成果に︑従ってまた牧益に貨献しているものだ しかも彼等においてかかる
130
﹁販
売主
拳﹂
の狸
論的
根拠
につ
いて
︵植
野︶
であ
る︒
として︑換言すれば﹁価格総計﹂
これに代る他の可能性と比較するとき︑
一層その述を深くする﹂と︒し かもなお会計において﹁牧益が生産の全過程を通じて﹃稼得﹄されることと︑牧益が製品の完成及び処分に先立 つて﹃測定され︑認識され﹄得ると考えることとは全く別個の問題である︒⁝⁝⁝営業活動によって牧益が暗黙の うちに稼得されると云い得ても︑通常その金額はその過程を完了し︑製品が得意先に引渡されるまでは不確定で ある。この(引渡しの|—喰者註)点において製品に対する価格は客観的に決定され、牧益実現
(revg
ue e a r
l ぽ
丘
on ) とするにふさわしい新規の資産が登場する︑﹂と述べ︑販売主義の立場を表明している︒
右の説明についてまず注意すべきは︑彼等が牧益を必ずしも﹁提供されたサービス﹂なる範疇においてみてい るのではたいということである︒これを遡り︑少々誇張した表現を用いるならば︑彼等のいう﹁取得されたサー ビス﹂と﹁提供されたサービス﹂とは何らかの実質的意味をもつ対立的な事象として必ずしも把えられているの ではなくして︑むしろサービスの流れとしては統一的なものであり︑ただ単に計算確実性を維持するための手段
﹁測定された対価﹂を算定する便宜手段として対立的に考えられているに過ぎ ないようである︒かかる見解は国民経済的な観点において︑多少とも抽象的に経済財の生産︑流通をみる場合に
はあるいは妥当なものかもしれないが︑ r e
a so n a bl e n es s )
が存在するようであり︑
との基本的仮定と合致している︒
たえざる市場価格の変動に伴う危険に曝され︑さらに積極的にそこに投 機的利益を獲得せんとしている個々の企業的観点からは︑そこになお検討してみるべき問題が残されているよう
かかる仮定の客観的証明はみられないが︑
これには本諒的な妥当性
(i nh er en t
ある︒それは何だろうか︒これが次の問題である︒ 次にまた計冥確実性の原則が彼等の場合やはり販売主義の最後の拠点として考えられていることである︒これを逆にして云えば︑確実性が維持されるならば︑販売主義をすて︑生産主義によることも可能となるのではないか︒げんに﹁販売主義から離脱することがしばしば許可されるような状態が存在する︒その理由は︑そこでは牧益が生産に基いてかなり確実に測定され得るからである﹂と彼等自身が云つている︒契約価格の下で註文生産に従事する場合は勿論のこと︑さらに一歩進めて一般の在庫生産においても︑その製品につき独占価格︑協定価格統制価格等が存在していてその価格が安定しているとき︑また定価販売をかなり強行しうるときには︑生産主義を是認すべき相当の根拠がでてくる︒彼等はまた各種の基礎材料にみられるように相当大規模な市場をもつものについて生産主義が主張されうることを述べているが︑しかも最後には﹁販売による確認﹂を強調しているのでて﹁確実性﹂﹁客観性﹂ということがすでに相対的な概念であり︑彼等自身このことを強調し︑その程度の別を
こうしてみてくると︑ペートン・リトルトンの説明から我々は︑牧益計上における販売主義がよりどころとす
る確乎たる理論的基盤をかぎ︑重要な不合理性を内包する不安な状態のもとで︑ただ僅かに計算の客観性︑確実
性ということを命の網として余命を保つているが如き印象を強くさせられる︒しかし現実において販売主義は決
してそんなに浮草の如きものではなく︑非常に根深いものがあり︑そこにはそれ相当の根拠をもつているはずで 説明していことを想起すべきであろう︒ ある︒即ち確実性の原則を特に厳格に適用しようというのである︒しかしここでもう一度我々は︑会計におい
132
﹁販売主義﹂の理論的根拠について︵植野︶
︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑︑
る︒貨幣的要因に導かれた実物的財貨の調達︑
販売が企業の現実の姿である︒ ︑ ︑
いまこれを設も簡単な表式で示せ
かる特殊財貨︑とりわけ富の一般的貯蔵手段としての貨幣の獲得を目的として生産に従事している経済単位であ 換の媒介物として用いられるのではなく︑
W. A. Paton &
A. C. Li t t le t o n, I nt r o du c t io n t o Corporate
Ac co unting 個所については一々これを明示する煩雑さをさけた︒引用個所は大体原著の︱一頁ーニ︱頁︑
なお主要な用語については中島省吾教授の訳本を猿重したが︑訳文は必ずしも訳本どうりではない︒
⑫
W . J . V at t e r, Th e F un d T he ory f oAccounting
n a d i t s I mp l i ca t i o n s f or F in a n ci a l R e p or t s , 1 9 47 . p. 1 6
③
R .
Pa ssow,
Di e B i la n z d er pr i v at e Un nt er ne hm un ge n, d B . I
.,
1 9
1 0, S. 10 3 なおこの間の事楠については拙著﹁企造{
会社理論﹂
︵有斐閣刊︶の附録﹁ドイツにおける焦借対照表学説の展望﹂を参照されたい︒
販売主義を採用する積極的理由として︑我々は会計計算における貨幣の支配的地位ということをあげることが できよう︒しかもか
4る貨幣の支配的地位の認識は現実の企業活動を直視した結果であって︑決して単なる理念 的産物ではない︒今日の経済は貨幣経済であり︑さらに資本主義経済である︒
﹁貨幣経済は実物的要索と貨幣的 要索の相互制約的作用によってその諸現象が生ずる経済﹂だと規定することができ︑ここでは︑貨幣は単なる交
経済社会構成員相互間の信頼関係をもとにした一般的交換能力をも ち︑同時に価値貯蔵手段︑価格表現ないし計算手段としての機能を果しており︑
かかる特殊性をもった財貨とし て他の一般の実物的な経済財と対立的な︑しかも相互補完的な地位を維持しているのである︒しかして企業はか
四七頁ー五い頁である︒
註
St an da rd s, 1 9 4 0. なお本項においての引用
考えられる貨幣祇としての利益を雛出する計舘であって︑ ての貨幣を念頭におき︑企業が個別営利資本として利用する貨幣資本の調達︑運用︑ 入︑流出︑内部移転︑さらに各種の債権債務を貨幣額で計算表示するのでなく︑ ただ貨幣を︑しばしば指摘されるが如く︑ につながる現在の問題に対する配慮︑政策がその計算に多大の影響を及ぼすものだからである︒かくして会計は けるものではなく︑企業自身が自己のために行う計算であり︑過去の活動結果だけではなく︑未来の問題︑未来 業における貨幣の地位はそのまま会計計算にも反映されてくる︒蓋し︑会計は企業活動を第三者的観点から跡付 しかし資本主義自体を否定しない限り︑上にみた企業の本体が没却されるものではない︒しかして上記の如き企 国民経済的機能︑ きも強く︑さらに社会主義経済への進展も活発に論議されているし︑また経営学でも常に企業のもつ生産という 徴の一面があるといえよう︒今日︑資本主義経済機構に伴う幾多の弊害が顕著になり︑それとともに︑修正の動 く活動に一国の生産︑流通を委ね︑原則としてこれに外的規制が加えられないところに資本主義経済の最大の特 の事実︑少くともかかる意図が存在することは否定できない︒このような組織体としての企業の自主的判断に基 ない︒なるほど企業もその活動に必要な諸要素を獲得するために貨幣を需要するが常に後日その回牧さらに増殖 大きな量の貨幣に還元するのであって︑ ば ︑
G←W←G︑
会社が特に財務会汁
( f百
m c i a
l
a cc o
u n 昔
g)
と云われる
即ち貨幣から出発して他の経済財に転化されるが︑それは商品として再び最初よりより
W 1
←G←
W 2
また経営のあり方として社会的責任
(8
1 g
r e s p
o n s i
b i l i
t y )
ということが特に強調されている︒
一般的な計算尺度として利用して︑個々の企業における財貨用役の流
より積極的な価値貯蔵手段とし
貨幣が交換の媒介として機能するいわば
ひいてそこに獲得されたと
の形では
13‑4
﹁販売主義﹂の理論的根拠について︵植野︶
る︒それは一口に云えば貨幣的利益
(m on et ar y p ro f i t) である︒即ち一方に売上額を計卵し︑他方これと対比され る費用としては︑そこに消費された財貨用役の再調達価額︑また時に指摘されるようにそれが他の用途に振向け られたならば果したであろう奴用の犠牲分としてのいわゆるオボチュニティ・コスト く︑これら財貨用役の獲得にかつて投ぜられた貨幣額で計算された支出費用
(o ut la y c os t ) が ︑ (c ur re nt
8
s t )
では
なく
︑
G←W←G︑
註
( 1 )
さて会計上の利益が貨幣的利益であるとしても︑現実の企業における貨幣牧支は非常に多巌であり︑その形態 にも種々なものが考えられ︑他面それに伴つて授受される内容も文字通り多種多様であって︑支出の結果として 獲得されたすべての財貨︑用役がそのまま他に提供されて牧入を齋らすわけでもない︒会朴はかかる複雑な現象 に対処していかなくてはならないのであって︑先の説明から単純に考えられる次の第式︑即ち なる算式はいわば一定の期間に拘らない場合にのみ︑従ってこれを個々の企業についてみれば︑その創設より清
卵をすませ︑完全に解散するまでの全存続期間についてのみ妥当するに過ぎない︒しかも会計の前提とするゴー イング・コンサーンにおいては︑
かかる特殊な状態とは一応無関係に一年あるいは半年等一定の期間を区切り︑
鳶黍委
A1鳶毎湖圧
11
咄 ︱ ︱ 猷
においてGがG
を超過する額を利益とするわけである︒
歴史的晋用
( hi s t or i c al c os t ) が採用されるのである︒
会計計算における貨幣の地位を右の如く規定するならば︑
根本義もここにあるといえよう︒
最も単純化された形で示せば︑
当然会叶でいう利益の内容も決められることにな
(op po rt un it y
8
s t)
ではな
また現在的費用
はじめて唱えたシュマーレンバッハの説明に閻けば︑ て︑牧益と損費は貨幣的利益の期間配分のための目的概念であることに特に注意すべきである︒そしてここに︑ 経て︑ある期間の牧益と損費がそれぞれ決定され︑両者の差額としてその期間の利益が算出される︒端的にいつ 役を獲得し︑それを利用して︑利益獲得のために消費したか否かの判断が用いられるのであって︑ 対給付として授与すべき財貨用役を提供したか否か︑貨幣支出についてはその反対給付として受領すべき財貨用 となる︒そこで次項にみる如き一定の前提のもとに︑かかる期間配分の尺度として︑貨幣牧入についてはその反 幣牧入︑支出をそれが行われた期間のみに限定することなく︑適当な数期間に分割配分することが不可鋏の条件 その間の利益を算出する必要に迫られるのであって︑そこには上記の式をそのまま用いるわけにはいかない︒貨
︵服
粟造
産 8) 委蹂ー︵服粟滓画
8) 造疇
1 1
︵服
粟進
亘 0)
辿蹂
なる算式が登場するのである︒しかもこの計算の根抵をなしているのは︑
かかる判断を
はいずれかの期間の牧益となり︑貨幣支出はいずれかの期間の損費になるということである︒ここに一企業にお
の算式によって算出されうる総利益
( T i '
g ew i
n n)
と一致するとの原則︑即ち﹁一致の原則﹂
( G r u
n d s a
d e t z
r K o
n gr u
e nz )
が成立し︑また現実の計算においてか かる原則を維持するものとして﹁継続性の原則﹂
( Gr u
n ds a
d e t z
r K
on 音 u i t i i t ) が存在することになる︒いまこれを
る給付と他の者から受けた給付とはすでに締切られた期間計算に計上されたかまたは将来のある期間における計 て企業の全存続期間について
痔A椰蓋ー湛圧粽蓋
11彿 逃
l猷
いて毎期の利益︑即ち期間利益
( P e r
i o d e
n , g e
w in n
) は ︑
﹁継続性の原則とは︑経営が他の者のためになしたあらゆ たとえそれが理念的なものにしろ︑
かかる期間を超越し
一般の﹁商品交通﹂において貨幣牧入
136
﹁販
売主
拳﹂
の理
論的
根拠
につ
いて
︵植
野︶
い︒かかる複^
I J性
は︑
算に叶上されるかして︑
いかなる給付も決して放任されたままにしておかれるものではないということを意味し ている︒営利事業会計ではまさに貸借対照表が自己のうちに牧支計算と損益計算との中間に未決着の状態にある 項目を包蔵することにより︑この継統性を保持している︒即ち貸借対照表はこれらの項目が二会計期間の間にい つのまにか忘れられてしまうことのないよう努めているのである︒かくして継続性は一致︵原則︶の前提である︒
( 2 )
蓋し記帳の完令でないところに期間利益の完全は達せられないからである﹂と︒
右の如き会計の理解が前項にふれたペートン・リトルトンの説とかなり距りのあることは明瞭であろう︒彼等 においては会朴の出発点として﹁サービス﹂が考えられているに対し︑ここでは﹁貨幣﹂から出発し︑
ス﹂はただ期間利益決定のための貨幣牧支の期間的配分の尺度としての意味しか与えられないのであり︑かかる
﹁取得されたサーピス﹂と﹁提供されたサービス﹂とは一方が貨幣支出︑他方が貨幣牧入の結果を示 すものとしてどこまでも対立的な地位において把握され︑
ひい
てま
た︑
らにその結果として登場する新しい﹁サーピス﹂即ち製品も支出系列の事象として整理されるべきことになる︒し かもここで次のことに注意すぺきである︒企業の手元における各種サービスは相互に補完的なものであって︑そ
も種々異つてくるという意味において﹁サービスの複合的性格﹂ こに考えられる結合形態︑その割合には多くのものが存在し︑さらにその時々の条件のいかんよって︑その妓果
( j o i
n t
n a t u
r e
o f
s er v
i ce s
) を看落してはならな
を齋らすことなく︑各取引毎にそれをみていくことができるが︑他方﹁取得されたサービス﹂についてはそうは 観
点か
ら︑
﹁提供されたサービス﹂については契約に合致したサービスということでそれほどの影瞥
﹁取得されたサービス﹂の生産的消費さ
﹁サ
ービ
いかず︑その結果としてそれらは個別的にではなく﹁たえまなき︱つの流れ﹂
f l ( a
o w t
h ro u
g h
ti
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)
として綜合的
に把握され︑製品単位別ではなく︑むしろ一定期間的にみていかれる︒即ちそれが記録上仕入︑製造︑販売等の 各機能別に整理されるとしてもそれは表面的なもので︑すべては一定期間の営業利益獲得のために消費されたも のとしては同列であるとして︑それらの各期間的配分をみていくことの低うがより︑合理的だと考えられるに至
C 3 )
るのである︒しかもこのように考えるならば︑ペートン・リトルトンのかかげた﹁原価の凝着性﹂という前提も 必ずしも無条件には賛同し得ないものとなってくるし︑さらに極言するならば︑大体利益が上記三大機能の遂行 度合に応じて発生し︑それらへの配分を考えようとすること自身誤りを犯しているものだとの考え方もでてこよ 次にまたペートン・リトルトンによって会計の中核としてかかげられた﹁価格総計﹂なる概念︑特にその金額
について正当にして客観的な額という考え方に対しては︑ここではむしろ現実の貨幣牧支額を強調すべきことと なる︒現実の貨幣牧支額がすでに客観的な額であるとともに︑企業の投機機能︑さらに端的には投機利益を知る うえにおいて︑これは不可鋏な要素だといえよう︒しかもかかる観点を強調するところに自ら﹁原価主義﹂による
評価の主張もでてくるのであって︑
そこに彼等の場合の如く︑﹁確実性の原則﹂を持出す必要は全くないのであ る︒さらにまたサービスが不当な額で取引された場合に︑彼等が解く如く一応その時の妥当と思惟された価額で の表示を強調すべきかということが問題にある︒これに対して我々は︑かかる妥当な額での表示は結局この金額
と現実の取引金額との差額は贈与を構成するもので︑ うというものである︒
かかる贈与を別個に処理すべきものと考える時においての
138
﹁販売主蓑﹂の理論的根拠について︵植野︶
前項の説明から︑我々はすでに販売主義の十分な理論的根拠を得ているわけである︒会計で計算される利益が
註
四
⑥
W . J . V a t te r
ibid•• ,
p . 2 5
み要求されるのであって︑敢てかかる別個の処理の必要が認められない時には︑現実の取引金額による表示でよ いのであって︑常に正当な金額による処理が強制されるぺきものとは思われない︒なおついでながら︑彼等は﹁
信用取引において取得原価は発生した債務の即時決済に必要な金額である﹂としているが︑
して
いく
と︑
この観点を拡大解釈 それは仕入のみならず売上の場合をふくめた一般問題として﹁サーピス﹂の授受に対して代価のう ちに含まれていると考えられる利子額︑さらに商品代金の前払等の形で行われる資本的援助の代債の区別処理を 会計計算に要求する結果となるのであって︑それがどの程度まで客観的に可能なことか幾多の疑義がある︒現実 の牧支額による計算はこれを一応無視した計算であることを知つておくことは決して無意味ではない︒
い会計●利益は貨幣賓本の運用の結果生ずるものであって︑その調違において生ずるものでないとされており︑両者の 限界をどこにおくかは一跛に﹁賓本取引と損益取引﹂の別として論じられているが︑本穣の揚合には蓮用の面だけ森上 げていくわけであり︑また運用についてそれを文字通り貸付資本として利用する場合も多いわけだが︑これも一応無濶 して︑とにかく典蔑的な財貨の調違提供についてのみみていくものであることを念のためことわっておく︒
②
E.Schmalenbach•I
ごrnamische
B i l a n z , 4 A
u f . ,
S
.
99
ゴーイング・コンサーンの前提からこのように﹁一致の原則﹂
﹁継続性の原則﹂を引出すに対し︑ペートン・リトルトンは﹁財務諸表の暫定性﹂を強調しているが
(i江
d .,
p.
10
)
︑会 計の本旨の珊解のためには前者がまさつているといえよう︒
( sa v i ng )
︑即ちその製品の販売を通じて牧益
貨幣的利益であると規定する限り︑生産主義的理念は揃棄されているものということができよう︒そこではエ企 業における生産は商企業における商品仕入と同等の地位においてみられ︑
それは一方的に利益卵出にあたっての マイナスの要因を形成する貨幣支出系列に属する事象として把握されている︒換言すれば︑それは期間利益算出 にあたつてプラスの要因たる牧益と対応させるための損費として計上されるまでは︑
るものとして各財貨用役にふくまれる原価︑
こに本稿の一に例示した如く︑同一製品についてもその製造原価が他に比して低いときでも︑その低いままの価 額で表示されることになるのであって︑
が計上されるとき︑
より正確に云えば﹁支出原価﹂として計上されているのである︒こ
その差額は﹁費用節約﹂
それと対応されるべき金額がそれだけ低いことの結果として︑
れることの可能性を示すものとして理解されるわけである︒
貨幣的利益を期間的に算出するにあたつて︑プラスの要因たる牧益は販売を︑
かかる対照の準備段階にあ それだけ大きな利益が計上さ
より正確に云えば販売契約に基 くある財貨︑用役の提供の完了を甚準にして計上するというのが販売主義である︒ここに財貨︑用役の提供は原 則として貨幣牧入を結果として齋すものであるがしかし︑そこに時間的ズレが生ずるのが普通であるし︑また貨 幣以外のものが代償として受入れられることもある︒そこに我々は利益を貨幣的利益として把握することから直
︑︑
︑︑
ちに販売主義を結論し得ず︑両者間に若干の距りがあることを看過し得ないのであって︑そこにはなお補助的な 前提が含まれているといえよう︒以下この点につき簡単にふれ︑本稿の結論にかえることにしたい︒
まず第一は販光の結果として貨幣牧入があるということである︒このことについてはギルマンの云う如き厳格
14゜
﹁販売主義﹂の理論的根拠について︵植野︶ 別な方法を採用し︑はじめから回牧のための特別な負担ないし用役の消費が見通されるところでは︑ 江
( 1 )
な解釈をとることなく︑若干余裕をもたせて市場性のある有価証券も現金と同列にみてよいと息う︒この場合に
は︑証券の取得時の取引市場価格を基準にして︑
を貫くべきだろうと思う︒ その換貨価値
(8
sh eq ui va le nt )
をもつて牧益を計上すぺきで︑
その後実際に当該証券を処分した場合は︑これを別個の取引として︑換言すれば︑処分価額と先の換貨価値との
差額は一種の投機損益として処理すればよいと思う︒なお他の一般の財貨を代伯として受入れる場合はいわゆる
物々交換であって︑厳格には販売とは云えない︒この場合でもなお一般の販売と同列にみて牧益を計上し得るか
否かは疑問である︒これを肯定する見解も強いが︑我々としてはこれに反対することによって貨幣的利益の立場
次に貨幣牧入即ち代金の大体一定期間後の回牧が確実性をもち︑回牧自体のための特別な負担ないし用役の消
費が伴わないということである︒この前提は信用取引の非常な発達により支えられており︑大体かかる位用取引
の一般化により販売主義が登場したといえよう︒とにかくこの前提から︑今日の会計は例外的な回牧不能分の発
生に対処して事前に貸倒引当金を設定するとの方法をとることによって︑財貨用役の提供の完了と同時に牧益を
朴上しているのである︒従ってもし信用取引が円滑をかぎ︑回牧不能分が多くなってくるとか︑
にしてもその期日がかなりおくれ︑そのために種々の派生的出費がかさむとかいうようにして︑
いう前提がとかく崩れそうになる時期には旧にもどつて︑
販売主義に また回牧し得る回牧の確実性と
回牧をまつてはじめて牧益を計上するとの﹁現金主義﹂
(c as h b as is ) 的処理への要求が強くなってくる︒なおまた割賦販売等特別な売買形態で︑とりわけその回牧に特